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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

安曇野有明山麓の朝

2020年08月17日 | 風景

 安曇野の夜明けは、午前5時ごろです。昼間の猛暑に比べると早朝の気温は、やや肌寒さを感じます。

 30分ほど山道をランニング、徐々に気温が上がってきます。

 稲穂に朝露。

 

 この季節、このような光景が朝の定番で、露が朝日に照らされてうつくしく輝く。自然の造形美で、うつくしいという感覚が湧く今に感謝です。


無いことの現象

2016年06月20日 | 風景

 「とどまる」ことなく一歩進むのが毎日。「とどまる」は、

 「止まる」とも「留まる」とも書けますが、思考停止して苦楽も認識せず、食することをしないなどということは、死を経験することはふかのうなことですが、まさに生きる屍になってしまいます。

 人間現象などは、他の自然現象と同じように時間と空間の中を現れ消えてゆくもので、消えるといっても性質を変え大地に拡散され、「残りたし」を希求すると永遠の魂を物語ることになるようになります。

 宇宙の営み時間の中では一人の瞬間存在は無いに等しいだろうし、もともと何も無いものとして結論付けてもよいだろう。

 しかし、その瞬間に私という現象を認め、法灯明・自灯明を味わうことのできるありがたさに感じ「いる」のもよかろうと思う。

 「いる」とは「入る」であり「居る」でありさらに「要る」です。

 

 今朝の太陽は私を「射(い)る」わけで、鋳られることは建立することでもあるように思えます。


安曇野の夜明け、有明山のある風景

2016年05月22日 | 風景

 今日は地区の防災訓練日。今日も天気はよいようです、とはいっても東の空に見る夜明けの日の出は、雲に阻まれごらんのような風景でした。



 

 今朝は、有明山を各地から撮りたい衝動に駆られ、撮りに出かけました。


(ここからの有明山はNHK連続テレビ小説“おひさま”の中に登場しました)




 

 途次外国人の老人がカメラをもって歩いていました。地元に住む方のようで歩きながら安曇野の朝を楽しんでいるのでしょう。


美ヶ原高原に登る

2016年05月04日 | 風景

 私の住む安曇野市穂高有明宮城から東方向に直線距離で60kmほど離れたところに八ヶ岳中信高原国定公園に北端に位置する美ヶ原高原が見えます。秋から冬にかけてはこの方向から太陽が昇ります。

 標高は平均2000mで高原と称するように2000mの大地といったところです。毎年今頃北アルプスにまだ雪が見えるころにこの高原に登り2時間ほど散策しています。

 昨日は夜から天候が崩れ雨の連休になるということから午前6時過ぎには家を出て1時間ほどで頂上のすぐ下にある駐車場に着き、半日高原で過ごしました。


 美ヶ原の駐車場を出ると山道と平坦な道の分岐の場所にでます。昔は仕事の関係上右側の道を利用し車で行きましたが、人も歩くことが出来ますが今は左の登山道を利用します。


御岳、乗鞍をはじめ北アルプスの山々がみえるのですが霞がかかりハッキリ見えませんでした。




右側が大町、白馬方面になります。


2m近くまで小鳥が寄ってきました。遠くにウグイスの声も聞こえました。


この登山道を通ると山頂付近はこのような石畳になっています。山中には多くの無線塔があります。


軽井沢方面は山頂から東に位置しますが、浅間山も霞んでいました。


美ヶ原山荘、多くの人が夜空を楽しむため宿泊します。満天の星の輝きを見ることが出来ます。


美しの塔まで平坦な道を行き帰りは、この西にあるコースを歩く予定ででしたが、時計を見ればまだ8時半、山荘の宿泊客でしょうか。

 


 30分ほどで美しの塔に到着、ベンチで仰向けに寝転んでいたところ人の声、ハスキー犬を連れた若いカップルが来ていました。この二人犬を連れ強風の中、先ほど見えた西斜面のコースを歩いていたのですが、途中で出会いこの犬はとてもおとなしく、またきれいな根性が座った犬でした。

