[思考] ブログ村キーワード
Eテレ「100分de名著で放送中のカフカ「変身」の2回目「前に進む勇気がない」が昨夜放送されました。真面目なサラーリイマンであった主人公のザムザ、突然芋虫のような虫になってしまう。そこにカフカの精神的な面を重ね、結婚に踏み切れない、一歩前へ進むことのできない人間像に、共感する人も多いのではないでしょうか。
結婚しない世代、30歳を過ぎた部下で独身者が多いことに気づきます。出会いがないということを理由にするものもいますが、求めの積極性が乏しいことが最大の問題のように思います。
難しいことを語るわけではないのですが、思うように自分の感情を相手に伝えられない。見越しの決断に「分かってはもらえない」があるのでしょうか。
変身ではザムザは実際に虫に変身します。そして家族に疎外され、その虫のまま死に至ります。ザムザのこころの内は全く家族に伝わらないのですが、この変身のパターンを現実的な話に転換したくなります。
創作「変身」ですが、
ザムザが朝目を覚ますと体からいつもと異なる不思議な違和感を感じます。身体を触ろうと手を動かすのですがどうも自由に体を触ることができない。ふと手を見ると虫のイモムシの多足のようなものが見え、それぞれの異なる動きをしている。
叫び声を上げる。階下にいる妹がザムザの悲鳴に驚き兄であるザムザの部屋に駆けつけ、何事があったのかベットに横たわるザムザに「お兄さん何があったの」とたずねる。
「ごらんよ僕の身体が・・・」とザムザが言うと「体がどうしたの?」と妹は虫に変身したことが分からないと言った感じで不思議そうに頭を傾ける。
新しい就職先が決まった父親ですが、働きの中心はザムザで、家計を一手に担っています。「出勤の時間よ」と妹は叱咤する。
父や母も何事があったのか、ザムザの部屋に上がってきた。「どうしたんだね」・・・・・・・。
以上の話の前座ですが、ザムザはあくまでもイモムシに体が変身したと確信している。実際に見ても、ガラス窓に映る自分お姿を視ても明らかにイモムシに変身している。これぞ西洋流の絶対の確信、絶対の現実、絶対の存在である自分です。
一方家族はいつもと変わらないザムザ、少々今日のザムザの言動は変、といったところです。家族以外の第三者はどうか。これは家族と全く共通の視覚感覚でザムザを見る。
その後のストーリは、それなりの話しの展開が創作されるとして、実際の問題として、現実社会ではこのような物語も、一方だけの視点に立てばありそうな気がします。
主人公はあくまで、そうだと思い。片方の家族なり他人はそうではないと言う。
話の通じない隔絶した世界。現代社会では実際にこういうことが起きているように思います。
存在するもの、感覚観、なぜにこんなに違うのか、温度差があるのか。緊迫感、危機感が異なるのか。限りない相異の世界です。
カフカの話は本当に刺激的で面白い。カフカの話を自分で異なる世界に創作できる。
カフカの作品に「天井桟敷で」というものがあります、短い話なので引用紹介したいと思います。紹介する「天井桟敷で」は、みすゞ書房から出版されている吉田仙太郎訳『カフカ 自撰小品集』からですがお奨めです。
<吉田仙太郎訳『カフカ 自撰小品集』から>
天井桟敷で
もしも誰か、ひ弱な肺病やみの曲乗り娘が、サーカスの舞台でよたよたの馬に乗り、飽くことを知らぬ見物を前に何カ月もの間、休む間もなく-----馬上で風を切り投げキスを投げ腰を振りながら-----、鞭をならす容赦のない座頭(ざがしら)によってぐるぐる回りに追い立てられるとしたら、またもしもこの演技が、オーケストラと通風機の絶え間ない轟音のもと (消えるかと思えばあらたに起こる喝采の拍手、これは蒸気ハンマーそのもののような人間の手だ)つぎつぎと口を開く灰色の未来に向かって続けられるのだとしたら、-----そんなときには、ひとりの若い天井桟敷のお客が、最上階から一階席まで長い階段を走り降り、いつも演技に合わせているオーケストラのファンファーレの響きを貫いて、やめろ! と叫ぶことだろう。
しかし、じつはそうではないものだから、-----つまり美しいご婦人がひとり、紅白の衣裳を着て、誇らしげなお仕着せの男たちがかかげるカーテンの間からひらりと飛び込んでくるし、団長は、うやうやしく彼女の目を追いながら、柔順な動物よろしくすり寄って、用心深く彼女を連銭葦毛の背に押し上げる。その様子ときたら、目に入れても痛くない孫娘を物騒な旅に出すときのよう。彼には合図の鞭を鳴らす決心がつかない。やっとの思いで己れに打ち克つと、ばしっとひと鳴らしする。馬と並んで、口を開けたまま走り歩く。曲乗り娘の跳躍を、鋭い目で追っかける。
