思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

変態(メタモルフセス・Metamorphoses)と環境

2013年08月31日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今日は8月17日(土)に放送された、最近引用しているNHK番組・地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」からあまり言及していないカエルの変態について思うところを書きたいと思います。

 番組後半で、「人間はおそれを抱きつつも自分の意志で変化を求めます。一方自然界における変態はまるで時計仕掛けのように正確で何もかもが自然に設定されているかのように思われます。ところが自ら変態の時期を決めると言われる生物がいます。」

ということで紹介されるのがオタマジャクシから蛙に変身する変態について研究している行動生態学者のパトリック・ウォルシュ博士が語ってくれる研究成果です。


(NHK地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」から)

 オタマジャクシは身近な生き物で、捕まえてみると同じ池や田んぼの中でも、足が出ているもの、全く出ていないもの、二本出ているもの、尻尾が既にないものなどと、同じ場所、同じ時期でも、おなじ蛙の幼生(オタマジャクシ)でありながらまちまちの姿をしています。


(NHK地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」から)


(NHK地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」から)


(NHK地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」から)


(NHK地球ドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」から)

 変態の進み方の差は、生まれた時期が異なるからではなく、オタマジャクシになっている期間が個体によって差があるからで、オタマジャクシは今いる水中の環境が暮らしやすいかどうかによって変態する時期を自分で決め、また変態後におけるリスクを計算し、生き残る確率を高めようとしているのだそうです。

 その差はかなりのもので早いものは6月の下旬ぐらいから変態をはじめ、ところが同じ池で一冬まるまるオタマジャクシで過ごし翌年の春に変態したもののいくつか観察しているということです。

  オタマジャクシは主に植物を食べますが、蛙は肉食。新しい食事に適応できるように蝶が変化して行く。水中で呼吸のために使われるエラは、蛙には必要ないので消えて行く。

 頭蓋骨は軟骨から骨に変わり、背骨も形成されて行く。驚くほどの複雑な変化。さらにオタマジャクシは変態の時期と速度を選ぶことができるとも考えられている。

 このように説明されると確かに気がつきませんでした、全く別の生き物のように思えます。草食人間、肉食人間では性格が異なりますが、蛙の世界では姿までが一変します。

 オタマジャクシの生息する環境が大きな問題であるようです。

 池のどの部分で過ごしているかが影響してきます。温かな陽射しを受ける水面近くで過ごすオタマジャクシは変態が早まりやすく、反対に池の底の冷たい水では遅くなるのだそうです。博士は次のように語っています。

【ウォルシュ】 同じ池でも場所によって、日光の量、えさの量、敵に捕まる危険性は異なります。どこに棲息するかは、オタマジャクシで過ごす期間に大きく影響します。

<早く変態すると小さな蛙になる。遅く変態すると大きな蛙になり襲われるリスクは減ります。しかし池の中にとどまり続けたとしても安全である保証はありません。>

と言うことです。
 
 ウォルシュ博士は、オタマジャクシは周囲の状況に合わせて変態する時期を決断すると考えています。さらに、

【ウォルシュ】 オタマジャクシがケガをしたり、食べられたりすると科学信号を発し、仲間は信号に反応して決断を下すのではないかと考えています。

<仲間が発した警告を受けて変態の時期を早めるということ?>

【ウォルシュ】 オタマジャクシは危険を察知し、発育の速度を速めると考えています。ここにとどまっているよりも蛙になって陸で暮らす方が安全だとね。

 さらに、オタマジャクシが察知するのは、仲間の信号だけではないようです。

【ウォルシュ】 水かさの変化を判断できるのです。池の水が干上がるかどうかは変態する時期に大きく及ぼしますからね。水かさが急激に減ってくるとオタマジャクシは発育のスピードを上げます。・・・・そして変態します。蛙になる前に水がなくなったら、生きていけませんから。

「逆の状況ではどうなるのか?」「水もエサも豊富にあればオタマジャクシのままで止まるのか?」という質問に対しては、

【ウォルシュ】 そうです。エサをたっぷり食べればより大きく成長し、より大きな蛙になります。生存競争ではその方が有利ですから。

 番組では、渡辺徹さのナレーションで、

<蛙になる時期をオタマジャクシが決断しているということは、限定的とはいえ生き物に生き方の選択を委ねられているということです。自分の意志で変化する人間に通じるところがあると言えます。>

と結論づけていました。

 環境と変態、そこに生存という種の存亡があります。

 「自分の意志で変化する人間に通じる」と言いますが、蛙には意志はなくこの「生の躍動」は遺伝子に組み込まれたもの、そのように進化してきたものなのでしょうが、そう考えると「意志」は「生の躍動」とも考えられます。

 ベルクソンは、宇宙全体の進化を駆動する根源力を「生の躍動・エラン・ヴィタール」と呼び、原初的な躍動、飛躍、飛翔であるといいますが、個人的に上記のカエルの変態を考えると、何かしらの押されるような推進力を感じます。

 生き方の選択。『創造的進化』、くり返される変態、そこには間違いなく食性も形態も、環境も異なる差異があります。「差異は反復からこそ生まれる」とはドゥルーズの言葉。

 人間には意志があり、選択の自由が生まれる。変態するか、しないかは自由意志に委ねられます。

 その際環境はどのような役割をなすのか?

 「人間や生物の認知活動が、環境との相互作用的プロセスにであることを前提にして、環境そのものが認知の主体にたいして、主体の行動の可能性を把握するための情報を提供する」

 「アフォーダンス」という言葉で表されるもので「環境そのものが生命にたいして、どのように活動可能であるかを示唆するような、環境を持つ特性をいう。」アメリカの心理学者で哲学者のギブソンの考え方です。

 蛙の変態における環境のもつ意味、鉄鉱石の発見は既にそこに鉄文化の情報が示され、原油の発見は、今日の化石燃料の依存過多の情報を示している。核物質の発見は生命にたいしてどのような活動可能性の情報を提示しているのか。

 オタマジャクシから帰るの変身する変態・メタモルフセス(Metamorphoses)を見ていると実に自然界の不思議に感動します。

※この地球ドラマチックでは変態はギリシャ語のメタモルフセスで紹介していました。

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「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。

2013年08月29日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 この歳になる勉強する機会がほとんどありません。勉強と言っても仕事に関することではなく、自分の欲するところの生き方における意識のあり方、思考のあり方、その態度を如何様に持ち続けるか、に係わるものです。ジャンルは問いませんが時々にその分野は変わります。

 毎年何かしら放たれる矢のように眼の前を過ぎる課題。おのずからな事象とともにみずからの事象で織りなされて行きます。

 学びの場はテレビ人間ですのでその影響がかなりあります。2013年8月20日放送のNHK「哲子の部屋」、この番組は過去にも放送されていましたが、今回の「変態仮面から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想」は、勝手に「実存の第三の時代」と思っている私にまた新しき思考の世界を開かさせてくれました。「した」という過去形ではなく、哲学というものは「生死」を離れたものであってはならないではないかという課題を与えられたように思います。

 今日のブログは、冒頭部分についての感慨はすでに掲出しましたので、残された部分を文立てしながら書き残したいと思います。

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 哲学とはものの見方や考え方を一変させてくれる様な概念(logos)を与えてくれる学問。

 そして「今日のロゴス」として紹介されたのが「人はみな“変態”である」と言うところの「変態」という意味についてです。

 「あなたは変態ですか?」という問いに対して「私はノーマルだと思っています。」と答える。この場合はアブノーマルという意味での「異常」ということではなく、普通の、一般的な、正常なという意味での「ノーマル」という言葉で使っていると、聞く側(私)は解釈します。

