思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

精神の哲学・肉体の哲学そして空即是色

2012年02月29日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 フランスの哲学者メルロ・ポンティの『行動の構造』の中に有名なヴォルフガング・ケラーのニワトリの実験が紹介されています。

 灰色のエサ箱AとAより薄い灰色のエサ箱Bを用意し、ニワトリを常に薄いグレーのエサ箱に向かうように向かうように条件付けしておきます。この時古典的な学説では、薄い灰色Bという刺激に対する藩王としてニワトリがBを選択すると考えます。

 そこでケラーは、Aの代わりにBよりももっと薄い灰色のエサ箱Cを用意します。古典的な学説ですと、ニワトリはBの刺激に一対一対応する反応を示すわけですから、常にBの方に行くはずです。しかし、ニワトリはエサ箱Cに向います。

 つまり、ニワトリは「エサ箱B」という刺激に反応したわけではなく、二つのエサ箱の色の関係性すなわち差異により、より薄い方を知覚しそちらを選択したことになります。

 これは動物でニワトリの実験です。2月11日(土)にEテレで

 地球ドラマチック“色”は脳で作られる! ~あなたと私は同じ色を見ているの?~

という面白い番組が放送されていました。番組紹介サイトには次のように書かれていました。

<番組紹介>
 勝負服に向いているのは何色? 思わず夕食に行きたくなるレストランの照明の色は? 
 私たちは、多彩な色に囲まれて暮らしていますが、思っている以上に“色”からの影響を受けているようです。たとえば、スポーツ選手が赤いユニフォームを身につけている場合と青いユニフォームを身につけている場合では、心拍数やホルモンの分泌などに違いが見られるというのです。
 さらに私たちは、空の青い色、血液の赤い色、木の葉の緑の色などの身の回りの色は、誰もが同じように見て感じられるものだと思っています。本当にそうでしょうか? “色”を認識するため、脳の中では一体何が起きているのか。色を感知するメカニズム、色彩と感情についての謎を解明します。

<以上>

という内容の番組でこの番組の後半にアフリカのアフリカ南西部に位置するナルビア共和国の北部にの人たちの色彩に関係する話がありました。ヒンバの人たちは伝統を守りながら今も昔ながらの生活を営んでいるのです。


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)

 このヒンバの人々の使う色に関する言葉、色の表現が独特で色彩研究の学者の注目するところとなっています。

 番組ではそこで行われた実験が紹介されました。このヒンバの人々に水の色やミルクの色は何色かと質問すると、

水もミルクも「白色」

と答え、空の色は?

空は「黒色」

と答えるそうです。私たちは普通水は青色、空も青色と答えるのにまったく異なるのです。

 そもそもヒンバの人々が色を表わす言葉は5つでその表現もだいぶ私たちと異なるとのことです。
 
では色の見え方はどうか、「見え方」についての実験が紹介されました。

12個の四角の中で一つだけ異なる色を選ぶ実験

 異なる色を選ぶまでの時間を計測して我々との見え方の相違を観ます。

まず紹介されるのは12個の緑色の円形に配置された輪状の中の一つだけ異なる色の選択です。


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)


ご覧の通りのどう見てもすべて同じ色に見えますし、よく見ると時間はかかりますが私たちにも見えないことはありません。

 しかしヒンバの人たちは即座に色の違いを判断します。

ヒンバの人々には簡単なこと

西洋人には見分けにくい色

この違いを異なる色で表すと


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)

このようになり右上方の緑と違うのです。このようにヒンバの人たちには見えている、肉体が感じているということなのですが、これはには何が原因しているかと言うとヒンバの人たちには、

識別できる緑と他の緑の色にはそれぞれ異なる単語が当てられている。

といるからです。だから私たちには見分けにくい色もヒンバの人には簡単に選ぶことができる、ということです。

 そして次の実験です。今度は緑の中に一つだけ青が混ざっている実験です。


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)

映像での関係で解りにくいかもしれませんが、左のやや上側に青色の四角が見えます。

この実験はご覧のとおり私たちにはごく簡単なものです。ここが不思議なのですがヒンバの人たちは先程とは逆になかなかその色の違いが解らないのです。

 私たちは緑と青について別々な単語を使っていますが、ヒンバの人々は同じ単語を使っているので今度は全く逆に選ぶのに時間がかかるという結論になります。中には全く「解らない」という人もいました。


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)

 ヒンバの人たちとわたし達の色を表わす単語の数や表現が大きく違うことで世界の見え方も少々異なっているようです。

 ある文化が色を表わす単語をいくつ持っているかは、その単語がどれだけ必要かということに関わっている、との解説。

 ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジのジュールズ・ダビドフは、

【ジュールズ・ダビドフ】
 ヨーロッパにも近年まで色を表わす単語が5つか6つしかなかった言語があります。例えばウェールズ語もピンクと茶色を表わす単語がありませんでした。
 ただし今では、他の言語からとりいれられています。

 言語は色の見え方に微妙な影響を及ぼします。それは一つ一つの色を見るときよりも二つに色を並べて比較するときにはっきりと解ります。

 一つ一つの色については誰でも同じように知覚します。しかし二つの色を前にすると類似性を判断しなければなりません。類似性の判断はその人が使っている言語に二つの色を表わす異なった単語があるかどうかによって左右されます。

 これらの研究は、色を見ることが単に目を開けるだけの行為ではないことを示しています。色とはわたし達の脳の中で作り出されるのです。

<以上>

という番組内容で、この部分が先ほどのヴォルフガング・ケラーのニワトリの実験に重なり非常に興味を持ちました。

 動物には色盲でまったく色を認識できないものもいることはご存知かと思います。番組でもそういう方の話も紹介され色彩のない世界ですが、「何か色に感覚的な感情が浮上する」旨の話をされていました。

 ニワトリは色の濃淡の差異、人間は言葉により意味づけされ、存在して識別されるものだと共同体においてはみな同じ選択をすることができます。


(Eテレ「地球ドラマチック“色”は脳で作られる!」から)

 先程の図面ですが、同じ色の緑色のですが一つの緑色だけが自分の意識に浮上し他の色は背面に後退します。それだけ差異の世界で選ばれるのです。

 番組ではこの解釈ははされませんでしたが、現象学の世界はこういう視線の創造的な哲学です。

 
ものにはそれぞれ言葉が付けられ、言葉には感情的な言葉も数多くあります。そして旧約聖書にもあるようにバベルの塔に怒った神は、言葉が通じないように色々な言語に分けてしまいました?

 それはともかく、そこから解ることは、万人がすべて理解できるかと言うと、そうではない。それぞれの文化によって、異なる差異があるということです。

 これは思考の差異ではなく、精神の哲学的視点と肉体の哲学的視点は密接に関係するとも言えるわけでそこからの差異がある。

 見えるものが見えない、見えるのに解らない。

ということで今朝は少々不思議な話を書きました。

 「無」という言葉があります。何もないの「無」だとその存在さえ現前にありません。

 これが在る無しの「無」になるとどうなるか?

 この場合の「無」はあるのです。禅問答のようですが、先ほどの差異の現象学で理解するとよくわかるのです。

 これを色即是空、空即是色にあてはめるとお叱りを受けます。

この地球ドラマチック“色”は脳で作られる! ~あなたと私は同じ色を見ているの?~もとても素晴らしい番組した。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


不安感と無常感

2012年02月28日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 NHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」が先週の日曜日で全4回を終了しました。この番組については残り80%を補うような参考書があるので倍番組を楽しむことができました。最終章は著書では「交換する人・そしてお金が生まれた」でした。

 個人的に印象に残る言葉は「信頼」という言葉です。物々交換における信頼、人間だけがもちえる信頼という感情、最も近しいチンパンジーにはないこの感情、その感情は貨幣の信頼にも発展して行きます。

 今朝はこの「ヒューマン」についての話ではありません。書きたいことが山ほどあり過ぎて、この件については後日に回したいと思います。しかし解釈の創造的な思考探究する癖のある私にとっては関係性という視点で、どうしてもこの「信頼」という言葉だけは書いておくことにしました。

 この「ヒューマン」はすべてはアフリカから始まっています。ここでアフリカの「ブッシュマンが死ぬほど恐れていること」についてある文章で紹介したいと思います。

 ときどき別内容で参考にしている書籍で動物学者フランス・ドゥ・ヴァールの『共感の時代へ』(紀伊國屋書店 柴田裕之訳)に書かれている話です。

<引用>
 ブッシュマンは、長い距離と複数の世代を網羅するネットワークの中でのささやかな贈り物ややりとりに多くの時間をかけ、多くの注意を傾ける。合意によって意思決定に至るように懸命に努力し、社会から爪弾きにされてり孤立したりするのを、死ぬほど恐れる。

