思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「怒り」のプログラム

2014年06月30日 | 哲学

 書くことがないのでジョニー・デップ主演映画『トランセンデンス』に関連した話を今朝も書こうかと思って話を進めるわけではなく、先行公開を見に行こうとまでに駆り立てられる心理が働き、その結果、多くの問いを投げかけられ思考好きの私は、今朝も書くことになります。

 スーパー・コンピュータにインストールされたウィルの意識、そこで単純に問いが生まれます。

 深層心理学に興味があると、意識、無意識の世界が思ったのは自己と自我があり、ユング心理学を知っていると、象徴、元型、集合的無意識・・・などというものを想起します。

 そして「これらも全てインストールされなければ人間は創られないのではないか?」などという問いが生まれてくるのです。

 「脱法ハーブ」による悲惨な事件その背景にあるのは、幼児期における体験が「事」の深層にある、などと解釈する人もあるかもしれません。理由がなければ納得できない、人間の性(さが)でしょうか。

 人びとはこの事件に対して怒りの声を上げます。そもそも「脱法ハーブ」などという言葉がいけない、罪悪感を軽視するもので、若者がそういう言に敏感で、抑制力にはならない、などと「言葉」に対する怒りの声を上げます。

「怒り」

 自分の思うところと異なる事態に遭遇すると、違和感が襲い「そうじゃないだろう」と不満が湧き、怒りの衝動へと導きます。

 「何があなたをそうさせる。」

そう問われても仕方がないほどに、反省と自覚において、怒るのではなく、ある意味、わたしはそう創られている、としか思えない時が多々あります。

 天気予報でも、事件ニュースでも、政治的、国際的なニュースを見ても、なんと自分の思いとは異なる予報や、現実があるのか思うわけで、「怒り」様相とでも言いましょうか、報道すること自体が既に「怒り」の諸相のうちにあると言えるように思います。

【怒りの定義】では、怒りをこう定義するとしよう---軽蔑することは正当な扱いとは言えないのに、自分、または自分に属する何ものかに対しあからさまな軽蔑があったため、これにあからさまな復讐をしようとする、苦痛をともなった欲求である、と。

【個人に向けられ、快を伴う】もし怒りがこういういうであるとするなら、必然的に、怒っている人はいつの場合も、例えばクレオンにというように、個人の誰かに対して怒っているのであって、人間一般に対してではい、ということにもなるし、また、自分、または自分に属している者に対しなにごとかがなされた、もしくはなされようとしたがゆえに怒るのだ、ということになる。・・・・略・・・・

 げにこれこそ、滴る蜜よりもはるかに甘きもの、
 人々の心に燃えひろがり行く。(ホメロス『イリアス』十八書)

上記の三段の文章は、私の言葉ではなく古代ギリシャの哲人アリストテレスの『弁論術』の中の第2巻第2章「怒り」の冒頭の言葉です(アリストテレス著『弁論術』戸塚七郎訳・岩波文庫p161-p162から)。

 『他人を攻撃せずにはいられない人』(片田珠美著・PHP新書)

 『人はなぜ記号に従属するのか』(フェリックス・ガタリ著 杉村昌昭訳 青土社)

このに2冊の著書名を書きましたが、徹底して読んだわけではなくサワリと読んだだけですが、この根源にあるのはアリストテレスの「怒り」を想うのです。

 ガタリの言う「記号」とは、言語、貨幣、その他、人間世界に抽象的な意味作用をもたらし事物や身体を特殊に変質させるもの一切を指す。のだそうです。

【ガタリ曰く】

 ・・・・・精神や身体の真ん中に禁忌の感情を植えつけ、罪悪感を生産する強力な機械を発動させて、ついには諸個人のリビドー的エネルギーの大部分を動員しようとする。したがって、ある種の言語や罪悪感を与える個人化された記号の様式は、資本主義的な社会的領野を安定するために必要不可欠のものとして立ち現れる。・・・・(上記書p31から)。

結局私は今朝何が言いたいのか。人間とは無意識心理に支配されて「ある」といっていいのかと言う、ガタリの疑問が解るような気がします。個人的に常々思うのですが、人間とは自分の法則に囚われた創られていく存在なのだということです。

 それは、「無・有」の「0・1」の「怒り・笑い」と「怒り・泣く」・・・平衡(無常)に沈思する。

 「怒り」の反対語は「笑い」と「泣く」なんですね。

 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。(西田幾多郎『無の自覚的限定』)

「怒り」と「驚き」親戚みたいな記号です、ということで西田先生を思い出しました。

 アリストテレスの「怒り」から少々ずれがきたようです。そこで折角アリストテレス著『弁論術』に言及したので哲人アリストテレスの「怒り」の論をさらに引用したいと思います(4年ほど前の過去ブログ「アリストテレスの怒り」にも引用しました)。

【怒る時の心の状態】

さて、以上述べたところから、人々が怒るのは、彼ら自身の心がいかな
る状態にある時であって、誰に対し、いかなることが原因で怒るのか、ということはもう明らかである。すなわち、自分自身については、苦痛を覚えている時がそうである。というのは、苦痛を感じている者は何かを欲求しているからである。その場合、誰かが、例えば喉の渇いている者が飲もうとするのを邪魔するように、何ごとかを直接妨げようと、或いは間接的に妨害しようと、いずれの場合も、その行為の帰するところは同じであるように思われる。

 すなわち、何かを欲求している人に対し、誰かがその行動に反対するような振舞いをする場合にも、それに手を貸そうとしない場合にも、他のことで彼を困惑させるような場合にも、彼はそのすべての人に同じように腹を立てるのである。
 
 それゆえ、病気に苦しんでいる人々、貧困に悩む人々、戦っている人々、恋している人々、渇いている人々、一口に言って、欲望を持っていて、それがすんなり満たされていない人々は、怒りっぽく、いらついている。中でも、今自分が置かれている状態を軽蔑するような人々に対しては、特にそうである。
 
 例えぱ、病気の時にはその病気に関わりのあることが原因で、貧困の状態にある時にはその貧困に関わりのあることで、戦っている時にはその戦いに関わりのあることで、恋している時にはその恋に関わりのあることで、その他の場合もこれと同様にして、そのような人々に対し怒りっぽくなるのである。
 