 この言葉はインパクトが強い言葉です。

 哲学者の千葉雅也(34歳)は「実は私も変態であると、私も清水さんもマキタさんも間違いなく変態・・・・みんなメチャメチャ変態です。」

 ここで変態という日本語が説明されます。以前ブログにも書いた辞書的な意味での変態の意味です。

へんたい【変態】(名)
1 動物が幼生(幼虫)から成体に移る過程で形態を変えること。また、その過程。さなぎが蝶に、オタマジャクシが蛙になるなど。

2 性的倒錯があって、性衝動が普通とは異なる形で現れるもの。変態性欲。また、その傾向にある人。

と「ヘンタイ」には、日本語の場合は二種類の意味がある。変身する形が変わるという意味でのヘンタイ(metamorphose・メタモルフォーゼ)と性的異常者を指すヘンタイ(abunormal)です。

 アイデンティティを考える上でこの変態という言葉は使えるのではないか。そして紹介されるのがこのアイデンティティの問題にズバッと答えたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(1925-1995)で20世紀最大の哲学者。身体哲学でメルロポンティなどに興味を持っているので、ドゥルーズは知ってはいましたが、その語るということになると、素人の恥ずかしさで分りません。ツリーとかリゾーム、スキゾ、パラノイアそんな言葉があったがアイデンティティーまでは注目していませんでした。

 ドゥルーズの唱えるアイデンティティの問題の答えとは?

 「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」

 番組最後にもくり返されますが、この言葉ある意味「現在という定点をもたない」という矛盾な世界とは別思考、矛盾にも思考のプロセスで意味が微妙に異なります。相依的な関係もある意味もそれに含まれるように思います。「愛するが故に憎しみが増す」 実際に現実問題としてあります。DV関係は、最たる現象でしょう。

 横道にそれてしまいました。

 上記の「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」ですが、どういうことなのかというと、「本当の自分とか一個のアイデンティティというものは無い!」「そんなものは根本から無い!」ということで、「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティの問題の答え、と説明されました。

 ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」変わり続けているんだと強く言った人で、例えば毎日服を着替える、「着替える」ということは変態することであり、外見だけの問題ではないかとの突込みもありうると思うけれども、人格を着替えるみたいなことはあるのではないか、キャラクターを着替える・・・そういう(意味での)変態と言えるというのです。

そしてある例として紹介された曲が、

家(うち)のなかでは トドみたいでさ
ゴロゴロしてて あくびして(中略)

だけどよ

昼間のパパはちょっと違う(中略)
働くパパは男だぜ

という作詞糸井重里さん・作曲忌野清志郎さんの「パパの家」です。

 家と職場で切り替わるパパの姿。

 女優の清水富美加さんは、本来自分は人見知りでルームシェアする人々とはあいさつも交さななく、なるべく合わないようにし、部屋に閉じこもって全然話さない自分と今現在番組の現場での積極的に話す自分とのキャラクターの違いを「パパの家」のパパに自分の姿を当てはめていました。

 マキタさんはそう語る清水さんのことを「相当な変態」で、18歳にしては根本的なことを考えたり・・・いろんな顔を持つ人だと評価して、いろんな顔を持つ=「変態」だと言っていました。

 ここまで来ると、当初の性的倒錯的意味での変態という言葉の概念が覆され、衣服を着替える、性格が変わる、色々な顔を持つ・・・このような人の外面・内面の変化も変態の内に含まれることになります。最近書いた動物の変態の中の砂漠のバッタの変態話と重なります。


(変態前のバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)


(変態後のバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)


(変態後の集団化して狂暴になったバッタ NHKドラマチック「生きものはなぜ姿を変えるのか~変態の不思議~」から)

 千葉先生は変態(metamorphose)という言葉の解釈からドゥルーズの思想を説明します。

 「ときどき状況次第で別のモノにハマった状態からまた別のモノにハマり直すということ。」「その都度、仮の自分の姿にハマっている、また別の仮の姿に直す」というスイッチィングみたいなことを毎日すごくカチャカチャやっているのではないか・・・と思うわけで、唯一の本当の自分というものはそもそも存在しない。「わたし」などということを言わなくてもいいんだと・・・ドゥルーズの言っているはこのようなことだと。

 私見ですが、動物のネコとイヌの違い。分類における差異なのか。

 海にすむクジラは動物で魚ではない。解剖学的器官の特徴から分類。「類」と「種差」による全生物を体系的に分類する時のカテゴリーの認知、概念の理解と、そんなことが過り言語学が気に掛かるが的外れなことだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 一連の流れで「変態」という言葉の二つの意味がわかり、人のキャラクターの変化も変態の内に含まれることがわかりました。訳語というものは厄介です。初めに「metamorphose」という単語を「変態」と訳した人がいたわけで、生物学における種差なのでしょうが、どうしてこの漢字にしたのでしょう。

 上記の「へんたい」の辞書記述にある性的倒錯者、性的異常者は色情という言葉が使われることがあります。古くは色摩という言葉がありそこから変化してきたのだろうと思います。したがって番組で紹介された映画をブログ内で色情変態という書いたのはそのようなことを知っていたからです。

 古くて済みませんがこの変態仮面が、仮面ライダーやスーパーマン、本来的な昆虫の変態とも重なるスパイダーマンだったならば、色丞君と戸渡先生との対決、会話も相当な哲学なのだと思うのですが・・・・。前もって言っておきますが、「教育的だとすら言える」と言う千葉先生のことばに、色情部分を抜いて同意しています。

<映画場面から>

謎めいたシーン

貴様らのような悪党を打ち砕くために参上した変態仮面だ!

<変態すると超人的なパワーを発揮する正義のヒーロー・・・変態仮面!>

<そこにアイデンティティーをめぐる哲学的問題が秘められていたのです>

 主人公の変態仮面は平凡な高校生。転校生の美少女に一目ぼれ。主人公は普段の自分と正義のヒーローでありながら見た目が変態である自分とのはざまでもがき、苦しむ。

【主人公】 確かに変態仮面は俺だが、俺自身はヘンタイじゃないんだ。

<本当の自分は何なのか? アイデンティティの悩みを抱えるのです>

【主人公】 俺はヘンタイじゃない。

<その後主人公は並みいる敵と戦いを通して、見た目はヘンタイである自分を肯定できるようになります>

【主人公】 覚えておけ21世紀の現代、ヘンタイこそ”正義 ”であることを!

<そこに最強の敵戸渡先生が現れる>

【戸渡先生】 ありがとう。

<彼はニセ変態仮面となり町中で悪事をはたらく>

【主人公】 私の名前を語るニセ者め! 今日こそ成敗してくれるわ!

<変態仮面同士の頂上決戦 ここが“不可解”な対決シーン>

【戸渡先生】 お前のヘンタイなど ヘンタイではな~い!

【主人公】 やめろ。俺は「変態」仮面だ!

