使徒信条というものがあります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
使徒信条(しとしんじょう、ラテン語: Symbolum Apostolicum, 英語: Apostles' Creed)は、キリスト教のうち、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)における基本信条のひとつ。使徒信経(しとしんきょう)とも。ラテン語原文の冒頭の語をとってクレド(Credo)とも呼ばれる。
東方教会(正教会、東方諸教会)は、使徒信条に告白されている内容は否定しないものの、使用はしてはいない。
と解説されています。大方の聖書信仰にある人々の信仰の基本ともいえるものでその最初にくる言葉は、
「我々は全能の父、天地創造なる神を信ず」
という言葉、各派の日本語訳は様々あるようですが内容的にはこのようなもののようです。
「天地創造」
この言葉の意味するところはこの世に存在する全ては神によるものということで、人間も当然作られたものであることが旧約聖書に書かれています。
内田樹先生の書かれた『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)を読んでいたところ同書第三章愛の現象学Ⅲ「引き裂かれた人間」にラヴ・ナフマンという人の次の言葉が引用されていました。
「人間の創造はまったく特別のものである。というのも主は一人の人間を造りながら、一つの被造物を造られたからである。それは二つで一つのものである。(・・・)では、人間とは何か? それは一個の存在者であるためには一人でありつつ二であるということである。実在のただ中にあって分断され、引き裂かれてあること。より端的に言えば、意識をもつこと、自由であること。」(同書p297)
この言葉から男女の愛の現象学が始まるのですが、個人的に興味をもつのがこの一文。自己の二重性という課題を考えているとだ男女の別以前に一人でありながら二人の言及にひかれます。
イメージ的な話なのですが分裂以前に二の意識の実在があり、聖書のアダムとイブの罪なる行いとされる禁断の木の実の話を重ねたくなります。
創造物なる一の存在において「罪なる意識」などはあろうはずはなく、この非対称なる事実が創造されたということ自体に内なる二重性の創造を考えることができ、ラヴ・ナフマンの論を理解させてくれます。
魚類の対は雌の集団内に雄が突然出現することで有名ですが、自然界というものは一の現象が常に二重性を帯びているように思うのです。非対称がなければ対象物は存在や現象する意味が解せない。
これも最近になって読んだ本なのですが、哲学者の岡田勝明先生が2017年4月に出版された『悲哀の底 西田哲学と共に歩む哲学』(晃洋書房・第五章「一人」に生きる)に、
「すべての働きや存在相を、純粋経験の事実という一性に基づけ、またそこから光という方向は、同時にその逆方向への展開という次元の異なる場面(反省の反省)をくぐらなければ、「即」の具体相はそれ自身として明確であっても、知的あるいは自覚には不透明で、、「私」に起こる出来事としては、先の例でいえば青空や一輪の花に隠れて、自己は自己をもたないまま(脱臼したまま)に留まってしまう。」(p179)
「知る」ということがなぜ成り立つのか、しかも根本的には非対称的なものを知るということを根拠にしてそこから成立する知を明らかにすることが、近世哲学としての西田哲学の課題であった。」(p189)
「もっとも身近であるはずの「自己」は、それ自身として身近であるゆえに、対象化して知り得るものではない。対象化されれば、それはすでに「自己」ではなくなっている。非対称的なものは、対象化して知る論理には届かない。だから非対象的なものを知る知を、西田は「自覚」に求めたのである。非対象的なものを知るには、自己が自己を知る、という仕方でしか可能ではない。(p190)
という記述がありました。私自身の今現在の興味とするところと関係する部分だけを抜き出し引用しましたが、逆方向でもあり非対称的でもあるものが内在すること自体が現象という実存を意味なすのではないかと思うのです。
創造主を信じる思想からはこの考えは現れようはなく、疑う余地はなく、ナフマンの話は面白く、日本哲学としての西田哲学は離れられないところがあります。
自己満足の内に自己の考えを組み立てているだけに違いないかもしれませんが、自分としては、このように書きとどめて置くことにしたいわけです。
学問の世界というものは面白く、自己の二重性を気にしていると、またまた急に、ドイツの社会学者ニクルス・ルーマン著『自己言及性について』(土方透、大澤善信・ちくま学芸文庫)が目にとまるのです。その第5章「個人の個性」に次の文章があります。
オートポイエティックな自己言及システムの理論だけが、主体とその倦怠のこの潜在的統一---自己に絶望する主体の理論、自己放棄(セルフ・デスペレーション)を通して成就されるダイナミズムの理論---を定式化でき、また受容可能な言い回しで定式化できるものと思われる。この瞬間には、しかしながら、われわれはこの方向ではほんのわずかな端緒も見いだしえない。われわれは踏みならされた道を歩むことはできない。しかし、われわれは、理性、意志、そして感情のあいだの由緒ある区別を用いることはもはや不可能であると予見することができる。それはオートポイエーシスと構造の区別によっておき換えられねばならない。意識、意味、言語、そしてとりわけ「内語(internal speech)に関する知識総体は再定式化されねばならないであろう。二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず、社会的アイデンティティから歴然と区別されたパーソナル・アイデンティティなども存在しない。これらの諸概念は、19世紀末の創案によるものであって、意識の初事実に十分な基礎をおいたものではない。われわれはけっしてそのような仕方で生き、みずからを経験しているのではない。さらに、これらの二元的ないし多元的パラダイムはそれ自体、複合的社会の諸事実へのゼマンイティク的反応なのである。われわれは分解した自己を再統合しようとするすべての試みを無益なものとして隅に押しやることができる。いやしくも意識が作動するものであるならば、それは一個の不可分なシステムとして作動するのであり、みずからの統一と自らの意識的出来事とを用いて、みずからの統一とその意識的出来事とを再生産するのである。(同書p109-p110)
相変わらずの長い引用ですが、この中の「二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず」は明らかにW・ジェームズへの批判でもあり、我が問いの無意味性を語っているように見えるわけです。
オートポイエーシスについては自己の言及性について語る学であることは過去ブログにも書いたことがありますが、「創造」なる次元とは全く異なる視点の展開であることが分かります。
くり返しになるのですが、このように人さまの弁を引用し、要するに自己の「心のありさま」を語ろうとしているわけです。すると補うように、過去に言及した脳科学が浮かんでくるのです。
ウォルター・J・フリーマン著『脳はいかに心を創るのか~神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志』(産業図書)から語り出される脳科学者の浅野孝雄先生の『心の発見~古代インド仏教と現代脳科学における』(産業図書)の話、これはEテレ(2017年2月5日)で「心はいかにしてうまれるのか=脳外科と仏教の共鳴」で放送されました。
これについても過去ブログに書いたことですが「心を創るのか」と創造主の「創る」という漢字が訳で使われるところがその思想の根底が見えてきます。