<上記書p39>

 これらの生活の根底に流れる感情にこの「死ぬほど恐れていること」があるのです。「死ぬほど恐れる」とは「恐怖」ということです。信頼を損ねことは不安感を増大させ、それは恐怖なのだと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 フジテレビ系で放送された土曜プレミアム『たけしのニッポン人白書』で「セロトニントランスポーター遺伝子」が取り上げられ日本人は「不安感」を持ちやすい遺伝的な傾向がある旨が放送されたことを最近ブログ内に書きました。
 
 「“日本人は世界一不安”の謎に世界各国90人で大実験」というものが行なわれ「不安」と「恐怖」には相異するという話がありました。実に創造を駆り立てる話でした。

 こんな実験から始まりました。ジェットコースターを用い日本人、白人、黒人の人たちの心拍数からその不安感を調査しようというものでしたが、乗車拒否が黒人の人に多くそこに「不安」と「恐怖」の意味の解釈に重大な誤りあったというのです。

 その際の解説ではムンクの絵が出て、「不安」と「恐怖」この二つの感情は別もの、

・対象をはっきり認識し、身の危険を感じるのが「恐怖」

・さしあたって身の危険は感じないが、これから起きる見えない「何か」を想像するかでドキドキしてしまうのが「不安」

したがって幼い頃からジェットコースターの知識・経験がない人の取ってはジェットコースターを経験しようとすることは、身の危険さえ感じる「恐怖」なのだ、と説明していました。

 そして不安実験は、大勢の前で急に歌を唄うという指示が出た場合の実施時間が刻々と迫っている状態の心拍数を測るというものに変更され、その測定から日本人には「セロトニン・トランスポーター遺伝子のSS型が多いという従来の研究結果を証明していました。

 「不安」と「恐怖」についての相違ですが臨床哲学著書に次のように書かれていました。

 哲学者の河村次郎さんが『心・生命・自然』(萌書房)の第3章の「心身関係論」の「3不安の臨床哲学」の中で語っているものです。

<引用>

不安の臨床哲学
 我々は自らを危険から守るために恐怖心というものをもっている。また、自己の在り方に関心をもち、生きていることの意味を問うがゆえに現在の状況に安住できない。不安とは、この安住できない意識を指している。
 
 恐怖と不安は類似の概念で、一見その間に明確な区別はないように思われる。しかし厳密に定義すると、恐怖が特定の対象に向けられた心理状態であるのに対して、不安は「自己の在り方」への非対象化的関心から生じる意識であると言える。

 たとえば、山道を独りで歩いているときにクマに出会ったら、誰もがそれに対して恐怖心を覚える。これはクマという特定の対象に対する感情である。

 それに対して、将来の生活が不安だという場合、たとえその感情が「将来の生活」という対象に向けられているとしても、やはり「襲いかかってくるクマ」のように特定化しにくい。特に「漠然と不安だ」と感じる場合、その非対象性が際立ってくる。

 このように恐怖と不安は区別されるが、常識にたがわず共通する部分ももっている。恐怖は不安が特定の対象に向けられてモノ的に顕在化したものとみなせるし、不安は個別的恐怖の背後にある普遍的感情として、モノではなくてコトに向けられているものと考えられる。

 たとえば、ある人が「自分の将来が不安だ」と言う場合、その「将来」というものは就職とか結婚とかローンの返済とかリストラなどの色々な要素を含んでいる。それらが全部集積し、かつそれが我が身に降りかかってくることを懸念して、将来に対する漠然とした不安が生じるのである。そして、その背後には「そもそも自分が生きている」ということに対する普遍的感情としての不安がある。つまり、不安は根本的には「自己の存在に関する意識」なのである。(以下略)
 
<以上上記書p58~p59)

 とても分かりやすく書かれています。

>不安は根本的には「自己の存在に関する意識」なのである。

という言葉は覚えておきたい話です。

 「セロトニントランスポーター遺伝子」で注目されるのは「不安感」です。「セロトニントランスポーター」という言葉で勘違いすることがあります。

 病的な不安が長く続いて我慢できないほどの苦痛になると不安障害となり、いわゆるパニック障害や強迫障害という問題になりますが、これは、セロトニン・トランスポーターという生体内の物質の働きを妨げる神経伝達物質が活発になり、特に脳の視床下部や大脳辺縁系の不安や恐怖心のコントロールを乱すからで、抗不安剤が今では使われています。

 番組で話題にしているのは遺伝子の関係で、神経細胞間のシナプスという接合部における余った伝達物質の再利用のための取り込み(働き・トランスポーター)の話しがくっついて話されるとなぜか日本人は病的な不安症になる傾向が強いというような錯覚に見舞われてしまいます。

 実際よく説明を聞いているそう言ってはいません。番組内での調査対象者は健康者で、これまでの「セロトニントランスポーター遺伝子」と「不安」「ストレス」「ネガティブ」の研究結果も被試験者は健康者です。

 こういう研究結果があります。国立療養所久里浜病院樋口進グループがパニック障害の患者86人の患者さんを調査したそうです。その結果割合は健康者と変わらないものであったとのことですから上記の錯覚は誤りです。

 6万年前にホモ・サピエンスが人口の増加、気候の変化などでアフリカ大陸を離れ5万年の短期間で南極を除く全大陸に」広がったのですが、この白書番組ではこの話題の最後に、

 日本人は極東の島にたどり着くまでに長い移動のなかで周囲を警戒し、慎重に慎重に生き残っていき、その間に不安遺伝子ができたのではないか?

旨をかたっていました。あくまでも推測であって確定的ではないというはなしですが、アフリカから遠く離れて・・・・と思うと不安遺伝子SS型が多いと思ってしまいます。

 しかし不安要素があるならば逆にポジティブなLL型がその感情是正のために増える変化をしないものかと思ってしまいます。この「不安感」というもの解消には薬理的には「プロザック」というような抗不安剤などが使われますがこれは病的なものではありませんが類似することはないのか?

 しかし日本には古代からつづく麻薬の頻繁利用やそれらに似た抗不安剤は見当たらず、他国から比べれば度数の低い日本酒や濁酒がある程度です。

 日本人は生まれながらに「不安感」を醸成する遺伝子の特質があるのに、それに対抗する手立てを考えなかったのか、ということになります。

 セロトニントランスポーター遺伝子のことを知ってから思考をする中で思うことなのですが、不安感を解消するには、遺伝子の変化を頼るのであれば、先ほどのLL型増加というパラドックス的な解釈結論しか出ません。そこで解釈の創造なのですが、

 「そう思うなら、そう思わないようにする」

という心構えをするしかないと思うのです。

 「不安に思うなら、不安に思わないようにする」

 「不安を忘れる」

 「不安を忘れることは不可能なので、不安を残したまま、頭の切り替えし、こころの切り替えしをする」

と考えて行くと至ところは、「無常感」ではないかと思います。詠嘆の響きの中でつづられる詩歌。

 日本列島は地震国で火山国、そして津波、冷害等、未曽有の経験と言いますが1万年の日本列島の中で考えればそれは他国に比べれば、他の大陸に比べれば定まらない不安定な大きな波長の大波の上にある船のような大陸のように思います。人生50年は戦国時代、今では70~80年と長くなり、二度も三度も経験する人が出てきています。

 逆に「不安感」は「無常感」でもある、それは光と闇のような関係ではないかと思うのです。

 不安感が前面に出るときには無常感は背景の奥に引き下がる。

 不安感が増大すれば、闇のエントロピーも高まる。不安感の光が光度を増せば、闇の暗黒の濃度も増すということです。

 番組では、「世間」という話題もこの「不安感」に関係付けていました。

・人目を気にする。

・時間に正確ではない(会議が長いだけで話がまとまらない)。

・暇な時は一人でいたい。

なども出ていました。責任をとりたがらない。突出を嫌う。平均的にそうであろうという話ですが、そう見えてしまう。

 単なる雑音にしか聞こえない虫の音に詠嘆を感じ、蛙の飛び込む音に静けさの情景を感じてしまうのか?