 

 北アルプスでは遭難が続いていますが、2000mのこの高原は強風が吹き続けていましたが、登山客は少なく西斜面にある登山道をのんびりと歩くことが出来ました。山道は人一人が通れる道ですので、登山客が多いとすれ違いのマナーに気を取られることが多く、止まりながら遠くの山々を眺めるなどということはなかなかできないものです。


西斜面のコースはこの道幅です。






強風の中この岩に坐してみました。



遠くから見ると、同じようなことをする人がいました。

 
このハスキー犬の向こうは崖です。根性あり! 

 360度の眺望を楽しめるところですが、霞で遠くの山々をクッキリ見ることが出来ず富士山は見えませんでした。

 ということで美ヶ原高原で半日過ごしました。帰りは松本市岡田伊深にある「月の蕎麦 」で昼食、大ざると天ぷら値段は1500円地元の宮城の「くるまや」そば店並みにお客さんが並んでいました。


うつりゆく風景の中で

2016年04月10日 | 風景

 安曇野市有明宮城の桜も八分咲きになりました。桜の開花時期によく読まれる詩に

良寛さんの

 散る桜 残る桜も 散る桜

があります。永遠に咲き続ける桜はないように、人の命も限りがあります。

このように解するならば、桜の開花に人生観というものが重なることになります。しかし桜の樹は毎年その花を開花させますが、人間の場合は寿命という長さの中で咲きどころを見るわけですから、考えてみると時々に咲きの姿を見ることもあれば、過去を振り返り「あの頃は咲いていたなぁ」などと思い出の中にその先の姿を見ることもできます。

 世の中の物質はエントロピーが増大し必ず消滅することになっています。ミトコンドリアは命の引継ぎを続けますが、個の意識の引継ぎは行わず、子をつなぐだけでそれぞれの意識の堅持が寿命だということも出来そうです。

 現存在の個に限定するならば、無意識で存在しはじめ薄れゆく意識の中に命は閉じらて行きます。人の一生は常に変わりゆく連続のようなもので、喜びも悲しみも現れ、都度に意識の中に人は生きます。

 この意識は構成された意識で、この構成は常にその姿が変化し同一の構成された姿はあり得ない、それが変わりゆく連続であって、悲しいかな他者から見れは意識が失われ、個が死んだような姿に見える認知症という状態もあります。

 散る桜 残る桜も 散る桜

という良寛さんの詩を読むと、当然のものごとの起こりを語っているだけですが、この当然という言葉ほど意味深さに満ちたものはないように見えます。

 同一構成のものごとの起こりはないわけで、当然などは無いと語っているようなもの。

 必ずやエントロピーは増大する。

 無い連続がそこにあるように思え、空・無の現れというものが実感されます。

 わけのわからない話をつづけましたが、今朝の駒澤大学小川隆教授のNHKこころの時代~宗教・人生~「禅の語録を読む」を観ているとこのようなことを書きたくなりました。

 理解の更新

という言葉が番組の最後の最後に小川教授から語られました。

 私が私である内に、自覚の更新が常に現れていること、という意味に聞こえました。

 愚かさの内に埋没している自分を叱咤されているように感じました。



常念岳に常念坊が現れました。

 



わさび畑にも桜が・・・。 


安曇野の夜明け

2016年04月02日 | 風景

 早朝に太陽が昇る姿、その風景がとても好きで、その風景をブログに時々紹介している。 
 太陽信仰の教団に所属しその信仰のういちにあるわけではなく、自然な心の根源的な求め、衝動に突き動かされて仰ぎ見ている。

