goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

私は信ずるというとき

2018年11月16日 | 宗教哲学

 宗教学では、宗教は当事者によって「信じられている文化現象」といわれます。「信じられて」とは信仰の対象である「神」や「仏」をその対象として崇めるという理解でよいかと思います。そして「信じる」という言葉は、対象物(このように呼んでよいものかわかりませんが個人的な理解として使用)を存在するものと意識して使う場合が一般的ではないかと思います。

 しかし、宗教学や神学的な理解においては、「信じる」という言葉は「信じない」という反語的な範疇で理解する場合だけではなく、そもそもこの言葉を使用することさえ不適切な場合があるようです。

  2014年9月に新教出版から出版された『人生の意味と神について』という実存精神分析療法家V・E・フランクルとユダヤ教神学者ピンハス・ラピーデの信仰をめぐる対話集があります。

 この中で「信じる」という言葉についてラピーデが次のような興味深い話をしています。

 まず「信じる」(Glauben)は、ドイツ語では「誓う」(Geloben)あるいは「結婚を誓う」(sich angeloben)に由来し、「信じる」とは「身も魂も或るものと結婚する」ことを意味するそうです。

 ラテン語では「信じる」credereでこれは「心を与える、心を献げる」から発生しているとのこと。

 ギリシャ語では「信じる」(pisteuein)で、「知的に虚弱である」ということで、その意味するところは「或ることを信とみなすこと」であり、その際に頭と心が協働していることを指しているとのこと。

 ヘブライ語ではそもそも「信じる」という言葉はなく、不可欠な絶対信頼、疑いのある「~ということを信じる」という言い方はなく、「(彼)に信をおく」というのが「神」との関係性を示しているとのことでした。


このようにドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の「信じる」という言葉を解説しています。ここで語られているのは、最初に言ったように「神を信じる」といった場合の「信じる」という言い方についてで、ヘブライ語以外は主語は変更可能で、それを信用するか否かの疑念を抱いた心の表現もできるように思います。

 評論家の小林秀雄先生かと思いますが、“「信じる」とは足りない部分を補うことである”と語っていたのはギリシャ語が由来であることが解ります。これもなかなか面白い話で、知識不足の私は学ばなければ虚弱なままで、信頼し自己の知識として吸収することによって体つくりをしてゆくといったところでしょうか。

 さて、ヘブライ語の話ですが、不可欠な絶対信頼という見方は、旧約におけるモーゼの十戒の第一は「われヤハウエは汝の神である、我のほかに他の神々を崇拝してはならない。」という言葉からもうなずけます。神と人間とはそもそも「信じる」「信じない」という言葉の使用不可能な関係性にあることがわかります。

 エジプトでの長い奴隷生活から解放され希望の地に向かうその前に広がる砂漠。そこには自然の驚異が待っています。普通に考えれば不可能な話ですが、何が可能性を抱かせたか。そう考えると「信じる」「信じない」という言葉自体を持ちえない状況がおのずと現れてくるように思えます。王の僕から神の僕へと展開されるときどのような心作りが必要か。確かに不可欠な絶対信頼ということになるのが自然に思えます。

 では日本語の「信じる」はどうでしょうか。「神を信じる」という言い方ができないわけではありませんが、信頼、信用というような言葉の概念よりも、日本人の無宗教性と言われる特徴からして神に対しては「信じる」という言葉使用よりも、心を寄せるか、頼りにするか、といったところで、「信じない」という場合は、神と対峙しなければよいのであって、私だけかもしれませんが、不信心と言われた所で罪悪感はさほど感じないように思います。

 西田哲学では、主語と述語の関係において、述語は主語との関係性が包まれるなどと言われます。「信じる」という言葉が主語を持つ関係においてどう展開し、その時心にはどのような概念が生まれているのか。主語との関係性を表現するとき実に個が現れるように思います。他者に言葉で表現し理解してもらおうとしても不可能な話です。内心に抱く「信」の意味はこの感覚的理解において成立します。それはフランクル流に言えば精神的無意識から現れるものと言えると思います。

 
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」第11章3節は、

 信仰によってわたしたちは、この世界が神のことばで形造られたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです。

 同6節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、自分を求める者に報いを与えるかたであることを信じなければならないのです。

と書かれています。この6節ですが、別の新約聖書を開くと、

 信仰なくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さこととを、必ず信じるはずだからである。

 さらに別の聖書を開くと、同節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

と書かれています。

3種類の新約聖書ですが、訳し方によってその意味合いが異なることに気がつきます。

 この6節の最後の部分、

・信じなければならないのです。

・必ず信じるはずだからである。

・信じていなければならないからです。

ここに現れているのは「神」です。

 語り部は、

 神を信じなければならない。

 神を必ず信ずることとなる。

 神を信じていなければならない。

とわたしに語りかけてきます。キリスト教徒としてその信仰の内に身を置くということは、こういうことであるということです。徒にない私には訳者によって、使用する聖書によって、語る聖職者によって多様な解釈の内に信仰を持つことになります。

