思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

信心を聴く

2016年04月30日 | ことば

 人の話を「きき」、自らの体験を語る。東日本大震災の被災者に寄り添い活動する人たちの話を知ると、被災者の話に耳を傾ける大切さを語る人が多い。被災者の苦しみは、その苦しみを他人(ひと)に語ることで解消するわけではないが、癒されていくことが多いようです。

 耳を傾ける、とは「きく」耳をもってという、相手に意の心を向けた行為ということです。傾聴するとも書くことが出来ますが、単純な「きこえること」ではなく、相手に寄り添う心が重なっている、ということのように思います。

 「聞こえる音」が「聴こえる音」という漢字を使った表現で書くことが出来るような気もします。

 マナペディアというネット辞書には「聴く」について、

 「聴く」は、積極的に意識して音に耳をかたむける場合に使います。例えば次のように使います。
・クラシックのコンサートで素敵な演奏を聴いてきた。
これは、コンサートの音を意識してきいているというシチュエーションですね。授業を聴くやCDを聴くというように、耳をかたむける音が決まっているような場合に使います。

 「聞く」は、意識しないでただ耳に入ってくる音を受け入れるという場合には「聞く」を使います。例えば次のように使います。
・教室の外から、車の音が聞こえてくる。
これは意識して車の音を耳にしているのではなくて、ただ勝手に耳に入ってくる音をきいているというシチュエーションですね。また、道をたずねるときにも「道を聞く」と使います。

と解説されていました。このサイト辞書には「いし(意思・意志)」についてもその使い方が書かれていて、

「意思」は、自分の考えや思いのことです。例えば次のように使います。
・彼は大学に行く意思はないようだ。
これを簡単に言い換えてみると、彼は大学に行く考えがないらしい。

「意志」とは、ある行動を「する!」とを決意して、その気持ちをキープしようとする積極的な心の持ち方を意味します。個人の中ではっきりと決定された意向、意図をあらわすものですね。例えば次のように使います。
・彼はなんとしてでも大学に行くという意志を持っている。
これを簡単に言い換えてみると、彼はなんとしてでも大学に行きたいらしい。

と解説されていました。私の知識では、「意志」は哲学の世界で使われ、法律用語になると「意思」という漢字が使われます。

 このサイトで、「きく」「いし」の言葉の世界を知ることとなりました。このサイトでは、「きく」について、

 聞くと聴くは、実は日本語よりも英語で考えたほうがすんなりと理解できる場合があります。

「聞く=hear」で「聴く=listen」です。

 listen to musicとはいいますがhear musicとは言いません。これはlistenが音に注目して耳を傾けるという意味があるからなんですね。

と追記されていて、合理的な英語の世界とともに合理的な漢字の世界を知ることが出来ました。

 簡単に物事を知ることが出来ることを「合理的」というならば、確かにそのとおりで、英語も中国もその発音で意味する内容に相異が現れます。

 合理的の反対は不合理ということになりますから、日本語の音の世界、話し言葉の世界は不合理極まりないということになります。

 しかし合理的、不合理という区別は、自らの立ち位置があるということで、判別、識別は自らの尺に依存し、不合理という場に置かれているものからすれば、確かにそうは思うのですがなぜか釈然としません。

 バイリンガルな言語の世界にある人は日本語の不合理さを思う話を聞いたことがありますが、違いの世界というものは異色な世界を構成するかというとそうではなく、不合理という言葉自体、真に意味ある世界を形づくっているように思うのです。

 旧石器、縄文から日本列島で伝承し使われる日本語、古語から現代後までの変遷は当然ありますが、合理的世界から不合理とされる指摘される言葉の進化は、進化論的な物の見方からすればあり得ない世界です。

 人の話を「きく」。

 「きく」という音声の中に既にその意の向きが、置き所がある。意とはこころを意味して書いています。

 あなたの意向が「きく」を意味づける。

 昨日は、10人ほどの人の話を聴くことが出来ました。語り合う場ではなく、一方的に語られる話の場で、私はこの人たちの話を聞いたわけです。

 内容は、人生の学びを語るもので、それぞれが苦の世界に身を置かれ解決の道を得、また人生に明るさを見出した話でした。「教えの世界」に身を置くことで得られた安らぎの世界、宗教のような世界です。

 聞こえてくる話に、聴く世界が現れてくる。

 私は私のもつ尺度でこの話を聴きました。

 話とは相手があってこそで、言葉はそのためにあります。意志の疎通、意思の疎通を図るために言葉は、成っています。動物の警戒音としての鳴き声ではなく、心の交流としての言葉の成立です。

 10人ほどの人の語りは、それぞれに原稿を読み上げるもので、自らを書き込む、そして語る、この為すことがこの「教えの世界」の、その教えの教化であり、個のこころの強化にもなるのでしょう。

