思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

相依の世界

2005年03月19日 | 宗教
 この集団というか新興宗教に入信している人を知っているが、その人は仕事で山に行っていたところ未確認飛行物体いわゆる「UFO」が目の前を飛んでいったことで、人生観が変わって入信したとのことであった。

 自然の摂理に神の姿を見るのは、集合的無意識の世界だ。太陽光を浴び身体に気が宿り手かざしの力にもなると信ずる人々もいる。

 集合的無意識の領域にあるのならば、世の人々全員が幸せになればよいのだが、人は懐疑的であるのもまた当然の摂理で、現実はいろいろな人々がそれぞれに生きている。
 ちょっとしたことで幸せと感ずる人もいれば、物欲が満たされないと幸せと感じない人もいる。

 明日から仕事内容が、昨日とまったく異なる内容になる。自分で選んだというよりもなるようになっていく我が人生であるように思う。
 多分得るところが多いと思うので、緊張感はあるものの自然体で対応し自分の変化を見たい。

 自然の流れを阻害することが、日本人の深層にある罪意識と思っているが、うつろい行くものをそうだと決めつけ、それに固執することは、ある面ではその意識と共通するものがある。
 真理と断定すると必ずそうではないものが現れるのが、相依の世界に我々が住んでいる証である。
 そういうことを素直に受け止められると新しい自分を発見し、そしてまたうつろいの世に漂いながらまた、新しい自分を発見する。
 だから毎日は新しく一大事とは今日只今のことになる。

生まれ変わりの科学が人生を変える。か?

2005年03月14日 | 宗教
生まれ変わりの科学が人生を変える。か?

 日本における景教の歴史、すなわちキリスト教の歴史をみると本格的な宣教はザビエルに始まる。
 その後の江戸期における迫害を経て明治維新後今日の姿になった。
 景教の段階で微小な流入があり、古代史も含めた真偽はともかく東北のイエスの伝承があるように古代において何かしらの布教的なものがあったと推察される。

 その流れには、仏教の伝来とある種の共通点があり、なぜあるかは、人々の、また人間の本能的に希求する何かがあるからである。

 その希求するものは、もがき苦しむ現実に直面、遭遇したときに、どのように対処すればよいのであろうかという答えであり、仏陀の苦の滅の求めである。

 時々送られてくるメールの中に「生まれ変わりの科学」の書籍の話があった。
 
 この飯田先生の書籍については、一期的な出会いで購入し、創造で始まるその書籍は、我が心の求めを癒すものであた。
 その後、多くの癒しを求める人々が目覚めの出会いを求めることから先生は、必然的に第2段を出版され今回はCD付であった。

 信じる信じないは、それぞれの人のその時の「我」の段階で決まるが、「生まれ変わり」というと「輪廻転生」ということになる。
 
 私は、最初の出会いの中で全てを認め、スピリチュアルな世界にのめり込んだ。
 外国女優の輪廻転生、インドの前世を記憶する子供たちの話、あらゆるそのての出版物に目を通し、「What Dreams May Come」というロビン・ウイリアムの映画なども含めかなり勉強させていただいた。