 大きな波長の大波の上にある船のような大陸に住む日本人。そこに何か答えがあるように思うのです。

   人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


鐘の鳴る丘コンサート“感謝の集い”

2012年02月27日 | つれづれ記

若者たち
作詞 藤田敏雄  作曲 佐藤 勝

君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯をくいしばり
君は行くのか そんなにしてまで

君の行く道は 希望へと続く
空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩き始める

空にまた 陽がのぼるとき
若者はまた 歩き始める

我が青春期によく唄った歌がホールに響いた。

鐘の鳴る丘コンサート
“感謝の集い”
~30年の歴史に感謝をこめてありがとう~

が昨日2月26日(日)安曇野市 穂高交流センター“みらい”で開催されました。図書館がある建物であり、このコンサートがあることを事前に承知していましたが時間が取れるか心配でしたが午後のコンサートを最後まで見ることができました。

 ♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台

戦後連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌です。
 
 終戦後、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描いた映画で、「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えていたことに由来します。

 日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなっろました。

 松竹映画「鐘の鳴る丘」の舞台となった青少年更生施設の建物は現在「鐘の鳴る丘集会場」として使われています。

 この建物の近くの有明山の麓に現在青少年更生施設の「有明高原寮」があります。法務省東京矯正管区所属の男子少年院ですが日本一開放的な処遇を実践している施設で、少年の更生に関しては地元とも密接に関係しています。

 鐘の鳴る丘コンサートは、地元のコーラスグループと少年たちのとの歌の交流会で30年間続けられこのコンサートは惜しまれながら昨年2月27日30年間の幕が閉じられました。

 しかし、地域と鐘の鳴る丘の有明高原寮との歌で結んだ友情の絆は消え去れるものではないとして、30年の歴史に感謝をこめて、今回の“感謝の集い”になりました。

 早春賦音楽祭実行委員長/早春賦愛唱会・鐘の鳴る丘歌う会代表西山紀子さんという先生が当初から少年たちの音楽の指導を行い、またママさんコーラスの指導に当りました。

 地元穂高有明宮城の住人としてその情熱に感謝です。まだ若い人ですので今後のご活躍を期待しています。

 学生時代にコーラスにフォークに染まった人間としてなつかしい曲についハモってしまいました。迷惑行為に相違ないのですが100%許されるものであったと思います。

交流センターの展示フロアーでは、《特別企画展》“鐘の鳴る丘の今と昔、そして未来”と題して3月4日まで、「鐘の鳴る丘」にまつわる写真等が数多く展示されています。


(穂高文化交流センター、《特別企画展》“鐘の鳴る丘の今と昔、そして未来”)


(鐘の鳴る丘:古い写真あり)

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


「文字認識技術」=「雰囲気分析技術」・日本人の技術力

2012年02月26日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 TBS系でdocomo提供番組「夢の扉」という番組が毎週日曜日に放送されています。
 先週の日曜日は、

外国語を“瞬間翻訳”する魔法のテクノロジー!
 ~人工知能の未来を開く「文字認識技術」~

と題し自称「文字オタク」という佐世保工業高等専門学校 電子制御工学科 准教授志久修 さんの文字認識ソフト開発に情熱を傾ける研究者のお話でした。

 外国に行った時に携帯で、文字の含まれる景色を写します。韓国語の実例でしたが少々斜めの画面、正面からの文字の水平が保たれていな意画面でも瞬時に文字を認識し翻訳することができるものでした。

「文字認識技術」

 翻訳機能の更なる進化の話ですが、とても印象深い番組でした。
 
<番組紹介サイト>
『この技術は、コンピューターが人間の脳に近づくための第一歩です』
  携帯端末をかざして文字を認識させるだけで、一瞬にして外国語を翻訳してしまうという世界最先端の機能。そんな技術が広まれば、海外旅行でメニューや看板に困ることは、なくなるかも知れない。
  人工知能の開発に欠かせないこの「文字認識技術」の研究をしているのが、志久修、45歳。 この分野の第一人者だが、その所属は長崎県の佐世保高専。学校の先生なのだ。わかりやすい授業とボクトツとした人柄で生徒たちの人気も高い。
 大学時代の志久は、コンピューターの素人だった。そんな彼をソフトウェア開発の世界に誘ったのは、親身になってくれた恩師中村先生。中村氏は、「これからはコンピューターの世」と、志久を自宅に招いてまで指導を続けた。大学と比べ設備も予算も見劣りする高専の教師を、志久が続けてきたのは、“技術革新の種を、若い世代にリレーしていくことが最も大切”と考えているからだった。
 志久が取り組む「文字認識技術」は、コンピューターを人間の脳に近づける“夢”の第一歩。SF映画に出てくるサイボーグやアンドロイドのような人工知能につながる試みとも言える。番組では、韓国・ソウルで行われる実証実験に密着。街にあふれるハングル文字を、この最先端の機能はどこまで“瞬間翻訳”できるのか・・・?
 
ナレーター/坂口憲二

 <以上>

と紹介されていました。NHK総合では同日に「サキどり」という番組で、

 深海探査機「江戸っ子1号」未知の海底に挑む町工場

東京下町の町工場の人たちが、海底8000mの探査機開発に取り組む姿が放送されていました。ゴム製造会社の社長、杉野行雄さんが低迷する経済の中で、ものづくりの現場を守るために呼びかけ人となって各工場の持つ技術で夢の実現へ努力していました。

 なぜにゴム製造会社の社長サンガ発起人なのだ?

と思ったのですがこの社長さんすごい技術を持っているのです。水中では電波による交信ができません。圧力で球形のカプセルごとにカメラ、電源、採集等が収められ、互いの通信用にここに通信線、電線は設置できません。そこで威力を発揮するのがゴミに特殊な化学薬品を混ぜた円柱状のゴム、これが実験で紹介されましたが水中の携帯に電波が届くのです。形状が円柱ですので水圧に負けることはありません。各装置の入った円形のカプセルのバッテリーに電源を送る方法は、電磁力による送電です。

 そもそもカプセルと言いましたが、これは球形のガラス球で、ガラス自体に穴をあけることは絶対にできない、絶対独立の球体の合体物です。従って上記の技術が必要なわけです。

 技術というものは凄いものです。ということで二つの技術の進化を紹介しましたが、最初の「文字認識」について思考を進めたいと思います。

 既存のデーターと画面解析による文字状のものとの照合、そこから答えを導き出すものです。画面解析が主にこの技術の開発が話題となります。人間の目と同じですべてを水平に写したり、人間は見ているわけではありません。

 人間は広い範囲で文字があることを認識し、それが斜めの看板であろうと読むことができます。「既存のデーター」と言ったのは文字のデーターでこれ自体は各単語の水平値で計算されていて斜め、奥行きには対応しませんので、あくまでもそのデーターと照合させるために、画面から読み取れる文字資料が文字としての認識できるものに変換するソフトが必要なわけです。スキャナーの場合は文字間の縦・横の水平値によって補正できますが、写真ではそのようにはいかないわけです。

 興味を持つのは「既存の文字との照合で文字を読み取る」という点です。

 見えるものを意味あるものとするために、それが何であるかということを認識し理解するための働きがそこにあります。

 実際に見える風景内にある文字、画像の風景内にある文字斜め、奥行き、水平・・・という諸部分の性質が他の背景との関係性の中で決定されていてそれが全体性の中で落ち着いています。

 その中から見字らしきものだけが立ち現れ、その他は背景として退いてしまいます。写真の場合には文字質以外は生滅してしまいますが、肉眼の場合は奥に退いてあることは分かりますが意識はされません。

 番組では韓国の焼き肉商店街の看板を写していましたが、翻訳によって意味不明のハングルが日本語訳され直ぐにイメージとともに意味理解が可能となっていました。

 道路を走る車に付いた案内道路標識は緑に白地、色の持つ波長により道路標識として認識しカーナビに文字が浮かびだします。

 実にすごい文字認識技術です。

 文字認識のその瞬間を考えると目撃するということは、経験を始めることで現れてくる意味の全体性で、人間の脳はその情報を意識の焦点の持ち方に合わせで諸要素、諸部分に意味理解をしていて、その際、意識される以外は背景の中に退いていきます。

 そこにある初発の純粋性は経験を初めて立ち現れその瞬間ということができそうです。

 現象学における純粋経験。ア・プリオリなものでもない経験とともに立ち現れてくる意味の総和なのかもしれません。

 昨夜フジテレビで「土曜プレミアムたけしの日本人白書」という番組が放送されていました。後半で「世間」とも関係する日本人の特徴点に「不安」についての話がありました。

 日本人は場の空気を読む民族。23対ある染色体の17番目のセロトニントランスポーター遺伝子の影響について解説されていました。これまで私はポジティブ、ネガティブな面としてこの遺伝子について理解し書いていましたが、きのうの番組は「不安感」を強調していました。

 ネガティブ=消極的な、控えめな、悲観的な・・・・=不安感

 不安と恐怖は異なる、とも言っていました。しからば狩猟採集、遊牧民の忌み嫌う「怯えさす行為」は「不安感を醸成させる行為」ということができるのか?