 他の人に、思いを語ること。その話に耳を傾けること。リアルのその場の雰囲気。

 問う意味の世界で、問われる存在として私は傾聴したわけです。

 不合理な言葉として日本語をみるならば、相手の真意は直接届かない。すると相手の人格性などは付き合ってみないと分からないことになります。

 言葉の中に敵意が見える合理的な言葉ならば、すぐに敵味方を判別することが出来ます。大陸に生きる人々ならば言語が異なるだけで敵味方がわかります。

 日本語は方言でお国がわかる程度で、結局は間を置くか、付き合ってみるが最良の生き方であると・・・そのように歴史は織りなされてきたようにみえます。

 信ずるものとは、あいまいさ、あわいの中に現れてくる感覚のことのように思えます。

 信心(しんじん)、回心(えしん・かいしん)

 親鸞に教えに関した、唯円の『歎異抄』にみる言葉の意味するところ。

 難解でわかりにくいが、信じさせていただくしかない信心

 称名(しょうみょう)ではなく聞名(もんみょう)という。

 「仏の呼び声を聞く、それが他力の念仏」

 100分de名著『歎異抄』の講師釈徹宗さんはそのように解説されていました。

 聞こえ聴こえてくる。とでも表現できるかもしれません。

 己を捨てる、我のはからいを無くす。只管打坐の世界はそこにこそ、竹林に跳ね返る小石の音が聴けるのかもしれません。


私はそういう器になりたい

2016年04月26日 | 思考探究

 最近放送された真田丸に豊臣秀吉の太閤検地、度量衡の統一の話がありました。同じ秤で測れば同じ評価で石高を知ることが出来る。

 同じ視点で物事を見つめればいつもの通りに、同じものを見ることが出来る。

 同じ器で物事を測れば、同じようなものを生産することが出来る。

 熟練工は、秤を用いなくとも同じような量、同じようなものを毎日作り出すことが出来る。

もの作りでも、人間の心持の話でも「同じ」ことがくり返される。

 毎日が同じことのくり返しを嫌がるならば、単純に器を変えれば、結果は異なることになります。

 自然現象の脅威に脅かされる、それは時代という時の流れという視野で見つめれば、有史以来くり返されている事柄です。

 脅威という器で測ると、それは驚異以外の意味は見いだせず、人間の悲哀というものは常に起こるものと見ることが出来ます。

 必然性、偶然性と秤は語る。因果関係で物事を測ることもあります。

 こうすればこうなると。
 
 チェルノブイリも秤で見れば、同じような考えをする人を、異なる考えをする人を見ます。

 正しさの器がそれぞれにあって、それぞれを測る。

 同じような人間は毎日同じようなことをくり返す。

 この革袋の存在は、皮袋の器を離れることが出来ない。

 「できない」という器、秤がもの申す。

 必然性も偶然性も、まして因果関係などもないという器を持ちたいものである。

 私はそういう人間になりたいと、賢治は言うがわかるような気がする。

 すると私の心に一つの器や秤が生まれる。

 志向性、思考性の向こうに器や秤が見える。


光にふれる

2016年04月24日 | 思考探究

きのう、きょうと朝は雲が厚く、朝焼けを見ることはできませんでしたが、しばらくすると雲も薄れ温もりのある陽ざしが差し込みはじめました。

 春の山菜といえばタラの芽、昨日は、少し離れたところにある畑に行くとタラの芽が食べごろに成っていました。

 

 旬の食材、さっそく朝食にてんぷらにして食べました。採って10分以内、大きさはこのぐらい、どうしてこんな美味いのか。縄文時代からあったに違いありませんが、縄文人には天ぷらは無理、江戸時代にならないとこの美味しさは現れなかったことでしょう。

 雨上がりで土が柔らかく、食後は草取りにはちょうどいい具合と判断、庭の草取りを行いました。今のうちに目立つ雑草を取り除くと後が楽になる。ただそれだけのことですがこの草取り専念は気持ちがいいものです。

 

 苔庭にしたく秋の落ち葉のかたずけも徹底したのがよかったのでしょうか、苔の成長もよく、陽の光に青さが生えます。

 

 午前五時のNHK「こころの時代~宗教・人生~」は、国立民族学博物館准教の広瀬浩二郎「さわって広がる心の絆」でした。広瀬さんは、中学1年生のとき病気で視力を失い、今は「視覚を使わないからこそたどり着けた」世界を語りながら、ゆっくり、やさしく対象を「さわる」ことで人間の本質にふれようと提唱する文化人類学者なりとても考えさせられました。

 インターネットなど視覚による情報があふれる現代社会にあって、触る、触れる動作の中にある感じる世界、五感を超えてといっても超感覚な話ではありませんが、当たり前にあることへの新たなる世界を教えられたように思います。

 そして広瀬さんを見て、人とは心持ひとつで自分を作り上げるものだということもこの番組との出会いに学びました。

 私たちは、見ることの他に物や人に、触り、触れていることから得ている感覚、実際に接触している場合もあれば、感覚的のそのように「さわり」「ふれる」感覚をもとに心づくりをしています。

