[思考] ブログ村キーワード
この歳になる勉強する機会がほとんどありません。勉強と言っても仕事に関することではなく、自分の欲するところの生き方における意識のあり方、思考のあり方、その態度を如何様に持ち続けるか、に係わるものです。ジャンルは問いませんが時々にその分野は変わります。
毎年何かしら放たれる矢のように眼の前を過ぎる課題。おのずからな事象とともにみずからの事象で織りなされて行きます。
学びの場はテレビ人間ですのでその影響がかなりあります。2013年8月20日放送のNHK「哲子の部屋」、この番組は過去にも放送されていましたが、今回の「変態仮面から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想」は、勝手に「実存の第三の時代」と思っている私にまた新しき思考の世界を開かさせてくれました。「した」という過去形ではなく、哲学というものは「生死」を離れたものであってはならないではないかという課題を与えられたように思います。
今日のブログは、冒頭部分についての感慨はすでに掲出しましたので、残された部分を文立てしながら書き残したいと思います。
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哲学とはものの見方や考え方を一変させてくれる様な概念(logos)を与えてくれる学問。
そして「今日のロゴス」として紹介されたのが「人はみな“変態”である」と言うところの「変態」という意味についてです。
「あなたは変態ですか?」という問いに対して「私はノーマルだと思っています。」と答える。この場合はアブノーマルという意味での「異常」ということではなく、普通の、一般的な、正常なという意味での「ノーマル」という言葉で使っていると、聞く側(私)は解釈します。
この言葉はインパクトが強い言葉です。
哲学者の千葉雅也(34歳)は「実は私も変態であると、私も清水さんもマキタさんも間違いなく変態・・・・みんなメチャメチャ変態です。」
ここで変態という日本語が説明されます。以前ブログにも書いた辞書的な意味での変態の意味です。
へんたい【変態】(名)
1 動物が幼生(幼虫)から成体に移る過程で形態を変えること。また、その過程。さなぎが蝶に、オタマジャクシが蛙になるなど。
2 性的倒錯があって、性衝動が普通とは異なる形で現れるもの。変態性欲。また、その傾向にある人。
と「ヘンタイ」には、日本語の場合は二種類の意味がある。変身する形が変わるという意味でのヘンタイ(metamorphose・メタモルフォーゼ)と性的異常者を指すヘンタイ(abunormal)です。
アイデンティティを考える上でこの変態という言葉は使えるのではないか。そして紹介されるのがこのアイデンティティの問題にズバッと答えたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)で20世紀最大の哲学者。身体哲学でメルロポンティなどに興味を持っているので、ドゥルーズは知ってはいましたが、その語るということになると、素人の恥ずかしさで分りません。ツリーとかリゾーム、スキゾ、パラノイアそんな言葉があったがアイデンティティーまでは注目していませんでした。
ドゥルーズの唱えるアイデンティティの問題の答えとは?
「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」
番組最後にもくり返されますが、この言葉ある意味「現在という定点をもたない」という矛盾な世界とは別思考、矛盾にも思考のプロセスで意味が微妙に異なります。相依的な関係もある意味もそれに含まれるように思います。「愛するが故に憎しみが増す」 実際に現実問題としてあります。DV関係は、最たる現象でしょう。
横道にそれてしまいました。
上記の「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」ですが、どういうことなのかというと、「本当の自分とか一個のアイデンティティというものは無い!」「そんなものは根本から無い!」ということで、「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティの問題の答え、と説明されました。
ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」変わり続けているんだと強く言った人で、例えば毎日服を着替える、「着替える」ということは変態することであり、外見だけの問題ではないかとの突込みもありうると思うけれども、人格を着替えるみたいなことはあるのではないか、キャラクターを着替える・・・そういう(意味での)変態と言えるというのです。
そしてある例として紹介された曲が、
