「絶学」とは、学ぶことを絶するということで、これは、
キリスト教的にいうと、神さまさえいなくなったときはじめて神さまが神さまが見つかるということである。
ここで、紀野先生は、レッシングの「賢者ナータン」の一節を紹介する。
キリスト教徒のユダヤ人迫害にあって妻と七人の子を焼き殺されたユダヤ人ナータンが、三日三晩灰の中に身を投げかけて神を呪い、自分を呪い、世界を呪う。そして、キリスト教徒への復讐を誓う。しかし、次第に理性が目覚めて来る。ナータンは自分に向かってこう呼びかける。
「しかもなお、神はある。さあ、おまえがとっくに理解していたことを行え。行うことは理解することよりむつかしくない。おまえが行なおうと欲しさえすれば。さあ立て」
こうしてナータン立ち上がる。そして、神に向かって呼びかける。
「わたしは欲する、わたしが欲することをあなたが欲するなら」
ちょうどそのとき、ナータンに出会った者が、両親を失ったキリスト教徒の赤ん坊をナータンに渡して行ってしまう。そのとき、ナータンは泣きながら言うのである。
「神よ、七人のかわりに、もはや一人を」
この戯曲の一節を引用し先生は、
神も仏もあるものかという烈しい怒りや、悲しみや、絶望の中で、「それでも」と、もう一度自分に呼びかけることの大切さをレッシングはわれわれに教える。それを跳躍台にして人間は、「それでもなお神はある」から「神はたしかにある」というところへ飛び込んで行くのである。こういう境地を「絶学」というのである。
と説明する。
この境地においては「はじめに言葉あり」「念仏」「称名」などの言葉の言語学的意味や解釈は無意味となる。
「色即是空」の段階では、言語的な解釈や理解は無意味で、諸法実相のあるがままの状態の中に身を置く。主体性の否定、自力の否定などという解釈、他力の意味、弥陀の誓願も机上の空論。
しかし「色」という現実世界にあるわが身は、前回のブログにおけるマイスター・エックハルトの「私が私自身のために欲望しない場合は、神が私に代わって欲望して下さる。」「『私は欲しない』ということこそ一切の従順に対する毒素」という主張は、ナータンの神に向かっての呼びかけと同根を感ずる。
法の猿猫論争における浄土門の子猫の立場、母猫に咥えられ導かれる子猫の立場、「信心」における「信」、身を委ねる姿がなかなか理解できないでいるが、感覚的に解ったような気がする。