思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

蝶ヶ岳と瞬間に生きる

2005年07月29日 | 仏教

 台風は、太平洋にそれ28日は晴天であろうと予想し、今月の登山3回目として蝶ヶ岳に登ることにした。

 午前5時に三股を出発。登山口には登山計画書提出の山小屋がありこのシーズン係りのおじさんが居る。おじさんに挨拶し書類を提出した。
 日帰りの予定で、9時間の午後2時には下山することにした。慌てることはないのだが、一日を有意義に使用したいことからで、後半はいつものように温泉に浸かり読書三昧とした。

 蝶ヶ岳は、頂上まで4時ほど掛かる。急な上り坂は少ないものの緩やかな坂道が延々と続く。
 標高は2677メートル、南西方向には、槍ヶ岳を穂高の山々が面前に広がる。北方向には蝶槍という山があり頂上に登り南西方向に畳み半畳ほどの平らな岩がある。ここに座り座禅を組む。岩下は絶壁であり谷を挟んで槍ヶ岳が目の前に見える。

 月に三回も日帰り登山をしているのだが、山登りが好きであることは確かだが、瞬間を極めたいことも一つにはある。
 
 心身は本来もとより因縁の力によって、一瞬一瞬、生滅をくりかえしながら相続していく。したがって、変化せずに永遠に存続する自我があると思っているが、本来生滅をくりかえしているのであるから、人はただ自我があると思っているだけである。
 この我を宝とすることから貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろかさ)の三毒が起きる。(宗密の原人論)

 身の調えに至らない「我」である自分自身は、時として「我」に束縛される。解脱とは束縛からの解き放されることで、そのためにはまず日常のあらゆる生活を瞬間、瞬間、徹して生きたいと思う。

 現生活に不満や苦悩があるわけではないのだが、生来の求道心がそうさせているようだ。


蓮と観音

2005年07月25日 | 仏教

 蓮の花がちょうど見ごろとなった。ジョギングコースに小さな蓮池があり、毎年今頃になると大きな蓮の花が咲き見ることができる。
 極楽の有無など形而上学的な話は別として、蓮は仏様の花で極楽に咲き乱れる花のイメージが強いのは私だけではないと思う。

 美しいを通り越して壮麗で、雅やかである。葉も朝露が溜まると玉となり美しく輝く。

 蓮池の後、ジョギング中にお参りをする寺の境内には、青銅の観音菩薩がおられる。
 この観音菩薩の台座は、蓮弁といい蓮の花である。台座は、蓮華座・蓮座・蓮台とも呼ばれる。
 この観音様は右手に未敷蓮華(みふれんげ)というまだ蕾のままの蓮の花を持っている。

 般若心経のはじめに「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」と書かれている。

 観自在菩薩が、深遠な般若波羅蜜多を実践なさり、真実の認識を身につけて行われましたとき、五蘊は皆空であるとみそなわし、じっと真実を見つめることによって、一切のわれわれの苦しみをお救いになりました。(中村元現代語訳・大乗仏典般若心経P47)

 ということで、般若心経の観自在菩薩とは、観音様のことでる。
 菩薩は「悟りを持った有情(うじょう)・悟りを求める人)をいう。有情は、心を持った生きもので衆生のこと。

 菩薩は、本来の願いは大慈悲で、相手の願いに応じてさまざまな姿に変身する。だからいろんな観音様おられ、いろんな観音様の像を見ることができる


燕岳

2005年07月21日 | 風景
 燕岳は、このシーズン松本から安曇野平にかけての中学2年生の登山でにぎわっている。今月は、常念岳に続いて20日にこの燕岳に登った。当日の天気予報は、午後から曇りとの予報であることから午前中の山登りとした。
 というのも昨年この時期に登った時に雷の洗礼を受けたからである。
 別段雷に打たれたわけではないが、中央上で雷が発生し、雹と大雨、雷は真横の雲を走っているという最悪の事態に遭遇した。
 午前6時に麓の中房温泉を出発、合戦小屋経由で午前9時16分には燕山荘に到着した。 当日の天気は、遠方が霞で遠くの山々は霞んでいた。上空の雲の様子を見ると天気は崩れそうにないので、燕岳頂上(2736M)から大天井岳にかけての尾根を歩き回ることにした。
 