<POINTO ヘンタイ度で勝る戸渡先生に変態というアイデンティティーを否定されてしまいます>

【主人公】 勝てない。このヘンタイには・・・勝てない・・・。

【戸渡先生】 お前ごときにヘンタイを名乗る資格は無い。

【主人公】 俺は・・・ノーマルなのか・・・。

<POINTO 変態仮面は、どちらがより「ヘンタイ」かを比べる闘いに引き込まれ自信を失い敗北してしまう> 

【主人公】 俺は・・・ノーマルなのか・・・。

映画のポイントについて千葉先生は、

変態仮面は「負けた」と思い込んでいる。

ところであるとします。

 「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところは主人公は言ってみれば“中途半端”だった。映画だから極端に描いているが僕らの中にも、より究極的な本当の姿のようなものを求めている戸渡先生的な「もの」が実は居るのではないか?」

「正義に主人公がなぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて負けてしまった。」

「自分は何ものだかわからないということを突き詰めると自己否定に陥るわけです。」

「これは戸渡先生と表裏一体なこと。どっちも結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティ問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう。」

「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか? これがいよいよ哲学的な問題になってきたわけです。

再度映画のシーン

<再び敵が襲い掛かる。変身を試みる主人公。しかし・・・>

【主人公】 俺は変身することすら出来なくなっちまったぁ・・・。

<追い込まれた主人公は、ある考えに至ります>

【主人公】 違う。ノーマルじゃ助けられないなんて誰が決めたんだ。

<POINTO 変身しないままに戦いに臨む>

<ここで“中途半端”を認め再び主人公は変身を遂げます>

【主人公】 俺はある重要なことに気づいた。

【戸渡先生】 なぁ~だ。

【主人公】 ヘンタイであればあるほど強いなどと言う法則は、どこにも存在せん!

【戸渡先生】 気づいてしまったかその事実に・・・。

【主人公】 だから俺は自身を持って戦う。確かにお前ほどのヘンタイではないが!

<POINTO ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻すのです>

「ヘンタイの違いから逃れた、自由になったということではないか。」牧田さんの理解に

「比べてより上、より上と追及するするのではなく、“仮”の状態のこの自分でいということ。」

「自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ。」

これを良しとする、そうしなければ本当の自分探しをしても限がない。

「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる。ハンパな仮の自分でよいということ。

 ここで語られる「中途半端」という言葉に私自身がこだわりを持ちましたが、女優の清水さんも同じ思いをしたらしく「たぶん自分の頭の中に持っている概念が邪魔をしているのではないか」と語り最近清水さん自身が「自分てどんな人ですか?」と他人に聞くようになり「明るい人よね」と言われことが多くなり「自分は明るい人なんだ。」という意識を持ち「自分は明るい人になるように努めなくては」という知が出てきて辛くなってきたことを話されていました。

 さすが哲学する女優さんです。

「明るいというアイデンティティを究めたいと思っていたならば競争から降りれない。」

 このような感慨に至る。私にはこの女優さんの思考過程にすごく感激します。

 千葉先生、「途中でやめたり、この程度でいいやと思う方が難しいということがあるんです。ドゥルーズという哲学者は、大きくいうと同一性ではなくて違い“差異”が大事だと考えた人、言い換えればアイデンティティーよりも“違い”とか“多様性”が大事だと。揺るぎない自分よりも、さまざまに変態していって自分をリミックスするということだってできるわけです。それが変態するということですし・・・。」と話す。

「そもそもアイデンティティーにこだわるのか?」

 「大まかに考えると近代の現象。18世紀、19世紀ぐらいにかけた現象で、昔は八百屋の子どもは八百屋であったものが、それがどんどん崩壊して自由になったと言えば聞こえがいいのですが、何をしたらよいのか分からなくなった、みたいな・・・。いま私たちが生きている現代というものもそのような状況が出てきたの延長上にある。アイデンティティー追究みたいなことに強いられているわけです。」

 番組も最後になります女優さんが「確かに、自分らしさって何んなの、とか。一杯選択肢がありじゃないですか。わぁ~と悩んでいたときにもう自分が今ここが江戸時代でどこかに世継ぎに行くしかないというような、限られた運命だったら自分も悩まずに決められるのに、と思ったことがあります。」と語り、千葉先生は、

「本当の自分」「アイデンティティ」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、

「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ。」

が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」から呪縛から逃れ(解放)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う。」と最後を締めくくりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ニヒリズムの完全な裏返し、生きる意味を見失った実存的空虚感を抱いている人の思考を反転するというよりも、定点をもたない俯瞰的な流れに引き込む、そのような思想を感じます。

 生き死にの課題はここからどのように導くことができるのか。

 そんな問題よりも「自由」という問題が現代を生きる人間にとって重要なのだ。「自由な欲望の空間へ」へ身を置くことが最優先される。

 著書『アンチ・オイディプス』でなぜ「アンチ」なのか。「人間の欲望あるいは無意識の運動に対して、それを枠にはめることだから」で「人間いかに生きるか」がいかにドゥルーズの問いではないことが分ります。

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なりきる心

2013年08月28日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 NHKの最近の「哲子の部屋」にこだわっています。と

「哲学」は、モノの見方や考え方を一変させる。

という言葉から始まる。

 マキタスポーツ(芸人・43歳)、清水富美加(女優・18歳)千葉雅也(哲学者・34歳)立命館大学准教授で、専門はフランス現代哲学、テロップには「ギャル男ファッションの表象文化論的研究を行う」と書かれて、この三氏のキャラクターは、笑い界屈指の論客、哲学する女優、そして知のアウトローと添えられていました。

 哲学・娯楽・反常識の異質の三分野を混成した娯楽でありながら、「娯楽と関係ない分野の教育として機能するようなエンターテインメントの形式の番組」という意味でか、ハイブリット・エデュテインメント(Hybrid Edutainment)番組と紹介されていた。

 今回は「変態」(メタモルフセス)一般的には、メタモルフォーゼで、ある曲の歌詞「どうして まだ見えない 自分らしさってやつに 朝は来るのか アイデンティティーがない生まれない らららら」が紹介され、「本当の自分」って何? がこの日の番組のテーマでした。

 千葉雅也先生曰く、アイデンティティー(自己同一性)は若い人にとってはリアルな問題だと話す。女優さんは自分らしさを見つけないと職業選択ができない切実な問題と語り、マキタスポーツさんは、今現在のお笑い芸人・ミュージシャン・俳優・コラムニストなど様々な活動をしていると他人は常に「あなたは何者」と問い、「人は他者を何ものかと、決めたがる存在ではないか」と語っていました。

 開始から4分ほどの会話ですが、実に考えさせられます。この後の「映画『HK/変態仮面』から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす。」はさておいて今回は、18歳の女優さん清水富美加さんの「女優」という職業に注目したいと思います。

 俳優という言葉を嫌い「私は役者である」と語っていた方がおられました。役を演ずる。役になりきる、の徹底さを追及した人が多くおられました。

なりきるこころ[2009年07月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/3d3e798ce24b2e4e29b6150b0a5e5682

※所々に訂正が必要な部分があります。

5年も前のブログです。

高橋恵子さん

緒方拳さん

の役者を語る中から、次のような感慨を持ちました。

 高橋さんと緒方さんの話から役者ならば当然などと思われる方もおられると思いますが、わたしはそこに、人のもつ『なりきる』という才能、できるという可能性の存在を強く思いました。
 
 役者だからできる、普通の人だから出来ない。才能があるからできる、ないからできない。という分別の心もちをもって考えると、そう思ってしまいますが、よく考えてみると役者も普通人も同じ「ひと・人間」です。