 信ずるものは救われる。

とよく説かれます。

 権力を持つものが生存に有利な社会が形成してくると、体制側にある者ない者では、実存の基盤が失われ生を保証する大なる証が失われ「信ずる」という言葉がまさに疑いの心とともにはっきりと意識されるようになります。新約の世界はまさにその世界に成立したもので、そのご神の存在論的論証などが現れ神の存在証明が話題に、無神論者と言明するものも現れるようになりました。

 モーゼに導かれる民は、不可能性という疑念を可能性という絶対信頼を享受しす。一方その後の新約に導かれる民は、どのように歩み、歩みつつあるのでしょう。

 神は死んだ。

 その後の世界は、論理的な思考が可能性を希望という言葉に変え歩み続けています。


神無月から霜月へ

2018年11月10日 | 宗教哲学

 神無月から霜月の10日目になりました。

以前「V・E・フランクルは有神論的実存主義者か?」という題のブログを書いたことがあります。ある「実存」という哲学用語について解説するブログに、

 「実存主義と言っても、有神論的なものと無神論的なものがあります。一般的に前者で人気なのはV・E・フランクル、後者ならば・・・ニーチェやサルトルなのでしょうか。ただ、有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので、・・・・。」

という内容の文章があったからで、実存的精神療法家のフランクルの思想は、有神論的実存主義とし「中途半端」なのだと主張するものでした。「中途半端」と語る以上「完成されたもの」が語られてよいのですがそれは語られることはありませんでした。

「有神論」とは漢字から読み取れば「神あり論」となります。先月10月は日本では神無月(かんなづき)で出雲地方は神在月(かみありづき)でした。日本中の神々が出雲に集結する月で、出雲以外には神様がいなくなることからこのように呼ばれているという伝説で、「有」の「ある」ではなく「在」の「ある」を使うところは神の存在論を明示するかのようです。

 これを手掛かりに「有神論」をその意味を経験的知識感覚で理解しようと試みれば、内心に抱く「神」イメージを頑なに信じる人々の論述ということになりそうです。実際に一般的にどのように「唯心論」は語れれるのか? ネット検索で「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」を見ると、


有神論(ゆうしんろん)[theism]

 神の存在を認める哲学的,神学的立場 (単なる信仰ではない) 。ギリシア語で神を意味する theosより 17世紀にキリスト教の内部でつくられた言葉であるが,立場そのものは古代より存在し,一宗派に限定されない。
 キリスト教についていえば,まずそれは無神論に対立し,また神の存在は認めても人間の理性ではそれをとらえられないとする不可知論とも対立する。
 神が世界より離れ,超越して存在するとみる点で汎神論と対立するが,同時にその神は世界や人間精神に内在して働き続けているとする点で理神論とも対立する。また神がペルソナ的存在であり,崇拝されるべきものであるとする点でも理神論と区別される。
 有神論と理神論は語源的には同義であり,同時期に用いられはじめたから,17~18世紀の用語では一部に混同があるが,理神論との区別は有神論にとって本質的に重要なものである。有神論は以上の主張を哲学的,神学的概念をもって理論的に展開するものであるから,その主たる部分は「神の存在の証明」にあてられる (→存在論的証明 ) 。宇宙霊魂の存在によるプラトンの証明 (『法律』 10巻) ,宇宙論的証明の原型を示したアリストテレスを源流として,アウグスチヌス,アンセルムス,トマス・アクィナス以下現代にいたるまで多くの理論が展開されている

とありました。読んで字のごとくで「神あり」という確信に生きている人を示しているようです。空想であれ、実体的存在としての確信であれ、神なる存在概念を堅持している人の思想ということです。

 さてフランクルに戻しますが、有名になった彼の著『夜と霧』という強制収容所体験記があります。この本の最後の所に次の記述があります。この本は霜山徳爾訳と池田香代子訳があり個々では池田さん訳を使用します。

 そしていつか、解放された人びとが強制収容所のすべての体験を振り返り、奇妙な感覚に襲われる日がやってくる。収容所の日々が要請したあれらすべてのことに、どうして耐え忍ぶことができたのか、われながらさっぱりわからないのだ。そして、人生には、すべてがすばらしい夢のように思われる一日(もちろん自由な一日)があるように、収容所で体験したすべてがただの悪夢以上のなにかだと思える日も、いつかは訪れるのだろう。ふるさとにもどった人びとのすべての経験は、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ。(上記書p156-p157)

とあります。霜山さん訳は最後「貴重な感慨によって仕上げられるのである。」と訳しています。ここで明らかにされているのは「神以外にもはや世界に恐れるものは何もない」とフランクルは語っているということです。

2014年に新教出版社から出版されたヴィクトール・フランクルとユダヤ教神学者ピンハス・ラピーデとの対話集『人生の意味と神』があります。ラピーデはフランクルに対して、「あなたが神というときに、あなたは何を意味しておられるのですか。」と問いています。それに対してフランクルは「宗教が問題になります」と応え、15歳のときに定義した「神とはわたしたちのきわめて親密なひとりごと[自己対話]のパートナーである」という言葉を語り、この問題は未だに解決していないまま、ですがとしています。