 燕岳は、岩山が独特の形をしている。イルカや仏の形をした岩があったりする。また、 この時期は、こま草や石楠花の花を見ることができる。とりわけこま草は、高山植物の中でもなんとも可憐で美しい花である。

 実をいうと中学2年になる娘が21日にこの山に登ることになっていた。したがってこのブログを書いている頃は、燕山荘に宿泊中である。
 今日は、昨日(20日)よりも天気がよく眺めも最高であったと思う。まあ疲れでそんなところではないかもしれないが。

 午後1時過ぎ頃、松本市内の梓川中学ともう一校の中学生が登ってきた。「先生は頑張っているなあー」と自然に「ごくろうさんです。」と声を掛けた。

無境界の瞬間

2005年07月20日 | つれづれ記
 私の一元的思考、無分別知等の今という瞬間における思考の探求は、今日只今の重要性、今という瞬間を熱心に生きるという、中部経典の一夜賢者の偈(経)から始まった。
 今という瞬間に、今を生きる智慧があることの探求である。

 この考えは、仏教のみならず後の老荘思想にも無差別自然の考えに現れてくる。そして現代においては、トランスパーソナル心理学という精神世界を探求する分野があり、限界と境界の存在しない世界、過去と未来の境界のない現在の瞬間、内と外の境界のない自覚の探求がなされている。

 トランスパーソナル心理学者といえば、ケン・ウィルバーが有名で数多くの本が吉神伸逸氏の訳で出版されている。
 この中で分別、二元の思考は自己と非自己、身体の内と外の線引きという境界線を設置する思考法で論ぜられ、一元的思考、無分別知は、無境界の瞬間に認識されるもので、無境界の瞬間に現れる禅における悟りに似た状態、大いなる心を「統一意識」という言葉で表現している。
 
 トランスパーソナル心理学は、そもそも西洋のもつ二元論的な事物に対する境界の線引きという無意識の根底にある心理に、東洋のもつ無境界、無分別知などの一元的な心理を融合し発展させ、自己成長のセラピー(治療)を探求する心理学である。
 東洋を一元的な世界と捉えるのは、禅、道教(タオ)、老荘思想、ヨガなどの至高体験の部分であり、実際には、人間である以上、東洋人も二元論的思考で生きていることには、西洋人と変わりはない。
 
 最近の社会を自然と人との関わり方から見た場合、汎神論的に自然の事物に神をみる精神文化をもつ民族の智慧は、すべて「無境界の瞬間」の中で生き続ける智慧があるとして、大いなる存在の認識、母なる地球(ガイア)の考えをもつ人々を出現させている。
 超心理学、超個的な体験、至高体験から自然主義に至るまで、今日のそのような意識の出現、変革は、逆に一元的思考というよりも極端な二分法的思考をもつ排他的な、無謬的な人々、組織グループ、宗教団体を出現させてもいる。

 このような退行的な現象は、日本の古代精神史にみる一元的思考が、希薄ではあるが今も日本の底流に流れ、誰もが感覚的に意識できるものでありながら、今日のあやふやな日本の文化を形づくり、退廃的な若者、大人の出現、立ち戻れない社会環境の悪化を招来させたことに見ることができる。

日本古代精神史における一元的思考

2005年07月17日 | 古代精神史

 犯罪の「罪」の字は、「つみ」と発音されるが、この「つみ」という言葉は大和言葉である。大和言葉は、万葉の時代頃には使用されていた言葉で、突然その時代に現れることになるわけではないので、それ以前の時代から存在していたことになる古い言葉といえる。

