一輪の花に、「他者に対する影響」や「他者に対する配慮」する善人的な思いを見てとれるような人間いなれたらと思うのですが、そもそも善人的行為は「このような行い」と言明しているようなものですから、どう見ても囚われの世界に遊んでいるだけです。
愚直なる行いが、人の道ならばいいわけであって、一輪の花に悟りの境地を語ったところで既に「離れている」で、「不立文字」とはよく言ったものです。
言葉を羅列して何を示そうとしているのか。
これは私への問いでもある。
私にとっては、ハンナ・アーレントの思想はある種の思考の転回です。サンデル教授の公共哲学における対話の中にみる、問われている事態を理解し、いかに公共性における”正義 ”を求めようする姿がそこにあります。
ハンナ・アーレントは、自分よりもより自分に近い。
前半の自分よりも、さらなる審級の自分にある。
前半の自分は全否定されるわけではなく、単純に視点が転回されるだけです。前回は『責任と判断』における訳者である中山元先生の「訳者あとがき」の第一講の解説を掲出しました。今回はその続きで「第二講」をここに掲出します。
カントの中村元訳『純粋理性批判』のわかりやすさを語るブログがありましたが、確かに中村先生の著書はわかり易い。私の本の読み方は「はじめに」と「おわりに」あるいは「あとがき」から読むようにしています。
素人ですから理解力に乏しいわけで、この方法が理解のための視点の置き所はっきりするからです。
とにかく講釈は置いておきます。
「第二講では、この道徳と自己の関係の特異な性格を考察しながら、第三帝国においてナチスの命令に逆らって、道徳的な無垢を維持することができた人々が採用したのは、「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない」というものだったことに注目する。そのようなこういをしたら、わたしは自己との間で仲違いをしてしまい、もはや自分を愛することも、自己とともに心穏やかに暮らすこともできなくなるというのが、、こうした人々が悪をなすことを避けた根本的な理由だったのである。
これは明らかに否定的な根拠である。善を為すことを選ぶのではなく、悪を為さないことだけが選べるのであり、そのためには死をもいとわないという明確な姿勢に貫かれていたのだった。アレントはこの根拠を哲学的に解明することで、それはソクラテスの示した命題だったことをつきとめる。プラトンの『ゴルギアス』では、ソクラテスがどうして不正を為すよりも、不正を為されるほうがましであるかを説明しながら、それは自己と、すなわちわたしという一人のうちにいるもう一人の人物と仲違いをするくらいなら、世界の全体と対立するほうがましだと宣言したのだった。この道徳律は、自己を根拠とするものであり、他者に配慮したものではないという意味で、西洋における道徳と自己との特殊な関係を象徴的に示すものであった。」
<以上『責任と判断』(みすず書房)訳者あとがきから>
以前昭和期にソクラテスというよりもプラトンの著作を読んで死を選ぶ人間が増えたということを書きましたが、その時は単純ないつもの引用でしたが、この短い文章だけでストンと落ちました。
文字に書かれるとこうなのか。
死に逝く人の心境はわかりませんが、貫かれた考え方も人にはできることがわかります。
「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない」
そう言えたらどんなに楽か。
本当は、楽にはなれないんですけど。
いつのまにか「悪の凡庸さ」に陥っているのかもしれない。