 日差しを感じる。肌に温もりが伝わる。草木の柔らかさ、土の柔らかさ、映像だけからは見えない世界、「観る」世界があります。「診る」「看る」世界も触診や世話をすることで「観る」世界があることに気づかされます。

 この「見る」という世界ですが、サイエンスZEROという番組でハイスピードカメラの最新技術の成果を知りました。一兆分の一秒の世界シャッタースピードと感度の組み合わせがそれを可能にしました。

 このハイスピードの世界ですが、美しさという話になると少々半減するというよりも明確性の内に消えるともいえる世界があることに気づきました。

 線香花火、パチパチと花開くように見えるものも、ハイスピードの世界では打ち上げ花火のようで目の残像として残ることによって観える花開くような世界が見えないのです。

 ハイスピードカメラは血液中の赤血球等の動きを知ることにより新しい医学の道を開き、宇宙船の安全性を高めたりと別世界を切り開くカギになることは確かです。

 「みる」世界、とは光の世界、植物にとっては光合成に欠かせない存在です。光は赤青黄色の世界です。

 植物工場という話を追加しますが、植物に交互に赤色と青色の光を当てることによって植物の成長が2倍になることからこの技術が広がっているようです。赤色で栄養分を蓄え青色でこの栄養分を成長エネルギーに転換することは従来わかってはいましたが、実際に交互に照射し続けるとこの倍の成長になることが偶然に発見されたとのこと。

 人とは本当のすごいものです。

 「光にふれる」という題名にしましたが、見える光もあれば見えない光もあることは確かです。「ふれる」という響き、柔らかさがあります。なぜなんでしょう。


人間存在の意味するところ「迷いと救いの間(はざま)で」

2016年04月23日 | 思考探究

 伊集院光さんというタレントさんは感性の鋭い人だと常々思うのですが、第三回の『歎異抄』の中で、親鸞聖人が唯円に諭す「1000人殺し」の話に、これまでの知識の中からある心理学の番組から得た知識を重ね合わせた話には感心させられました。

 ある男を集団で暴行しているビデを画面を見る試験者

 むごい行為に誰もが嫌悪感を覚えます。

 そこに説明がなされます。集団暴行をする人々の理由です。なぜその男は暴行を受けているのか。

 その理由は、この男がある家族を惨殺した。少女を暴行した。・・・という暴行に対する正当化理由です。

するとどうでしょう、試験者のこころに芽生えた嫌悪感が消滅するどころか快ささえ現れます。

 唯円は親鸞の教えに絶対的信頼を持っています。その親鸞から1000人殺しを命じられますが「私にはできない」と応えます。

 人は縁によって生きています。いつ私はこの暴行のされる側、する側に置かれるかわかりません。自分の家族が目の前で殺されるとするならば、する者を止めに入り、殺すかもしれません。

 人を殺す正当化理由、アメリカの原爆投下は、アメリカの若者を救うという大義。

 キリスト教を信ずる少女たちを拉致し、暴行することは我が神への忠誠であり天国が待っている。

 人間は常に大義を求めそれに従おうとします。絶対正しさの中に生きなければならない。

 それが人間に宿る業(ごう)です。

 嫌な人は嫌に見える。私を束縛する人は嫌な人。アドラーが言うように私の自由を脅かす人だからです。そういう人間はいなくなればいい。誰もがそう思います。

 嫌なものは離れることはありません。人であれ何であれ。

 この世には楽なことはないということでしょうか、そもそも安楽という理由づけそれ自体が人であることの産物。

 人間は意味づける動物という存在という話も、人間だからそういう理由をつけます。

 自然現象が憎い!

 なぜこのような運命に出会わなければならないのか。

 遠くの地にある私はそう思う。

 そのとき、離接的偶然という言葉が浮かぶ。

 私がその場にいれば苦悩する存在そのものとなります。たまたまそこに居ないだけ。

 私には仕事があって救いの手を差しのべることが出来ない。せめて救援金の道をと理由づけ行動する。

 世の中は堂々巡りの理由づけに終始する。

 天声人語に原発の安全性を確保している理由づけよりも、まさに今その安全性を叫ぶこと事態に、稼働停止を意味づけるべきだという話が語られていました。

 正しさという大義を重ねたいのだが、それも人間存在の業であろうか。


心理学を学ぶ意義とは?