 記紀時代に成立する、天津罪、国津罪に使用される罪という語について、古事記伝で本居宣長は、

 まず都美(つみ)というふは、都々美の約まりたる言にて、もと都々牟(つつむ)といふ用語なり、都々牟とは、何事にもあれ、わろき事のあるをいふを、体言になして、都々美とも都美ともいふなり、されば都美といふは、もと人の悪行のみにはかぎらず、病ヒもろもろの禍ヒ、又穢(きたな)きこと、醜(みにく)きことなど、其外も、すべ世に人のわろしとして、にくみきらふ事は、みな都美なり。
 万葉の歌に、人の身のうへに、諸のわろき事のなきを、つゝみなくとも、つゝむことなくとも、つゝまはずともいへるは、今の世の俗言に、無事にて無難にてという意にて、即チ都美なくといふなり。

と解説し異なる段に重複する部分もあるが、

 罪のたぐいは、すべては、都美は、都々美のつづまりたる言にて、古語は都々美那久(つつみなく)、また都々麻波受(つつまはず)などいわゆる都々美とひとつにて諸々の凶事(あしきこと)をいう。
 ツツムは、ツツシムとひとつなるをつつしむは、凶事にあらじ、あらせじとする方にいい、つつむは、凶事を露(あらわ)さじと隠す方にいい、つつみなくなどは、凶事なきえをいう。これら末は各ことなるがごとくなれど、本は一つなり。
 罪は必ずしも悪行(あしきわざ)のみをいうにあらず、穢また禍など、心とするにはあらで、自然にある事にても、すべて厭(いと)ひ悪(にく)むべき凶事をば、みなツミというなり。

とも解説する。
 ここで問題にしたいのは、日本の古代精神史における思考形態を「つみ」という大和言葉から解釈したいと思うからである。

 国文学者西郷信綱先生はその著書で、ツミとは古事記伝にいうとおりであると述べ、さらに
 ケガレ、ワザワイ、トガ(咎)、アヤマチもひろい意味でツミにふくまれる。
 ツミという語は、ツツミ(包、障)と関連があるかも知れない。ツツミは、ツツムの名詞形で、事故とか障害の意である。川の堤は、水の流れをせき止めさえぎるものだが、ツミも禁止を破って神意の働きをさまたげたり、さえぎったりするわざの意と解される。トガがタガフ(違)と同根らしいのも参考になる。
と述べている。
 
 私は、古代における「ツミ」」という音韻である言葉は、「自然の流れを阻害する行為、川の流れならばそれを堰き止める堤防のような、流れを阻害するもの、行為」をいうのではないかと考えている。
 即ち森羅万象、人の心も含めて自然の流れに境界線を引くように隔たりをもたせる意識的な判断に基づく行為をいうのではないかと考えるのである。

 これは、神道で神意である御魂を「和御魂」「荒御魂」の二魂に分別するも総体的に現実化すると一元的な御魂で捉えていることに現れており、古代人の深層心理内のおいては、罪悪感は自然に対する阻害行為をいうのである。

 しかし、精神的な流れも神の具現化により相対的な存在になると二元的な思考形態を生ずることとなり、道教思想の陰陽的な思考、さらに近代の西洋的な二元的な思考な基盤に立つ文化の流入により一元的思考は希薄になってきた。

 この中で仏教伝来は、原始仏教に見られる無分別知と神道の一元的な思考は、権力的な対立は別問題として思想的には大きな問題は生じなく、その共存は今日を見れば明らかである。
 
 このような神道における一元的な思考が、今日に生きる智慧として大きな存在となっていないのは何故か。

 それはあたりまえ過ぎるからである。倫理的な規制、道徳的な生き方とは、罰当(ばちあ)たりな行為、天罰を受ける行為で、タブーを犯す行為をしないことで、それはあたりまえのことである。

 罪は、払わないと罰(ばち)が当たります。これは古代人をはじめ、ある時代までは当然に日常生活の中にありました。道路にタバコ、森林に廃棄物、川を汚すこと。など限がありませんが、これらの行為をすると、法律のような原因と結果の因果律関係ではなく、仏教でいう縁起、因縁に近い関係で罰があったのです。
 私どもの地方では、川でおしっこをするとオチンチンが曲がってしまうのです。
 
 このような罰当たりについては、青春出版社「日本人の禁忌」総合研究大学院教授新谷尚紀氏が面白い。
 この中で「分別を持つことを許さない天の思惑に背くのは、やはり禁忌(タブー)破りであろう。」とアダムとイブのリンゴを例に氏は述べている。