 太陽信仰というとエジプトの太陽神や日本のアマテラスにみる日神を思い出すが、自然の一員でもある人間は、自然現象に何かと意味を持たせ、神話を作り出す。

 恵みもあれば災いもある。干ばつもあれば、雨障(あめさわ)り、洪水の災害もある。

 新約聖書のマタイ伝の「山上の垂訓」の教えの結びでイエスは「善きものにも悪しきものにも降る雨」を語ります。

 雨障は、「あまずつみ」とも読み、雨に妨げられること。雨に降られて家に閉じこもること意味で、「つみ」は現代の「罪」の語源でもある。

「善きものにも悪しきものにも降る雨」

 ここでは分け隔てのない平等に注ぐ恵みの雨、愛の姿が語られるが、降る雨には善いときもあれば悪しき時もある。

 この平等という言葉を考えると、主人公たる主体の平等ではなく、人間は分別の中に「善・悪」で置かれている。

 雨障は、すべての人間にと、その分別に人を置いてはいない。「あめ」はいまさら書くまでもないが「天」とも漢字で表記できる。

 日本の神信仰は、人格神的なものではなく「はたらき」そのものに視点を置いている。

 時には善く、時には悪に現れる。

 「天罰」と災害を表現した政治家がいたが、ある意味正解なのだが、現代人は合理的な思考を好むので、不合理な出来事に超常的な意味を考え、人格神が罰を下したなどと解釈してしまい批判の的になってしまう。

 言ったご本人も「罰」に重点を置いたかもしれないが天の障(さわ)りの現れと考えるならば、「ばつ」は違った意味を持つことができる。

 結論から言うなら「意味を解す機会」、現れそのもの、その意味を解する時を与えている、とも理解できるということです。

 過ぎ去りしものを追うことはできない。ここでいう「もの」は「こと」でもある。

 人間は意味理解の存在に、常に置かれている。

 荒れふるう姿、和(わぎ)の平安な姿。

 荒魂(あらみたま)、和魂(わぎみたま)

 それが一魂を形成している。存在とは、荒・和が一魂にあるということ、人間はそれを分別し意味をどちらかに分ける。

 太陽が昇るとは、流れゆく自然現象で、時を刻むことである。

 あるがままの姿、無分別智で見るならば美しさを超える太陽の姿がある。


平成28年度はじまる

2016年04月01日 | 風景

 今日から平成28年度が始まる。退職後の第二の人生の職場も新年度を迎え事務担当も忙しくなる。いわゆる自治会、地域の公民館活動も新しい期を迎え担当役員として活動しなければならない。

 平日は松本市の事務所で、土日は地域の活動に時間を費やすことになり、個人的な趣味活動は制限されることになる。制限と表現するとネガティブ思考になるので控えめにしてと表現した方が嫌さが半減しそうな気がする。

 自由な時間の中で集中して好きなことにする方が経験から身に入るような気がする。読書などはいつか読めると傍らに置いたままになるが、時間がないとなると自然に読む機会をつくるものである。

 精神的に疲れてしまう職場の66歳になる男性との付き合いはあと二か月となる。5月に定例総会があり事務所が不在になるのでそれまでの間いてもらうことになっているので重たい毎日の出勤もあと二か月の辛抱となる。

 昨年の4月から6月までは精神的に辛く、病気になるかと思われたが日ごろから何かと生きる意味、人生の意味を探求していたおかげだろうか嫌々ながら今日に至っている。

 悩むに悩むことことの意味は、我が解放されていないことを意味する。

 自分は自分である、相手の心を読み取って相手に合わせようなどとすることはしょせん無理なことである。

 永遠の付き合いではない。相手からの意味不明な叱責も「すみません」を貫き通す。

 言いたいこともあろうが、言えば相手と同レベル。

 この意味をしっかり体得する。

 我慢の限界などはない、自我を開放するとはその意味をしっかりと理解することである。

 人生は刻々と時を刻む。

 今あることはすぐに過ぎ去る。

 毎朝、東の美ヶ原から昇り始める陽を眺めますが、昇る事実は一つですが風景が異なります。

 同じ風景なのか異なる風景なのか、いかにリアルな事実を見ているか。同じ事ではないからこそ過ぎ去る意味がしっかりと解る。

 同じことのくり返しと思えば辛さをつくるようなもの。

 うつりゆく日々の風景である。

 平成28年度を迎え淡々と粛々とことを進めること、これ以外に何もない。


月傾きぬ風景

2016年02月27日 | 風景

 出勤時に背後の北アルプスの常念岳の上空に月を見る機会が続いた。

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

 東の山並みのむこうから、今まさに陽が昇ろうとするとき西の方向にある山々はオレンジに染まり、そこに「月傾きぬ」の風景を見ます。



 