 不安感の醸成するもの知覚の中の見えない部分を目ざとく感知する、察知する、能力というよりも性格に近いものになっているのかも知れません。

 何となく不安だから、瓦礫の受け入れを拒否したい。

 風評被害。

「文字認識技術」=「雰囲気分析技術」

哲学するよりもいかに自分の意味理解をしていくかが私のモットーなのですが、「怯え」と「不安」、「不安」は「恐怖とは異なる」を突き付けられると意味的な複雑性を感じます。

最後に、

佐世保工業高等専門学校 電子制御工学科 准教授志久修 先生

東京ゴム製造会社の社長、杉野行雄さん

この方々のモノづくりの知恵は最高です。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


わたしは弱いときにこそ強いからです

2012年02月25日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 ニューヨーク大学付属病院のリハビリセンターの壁に書かれた詩「無名戦士の歌」をご存知の方も多いかと思います。
 
 2年ほど前に“弱き吾「信じること、立つこと」・無名戦士の詩”というタイトルでこの歌に触れました。

 宗教と直面する個のあり方、信仰と個のあり方について思索に耽ることがあるのですが、数日前改めてこの詩に接し新たなる自己の現れを感じました。

 日々古き衣裳を捨て、新しき草鞋を履き山野を巡る如き人で私はありたい。そんな気持ちになりました。NHKラジオ深夜便3月号に今月のエッセーで「広野へ」と題し立教新座中学校・高等学校長の渡辺憲司さんがこの詩を紹介しながら故郷再生の祈りについて書かれていました。

 紹介されていた無名戦士の歌は、紙面の都合だと思いますが後半部分が略されていましたので紹介します。

大きな事を成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった
 
<無名戦士の詩>
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱をあたえられた
 
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
 
世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった
 
求めた物は一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬ物であるにかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されていたのだ

翻訳されているもので原文はわかりませんが、とても胸打つ詩です。この詩を渡辺さんは学校の終業式で紹介したところ学校の聖職者の方が聖書の「コリントの信徒への手紙二」の次の言葉を教えてくれたそうです。

 キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(中略)わたしは弱いときにこそ強いからです。
      (「コリントの信徒への手紙二・12章)

と3月号には中略で聖書の言葉が引用されていました。素敵な内容で若いうちにこんな校長先生に出逢えていたら・・・・、と思いました。

中略で紹介されている言葉ですが、これは「パウロに恵まれた神秘的体験」という有名な書の言葉です。

 パウロは実際のキリストにあってはいませんが、イエス死後に信仰の道に入りました。しかしその信仰は、直弟子でもないのにすべてのキリスト教会は彼を使徒と認められている方です。

 パウロは迫害を避け、囚われを避け聖地を離れようとするパウロにキリストがささやき彼は記や道を戻り召されます。

 パウロは布教に当り「私から何かを聞いたたりしている以上に、このわたしを買いかぶる人がいるかもしれません。」「思いあがらないように、誇らないでおきましょう」苦悩の棘(とげ)サタンの回しものが去来します。

 主は「おまえはわたしの恵みで十分だ。弱さにおいてこそ、力はあますことなく発揮されるのだ」とささやきます。

 そして、「わたしは弱いときにこそ強いからです。」ということを知るのです。

 被災地の瓦礫の処理に思う。瓦礫は負担、負債か?

 誰に対する負債なのだろうか?

 行政の負担となり、ここ住人の負担となる負債なのだろうか?

 安全・安心の中での枠組みでの負債なのだろうか?

 この場合の負債は正悪で判断すべき負債であり負担なのだろうか?

 すべての人はその弱きを知っているはずであるし、その機会を今突きつけられています。

 総理大臣がすべての人の前で土下座をしてくれれば、負債を背負ってくれるレベルの話しなのでしょうか。

 自治体の長たるものの姿勢、行政機関の長たるものの姿勢に左右されるものなのだろうか?

 「わたしは弱いときにこそ強いからです。」

この言葉が響きます。

人気ブログランキングへ

 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


地球でいちばんモノにこだわらない人々

2012年02月24日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨夜NHK総合で「地球でイチバンのシンプルライフ~?タンザニア共和国・ハッザ族?~」という番組が放送されていました。

 各国の一般家庭の家財道具を見せてくださいということで、自宅前に家具類等を並べた映像が放送され番組は放送されました。日本とこの日の主人公タンザニア共和国・ハッザ族の持ち物の数に驚きました。


(NHK総合「地球でイチバン」から・日本の一般家庭)



((NHK総合「地球でイチバン」から・ハッザの家庭)



(NHK総合「地球でイチバン」から・ハッザ人々の持ち物)

「地球でいちばんモノにこだわらない人々」畑も家畜も一切なしの生活で食べ物はその日に調達、狩猟採集民族の人々です。食べ物がないわけではなく880種類以上の食物があり、家具類は上記の通りで1日5時間の労働、そもそも時間の概念が希薄ですが、そんな暮らしを大昔のシンプルな生活を1万年以上も守っている人々です。


(NHK総合「地球でイチバン」から・食料の種類)

 番組ではハッザ族の一グループ、リーダーを中心に3家族が一つのコミュニティーを作り、年に6回ほど住む場所を移動しながら生活しています。

 俳優の宍戸開さんがそんなハッザの人々を訪ね紹介する番組でした。

番組紹介サイトには、

<イチバン古い民>
 ハッザの暮らしが古くからのままであるだけじゃないんです。最近のDNAの研究によって、ハッザは人類で最初に枝分かれした、つまり最も古い民族である可能性があるんだそうです。
 まさに地球イチバンにふさわしい貴重な人々なんです!

<時間がない>
 明日また取材に来たい、とお伝えしたいんだけど待ち合わせの時間が決められない。なんでかというと、ハッザには時間の観念がないんです。太陽の角度で、大体日がこのくらいまで昇ったら、ということでやるしかない。
 考えてみれば分単位で動く我々の方がおかしいのかもしれない・・・。

<子どもたち>
 武者修行にでる少年たち。
ということは、親はずっと子どもに会えないことになります。エンデコさんにも男の子が二人いるんですが、ほとんど会っていないそうです。
 「寂しいけど、立派に狩りの仕方を学んでいるから大丈夫」と語っていました。
かわいい子には旅をさせよ、ですね。

<いずこに・・・>
 彼らが住むのはタンザニア北部。バオバブがニョキニョキはえるブッシュ。
 雨季と乾季があるが、基本的に乾燥している。訪ねたのはちょうど雨季の始まり。
 エヤシ湖という塩湖のまわりの東京都の2倍ほどの広さのに1000人ほどが暮らしているというハッザの人たち・・・いずこ?

<男と女>
 自由にグループを移動できるためか、一緒に住んでいた男と女が離れて、離婚ということもよくあるそうです。
 平均一度はみな離婚しているとのこと。理由は狩りのできない男を女が見限って、ということが多いそうです。
 なかなかハッザの男も大変ですな・・・

<受け継ぐ>
 ある集落で出会ったハッザの少年。
 6,7才の男の子も、すでに自分の弓矢をもっています。これでちゃんと狩りをしています。
 物心ついた時から弓を手にして、色んな技を身につけていく、こうして技が引き継がれるんですね。

<バオバブが大切>
 ハッザの人たちはバオバブの近くに住むことが多いです。
強い日差しがふせげるし、実や葉を食べて餓えをしのげるありがたい樹なんです。言い伝えでは、ハッザのご先祖様はバオバブの上からおりてきたそうです。
 ずっとバオバブを大切にしてきた人たちなんです。

<ハッザの人たち>
 やっとこさ会えました。ハッザの人たちの暮らしには、畑も家畜もない。
狩猟採集だけで暮らしてきたハッザの人たちは、まだ狩りをして暮らす環境も残り、移動しながらの生活が続けられているそう。
 しかし身軽だなあ。

<独特の言葉>
 ハッザの言葉は舌打ちする音が入っていて、非常に発音するのが難しいです。
これは世界で最も古い言葉と言われていて、ハッザが古い文化を受け継いでいることの大事な証拠の一つになっています。

<年齢もない>
 伺ったハッザのグループのリーダー、エンデコさんたちの年齢も分かりません。
が、当時起きた地震などの災害や出来事などから推定すると、エンデコさんは30代後半くらい。随分落ち着きがありますよね。
さすがリーダー。

と感想が書かれています。

 この中で印象にの頃のは上記の<時間>ということです。宍戸開さんが次のように語っていました。

【宍戸開】
 物以外にこれが無いなって強く感じたのは、心配するということをしない。
 彼らの言葉には、「明日」「あさって」という言葉はあるが、それより先がない。
 1週間後、1ヵ月後、1年後という言葉がない。まさに今を生きて、明日までに確定申告だからとか、領収書や請求書、電気代、ガス代行きてそういうことが一切ないから・・・。

ここで思うのは「心配することをしない」という言葉が「みずから怯(おび)える心をもたない」と言っているように聞こえるのです。

 NHKスペシャル「ヒューマン」で狩猟採集・遊牧民に共通している「罪」に「他人を怯えさせること」がありました。

 何かこれにも通じるように思います。精神的なダメージから落ち込んだ姿に部屋の隅にうずくまり震える行動があります。

 そういうことになるのを回避したい。たまには一人旅も・・・ハンザの人々はそんなことを考えない。いつも小さなグループでシンプルに生きています。

 モノにこだわり、人目にこだわり、人を拒み・・・すべてがこの裏返し。

 必要最小限の暮らし、理想であるという話ではなく、その底流に流れる心意気と言ったところでしょうか。

 ホモ・サピエンスが生まれた大地アフリカ、民族間の虐殺事件からなんとこだわりのない明るい世界観、不思議な大地アフリカでした。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