 この点キリスト教圏(西洋)は、アダムとイブがリンゴを食べるという禁忌破りに縁(よ)りいち早く二元的思考になったと考えると面白い。


お陰様と仏心

2005年07月12日 | 宗教

 7月10日(日)午前5時のNHK教育こころの時代(宗教・人生)を見た。
 この日のゲストは、曹洞宗無量寺住職愛知専門尼僧堂堂長青山俊董さんで、「今をどう生きるか」というお話であった。
 番組の中で青山さんが語られたお話の中に、京都駅から乗ったタクシーの運転手さんの話があった。(「無相庵」という大谷国彦さんのホームページにも「さいわいに」という題で掲載されています。)

 K寺でお話をするべく京都駅からタクシーに乗った。
 「ご出家さんですね。お話をさせていただいてもよろしゅうございますか」と運転手さんが語りかけてきたので、「どうぞ」というと、こんな話をしてくれた。
 「私は高校三年のとき、両親を一緒に亡くしました。町会でフグを食べにゆきその毒に当たって一晩で亡くなりました。
 その朝はお弁当をいただいてゆく日で、いつもなら母が早く起きてお弁当を作って下さるのにその朝はいつまで経っても物音一つしない。
 おかしいなと思い、そっと両親の部屋の戸を開けてみると、さんざん苦しんだあとを残して、二人とも息が絶えておりました。親戚の者が駆けつけ葬式は出してくれました。
 借金こそなかったけれど、一銭の貯えもありませんでした。父が出征していたために、ずっと年の離れて五歳の妹がおりました。
 子供二人では家賃がとりたてられないであろうというので、家主が追い出しました。私は妹を連れ、最小限度の荷物を持って、安い六畳一部屋のアパートを借りて出ました。 とにかく両親に代わってこの妹を育てなければならない、と思いまして、私は働きました。さいわい就職が決まっておりましたので、朝は新聞配達、昼は勤め、夜はアルバイトと働き、二十二、三歳のときには、小さなアパートを買うほどの金はつくりました。しかし考えて見ますとこの間私は働くことしか考えず、台所も掃除も洗濯も何もしませんでした。五歳の妹が全部したことになります。
 
「おしん」というドラマがありましたね。おしんさんは別じゃありません。私の妹だってやりました。人間、そういうところにおかれるとやるもんですね。
 
考えて見ますと、私などもし両親が生きていてくれたら、今頃、暴走族か突っ張り族かろくな人間にしかなっていなかったと思います。
 両親が死んでくれても、財産を遺してくれたら、甘えてしまって今の私はなかったと思います。一人ぼっちだったらやはり駄目になっていたでしょう。
 両親が死んだ、金はない、家主が追い出した、幼い妹がいる。私は本気にならざるを得ませんでした。
 私を本気にしてくれ、男にしてくれ、大人にしてくれたのは、両親が一緒に死んでくれたお陰、財産を遺してくれなかったお陰、家主が追い出してくれたお陰、幼い妹をつけてくれたお陰と感謝しております。 妹には勉強机ぐらい買ってやりたいと思いましたが、六畳一部屋に食卓と勉強机と二つおいては寝る場所がなくなるので、食卓と勉強机を兼ねてもらいました。新聞一枚散らかしておいても寝るところがなくなりますから、妹は整理の名人になりました。今幸いに大きな家に御縁を頂いて嫁いでおりますが、きれいに整頓されております。 妹がよい御縁を頂いて花嫁衣裳を着たときだけは泣けました。両親に見せたかったと思いましてね。何もかもありがたいことであったと、朝晩に両親の位牌にお線香をあげさせてもらっています」


という話である。
 
 自分の人生で遭遇する「不幸」を「お陰さま」で「幸い」に受け止める。  
 不幸の時に幸いと受け止めた訳ではない。今に思うとそのように受け止めることができるという話である。  