 なぜなら、今挙げたような場合には、人はそれぞれ、現在ふりかかっている状態によって、自分が怒りに向けてはしる道を前もって用意しているからである。さらに、自分の待ち受けていたものが、現に起こっていることとたまたま反対のことであるという場合も、人は怒りっぽくなる。
 
 なぜなら、大きく予想に反したことは与える苦痛もより大きいからである。それはちょど、大きく予想に反したことでも、それがたまたま自分の望んでいるものであったという場合には、悦びもひとしおであるのと相応じている。それゆえ、以上述べたことから、時節や時期や心の状態や年齢などは、どのようなものが、そしてどのような場合、どのような時に怒りにはしり易いか、という点は、それからまた、これらの条件が多く重なっている時には、それだけよけいに激し易いということも、もう明らかである。
 
【怒りの相手】

 さて、本人の場合は、心が上のような状態にある時、怒りにはしり易いのであるが、一方、彼らが怒りをぶつける相手というのは、自分を潮笑し、愚弄し、からかっている者たちである。なぜなら、これらの人々は侮辱を加えているからである。
 
 また、侮辱の徴となるような害を自分に加える者に対しても、腹を立てる。ただし、その行為の性格が、加害者にとって仕返しに当たるというのでも、利益になるというのでもない---これが必要条件である。なぜなら、そうであって初めて、その怒りは侮辱が原因であると思われるからである。
 
 また、自分が特に真剣に取組んでいるものを悪く言ったり、無視したりする者に対しても、怒りをぶつける。例えば、哲学の研究に誇りを持っている人々は、誰かが哲学に対してそういう行動をとる場合、これに腹を立てるのである。その他の例について見ても、これは同じである。

 その場合、今言ったような誇るべきものが、自分には全く備わっていないのではなかろうか、とか、それほど顕著ではないのではなかろうか、とか、他人の目には備わっているように見えてないのではなかろうか、などと疑心を抱いている時には、その怒りはなお一そう激しいものとなる。

 なぜなら、他人の揶揄の的となっていることであっても、その点で自分は他に秀でていると強く確信している時には、全く意に介さないからである。また、友人でない者よりは、むしろ友人に対してより激しく慣る。というのは、友人からは、よくされないよりも、よくされることのほうが当然と考えているからである。
 
 また、いつも自分に敬意を払ったり、心遣いをしたりしてきた人々が、もう二度とそのようなつき合い方をしない場合も、こういう人々には腹を立てる。なぜなら、彼らによってないがしろにされていると思い込むからである。つまり、そうでなかったら、今までと同じことをしてくれるはずだ、と考えるのである。

 また、親切のお返しをしない人や、対等のお返しをしない人々に対して。また、自分に逆らったことをする者が自分より劣った者である場合、そのような者に対して。なぜなら、これら二つの場合、それらの者はすべて、自分を軽視しているように思えるからである。すなわち、後の例では、それらの者は、自分たちより劣った者を無視している積りでいるし、先の例では、自分たちより劣った者からよくされている積りでいるからである。
 
 また、なんおとりえもない者たちが、何かで自分を軽蔑するような場合、彼らに対してはより激しい怒りを覚える。なぜなら、われわれの前提によれば、軽蔑する資格のない者に対して向けられる、ということであるが、しかし、より劣っている者にとって相応しいのは、白分より優れている者を軽蔑しないことなのだから。

 また、友人に対しても、自分のことをよく言ったり親切にしてくれたりしない時には、腹を立てるが、自分に逆らうようなことを言ったり行なったりする場合には、その怒りはなお一そう大きなものとなる。

 また、自分たちが何かを求めているのに気づかない場合も、腹立たしさを覚える。アノティポンの劇に登場するプレクシッポスがメレアグロスに腹を立てたのが、これに当たるであう。なぜなら、それに気づかないということは、ないがしろにしていることの徴であるから。というのは、心遣いをしているなら、その者のことに気づかぬはずはないから。

 また、自分たちの不幸を悦ぶ者たち、一口に言って、自分たちが不幸の真只中にあるのに、明るく振舞っている者たち-----これらの人々に対しても腹を立てる。なぜなら、このようなことは、自分に敵意を抱いているか、軽蔑しているかすることの徴であるから。

 また、他人に苦痛を与えておきながら、それを意に介さない者に対しても、腹立たしさを覚える。悪い報せを持ってきた人に腹を立てるのもそのためである。
 
 また、自分たちについて、その欠点を人から聞いたり、直接目にしたりしても平然としている者に対して、腹を立てる。なぜなら、そのような者は、白分たちを軽蔑しているか、もしくは敵意があるかしているのも同然だからである。

というのは、友人ならその痛みを共に分かち合ってくれるからである。つまり、人は誰でも自分の欠点を目にすれぼ心を痛めるものだから。

 さらに、次の五種類の人々の目の前で自分を軽蔑する者に対して、腹を立てる。すなわち、名誉を競っている相手、自分が感服している人、その人に感服されたいと願っている相手、或いは、自分が畏敬している人とか自分に畏敬を抱いている人々、がそうである。

 こういう人たちのいるところで自分を軽蔑する者があれぼ、その者に一そう激しい憤りを覚えるのである。また、助けの手を差し延べないのは自分の恥となるような相手、例えぼ両親、子供、妻、支配下の者などに関して、軽蔑の振舞いがある者に対し腹を立てる。
 
 また、受けた恩恵のお返しをしないような者に対しても。なぜなら、その軽蔑は果たすべき務めに反しているからである。
 
 また、自分は真剣に取組んでいるのに、それに皮肉な対応を見せる者に対しても。なぜなら、皮肉は軽視している証拠であるから。
 
 また、他の人々にはよくするのに、自分にだけはそうしない場合、その者に対して憤りを覚える。なぜなら、すべての人が受けるべきだとされていることに、自分だけはそれに値しないと考えること、これこそ軽視していることの証拠であるから。
 
 また、忘れるということも怒りを生み出す原因である。例えぼ、相手の名前を失念するというのも、ほんの些細なことであるとはいえ、怒りの原因となるのである。なぜなら、忘れるというのも、ないがしろにしていることの徴である、と見なされるからである。というのは、忘れるということは、心遣いを怠っているために生ずるのであるが、心遣いを怠るというのは一種の軽蔑であるから。

