思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ところで あなたは・・・・・・?

2019年05月27日 | 思考探究

アンパンマンの作者やなせたかし(1919年2月6日 - 2013年10月13日)さんが25年間編集長をされていた「詩とメルヘン」の編集前記として毎月書いてきた言葉を一冊の絵本詩集にした小さな本があります。『ところで あなたは・・・・・・?』(三心堂出版社・1999.4.8)という副題でもある「心の絵本」です。

 題名は詩の最後に書かれている言葉で、やなせさんがあとがきで次のように書いています。

 この本は全部最後の言葉が「ところで あなたは・・・・・・?」という問いかけになっている。ぼくはこう思うがところであなたは・・・・・・? と質問している。だからこの本はぼくとこの本を読んだ人の答えで成り立つ。

とあります。やなせさん80歳の時のあとがき亡くなられてもう5年が過ぎているのですが永遠に会話し問い続ける。相手は当然この本を手に取って読んでみようとする心の人、知ってて読まない人、全く読む出会いがない人など、いろいろな人がいます。

 読もうとする人は、やなせさんと同一の次元に立ち、不可逆な一方向の会話ですが、確かに内なる私の心はやなせさんの語りを聞いています。文章を読むが反転して語りを聞くになり、そこに問いかけを聞き、そこに応えようとする私がいます。

 実際に対面して会話を交わし、そこで問われて応えるのとは全く異なります。しかし、何かすごく感動的に心が動かされます。

 「今日いちにち生きた」編の中のひとつです。

今日いちにち生きた

よろこびながら生きた

かなしみながら生きた

三つのうちでぼくはどれだったのだろう

それとも何もしなかった

何も感じなかったのだろうか

何もせずよろこびもせずかなしみもせずに

生きられるだろうか

それで生きているっていえるだろうか

明日も生きたい

明日も何かにめぐりあいたい

たとえ悲しみがやってきたとしても

決して眼をそらさない

きっちりとたしかめたい

ところで あなたは・・・・・・?

 この一詩に応えようとするとき、根源的時間は今で、今の刻みが明日へと続く、そこに私をどうおくか。あれやこれやのいろいろな自分が現れ精査され、どうにか一人に落ち着く、それが応じたということなのでしょうね。


人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない

2019年05月22日 | 思考探究

「人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない。もし然(しか)いう人あらば、それは実に自己自身を侮辱するものである。」この言葉は小坂国継著『西田哲学を読む』に書かれているもので、ある人の本を読んでいたらこの「自己自身」という言葉で次に進めなくなったと書かれていました。

 「自己自身」とはいったい何を言うのか。本来的自己の事だといったところで、その本来がわからない。 

以前ブログに書いた宮沢賢治の未完の物語『学者アラムハラドの見た着物』に書かれた少年の言葉「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」を思い出します。

 今朝の朝刊を読めば「中1男女殺害死刑確定」と見出しが目に入ります。49歳の被告裁判所は責任性の段階で「責任能力あり」と判断したわけで、責任能力と良心は次元が異なるのかと考えてしまいます。

 こういう人は心が壊れた人言うしかありませんし、壊れると何故に残忍なことを行うように人は創られているのかと思ってしまいます。

 精神科医の木村敏先生の著書を読んでいると、個人的な思考課題の「自己の二重性」ということに関係して大変参考になる話が多くあります。私の視点でものを言うのですが、人は何故に否定的思考を表象したりするのかという疑問です。以前話題になっていた共同体の正義論にも重なる話です。私が今否定的思考といった時点で私は肯定的な側の場にいるのですが、善悪で峻別するならば、否定は悪で、肯定は善ということになります。

 私がそのような肯定否定や善悪を語る時には、それを認識するために否定・悪側を認識する必要があり、心理学的な話になりますが私の内心に相手の悪が浮かび上がり「~である」と認証する私そのものがいなければなりません。