 青山さんも語られているが、「一日一日、瞬間瞬間、熱心に生きる。」ことの重要性を教えられる。  そしてその時に強く感じたのは「仏心」である。後付のように「仏心」で済ませてよいのか解からないが、運転手さんの生まれて今日までの内心にある「仏心」を考えないではいられない。  
 誰の心にも「仏心」はあると盤珪和尚はいう。
 はたして私の心の中にも同じようにあるのだろうか。  
 身を整えて一日一日を熱心に生きたいものである。


常念岳そして一日

2005年07月08日 | 風景
 昨日から今日は常念岳に登ろうと計画し、午前3時半過ぎ頃に自宅を出発予定であったが、寝るのが遅く寝坊をした。
 
昼ごろから天気が崩れるとの天気予報であることから、一の沢を午前5時半過ぎ頃出発し昼前には下山した。
 登り時、下山時に登山者に会ったが山頂は独り占めの状態であった。梅雨時であるため登る人が少ないのが普通で、梅雨明け後が本格的な登山シーズンとなる。
 山道は所々崩れており、常念小屋関係者が橋を掛けたり等の山道整備を行っていた。山小屋も使わない私のような日帰り者は、申し訳なくねぎらいの言葉しか掛けられなかった。
 中高年者グループの登山者が多いのは昨今の情勢だが、常念も変わらず昨夜小屋に泊まり下山中の60歳代の男女数人のグループに出会った。
 
 日帰りではあるが登山のいいところは、短時間で鳥の声、渓谷の流水の音、木々や高山植物、コケ類等に出会いながらいい汗をかくことができ、また最高の雄大な景色を見ることができることにある。
 昨年は6月3日の梅雨前に登ったが、今年は仕事内容が替わり時間的な余裕が無かったことと天候の変化が今年は予想できなかったため一ヶ月遅れた。
 沢の残雪や山道の壊れ具合を見ると天候不順は明らかであった。
 
 今日の常念は、雨は無いものの雲のため山頂からの槍ヶ岳等は望め無かった。

 午後は温泉にゆっくりつかり、その後書斎で本を横になりながら読んでいるといつの間にか寝入っていた。
 
 一日は24時間だが歳とともに短く感ずるようになってくる。それだけに一日をフルに活用したくなる。

可謬性そしてノエマ、ノエシス

2005年07月07日 | 宗教
 分別智(知)を考える時、ポーパーの「可謬性」やフッサールの現象学上のノエマ、ノエシスのもつ意味も考えたくなる。

 精神医学上の二分法的思考もその極度の思考が人格崩壊に至るのであるから、生来的にもつその思考傾向を改めざるを得ない。

 個人の持つ真理の定義はそれぞれに異なり、グローバルな視点で見れば、家族から国家、宇宙に至るまで異なる。

 我々は、己の感覚で対称面をとらえ、己の内に対象物や対称面のもつ理(ことわり)を描き出す。
 ノエシスという働きかけが、ノエマという仮想的なものかもしれない対象物、対称面の理を描き出している。したがって対象物、対称面のもつ理は、実際(確認の術ははないが)として存在する物、理とは異なることもある。

 このようにフッサールの現象学から物事の捉え方をみると心に思うことは、はたして真理であるかは、それぞれ個人の勝手であるような気がする。

 次にポーパーの「可謬性」になるが、我々は個人の勝手で生きている。
 生かされていると思考できる段階にある人は、この言い方について批判的に思うが、意識段階の切り替えを行い考えてもらいたい。

 勝手に生きている人間は、相手と共存し生活を営むためには、ノエマを変化させる必要がでてくる。
 すなわち共存するためには、相手となる人物が心に描くノエマ(異なることは当然だがここではそうだとしてしまいます)に合わせることで、さらにノエシスという相手の意識の働きをも予想し、ある時にはそれに合わせないといけないときが出てくる。

 可謬性とは、個人の真理はあくまでも個人的なもので、誤りを当然に含んでいると考えられ、絶対的真理ではないということである。

 議論においては、「自分にも誤った部分もありますが、話し合いでどうにか互いに協調しあいましょう。」ということになる。

 社会生活で開かれた社会実現のためには、個人のもつ他人にとっては批判的な理性と思われる部分は、ある程度抑えることが大切だということにもなる。

 可謬性の心情は、分別の明滅段階で無分別智に至る経過段階では無いであろうか。

 そして、フッサールの現象学上のノエマは五蘊の作用で、ノエシスは内的な「色」といえないだろうか。すると「色即是空」は、無分別智が、ノエマ、ノエシスも無い段階であることを表しているのではないかと思う。