時間と愛・「愛」の直観でしかない。そんな解を発想できる私になりたい。

2012年02月23日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 遠い昔の話なのですが、こんなことを想ったことがあります。

 いまこの私が体験していること。毎日出会う人、母や父もそしてクラスの友達も、全てが私のためにあるのではないか、と。

 こういうことをうまく表現できればよいのですが、文才のなさが悲しい。

という話なのですが、つい最近、救いのような文章に出会いました。

<引用文>

 私が体験しているすべてのことは、何者かが私をだますために仕組んだ芝居であるかも知れない。
 私の同僚とか身内とかいうものは実は私とは異質的なもので、私をだます何者かの廻し者かも知れない。そういうことになると、私が客観的事実で万人に普遍的なものだと考えていることも、実は私に上手に吹き込まれたウソの話の筋かも知れない。この疑問を解くことは容易なことではない。
 
 私にとってこの疑問を解くものは「愛」の直観でしかない。

<以上>

 この引用文でいうように、
 
 私が客観的事実で万人に普遍的なものだと考えていることも、実は私に上手に吹き込まれたウソの話の筋かも知れない。
 
 と書きたかったのですが、そのような想いの体験をしたことがあります。当然
 
 「愛」の直観でしかない。

などという美しい言葉で、飾ることもなく過ぎ去った話です。

 勝手に感動した話なのですが、こういう文章を書く人がいることにありがたさを感じました。

 2012年1月30日付けで復刻され一冊の本があります。

 『時』(渡辺慧著 河出書房新社)

上記の文章は、この本の「ⅩⅡ 時間と信仰」という中の「時間と愛」の文頭にある言葉です。

 著者の渡辺慧さん(1910年5月26日 - 1993年10月15日)は世界的な理論物理学者で、今から65年程前に「時間」というタイトルで出版され1974年に「時」とタイトルを変え出版されていたもので、今年復刻新版初版として発行されたものです。

 時間を理論物理学で説きながら、「私に」とっての時間が持つ意味が書かれています。としっかり読み解いたようなことを言いましたが、物理学の方程式も織り込まれ大変難しいほんで、物理的な解説については一割も理解していません。数回は読まないと・・・それでも理解できないかもしれませんが、読み続けたいと思っています。

 そんな難しい本ですが、最終の2章の
 
 ⅩⅡ 時間と信仰
 ⅩⅢ 永遠について

はすんなりと理解できる内容でした。

さき程文頭のみ紹介しましたが、「時間と愛」は以下のように続きまたいいのです。

<引用>

・・・・私の友人、そしてすべての人が私と同質同等なものであるということは、私にとってはそれらの人とともに同一に感じる愛に信頼する以外には信じられない。それゆえ、すべて真理の認識は愛を前提とすると私は常に考えている。

 しかし、愛は人と自分とが同質のものだということを感じさせるというような、いわば静的な役割ばかり持つものではない。むしろ愛の本質はその動的な面にある。私は生命の生命たる所以は、己れが他へ働きかけるところにあると言った。その働きかけの対象がやはり一つの生命であった場合、その働きかけは愛と名づけらるべきものである。

 憎しみも生命の生命への働きかけである。しかし古今東西の文学も示すごとく、憎しみは愛と紙一重であり、人間の憎しみに憎しみのみの憎しみというものはない。憎しみは病める愛である。

「愛は与える」ということと同時に「愛は奪う」ということも真理である。あらゆる宗教は喜捨をすすめる。愛する人はすべてを捧げる。しかし、すべてを捨て与える愛はすべてを得るのである。

 神を愛する人は神を得るのである。「愛ほど利己的な感情はない」という金言はそれを意識すれば悪徳であるが、愛の第三者的な観察としては真理を含むことを否むことはできない。

 私がこのようなことを述べるのは、愛というものが生命と生命との働きかけであるということを、まざまざと心に浮べたいためである。
 
 愛が、私のいう意味での働きかけであることをもっとも明かに示すのはその創造性にある。愛は、既往にこだわらず将来を望んで動くのである。「愛はすべてに耐え、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを忍ぶ」との言葉は誠に強い愛する心の働きを言いあらわしている。

 愛は過去をすてて未来を生みだすカである。人は徳性として教えられるもろもろのことがらを思い浮べるがよい。そうすると人はその徳性のうちで真に未来へ働きかけている原理は愛以外にないことに驚くであろう。愛は報酬を求めない。それは、愛し得ること自身が限りない喜びをもたらすからである。愛することは、それ自身が目的なのである。愛は働きかけの最高の形であり、他の種々の働きかけもすべてここに帰一する。すなわちあらゆる働きかけの根源である。生きることは愛することである。そしてまた愛は人を生かすことである。愛は人をその罪のゆえに永久に罰することはしない。愛は赦し、悔い改める者に再生を許す。すなわち愛は限りなき生れかわりの原理である。
 
 徹底的に愛の教えであるキリスト教が、人類に真の歴史の概念をもたらしたということは、意味の深いことである。ギリシア哲学の時間も仏教の時間も、結局において回帰する環状の時間であった。これに対してキリスト教の時間は、限りない前進の時間である。この前進は過去の清算、すなわち悔い改めと、未来への希望により可能となる。

 そのような意味では私は、「神は永遠である」ということと「神は愛である」ということを一致させることができる。私は現代のごとき悲惨なる社会においてもなお、愛する生命をいたるところに体験する。神は彼への道を決して閉ざし給わぬことを限りなき感謝を以て認めている。

<以上同書p325~p327から>

 上記の「ギリシア哲学の時間も仏教の時間も、結局において回帰する環状の時間であった。」に違和感を持たれる人もいましょうが、裸の魂で感じている信仰の姿を見た気がします。

 初版の「時間」というタイトルを「時」と変えているのですが、腕時計に見るような目で見えるような時間ではなく、感覚で感じる時間の流れ、時の流れ、理論物理学者が「時の流れに身を任せ」感じる「時間と愛」についてです。

 「回帰する環状の時間」の中で、もしも

 私が客観的事実で万人に普遍的なものだと考えていることも、実は私に上手に吹き込まれたウソの話の筋かも知れない。

と思ったら、

「愛」の直観でしかない。

で治めることはできないのか?

 「回帰する環状の時間」はニーチェの言うような永劫回帰(永遠回帰)と捉えているのかは判りませんが、こういう時の流れの中にどんな解を発想できるのか。

 白道は上記の“「愛」の直観”の発想に類似するところを感じますが、

「愛」の直観でしかない。

とは実に美しい解です。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


マイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」(4)「負担ありし自己」

2012年02月22日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 マイケル・サンデル究極の選択(The Ultlmate Choice)「お金で買えるもの 買えないもの」の最後は「兵役に対する究極の選択」でした。

 認識不足でしたが今はほとんどの国に徴兵制度は存在しないということをサンデル教授の話しから知りませんでした。
 
 今回は仮定の話として「徴兵制について」あるものとして「子どもが徴兵された時身代わりをお金で雇ってよいか?」という質問がなされました。

 義務問題、親の心情、そのようなことができる体制なのか、・・・等の一般的な応答の中で野球界の古田敦也さんが、特に日本は過去に戦争体験はあるものの、時代の経過とともに実感的な「徴兵」というものが身近になく、お金で徴兵の身代わりを買うことの是非の論議は荒唐無稽な話になってしっている旨をかたていました。

 確かにいまの日本では、常時問題意識で平和問題に携わり、また啓蒙により身近に実体験的なイメージを持ち得る程になっていれば論議も深まりましょうがどうもそういう雰囲気にないようにも思われます。

 しかし、作家・東京都副知事の猪瀬直樹さんは、3.11東日本大震災に伴う福島原発事故による放射能問題、そこに携わる人々に焦点を当て、実際身の危険を感じながら立ち向かっている人がおり、お金で雇われている実態は、徴兵の身代わりを買うことに似ているのではないか、国民はお金を払うことで危険への対応の身代わり行っているのではないか、旨の問題提起がなされました。

サンデル教授は。

 コミュニティー全体のため極めて危険な状況に身を置くこと、原発に危機に立ち向かおうとすることは戦争の場合とある意味似ている。とても説得力のある例えだ。

と徴兵制にも似たことが現実にあるのではないかとの指摘され、放射能漏れ事故という事態に、身の危険を犠牲にして立ち向かう人々の存在を前提に話が進められました。


(NHKマイケル・サンデル究極の選択から)

【サンデル教授】
 ではコミュニティー全体のためにそのような犠牲を払ってくれる人を選ぶ、公正な方法とは何だろうか? お金だろうか? それとも他に原則はあるだろうか?

