思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

賢者ナータンの叫び

2006年08月26日 | 仏教
 紀野一義先生の書かれた佛との出会いという本の中に、中国の禅僧永嘉玄覚の「証道歌」の「君見ずや絶学無為の閑道人」という言葉を解説したものがある。

 「絶学」とは、学ぶことを絶するということで、これは、
 キリスト教的にいうと、神さまさえいなくなったときはじめて神さまが神さまが見つかるということである。

ここで、紀野先生は、レッシングの「賢者ナータン」の一節を紹介する。

 キリスト教徒のユダヤ人迫害にあって妻と七人の子を焼き殺されたユダヤ人ナータンが、三日三晩灰の中に身を投げかけて神を呪い、自分を呪い、世界を呪う。そして、キリスト教徒への復讐を誓う。しかし、次第に理性が目覚めて来る。ナータンは自分に向かってこう呼びかける。
 「しかもなお、神はある。さあ、おまえがとっくに理解していたことを行え。行うことは理解することよりむつかしくない。おまえが行なおうと欲しさえすれば。さあ立て」
こうしてナータン立ち上がる。そして、神に向かって呼びかける。
 「わたしは欲する、わたしが欲することをあなたが欲するなら」
ちょうどそのとき、ナータンに出会った者が、両親を失ったキリスト教徒の赤ん坊をナータンに渡して行ってしまう。そのとき、ナータンは泣きながら言うのである。
「神よ、七人のかわりに、もはや一人を」

この戯曲の一節を引用し先生は、

 神も仏もあるものかという烈しい怒りや、悲しみや、絶望の中で、「それでも」と、もう一度自分に呼びかけることの大切さをレッシングはわれわれに教える。それを跳躍台にして人間は、「それでもなお神はある」から「神はたしかにある」というところへ飛び込んで行くのである。こういう境地を「絶学」というのである

と説明する。
 この境地においては「はじめに言葉あり」「念仏」「称名」などの言葉の言語学的意味や解釈は無意味となる。

 「色即是空」の段階では、言語的な解釈や理解は無意味で、諸法実相のあるがままの状態の中に身を置く。主体性の否定、自力の否定などという解釈、他力の意味、弥陀の誓願も机上の空論。
 しかし「色」という現実世界にあるわが身は、前回のブログにおけるマイスター・エックハルトの「私が私自身のために欲望しない場合は、神が私に代わって欲望して下さる。」「『私は欲しない』ということこそ一切の従順に対する毒素」という主張は、ナータンの神に向かっての呼びかけと同根を感ずる。

 法の猿猫論争における浄土門の子猫の立場、母猫に咥えられ導かれる子猫の立場、「信心」における「信」、身を委ねる姿がなかなか理解できないでいるが、感覚的に解ったような気がする。

こころの時代・鎮魂の模型船

2006年08月23日 | 仏教
 8月20日NHK教育午後2時に「こころの時代~宗教・人生 鎮魂の模型船・戦没船乗員遺族の思い」が再放送された。甲南大学名誉教授佐藤明雄さんの戦艦ではなく輸送船・客船などの戦没一般船舶の模型造りから始まるこの番組。人生の不思議に感動せずにはいられなかった。

 数日前に以前録画してあった「こころの時代」を題名を見ないで不作為に選び出し見た、それがこの佐藤先生の話であった。すばらしい番組で、人生を24時間で表した時、我が時計は午後の3時40分、全てに今現在説法を観る。

 佐藤先生は、マイスター・エックハルトの言葉を語られた。「私が私自身のために欲望しない場合は、神が私に代って欲望して下さる。」(神の慰めの書 相原信作訳 講談社学術文庫P17)

 先生は、今の人生を「余恵(よけい)」と言われた。哲学の人生を選ぶ際、父親から「それでは食っていけないぞ。それでもいいなら許す。」と言われ、哲学の道に入られた。 現在は人並みに生きられる人生を歩まれている。そこに余恵があり、他人のために何かをせずにはいられない人生が自ずと目の前にあるということのようだ。

 エックハルトは、上記書に「『私は欲しない』ということこそ一切の従順に対する毒素である。」といい、また、「ただ『主よ、汝の欲するものを与え給え、そして主よ、御意(みこころ)のままを、しかも如何様でもあれ御意のままなる様式においてなし給え』といわなければならない。」と述べている。

 先生の人生は、あるがままに全てが顕われている。父母の業、先祖の業が種子となり薫習し、香り貴き人生が広がっている。

 欲するものではなく、如来の手の中に任された人生を観た。

正福寺付近

2006年08月18日 | 風景
 安曇野市有明付近には、真言宗のお寺が多い。その中で有明神社の傍らに無住職の正福寺がある。宮城地区で監理し、仁王様は県指定の文化財で、ひっそりと奥山においでになる。

