思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一夜賢者の再考

2004年12月26日 | 宗教
「今今と今と言う間に今はなく、今と言う間に今は過ぎ行く」

という道歌がある。正受禅師の

「一大事とは今日只今のことなり」

も思考の根底にあるものは同じである。一日、その瞬間、今というその瞬間の大切さは、人の意識が時間とともに流れ行き、留まらないものであるかを考えさせられる。

 仏教では、留まらない意識だからこそ自我というものは固定されず。個の存在は生来無自我であると説く。

 自我の無いところに、言葉を変えれば、固定された個が無いところに魂の存在はなく、輪廻転生はありえないのである。

 しかし、仏法も方便で「悪いことをすれば地獄、善を積めば天国、畜生的な人生を過ごせば動物に生まれ変わる。」などと教化してきた。

 これらの教化は、流れ行く現代に至って、SF的な現象は全て、今という瞬間においては現実ではないのに、可能性を秘めた現実と錯覚させ、人類に今という現実、瞬間のもつ重要性を見失わせてしまった。

 留まりの無い意識の中での個の正義の判断は、同じく留まりの無い意識の中での不正義という相依する概念の認識があって成立しているのであって、真理では無い。

 「人を殺しては成らない。」というのは、瞬間の真理であり「神の名においての殺人行為、聖戦による殺戮行為」は流動的な思考がもたらす産物であることが解る。

 悟りとは、瞬間の意識の拡大である。そこにおいては正義、不正義や喜怒哀楽、生老病死などは当然思考されない。

「過ぎ去れることを追うことなかれ。いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。さればただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。たれか明日死のあることを知らんや。」南伝中部経典一夜賢者偈より

アンベードカル

2004年12月11日 | 風景
 12月9日の夕刊にインドでの仏教徒の記念式典記事が掲載されていた。
 現在人口の1パーセントの信者数ということなので、約1億人の仏教信者になりつつある。
 アンベードカルの指導による不可触民のヒンズー教からの大量改宗というインド国内の情勢は、カースト制度からの脱却という民族的な恥部、古代権力者の異民族に対する支配制度からの解放の意義とともに、原始仏教への回帰である。

 彼らの聖書とも言うべきアンベードカルの著書「ブッダとそのダンマ」山際素男訳(光文社新書)は、日本の人口に匹敵する人々を導いている。
 彼は輪廻転生についてはブッダの無記の姿勢を流伝しており、「魂の輪廻転生信仰」を否定しいる。

 従って、アンベードカルの思想・仏教は、釈迦族の王子から仏陀に至る「輪廻転生からの最終解脱」の事実が仏陀の輪廻転生の肯定の証と考える他国の仏教徒からは、批判の対象となっており、またヒンズー教徒からは、その支配権を奪われつつあることから迫害や原理主義者からの攻撃を受けている。

 「ブッダとそのダンマ」の中には「転生のない再生」の話がある。
 前にも書いたが、釈尊の最終解脱、仏陀に至った時点を初転法輪の段階と考えている小生としては、この「再生」の意味に共感を覚える。


 ギリシャ人のミリンダ王は尋ねた。「ブッダは再生を信じたのか?」ナーガセーナは然りと答えた。「それは矛盾していないか?」否、とナーガセーナはいった。「魂がなくても再生があるのか?」「もちろんです」「どうしてあうるのか?」「たとえば王よ、灯火から灯火に日を移せば転生というでしょうか?」「そんなことはもちろんいわない」「霊魂のない再生とはそういうものです」「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」「記憶しているとも」「その詩句は教師から転生したものですか?」「もちろんそうではない」「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」以上「ブッダとそのダンマ」山際素男訳(光文社新書)から

 この再生の意味するところは、与謝野晶子の短歌中の「殿堂への黄金の釘一つうつ」の意味するところと同根である。

 人々の心を打つものを残したいものである。

藤川和尚

2004年12月05日 | 風景
 夕方の報道番組は、北朝鮮を訪問した僧侶の話題であった。
 タイ国に在住する日本人の僧侶で、僧侶(以下藤川和尚)に至るその人生は、なぜか小生を引き付ける。
 藤川和尚の「人生の目標・生きがい」を読ませていただくと「・・・過去を変えることはできません。変えることのできるのは、今の行動だけです。・・・」という文章があり、「一夜賢者の偈」であり「今日只今」の重要性をあらためて心に刻んだ。

 40歳を過ぎると何故か人生を見つめ直すというか何か急にやりたいことを起こさせる心が湧いてくるようだ。
 これもテレビ番組からだが、番組の中で鶴太郎氏は美術に目覚め、ネオンの製作者は、製菓業の仕事を40年以上も行っていたが、ふと訪れたネオンの製作会社でその作業を見ていたときに、何故か魅了されその道に入ってしまったと話していた。

 藤川和尚も50歳を過ぎた頃かそれまでのタイ国での会社経営から従業員の僧侶修行の話で、3ヶ月の僧侶修行が本格的なその道へと人生を変えた。
 小生は、どうか、若い頃からいろんなことに興味を持ち最近は原始仏教に入れ込み始め退職後は、10年程その修行に入ろうかなどと考えている。
 親の寿命からすると短命であるに違いないと思うので、余命20年、明日死ぬこともあろうが、できるだけ自分の知りたいことをやりたいものである。

 「我々にとって死は生の結果で『その人が如何に生きてきたか』の表れ(果)であり『生の日々は如何に死ぬかの(因)』です。」と藤川和尚は言う。

 縁起説を説く仏教では、今の結果は、生からの集大成であり、今の集大成が死の(果)に成るのである。
 人民の犠牲の上に成る世界は、そのままの果が現れる。因果は応報であるともいえる。