その練達のさまを見てとても信じられない様子。英語の掛け声で注意を与えようとする。くぐり輪を捧げもつ馬丁たちを、たけり狂って、慎重の上にも慎重になと督励する。大々的な(死の宙返り〉の前になると、両手を上げて、オーケストラに鎮まってくれと懇願する。
最後に娘を、また震えている馬から助けおろす。両の頬にキスをし、観客がどれほど敬意を表しても、なかなか充分とは認めない。彼女自身はというと、観客が殺到するなかで高く爪先立ちになり、土ぼこりに包まれ、両腕をひろげ、可愛い頭をのけぞらせて全サーカスとともに仕合わせを分かち合おうとする、-----じつは、こういう次第だから、天井横敷の例のお客は手すりに顔をもたせかけ、ちょうど重たい夢に沈むように打ち上げのマーチのなかへと沈み込みながら、われ知らず泣くのである。
<以上p80~p81>
場面に映し出されているのはあるサーカスだんの若い女性の馬乗りの曲芸、傍らに片手に鞭をもつ団長と思われる男性、オーケストラと表現したものかそれとも楽団か、とにかくサーカス定番の音楽を演奏する人々がいます。
ひょっとするとピエロもいるかもしれません。
ただそれだけのこと。虐げられた病弱な女性はどこにいるのか?
状景であって情景ではない。見える人々のこころの内は映し出されていません。交通事故現場で横たわる子を抱きしめている女性の姿を視るような悲しみを抱く、悲惨な情景はありません。
あるとするならば歓声に包まれたほほえましい情景があるかもしれません。
「もしも誰か・・・・・・われ知らず泣くのである。」
天井横敷の例のお客は手すりに顔をもたせかけた涙する男を見たとする実はそういう訳があるのです。
人は単なる状景も状景とすることができる。創作することができるといってよいかもしれません。ひょっと付け足しで曲乗りの美しい女性は団長の愛人なのかも知れません。情婦という言葉の方がこのような場面似合うかも知れません。
分析心理学者で文化庁長官までされた故河合隼雄(かわい はやお)先生が物語を作り出す深層に次の例を出されて説明されていました。
ある男性患者が訪れ、この男性は愛人を目の前で交通事故で失い、それ以降仕事も手につかない状態になり精神的に弱り果てていました。「どうして彼女は死んだのでしょう」この言葉を繰り返す。
どう答えたらいいのでしょう。
「女性は出血多量が原因で死んだんですよ」
実際はそうなのかも知れませんが、「「どうして彼女は」の言葉の中には何があるのか。
どうして死ぬのが私の彼女でなければならないのか。
どうしてこのような目に出逢わなければならないのか。
「人生というものはそういうものなのです」と言いたいのですが、短絡的なそういう言い方はできません。
そこに物語の必要性が出てきます。魂の定め、例題としての物語、慰めの物語・・・。
一神教の世界ならイエス様の傍ら、神のおひざ元に行かれた以外にないないのですからあの世とこの世の物語のバリエーション豊かな話は作れませんが、多神教であったギリシャや日本の国には古くからあの世もこの世も地繋がりの世界がありました。
一神教の世界では、神々が恋をする話などはあるはずもなく、悪魔がこの世を支配してしまう世界もなく、神を神が作り、柱の周りで男女神が情熱的な行為に走ることもありません。
日常的な事件を扱った小説はデカメロンからだそうです。「1348年に大流行したペストから逃れるために邸宅に引き篭もった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をするという趣向で、10人が10話ずつ語り、全100話からなる(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。ということですから1008年ごろの源氏物語がいかにすごいかが分かります。さらに魂の物語も含みますからその違いは歴然としています。
今朝はカフカの創作から物語の話になってしまいました。「人間とは物語を創る生き物」であると言われる深層には、そのような魂の安らぎもあるのかも知れません。
「われ知らず泣くのである。」の中には「ひょっとすると恋人なのかも知れない。」という誘いの言葉が浮かびます。
「なぜ死ななければならなかったのか」
わたしならどういう言葉を書けるのだろうか。改めて考えさせられます。
最後にまだ陽は昇りませんが、どうして太陽を拝むのですかと聞かれたらあなたなら何と応えますか。
「太陽は核融合なんですよ。灼熱の高温ですごいじゃありませんか。」などとは応えるわけがありません。またどうして天動説・地動説もしっかり知っているのに太陽は昇るのでしょう。
「金の馬車に乗った太陽の神は、闇夜の帝王を滅ぼし凱旋してきたんだよ。」
そういう話も河合先生は話していました。


にほんブログ村