 何ら違うところがありません。演技することができるという才能の有無などという前に同じ人間であることに気がつきます。

 そのような「才能さえあればできる。」できるのではなく「そのようにできる機能」が備わっている。言い換えると「なりきることができる。」という意志を持つだけです。

 人は才能の有る無しには関係なくそういうことができる。思い込むことができ、することができる。多重人格者という、個々に独立した人格を持つ人の話ではありません。

 高橋さんも緒方さんも自分を忘れることもなく、自分を失うこともありませんでした。ただひたすら役を演じ、役になりきったのです。

 真似を続ければ本物になる。悪人も善を積めば善き人になる。形から入ればいつか身につく。そういう教えに通じる話のように思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と見直すと誤字脱字で書いています。まぁそれは抜きにして。

 役者さんは医者にも、検事にも、会社社長にも、殿さまにもなれる。身なりだけではなく、醸しだす雰囲気から「らしさ」を超えて疑いなしの本物を感じさせてくれます。

 別次元で恐縮ですが、特殊詐欺の犯人は正にその典型です。人は悪人にも善人にもなれる。

 ~ようだ。~らしい。

 変身後は「医者のようだ。」「医者らしい。」推量表現の断定度に強弱がありますが。

 役者さんの「医者のようだ。」「医者らしい。」は第三者的な立場からの表現ですが、それを受身的認識で自分に取り込みます。そこに「なりきる」が現れてきます。

 「自分らしさってやつ」の「自分らしさ」はどうだろうか、自分自身で問います。それって第三者の眼で見ている推量的な表現ではないか。離人的な感覚の表現ではないか。

 番組では服装を替えることも変態(どう見ても日本語感覚からいうと変身だろうと思うのですが)に含まれるように言っていましたが、例えば、玄関から右足から出ていたものが、占いの結果、左足から出るようにした。右足から出る自分だったのに、左足から出る自分に変態してしまった。ということもありうるわけです。

 小さいことから大きいことまで、人にはできないことはない。そこにはその気の意志だけである。
 
 ニーチェの永遠回帰は非常に理解に苦しみますが、個人的な理解として「今変わらなければ、今の状態は永遠回帰する」と言われれば、強い意志を持たないわけにはいかない。という態度変換を促されます。ある意味態度価値につながる話です。

 ジル・ドゥルーズも『ニーチェ』を書いています。「も」というのは現象学のハイデッガーも『ニーチェ』を書いているという意味です。俯瞰で見るか現象学のいうところの点で見るかで、思考の立場が違ってもニーチェにはなぜか魅かれる。

 ニーチェは発狂し、ドゥルーズはどうなったか?

 個人的に強く思うのは、こころの切り替えは大切だということです。混沌とした闇のなかから音の世界や形の世界を概念化して表象し認識してきたのが人のです。経験が人に成るということです。純粋な経験から立ち現れてくるポイント思考はある意味精神衛生上有効な頭の運動のように思うのです。けじめのない見極めはどうもできません。

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日本海の海岸に立つ

2013年08月28日 | 風景

 突然海が見たくて、新潟県の親不知に行ってきました。猛暑続きの毎日がうそのように肌寒い朝、午前五時に安曇野を出発午前8時前には親不知ピアパークに着きました。子どもたちが小さい時によく来た海岸。

 砂地ではなく小石の砂利の海岸で姫川に近いのでヒスイを拾いに来ている人も多く見かけましたが、夏も過ぎ平日でもありまた小雨の肌寒さで海岸には人がいませんでした。



 ゆっくりと海岸線を歩き、波の音を聞きました。砂利が波にもまれ大きな波音を立てています。水平線は雨降りのためぼんやりと曇ってはっきりしません。

 いいですね潮風が顔に当ります。磯の香りがあります。

 毎日山ばかり見ていると、こういう風景も見たくなる海の向こうは朝鮮半島、中国大陸はるか昔ならば渤海国がありました。

 北朝鮮よりも少し北にあった国で、短い期間でしたが日本と交流があり、信州の小県海野郷の滋野氏と深い係わりがあった国です。

 そんなことを云うのは私ぐらいでしょう。今日現在、今現在信州信濃の小県郡の歴史を想起している人は私ぐらいでしょう。

 「存在」というものは、それを今経験の知識の中から確認しているその人にしか表象できない事実。リアルな事実です。

 波の音とともに思いだしました。木造の渤海人舟白を。

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解けない問いを生きる

2013年08月27日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 解けないものは解けないままに。世の中を別視点で見つめれば、解などはない。そんなことにこだわらずなすべきことに最善を尽くし、こだわりを残さず活きた方が楽である。

 「ドゥルーズはポジティヴィストである。問いが解けないという状態において、現在という根拠への回帰も、不在としての超越への希求も描かない、徹底したポジティヴィストである。解けないということが、ポジティヴに受けとめられるべきなのだ。解けないからこの世界は、新たなものの出会いと生成とに充ちている。解けないからこの世界は、自分という狭い視点を流しさり、あっさりと先に進む新鮮さをはなっている。」(檜垣立哉著『ドゥルーズ』NHK出版p57)

 Eテレの「哲子の部屋」でドゥルーズが語っているという「私と言うか言わないかがもはやまったく重要でないような地点に到達することだ。」という言葉の背景には、上記の檜垣先生の語るポジティヴィストドゥルーズがいるようです。事象を俯瞰する見つめる眼差しだと現象学になってしまうので、同じ俯瞰という言葉を使っても、そのような眼差しや視点からの哲学ではないようである。

 交差点における事故などを高みの更なる高みから当事者の行動、場の状態、さらに時間や空間の全現象の動きを把握できるならば、事故当事者は起るべき事故に遭遇したことになる。当事者の眼から見れば「偶然な出来事」だが高みの俯瞰的な視線から見る神の眼のようなものからすればそのような事故事象も「必然的現象」にしかない。

 ドゥルーズの哲学はそんなものではないのですが、「なんでもあり」に到達するポジティヴな感覚。イマイチ理解に遠い「わたし」である。

 そう<わたし>は無かったのだ。

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変態・メタモルフセス(Metamorphoses)[2]

2013年08月26日 | 哲学

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 イギリスBBC制作の番組で動物の変態を題材にした番組 NHK地球ドラマチック「生き物はなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」で語られたことについて2回に分け書いています。

 番組後半では、オタマジャクシの蛙への変態が紹介され、この研究をされている方がオタマジャクシは自ら環境に合わせて、そのオタマジャクシに良き選択で変態する時期をコントロールしているという研究成果を語られていました。

 次にバッタの変態です。バッタは形体的な変身はしませんが、セレトニンの影響により集団化し、植物を荒らしまわる凶暴なバッタに変身します。それを変態に含まれると考える神経生物学者。バッタが何匹化集まり体が触れる。するとバッタの後ろ足が頻繁に接触し触れ合うようになる。そのくり返しが脳内のセレトニンの増加になり、集団化し体の色も変化する。一匹でいる時は緑色ですが、グロテスクな黒色に変身、見るからに狂暴です。

 みずから環境に合わせた変身を行うオタマジャクシという話と一匹で行動しているバッタが出会いの中で集団化という環境を作り出す変身。これも変態に含まれる、というわけです。

 バッタはふだん一匹で孤独に行動していますが、生き方を変える準備はいつもできているということです。砂漠の乾燥地帯、食料を求めて行動している内に仲間同士の身体が触れ合うようになる。そして巨大な集団となり群れで行動し穀倉地を荒らしまわる。そこには新たな環境を求めて行動するという習性があるわけで、人間の集団による示威運動や互いの利権争の軍隊による戦争をする人間社会に似ています。

 蝶や蛙とバッタは異なり、色変化以外は外形は全く変わりません。それでも変態と言えるのか?

