月間文芸誌『2014.9新潮』に中沢新一さんと東浩紀さんの「原発事故のあと、哲学は果可能か」という対談記事が掲載されていました。
専門家であるのは当然でしょうが、対談全般に流れるお二人の思想的課題の発想能力に驚きました。この記事を読み理解する私自身の中に西谷啓治先生の言葉が浮かびました。
「近世以来の自然科学によって、自然的世界の像は一変し、世界は全く非情な、人間的関心に対して全く indifferent な世界として現れている。それは神と人間との人格的関係を横に切断するものになっている。その結果、神による世界の秩序とか歴史の摂理とかいうこと、更には神の存在ということ自身も、縁遠い想念となり、人間はそういう想念に対しては無関心になりつつあり、ひいては自己自身の人間性に対しても無関心になりつつある。」(『西谷啓治著作集第10巻』「虚無と空」p101)
ここに語られている「世界は全く非情な、人間的関心に対して全く indifferent な世界として現れている。」は、二人の対談の発起にもなる「3.11東日本大震災で惹起した原発事故」における放射線に対する人々の恐怖心の現実の様相の現れに相似しています。
核の力というもの原子力というもの、そこにあるのはこれまで平穏のうちにあったユークリッド幾何学の世界を離れ、人間の実の目には見えない、人間の予想不可能な世界が開かれている。
新約聖書のマタイ伝の「山上の垂訓」の教えの結びでイエスは「善きものにも悪しきものにも降る雨」を語ります。
自然界における雨は恵みのもとにもなりまた、雨障(あめさわ)りという災いのもとにもなります。
自然界とはまさに非常であり、どう見ても人間に対して無関心である事態が起きます。
放射能の恐怖心は、まさに見えない世界、量子力学には人間的思考を超えた予想不可能性の世界があります。
自然界には核のエネルギー、原子の働きがあります。目に見えない働きは底知れぬ無底から呼び覚まされたように、非常な事態を表現します。
「善きものにも悪しきものにも降る雨」
垂訓から何を学べはよいのか。記事内の前半でお二人は次のようなことを語られています。
【東 浩紀】「原発事故後、しみじみ思ったのは、僕たちは自らの生物的な危険を分子結合のレベルで感じている。」「直観で理解するという点については、脳の構造で絶対的な限界があるはず。」
【中沢新一】「僕らが何かを恐れるというときは、ものすごく古い動物的な記憶で反応します。だから原発事故が起きたときに、核科学や社会学のレベルの反応と同時に、とても深い生物学的レベルでの恐怖心が生まれました。」「生態圏に適応してきた生物たちには、人間も含めて核技術は不適応なのですね。頭は対応するけど、体が対応できないってことかな。」
対談のほんの一部の対談の中の言葉ですが、「人知を超えた、雨障りに見舞われている。」それに人間は対応できない状態にあることを語っているように思います。
思うに「人知を超えた、雨障り」に超意味への信仰にある人間はどう応えるべきなのか。
核の力を道具としたとき、「物となって考え物となって行う」ことの不可能性が解ります。
生態圏の人間の道具として核の力は存在する段階にあるのか。進歩、進化、人間の進歩先走りに進化が追い付いていけない。そのような様相がそこにあります。
「無常な世界の中に自分を投げいれてそこで生きていく」
「無常に会って、無常を行ずる」
思うに、日本人には確かに無常感から中世を超えて無常観への働きのうちの止揚があるように思います。
この対談には哲学好きな素人には多くの問いを与えてくれます。ブログ最後に、
中沢新一さんは次のようなことも言われていました。
【中沢新一】西田(幾多郎)さんや田邊(元)さんが必死になって言わんとしていた哲学はけっこう生きると思っています。ただそのためには、さっき東さんが言ったような、最適な形で現代に適合するような表現法をつくらなきゃいけない。今のやり方じゃ全然駄目ですね。だけど未来の哲学がどこへ普遍化されていくかって言ったら、日本の哲学、「環太平洋哲学が進んでいたラインが、そこには重要な部分として組み込まれると思う。
このような話を目にするとニンマリとしてしまうのですが・・・・。