との質問され、女優の斉藤慶子さんが、

【斉藤慶子】
 原発だと現実的で言葉にしにくいものがあるのですが、思想とか正義感というものが基本の柱としてあるとしてもそこにはお金とか、補償とかそういうものがないとなかなか動かないという現実があるのではないかと思います。

旨を応えられていました。ここで番組時間も残り少なくなったのでしょうか、これ以後はサンデル教授がまとめも含め次のように語り番組は終了しました。

【サンデル教授】
 私たちはお金と市場原理に対する道徳的な問題について、とても素晴らしい議論を交すことができた。とても難しい議論だ。

 社会的に何が正しいか、全員が同意することはない。しかし美徳や善い生き方、その本質に迫る議論をしなければ、お金を使うことがどのような場合に適切なのかを知ることはできない。

私たちの社会では、過去30年以上のもの間こうした議論をしてこなかった。市場原理を過信する時代を生きてきたのだ。なぜなら、みな知っているように市場経済は私たちに富と繁栄をもたらしそれはとても良いことだとみなされていたからだ。

 しかし今日この議論で学んだことは、こういうことだ。

 市場原理だけでは、(また)経済理論だけでは、正しい社会、よい社会とは何かを決めることはできない。そして明らかに、「善い生き方」の意味を決めることも出来ない。

・市場からどうやって最もよいものを引き出すのか

・市場原理やお金が大切な価値観を損ねるのをどうやって防ぐのか

こうしたことを決めることに共に考えて行くことが必要だ。一市民として私たちはこれらの大きな哲学的問について共に考え判断して行かなければならない。

なぜなら、市場は大きな成功をもたらすものだが、それが人生の全てではないからだ。

金融危機の直後、あるいは3.11の大震災の後から考え直すことが始まったのだと思う。


(NHKマイケル・サンデル究極の選択から)

 私たちはすべてのものが作り出される世界に住みたいのか、それとも市場原理が通じない、お金では買えないある種の道徳的、共通の美徳を重んじる社会に住みたいのか考える時期なのかもしれない。

<以上>
 放送番組という時間制約の中での討論でした。最後は活発な討議がされず残念でした。

 サンデル教授の授業は結論を出さい。と言われます。確かに普遍性のある結論は導き出されていません。

 そこで次の話を紹介したいと思います。白熱教室が有名になったころの話です。

 昨年の大震災の直後の話しですが、『中央公論<3・11と日本の運命>』2011年5月号で「コミュニティ志向を超える倫理」と題して経済学者の岩井克人さんと文芸評論家の三浦雅志さんの対談が掲載されていました。そのなかの「いまなぜ正義論なのか」と言う対談で、岩井さんが次のように話されていました。

【岩井】冒頭で編集部から『資本主義から市民主義へ』の中で私が話したことを引用していただきました。それは、もちろん、サンデルをはじめとしたいわゆるコミュニタリアニズムを意識しての発言です。

 ただ、そのときはベストセラーになったサンデルの本はまだ出ていませんでした。出版された直後に読んでみましたが、彼の考え方がわかりやすく述べられており、面白かった。

とくに功利主義対自由主義-----私は功利主義対家主義というほうが正しいと思うのですが、この二つの正義論の対比は大変に巧みだと思いました。それから、カントの議論の解釈も明解です。

 ただ、私はサンデルが、カントからジョン・ロールズヘと系譜を引き、そこからアリストテレスに戻り、ロールズを経たアリストテレスの現代版として自らが提唱してきたコミュニタリアニズムを正当化していく議論の運び方は、説得力がないと思います。

 確かにロールズの『正義論』はカントから出発しています。そして、カントの思想を「無知のべ-ル」の下での社会契約として形式化したことは、功利主義に対抗する権利主義の現代的な復活に大きく寄与しました。

なぜなら、経済学の分析道具を使うことによって功利主義と同じ土俵に立った上でその批判を行えたからです。

 だが、そうすることによって、カント的な思想が現代に対して持つ大きな射程が失われたと思っています。ロールズ自身晩年の『万民の法』では、カントから離れてしまっています。だから、ロールズを批判的に継承したと自任するサンデルは、アリストテレスにまで戻っていってしまった。

 アリストテレスは本当に偉大な思想家です。だが彼の正義論はあくまでも都市国家という共同体内部の善のあり方を論じたものなのです。・・・・

<以上同書p171から>

このように評価する方も多いようです。

 番組の最後の話の中には、

・一市民として私たちはこれらの大きな哲学的問について共に考え判断して行かなければならない。

・ある種の道徳的、共通の美徳を重んじる社会

この言葉の中には、市民というコミュニティにおける成員として、「負担なき自己」批判から「負担ありし自己」、そして共通善の考え方を持つべき旨の内容が含まれています。

 善き生き方と、正しさを求めるここには大きな違いがあります。「正の優位性」「全に対する正の優位性」という問題にサンデル教授は批判的です。

 危険性がある以上正しくない。リスクがある以上絶対に正しくない。

そこには「善い生き方」と微妙に異なる思考がずれる現実があります。それぞれに異なる価値観があるという原因でもあると思います。

 そこで必要なのはこのような話し合いであり討議です。それをサンデル教授は示してくれていると思うのです。

 会議で突然大声を出し訴える。訴えなければ誰も真剣に考えない。そう思うのは当然。

 デモで訴え続けなければ忘れ去られマスコミも取り上げない。そのように思うのも当然。

それぞれの善き生き方です。しかしどこかで共通善を共有しない限りいつまでもこういう問題は一つにまとまることはないのです。

「負担ありし自己」これはとても重要なことだと思います。瓦礫の処理一つ見てもお分かりの通り、放射能の危険が無いにもかかわらず負担を拒否する実態があります(自治体受け入れ拒否)。

 そういう人もいて当然の世の中ですが、何か悲しいものを感じます。

 サンデル教授の話の根柢にある「負担ありし自己」ということをよく考えてみたいものです。

   人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


マイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」(3)代理出産と市場原理2

2012年02月21日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 サンデル教授の究極の選択の番組で語られたことを中心にこのところ書いています。昨日に続いて、

 妊娠のアウトソーシングは正しいか?

 という問題について、インド西部の町アナンドの借り腹型代理出産というインド女性が自分の支給を貸し出し彼女らが10年働かないと得られない賃金7000ドルを10ヶ月で行なう仕事に従事する人たちが紹介され多内容についての賛否と討議です。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

 今回は、インドでは2002年から商業的な代理出産を合法化している実態というものも映像で知ることができました。最先端の科学から古代からつづく暮らしが同居する国インド。お釈迦様がお生まれになった国でもあります。

 核保有国でもあるこの国は、カースト制度という身分社会が根強く残る国でもありカースト制度にも組み込まれない不可触選民の存在があります。

 近代のインド仏教の再構築者であるアンベードカル博士の思想はこの忌むべき思想を解体すべく努力してきましたが、根強くいまだに悪しき実態が存在しています。そんなことも再認識させられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて今朝は討議から入りたいと思います。討議状況を主張内容は変えていませんが言い回しを少し修正し文起こしをしました。

 サンデル教授がゲストに、

【サンデル教授】
 この妊娠のアウトソーシング」に賛成する人は?

と質問したところ4/5でした。4人のゲストがこのアウトソーシング(外部委託)に賛成していました。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

野球界の古田敦也さんは賛成する側として、

【古田敦也】
 一つのアイデアとしてあってもよいと考える。就業的にも法律的にも不備な点があるので各地域、国によってリールや違いがある。国の実状がそれぞれに異なるので一概に否定できない。
 どこかで線引きをするのであれば実状について互いに議論し法律で決めて行けばよいのではないか。

旨を答え、反対側する側として作家・東京都副知事の猪瀬直樹さんは、

【猪瀬直樹】
 この場合には経済的合理性はあるのだけれど、それはその国の中で解決すべき問題だと思う。先の国内における代理母の問題(アメリカのベビーM訴訟)は契約でお金がきちんと支払われていれば成立するかもしれないが、インドの場合とは経済的収入の格差が大きすぎる。・・・

と言ったところで

【サンデル教授】
 国際貿易を認めない? 
 給与レベルの低い国に工場を作ることは間違っている?
 大きな格差があるから?