 バッタの研究をされている神経生物学者は、「私にとって変態はもっと広い定義を持ちます。ある個体が、同じ遺伝情報をもつほかの仲間と全く異なる振舞いをしたら、それも変態に含まれると考える。」と語っていました。

 それは全く違った生き方をするようになるということで、単独で生きていたものが、何百万という群れをなして生きるようになるわけです。バッタのこの習性の変化も変態にふくまれるということです。

 変態の定義は、蝶や蛙のような外形的な変化からバッタのようなこのような習性による変化も変態に含まれるならば大きく拡がります。周囲の状況に合わせて、自分を変え振る舞えを変える人間の変化も変態に近づくことになる、番組はこのように語っていました。


(プシュケ=蝶・命・魂の意 写真は上記番組から)

 日本語の変態のもう一つの意味での色情変態とは異なる話です。番組案内人のデビット・マローンは次のように語っています。

【マローン】 変態には生物学的な変態と隠喩的な意味での変態があり、二つの変態の差はあまりないように思える。

 番組は更にマローンの言葉も含み人間社会の変態について次のように説明していました。

 毛虫は空を飛べるようになるために羽を得て蝶になる。人間は空を飛ぶために飛行機を発明し身体を変えることはない。人間は頭や心を介して変態し生き方を変える。

 環境の変化によって習性を変えるバッタに比べ人間の場合は、自分の意志で変化を作り出します。

 科学技術の発展によって人間の生き方は変わり、また新しい考え方の登場によって人間社会も大きく変わってきた。より良い自分を夢見て、人間が作り出してきた変化が歴史を動かしてきた。

 変化は、変化をつくり出してきた私たち自身を支配し、圧倒するようになってきた。自然界の変態のように。

 カフカが小説『変身』の中で指摘しようとしていたことにもつながる。人間は自分の生きる社会をみずから形成しながら同時にその社会によって個人としての自分を変えられてしまう。

 そういう意味では人間も変態する動物と言えるのですが、他の生き物と決定的に違う点がある。それは人間は常に変化を抗(あらが)おうとする部分を持ちあわせているということ。

 兵士は人生の一時期を苛酷な戦場で過ごし、家に戻れば全く異なる生活をする。これは生き方における大きな変化、変態と言えるかもしれない。しかし人間と他の生き物では決定的に違うところがある。人間は記憶する動物であるということ。人間は過去を振り返り自責の念に駆られる。かつての自分を思い出し、失ったものを後悔する。

 人間は自分が変わったことに気がつき変化を恐れる。それが変態に対して底知れぬ不安を感じる理由。

哲学者レイモンド・タリスは、

【タレス】 人間は変わりたい。新しいことをしたいと思う一方で、今の自分を失いたくないという相反する気持ちを抱き、せめぎ合いに悩まされる。今の自分を失うということが、とてつもない変化に思えて恐ろしくなる。

【マローン】 人間は変態の負の側面が見える唯一の生き物だということですね?

【タレス】 人間は毛虫のように、蝶になることを運命づけられていたり、無理強いされたりすることはない。人間の変化は、自ら起すもの。

この会話の後に番組では、カフカの小説『変身』の主人公の死の間際について解説されます。

 カフカの小説では、最後で、虫になった主人公グレーゴル・ザムザは死ぬ。ザムザは強いられた変化のせいで全てを失った。しかし死の直前に妹の弾くバイオリンの音色に気づくシーンがあり、気づくことができたのはかつての日常が失われてしまったからで、以前のザムザは毎日が忙し過ぎて当たり前にそこに在るものに気づけなかった。ザムザはバイオリンの調べに聞き入る。そして心の底から自分は生きている。人間であると実感する。

 カフカの『変身』には最も重要な「意味」や「理由」が欠落していると言われますが以外に上記のような解説に触れると、文脈の中に実存哲学が語られているように感じます。

 番組最後の言葉は、

 「人間は最も変態しやすい動物でありながら常にそれに悩まされる。それが人間であることの証明なのかも知れない。」

まさに苦悩する存在としての人間です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イギリスのBBC放送は実に興味ある番組を作ります。パスカルの『パンセ』の断章に、次の言葉があります。

 「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のまねをしようと思うと獣になってしまう(358)。」

 「われわれの頭の中には、その一方にさわると、その反対の方にも触るように仕組まれたバネがあるのではないか(70)。」

 パスカルのこの言葉を受けて、哲学者鷲田清一先生は『<ひと>の現象学』の中で次のように書いています。

<『<ひと>の現象学』(筑摩書房2013.3.20)から>

 あるものを見るとその反対者が透かし見える。ある方向にまっすぐ進んでゆくうち、あるときそれが思いとは逆方向であることに思い当たる……。リヴァーシブルであるということ、つまりこうした反転や可逆性は、はたして思考の襞(ひだ)なのか、それとも新たな現実の発見法なのか。それらは思考の堂々めぐりにすぎないのか、それとも(対立項を含み込んだ)思考の厚みもしくは奥行きをしめすものなのか。
 
 パスカルのいう、思考の、あるいは存在の「両重性」は、「二重の襞」という語の元の意味どおり、対立するものが和解することなく相剋している様をさす。テーゼとアンチテーゼという二項の対立がやがてジンテーゼ(綜合)へと止揚されゆくあのへ-ゲルの弁証法とは異なる、対立する二項がたがいに矛盾し、両立不能のまま軋みあっている状態である。そう、どこまでも解消されない不均衡と不安定。・・・・・<以上p5-p6>

 まさにパスカルは人間は矛盾する存在であり、それは変態しやすい動物で在るということでもあると思います。そして人間は常にそれに悩まされる存在である。

 蛙の変態では遺伝子は引き継がれていきますが、海洋生物のウニは取り込まれて全く別な生物に変化してしまう。

 ヘーゲルの弁証法に似ています。

 人間には経験がある。記憶能力があることに由来し、記憶する動物であると上記の番組の中でも語られていました。

 「バランスやおさまりの悪い相互の超過こそ私たちの経験の構造である」

鷲田先生は、上記書で「開かれた弁証法」を対置する哲学者として、このB・ヴァルデンフェルスの言葉を紹介しています。

 純粋経験という言葉で語られる経験には、既にこの経験の構造が含まれているのではないか。

 「個人あって経験があるのではなく、経験あって個人があるのである。」

 事は、“変態”(メタモルフセス)から始まったわけですが、人間の身体は何一つわが意のままにはなりません。ヨガ行者が居ると言ったところで、その境地から離れれば意に関係なく心臓は脈打ち呼吸をしています。そこには自分の意によるものは何もありません。

 細胞は両親からの頂き物。身体として成長し栄養素は摂取しましたが自分で造った部分はどこにもありません。「人間とは彼が食べるところのものである」とフォイエルバッハは言ったそうですが、なるほどその通りです。

 「自分とは自分でないものに他ならない」、しかも他面においては、この自分ではないものによって成立している自分の身体のあらゆる微細な部分にいたるまで、すべて自分固有のサクイン(遺伝子)が記されている(山田邦男著『<自分>のありか』p28)。

「人間本来無一物」自分は自分として“無”である。

 “変態”(メタモルフセス)の話しからだいぶずれてくるのですが、自分という現象、私という現象は、物質的現象でもあるわけです。

<中村元訳・般若心経から>

 シャーリプートラよ。
 この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で[ありうるので]ある。
 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。