 白黒ならば、黒がなければ白は特定されないように、私は凡て内なる相依の私によって物思う状態が現れているのだと考えます。

 このような相依の私は、必ず一方が自覚的意識にある場合には相対する側は判断停止(エポケー)の関係にあり、同時に同じ場に相反する自己が現れることはありません。

 この「自然な態度の(自然な態度に属する)エポケー」こそ、私たちが生きる日常生活の巨大な自明性を保証して、これを「健全」に保つ「生活の知恵」ほかならないだろう。(木村敏著『関係としての自己』・みすず書房・p26)

 この言葉ですが木村敏先生は統合失調症を解説する際の自己の二重性で語った言葉です。が、私の論にも当てはまるように思います。

 健全、健康であるということは自然が日常生活の巨大な自明性を保証してくれているということ、そこに阻害する何者かの働きで変容し、不全な私を作り出すと言えるのではないかと思います。

 そもそも認識できる素養がなければ、認識できず、数学の方程式を知らなければ解が現れないのと同じです。言葉の認識も、色の識別も何事も相依を生み出す場がなければなりません。脳生理学から言えばこれが脳全体のネットワーク「大域的アトラクター」(ウォルター・フリーマン、アメリカ精神科医の言葉)が行われる脳神経の場なのだと思う。

 相依を生み出す素養、違いが判ることの基は知識ということになります。それは歴史的身体として、他者から刷り込まれる場合もあり、自らの素養として磨かれた知識もあると思います。

 

時に意に沿わぬ出来事を見聞きしたり、体験することがあります。意に沿わないという感情が内心に現れ、そのことについて発言したり対抗行動にでる場合があります。

 

「意に沿わぬ」とは類語辞典を見ると「心情的に従えない様子」「自分の意志や意図とは異なるさま」「物事の結果や出来などに不満があるさま」を言い、

 

納得いかない ・ 不服 ・ 不承 ・ 不承知 ・ 気に入らない ・ 気に食わない ・ 納得できない ・ 異論がある ・ 面白くない ・ 意に染まない ・ 気に入らん ・ つまらない ・ つまらん・意に反する・ 満足できない ・ 納得できない ・ 納得のいかない ・ 満足のいかない ・ 不出来な ・ 不十分な ・ 意に反する ・ 意に反した ・ 十分でない ・ 出来がよくない ・ 出来が良くない ・ 出来が悪い ・ 疎そかな ・ 万全とは言い難い ・ 万全とは言えない ・ 不完全な ・ 思っていたのと違う ・ 出来の悪い ・ 期待外れの ・ 意に満たない ・ 納得のいくものではない」

と、様々な表現があります。普通ならば意識しない平穏な日常に意に沿わぬ出来事が現れる、これは市井に生きる一般者にとっては特殊な事ではありません。

 国会議員の異常言動が報道されました。北方領土のビザなし交流において元島民に向かって「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と語り問い詰めたという。

現実を見るとかけ離れた未来の不可能性な理想の追求をまず現時点で挙げます。遠い未来と現実の間には当然あるべき中間過程があるはず、だから友好なのであって、「戦争で北方領土奪還」が現実を注視しない不可能性を今に引き出す発想です。

 この人も当然「良心ある人」と、その後の言動を見ると抱いているようです。ですから正当化理由を語るわけです。

 本来的自己を思う時、相依する非本来的自己がエポケーであるのだろうか。

 良心的発言をする時には、相依する非良心はエポケーしているのだろうか。

こういう私も当然良心があると思うわけでその時、同時ではありませんが非良心を思考転回して想像し描くことができます。


「意識現象は唯一の実在である」と心理主義に思う

2019年05月15日 | 思考探究

西田幾多郎著『善の研究』の第二章の見出しは「意識現象は唯一の実在である」となっています。たしかに唯一と言われてしまえば自他の意識の関係を云々できないのは道理で、個人的にも自己内における二重性の自己を語ろうとするものが西田哲学を引用するのは不可解な話になってしまいますが、学べば学ぶほどその思想の深さに感動します。