と質問します。猪瀬さんは、


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

【猪瀬直樹】
 この場合は、どこかで生命倫理の歯止めを国内の法律できちんとで生命倫理をきちんと整備する問題で、工場のアウトソーシングとは異なりますよ。

旨を応えていました。さらに

【サンデル教授】
 どこが違うのでしょう?代理母ビジネスと。

とさらに質問をぶつけます。

【猪瀬直樹】
 その文化の中で決めなければいけない。インドならばインドの国内の中で決める問題で、カナダ(代理母制度を法律で禁止している)ならばカナダの中で決めればいい問題で、つまり死生観とか道徳感とかものの考え方が違っている。これは車のアウトソーシングと異なると明らかに思う。

と応じていました。

思うに、猪瀬さんは、車と赤ちゃんとは異なりますし、車の生産工場と赤ちゃんの生産工場を生命倫理からいって同等ではありません。無機物と生命とを同じ価値観で見る論議は次元が異なると言っているのだと思います。

確かにそうです。何となく頭の中で赤ちゃん生産工場というレベルで市場経済の中においてしまいますが、それはやはり誤りである、そのように感じました。

サンデル教授はボストンのインド系のハーバード大学のハリアットという女学生に意見を求めます。

【ハリアット】
私にしてみれば女性が自分お子宮を貸し出すことは、売春のために体を貸すのととても似ているように思います。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

【サンデル教授】
 道徳的に売春と類似している?

【ハリアット】
とても似ているように感じます。

【サンデル教授】
 公衆のための仕事だ。それ以上に何が類似している?
 両方とも品位を損ねる? 搾取的だと?

【ハリアット】
 はい、女性の体を搾取しています。どちらのケースでも体の一部を貸しだしています。

ここで登場するのがタレントのSHELLYさんで次のように実際に目にした経験から答えます。

【SHELLY】
 それはあまりにも違うと思います。彼女たちは、これをすることによって確かに少しは心を傷つけるところもありますが、人に与えているのもすごく大きくて、この施設を私は知っていますが、彼女たちは10ヶ月間共同生活をしてそこで色々な勉強をしたり、色々な技術を身につけ、その(対価として)もらったお金を資金として自分でビジネスを始めたりする人もいる。今まで全くチャンスがなかった人たちがこれを機に人生をガラッと変えることができるのです。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

 だから、確かにアメリカという国で育って色んなチャンスがあって、いい大学を出ている人から見ると、「そんなの」と思うかも知れませんが、何のチャンスもなくて、何の希望もない人にこんなことがあるということはラッキーなのかも知れないし、それを「ダメ」というのはどうなのか。それをしかも売春と一緒と言うのはチョット失礼すぎると思います。

【サンデル教授】
ハイアットなんと応える。

【ハイアット】
 SHELLYは代理母が依頼人に与えるものも大きいと言いました。しかし売春を擁護する人だって売春婦がお客に与えるものも大きいというでしょう。

 この二つはとても類似していると思います。

 セックスは素晴らしい行為ですが、お金のためとなったらそれは貶められてしまいますから、実際に代理母は子宮を貸し、売春婦も体の一部を貸しています。
 私が言いたいのはどちらの場合もその女性が貧しい場合には搾取して終わってしまう、ということです。

 私自身インド系ですしインドで暮らしたことがあります。お金のない人はどんなことでもお金のためにやってしまうものです。貧しい人たちは、判断力を失いがちです。彼女たちを守るべきです。お金を介した代理母契約を禁止することでそれができるのです。

【サンデル教授】
 上海(復旦大学)のクァン。

【クァン】 
 妊娠のアウトソーシングという産業は、一見合理的に見えますがインドが自由な市場とはいえません。代理母たちは、貧困という経済状況に支配され続けています。ですから彼女たちには他に選択肢はないのです。

【サンデル教授】
 クァンは「ここには真に自由な選択はない」と言っている。東京のミナ(早稲田大学)、

【ミナ】
 私は妊娠のアウトソーシングは認めます。この場合経済的システムはしっかり機能しています。かつて人類には奴隷がいました。彼らには選択の自由もなくお金も支払われませんでした。でも代理母には選択肢もありお金も支払われています。

 それで幸せになっているのですからどうしていけないのでしょうか?

【サンデル教授】
 上海のヤン

【ヤン】
 私が言いたいのは、代理母ビジネスはインドとアメリカでは違うということです。インドではすでに確立されたビジネスなのです。彼女たちは子どもを依頼人夫婦に引き渡すときにどうやって気持ちを切り替えたらいいのかも知っています。

 これは道徳感が国によってそれぞれ違うという事情を反映しているのです。

【サンデル教授】
 ヤンはアメリカとインドはそもそも違うものであり、価値観も異なるのだと言っている。 それに対する簡潔な答えは「ハイアット」?

【ハイアット】
 私は道徳感は国によって違うとは思いません。なぜなら文化が違っても人間、そして人間の体はすべて同じだからです。ですからどこかで暮らすかによって道徳的な基準が変わってはいけないと思います。

【サンデル教授】
 いいだろう。普遍的な道徳の原則について大きな問題が提起された。普遍的な道徳の原則はあるのか、ヤンは道徳感は国によって文化によって違う、と言った。

 ハイアットは、そうではない、どこかの国で人間の尊厳に反しているのであれば、それはすべての国で人間の尊厳を反していると言っている。代理母を擁護する学生もいれば、批判的な学生もいた。

(ゲストに向って)誰か意見は?通販会社社長の高田明さんが応えます。

【高田明】
 ズット議論の中で一つだけ欠けている考えなければいけないものがあるのではないかと思うのです。
 
 問題は生まれてくる赤ちゃんの立場で話すことが全くない。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

 人の命ってどんな人でも平等で、重さも同じで、人生はぼくは素晴らしいと思うのです。 人間と生まれていたからこそ経験できるものとか、普通の動物ではないところに人間の素晴らしさがあって、そして生まれた生命は秤にかけてもまったく同じものだと思う。だから赤ちゃんの視点から議論をするということがすごく必要ではないのかな。

 今回の場合は依頼して、赤ちゃんが生まれる。そうしたらきっと依頼した人は大事にその子供を育てていくから赤ちゃんが幸せになればこんな素晴らしい制度はないのではないかとわたしは思いますね。

こ 多分インドの国がお金だけでそのインセンティブだけで許可をしているとは思わないのです。ッ結局依頼した人の幸せのためということも考えてインドの国はそのような法律を作っていると私は信じたい。そのようにおもいますね。

【サンデル教授】
 ありがとうございます。

でこの議論は終わり次の兵役に関する議論に移るのですが、ここでまとめとしてこれまでに出てきた哲学的な問題が整理されます。

【サンデル教授】
 これまでの議論で提起された大きな二つの哲学的な問題を整理しよう。市場原理を使うことへの反対意見として一つは、

・貧困という条件のもとでは例え自由な市場における選択に見えても、それはある種の搾取であり、完全に自由なものとはならない。

ということだ。もう一つの反対意見は、

・その行為の自体の本質に関わるものだ。

例えば代理母契約は、女性自身の品位、親子の間の絆を損ねるものだという意見だ。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうまとめられ次の兵役の議論に移ります。

 ハーバード白熱教室の第5回で議論された「お金で買えるもの 買えないもの」の講義は今回はこのように進められ第5回では最初に議論された問題が次に議論されますが、次回に回します。

今回のこの代理母問題の討議は今までになくそれぞれの意見がしっかりしていて心が揺り動かされる説得的な内容でした。

 誰が幸せで、誰が不幸なのか?

 今回このアウトソーシングで不幸な当事者は誰なのか?

 搾取と当の本人が思わなくとも、そのように見えてしまう。人の幸せが、他人から不幸に見えるのではないだろうか。

 シーナ・アイエンガー教授の「選択の科学」では、人の選択の背景にはその国の文化や習慣などがあると言います。道徳や倫理観をどう見るのか。そこに違いはあるのか。

 道徳や倫理観は理性に関わる話です。選択は直感と理性的な判断で行われる。

 何が良いことで、何が悪いことなのか。自分の良いとした選択も他人からすれば悪いことにもなる。

 今回は高田さんの話に赤ちゃんの立場で考えるという話がありました。

 普通なら生まれてくることができなかった赤ちゃん。


(NHKサンデル教授の究極の選択から)

 宗教観の中では輸血の問題と同じで絶対にあり得ないことにもなる。

 しかし方法はともかく生まれてくる命は、生まれ出る命。

 実に深い話です。

 全ての人が幸せになるために思考の世界を膨らませねばならない。不幸になる発想もあるという分別に惑わされることなく無分別の智慧をしっかり持ちたいそんな気がしました。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


マイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」(3)代理出産と市場原理1

2012年02月20日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 マイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」(2)では、

 生徒にやる気を出させるために市場原理を導入することの是非

が論議され、「金銭的な動機付けは、どこまで許容されるか。」という範囲からこれに答えるためには、教育や職場においてどのような美徳を大事にするかという更なる大きな「問い」を自分たちに向けなければならない、という方向性の議論に発展しました。

 そして次に議論された問題は「代理出産」と市場経済との関係です。ハーバード白熱教室では第5回のLecture2「母性 売出し中」で議論され、『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)では「第4章 雇われ助っ人---市場と倫理」の「金をもらって妊娠」で詳しく語られています。