【結び】

 さて、人々は、誰に対し、また自分の心がどのような状態の時に、どのような理由によって怒るのであるか、は一括して述べられたのであるが、一方、弁論を試みる者は、言うまでもなく、弁論によって、聴き手の心を実際に怒っているのと同じ状態になるよう仕上げ、その怒りの原因をなしているのは自分の反対者たちであり、彼らが人の怒りを招くような人間であるからだ、ということを示さなければならないであろう。

<以上アリストテレス著『弁論術』(戸塚七郎訳 岩波文庫)p165-p171から>

 自分で書きながらそろそろ終息モードにならなければならないのですが、オートポイエーシス専門家の河本英夫先生の『臨床するオートポイエーシス』(青土社)、最近の『オートポイエーシス <わたし>の哲学』(角川選書)などを読んでいると「形成的自覚」という言葉が浮かんできます。「自覚」これは意識でも無意識でもなく自覚症状です。

 システムならば、そのようにプログラムしたらよい。

 そう考えると「怒り」のプログラムの彼岸が観えてくるような気がするのです。

※取り急ぎ書いたので意味の通じないところがあると思いますが、私のする「こと」ですので御寛大に。


ジョニー・デップ主演の『トランセンデンス』を観ました。

2014年06月28日 | 思考探究

 昨日は、のんびりと休暇を過ごしました。午前中から楽しみにしていたジョニー・デップ主演の『トランセンデンス』先行公開を観に行きました。

 「生かされた意識」ということで死すべき運命だった主人公ウィル。しかしその意識は、死の間際に妻のエヴリンによってスーパーコンピュータにインストールされます。

 意識だけの存在となったウィルは、オンラインにつながると軍事機密、金融、世辞から個人情報にアクセスし知識として蓄え「進化する超頭脳」へと徐々に変貌して行き、ナノテクノロジーの技術力をも向上させ再生医療、人間創造へと進んで行きます。

 ある意味新しき神の創造、彼は生前の講演会で質問に応えてそのようなことを匂わせていました。

 結末はともかくいろいろなことを考えさせられました。全人類の脅威となったデジタル怪物が近未来に起きるのではないかというようなポイエーシス(創られる)物語としての来たらざる不安感が醸成されるなどという次元ではなく、単純にオートポイエーシス・システムと有機体を定義できるかという問いに対する思索です。

 システム 【 system 】という言葉に、個人的にどうしても血の通う有機体のイメージに言葉から受ける意味を重ねることに違和感を拭いきれないところがあります。

「システム」をIT用語辞典「e-Words]というサイトでその意味を引くと、

システム 【 system 】
 個々の要素が相互に影響しあいながら、全体として機能するまとまりや仕組みのこと。ITの分野では、個々の電子部品や機器で構成され、全体として何らかの情報処理機能を持つ装置のことや、ハードウェアやソフトウェア、ネットワークなどの要素を組み合わせ、全体として何らかの機能を発揮するひとまとまりの仕組み(情報システム、ITシステム)のことを指す。

と解説されていました。確かにITの分野ばかりでなく、脳内のDNAや神経伝達物質内の分子配列からシナプス、神経細胞の働き、各組織のネットワークをはじめとした生態学的な仕組はどう見てもシステムと解されます。
 
 「オートポイエーシス・システム」

 前回のブログでマトゥラーナの「オートポイエーシス」について触れましたが、このオートポイエーシスというシステムには次の四つの特徴があります。専門家でもないので当然にその道の大家の解説を参考にします。だいぶ古い『現代思想』に哲学者でこの「オートポイエーシス」の専門家の河本英夫東洋大学文学部教授の「第三システム:オートポイエーシス」からの引用です。

「オートポイエーシス論がシステム論である限り、それは哲学や思想ではなく一種の経験科学である。・・・・

オートポイエーシス・システムの論理は、神経システムをモデルにして組み立てられている。神経システムから出発し、細胞システムや免疫システムに拡大していった理論構想である。経験科学の場合、なにをモデルにするかによって後の理論形成に大きな違いが出る。・・・・

一般に有機体論は、「部分ー全体関係」「階層関係」「生成」という三つの論理的な支柱からなっている。第一世代システムは、部分ー全体関係を、有機構成に置き換えることで広大な経験的探求の領域を開き、生成を定状性維持のもとでの変化に限定し、階層関係をそのまま前提にしている。第二世代の自己組織システムのモデルとなるのは、成長し続ける結晶であり発生胚である。結晶は溶液中から突如析出し、環境条件に対応して形態を変化させながら成長をし続ける。発生胚は未分化な全体から分節を繰り返し、部分の成立と同時に部分間の関係が成立する。生成をつうじてそれじたいで秩序の形成を行ない、一定の環境条件下で「自己」そのものを形成するのである。・・・・

第三システムのモデルは神経システムである。神経系をモデルにして有機体論を構想したのが、マトゥラーナとヴァレラの共著論文『オートポイエーシス----生命の有機構成』(1972)である。この論文で「オートポイエーシス」という用語がはじめて登場する。・・・・

有機体をオートポイエーシス・システムだとしたとき、そこには四つの特徴があると指摘されている。自律性、個体性、境界の自己決定、入力と出力の不在という四点である。これらの四つの特徴を前にしたとき、既存の有機体論の視点からでも、おおむね理解しうる。自律性は、一般的に言えば有機体が外的な刺激や環境条件のもとで形態を変え、あるいは昆虫の場合のよう劇的な形態変化をとげる場合であっても、あらゆる変化にかかわらず自己を保持することだろうと理解できる。つまり動的平衡のことだろうと理解するのである。個体性は、栄養物を取り入れて自分自身の一部に変換し組み込むことだと理解できる。栄養摂取において、自分自身の同一性を保つよう有機体は機能している。境界の自己決定は、たとえば免疫システムによって自己と非自己の境界が区分されるという事態を思い起こしてみればよい。してみると自律性、個体性、境界の自己決定という特徴は、伝統的な有機体論の視点からでも十分に理解可能である。・・・・

ところが第四の特徴である「入力も出力もない」という点はほとんど理解不能である。これまでの理解によれば、自律性が外的な刺激にかかわらず自己維持されているという意味であれば、自律性の規定そのものに入力や出力が前提されている。また免疫システムが自己の境界を自己決定するさいにも、外界から物質の侵入が前提とされているはずだ。・・・・