私の個人的な意見ですが有神論的実存主義者というよりも宗教的実存を語る人と言った方が良いように思います。

 人は人生から問われ、期待されている存在とするフランクルの思想は、内心に働く問いで汝自身が解していき、そして世界を見る思想に思えます。  

述語的に展開される働きの世界、その時主語である神は働きに包まれています。フランクルの語る「宗教の問題」という言葉に、西田幾多郎先生の晩年の次の言葉を思い出します。

 我々が、我々の自己の根柢に、深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである。自己の悲哀、その自己矛盾ということは、古来言旧(いいふる)された常套語(じょうとうご)である。しかし多くの人は深くこの事実を見つめていない。どこまでもこの事実を見つめて行く時、我々に宗教の問題というものが起こってこなければならないのである(哲学の問題というものも実はここから起こるのである)。
(『場所的論理と宗教的世界観』上閑照編西田幾多郎哲学論集Ⅲp323)

哲学の根底、宗教の根底に普遍的な共通に通底するところがあるといいます。西田哲学の逆対応にどのような言葉の意味を置けるか。「神」「仏」という言葉の深淵性が響いてくるかもしれません。


語りえないものに向かって祈らなければならない

2015年04月15日 | 宗教哲学

 宗教哲学を学際に語られる神とか魂とかまた精霊という言葉に自分の理解の内にその意味理解をしようとするが、私の場合、実存という哲学用語と同じように人それぞれの理解背景があってなかなか意味理解に苦労します。

 軽薄な素人であるからと一笑に伏されても仕方がありませんが、言葉を使い表現するということは難しいことです。

 理解の読者登録しているブログにルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」の言葉を見て改めてその意味を思う機会を得ました。

 凡人は難しさや不理解にあるから何かと不可知にありますが、そんなときに「そうだ」と身体を投げ出すしかない場合があります。V・E・フランクルの次の言葉に感激したことがありました。

そもそも神については語りえず、ただ神に向かって語りうるのみではないか、と言われるが、これは全く疑問である。われわれは、ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」(whereof one cannot speak,thereof one must be silent)という命題を、単に英語から翻訳するだけではなく、次のように不可知論から神有論に翻訳することもできるーーー語りえないものに向かって祈らなければならない。(V・E・フランクル著『人間とは何か』(春秋社・p412から)

祈りの中にある人、ひたすら只管打坐する者は身体を投げ出しています。「祈る」「坐る」は「ひたすら」に「そうだ」であって、放下であり離脱であるように思います。


悪ではなく愛によって・姜尚中先生の話を聞いて

2015年04月13日 | 宗教哲学

 NHKラジオ第二放送の日曜部午前に放送されている「宗教の時代」という番組があります。先週の日曜日に放送され昨夜再放送された番組でしたが政治学者の姜尚中先生の「悪ではなく愛によって」が放送されていました。つい最近聖学院大学学長になられたかと思っていたところ思うところがあってそこをお辞めになったということでした。

 若い時にキリスト教の洗礼を受けたという話から始まりニーチェの『道徳の系譜』で語られる「人間は悪を好むものである」旨の言葉も引用され、人が「愛」を話題にするよりも「悪」を話題にした方が興味を持つことが述べられ、「悪の反対は愛である」ことを分りやすく話されていました。

 世の中を見まわすと、特にニュースなどを見ているとどちらかというと悪や悪しきことについて話題に取り上げていることが多いような気がします。愛は善きことですが、悪しきこと悪しき出来事が無ければ愛も善きことも目立ちません。

 確かにニーチェの言うように苦難があることが問題ではなく、むしろ苦難の意味が分らないことが最大の問題であるように思います。
 
 この番組が放送された5日のEテレこころの時代 ~宗教・人生~はベトナム人の禅僧 ティク・ナット・ハン氏の「怒りの炎を抱きしめる」が放送されていていました。

 世の非情、苦難に直面することとは、自然の非情、無関心【indifferent】をしっかり受け止めることでもある。

 苦難・苦悩

 イワンのように自己嫌悪に陥り自己を世界から閉ざすのか・・・。

 それぞれの番組は再放送され聞き逃し、見逃しをされた方というよりも私自身のことなのですが、機会ですね。

 最近は少々疲れ気味ですが、くり返しドアを叩かれた気がしました。

 恋愛のような愛だけでなく魂にふれる生き方において感じる「愛」が姜尚中先生やハン氏の語りの中に聞えたような気がします。

 耳を澄ましてごらん、何ものかが近づいてくるのが分る。分別ができたとしてもそれが解かること、解析できる、魂にふれたと転回される時、最も近しい御二人の「愛」なのだろうと思う。

