最近に始まったことではないのですが、いわゆる不祥事が発覚したり、刑事責任が問われたりした時に「身の処し方」と形骸化をつくづく思うことがあります。
訪問するブログを見ていて感じた言葉があります。その言葉とは「死にぎわ」という言葉です。
古語では「死にさま」という言葉になるようです。「何という死にざま」などと言うことはめったにありませんがそのように使われることがあります。
これと似た言葉に「往生ぎわ」という言葉があって、しでかした出来事にみぐさい反論などをしたときに、「往生ぎわが悪い」などと使い、この方が耳にする機会が多いと思います。
JR事故調査委員会元役員の事前の故意による情報提示問題、数々の上級公務員の呆れた天下り問題・・・・・。「誠に申し訳ありません」の言葉で済ませるもの、全くその道義的責任に気づかない者。呆れることが多すぎます。
このようなときに行なわれる、反省の態度に「身の処し方」の悪さ、「往生ぎわ」の悪さを感じ、本来的な「往生」の意味が失われているのが現代社会だと思ったわけです。
東京大学竹内精一教授が紙上の「やまと言葉の倫理学」で「申し訳ない」という言葉について語っていました。の言葉はしっかりした説明責任がなく、あいまいな言葉で事足りたということにあるようです。そこがよその国の人に真意が伝わらないということになるようです。、
そもそも「誠に申し訳ない」の前提にある「責任」という言葉は、西洋的思想の訳語であって、日本語に訳しなおすと「責め」ということにしか表現できません。
現代は西洋的教育で培われた社会。「謝罪の弁」でよいかもしれませんが、何か足りないものを感じます。竹内教授は「言葉」の解釈にその曖昧さと解説していましたが、本来日本的な身の処し方は「反省の弁」のみで足りていたのではないと思います。
本来「誠に申し訳ない」は言葉による表明で、その他に「身の処し方」という言葉の「身体伺い」の「身体」を伴うものではなかったかと思うのです。
それを古語の「身を捨つ」にみることができます。「身を捨つ」という「身の処し方」には「出家」も含まれていました。
これは吉野に下った天武天皇にみえるように万葉の時代から、「身の処し方」として存在していました。それが対する者への誠の意思表示であったのです。
これが武家社会になると当然「死にぎわ」が問われる「身の処し方」に変わってきたと思います。そんなことがこの身に染み付いているのでしょうか、今の責任あるものの「身の処し方」に何か足りないものを感じるのです。
なぜ現代人はそうなってしまったのでしょうか。
現代人は身も心も常について回ります。それは当然で常識です。ですがそれは逆に身が常に執着の対象で離れられないことを意味します。
執着のない身とはなにか、それは捨て身の腹切り、自害の対象の身のことではありません。身と心の分離。物理的な分離ではありません。今この時のあるがままの身と心です。
超越的概念を異次元的な発想で思考するのが現代人、本来超越的なるものはその場を離れることはないですから非情説法も聞くことができるのです。
9月29日が、道元禅師がお亡くなりになられた日でした。
「活(い)きながら黄泉に落つ」本来ならば「極楽」「涅槃」「あの世」に往生を遂ぐなのでしょうが「一枚岩の境目の向こう」の黄泉に落ちるというのです。
非情の一枚岩です。境目などはどこにありましょうか。
現実の延長線の中にしっかりと死が組み込まれているから「死にぎわ」が分かると思います。死にぎわが察知できるから身の処し方ができる。私から離れることなく脱落の身がそこにあるから生涯の総括ができるのだと思います。
現代人はバーチャルな世界を好みます。身で感じている私であることを忘れ、仮想の異次元で遊ぶ。現実もそうだと思い込む。従って映像であらわされ、活字で表わされものにも同種の感慨を持つ。
「腹を切れ」という過激なことをいう訳ではありませんが申し訳の「身の処し方」を再考すべきではないかと思います。
これからの責任に対する身の処し方は、「死にぎわ・往生ぎわ」のよいものであってほしいと思います。