2016年04月21日 | 心理学

 朝の通勤時間帯にラジオで鈴木杏樹さんの“いってらっしゃい”という番組を聴くことがあります。先週(4/11~4/15)のテーマは『心理学』でした。

 5回の放送を全部聞けたわけではありませんが、翌週のはじめには番組のブログにその内容が掲載されていて放送内容を知ることができます。それによると

『心理学を学ぶ意義とは?』

『投影について』

『日常生活で使われている心理学』

について5回に分けて放送されたようで、私が聞いたのは月曜日の一回目『心理学を学ぶ意義とは?』だけで、他は聞くことができませんでしたがこのブログを見ることによってその語られた内容を知ることができ、大変勉強になりました。

この“鈴木杏樹のいってらしゃい”ブログは文立てで鈴木さんの語りの雰囲気がよく出ています。

・・・"心理学を学ぶ意義"ですが、心理学によって"自分"を知ることが出来るそうです。

その結果、人間関係をスムーズにすることにも繋がっていくそうです。

ご家庭や学校、職場、あるいはご近所付き合い・・・

私達が日々、生活していく上で、相手が誰であっても人間関係は欠かすことが出来ませんよネ。

人間関係がスムーズにいっている時は、毎日が楽しく充実しています。

ところが人間関係が上手くいかないと、日々の生活は楽しいどころか苦痛なものになってしまいます。

それが続いてしまうと、あれこれ悩んでストレスがたまって体調を崩してしまうこともあります。

それ位、人は人間関係に左右されやすいそうです。

ところが人間関係というのは、本当に難しいもので、"どうして自分は、上手く人間関係を築けないのだろう・・"とか、"何であの人とは、他の人のように上手く付き合えないのだろう"と悩んでしまいますが、その疑問は"自分"に向けてのものだそうです。

心理学を学ぶことで"自分"を知ることが出来て、その結果、人間関係を築いたり、修復することへの糸口になるヒントを得られるのだそうです。

以上が私の聴いた内容です。

この鈴木さんのお話は、わたし自身がこれまでの学びの中で充分に知り得ていることですがあらためて月曜日の通勤時間帯の車内で語られると、我がこころの内の叫びに聞こえました。日ごろ何を学び何を根付かせてきているのかという問いでもありました。

 昨年の春第二の人生で現在の職場に就職し、職場の老人との人間関係で心の落ち着かない毎日が続いています。

 この心持を是正するにはどうしたらよいものか。

 番組の次の日は、火・水曜日の二日に分け『投影について』について語っています。

・心理学では"人間の行動には、必ず理由がある"と考える。

・心理学を学ぶことで"どうして自分はそんな行動をしたのか?"その理由を推測して、自分のことをより深く知ることができる。

 その方法の1つが『投影』です。

 人間関係の中で"この人とは生理的に合わない"とか、"仲良くなれない"、"苦手"という人は必ずいます。

 その人から"こんなことを言われた!"、"こんな不愉快な思いをさせられた!"というように何かしら原因があれば理解できますが、思い当たるものが、何もないのに、接しているとイライラしてしまったり、自然と距離を保ったりしてしまいます。

これは『投影』という心理によるものが大きいそうです。

まさに私の不愉快な毎日が語られているようです。

 苦手な老人がいる。

 避けることのできない毎日、番組ブログでは、

"苦手"と感じている人の"どんな所"が苦手なのか挙げてみます。

例えば"声や話し方が苦手"とか"仕草が不快に感じる"とか

いろいろあるかと思います。

実は今、挙げた"相手の苦手な所"というのは"自分の嫌な所"で、

"自分の苦手な所・嫌いな所"を、その人に映し出しているそうです。

"そんなことはありません!"と思われるかも知れませんが、

心理学ではそう分析しています。

例えば"あの人の八方美人の所が嫌い"というのは、

実は"自分自身も八方美人だから嫌い"というのと同じだそうです。

"あの人のああいう所って嫌だと思わない?"と人に言ったところ

"あなたもそういう所、あるわよ"って言われた経験ありませんか?

ここまで語られてさらにハッとさせられます。妻にこの苦手な老人の話をしたところ、私に似ている、といわれたのです。

これが、『投影』という人間の心理で、"自分の心を守る働き"の1つです。

自分の嫌な所を、無意識に心の中に抑え込んでいるため、

自分では気づかず、その代わりに相手に"投影"することで、

それが見えてしまい、その人を苦手だと思う、まさにその通りです。


"相手の苦手な所"というのは"自分の嫌な所"で、"自分の苦手な所・嫌いな所"を、その人に映し出している・・

 人は自分の中にある"嫌いな所・許せない部分"を無意識に抑えようとする心の働きがあって、それと同じものを持つ相手を"否定"しようとすることになり、嫌な思いはまさにそこに原因があるということです。

ですから、"自分の嫌な部分"を認めることが、"嫌い"を減らすことになる、というわけです。

「投影」

 妻との接し方に反省の余地ありで、変わる努力を続けています。するとどうでしょう、こころの依処の家庭がある、の大切さをしみじみ感じさせられました。

 職場の嫌な思いは相変わらずですが、時が過ぎれば巣に戻る。それだけでも大いにありがたいことです。

 今年に入りアドラーの心理学を学ぶ機会がありました。アドラーの『人生の意味の心理学』、2月にEテレの100分de名著で取り扱われたもので、哲学者で日本アドラー心理学会認定カウンセラー岸見一郎さんが講師で100分間の番組ですが、たいへん考えさせられました。