 キリスト教的な愛はその相依に悪を置き、仏教的な愛はその相依に憎しみをおく。

 我ありという「有」が、あること自体を前提にしているとどうも悪や憎を思わざるを得ません。絶対無からの現れ、空からの現れが現存となり本来的自己になる。

 実存的虚無感の徹底が転回され本来的自己が生まれるときが第二の誕生、生(あ)るの現存にハッとする時なのだと思う。

 回心、二度生まれを姜先生は過去の経験の機会に観ていました。

 大戦や災害の中に他者の愛を見る機会が経験されています。

 この日の姜尚中先生はキリスト教の宣教師になったかと思われる方も多くあったかと思うのですが、宗教的愛は気づくことへの愛であって排他的なものではないように思います。

 姜先生の話の背景にはW・ジェイムズやヴィクトール・フランクルの思想があるよう私には思えました。一教一祖に陥った排他的ではない「愛」でもあると思います。


願わくば己を振り返ってもらいたい話

2015年04月11日 | 宗教哲学

禅的世界の円相図について、個人的に

墨跡・真善美の合一点

と題したブログをはじめ多くを記述遍歴してきました。そこには何事かを語ろうとする私自身がいるわけで、理解をするために多くの学者先生の論を重ねてきました。

この記事は違います
教授も見たことがないのにわかったような解釈は良くないです
この円が表しているものは、全てです
円のなかに空洞があるわけではありません
昔は繊細な筆や絵の具が手に入りづらかったのでこういう表現になったと思います
円よりは、ぼやけた月の方がより近いと思います
瞑想してれば見ることがあるかもしれません。

というコメントを受け貴重な定言に感謝するのですが、わたしからすると何がわかって何がわからないのかが皆目わからないのですが、最後の「瞑想してれば見ることがあるかもしれません。」やその前の「円よりは、ぼやけた月の方がより近いと思います。」がどうも私と異するところがあり、まぁ何と言いましょうか、「あわい」が不理解のように思えてならず、一筆啓上したくなりました。

 貴重なご意見なので掲出しましたが、出来ることならばURL欄は記入していただければ幸いです。

 最後に「めい想」話は小生只管打坐ですのでよくわかりません。



「神の死」を告げる美しきヴァリアント

2015年03月31日 | 宗教哲学

 前回「囚われ」という言葉をブログにキーボードで打ち込んだ際に、突然にニーチェの「囚人」が脳裏に浮かんだ。ニーチェ好きのでもある私の脳は意識を離れて無意識の作用の囚われでもあることに気づく。

 前回も「囚われ」もそのような意味のうちで語ってもいるのですが、哲学にける感性とでもいうのでしょうニーチェという人は最期は儚いものでしたが残された足跡は作品となって今に多くの人々に意味を与えています。

 最近は「ちくま学芸文庫」を読む機会が多くなり以前の筑摩書房の再興がなされているようで、創始者等が信州に関わりのある人だけに感慨深いところがある。「ちくま学芸文庫」が「ちくま学芸文庫」を選択させる。書籍の連鎖、思想の連鎖とでもいいましょうか多大に出版会社の思惑の中に、これまた囚われているのか・・・つまらん話はさておきニーチェの話に移るが、ジル・ドゥルーズ 湯浅博雄訳『ニーチェ』の「哲学」の文章の中に次の語りに出遭う。

 「ニーチェは。諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは充分ではないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。ニーチェ作品のなかで神の死を伝えるヴァリアントは多数にのぼり、すくなくとも十四、五の異文があるけれども、それらはすべてきわめて美しいものである。」(上記書40から)

 「きわめて美しいものである。」という言葉にドゥルーズの「きわめて美しい」ヴァリアントはどの話しかと興味をもった。ありがたいことに原注に同書の後出に掲載されている「ニーチェ選集」の19番目の話、

19「神の死」を告げる最初のヴァリアントのうちの一篇

で、ニーチェ著『漂泊者とその影』に掲載されている83番目の話であった。手元にあるニーチェ全集(ちくま学芸文庫)の第6巻『人間的、あまりに人間的Ⅱ』第二部にもある話でこちらは中島義生訳である。

 ここでは読んでみて流れが好い後者を引用したい。なかなか美しいのである。

 囚人たち。---或る朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていた。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、他の連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。

 そこへひとりの男が現われて、大声でこう言った、「好きなだけ働くがいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露見したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした、そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通じるのだ。おれはお前たちを救うこともできるし、また救ってもやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、おまえたちのなかでおれが牢番の息子であることを信じる者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実りを刈り入れるがいいのだ。」

 「だが」としばらくの沈黙のあとをうけて一人の年配の囚人が言った、「われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい? お前さんがほんとうに息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、われわれみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談議はよしにしてくれ!」

 「そして」とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、「おれはあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったておれたちは今日とそっくりおんなじここにいるのさ、そして牢番は何も知ってはいないのだ。」

 「いままでは何か知っていたにしても、いまはもう彼は知ってはいない」と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、「牢番はたったいま急に死んだのだ。」・・・・

 「おーい」と幾人かの者がごちゃごちゃに叫んだ。「おーい! 息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね? われわれはどうやらいまはお前さんの囚人なんだね?」・・・「おれがお前たちに言ったとおりだ」と、

 呼びかけられた男は穏やかに答えた。「おれは、おれを信ずるすべての者を解放するだろう、おれのおれの父がまだ生きているのと同じ確実さで。」・・・

 囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った。(上記書p337-p338から)