 [このようにして、]およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
 これと同じように、感覚も、表象も、意志も、認識も、すべて実体がないのである。

 シャーリプートラよ。
 この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
 生じたということもなく、滅(めつ)したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減(へ)るということもなく、増すということもない。

 それゆえに、シャーリプトラよ。
 実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく、認識もない。眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体(からだ)もなく、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の識別の領域にいたるまでことごとくないのである。

 さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。
 こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。
 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。

 それゆえに、得るということがないから、諸(もろもろ)の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆(おお)われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒(てんどう)した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。

 過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい日ざめをさとり得られた。

<以上>

 悉く微細に至るまで言いつくしているように思うのです。

「たいがいの人は今日、解答を見つけないままで、人生を去って行く」(ヒルティ『幸福論』・人間とは何だろう)

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V・E・フランクル関連番組の再放送・生きる意味を求めて

2013年08月24日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨夜のNHKスペシャル・東日本大震災「亡き人との“再会”~被災地 三度目の夏に~で3.11東日本大震災で津波に肉親を失くされた方の死者を想う一念とその想いが幻や気配として実際にその身におとずれた体験が放送されていました。

 肉親との思い出は過去の宝として残っているが不慮の事故で愛する我が子や父、母を失くされた方はその詩と真正面に向き合う機会がありませんでした。それだけに合いたい一念は苦しみを増幅するものでしかなく苦悩の只中に暮らしています。

 その一念なのでしょうか。時にはサードマンとして身近に現れます。人というものの不思議。実際科学的にもそれは証明されるものであることはブログにも書きましたが、魂も蝶もプシュケ。古代ギリシャの人々は蝶の変態ときれいな舞の姿に永遠の生命を感じていたのでしょう。花から花へ舞う蝶を見て、日本語で魂が舞っていると表現すると怪奇的になってしまいますが、名称が一緒で、概念の中にその違いだけがあり、日ごろから習性化されている認識だったならば・・・・それが山川草木悉皆にみるともに生きる存在の場に在る感覚なのでしょう。

 さて明日の日曜日(8月25日)午前5時からEテレで放送される「こころの時代~宗教・人生~」は、哲学者でV・E・フランクル研究家の山田邦男先生のアンコール放送「生きる意味を求めて」です。

 3.11東日本大震災、原発事故後間もない2011年4月に放送された番組で、放送後に被災地でフランクルの『夜と霧』が多く読まれたようです。人間は苦悩する存在であるとは言うものの、突然の災害はあまりにも多くの人々を苦悩に陥れ、未だに抱えている人がいます。あの人に会いたい。上記の「亡き人との“再会”」は今現在の実際の話です。

 この番組が再放送されることを待っていました。この番組を観て多くの方々が、私たちには思考の転回、発想の転回、概念の転回を感じる意味器官があり、精神的無意識が生きる意味を導き出してくれるというはなしは、きっと多くの苦悩する人々の救いになると思います。

 フランクルはロゴセラピー、実存的精神療法という言葉からもわかるようにそこで語られるのは心理学の世界です。100分de名著フランクルの『夜と霧』の講師をされた明治大学教授でカウンセラーの諸富祥彦先生の書かれた著書は『フランクル心理学入門~どんな時も人生には意味がある~』(星雲社)という心理学という言葉が使われています。

 山田邦男先生は思想という言葉を使われます。私もフランクルの語るところに踏み込めば踏み込むほど思想という言葉にがふさわしく感じられます。だだしそれは精神療法を離れ、心理学の世界を離れてはいません。

 学問には多元性という現実があります。身体的なものは生物学が、心理的なものは心理学が、等々とそれぞれの学問が対応しています。フランクルは、「私は、人間を、多様性にもかかわらずの統一と定義したい。」と述べています(『人間とは何か』春秋社・p55)。

 震災後間もない番組ですが、私はフランクルの思想は、今現在の日本人にとって啓示の言葉にも感じられます。山田先生はフランクルの思想を宗教学、哲学の視点からも類似点を指摘していきます。

 山田先生は『<自分>のありか』(世界思想社)という本も書かれていて、そこでは西田幾多郎、フロム、東井義雄、金子みすゞ、禅仏教等、古今東西の人物・思想をたどりつつ、現代の精神状況を考察し、自己をめぐる根底的な問題を解明していきます。

 25日は、丁度石川県にある西田幾多郎記念哲学館で開催される「夏期哲学講座」で山田先生の

「ヴィクトール・フランクルと西田哲学~バイザインと純粋経験」

と題する公開講演会が開催される日です。

 この対話形式の番組後、この番組内容をよりわかり易く、対話式で補足も含め『フランクルとの<対話>~苦境を生きる哲学』(春秋社)を書かれており、番組内容をより濃密に理解することができるものです。

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変態・メタモルフセス(Metamorphoses)[1]

2013年08月23日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 人生哲学的なことに注目した内容のことを最近書いています。

 元長崎県社会教育長の竹下哲さんの「二度生まれる」という「人が人に成る」話や、姜尚中さんのアメリカの哲学者W・ジェイムズの「一度生まれ・二度生まれ」について書いてきました。

 竹下先生の「二度生まれる」に語られる一度目の生まれに在る人は、人が人生を生きる中で数多(あまた)の試練により苦悩のたゞ中にいる者で、二度生まれるはV・E・フランクルの言うところの「人生には無条件に意味がある」ことに気づき魂の救いを得た、ある意味、安堵感のなかに生を意識できる人に成った状態をいうものです。

 「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題ではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているのかが問題である」という観念のコペルニクス的転回ができたと時が二度生まれるのその時なのだということです。

 一方のW・ジェイムズの「一度生まれ・二度生まれ」は、「一度生まれ」は神や仏の様な人でありのままで生きられる人で変異を必要としない人、精神性の向上、人格の向上や自己実現を必要とする場に置かれていない人を言います。しかし世の人々の大半はそのような状態になく「二度生まれ」という精神性の向上等が必要な場に置かれている。そのことに気づき自分を変革して行くことになるということです。

 どちらにしても「人から人に成る」という話です。この場合の「人」は前後では意味が違いますが、分る人にはわかる感覚的な意味理解で語られます。

 哲学者の木田元先生の言葉を借りれば、前者が「生物学的概念」を指示し、後者は「文化的概念」を指示しています。「人にして人に非ず」という言葉があります。最初の人はホモ・サピエンスを意味し、次の人は一定の文化的・道徳的資質をそなえた人・人間を意味します。

 精神的に在る人とはこういうことなのだと思います。「二度生まれ」「二度生まれる」の素養のもとにあり精神性が完成して行く。別の変革・変異した自分になるということです。

 このようなことを考えている中で“変態”という言葉を語る二つの番組を観ました。最初に見たのが、NHK地球ドラマチック「生き物はなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」という昆虫などが幼生(幼虫)から成体に移る過程でその形態を変える不思議について紹介する番組がありました。

 もう一つは同じNHKの「哲子の部屋」という番組で「映画『HK/変態仮面』から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす。」という内容のものでした。

 内容のものと書きましたが、“変態”ということについて語っていたのは確かなのですが、私には少々きつすぎる話でした。

 それはそれとして、同時期に別の「テツコの部屋」である民放の「徹子の部屋」に姜尚中さんがゲストで出ていたのは私にとってはこの偶然性に意味を問われているように感じました。一連の出来事に「何を期待されているのか?」その問われているものの方が興味があります。