 『善の研究』は西田哲学の初期のものであり、この著が版を重ねるにあたり西田先生がその後の思想展開に関係した話を序文に書かれておられそれを見逃すわけにはいきません。

 岩波文庫の『善の研究』(藤田正勝編)を使用しますが、この『善の研究』の最終序文の「版を新たにするに当って」全文は、次のとおりです。


版を新にするに当って

 この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆(しょじ)において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この事はこの書としてこの儘(まま)として置くの外はない。

  今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然(しか)非難せられても致方(いたしかた)はない。しかしこの事を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行(じこう)の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。

 「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この事において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
                                        
 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗(うららか)に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく青もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽(ふけ)ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。

まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この事がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この事の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。
  昭和十一年十月                  著 者


全文を引用する必要はないのですが、最初に書いたように、最終序文には西田先生の『善の研究』に対するその後の思想展開を示唆する言葉が含まれていることから、今後の引用する場合を考えて全文としました。

 この序文の最初の方に「今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。」とあります。この言葉について藤田正勝先生は著『西田幾多郎』(岩波新書・p84-p85)に解説されていますが、「西田が新カント学派の哲学者たちから迫られた反省が関わっている。」と書いています。

「心理主義」とは、藤田著に書いてありますが、「経験的なもの、具体的な時間のなかで経験されるものに基づいて真理や性質やその基準を明らかにしようとする立場を指す。」という意味のようです。意識などというものは形として、物としてあるのかというと哲学者の永井均著『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』で述べられるまでもなく働きであり、現われであり、総じて現象であると実体験している感覚の内にあります。

 植物人間状態なのか、意識レベルが低い段階なのか、意識があっても生きた屍なのか、と意識という言葉を使い人間のある状態を語ることができ、意味共有できたからと言ってリアルな実在としての様相はあるとは到底言えず、「意識現象は唯一の実在である」と語るには、その後の展開からすると詳細に欠けたもののように素人目にもわかります。

 認識するとは何か、経験的、時間的に解明できるもなのか。

 「経験的な事実、あるいは意識現象といったものから、ある認識が真理であるかどうかを決することはできない、真理は個人の意識内容を超えた一般性をもつものでなければならない。」という心理主義批判に対し西田先生は、「しかしこの事を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は『自覚における直観と反省』に至って、フィヒテの事行(じこう)の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に『働くものから見るものへ』の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して『場所』の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。」と序文に書いておられるわけです。

 『善の研究』は、一つの契機であって西田哲学をそこで止めるわけにはいきませんし、個人的に『善の研究』は機縁であって、思考の機会を与えてくれるものです。

 「判断の立場から意識を定義するならば、どこまでも述語となって主語とはならないものということができる。・・・・・・判断は主語と述語との関係から成る、いやしくも判断的知識として成立する以上、その背後の広がれる述語面がなければならぬ、どこまでも主語は述語においてなければならぬ。・・・・・・」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・上田閑照編・岩波文庫p140』

 という『善の研究』後のこの言葉は、あれやこれやと物思う個人の「あれ」「これ」の述語に、一点にはとどまらない、ある意味、炎のようにゆらぎ続ける私という現象を見るわけです。

人間の「考える」という機能が何故に備わったのか。他の動物や「考える」に類似するような行動が見られる微生物も含め自己の環境の場における適応性の工夫選択にのためにあるように見えます。

 何をどうしたいのか。人間は特にその機能が多岐にわたり働きます。V・E・フランクルは、 「ニヒリズムの本質は、通常考えられているように存在を否定するところにはない。」と語り、ニヒリズムというものの三つの変種を次のように掲げています。

