昨夜(18日)NHK総合で、「事件の涙 Human Crossroads・ それからの日々~一家5人殺害事件~」という番組が放送されていました。
柳田國男の『山の人生』の序文に書かれている「ある囚人の話」に似た印象を得ました。悲惨な話ではあるのですが、人間というものが持つ性(さが)が自分の意とは異なる世界を作りだしてしまう・・・リアルな現実世界がそこにありました。
自然災害の様などうしようもない災厄もありますが、人の世にもまたどうしようもない人の手による災厄があるわけで、今回は自らその災厄を惹起してしまいました。招いた災厄の結果のただ中におかれ、己の反省の中に「どうしてそうなったのか?」との問いが来てはじめて我が身の情けなさ、悲哀に打ちのめされます。
他人事で、決してわが身には起きない、と誰が宣言できるでしょうか。ある人は現代社会の社会構造が、このような問題を起す引き金になっているというかもしれませんが、歴史記録を読んだわけではありませんが、いつの世もこのような話はきっとあっただろうと、直観ですがそう思います。
日曜日にある会に参加し「死ぬための生き方」という課題に取り組みました。「生の哲学」「死の哲学」を個人的に扱う中で、「死ぬため(為)」という言葉には年齢というものがあります。
無難なく、まぁそれなりの悲哀も多々あったのですが、年齢を重ねてくると、残されているであろうという可能性の中に余命をみます。そこには「死ぬための」という主我的な、それこそ自分が主役の人生の幕の閉じ方を考えてしまいます。
参加者の多くが還暦を間近にしている私よりも、はるかに年齢が上の方で、連れ合いを亡くされ方もおられました。
この話し合いの材料として、黒澤明の『生きる』(1952年)の志村喬演ずるところの市民課の課長渡辺勘治の残された命における「すべきこと」それは、憩いの場所、子供たちの公園を作ることでした。
余命宣告されたなら、あなたは何をしますか。
母が58歳で亡くなり、父は68歳でなくなっている私は、58歳を一つの「その年齢までの余命」として考え、次は68歳と考えています。
最近ブログのも書いていることでそう考えると、「まじめでまともな」生き方でありたいと考えているのですが、「夫のために健康でいたい」とか「整理整頓」という言葉に驚きました。
あと8年などと言うわりには、切迫感がない。直ぐには死なないだろうという甘さがそこにあります。
「妻のために健康でありたい」ということを何故思わなかったのか。
残されたものが困らないように、新編整理に心がけ・・・・・知の巨人立花隆さんの書庫ではありませんが、私の8畳間は一人寝られるだけのスペースしかなく、トンデモナイ状態になっています。
その中で私は余命を父の死亡年齢68歳を想定しているのですが、残されたものは大騒ぎです。
話が「一家5人殺害事件」から離れてしまいましたが、会で講師の先生が語られた話しの中に「人類の偉大な教え」として「慈悲・隣人愛・仁」がありました。
「まじめでまともな生き方」の中に私は「人のために」という考えを持っていましたが「妻のために健康でありたい」などという発想はありませんでした。
なぜ「人のため」などと考えたのかというと、「慈悲・隣人愛・仁」は仏教、キリスト教、儒教の教えになりますが、超常現象を好み、死後の世界を信ずる人々が信奉する霊能者エドガー・ケーシーという人物がいますが、こういう人も最終的に「私たちの使命」として要約すれば「他者のために救いの手をさし出す」と「他者のために」が語られていてこの世では最終的には「他者のために」的な生き方が善かろうかと思っていたからです。
色々なことを知る中で、私の理解はその程度でよいのかと問われる事態が来ています。
小説家、文芸評論家、詩人の伊藤整(1905年1月16日 - 1969年11月15日)という生涯文壇の主流でなく、文壇から何となく阻害されていた方がおられました。『近代日本人の発想の諸形式』(岩波文庫)を書かれていて、評論5篇が掲載されています。その最後5篇が、[近代日本における「愛」の虚偽]で次のように、「慈悲・隣人愛・仁」に関係して語っています。