 オートポイエーシスについて多大な誤解を招いたのはこの点である。そのためオートポイエーシス・システムは、構造的、機能的な閉じたシステムであり、このシステムの構造要素は、もっぱら機能に関して相互に連結しているだけであり、他の構成要素や周囲の環境とは結びついてこない、というように解される。・・・・

<『現代思想9』1993(特集)「オートポイエーシス」から>

長々の引用ですが、これは有機体の話でスーパーコンピュータの話ではありません。しかしこのようなことを前提で知っていると「入力と出力の不在」という特徴点が非常に気になり、『トランセンデンス』を観ながら「入力と出力」ばかり考えていました。

 コンピュータの「入力と出力」は、考える程の難しいことではありませんが、確かにインストールで始まる世界ですので全く違和感がありません。

 しかし人間には連結される入力装置があるわけではなく、五感という感覚器官がそれぞれの連携の中で現象を捉え認識し表象し反省しながら何ものかを意識して行きます。

 コンピュータでは接続が必要です。直接の連結だけでなくデーターの電波による信号送信で集約され分析し何がしかの結果を導き出して行きます。

 スーパーコンピュータに意識が入力されたコンピューター上の主人公。明らかに「0・1」の世界です。

「色・受・想・行・識」という五蘊

「視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚」という五感

「0・1」「無・有」

こんなことを考えながら『トランセンデンス』を観ていたわけで、結末・・・微妙な表現をしますが「そういう事であろう」であって、私にとっては「そういうものだ」では納得できないものでした。

 「ポーイエーシス」(ものを創ること)

 人間とは物語る存在です。『トランセンデンス』まさにそうでした。


ポイエーシス(ものを創る)と「語りえないもの」

2014年06月27日 | 思考探究

 コンピュータ発展の歴史において戦争という暗闇の世界が飛躍的な性能向上をもたらしたことは自明のことだと思います。

 大砲の軌道計算、ロケットの軌跡計算・・・いかに速くという要請に技術者たちは「ものを創る(ポイエシス)」という、自己が持つ知識を最大限放出し表現しました。

 その「ものを創る」は、誰もがもっている視覚、聴覚、臭覚、味覚、触角という五感を通して行なわれ、人間にはこの五感を統合する感覚があり、物という表現、文学作品という表現も、この統合された感覚から「創られた」ものです。

 古代ギリシャの哲学者アリストテレスにの考え方の中に、「コイネー・アイステーシス」というものがあり、ラテン語では「センスス・コムーニス」となり、英訳すると「コモンセンス」なるようです。コモンセンスは、社会の人々の共通な考え方、常識のこと意味しますが、もともとのアリストテレスの考えた「コイネー・アイステーシス」は、上記に書いた「人間の五感を統合する感覚のこと」を意味したようです。

 五感は、それぞれがバラバラに働いているのではなくて、その中に感覚を貫いて統合している根源的な感覚があるとアリストテレスは考えていたということで、『共通感覚』(岩波現代文庫)を書かれた哲学者の中村雄二郎先生は、『歓ばしきポイエシス』(青土社)の第Ⅲ書の「日本語と私」の中で語っています。

 今朝は中村先生の「共通感覚」を語るのではなく「ポイエシス」という「ものを創る」ということに焦点をおいてみたいと思います。

「生命というのは何かしらのシステム」

「生命(いのち)はシステムと言い難い」

という二つのブログをアップしてきました。「生命(せいめい・いのち)」という言葉から我が感覚が表明したくなることを書いてきたわけで、私の「盲目なる元本的意志」がそうさせています。

 思考の世界もまた、「ものを創る」という形成の世界であり、創られた私が創る私にメタモルフセスします。

 西田幾多郎先生の晩年の言葉「作られたものから作るものへ 」が浮かびます。

 「ポイエシス」と「システム」

 この言葉からマトゥラーナ、ヴァレラによって創出された生物学的概念が思い出されます。神経生理学者であった学者であったマトゥラーナの創意から生まれた「語りうるもの」と「語りえないもの」をある種のシステム論で明らかにしようという概念です。

 神経生理学上での「語りうるもの」と「語りえないもの」とは何か。

 確かにそうらしいのですが、なぜだかその理由が分らない。

 「共感覚」

 数字に色を観る、カレーを食べると三角形を観る。

生命科学者の中村桂子先生が、

 近年脳科学で「共感覚」の存在が指摘されています。人間の脳は見る、聞くなどの5つの感覚を独立して処理する一方で、脳内でそれらを関連づけています。その関連づけが強烈で、数や音に色が見えたりする人がいることがわかってきたのです。
 賢治(の作品)を読んでいると、彼は共感覚の持ち主ではないかと思えます。自然を感じ取る力、自然の物語を読み解く力が私のような凡人と違い、とても強かったのだろうと思う場面にしばしば出会います。超常現象に関心があったと言われますが、実は、私たちに見えないものを見て、聞こえないものを聞いていたのではないでしょうか。形や色や音になるので、感じ取ったものをそのまま表現したのではないでしょうか。

 2011年のEテレ「こだわり人物伝」という番組で取り上げられた「宮沢賢治の世界」の第2回目の番組で語った「共感覚」です。

 マトゥラーナによって創出された生物学的概念とは何か、「オートポイエーシス」という概念で、ウィキペディアフリ百科事典では、

 「オートポイエーシス (autopoiesis) は、1970年代初頭、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生命の有機構成 (organization) とは何か」という本質的問いを見定めるものとして提唱された生命システムの本質に迫ろうとする概念である。 特に細胞の代謝系や神経系に注目した彼らは、個別の物質を越えたシステムそのものとしての本質的な特性を、円環的な構成と自己による境界決定に認めた。 現在では、このような自己言及的で自己決定的なシステムを表現しうる概念として、元来の生物学的対象を越えて、さまざまな分野へ応用されている。 なお、オートポイエーシスという語はギリシャ語で自己製作 (ギリシャ語で auto, αυτ? は自己、poiesis, πο?ησι? は製作・生産・創作) を意味する造語であり、日本語ではしばしば自己創出、自己産出とも書かれる。

と解説されています。

 「生命システム」として語られて間違いなく、生命(せいめい)はシステムとして解されるようです。

 神経生理学上での「語りうるもの」と「語りえないもの」からマトゥラーナらはオートポイエーシスを創意するのですが、次のような世界もそのような範疇になるのでしょうか。

 2年前に書いた記事です。

<myブログ 2012年06月25日 [「辛い・つらい」と「辛い・からい」を調べてみる]から>

 年2回空地の草刈りを行います。別荘地に近い元畑400坪。所有者は東京の方ですが縁あって私が刈ることになっています。除草剤を撒けば何てことはないのですが、こういう薬剤は私自身好きではなく、また周辺の環境を考えると除草剤は撒きません。

 土曜、日曜の休日に刈るのですが、先の土日に手を付けました。手を付けたということは刈り切れていないということで、残っているということです。あと100坪ばかり来週には刈り切りたいと思っています。

 午前8時前からはじめ3時間ほど刈りはじめると体力の限界を感じ中止。それ以降は何もしたくなり休養。5年ほど前までは半分は刈れたのに、今は1/3で限界、無理は禁物と心得来週に回しました。

 辛いというよりもきつい作業。昼はカレーで少々辛めにしてもらい満ち足りた気分。肉体労働の後は美味い!

