宗教学では、宗教は当事者によって「信じられている文化現象」といわれます。「信じられて」とは信仰の対象である「神」や「仏」をその対象として崇めるという理解でよいかと思います。そして「信じる」という言葉は、対象物(このように呼んでよいものかわかりませんが個人的な理解として使用)を存在するものと意識して使う場合が一般的ではないかと思います。
しかし、宗教学や神学的な理解においては、「信じる」という言葉は「信じない」という反語的な範疇で理解する場合だけではなく、そもそもこの言葉を使用することさえ不適切な場合があるようです。
2014年9月に新教出版から出版された『人生の意味と神について』という実存精神分析療法家V・E・フランクルとユダヤ教神学者ピンハス・ラピーデの信仰をめぐる対話集があります。
この中で「信じる」という言葉についてラピーデが次のような興味深い話をしています。
まず「信じる」(Glauben)は、ドイツ語では「誓う」(Geloben)あるいは「結婚を誓う」(sich angeloben)に由来し、「信じる」とは「身も魂も或るものと結婚する」ことを意味するそうです。
ラテン語では「信じる」credereでこれは「心を与える、心を献げる」から発生しているとのこと。
ギリシャ語では「信じる」(pisteuein)で、「知的に虚弱である」ということで、その意味するところは「或ることを信とみなすこと」であり、その際に頭と心が協働していることを指しているとのこと。
ヘブライ語ではそもそも「信じる」という言葉はなく、不可欠な絶対信頼、疑いのある「~ということを信じる」という言い方はなく、「(彼)に信をおく」というのが「神」との関係性を示しているとのことでした。
このようにドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の「信じる」という言葉を解説しています。ここで語られているのは、最初に言ったように「神を信じる」といった場合の「信じる」という言い方についてで、ヘブライ語以外は主語は変更可能で、それを信用するか否かの疑念を抱いた心の表現もできるように思います。
評論家の小林秀雄先生かと思いますが、“「信じる」とは足りない部分を補うことである”と語っていたのはギリシャ語が由来であることが解ります。これもなかなか面白い話で、知識不足の私は学ばなければ虚弱なままで、信頼し自己の知識として吸収することによって体つくりをしてゆくといったところでしょうか。
さて、ヘブライ語の話ですが、不可欠な絶対信頼という見方は、旧約におけるモーゼの十戒の第一は「われヤハウエは汝の神である、我のほかに他の神々を崇拝してはならない。」という言葉からもうなずけます。神と人間とはそもそも「信じる」「信じない」という言葉の使用不可能な関係性にあることがわかります。
エジプトでの長い奴隷生活から解放され希望の地に向かうその前に広がる砂漠。そこには自然の驚異が待っています。普通に考えれば不可能な話ですが、何が可能性を抱かせたか。そう考えると「信じる」「信じない」という言葉自体を持ちえない状況がおのずと現れてくるように思えます。王の僕から神の僕へと展開されるときどのような心作りが必要か。確かに不可欠な絶対信頼ということになるのが自然に思えます。
では日本語の「信じる」はどうでしょうか。「神を信じる」という言い方ができないわけではありませんが、信頼、信用というような言葉の概念よりも、日本人の無宗教性と言われる特徴からして神に対しては「信じる」という言葉使用よりも、心を寄せるか、頼りにするか、といったところで、「信じない」という場合は、神と対峙しなければよいのであって、私だけかもしれませんが、不信心と言われた所で罪悪感はさほど感じないように思います。
西田哲学では、主語と述語の関係において、述語は主語との関係性が包まれるなどと言われます。「信じる」という言葉が主語を持つ関係においてどう展開し、その時心にはどのような概念が生まれているのか。主語との関係性を表現するとき実に個が現れるように思います。他者に言葉で表現し理解してもらおうとしても不可能な話です。内心に抱く「信」の意味はこの感覚的理解において成立します。それはフランクル流に言えば精神的無意識から現れるものと言えると思います。
新約聖書の「ヘブライ人への手紙」第11章3節は、
信仰によってわたしたちは、この世界が神のことばで形造られたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです。
同6節は、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、自分を求める者に報いを与えるかたであることを信じなければならないのです。
と書かれています。この6節ですが、別の新約聖書を開くと、
信仰なくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さこととを、必ず信じるはずだからである。
さらに別の聖書を開くと、同節は、
信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
と書かれています。
3種類の新約聖書ですが、訳し方によってその意味合いが異なることに気がつきます。
この6節の最後の部分、
・信じなければならないのです。
・必ず信じるはずだからである。
・信じていなければならないからです。
ここに現れているのは「神」です。
語り部は、
神を信じなければならない。
神を必ず信ずることとなる。
神を信じていなければならない。
とわたしに語りかけてきます。キリスト教徒としてその信仰の内に身を置くということは、こういうことであるということです。徒にない私には訳者によって、使用する聖書によって、語る聖職者によって多様な解釈の内に信仰を持つことになります。
信ずるものは救われる。
とよく説かれます。
権力を持つものが生存に有利な社会が形成してくると、体制側にある者ない者では、実存の基盤が失われ生を保証する大なる証が失われ「信ずる」という言葉がまさに疑いの心とともにはっきりと意識されるようになります。新約の世界はまさにその世界に成立したもので、そのご神の存在論的論証などが現れ神の存在証明が話題に、無神論者と言明するものも現れるようになりました。
モーゼに導かれる民は、不可能性という疑念を可能性という絶対信頼を享受しす。一方その後の新約に導かれる民は、どのように歩み、歩みつつあるのでしょう。
神は死んだ。
その後の世界は、論理的な思考が可能性を希望という言葉に変え歩み続けています。