以上サイトは文章が連続すると読みにくくわかりずらいので文章を区切ったが、ドゥルーズの言わんとするところがよくわかる。

 アレフの人々には通じない話だけではなく、巷にあふれる諸々の語り部に酔う者たちにも語って聞かせたい啓示話である。

 「ニーチェは。諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは充分ではないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。」

 「囚われる」という言葉からニーチェの啓示に話を進めたのですが、他者に囚われるか、足下の内にわが身を置く(囚)かの大きな違いである。

 私が私であることが、いつの間にか他者の足下にひざまずき他者無くしてその存立はなくなってしまう。「放下」のもつ意味が「離脱」とともに、意味なすものがそこに生まれる。

 


朝からエックハルトに出遭う

2015年03月30日 | 宗教哲学

 今朝はマイスター・エックハルトとハイデガーの名を読者登録ブログに見て何かに打たれたような感覚を得ました。「私とは何者ぞ」との自己からの問いかけにどのような思索が現われていくのか。思考の変遷が何ものかを織りなしていきます。

 個人的にブログに軌跡を残しているのですが、行きつ戻りつ何を言っているのか、他者には理解不能の迷路になるかもしれませんが、「何者ぞ」が常に問われているのは確かです。

 エックハルトの「神の根柢は内に於いて自分自身よりも一層自己に近い」という言葉に出会い、平易に言うならば「神は私にとって、もっとも自分自身に近い存在」と自分に語りかけると、「森羅万象の、あらゆる物事を円(まど)かに肯(うけが)う心境を得た」ように思うのです。

 この感覚は、鈴木大拙先生が紹介する妙好人浅原才市翁が語る句に「仏にとられる」の言葉を見た時と動揺の感動がありました。

 さいちや、このたび、しやわせよ、
 悪もとられ、自力も取られ、
 疑もとられ、みなとられ、
 さいちが身上みな取られ、
 なむあみだぶつをただ貰うて、
 これで、さいちが苦がないよ。
 これが浄土にいぬるばかりよ。

 彼岸(ひがん)に阿弥陀仏を見るように観えるが決して離れてはいない、足下である此岸(しがん)へと此処(ここ)のこの地に血となって現われた事態に空也像が口から吐き出す呼吸の中に仏の姿があるように、血潮のほとばしりに思えます。

 縁起で形成される「愛憎」の愛ではなく、純粋経験としての「愛」、それは対立的な存在物を想定されない意味での超越的なそのものとしての「愛」です。

 軽い意味での「純愛」ではなく、経験の只中に生成する限りなき囚われとしての身が置かれた状態、捕らわれ、捉われではなく囚われ。個の内に人であるが「とらわれ」は限りなきっ自由さを感じているに違いありません。

 才市さんの場合は、まさに「森羅万象の、あらゆる物事を円かに肯った心境」に違いなく、「神は私にとって、もっとも自分自身に近い存在」が重なるのです。

 読者登録ブログではあの『中世哲学史』の著者アラン・ド・リベラが語られるとのこと大いなる啓示を受けたいと思います。


森羅万象の刻む音

2015年03月23日 | 宗教哲学

 「刻々」という言葉を使う、時の刻みにも聞こえ、事態の推移にも聞こえる。

 一般的な国語辞典には、「時間のひと区切りひと区切り」「次第に時間が過ぎていくさま」また、時を追ってある事態が進んでいくさま」と解説され冒頭の理解は間違いではないようだ。

 「こくこく」または「こっこく」と読むこの言葉、「コトコト」「コツコツ」「フツフツ」「ヒタヒタ」「ズンズン」というオノマトペに似ている。

 時計の歯車ならば私の場合「コツコツ」を使うかもしれないし「コトコト」を使う人もいるかもしれません。

 今日は次の現象から始まります。







 いつもの通りの当りまえの風景。ある意味「ある」ことの明けです。目がさめたときから「ある」は始まっているのですが、日の出に向かうと「ある」の初めを強く実感します。

 ここにひとつの不思議があります。日の出にオノマトペを作れないのです。太陽が時を刻む日時計がありますが、ここには無言が似合います。私だけかもしれませんが不思議です。

「すべての出発点は、自分が今ここにいるところに共鳴しているわけです。これは哲学や宗教の原点ですが・・・・」(大峯顯)

「アカデミズムの中で、ここにいることの不思議ということに言及する人は本当に少ないですね」(池田昌子)

 この言葉は、故池田昌子先生が大峯顯先生との対談書『君自身に還れ・知と信を巡る対話』(本願寺出版社)のはじめに書かれている『口伝西洋哲学史』の中のフサール、ハイデガーの最初に書かれている「若葉の中の死の想念」を話題に出して語っているお二人の言葉です。

 存在の驚きからはじまる哲学、宗教。西谷啓治先生の宗教哲学はそこからはじまることは時々ブログにも書いていますが、池田先生が言われるように「ここにいることの不思議」に言及するアカデミズムの世界は影が薄くなってきているように思います。