 ということで、ここに「辛い(つら・い)」と「辛い(から・い)」という言葉が出てきました。どちらも漢字の「辛」を使いそのままの「辛い」ではどちらなのか分かりません。

 そもそもこの言葉、やまと言葉(古語)には「つらし」と「からし」の二語があります。それぞれこの言葉がもとになっていると推測されます。ではこの言葉を岩波古語辞典を調べてみます。

つら・し【辛し】《形ク》<人から受ける仕打ちを、こらえかねるほどに痛く感じる意。→からし(辛)>
① (世間一般の)仕打ちがたえがたい。こらえがたい。
② 情けがない感じである。薄情である。思いやりがない。
③ 苦しい。

から・し【酷し・?・辛し】※?=減の水偏が酉偏の字
《形ク》<舌を刺すような鋭い味覚、古くは塩けにも酸けにも使う。転じて感覚的に、骨身にしみるような状態。類義語ツラシは他人の仕打ちを情けなく感じる気持ちをいう>
1①舌が刺されるようだ。ひりひりする。
 ②塩けが強い。塩からい。
2①身に激しくこたえる。残酷だ。
 ②ひどい。つらい。苦しい。
 ③あやうい。あぶない。
 ④《連用形を副詞的に用いて》
  イ必死に。懸命に。
  ロ大変ひどく。

となっています。この二語の違いではっきりしているところは、「つらし」にはカレーの「からい」の意味はありません。味覚に関係する意味はないということです。

 ここで現代中国辞典で「辛」を調べてみます。一般的な大学書林の『中国語辞典』です。

(辛)xin※シンと発音し、高い平坦な発音になります。
①十二支の第八,かのと,
②からい味
③からい
④苦しい
⑤新しい
⑥つらい。悲しい。
⑦姓

となっており、やまと言葉の「つらし」に似ています。

・辛口のコメントは身にしみます。

・辛酸(しんさん)という言葉があります。「辛い目にあった時」に使われる漢字で「辛酸を嘗(な)める」というように使われます。

 ※「嘗める」は、しゃぶる。味わう。経験する。侮(あ)る(意:みくびる。かろんじる。ばかにする)。

以上のことからどんなことが分かるでしょうか。

 大陸から漢字が入ってきて、「からし」というやまと言葉に似ているので「辛」を用いた。
 やまと言葉「つらし」には「からし」と似通った意味があることからこの言葉にも「辛」を用いた。
 「つらし」と「からし」は方言で、「からし」を使う地方は中国大陸からの渡来人が多かった。一方「つらし」を使う地方には、辛口、塩けの意はなく、他人の仕打ちを情けなく感じる気持ち、そういう感覚を受けた時に吐露する言葉として使われていた。それがいつの間にか交流により意味の重なり合いから近づき漢字の「辛」を「つらし」に使用するようになった。

ということを考えてみました。

 出だしの草刈りに戻りますが、汗だくになり仕事をして、普通は水分補給が大切ですが、塩分を含んだ水、塩そのものは、大変大切なものです。

 つらい苦しい仕事の後の塩分。

 古代中国大陸の戦争のみならず戦う兵士には塩分が必要ですし、そもそも人間には塩分が欠かせませんし窮地に陥る。

 角川の漢字中辞典の「辛」奴隷の顔に入れ墨をする時に用いる針の形にかたどる。シンの音はとがったものを意味する語源「尖(せん)」からきている。

と書かれていました。漢字の語源からもこの字は「つらし」「からし」に通じているように思いますし共感覚の持ち主には「カレー」に三角形をイメージをする人がいる話がありました。

 ※『哲学、脳を揺さぶる』河本英夫著日経BP社の「このカレーは尖っている」p30参照。

以上、他にいろんな説があるかもしれませんが「つらい」と「からい」の二語を調べてみました。

<以上>

「カレー」に三角形という共感覚を取り入れた「辛い」という漢字の話です。

 隠喩(メタファー)ではなく、例えでもない日本語表現。

 神経生理学上での「語りうるもの」と「語りえないもの」を重ねてよいものやら、そこにどうしても「生命(いのち)もシステムである」と「語りえないもの」が私には今のところあります。


生命(いのち)はシステムと言い難い

2014年06月26日 | 思考探究

 前回は「生命というのは何かしらのシステム」と題しましたが、この「生命(声明)」という言葉は、自分の思いを込めて「生命(いのち)」という書き方をする人も多いと思います。

 「命(いのち)」というのが本来の漢字のよみですが、「生命」という二文字を「いのち」と読ませたくなるところには、書き手側の思いがあります。

 そこには呼吸する、脈打つ、鼓動する生命(せいめい)の息づかいが聴こえてきます。

 そこで前回の表題を「生命(いのち)というのは何かしらのシステム」とすることが出来る方いうと、個人的には、できません。

いのち【ち】《イは息(いき)、チはさ勢力。したがって、
      「息の勢い」が原義。古代人は生きる根源の
       力を目に見えない勢いのはたらきと見たら
       しい。だからイノチも、きめられない運命
       ・寿命・生涯・一生と解すべきものが少な
       くない。》

岩波の古語辞典からの引用ですが、まさに「息の勢い」で寿命も持つもの有機体としての「生(なま)」があり「生身(なまみ)」の人間だから、それを「生命(いのち)というのは何かしらのシステム」という表記に違和感をもたせます。