「キリスト教系の文化を持つ国においての人間と人間とのふれあいの道徳的な整理の仕方には、ほぼ定型的となっている共通の型がある。各民族の習慣や宗教等で違うが、我々がヨーロッパ的道徳と一括して考えているものであり、キリスト教の人間認識に基づいている。他者を自己と同様の欲求を持つものとして考え愛せ、という意味のその黄金律から来ているように思う。「人にかくせられんと思うことを人に為せ」というような言葉でそれは『バイブル』の中で表現されている。その考え方は、他人を自己と同様のものと考えるという意味で個人尊重の考え方を生み、更にそのような独立した他者に、愛という形で働きかける組み合わせ、交際、協力などを尊重する考え方を生み、市民社会というものを形成する原則の一つをなしている。それは儒教の仁という考え方と似ている。また仏教の慈悲という考え方とも似ている。そういう他者への愛や憐れみというようなものなしに社会というもの、人と人との秩序ある組み合わせというものは成立しないから、人間と人間のあいだの秩序が考えられる所にはきっと、他者への愛や他者の認識があることとなる。しかし、西洋と東洋の考え方には、かすかな違いがあり、やがてその違いがあり、やがてその違いが文化の総和において大きな違いとなっているらしい。・・・」(上記書139)
「・・・私は漠然と、西洋の考え方では、他者との組み合わせの関係が安定した時に心の平安を見出す傾向が強いこと、東洋の考え方では、他者との全き平等の結びつきについて何かためらいが残されていることを、その差異として感じている。我々日本人は特に、他者に害を及ぼさない状態をもって、心の平安を得る形と考えているようである。「仁」とか「慈悲」という考え方には、他者を自己のように愛することよりは、他者を自己と全く同じには愛し得ないが故に、憐れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己が抱く冷酷さを緩和する、という傾向が漂っている。だから私は、孔子の「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」という言葉を、他者に対する東洋人の最も賢い触れ方であるように感ずる。他者を自己のように愛することができない。我々の為し得る最善のことは、他者に対する冷酷さを抑制することである、と。」(上記書p140)
伊藤さんのこの言葉を読むなかで、「なぜあのとき、家族を殺したほうがよいと思ってしまったのか、今もわからない」と受刑者の主人公の歎きを考えてしまいます。
愛するが故に憎しみが倍増する愛憎の世界。憎しみは実母に向き、愛するが故に残されたもののことを考えると・・・という思いは、今度は、妻子孫の殺害へと向いて行ってしまった。
冷酷さがあること、伊藤さんの言われる「冷酷さ」とはこういうことではあるまいか。
他の選択肢を生じさせることはできない事態を生じさせてしまう、心境に培ってしまったものは何だったのだろうか。
身勝手な「愛」がそこにあるように思います
「一家5人殺害事件」の主人公は、最高裁判所で無期懲役が確定し、名古屋拘置所から長野刑務所に身柄を移送されています。
実母の妻への嫌がらせ。母を殺さなければという事態まで進む。そして殺害、そして残されたもののことを考え、妻、息子、娘そして孫を殺害し自分も自殺を企るが果たせなかった。
人のために一生懸命に尽くしていた人であったみんなが言います。主人公を知る人々にとっては信じられない事件。
「為を思う」
人を思う気持ちは人一倍強かった方だったようです。
「渇愛」という言葉が仏教語にありますが、「愛」という言葉は「愛憎」という言葉にも現れてきます。「愛」は執着(しゅうじゃく)の極みです。
苦悩は、渇愛から生じるのが仏教の根本の教えです。
伊藤整さんは、「多分、愛という言葉は、我々には、同情、憐れみ、遠慮、気づかい、というもの、最上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されていないのだ。そのような愛という言葉を、日本人は恋において使い、夫婦間において使い、ヒューマニズムという言葉を、道徳の最終形式のように使うとき、そこには、大きな埋められない空白が残る。この西欧の考え方は、我々を封建制度から解放し、女性を家庭の奴隷から解放した。それとともに、我々を個別な虚偽、キリスト教の救済性を持たぬ虚偽の中に導き入れたのだ。」と語っています(上記書p147-p148)。
「原罪」があるから愛で堅持しなければならない西欧、日本の様な「原悲」のある場合には如何せん。
「死ぬための生き方」という問い。
ある年齢における考え方ですが、「間もなく」「目前」を意識した時に「為の生き方」が出てきます。
大上段に構えた「人の為に」「他者の為に」ではない、本当の「為に」の生き方。
至極簡単なことが現れた気がします。
「妻のために健康であること」「整理整頓」
感動したわけはそこにあるように思います。