人の話を「きき」、自らの体験を語る。東日本大震災の被災者に寄り添い活動する人たちの話を知ると、被災者の話に耳を傾ける大切さを語る人が多い。被災者の苦しみは、その苦しみを他人(ひと)に語ることで解消するわけではないが、癒されていくことが多いようです。
耳を傾ける、とは「きく」耳をもってという、相手に意の心を向けた行為ということです。傾聴するとも書くことが出来ますが、単純な「きこえること」ではなく、相手に寄り添う心が重なっている、ということのように思います。
「聞こえる音」が「聴こえる音」という漢字を使った表現で書くことが出来るような気もします。
マナペディアというネット辞書には「聴く」について、
「聴く」は、積極的に意識して音に耳をかたむける場合に使います。例えば次のように使います。
・クラシックのコンサートで素敵な演奏を聴いてきた。
これは、コンサートの音を意識してきいているというシチュエーションですね。授業を聴くやCDを聴くというように、耳をかたむける音が決まっているような場合に使います。
「聞く」は、意識しないでただ耳に入ってくる音を受け入れるという場合には「聞く」を使います。例えば次のように使います。
・教室の外から、車の音が聞こえてくる。
これは意識して車の音を耳にしているのではなくて、ただ勝手に耳に入ってくる音をきいているというシチュエーションですね。また、道をたずねるときにも「道を聞く」と使います。
と解説されていました。このサイト辞書には「いし(意思・意志)」についてもその使い方が書かれていて、
「意思」は、自分の考えや思いのことです。例えば次のように使います。
・彼は大学に行く意思はないようだ。
これを簡単に言い換えてみると、彼は大学に行く考えがないらしい。
「意志」とは、ある行動を「する!」とを決意して、その気持ちをキープしようとする積極的な心の持ち方を意味します。個人の中ではっきりと決定された意向、意図をあらわすものですね。例えば次のように使います。
・彼はなんとしてでも大学に行くという意志を持っている。
これを簡単に言い換えてみると、彼はなんとしてでも大学に行きたいらしい。
と解説されていました。私の知識では、「意志」は哲学の世界で使われ、法律用語になると「意思」という漢字が使われます。
このサイトで、「きく」「いし」の言葉の世界を知ることとなりました。このサイトでは、「きく」について、
聞くと聴くは、実は日本語よりも英語で考えたほうがすんなりと理解できる場合があります。
「聞く=hear」で「聴く=listen」です。
listen to musicとはいいますがhear musicとは言いません。これはlistenが音に注目して耳を傾けるという意味があるからなんですね。
と追記されていて、合理的な英語の世界とともに合理的な漢字の世界を知ることが出来ました。
簡単に物事を知ることが出来ることを「合理的」というならば、確かにそのとおりで、英語も中国もその発音で意味する内容に相異が現れます。
合理的の反対は不合理ということになりますから、日本語の音の世界、話し言葉の世界は不合理極まりないということになります。
しかし合理的、不合理という区別は、自らの立ち位置があるということで、判別、識別は自らの尺に依存し、不合理という場に置かれているものからすれば、確かにそうは思うのですがなぜか釈然としません。
バイリンガルな言語の世界にある人は日本語の不合理さを思う話を聞いたことがありますが、違いの世界というものは異色な世界を構成するかというとそうではなく、不合理という言葉自体、真に意味ある世界を形づくっているように思うのです。
旧石器、縄文から日本列島で伝承し使われる日本語、古語から現代後までの変遷は当然ありますが、合理的世界から不合理とされる指摘される言葉の進化は、進化論的な物の見方からすればあり得ない世界です。
人の話を「きく」。
「きく」という音声の中に既にその意の向きが、置き所がある。意とはこころを意味して書いています。
あなたの意向が「きく」を意味づける。
昨日は、10人ほどの人の話を聴くことが出来ました。語り合う場ではなく、一方的に語られる話の場で、私はこの人たちの話を聞いたわけです。
内容は、人生の学びを語るもので、それぞれが苦の世界に身を置かれ解決の道を得、また人生に明るさを見出した話でした。「教えの世界」に身を置くことで得られた安らぎの世界、宗教のような世界です。
聞こえてくる話に、聴く世界が現れてくる。
私は私のもつ尺度でこの話を聴きました。
話とは相手があってこそで、言葉はそのためにあります。意志の疎通、意思の疎通を図るために言葉は、成っています。動物の警戒音としての鳴き声ではなく、心の交流としての言葉の成立です。
10人ほどの人の語りは、それぞれに原稿を読み上げるもので、自らを書き込む、そして語る、この為すことがこの「教えの世界」の、その教えの教化であり、個のこころの強化にもなるのでしょう。
他の人に、思いを語ること。その話に耳を傾けること。リアルのその場の雰囲気。
問う意味の世界で、問われる存在として私は傾聴したわけです。
不合理な言葉として日本語をみるならば、相手の真意は直接届かない。すると相手の人格性などは付き合ってみないと分からないことになります。
言葉の中に敵意が見える合理的な言葉ならば、すぐに敵味方を判別することが出来ます。大陸に生きる人々ならば言語が異なるだけで敵味方がわかります。
日本語は方言でお国がわかる程度で、結局は間を置くか、付き合ってみるが最良の生き方であると・・・そのように歴史は織りなされてきたようにみえます。
信ずるものとは、あいまいさ、あわいの中に現れてくる感覚のことのように思えます。
信心(しんじん)、回心(えしん・かいしん)
親鸞に教えに関した、唯円の『歎異抄』にみる言葉の意味するところ。
難解でわかりにくいが、信じさせていただくしかない信心
称名(しょうみょう)ではなく聞名(もんみょう)という。
「仏の呼び声を聞く、それが他力の念仏」
100分de名著『歎異抄』の講師釈徹宗さんはそのように解説されていました。
聞こえ聴こえてくる。とでも表現できるかもしれません。
己を捨てる、我のはからいを無くす。只管打坐の世界はそこにこそ、竹林に跳ね返る小石の音が聴けるのかもしれません。