 「ここにいる」を漢字で書けば「ここに居る」で「いる」は「ある」日本語の場合、人間存在の場合は「いる」に尽き、「ある」は森羅万象の顕現に使われる。


 「森羅万象の、あらゆる物事を円(まど)かに肯(うけが)う心境を得たとき」

という言葉を目にし、読む。この短かな文章に何を読み解くか。前回のブログで禅仏教の【百丈野鴨子】『碧巌録』第53則について書きましたが、上記の言葉も禅問答の一般的な解説書に書かれていました。

 「森羅万象の、あらゆる物事」

 ここでは「いる」を越え「ある」を語っています。「ある」に「いる」が含まれているように思います。

 「もの・こと」がそこに「ある」それが哲学のはじまりならば、「円かに肯う心境を得た」とはどういう意味なのか。

 さきほど「禅問答の一般的な解説書」と書きましたが禅僧の有馬底さんが書かれた『禅僧の生涯』(春秋社)の中国の禅僧馬祖道一で語られている言葉です。

 馬祖を語る以上、上記の【百丈野鴨子】の百丈懐海も語られていて、馬祖に鼻をねじられた百丈の「痛い!」について、

「痛い、の一念はいったいどこからどこへ行くのだろう。馬祖が教えたものでもなければ懐海が学んだことでもない。懐海は、大いに感じるところがあった。」

と【百丈野鴨子】に要を語っていました(上記書p48)。

 有馬老師は龍樹の『中論』に言及しませんし、まして鴨の実存は語ってもいません。

 しかし、「一念はいったいどこからどこへ行くのだろう」という言葉に自性ということが大きく関わっています。一念は人の一念であって鴨の一念ではありません。

・「本質存在(~である)」(esse essentiae)

・「現実存在(~がある)」(esse existentiae)

「ある」という、「有(あ)る」、「在(あ)る」、「生(あ)る」の不思議、そこには刻む時があるには違いないのですが、一刹那の世界は刻々であて無音、それが念になると「コトコト」「コツコツ」「フツフツ」「ヒタヒタ」「ズンズン」の世界に色取られます。


「野鴨」の実存

2015年03月21日 | 宗教哲学

 ある読者登録しているブログに禅宗の高名な僧侶(以下N氏のブログ)の禅問答における次の言葉が気にかかった。

 野鴨をめぐる師匠と弟子の問答は、まさにそれです。弟子の言う「野鴨」は、その時まさに「飛んでいる」ことにおいて実存しています。そして二人が見ている「飛んでいった」と了解された運動は、当の「野鴨」の実存の仕方なのです。飛ばない「野鴨」と、それ自体として存在する「飛ぶ」運動がなんとなく結合して、「野鴨が飛ぶ」わけではありません。

N氏はそのように語っていました。

 基になる禅問答は、『碧巌録』第53則の「百丈野鴨子(ひゃくじょうやおうす)」という話で、佐藤和彦著『現代人のための禅問答入門』(学研)から引用すると次の話です。

【百丈野鴨子】『碧巌録』第53則
 馬祖が、弟子の百丈と歩いていると、野原から野鴨の一群が飛び立って去って行った。
 それを見た馬祖が、百丈に尋ねた。
「あれは何だ」
「野鴨です」
「どこへ飛んで行ったのか」
「わかりません。ただ飛んで行ったのみです」
 答えを聞いた馬祖は、いきなり百丈の花を強くつまみあげた。思わず、百丈は叫んだ。
「痛いっ!」
 すると馬祖は言った。
「なんだ、飛び去ったというが、野鴨はここにいるではないか」
 百丈は、我に返り、大いに悟った。

引用した『現代人のための禅問答入門』を書かれた佐藤和彦さんという方はどういう人なのかというと、著書のプロフィールには、

 1952年東京都に生まれ。法政大学文学部卒。
 商社、出版会社勤務を経て文筆家に転じ、
 軍事、宗教、民俗学、児童書など多方面で活躍。
 晩年は各地の霊場を巡礼、求道する禅者を彷彿させた。
 1997年、急逝。著書に『遠野』『インド神話の謎』(ともに学研)他。

急逝の理由は解りませんが、生きていれば私よりも2年先輩になる人が書かれたのだと知ると禅僧でもない、何かを求めた人(求道に生きた人)その姿が見えてくるような気がします。

 佐藤さんは、この問答を

 「事象を眺めるとき、それを自分自身の心がどう捉え、どうかかわっているのか。自ら心を失わず、対象と同化することができるのか。これを問うている。」と語り、「自分自身の心のありかの究明と飛躍を求めたのである。」とし漢字一文字で「悟」という墨蹟を付しています(同書p80)。

 手元に他に伊藤古鑑著『公案禅話』(大法輪閣)があり、禅僧でもあり花園大学名誉教授でもある著者は、

「自己を究明し飛躍せよ」と題し、次のように語っています。

 馬祖の宗風は禅機の縦横、事に触れ、境に対して、すぐ話が禅宗の根本問題に触れていく。只の野鴨子のことだと思っ他ならば、大いに間違う。自己を反省し、自己を究明し、自己の一大飛躍をすすめたわけで、これが禅の「一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち)」というものである(同書p80から)。