 システムという言葉には、機械的な永遠性、壊れないもの、常にそこにあるものとして「常住」があり一方、「いのち」は無常という移り行きいつかは消滅するものであることを誰もがしっかりいつの間にか知っていることがわかります。

 山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつゆうぶっしょう)

 草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)

という言葉があります。

 底では無機物的な石や水も全てが「仏になる可能性を秘めた存在」として「無常」の存在であること指しています。

 姿を変えない無変のものはこの世には存在しない。

 超越「トランセンデンス」とはどのような意味理解で作品の題名となったのだろうか。

 超える素・元・基(もと)の姿があり、きっとそこに人間を想定しているに違いありません。科学者ご本人が越えようとしているものは新たな世界構築のようです。

 森羅万象

 最近の気性の激しい変化、まさにとどまりたるためしなしの流動の激しさには驚きます。

 怒りある何ものかの仕業に思ってしまいます。

 そこには森羅万象という言葉内に既に「無常」があるのであって、移り行くこの世の当りまえがあるように思います。

 作られた物、形成されたものは止まらない。

 結局は『トランセンデンス』は「OFF]ということになりそうです。


生命というのは何かしらのシステム

2014年06月25日 | 思考探究

 近日公開されるジョニー・デップ主演の映画『トランセンデンス』について連日言及しているのですが、・・・ということは暇あるごとに何かとこのことについて考えているわけで、暇人と呼ばれそうです。

 集英社の『kotoba』という雑誌がありちょうど2014年夏号が「生命とは何だろう?」という表題で中にソニーコンピュータサイエンス研究所北野宏明所長の「コンピュータに生命は作れるか」という話が4頁ほど掲載されていました。システムバイオロージーの立場からの話で、「人工知能の未来を考えても、人間が困るような機能をもつものや、あるいは人間そっくりな何かは生まれてこないと思います。」という内容のことが書かれていて、理由は「コンピューターはもともと大量計算を一瞬でするといった、人間にできないことをやるという点に存在の意義があるので、人間そっくりになっても意味がないのです。」ということからのようです。

 編集者側の書き込みの文頭の紹介者文に「コンピュータサイエンス、人工知能、自律ロボット研究などの最先端の知見から語ってもらった。」という文章の「自律ロボット」ということばに、システムとしての自動制御的な立場を感じました。

「システムバイオロジーとは、分子の集合体からなる生物や生命を、システムとして理解しようというものです。」

「私自身の個人的な見解では、生命というものは宇宙にありふれた現象だろうと思っています。」

「私たちが知っている環境は、地球という限定的な特殊な環境のみです。その中で起きているのは私たち自身の生命現象であり、私たちの知っている生命形態です。」

という言葉からは映画のような人類にとっての脅威は感じられず、最後は、

「生命というのは何かしらのシステムです。環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ、システム化という生命現象が起きるのです。」

ということばで終わっています。

 最近言及した「ホルモン」についても確かに男から女、女から男へのメタモルフセスや他者へのやさしさにシステム化が見てとれました。

 システムで理解できたとしても「脅威」というものは、作る人間側の意思次第で「おのずから」という自己を離れた独立したシステムは考えられず、結局は作る側の種づけか、プログラムの誤りにしか「脅威」は現れないように思います。

 科学は新しい主体を作る。

と過去ブログに書きました。

 自立的、自律的なシステム構成の主体(無機物存在)を考える時、有機物である人間との差は何となくではありますが「人は知っている」と思うのです。

 システムで理解できる生命が、無機物存在で主体的な自己判断できる「脅威」となる存在になるか?

「原発」をみてそれが脅威なのは、人間の制御不能から始まるのであって、「誤まり」がそこにあります。人間なくして有機的な疑似的なシステムはなく、あくまでも作る側、使う側の問題で、「脅威」もひとつのシステム化とも言えます。

 結局は作る側の種づけか、プログラムの誤りにしか「脅威」は現れない。

 システムに欠陥がある人間判断が災厄を惹起する。

「生命というのは何かしらのシステムです。環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ、システム化という生命現象が起きるのです。」

という北野宏明所長の文末の言葉にみる「環境に対して変動しながら生き残れるために、システムが必要とされ」は、何を意味しているのか。「生き残れる」ということばにとても深く意味ある訴えに聞こえます。

 「単純なミス」も許さない「システム化」によるものが確かに存在していることを「誰もが知っている」のです。

 赤外線感知器で銃弾がその方向に撃ち込めるシステムを作れば、そこには自立的な脅威が存在します。

 なぜそうなのか。

「誰もが知っていること」です。


ヒュームの「知覚の束」と映画『トランセンデンス』

2014年06月24日 | 思考探究

 前回は、近日公開されるジョニー・デップ主演の映画『トランセンデンス』の話を書きました。人間そのものを二元的にとらえて、身心に分け肉体から心だけを分離し、心をコンピュータにインストールする。そこにはデカルトの言う「われ思う故に我あり」が存在し、主人公は止めどなく知識の拡大を図ってゆく、全世界のことわり(理)を知悉すると言い換えてもいいかもしれません。

 世の中のすべてが分ってしまう。それもまさに瞬時に、瞬時とはコンピュータの計算速度の限りなき微分の最小の時間、仏教的には一刹那、成人男性の指パッチンのその瞬間。

 これを別角度から見ると、私が時々ブログに書くギリシャ神話における「パンドラの箱・壺」に最終的に残された「希望」であり相依相関からみると、希望と相反する「前知魔」の「前知悉」であり世界の「全知悉」というギリシャ的発想の災厄の最終的極地ということになります。

 最もこの世でおそろしいこと、それは「わたし」と応える「希望」の裏面、「全知悉」。

 「全てを知り尽してしまう」

 この世の世界の理法を全て知り尽してしまう。

 それが「パンドラの箱・壺物語」でそれを映画『トランセンデンス』は描こうとしているとも言えます。

 最終章はコンピュータですから「OFF」が当然の帰結でしょうが、この世の「OFF」とは何であるのか?