 さっそくアドラーの『人生の意味の心理学』(アルテ)を購入しようとしましたが品切れで、入手まで1か月以上もかかりました。その間に岸見一郎著『アドラー心理学入門』(ベスト新書)を購入、読んでみると心にくさびを打ち込まれるようでした。


 第五章「人生の意味を求めて」に、「他人を気にしない」というテーマがありました。

 まさに私の今の心持へのアドバイスです。

「敵がいないということは絶えず人に合わせているということですから、不自由な生き方をしているといわなければなりません。」

 「私たちのことをよく思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ、自分の生き方を貫いているということ、また、自分の方針に従って生きているということの証拠ですし、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えていいのです。」

と書かれていて岸見さんは、「誰からもよく思われるか、自分のことをよく思わない人がいることのどちらかを選べと言われたら、私ならば後者を選びます。自分のことを嫌う人がいても自由に生きたいのです。」とまで語っています。(同書p149ーp151)

 このアドバイスも、心に効きますねぇ。

 まさに私にとっての敵である職場の老人。

 さんざん、人に「気にしなければいいのに」とか「来年の春には退職してその後は天国」などといわれて「我慢、我慢」でしたが、この「自由」に対する思考視点の転回は、精神的無意識における意味器官に呼応して心持を転回してくれます。

 老人に見る私の投影。

 まさに私は敵を作っていました。私という敵を・・・。

 この岸見さんの著書には、「自分が決める」というテーマも書かれていて、V・E・フランクルの名とともに次のように書かれていました。

  アドラーと一時期一緒に仕事をしていたフランクルは次のように言っています(『宿命を超えて、自分を超えて』春秋社)、環境や教育、また素質でなく自分が自分を決める。人間であるということは、このあり方しかできない、他のあり方ができないということではは決してなく、人間であるということは、いつでもほかのあり方ができるということなのである。と。これはまさにアドラーの言っていることです。(同書p136-p137)

 「自分が自分を作る」というのは私個人がこのブログにこれまで何回も書いていることで、いかに軽薄であるかがわかります。

 わかるまで苦難はおとずれ意味を問う。

 そんなこんなで親鸞さんの『歎異抄』が今月の名著。

 人間だから縁によって常に心は行き来しています。たまたま悪人になれなかっただけでいつ悪人呼ばわりされるかもしれません。

 ときどきの問いの機会に耳を傾ける、それが救いなのかもしれません。

 鈴木杏樹さんの『心理学を学ぶ意義とは?』から始まった話ですが、自分の心を知る、そこに通じるのではないかと思います。


人間にとって“神”とは何か?」

2016年04月17日 | 宗教
 Eテレでモーガン・フリーマンの「時空を超えて」という番組が今季も放送されています。先週は「人間にとって“神”とは何か?」というテーマで、脳科学者、心理学者の視点から人間が神を信ずるこころを作り出す過程が語られていました。
 
 世界には超越的神を信仰する人々もいれば、そのような超越的、人間の知的な世界を超えて存在するものそのものを否定する無神論者もいます。番組では神を信仰する人々の信ずるに至る科学的な理由の解明ですが、外国版のこの番組はそもそも信ずる、信じないの二者択一の視点から番組制作が行われています。
 
 人間存在そのものの不思議を語るのではなく、モーガン・フリーマンが番組最初に自己の「神の存在への疑い」を持つに至る契機から話は進められています。
 
 最愛なる者の死。神はそのような理不尽なことはしないはずだ!
 
 幼きモーガン・フリーマンはそのように感じたとのこと。神の国に召されたのだという理由付けができるまでに信仰の成熟が無い頃には確かに疑いが起こります。
 
 それならば子供が神を信ずるきっかけは何か。
 
心理学者のジェシー・ベアリングは自分の体験とともにその解明を試みています。謎解きの思考発想の元は、「ルール」と「他者の目」です。
 
 ルール、言葉を換えれば倫理・道徳で、大人に守るべきことを教示されそれに従うことが正しいことだと子供は思う。しかし「守るべきことに従う」という決断決定が「他者の目」の不存在ともに瓦解する姿は、かつて倫理・道徳観の根源を探求する実験に見た自動販売機に貼付された人の目シールを思い出させます。
 
 コーヒーを飲む場合は販売機の横の箱にお金を入れる。
 
 大人でさえ自動販売機の設置場所に他者がいなければ、支払わないものも現れます。
 当然子供もルール破りをします。
 
 結論から言えば「人間は他者の目を気にする存在」ということになります。
 
 アドラー心理学では最初にこのことが語られます。
 
番組では「問いに満ちたこの世界」という発想から解明する心理学者も紹介されます。テキサス大学の心理学者ジェニファー・ウィッドソンは「人がものごとの意味をどのように読み取るか」も研究者が登場します。「脳は意味を求める」ものであるという発想からすると、「人は意味を問う存在である」という考えということになります。
 