 冒頭に取り上げたN氏は、そのブログに、

 この禅問答の解釈でよく言われるのは、野鴨が「真の自己」や「悟り」あるいは「仏性」を意味しているというものです。

と解説されていて素人目からですが言っている解釈は上記の二人の著書で言っていることと同じように見えます。

 ところが。私の読書登録をされている方も取り上げているのですが、このN氏は、

 私はこの類の解釈はつまらないので採用していません。私は、この問答は、有名なナーガールジュナ(龍樹)の『中論』の理論的核心をなす、「去るものは去らない」という理屈の禅問答バージョンだと考えると面白いと思います。

と語りその論を展開しています。その論の中に冒頭の言葉があり、私の場合は、その解釈自体を問題視したいわけではなく、

>「飛んでいる」ことにおいて実存しています。

>当の「野鴨」の実存の仕方なのです。

という文章に個人的に違和感を感じるのです。

 個人的にブログ内で「実存」という言葉に時々言及するのですがいまだによくわかりませんが鴨に実存には違和感を感じるのです。

 鴨に実存的虚無感、ニヒリズムがあるのか?

 シェリングの場合は、その著『人間的自由の本質』(岩波文庫)内で、「神の実存」という言葉を使いますが、その論からすれば当然の帰結で違和感はないのですが、鴨の実存には、折角の龍樹の「已去と未去の考察」の引用解釈もわけがわからなくなります。

 私は哲学素人ですので哲学用語事典を使用します。その中の一冊に故木田元編『哲学キーワード事典』があり、その中で「実存」は次のように解説されています。

実存〔独〕Existenz 〔英・仏〕existence
 本来は中世スコラ哲学の用語であり、本質存在(essentia)対立概念だが、19世紀のデンマークの思想家キルケゴールが人間に特有な存在様式を表現する言葉として用いてからは、実存主義の中心概念となった。
① 本質存在と現実存在
 スコラ哲学、とりわけトマス・アクィナスは「存在」の二つの意味を区別する。事物の普遍的な性質をしめす「本質存在(~である)」(esse essentiae)と、その事物が現に存在することをしめす「現実存在(~がある)」(esse existentiae)がそれである。そのさい本質存在が優位を占める。ペガサスのような架空の存在は、本質存在だけしか持たないし、すべての被造物は偶然的存在でしかなく、みずからの現存在をいつでも失う可能性があるからである。
②略
③ キルケゴールの「実存」
 シェリングの思想に感銘を受けたキルケゴールは、この現実存在優位の思想を人間存在の考察に適用した。彼は背骨が曲がるというハンディを背負って生れてきた。この現実は理性の力をもってしてもどうすることもできない。こうしてキルケゴールは、人間それぞれがいやおうなく背負わされてしまっているおのれ自身の存在を Eeistenz と呼び(このばあい「現実存在とは区別して「実存」と訳す)、この実存からすべての思索を開始することを提案する。
 キルケゴールは「主体性が真理である」と主張し、具体的、個人的な自己が自由な選択と決断によって、いかに自己をつくりだしていくかという主体的実存を強調した。彼はすべての人に妥当する普遍的真理ではなく、「この私」にとって真理であるような主体的真理を求め、その実現過程を実存の三段階(美的、倫理的、宗教的段階)において展開した。彼によれば、最終的に実現されるべき実存とは宗教的実存であり、人は理性を越えた神の存在を信じ、神のもとへとみずから飛躍することによって神の自己となることができる。
④ 20世紀の実存以下略

このような「実存」の解説がなされています。

 実存的虚無感にあるものが宗教的実存と体得する時そこに信仰が成熟する。

 私があるという存在を自覚する時、バックボーンに揺るぎなき神信仰があることになります。キルケゴールの神のもとへとみずから飛躍することによって神の自己は、13世紀のマイスター・エックハルトの「神の根柢は内に於いて自分自身よりも一層自己に近い」という言葉に重なります。

 20世紀の「実存」についてはサルトルの有名な「実存は本質に先立つ」という無神論的立場からの探究結果からのことばもありますが、「実存」はあくまでも「人間に特有な存在様式を表現する言葉」であると思うのです。

さいどN氏の

>「飛んでいる」ことにおいて実存しています。

>当の「野鴨」の実存の仕方なのです。

という言葉表現。

>実存しているとの理解の主体

>実存の仕方と理解する主体

としての「実存」ならば哲学的に理解もできないこともありませんが、そこまで読み解くことができるであろうか。

・「本質存在(~である)」(esse essentiae)

・「現実存在(~がある)」(esse existentiae)

「ある」という存在の驚きからはじまる哲学。

 龍樹の『中論』は、小乗諸派の特に説一切有部(せついっさいゆうぶ)の主張に反論する形で語られています。その部派の名からもわかるように「一切は有(あ)る」に力点を置きます。

 一方龍樹の『中論』の要は「縁起」であって、「空」の思想になります。相依という縁って有るから導き出される思想で「有るが無い」「諸法無我」ということで梵我一如とは思考視点の置き方が異なります。