 「身心皆空」という仏教観から前回は書きましたが、そもそも『トランセンデンス』は科学者のコンピュータへの意識のインストールから始まり、身体をスキャーンしながらデーターを送信していきます。

 自立的コンピュータ、自分を律することを主眼としないので、自律的とは表現できません。

 そのに「自己を律する」という生身の人間の世界との相異があります。

 ここで思い出すのが、時々他ブログでも語られるスコットランドの哲学者デイビッド・ヒュームの『人性論』の一説です。

『哲学者のなかには、「自己」と呼ばれるものを、われわれはいつでも親しく意識しているのだと思っている者がいる。つまり、自己の存在、およびその存在の持続をわれわれは感じており、また、自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信しているのだと思っているのである。
 しかし、不幸なことに、これらすべての肯定的な主張は、それを裏づけるために引き合いに出されるまさしくその経験に反しており、そこで説明されるような仕方では、自己のいかなる観念もわれわれは持っていないのである。・・・・・
 私だけについて言うと、私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのは、いつも熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛と憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんなときでも、知覚なしに私自身をとらえることはけっしてできず、また、知覚以外のなかに気づくことはけっしてある得ない。・・・・
 そこで、私は次のように確信してもよかろうと思う。すなわち、人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合体にほかならぬ、ということである。』

 中央公論社の『世界の名著27』「ロック、ヒューム」のヒュームの『人性論』p462を今見ながら引用文をタイプしました。

 「知覚の束あるいは集合体にほかならぬ」というヒュームの言葉は。前回の仏教で言うところの「色・受・想・行・識」の束「五蘊」に相当します。

 ヒュームの場合には、自己(自我)とは観念の束であるという点のみが強調されて、実践的な意味の<自己>というもの考えていない、と比較思想家で、仏教学者の中村元先生は『自己の探求』(青土社・p56)で語っていますが、確かにそうで、「自己」とは何ぞやという問いが、出てきます。

 意識等のインストールという想定で、果たして自立的な「自己」は誕生するのか?

 自己には先の「自律」が含まれ無いと意味をなさないのではと思うので、映画『トランセンデンス』は単純なる「知覚の束」「観念の束」で終わってしまうのでしょうか?

ということで今朝も映画『トランセンデンス』に言及しました。


魂の行方とトランセンデンス

2014年06月22日 | 思考探究

 驚きの未来を表現した、ジョニー・デップ主演の映画『トランセンデンス』が近日公開されますが、最近この映画を紹介する“予想図「トランセンデンス」徹底解剖!”という番組を見ました。

 自立型ロボットではなく自立型コンピュータの話。魂の永遠性をコンピュータへの意識の移行で表現し、意識の拡大をコンピュータ自己増殖機能を重ね人類に脅威となるか否かの、『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』という話がもとにあるようです。

 Eテレ100分de名著『遠野物語』は先週3回目が放送され「生と死 魂の行方」で個人的には「トランセンデンス」の話も「魂の行方」に重なります。

「魂のゆくえ」「魂の行方」

 これについても過去ブログで言及してきました。柳田國男先生の「山に還る」、折口信夫先生のように「海に還る」の民俗学的な話、『トランセンデンス』では、「コンピュータへ還る」という話になります。

 「身心皆空」という仏教の世界を書きましたが、「身心」という「身体」と「精神」の二元的な世界を『トランセンデンス』では明確に二分化しています。

 滅びゆく肉体、永遠に残り続ける意識。


 色即是空が空即是色

は、「五蘊皆空」が<色・受・想・行・識>皆空ですから、滅びゆく肉体は「色」に相当します。「受・想・行・識」は意識・魂に相当することになりますが、すべては相依の縁起の世界ですから、究極は「空(0)」に還るとするのが、仏教的思考の世界です。

 『トランセンデンス』のエンディングはどうなるのか知りませんが、「1・0」で語るなら「空(0)」になるのでしょうか、6月28日公開が楽しみです。


論理と因明の違い

2014年06月21日 | 東洋思想

 個人的に読経する『般若心経』に登場する「色即是空」、そこに「空」なるものの意味が解かれます。

 「身心皆空」とも語られるように、身体も精神も「空」と語られ、そこには我執がないのであるから「無我」とも「非我」ということにも「空」は重ります。

 「身」は、色であり、「受・想・行・識」は精神の働きを意味し「心」ということになります。「身心皆空」とは般若心経の「五蘊皆空」と同意味になります。

 サンスクリットで「シューニャ」と発音されたその言葉は、漢訳では「空」という一文字で表わされています。「何々が欠けている」というときに使われる言葉で、実体がない、実体が欠けている、妊婦の孕んでいるにも通じる言葉のようです。

 インドの数学では「ゼロ(0)」のことを「シューニャ」と言い、インド人が「ゼロ(0)」の発見者であることは周知の事実です。

 仏教学者で比較思想家でもあった先生は、

【中村元】 インド人が考え出した観念がアラビアを通って西洋へ渡っていったわけです。そして、西洋を通じて我々日本人にも知られ、使われているわけです。ゼロというのはどの数字でもない、否定的なものです。それと同じように我々の存在を構成しているものは、未来永劫、何千年何万年も固定して残るものではないでしょう。いろいろの条件に恵まれてここに現れ出ている。しかし、その縁が消え失せればまた消えます。「無常」と言っても同じことです。「無常」というのは消え去る方面だけをいうわけですが、固定的な実体がないという点を強調すると、「空」ということをいうんです。(NHKこころの時代「東洋の心を語る~飛ぶ鳥に迹なし~」から)

と語り、「空」はまた「無常」という言葉の意味に重なります。

 このように仏教における「空」は、「=」を使うと、

「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」

 これは論理学(推論の妥当性についての学問)ではなく因明(推理における理由に関するもの)による「ことわり学」ということになるようです。

 単語の意味
 
 単語で作られる文章の意味

「意味」とは何ぞや?