 本能的に眼前に広がる世界に意味を求める。
 
思うに人間の五感の世界は、意味を問うための器官ということになります。人類へと進化する過程において五感が作り出されていく。これは生きるため、生命存在の根本的な防衛器官でもあるように思う。
 
 失うことは死を意味する。
 
 心理学者V・E・フランクルは「人は人生に期待された存在であり、人生にはどんな時のも意味がある」と、意味の問いを語りました。
 
 現実存在(実存)として人は、存在の只中で生きる意味を問われる事態に遭遇します。出遭ったことを無かったことにすることは不可能です。「人間は、人生の意味を問う存在である。」というフランクルの思想は、人は問われる存在だからこそ経験するその只中で「意味」の問いを喚起される、呼び覚まされるものであるといいます。自明ということ「おのずから、みずから」に明らかにされる、照らされるというわけです。
 
 意味の転回の世界です。
 
フランクルの思想を語る哲学者の山田邦男先生は、
 
 フランクルの「意味への意志」は、意味欲求が人間の根本の意志であることを逆に証明していることではないか。
 
と語っています(『フランクルとの<対話>』春秋社p96)。
 
それは、
 
 人間であることに課せられた不可避的な運命とも言うべきものである。
 
とも言っています(『フランクル人生論 苦しみの中にこそ、あなたは輝く』PHP・102)。
 
 仏教では、法灯明、自灯明という釈迦の教えがあります。
 
 聖書の世界では「はじめに光あり」と神の声を聞くことを求めます。
 
 思うに、五感の形態形成が人間存在に関わるものということは、不可避な運命であって宿業なのだと思うのです。
 
 問いを聞く意志というもの、自覚は直観と反省において連続的に形成され私を作ります。それは、みずからに、おのずからに自明の世界です。
 
 神の声と聞こうとする意志の現れは、内なる神(汝)の声として聞こうとする意志の現れでもあります。
 
 善し悪しの分別を離れ意味を聴くしかありません。それが常に己の自覚だと思うのです。
 
「人間にとって“神”とは何か?」というテーマ(問い)は、時々の場の問いとして現れます。
 
 それが有形か無形かは、存在それ自身の不思議の中に現れます。
 
 存在の不思議の中でどのように自分を依処できるか。人生とは常に試される体験を与えるものです。

日本列島に住む人々(2)

2016年04月16日 | 歴史

 九州熊本地方の震度5・6の地震速報がスマホに連続して入ってきます。日本列島は火山地帯で、大陸と大陸とのプレートが折り重なる部分にあることから地震災害にみまわれます。

 阪神淡路、東日本大震は記憶に新しく個人的には少年期の松代群発地震、御岳地震、数年前には松本市で震度5強の地震に遭遇しました。

 地震や火山の噴火が無い、ということは絶対にないこと。日本列島に人が住むようになって2万年余り。6・7万年前に安住の地を求め東へと進んだ人々旧石器時代の始まりが2万年前で1万6千年前に縄文時代という呼ばれる時代になりました。その縄文時代の人々を縄文人と呼び、その後大陸から渡来し米作りをはじめ弥生時代を形成した人々は弥生人と多くの人々は弥生人と呼ばれます。

 細胞のDNAは、細胞内のミトコンドリアのDNAと細胞核のDNAから解明できるることが異なるようで、ミトコンドリアDNAからは、私たちの母系の出自がわかり、核DNAからは、男系・母系の区別なくその出自の源とが解ります。

 昨年暮れの「NHK教科書が変わる!?日本人のルーツを探る旅」では、富山県小竹貝塚から発見された91体の縄文人の人骨の中の13体からミトコンドリアDNAを抽出することができ分析の結果5種類の遺伝子「A・G・N9b・M7a・M9」の特徴からどこからこの縄文人が渡来してきたかをわかりやすく解説していました。



 

Aは、北アジア(バイカル湖周辺)で誕生

Gは、ロシア・シベリア周辺

M9は、南方で誕生し日本とチベットに分かれて存在

M7aは、沖縄の人の4人に1人が持つ遺伝子に一致

という結果でした。このことから小竹貝塚の縄文人は母系の流れからアジアの各地から渡来してきたことが分かります。

 さて「核DNA縄文が解き明かす縄文人」ということでEテレのサイエンスZEROで『日本人のルーツ発見!』という番組が4月のはじめに放送されました。

 番組では福島県三貫地(さんがんじ)貝塚から出土した縄文人の奥歯から採取した核DNA解析の結果が紹介されましたが、ミトコンドリアDNAよりも核DNAは残る確率がとても低いものでこの発見は大変なことなのだそうです。

 核DNAからわかることは、個人が持つ過去の御先祖様の全員の遺伝子情報が受け継がれていることが分かるわけで、上記のようなミトコンドリアDNAでわかる部分のさらに古い分岐点を解明できるということです。