家(うち)のなかでは トドみたいでさ
ゴロゴロしてて あくびして(中略)
だけどよ
昼間のパパはちょっと違う(中略)
働くパパは男だぜ
という作詞糸井重里さん・作曲忌野清志郎さんの「パパの家」です。
家と職場で切り替わるパパの姿。
女優の清水富美加さんは、本来自分は人見知りでルームシェアする人々とはあいさつも交さななく、なるべく合わないようにし、部屋に閉じこもって全然話さない自分と今現在番組の現場での積極的に話す自分とのキャラクターの違いを「パパの家」のパパに自分の姿を当てはめていました。
マキタさんはそう語る清水さんのことを「相当な変態」で、18歳にしては根本的なことを考えたり・・・いろんな顔を持つ人だと評価して、いろんな顔を持つ=「変態」だと言っていました。
ここまで来ると、当初の性的倒錯的意味での変態という言葉の概念が覆され、衣服を着替える、性格が変わる、色々な顔を持つ・・・このような人の外面・内面の変化も変態の内に含まれることになります。最近書いた動物の変態の中の砂漠のバッタの変態話と重なります。
(変態前のバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)
(変態後のバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)
(変態後の集団化して狂暴になったバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)
千葉先生は変態(metamorphose)という言葉の解釈からドゥルーズの思想を説明します。
「ときどき状況次第で別のモノにハマった状態からまた別のモノにハマり直すということ。」「その都度、仮の自分の姿にハマっている、また別の仮の姿に直す」というスイッチィングみたいなことを毎日すごくカチャカチャやっているのではないか・・・と思うわけで、唯一の本当の自分というものはそもそも存在しない。「わたし」などということを言わなくてもいいんだと・・・ドゥルーズの言っているはこのようなことだと。
私見ですが、動物のネコとイヌの違い。分類における差異なのか。
海にすむクジラは動物で魚ではない。解剖学的器官の特徴から分類。「類」と「種差」による全生物を体系的に分類する時のカテゴリーの認知、概念の理解と、そんなことが過り言語学が気に掛かるが的外れなことだろう。
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一連の流れで「変態」という言葉の二つの意味がわかり、人のキャラクターの変化も変態の内に含まれることがわかりました。訳語というものは厄介です。初めに「metamorphose」という単語を「変態」と訳した人がいたわけで、生物学における種差なのでしょうが、どうしてこの漢字にしたのでしょう。
上記の「へんたい」の辞書記述にある性的倒錯者、性的異常者は色情という言葉が使われることがあります。古くは色摩という言葉がありそこから変化してきたのだろうと思います。したがって番組で紹介された映画をブログ内で色情変態という書いたのはそのようなことを知っていたからです。
古くて済みませんがこの変態仮面が、仮面ライダーやスーパーマン、本来的な昆虫の変態とも重なるスパイダーマンだったならば、色丞君と戸渡先生との対決、会話も相当な哲学なのだと思うのですが・・・・。前もって言っておきますが、「教育的だとすら言える」と言う千葉先生のことばに、色情部分を抜いて同意しています。
<映画場面から>
謎めいたシーン
貴様らのような悪党を打ち砕くために参上した変態仮面だ!
<変態すると超人的なパワーを発揮する正義のヒーロー・・・変態仮面!>
<そこにアイデンティティーをめぐる哲学的問題が秘められていたのです>
主人公の変態仮面は平凡な高校生。転校生の美少女に一目ぼれ。主人公は普段の自分と正義のヒーローでありながら見た目が変態である自分とのはざまでもがき、苦しむ。
【主人公】 確かに変態仮面は俺だが、俺自身はヘンタイじゃないんだ。
<本当の自分は何なのか? アイデンティティの悩みを抱えるのです>
【主人公】 俺はヘンタイじゃない。
<その後主人公は並みいる敵と戦いを通して、見た目はヘンタイである自分を肯定できるようになります>
【主人公】 覚えておけ21世紀の現代、ヘンタイこそ”正義 ”であることを!
<そこに最強の敵戸渡先生が現れる>
【戸渡先生】 ありがとう。
<彼はニセ変態仮面となり町中で悪事をはたらく>
【主人公】 私の名前を語るニセ者め! 今日こそ成敗してくれるわ!
<変態仮面同士の頂上決戦 ここが“不可解”な対決シーン>
【戸渡先生】 お前のヘンタイなど ヘンタイではな~い!
【主人公】 やめろ。俺は「変態」仮面だ!