 自分に、もがき苦しむ環境がまったくなかった訳けではないが、なぜか生来好きなのである。

 それ以前にユングの世界に学生時代出会い、無意識、意識、元型、普遍的無意識、通過儀礼等々を自分なりに理解を深めていたことも共鳴に一役買っている。

 それも私という個のもつ、誰に教えられたものでもない求めであった。

 それが生という誕生のもつ原因から縁起という通過儀礼の一コマなのである。

 「偶然は偶然ではない」全ては縁起による。

 ユングのその思想は、その後、河合先生が日本のユング学の紹介と基づく啓蒙なされるとその影響を受け、日本国に生まれ日本を知らない私の次の段階の出会いを与えてくれた。

 それまで、渡来人研究の日本の神話研究の中で出会った神々の存在も古代人の精神文化とともに、さらに次の段階の私という「我」の形成に影響を与えてくれた。

 このような一個人の人生での何かしらの出会いは、K. ウィルバーの意識の進化の段階な目覚めの必要条件であると思うようになった。

 今の自分の意識状態、品格状態、人となりの状態を見つめ、身の整えをしなければならない、それが人なのである。

 「"生まれ変わりの科学"が人生を変える。か?」それは、是である。それが必要な段階の人がいるからである。

 原始仏教が、輪廻転生を否定するものであるとしても依り処の私を形成するには必要なものであると思う。

 否定も肯定もしない「無記」とはその意味である。
 
 人の人生は布である。経典における漢訳の「色」は、すばらしい言葉である。
 藍色と一言でいってもその色調等の相異があるように、染まり方はそれぞれに異なる。

 染まる時期も当然、四季が影響するし温度、湿度などの環境とタイミングもある。

 己が出会う今日ただ今の中に、それが通過儀礼でありタイミングとチャンスであると見極められるかは、それまでの己の整え方にある。

非我、無我

2005年03月06日 | 宗教
 人間の息づかい、すなわちこの世に生を受け、日々、只今に己を整え生きる人間は、五蘊の構成要素でその時その時の我(が)なる仮物を作っていく。

 「自分とは、」と問うてみても、所詮、仮の我で、固定された本性などは見出せないし、我なるものは存在しない。
 ゆく川の流れのようであり、「そこの水」といったところで、元の水にあらずである。

 自らを燈明・拠所・寄邊・島・洲とするために、あらゆる現象が我が身に迫り来るし、また整えし道を求める。

 求道の世界は、宗教のみではないことは、「道を究める」の語があるように、明らかなことである。

 中村勘九郎の襲名などを見ていると、然り。余命幾ばくもない我が身でありながら、認知症の患者の医療に情熱を燃やす医師の姿やそのスタッフの姿を見ると、然り。

 生命は、息づかいから始まり、呼吸が止まると人は息絶える。これを死という。医学的には、脳死もあろうが、はるか昔は、そうなのである。

 アートマンというのは、この過程にの息づく命のことではなかろうかと思う。
 そこには、仮の我の自己があり魂という形而上学的な概念も意識されるし、神も存在する。

 自己なるものが存在しなければ、神も仏の存在も当然認識されないのである。
 非我、無我それは息づかいの始まりの前、生命誕生前の状態ではない。当然に時間認識も、己を整えし時にしかなく、離人症、人格障害の整えし仮の我を失うと時を失う。

 「何十億年の宇宙の歴史・時間は」と言ったところで、言葉に出した時や頭の中に想念しただけで億年の時間は瞬時に経過してしまう。

 「瞬時の前は無なのである。」と言うと「今有る世界の存在は」ということになるが、仮の我の表象で、五蘊の作り出す世界なのである。

自分こそ自分の主

2005年03月03日 | 宗教
 法句経160「己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄るべぞ、よく整えし己にこそ洵、得難き寄り辺をぞ獲ん」・長部経典「さればアーナンダよ。ここに自己を燈明(洲)とし、自己を依処として、他人を依処とせず、法を燈明(洲)とし、法を依り処として、他人を依処とせずして住せよ。」は、仏陀の教えとされる自灯明・法燈明、自帰依・法帰依である。

 中村元訳の真理のことば(ダンマパダ)160では、「自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自分をよくととのえたならば、得難き主を得る。」となる。

 寄り辺とする処を己(自己)と法に分けられているが、己は、一生涯の実践の主体でありまた法の実践で整えられた己でもあるという意味で寄り処はこの己に尽きる。

 あるとき仏陀のところにコーサラ国の王が訪ねてきたときに語った話に、四方から己に迫り来る巨大な岩石の話がある。
 迫り来る岩石に、軍勢であろうが、金品財宝があろうがなんの役に立たない。これは自分に迫り来る老・病・死であり、「王よ、何をしなければならないか(自ら)考えなければならない。」というような話で、最終判断は己で下すことになる。

 自分の周囲のものがすべて死んだ時、頼るべき親子兄弟、親戚友達、そして国家など自分を取り巻くすべてを失った時、寄るべき処は己だけである。

 よく己を整えた人は、神や仏を心の安らぎの中に見る。

 怒りの中に神を見る者は、勝利の中に神を見る者と同じく、己の整えを失った者で偽りの神を見ることしかできない。

 己を失う理法をかかげる宗教は、偽りの宗教である。

 「己を失っていることに気がつくものは幸いである。」なぜなら己を整える道があるからである。