 ここで扱われる代理出産ですが、女性が妊娠し出産する場合。

・ 卵子と子宮を提供する場合

・ 子宮のみを提供し、精子と卵子は契約夫婦のものを使用する場合。

の二系統があります。

 まず論議される最初の事例は1986年にメアリー・ベス・ホワイトヘッドという女性いわゆるベビーM訴訟です。

 契約にもとずく代理出産ですから「契約は契約」と解し履行義務を負う。

まずこの点が議論の出発点になります。アメリカは、消防の民営化のようにどこまで行くのか契約社会という感じです。

 ニュージャージー州の裁判所に持ち込まれ予審では夫婦側が勝訴し、メアリー側が州最高裁に上訴しそこでは「代理出産契約は無効だ」という判決が下りました。

 精子が父親ですから自分の子に間違いはなく「人身売買」という論理を全面的に出すことは予審の判事が言うようにそれは該当しないように思います。

 契約は契約であって、二人の合意した成人が、双方の利益をもたらす契約を自発的に結び、夫婦は遺伝子的につながら子どもを得、メアリーは妊娠の仕事と希望額の報酬を得る。ということです。

 サンデル教授はそうは言っても、履行の強制に二の足を踏む人もあることを承知しています。

・十分な情報が持たされていたか。
 子どもを引き渡す時どんな気持ちになるのか。
 彼女が最初にそんな同意をしたのは、お金に目がくらんだのではないか。
 自分お腹を痛めた子どもと別れのはどういうことなのかがわかっていなかったのではないか。

・赤ん坊を売買したり、女性の生殖能力を貸借したりするのは、たとえ両者の自由な合意の上であっても好ましくないのか。
 子どもを商品化するものではないか。
 妊娠や出産を金もうけの手段として女性を搾取しているのではないか。

 この議論の際、日本側のゲストは全員履行の強制に賛成でした。賛成意見の中で出席者の最初の回答側に立たされたタレントのSHELLYさんが、「(身体・子宮を)貸す」という行為をその論理の正当性の中で語りました。

 実は論理の展開においては上記の通り「貸借は」二の足を踏む理由のに含まれるため、サンデル教授は、必要に「今貸すと言った」と強めの問いを発していました。あわててSHELLYさん相手の不妊に対する「同情心」を前面に出しましたが、本当は身体を貸すことの正当性を前面に出せば早めに深みのある論理展開になったかもしれません。

「人間の尊厳を尊重することは、人を単なる道具とみなすのではなく、目的そのものとして考えることを意味する。だからこそ、ほかの人の福祉や幸せのために人を使うのは間違いである。」

という功利主義が間違っている本当の理由を正し、人の尊厳を尊重し、権利を守ることが重要というカント哲学がチラつくのですが。

斉藤さんの場合は「遺伝子」の話が出てきます。先ほど言いましたがこのケースの場合は遺伝子に関しては双方その主張ができるのですが、あえて合意の上での契約だからと主張する斉藤さんに対し、逆にサンデル教授が「遺伝子的につながりのある代理母に、あなたは同意して契約したのだからどうあっても手放さなければならないというのですか?」と質問しました。

 こう言われると困るのは確かに日本人、血統という概念が頭に去来し先ほど言ったようにこのケースでは双方同じ立場であることを失念します。そして難しい質問と言いながら考えた末に、代理母には健康な子供が二人いるが依頼の夫婦にはいない、それプラス精子は夫婦の夫のものであるという論理展開で答えました。

 この応答に対し、サンデル教授は斎藤さんに、

 三人の子供がいる夫婦がいて、その夫婦に対して一人の子をお金を支払うから養子にくれないか、と持ちかけた場合はどうか?

旨の質問をぶつけます。すると斉藤さんは合意があればよいと答えながら、その話の前提条件として三人目は育てられないという理由を付加させます。

 SHELLYさんが素早く「それでは人身売買になる」「そのために生んだのかという論点にもなってくるので」と話の流れの中で何が問題になるのかが、このような応問をするうちに解ってきます。

この問題に対して学生の意見ですが、「子どもを依頼人夫婦にわたす契約は履行すべきである」に賛成する者は東京3、ボストン2、上海1で6/22でした。

 サンデル教授は、履行に反対の学生の意見を求めます。そこで見られるのは上記の「履行の強制に二の足を踏む人」人の理由に重なります。

子どもを商品化するものではないか=命に値段を付けることになる。

という東京の女学生がいました。斎藤さんは夫の遺伝子を持つ子を育てたいと言う愛情論を出しますが、この女学生は、

「子どもを愛することに遺伝子は関係ないと思います」

ときっぱり流暢な英語で答えていました。血統という概念が頭にチラつく人にはきつい一撃です。

女学生はミヨさんという人ですが、上記の理由のほかに代理母に反対する意見として三つ付け足しました。

・赤ん坊の売買は女性の地位を貶(おとし)めるものである。

・赤ん坊を売る権利は、母親(実親)にも存在しない。

・この契約は人間の幸福や社会秩序に反するため無効だ。

というものです。白熱教室での不可譲の権利、非人間的行為という展開とよく似ています。

白熱教室ではサンデル教授の

【サンデル教授】

 非人間的であると表現したこと、それは「金で買ってはならないものがあるのではないか」という疑問を提示している。

 単に同意に瑕疵があったからというだけでなく、ある種のものは単なる利用よりも崇高な方法で適切に評価されるべきだからだ。

と話しで上記に書いた「「人間の尊厳を尊重することは、人を単なる道具とみなすのではなく、目的そのものとして考えることを意味する。」というカント哲学の紹介となるのですが、今回は、上記のメアリーは生んだ子供の生物学的な母親でしたが、次に

・子宮のみを提供し、精子と卵子は契約夫婦のものを使用する場合。

という「借り腹型代理出産」を合法的に国策としているインドの事例に移りました。

 インドでは代理母制度を合法化したくさんの女性達がお金をもらっての妊娠という形で働いている、という知らない人が初めて聞けばビックリするようなことが今現在インドでは行なわれています。

※ このことについては、『これから「正義」の話をしよう』(早川書房)で詳しく解説されています<「妊娠を外部委託(アウトソーシング)する」同書p131~p135>)。

番組ではその実体をビデオ紹介しました。インド西部にあるアナンドという町、代理出産が商業的に行われていることで有名なところで、依頼人夫婦の受精卵を常時50人以上の女性が体内に宿している旨のナレーションで始まります。

この街のあるクリニックでは、代理母のためにメイド、料理人、医師つきの集団住宅が供給され、そこでは15人の女性が世界各国の顧客の代理人を務めています。

 こうして働く女性たちが稼ぐ金額は4500ドルから7500ドルで、この金額は彼女たちが他の仕事で稼いだとした場合の15年分に相当するそうです。

 アメリカでもこのような借り払腹型代理出産という個別販売があるところがありその場合は、代理母は妊娠一回に月2万ドルから2万5千ドルを受け取り、代理出産に掛かる総費用は、医療費や弁護士費用も含んで7万5000ドルから8万ドル掛かるようです(上記書による。

 したがってインドがいかに安いか分かり、商業化のイメージが拡大します。

特徴点は上記のとおり体内に宿す子と代理母との間には遺伝的な繋がりがなく単に女性たちは子宮を貸すだけです。

 毎月3人の子どもが生まれ番組では7000ドルで10年他の仕事で働いた場合の金額に相当し、それが10か月間子宮を貸すことで得られると紹介されていました。

 各国から年間数百組の夫婦が訪れているとのこと驚きです。

 カナダでは法律でこのような代理出産は禁止されているとのこと番組では双子の赤ちゃんを出産した女性とカナダ人の母親の話が放送されていました。

 番組に登場したナヤナ・パテル医師は次のように語ります。

【ナヤナ・パテル医師】
 貧困国では何をやっても搾取だと言われてしまいます。代理母を引き受ける前彼女たちの暮らしがどんなものであったのか、それが代理出産かでどう変わったか調べれば、どうして問題があると言えるでしょうか。

と話していました。先程の双子を生んだ女性は「赤ちゃんを贈物としてご夫婦にわたせてうれしいです。わたしのこころは痛みますが、でもこれは私自身が決めたことです」と話していました。

 サンデル教授は、妊娠の言わばアウトソーシング(外部委託)と語りながら、

インド女性は、ヨーロッパやアメリカの女性よりも安い値段で出産を肩代わりしている。そしてインド人女性も代理出産をすることでより豊かになれる。

 市場原理。女性たちに新しい形の雇用と収入源を与えようと国が認めた事業だ。

 ゲストの中でこのアウトソーシングに賛成する人はで議論は進められます。

今朝はここまできて出勤の時間になってしまいました。この後の議論と番組内容については次回に回そうと思います。

人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村