 そしてその段階では、「客観的な実体は、あるのであるが、また空(ない)でもある。」という表現になる。

ネコ一匹のえさ待ち姿

2005年07月05日 | 風景

 城山公園の早朝に老婆を待つネコがいる。
  城山公園はその名の通り小高い丘の上にある。 
  春は桜が満開になりかなり花見の頃にはかなりの人出がある。 
  早朝は、散歩の老人が六七人こられるが、その中に二人組みの老婆が入る。城山公園の南に住む方々で散歩がてらネコに朝食を与えている。  

 3年前から私がこの地に住む始め、城山公園経由のジョギングでそのことを知ったからかなり前から朝食を猫に与えているようである。  
 最近は、私の方が早く公園に来るので、朝食を与えている姿を見ることはできないが、ネコは早い時間から、公園内にある上水道の施設前でじっと老婆たちが来る坂の下を見つめている。  
 今朝もじっと坂の下方を見つめる、このネコがいた。  

  青いお空の底ふかく、  
  海の小石のそのように、  
  夜がくるまで沈んでいる、  
  
昼のお星は眼に見えぬ。   

  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。   

  散ってすがれたたんぽぽの、  
  瓦のすきに、だアまつて、  
  春のくるまでかくれてる、  
  つよいその根は眼にみえぬ。   

  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。 
 

金子みすゞの「星とタンポポ」という詩である。  

 心で見ないと何も見えないときがある。 
 ネコ一匹のえさ待ち姿でも、足を止めて見つめれば心で見えることもある。


アスファルトのひび

2005年07月04日 | 宗教
 人間の意識は「分ける」ことによって成立する。光と闇、天と地など区別を明らかにすることによって意識が成立する。そのような区別は他の動物ももっている。それに加えて「自」と「他」の区別を明確にすることによって、明確な「自我」が生じてくる。

 これは日本評論社河合隼雄・成田善弘編集「境界例」の「二分法的思考へのプロテスト」の章に書かれた内容であり、臨床心理学の分野の境界性人格障害に関係する書籍内の内容である。

 仏教は、「分別」の教えであるとともに「無分別智」の教えである。

 釈尊がこの世と人生について知的作業を進めるに当たり観察と分析を行い、徹底した観察により知見したからである。その意味で前者の「分別の教え」ということになる。
 その後の仏教の発展において、いろんな仏教用語があるように細やかに人間の心、行動等について分析がなされている。

 後者の「無分別智の教え」であるが、これは悟りの行において分別心の消滅、分別心を惹起させないことに力点をおくことからその意味を知ることができる。

 無分別の実践には、多角的な見解がある。慈悲の教えや、諸高僧の教えの中の四行観などというもある。
 その意味では、慈悲は、釈尊の教えよりも、釈尊の無分別智の教えから発生する釈尊死後の釈尊お教えを分析して発生した教えであると思う。

 最近書店に「般若心経」の本を良く見かける。サイトにも数多く見かけるが、その中のひとつに「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」を「聖なる観音菩薩は、深き無分別智(無心、はからいや、とらわれのない心)を行じ」と訳す人がおられて感動した。

 今日の写真はジョギングの際に、瞬間に出会うアスファルトのひび割れである。
 
 あるものの認識(アスファルトのひび割れ)は、過去に知覚したものと記憶と分析との照合で認知し成立するが、これは動物である人間の当然の分別から生ずる。

 しかし、ある時その分別心が起こらないときがある。ただそれだけの存在。
 この時「存在」と表現するが「有るがしかし無の時」を体感する瞬間がある。

 文頭に二分法的思考について書いたが、最近特にこの二分法的思考を極端に行う境界例の人々が増え、さらにそれが社会問題になりつつある。

 社会の流れは、全て縁起によるとするならば、巷の書店の棚の現象も理解できる。