 無我であるから、自体もなければ自性もない無自性、自性に非(あら)ず(非自性)で、存在を突き破る思考法で展開されます。

 哲学者の西谷啓治先生は次のように語っています。

 自体は「実体」でもなく「主体」でもない。今まで日常人々が問題にしなかったのみならず、哲学すらその存在論において考察に上さなかったような、全く別の存在概念である。しかし例えば芭蕉は、「松のことは松にならへ、竹のことは竹にならへ」と言っている。それは単に松を仔細に観察せよという程度の意味ではない。まして松を科学的に研究せよということではない全然ない。むしろ、松が松自身であり竹が竹自身であるところのそれぞれの自体的な有り方に自分自身もなって、その松を見、竹を見よということである。それらが如実に現成しているその次元へ参入する、ということを要求しているのである。或るものに「ならう」とは、それと本質的に等しい有り方に立とうと努めるということに外ならない。そういうことの可能になるのが空の場である。(以上『西谷啓治全集第十巻)p145』

「野鴨のことは野鴨にならへ」

 

に私を置くならば「実存」も意味を成すであろうが『碧巌録』第53則の「百丈野鴨子」に「野鴨の実存」特に、

>当の「野鴨」の実存の仕方なのです。

は、意味を解せない。


鴨がネギを背負うとき

2015年03月18日 | 宗教哲学

 松本平、安曇野平は連日20度近い気温で、まさに春到来を感じさせる陽気です。松本城を訪れている外国人の観光客の中にはTシャツ姿で歩く方もおられ、ニュースになっていました。

 日本の春夏秋冬は、はっきりとその姿を現わします。童謡に「春よ来い」があります。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

春を待ち焦がれるその姿がよく現れています。万葉集の額田王の歌をこの季節に話題にあげているのですが、

 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ・・・・・

万葉集巻1-16の歌、

井上靖さんは『額田女王』(新潮文庫)では、次のように表現しています。

ある宴席で春の美しさと秋の美しさを論じ合ったことがあった。そこに列っている者たちは男も女も、春山を称える者と、秋山を愛でる者との二組に分かれた。天皇は最後に額田にそのいずれに与するかと訊ねた。一座の者は固唾を飲んだ。額田の口から出る言葉がこの論争に一つの結着をつけるかの如きその場の印象であった。額田はそれを歌によって答えた。

 冬ごもりと言うと現代人は冬に身を置く、とじこもりを想起させますが、情感の「つぼみもみんな ふくらんで」という表現が最もその「こもる」に近しい情感のようで、エネルギーが内包されたプックリとふくらんだつぼみであって、漢字で書くと「蕾」草かんむりに雷様とは何とも日本語、漢字文化の感動を見ます。

 「春さり来れば」

 そこには「去り来る」とは、

I'm just going.

I'm just coming.

※参照(「行く」と「来る」

が同居している感覚を持ちますが、現代語訳では「春になると」なります。

 去ること=来ること

 万葉学者の犬養孝先生が学生時代に国文学者の武田祐吉先生から教示を受けた興味深い話をされていました(NHKのCD版『万葉集』)。

 今では差別的用語になっていますが、歩行困難な人のことを過去には「いざり」と呼んでいました。それはなぜか、ご存知の方はその様子を描くとよくわかります。コロという台車に身を置く、そして今ある場所から移動する。その移動とは、向かうことでもあり、向って来ることでもある。他者はそれを居(あ)る場所から遠のくことをも含んで「居(い)さり」といった、という話です。

 万葉時代では「さる」は「来る」を含んだ意味を有していたのは事実で、現代では一方向の「去る」のみの意味になってしまっています。

 不本意な人は「居なくなれ」「この場から立ち去ってもらいたい」などと思うことがあります。

 「いね!」

と叫ぶ時代劇を見たことがありますが、古語には、

い・ぬ【往ぬ・去ぬ】〔自ナ変〕ということばがあり、「行ってしまう。さる。また、もとの所へ帰る。」という意味で、「い」という声音にはそのような意味が含まれてもいます。

 
 春という話から少々ずれてしまいましたが、感覚的に炎のような温かさを感じます。ぬくもり、秋のたき火のようなぬくもりを感じます。

 春という自体があるか、という話になりますが、炎もそうなのですが、燃料あっての炎であってそれ自体は単独であるわけではありません。そういう場合には春にも、炎にも自性がない、非自性と言います。

 読んで字が如く、自ずからの性(さが)がありません(非)。

 春も炎も縁って有る世界、で「である」世界とはそういうもの。

 そこには春や炎が「がある」世界として展開しています。

 存在とは「である」「がある」が間(ま)において展開される世界です。

 

鴨は鴨である。

鴨がある世界を見つめると鴨の美しさに惹きつけられます。その形相はどこから来るのか。

鴨は私を見つめます。私は鴨を見つめ乍ら「なぜネギを背負っていないのか」とバカな私は考えてします。

鴨は鴨を現わしているにすぎないのですが、自然の憧憬の自由さに心揺り動かされます。