 太陽が昇り切ればさほどの感動はないと思うのですが、同時ではない少しのずれ、そのあわいの中に絶景を感じます。

 「すれちがう」という言葉と「ずれる」という言葉に「時」を感じます。そこに動きがあり、経過が現れています。

 時の一瞬の連続のうちにあわい関係性が現れているとも表現できそうです。

 画家向井潤吉さんの「懐かしき日本の風景」の絵画の世界をNHK日曜美術館で紹介していました。かやぶき屋根のに日本の原風景、郷愁篇・余情篇の画集を時々見ますが、記憶の中の過去風景と現代に生きる私の中に、実際に見た風景ではないのですが「なつかしむ」感覚が現れ、心地よさを与えてくれます。

「すれちがう」には、

1 触れ合うほど近くを反対方向に通りすぎる。
2 時間や位置などがずれて、会えるはずが会えないままになる。
3 議論などで、論点がかみあわない状態になる。

の意味があります。

 「ふれあう」という今まさにその現れに狭間のもつあわさがあるわけで、かみあう落ちどころを人は求めたい。

 画集のページ巡りは出会い、出会いの瞬間、「月傾きぬ」の風景もしかり・・・。

 「かみあう落ちどころ」に真の意味を求めたい。


建国記念の日の安曇野の山々

2016年02月11日 | 風景

 建国記念の日、記紀に由来する神武天皇の即位の日(旧暦)の日。紀元節というと過去の大戦を想起してしまうが、国は今日を建国記念の日と定めました。

 ということで今日は休日、早朝、東の空を見ると雲一つない天気。北アルプス常念岳の朝の輝きの姿を見たくなりいつも行く国営アルプス公園(安曇野市堀金)入口に出かけました。

 

 東方の美ヶ原高原から陽が昇る直前からオレンジ色に染まり始める常念岳、積雪のある冬季に見られる風景で今季に何回か紹介していますが、何者かに招かれるかのようにでかけます。

 

 

 そしていつものように池田町の美術館の展望台へ行き、そこからは有明富士(有明山)を眺めます。



 

 今回は、地元のFM局にツイッターで紹介帰宅時に放送されました。


御宝田のキンクロハジロの美

2016年02月07日 | 風景

 カモが特別好きだというわけでもないのですが、休日には安曇野市の犀川の河川の近くにある人造湖の御宝田(ごほうでん)出かけます。ハクチョウやカモたちの姿や動き、集団行動を眺めていると時間を忘れます。1時間もその場にはいないのですが昨日も行ってみました。



 日差しを浴びのんびりと・・・・



 何も考えていないでしょうね。



 ハクチョウも目を閉じ寝ているようです。 

 そのいつも見るマガモやコガモそしてハクチョウ。その中に羽黒のカモの一群が目にとまりました。

 このカモは、キンクロハジロ(金黒羽白)という種類でマガモやコガモとは羽の色が異なるほか、個人的な美的感覚からすると少々美しさに欠け、これまで写真に撮ることはありませんでした。

 昨日はこのキンクロハジロの数が多く目立ちしばらく眺めていますと、それなりの美しさがあることに気が付きました。烏合の衆団の中にあってその眼光が際立つ一団、羽が黒いこともあるのでしょうか、くちばしのカーブ、後頭部の羽も、よくよく見ると美しい。

 

 自然はいろいろなものを造り出します。造形の美ですね。