「ことば(語)とは単なる音声ではなくて、音声を超越して実在するものである。音声は無常であるが、語は音声と意味との媒介体であって常住である」

などと古代のインド哲学では上記のような用法で「無常」という言葉を使う学派もあったようです。「無常」という言葉は「常に移りかわっていくこと」を意味し、「無常感」「無常観」という言葉としても使われます。

「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」

の等式には語るには、単語で作られる長い文章が必要ですが、一方感覚で分ると「そうなのか」という納得で終わります。これが西洋の論理と因明の違いなのかもしれません。


「無明」は根源的無知ではない

2014年06月20日 | 仏教

 哲学書などを読むとなるとある程度の言葉を理解するだけの知識を有しなければどうしようもないときもあるのですが、また自分有の理解の中にあったものが別もののように解せる場合があることを知ると、勉強不足を痛感します。

 印度哲学、仏教哲学では無知(無明)と言い、インド哲学では「無知はとは、迷いの根元であり、輪廻生存を引き起こすものである」とか「無知とは、単なる知識の欠如に他ならない。」などと説きます。

 仏教では「無明」という言葉が次のように12因縁説の説の中で使われています。

「無明に縁りて行が生ず。行に縁りて識が生ず。・・・かくの如くにしてこのすべての苦のあつまりが生起す。また無明が残りなく離滅せば、行が滅す。行が滅せば、識が滅す。・・・かくの如くにしてこのすべての苦のあつまりが滅尽す。」

 このように無知(無明)からの状態から始まる縁起の世界、当然に迷いがなくなれば苦は滅することになります。「成りの論理」に固執している仏教における無明が気になります。

 無明から始まり老死に至る道はあまりにも意味を解せず、「無明」を単純なる無知などと理解するよりも、働きのうちにあるものとして理解したほうが個人的にシックリします。

 大正期の仏教学者に木村泰賢という先生がおられて『原始仏教思想論』という書物を書かれています。その中で「無明」を次のように語っています。

 「煩悩の根元は言うまでもなく無明である。然るにその無明なるものは、之を知的に解すれば、要するに無始の無知を指すのであるけれども、之を生命論に関連して考察する時は、寧ろ情意的意義を有するものと見なければならぬ。即ちショーペンハウエルの言葉をかりて言えば生かさんとする面も盲目なる元本的意志を意味すると見るべきが至当であろう。」(同書p135)

 大正末期に無明論争というものがあったことを河出書房の道の手帖『中村元』の仏教学者の津田眞一先生の「中村先生の個性とその仏教学の永遠に反駁を許さぬ存在意義について」という小論に学びました。

 上記の「木村泰賢博士と宇井伯寿博士を後楯とする和辻哲郎博士との間にたたかわされた無明論争」で上記のように「生かさんとする面も盲目なる元本的意志を意味する」(※この部分を「生きんとする盲目的な、しかも元本的意志」と津田先生は記しています)という木村先生に対して和辻先生は無明を「単純な不知の意」と真っ向から反駁した、というのがその論争です。

 中村先生は宇井先生の正系であり和辻先生の語るところを継承することになるのですが、津田の上記の詳論によると中村先生は最後の一歩手前で「無明」の解説に次の言葉を付け加えたというのです。

 「この場合の無明は、知っていてもどうにもならない心の暗黒」(平成6年7月発行になる『中村元選書決定版』第十六巻『原始仏教の思想Ⅱ』p526)

 木村先生はこれをもって中村先生が最後の一歩手前で木村泰賢先生を支持した、というのです。

「心の暗黒」=「無明}

そこに無からの空からの「働き」という形成の性(さが)を個人的に理解します。

 「縁起というもの、----それをわれわれは空と説く、それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。」

というナーガールジュナの哲学詩『中論』の詩句がありますが、中道は中庸という思想にもつながるわけで、「無明」というものは「根元的無知」ではないように思います。


精神・身体に作用するホルモン

2014年06月18日 | 科学

 EテレでのサイエンスZEROで2回にわたり精神・身体に作用するホルモンについて最新の研究結果が放送されていました。

 2回目は「オキシトシン」で、我が子を愛おしく感じる母親の出産後の姿から番組は始まりましたが、人類進化の過程をこれまでブログに書いてきましたが、その中にもオキシトシンをはじめとするホルモンについて、人間の「選択肢・行動の向こう側にあるもの」などと題してブログに書いてきました。

 今回の番組ではより詳細に人間関係に大きく作用する「オキシトシン」、番組案内をそのまま引用しますが、

[親が我が子をいとおしく感じたり、夫婦や恋人が相手と離れがたいと感じたり・・・そんな人と人の愛情が、実は脳内で分泌されるホルモン「オキシトシン」によって操られていた!?このホルモンを鼻から吸入すると、男女のケンカも仲直り。さらに、なんとパートナーの浮気防止にも効果あり??最新科学でオキシトシンが人間の愛情や信頼を操るメカニズムを徹底究明。ちょっとした日々の行動でオキシトシンを増やす意外な方法も紹介する。]

 オキシトシンの働きも先週の性ホルモンと同じように子孫を残すためっていうのがやっぱり出発点。

そして、

 この愛情の強さを左右する不思議なホルモンであるオキシトシンは、最近の調査である意外な事実が明らかになって来ていることがあることが語られていました。

 スウェーデンの研究結果、スウェーデンでは国民30万人分の遺伝子情報が保管されていて、2年前この遺伝子バンクを使って遺伝子の解析が行なわれその結果オキシトシンに関わる遺伝子が10種類ほどあることが明らかになりました。

 実はこれらの遺伝子が、これまでの研究である特定のタイプだとオキシトシンやそれを受け取る受容体が減る事が分かっていて、 調査の結果こうしたオキシトシンの働きが弱い遺伝子タイプを1つ以上持つ人が実に全体の4割を占めているそうです。

 研究者のワラム博士は、生まれつきこの遺伝子タイプを持つ既婚者に対し夫婦生活に関するアンケート調査を行ったところ、夫婦生活の満足度や夫婦の協調性などの項目でこの遺伝子タイプを持つ人の方がいずれもポイントが低い事が分り、 更に過去1年間で離婚の危機があった人もこの遺伝子タイプを持つ人の方が5%多かった、とのことでした。

 前回の「性ホルモン」では、テストステロンというと筋肉を増強したりする働きがあるホルモンに影響を与える5α還元酵素の話がありましたが、このテストステロンは胎児から生後6ヶ月の間にかけて、大脳の性差に影響を及ぼすと言われており、人類が進化とともに獲得してきたホルモン生成の姿は、脳や精神面への影響を如実に示しています。

 社会を作りだしていく人間、そこには社会を織りなす作用としてホルモンの存在があり、他の動物とは異なる情緒が大きく行動に影響する人間の根源ともなっているといえると思います。

「使い方次第では怖いですよね。
 何かヨーロッパでは悪用されたら困るっていう事でオキシトシン・スプレーの販売に対して反対運動も起きてるみたいですね。」

こんな話も番組内にありました。

 闘争心、愛情などを自由に操ることが出来るという懸念がそのような話になるのだと思いますが、人類の進化とは何ぞや、社会構造とは何ぞや、ホルモン作用とは興味深い話です。