<POINTO ヘンタイ度で勝る戸渡先生に変態というアイデンティティーを否定されてしまいます>
【主人公】 勝てない。このヘンタイには・・・勝てない・・・。
【戸渡先生】 お前ごときにヘンタイを名乗る資格は無い。
【主人公】 俺は・・・ノーマルなのか・・・。
<POINTO 変態仮面は、どちらがより「ヘンタイ」かを比べる闘いに引き込まれ自信を失い敗北してしまう>
【主人公】 俺は・・・ノーマルなのか・・・。
映画のポイントについて千葉先生は、
変態仮面は「負けた」と思い込んでいる。
ところであるとします。
「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところは主人公は言ってみれば“中途半端”だった。映画だから極端に描いているが僕らの中にも、より究極的な本当の姿のようなものを求めている戸渡先生的な「もの」が実は居るのではないか?」
「正義に主人公がなぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて負けてしまった。」
「自分は何ものだかわからないということを突き詰めると自己否定に陥るわけです。」
「これは戸渡先生と表裏一体なこと。どっちも結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティ問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう。」
「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか? これがいよいよ哲学的な問題になってきたわけです。
再度映画のシーン
<再び敵が襲い掛かる。変身を試みる主人公。しかし・・・>
【主人公】 俺は変身することすら出来なくなっちまったぁ・・・。
<追い込まれた主人公は、ある考えに至ります>
【主人公】 違う。ノーマルじゃ助けられないなんて誰が決めたんだ。
<POINTO 変身しないままに戦いに臨む>
<ここで“中途半端”を認め再び主人公は変身を遂げます>
【主人公】 俺はある重要なことに気づいた。
【戸渡先生】 なぁ~だ。
【主人公】 ヘンタイであればあるほど強いなどと言う法則は、どこにも存在せん!
【戸渡先生】 気づいてしまったかその事実に・・・。
【主人公】 だから俺は自身を持って戦う。確かにお前ほどのヘンタイではないが!
<POINTO ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻すのです>
「ヘンタイの違いから逃れた、自由になったということではないか。」牧田さんの理解に
「比べてより上、より上と追及するするのではなく、“仮”の状態のこの自分でいということ。」
「自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ。」
これを良しとする、そうしなければ本当の自分探しをしても限がない。
「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる。ハンパな仮の自分でよいということ。
ここで語られる「中途半端」という言葉に私自身がこだわりを持ちましたが、女優の清水さんも同じ思いをしたらしく「たぶん自分の頭の中に持っている概念が邪魔をしているのではないか」と語り最近清水さん自身が「自分てどんな人ですか?」と他人に聞くようになり「明るい人よね」と言われことが多くなり「自分は明るい人なんだ。」という意識を持ち「自分は明るい人になるように努めなくては」という知が出てきて辛くなってきたことを話されていました。
さすが哲学する女優さんです。
「明るいというアイデンティティを究めたいと思っていたならば競争から降りれない。」
このような感慨に至る。私にはこの女優さんの思考過程にすごく感激します。
千葉先生、「途中でやめたり、この程度でいいやと思う方が難しいということがあるんです。ドゥルーズという哲学者は、大きくいうと同一性ではなくて違い“差異”が大事だと考えた人、言い換えればアイデンティティーよりも“違い”とか“多様性”が大事だと。揺るぎない自分よりも、さまざまに変態していって自分をリミックスするということだってできるわけです。それが変態するということですし・・・。」と話す。
「そもそもアイデンティティーにこだわるのか?」
「大まかに考えると近代の現象。18世紀、19世紀ぐらいにかけた現象で、昔は八百屋の子どもは八百屋であったものが、それがどんどん崩壊して自由になったと言えば聞こえがいいのですが、何をしたらよいのか分からなくなった、みたいな・・・。いま私たちが生きている現代というものもそのような状況が出てきたの延長上にある。アイデンティティー追究みたいなことに強いられているわけです。」
番組も最後になります女優さんが「確かに、自分らしさって何んなの、とか。一杯選択肢がありじゃないですか。わぁ~と悩んでいたときにもう自分が今ここが江戸時代でどこかに世継ぎに行くしかないというような、限られた運命だったら自分も悩まずに決められるのに、と思ったことがあります。」と語り、千葉先生は、
「本当の自分」「アイデンティティ」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、
「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」
が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」から呪縛から逃れ(解放)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う。」と最後を締めくくりました。
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ニヒリズムの完全な裏返し、生きる意味を見失った実存的空虚感を抱いている人の思考を反転するというよりも、定点をもたない俯瞰的な流れに引き込む、そのような思想を感じます。
生き死にの課題はここからどのように導くことができるのか。
そんな問題よりも「自由」という問題が現代を生きる人間にとって重要なのだ。「自由な欲望の空間へ」へ身を置くことが最優先される。
著書『アンチ・オイディプス』でなぜ「アンチ」なのか。「人間の欲望あるいは無意識の運動に対して、それを枠にはめることだから」で「人間いかに生きるか」がいかにドゥルーズの問いではないことが分ります。
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