・身体的現実への還元がなされるなら、ニヒリズムは生理学主義の形で現われる。

・心理的現実への還元がなされる場合は心理主義の装いで現われる。

・社会学的への還元がなされる場合は社会学主義の装いで現われる。

 実存としてある時、身体的健康性、精神的健康性さらに社会の機構的な健全性を訴える声が聞こえます。

 存在における肯定的境遇、否定的境遇の感情思考は、模擬的にその境遇に身を置く主体の思考の現われで健全性に均衡したいと欲します。生理学主義であろうが心理主義であろうが、社会学主義であろうが健全性にある実存への求め誤りはないように思えます。

 「わからん」にある内が活力ある生命力のように思えます。西田哲学には常に情熱を感じ、自己の工夫を発見したい気概を感じさせてくれます。


心はいかに創られるのか

2019年05月06日 | 思考探究

使徒信条というものがあります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

 

 使徒信条(しとしんじょう、ラテン語: Symbolum Apostolicum, 英語: Apostles' Creed)は、キリスト教のうち、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)における基本信条のひとつ。使徒信経(しとしんきょう)とも。ラテン語原文の冒頭の語をとってクレド(Credo)とも呼ばれる。

 東方教会(正教会、東方諸教会)は、使徒信条に告白されている内容は否定しないものの、使用はしてはいない。

 

と解説されています。大方の聖書信仰にある人々の信仰の基本ともいえるものでその最初にくる言葉は、

 

「我々は全能の父、天地創造なる神を信ず」

 

という言葉、各派の日本語訳は様々あるようですが内容的にはこのようなもののようです。

 

 「天地創造」

 

この言葉の意味するところはこの世に存在する全ては神によるものということで、人間も当然作られたものであることが旧約聖書に書かれています。

 

 内田樹先生の書かれた『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)を読んでいたところ同書第三章愛の現象学Ⅲ「引き裂かれた人間」にラヴ・ナフマンという人の次の言葉が引用されていました。

 

 「人間の創造はまったく特別のものである。というのも主は一人の人間を造りながら、一つの被造物を造られたからである。それは二つで一つのものである。(・・・)では、人間とは何か? それは一個の存在者であるためには一人でありつつ二であるということである。実在のただ中にあって分断され、引き裂かれてあること。より端的に言えば、意識をもつこと、自由であること。」(同書p297)

 

 この言葉から男女の愛の現象学が始まるのですが、個人的に興味をもつのがこの一文。自己の二重性という課題を考えているとだ男女の別以前に一人でありながら二人の言及にひかれます。

 

 イメージ的な話なのですが分裂以前に二の意識の実在があり、聖書のアダムとイブの罪なる行いとされる禁断の木の実の話を重ねたくなります。

 

 創造物なる一の存在において「罪なる意識」などはあろうはずはなく、この非対称なる事実が創造されたということ自体に内なる二重性の創造を考えることができ、ラヴ・ナフマンの論を理解させてくれます。

 

 魚類の対は雌の集団内に雄が突然出現することで有名ですが、自然界というものは一の現象が常に二重性を帯びているように思うのです。非対称がなければ対象物は存在や現象する意味が解せない。

 

 これも最近になって読んだ本なのですが、哲学者の岡田勝明先生が2017年4月に出版された『悲哀の底 西田哲学と共に歩む哲学』(晃洋書房・第五章「一人」に生きる)に、

 

「すべての働きや存在相を、純粋経験の事実という一性に基づけ、またそこから光という方向は、同時にその逆方向への展開という次元の異なる場面(反省の反省)をくぐらなければ、「即」の具体相はそれ自身として明確であっても、知的あるいは自覚には不透明で、、「私」に起こる出来事としては、先の例でいえば青空や一輪の花に隠れて、自己は自己をもたないまま(脱臼したまま)に留まってしまう。」(p179)

 

「知る」ということがなぜ成り立つのか、しかも根本的には非対称的なものを知るということを根拠にしてそこから成立する知を明らかにすることが、近世哲学としての西田哲学の課題であった。」(p189)