 さて何を書きたいのかが分らなくなりそうですので、最初に「生き物はなぜ姿を変えるか~“変態”の不思議~」で語られる“変態”について書きたいと思います。

 生物における変態は、メタモルフセス(metamorphoses)と言い先ほど書きましたが、昆虫などが幼生(幼虫)から成体に移る過程でその形態を変えることです。番組では、冒頭のナレーションの渡辺徹さんが次のように語っていました。

【渡辺徹】 想像してみてください。ある朝、目を覚ますとそれまでの自分とは全く違う生き物になっていたとしたら。未知の力によってすっかり変わっていたとしたら。
これは“変態”と呼ばれる現象で、多くの生物に起こり得ます。
変態によってオタマジャクシは蛙になり、毛虫は蝶になります。
変態は自然界における謎に満ちた現象です。<略>

 さまざまな時代の芸術家や作家が“変態”という題材にひかれてきました。人間が別な生き物に変身することを想い描いてきたのです。

以上このような語りとともに、

 変態という概念には二つの意味がある。生物学的な意味と小説などに見られる隠喩的な意味です。

 姿形の変わった人間の物語は単なるたとえ話なのか、それとももっと深い別な意味があるのか?

という問いもなされていました。この中の「人間が別な生き物に変身」という言葉に実存哲学の視点からカフカの作品『変身』を思い出しました。後ほど書きますがアイデンティティーの問題で番組でも語られていました。

 そもそも「変態」という言葉は生物学で学んだことを忘れていなければ違和感の程度も少ないと思いますが、どうもこの言葉は色情的変態が先に浮かんでしまいます。国語辞典(明鏡携帯版から)で「変態」を見ますと、

へんたい【変態】(名)
1 動物が幼生(幼虫)から成体に移る過程で形態を変えること。また、その過程。さなぎが蝶に、オタマジャクシが蛙になるなど。

2 性的倒錯があって、性衝動が普通とは異なる形で現れるもの。変態性欲。また、その傾向にある人。

と解説されています。どうしても二番目が全面出でてきます。この番組では当然前者の動物の形態変化の変態を基にして語られます。

昆虫の変態は、蝶を例にとれば、

毛虫(幼虫)・・・さなぎ・・・蝶(成虫)

という段階を踏みます。

番組では、昆虫学者のスチュアート・レイノルズが次のように説明していました。

【レイノルズ】 毛虫は常に鎧で身を守っているようなものです。成長するには今の皮を脱ぎ捨ててより大きくなる必要があります。これは脱皮と言われる現象で、皮を破って這い出し脱皮をした毛虫は、古い皮の下で準備していた新しいからだを膨らませます。
 さなぎの形成も一種の脱皮と言えます。数日かけて幼虫の体の中で形の全く違う生物、さなぎが形成されるのです。<以上>

 知識として知っていれば当たり前の話なのですが、改めて「形の全く違う生物」と言われると本当にそうなのですね。

 「幼若ホルモンが出ている間は幼虫で、出なくなると変態が始まる。」

 古代ギリシャでは、蝶も魂も同じ「プシュケ」という言葉で結びつけられていた。ということを以前ブログに書きましたがすっかり忘れていました。

「魂はどう語られるのか?」(5)心と魂[2011年11月24日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/9a5545246b014cdb88b62304c123725c

上記のブログには書きませんでしたが、次の哲学者の松浪信三郎先生の解説を思い出しました。※ここでは「プシュケー」と表記します。

<アリストテレスのプシュケーから>

 ・・・・・アリストテレスは、プシュケーのはたらきとして、営養的(トレプティコン)、感覚的(アイステーティコン)、欲求的(オレクティコン)、移動的(キネーティコン)、思考的(ディアノエーティコン)の五つの能力を認めた。

 生物と呼ばれるもののうち、あるものは、これら五つの能カのすべてを有するが、他のあるものは、これらの能力のうちのいくつかを有し、さらに他のあるものは、これらの能力のうちの一つだけを有する。

 つまり、植物は営養的能力をしか有しないが、動物は感覚的能力を有する。したがって動物は、快・不快を感じ、快を欲求する。さらに動物は移動的能力を有する。動物のうちでも人間だけほ、さらにそのうえに、思考的能力を有する。最下位の営養的能力は、すべての生物に共通するが、最上位の思考的能力、すなわち理性は、人間だけにかぎられる。
 
 してみると、アリストテレスでは、プシュケーという語は、ゾーエー(生命)という語と、ほとんど同じ拡がりをもつことになる。ソクラテスでは、いわば人間的プシュケーだけが関心のまとであったのに、ここではプシュケーが生物全般に行きわたっている。こういうことは、現代にも見られる。たとえば、コンシアンス(意識)という語は、ベルグソソでは、ヴィ(生命)とほとんど同じ拡がりをもつのに反して、サルトルでは、人間の意識だけに限定される。・・・・・略

<以上『死の思索』(松浪信三郎著 岩波新書)p77~p78>

私のブログは書いている内に話が飛んでしまいます。変態に戻しますが、

なぜ生き物は変態するのか?

一つの生き物に二つの姿がある意味はなぜか?

毛虫でいることに問題がなければ、変態する必要はないがなぜか?

という疑問が出てきます。昆虫学者のスチュアート・レイノルズが次のように説明していました。

【レイノルズ】毛虫でいることの問題点は、動き回るのが難しい点。いる場所の周辺の植物を見ると葉っぱは食べ尽くされ次の世代の分は残っていない。もし繁殖するなら食べ物のある別な場所へ行った方が良いことになる。そのために毛虫は羽をもつことにした。二つの異なる仕事をするために。

 変態の素晴らしいところは専門分野に特化することができるようになる点。
 成虫になると羽をもち繁殖の相手を見つけたり、飛び回って餌場を探したりできる。
 一方幼虫はひたすら食べ続け他には何もしない。
 変態することでそれぞれの段階で求められる勤めを最も適した方法で果たすことができる。生き方が変化する。<以上>

 昆虫の蝶の話ですが、確かにアメリカシロヒトリなどは最たるもので桜の木の葉を食べ尽くします。あれは確か蝶ではなく蛾であったと思いますが「繁殖するなら食べ物のある別な場所へ」と変態するわけです。

 番組では海洋生物の変態についても解説されていました。プランクトンから成体へ、ウニも実に不思議な生き物でした。成体に変態しても細胞は引き継いでいくのですが、ウニの場合は取り込んで無くなってしまうのだそうです。

話が長くなりました。番組の冒頭にも語られていた、文学作品における“変態”についてです。

【渡辺徹】変態は人間にも起こるのではないか。私たちは変態に魅力を感じながらも知らず知らずのうちに恐怖心を抱いているのかもしれません。その恐れを作家たちは、昔から作品にしてきました。

 ということで、その代表作品のカフカの『変身』とともにロバート・ルイス・スティーブンソン著『ジキル博士とハイド氏』について、現代ドイツ文学研究者のベアーテ・ミュラーは、次のように解説していました。

【ミュラー】自分が自分であるという認識、アイデンティティーは外見と強く結びついています。鏡を見て「あぁ 私だ!」と思いますよね。
 私たちは外見が劇的に変わることを想定していないのです。私たちは変化が有るにしろ、無いにしろ自分の姿や形を決めるのは自分でありたいと思っています。だから自分で決められなくなると、理性を失うんです。