 縄文人固有の特徴で、縄文人そのものが現生人類の流れの中でいつの段階で分岐したかという問題です。この核DNAを調べるとより詳細に解明されるということで、番組では現代の東アジアの人々500人の遺伝的な特徴と今回の福島県三貫地貝塚から発見され縄文人の核DNAの解析結果、そして現代日本人(本州)の遺伝特徴を表した図が紹介され解説されました。

 渡来系弥生人のDNAはまだ解析されていないということで、東アジアの人々を渡来系弥生人と見立て説明されていました。

 

 図からわかるように日本人(本州)は渡来系弥生人と縄文人の中間に位置することが分かります。

 ここからわかることは、日本人(本州)は渡来系弥生人と縄文人との混血である、ということが解ります。これは別番組で使われた図とともに見るとよくわかります。

 

(2013年NHKさかのぼり日本史から)

 そして、核DNA解析から大体2割くらいのDNAが縄文人から伝えられているとの話です。

 さて縄文人ですが、渡来系弥生人(東アジア人)とかけ離れた位置に現されるこの縄文人は何処から来たのか、というよりアフリカ大陸から移動してきた現生人類のどの位置で分岐した人々であったかということです。

 

 東アジア人の人々に分岐する以前にすでに分岐した人々であったことが明らかになります。

 ユーラシア大陸のどこから来たのか縄文人。

 縄文人のDNAというのが現代人には全く見られないしアジアのどこにもいない。

古い時代に日本列島に渡りじっと縄文人であった、らしいという話。

 縄文人の核DNAをさらに解析すると縄文人のもつ姿かたち特徴点が見えてくるそうで、二重まぶた、天然パーマ、ウインクがその例として紹介されていました。

 4万年前ごろアジアに到達しウロウロとしていた人々の中にどうしても東方を目指したかった一群がいた、ということことでしょう。

 寒暖、天変地異の急変ということもあれば、豊かな実りの自然現象もあったでしょう。

 現生人類の仲間たちとの関わりや自然現象との関係もあったでしょう。

 富山県から発見された縄文人骨からわかるように大陸での混血もあることは確かで、直接アジア人種の分岐前の古体が直接来たわけではないかもしれませんが、東方への憧れを感じます。

 東方へ向かう目的に何があったのか。

 日本人(本州)の持つ20%の縄文人遺伝子、思考の形成にも何か特徴があるのかもしれません。


光合成と「わかる」ことへの進化

2016年04月14日 | 思考探究

 昨年の今頃NHKで放送された「生命大躍進」という番組がありました。同番組のテキストがNHK出版から出されており、内容をより深く学ぶことができました。

 その中で印象に残る話は目の進化です。物を見ることができる、という単純な話ですが進化の過程においては生物の生きるという過程の中で、植物の光合成という、太陽の光によって植物の根源に構成された生きるための作用が、その後の生物の目の構成を形づくる起源でもあるという話には感動しました。

 はじめに光があった。

 生物の遺伝子の中に組み込まれている光を受容し生きる作用は、その遺伝子が変異し受け継がれます。

 光を感知する。そういう機関が発生しその後の進化過程において、まさに進化し現在人の目は造られたのです。

 日本語では「話が見えた」ということは、理解ができたという意味でもあります。「わかる」とは、思うに光を受けた、というような話ににもなるように思います。

 仏教的には仏の光に照らされる、とも表現される話は、感知という光の作用なのかもしれません。

 鍾乳洞に生きる魚、深海の魚には目が退化したものがいます。

 暗黒の闇夜に生きる苦しみは、光を失った苦しみでもあるとも言えます。

 進化過程においては、光の感知は使われる道具として目は発達しカメラ眼になりました。

 見ることは見えることでもありそれは、「わかる」ことでもある。これが人間の心を形成する機関とも連動し「わかる」がより深化した「わかる」になります。

 意識と自覚が光の感知とも連動している。生物進化の過程の中の不思議な不思議な話です。


悪人正機を学ぶ

2016年04月12日 | 仏教

第2回100分de名著親鸞聖人の『歎異抄』は「悪人正機説」から始まりました。歎異抄でもっとも有名な言葉で過去ブログで感動の内に書いたことがあります。まもなく62歳になろうとする年齢の中でこの言葉に出会う機会が今回私に起こりました。

 仏教を学ぼうという心が個人的にあるわけでブログのカテゴリーの中にも「仏教」を掲げています。善人になろうと学びの心が起こっているわけではなく、なぜ仏教はこの世にあるのかというその意味理解が己の根底から湧いてくるからです。

 湧いてくるこの私をさらに問うならば、煩悩の塊の中にもがき苦しむ私があることに気づきます。

 仏の心は慈悲のこころ

「ココロ」という言葉を文字にすると漢字やひらがなやカタカナでここに記すことができます。

 ひらがなで「こころ」と書くと「心」のイメージが溶かされるように柔らかく響いてきます。今日もこれから職場に向かい精神的に苦しみの中に飛びこみます。時々職場で出会う一人の老人の話を書きますが、どうしても同僚でもあるこの方の存在が精神的な圧迫に襲われます。