 

「もっとも身近であるはずの「自己」は、それ自身として身近であるゆえに、対象化して知り得るものではない。対象化されれば、それはすでに「自己」ではなくなっている。非対称的なものは、対象化して知る論理には届かない。だから非対象的なものを知る知を、西田は「自覚」に求めたのである。非対象的なものを知るには、自己が自己を知る、という仕方でしか可能ではない。(p190)

 

という記述がありました。私自身の今現在の興味とするところと関係する部分だけを抜き出し引用しましたが、逆方向でもあり非対称的でもあるものが内在すること自体が現象という実存を意味なすのではないかと思うのです。

 

 創造主を信じる思想からはこの考えは現れようはなく、疑う余地はなく、ナフマンの話は面白く、日本哲学としての西田哲学は離れられないところがあります。

 

 自己満足の内に自己の考えを組み立てているだけに違いないかもしれませんが、自分としては、このように書きとどめて置くことにしたいわけです。

 

 学問の世界というものは面白く、自己の二重性を気にしていると、またまた急に、ドイツの社会学者ニクルス・ルーマン著『自己言及性について』(土方透、大澤善信・ちくま学芸文庫)が目にとまるのです。その第5章「個人の個性」に次の文章があります。

 

 オートポイエティックな自己言及システムの理論だけが、主体とその倦怠のこの潜在的統一---自己に絶望する主体の理論、自己放棄(セルフ・デスペレーション)を通して成就されるダイナミズムの理論---を定式化でき、また受容可能な言い回しで定式化できるものと思われる。この瞬間には、しかしながら、われわれはこの方向ではほんのわずかな端緒も見いだしえない。われわれは踏みならされた道を歩むことはできない。しかし、われわれは、理性、意志、そして感情のあいだの由緒ある区別を用いることはもはや不可能であると予見することができる。それはオートポイエーシスと構造の区別によっておき換えられねばならない。意識、意味、言語、そしてとりわけ「内語(internal speech)に関する知識総体は再定式化されねばならないであろう。二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず、社会的アイデンティティから歴然と区別されたパーソナル・アイデンティティなども存在しない。これらの諸概念は、19世紀末の創案によるものであって、意識の初事実に十分な基礎をおいたものではない。われわれはけっしてそのような仕方で生き、みずからを経験しているのではない。さらに、これらの二元的ないし多元的パラダイムはそれ自体、複合的社会の諸事実へのゼマンイティク的反応なのである。われわれは分解した自己を再統合しようとするすべての試みを無益なものとして隅に押しやることができる。いやしくも意識が作動するものであるならば、それは一個の不可分なシステムとして作動するのであり、みずからの統一と自らの意識的出来事とを用いて、みずからの統一とその意識的出来事とを再生産するのである。(同書p109-p110)

 

 相変わらずの長い引用ですが、この中の「二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず」は明らかにW・ジェームズへの批判でもあり、我が問いの無意味性を語っているように見えるわけです。

 

 オートポイエーシスについては自己の言及性について語る学であることは過去ブログにも書いたことがありますが、「創造」なる次元とは全く異なる視点の展開であることが分かります。

 くり返しになるのですが、このように人さまの弁を引用し、要するに自己の「心のありさま」を語ろうとしているわけです。すると補うように、過去に言及した脳科学が浮かんでくるのです。

 ウォルター・J・フリーマン著『脳はいかに心を創るのか~神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志』(産業図書)から語り出される脳科学者の浅野孝雄先生の『心の発見~古代インド仏教と現代脳科学における』(産業図書)の話、これはEテレ(2017年2月5日)で「心はいかにしてうまれるのか=脳外科と仏教の共鳴」で放送されました。

 これについても過去ブログに書いたことですが「心を創るのか」と創造主の「創る」という漢字が訳で使われるところがその思想の根底が見えてきます。