 カフカは、虫になった男の物語を通して、馴れ親しんできた社会的秩序からはみ出してしまった人間の姿を描いています。虫になった男は、かつて過酷な労働を当たり前に思い、毎日長時間働いていました。本当は仕事が嫌いなのに日々の生活に馴れきっていたのです。

 しかしある日突然、ずっと続いていた日常を奪われてしまいます。

「ジキル博士とハイド氏」

 主人公のジキル博士は、立派に人物として知られていますが、そのままだは自分が望む人生を完全には手に入れられないと感じ、邪悪な面をもつもう一人の自分、ハイド氏を生み出します。

 ジキル博士は「人間は一つの顔だけを持つのではなく二面性があることに気づき、どちらの面意も強く魅かれたのです。彼は一方では善人でありたいと願い、もう一方では醜い本能や欲望を抱えていました。社会ではとうてい認められないものです。<以上>

番組案内人のデビット・マローンは

【マローン】こうした小説を通して作家たちが伝えようとしていたこと、それは人間が変化に対して相反する感情を持っていることではないでしょうか。私たちは変化を好むと同時に変化に呑み込まれることを恐れているからです。<以上>

番組はまだ続くのですが、ここまでの話の中で変態、変身、二度生まれ、二度生まれる・・・という精神の編成替えのような概念を思考の中で思うとき、人という言葉、人間という言葉はあまりにも曖昧です。この言葉を私という言葉に置き換えても、私のことでありながら語れない難しさがあります。

 痴呆になれば歴然として第三者には「私であるところのあなた」は、昔のあなた(私)ではないと指摘されます。私の所在が分からない。

 移ろいゆく存在の中にしか、私なるものがあるだけ。ハイデガーは、そんな人間を現存在(Dasein・ダーザイン)と呼びました。フランクルの「もとに在ること」(Bai-sein・バイザイン)とどこが違うのか?

 変態という問題を構造的な生態学的な変化を中心点に置くと、精神さえ構造的な問題になってしまいます。「哲子の部屋」の変態仮面は女性用の下着を仮面にし変身するのですが、・・・・・わからない。どこに構造的な問題が出てくるのか。確かにスキゾフレニアやパラノイアは色情変態にはありそうですが・・・・理解できない。

 という話はさておいて、動物における“変態”には作家ではありませんが哲学的な問題を提示してくれるように思います。

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あなたへ・さよならだけが人生だ

2013年08月19日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 一年前に公開された降旗康男監督、高倉健主演映画『あなたへ』(東宝)という映画が民放で放送されていました。

 赤い目玉のサソリ・・・・・青い目玉の子犬・・・・。アンドロメダ・・・の雲は・・・・。

 天空の城跡(天空の音楽祭)で女優の田中裕子さんが歌う宮沢賢治の歌に、言い知れぬ感情が湧きました。

 亡き妻の散骨。原作も読んでいませんし、またこの映画を観てもいませんでしたが、思考癖のある私を惹き付けました。

 妻からの絵手紙。最後の言葉。「さよなら」

 この言葉になぜか、一編の井伏鱒二の唐時代の詩人于武陵の「勧酒」の名訳が浮かびました。

 この杯を受けてくれ
 どうぞなみなみ注がしておくれ
 花に嵐のたとえもあるぞ
 さよならだけが人生だ

 一期一会の出会い、出合いと書いた方がよいかも知れませんが、出合いの大切さを詠じたものです。

 私はお酒が好きではないので、酒会の風景は全面出でてきませんが、「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」はなぜか心を打ちます。

 過去の思い出は、思い出という宝で記憶の中に残り、それもまた去りゆきます。

 人生が注ぎ手ならば、

 我が杯になみなみと注いでおくれ

 我が輩の中に次いでおくれ

 注がれるものは何ものでありましょうか?

 他者との出合い。心の合体、どこまで共有できるのか分かりませんが・・・・。

 思いだしたのは、妻ではなく早くに死んだ父と母と兄。そしてその思い出。

 私以外には、全くわからない思い出です。

「さよならだけが人生だ」

 儚(はかな)を言っているわけではなく、共にあったその一時は過ぎ去るものであること。

 思えは本当に大切なひと時でした。その時はそのことが分らない。

 ある内にはわからないことも、失うとわかることがある。

 そして一つ利口になる。人生とはそのくり返しなのかもしれません。

 良き因を付けたいものです。

 なみなみと注がれ、跡を残す。

 「さよならだけが人生だ」

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民族と民俗・場所の論理、逆対応

2013年08月18日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 アリストテレス以来の三カテゴリーであるところの類・種・個が、現実世界の国家・民族・個人に対応され、国家は「類の代表」で、個人は「実存」としての個、民族は双方の媒介態とされ展開されるのが哲学者田辺元の「種の論理」で、田辺は西田の「場所の論理」には、「類」と「個」とを媒介とする中間項の「種」が欠落していると指摘する、という西田・田辺論争という話があります。

 8月になると「大和民族」というある種の国家観の賛否の論争が必ず現れます。民俗文化ではなく民族文化が形而上学的な認識的概念ではなく、現実態として現前していたかのように戦争という国家の生存競争の中に論理的転回の中で扱われます。

 私たちは今現在のように社会保障という国家の保護下にあると、過去の未成熟な国家の中にも同じような保護感覚を抱きながら過去を問います。

 「おのずから」と「みずから」が「自ら」という漢字の中に含まれますが、「自ら」が正に「大和民族」の「民族」に類似して感じられます。日本語は素晴らしい言語です。曖昧である、という批判があることは知っていますが、倫理学者の竹内整一先生が、この「おのずから」と「みずから」の間に見る、境界に見る「あわい」の意味概念で理解するならば個人的に「民族」という形而上学的な認識的概念よりも「みんぞく」という日本語のもう一つの漢字熟語の「民俗」に概念に近似し、こちらは誤りなく、形として現前化します。

 民族衣装、民俗的伝承、それはまた地域性とも密接に関係してきます。民族は地域性はなく伝承にも深く関わりを持つようには見えません。

 主体と客体との二元性の論理に統一的実態を見る時、認識論的な概念をどうつかむか。

 禅を認識論的な概念的構想で説こうとするとそれは誤りだと指摘されます。

 されば「禅と哲学」はどうであろうか。

 禅の徹底者である久松真一先生宛の書簡の中で西田先生は「私の永遠にふれるというに対して、慧玄(えげん)の這裏(しゃり)に生死なしといわれた様におもわれた、私には中々むつかしいが、なるべく立場を離れないで哲学を考えてみようと思う」(昭和11年10月18日付)と語っています。

「仏と衆生との逆対応」は正にV・E・フランクルの、

「精神がもとにー在ること」(Bei-sein・バイザイン)

にも重なる。

 久松先生は「生死ない」と西田先生に言明します。

 思うに精神の境遇、置き所なのでしょうか。

 日本人は民俗学的に「あわい」を好むような気がします。色彩の世界や精神の置き所にそのような「あわい」の世界があるように思います。

 ホモサピエンスとしてはるか東方を目指し、そこには「さきわい」の幸が見えたのだろうと思います。争いの大陸を離れ希望の船に乗りたどり着いて列島に民俗はその姿を現わし、継承続けられてきました、が時の流れは、時間も空間もなきものになりつつあります。

 人の一日の歩みの38キロから、一時間38キロの場所移動になってしまいました。乗り物によってはとんでもない歩みの距離になります。

 変わらないことは一つだけあります。「生死(せいし・しょうじ)」です。

 精神の境遇、置き所のもとになる身体の生死だけが誰もが持つ実存としての姿です。

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