 あと一か月半ほどで退職する人物ですが、そう考えたところで心は軽くなりません。

 こういう人がいなければどんなに楽しいだろうか。

 と思ってしまいますが、果たしてそうなのだろうか。

 62歳その中で自覚的に生きてきた過程の中でどれほどの楽しみがあっただろうか、と思う。苦楽とは瞬間に生まれ瞬間に失せます。

 ときどきに試されるがごとくに壁が現れそんな連続であったように思います。

 善し悪しの分別の中にある煩悩の塊

 それが私である。こういう悪人はいつまでも「救われたい」がおとずれる。

 拝む自分がそこにあり、拝まれる<わたし>がそこにあります。

 「ナムアミダブツ」

 他力、自力も霧散して生(あ)ることの意味深さに身を任すしかありません。

 私の舟はいつまでもそこに穴が開き水が湧き出してきます。水をかき出すことに必死であるが大海に沈む宿命ならば、かき出す努力は無我的になすでありましょうが大海に沈むこそが救いなのかもしれません。

 「ナムアミダブツ」

 ときどきこの念仏が出てきます。それでいいのでしょう。

 今週もよい機会がありました。

 いざいざ出陣いざ出陣、新しき草鞋を履き出かけることにしよう。


日本列島に住む人々(1)

2016年04月11日 | 歴史

 趣味の一つに歴史があります。その分野は広く、世界史、日本史もあれば、古代・中世・近代・現代と区分わけもあれば、宇宙・地球の歴史もあります。

 過去を知りたいという欲求がそこにあるのでしょうが、理由があるわけでもなくそこに歴史があるからということ単純なことです。さて今回は最近のDNA解析技術の進歩による日本の古代人の歴史について書き残しておきたいと思います。

 人間の細胞の中のDNA、ミトコンドリア細胞のDNA解析と細胞の核の核DNA解析のの二通りの解析が飛躍的に人類の歴史解明を進めているようです。

 日本という島国列島に住む日本人は今から2万年ほど前から住んでいるようです。20万年前にアフリカ大陸に生まれた現生人類は、6・7万年前にアフリカ大陸を出発、東、東へと進んだ人々は、2万年前にようやく日本列島にたどりつきました。その前に赤石原人なる原人がその前にいたという話もありますが、現生人類について話を進めます。

 現生人類は旧石器時代、縄文時代そして弥生時代という時代区分を刻みます。古代人が大陸のどの方向から入って来たのか、それを明らかにするために有効なのはDNAということで、人骨からのDNA抽出がそのカギになります。しかし日本列島は火山列島で酸性土の土壌のため遺跡は数多くありますが、人骨の出土は期待できない状況にあります。

 しかし最近では人骨もかなり多く出土し、沖縄や富山県ではサンゴ土壌や貝塚のアルカリ土壌が人骨保存に寄与して富山では大領の縄文人の人骨が発見されています。

 骨や歯からはDNAが抽出され解析されますが、細胞核の保存状態は悪く、これまでの解析はミトコンドリアに視点が置かれていました。ところが解析技術が進み最近は残された奥歯の中から核DNAが抽出され縄文人が東方進出の中で大陸の中でどのあたりで分岐された人々であったかが解明されました。

 東南アジア系、中央アジア系などと分岐する中でそれ以前の段階で別れた人々が縄文人でそういう人びとが最初に日本列島に住み着き、その後に弥生人と称せられる東南アジア系、中央アジア系の人々が渡来し、少々のいざこざはあったかもしれませんが平和裏に縄文人と弥生人の混血が進み現在の日本列島に住む日本人になったことが明らかになっています。

 NHKの昨年12月に放送された「教科書が変わる!?日本人のルーツをさぐる旅」やつい最近サイエンスZERO「日本人のルーツ発見!?“核DNA解析”が解き明かす縄文人」はそのことを語っていました。

 個人的な趣味世界において歴史について時々ブログに書いて来ました。

人類の歴史[2013年02月14日]

では人類の誕生から文化の形成に至るまで歴史の中に創造されていく人間を見てきました。

また、

苗字・梅原猛『人類哲学序説』から思うこと(2)[2013年04月27日]

では梅原さんの「人類哲学」を縄文・弥生の原点から紹介しました。

考古学的な話になると「土偶」という神秘的な存在に日本古代の文化について

「人面香炉形土器」・「女性の曲線美」・「火の神」について[2009年12月29日]

を書き、考古学と記紀文書に書かれていることをもとに日本人の心の根底に在るものを書いてきました。

 真田丸に関係した歴史話も書き残したいところ、このDNA解析も書き残したい衝動に駆られ次回はこの話を詳細に書き残したいと思います。

 真田丸、昨夜は「大阪」、真田信繁が豊臣秀吉に接見する前夜話で、よかったですねぇ。