 記帳のノートが開かれて賽銭箱の上に載せられている。普段は訪れる人は少ないが、夏休みで県外の人が昨日来ているようだ。
 早朝のジョギングで、この正福寺と松尾寺をお参りした。

  有明は、松本市内よりも気温が低く爽やかである。途中常念連峰から流れる穂高川は、今日は昨夜の雨で濁っていた。 穂高神社には、子連れの野猿集団がいた。ボス猿らしき一匹が3メートル先の道路の土手付近いたが、我関せずの態度で通り過ぎると、猿も同様の態度であった。

 鐘の鳴る丘施設の前を通るとチャイムが鳴り、その後点呼の声が聞えた。旧鐘の鳴る丘の建物は、松尾寺の直ぐ西隣にあるが、今は穂高川の近くにある。
 

狂気の県政からの復帰長野県知事選

2006年08月06日 | 仏教
 長野県知事選投票が終了し村井仁元国家公安委員長が当選した。長野県民として田中県政は、混迷と狂いの県政であった。

 その狂いは、かれの高校生活から現われていたが、その狂気はタレントとしてのパフォーマンスの中に隠れていた。

 田中氏支持派の市会議員、県会議員の中には、とんでもない議員は今もいる。
 有名な話だが、県の幹部が知事に報告をしようとしたところ「ヤギのミルクの時間だ」と断られた。という。

 また公安委員にと推薦したオーム事件で被害を受けた河野さんに対し「俺の言うことを聞けないか」ととある情報を入手しようとし、「憲法違反に抵触すると」河野さんに断られ、それに腹を立て河野さんの再任に拒否の姿勢を示した。

 税金の浪費を叫びながら、高額な木製のガードレールを推進を進めたり、パソコン教育を推進すると称して、一部の企業の利益を図るバス購入をするなど。
 限がない出来事がほとんどで、県民に利益になる県政をしたのか。
 探す努力は必要ではなく、価値もない。

人間凝視

2006年08月02日 | 仏教

 第十八願に関係して、東洋思想(東京大学出版会)6の石田瑞麿先生の「中国の浄土思想」を読ませていただいたところ、雲鸞善導の解釈が素人ながらにも理解し易いのでメモすることとした。
 法然が親鸞が求めるその志向の先に両氏がいることになぜかひかれる。

上記書P53
 雲鸞の意は、「無量寿経」の言葉どおり、「正法を誹謗するもの」は生まれることはできない。誹謗する以上は「仏の国に生まれたいと願う道理」はないからで、誹謗しながら生まれたいと願うとするならば、煙のない火を求めるようなものだ、というのである。したがって問題は五逆をめぐる問題におさまることになる。かれとしては、「無量寿経」の方は五逆と謗法との二つの罪が重なっているから生まれることはできないが、「観無量寿経」の方は五逆だけだから生まれることができるとし、五逆を犯しながら十念によって生まれることができるのは、この十念には三つの条件が備わっている場合である、とした。それは、かれの言葉によると、心と縁と決定の三つということであるが、心についていうと、十念は「真実の教(実相)を聞いて生じた」ものであって、罪を犯した心の虚妄を取り払ってしまうことができるから、かつて五逆の重罪を犯したものも、十念によって生まれることができる、というのである。いわば、千年の闇室も光がさすときは、その部屋から闇が立ち去っていかなければならない道理である。

上記同書P54
 善導は、「無量寿経」にいう謗法を含めて、二経(無量寿経・観無量寿経)の差異を明らかにしようとして、次のように説明した。まず「無量寿経」が五逆と謗法とを除いたのは、仏の「抑止(おくし)」であって、この二つは障りが極めて重いから、もし犯したときは阿鼻地獄におちて、ついにそこからでられない。そこで仏はこの過ちを犯すのをおそれて、方便によって留めて、生まれることはできないといわれたもので、救われないということではない。また「観無量寿経」で最下位のものに対して謗法だけをはぶいたのは、五逆はすでに犯してしまっているから、これを捨てておくことができないために、救いとって生まれさせるが、謗法はまだ犯していないから、これに対してはこれに留めて、謗法を犯すと、生まれないとしたのである。これはまだ作っていない行為について言ったものであるが、しかし「造ったとしても、また救いとって生まれさす」ことに変わりはない。ただ浄土に生まれたあと、蓮の華がひらくまでに長い時間を経るだけである。

文中に十念とか方便などという言葉が出てくるが、刹那とか別時意について思考が広がる。なぜにこれほどまでに知悉したい衝動に駆られるのか、やり残しの業があるとしか思えない。

 梅原猛先生は、「哲学するこころ」の中で、人間凝視の深さがあり仏教にひかれるといわれていたが、私もそれにひかれている。