思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

不幸は、不足ではなく過剰から生ずる

2013年06月29日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

人間は幸福のために創られているのだ。
幸福というものは、幸福それ自体のなかに。
自然な人間的欲求を満足させることのなかにあるのだ。
そしてすべての不幸は、不足ではなく過剰から生ずるのだ・・・


( Eテレ100分de名著トルストイの『戦争と平和』の最終回から)

 Eテレ100分de名著トルストイの『戦争と平和』の最終回「本当の幸福を知る」はこの言葉から始まりました。

 トルストイの作品には全く興味を持たずに生きてきた一人の人間として、非常にもったいのないことをしてきたものだと、また恥ずかしく思ってしまう。

 「叙事詩」という視点とテキストには書かれていますが、思想というよりも哲学的問に対する一つの教示のような点が多々あり、哲学的思索の視点の張り方に感動します。

 朗読者の俳優杉本哲太が次のように語り続けます。

「のう、若い衆、歎きなさんな」

 彼は年を取ったロシアのおばあさんのような、あの情愛のこもった、歌うようなやさしさをこめて言った。

 「歎きなさんな、あんた、我慢は一時、生きるは一生!そういうわけじゃよ、あんた。ここに暮らしていて、おかげさまで、腹の立つこともねえ。同じ人間さ。悪いやつもおれば、いいやつもおる。」

<農民出身の兵士で小柄なカラターエフ・カラターエフの言葉、ピエールはカラターエフについて次のように内心で語る>

 彼の顔には小さな丸いしわがいくつもあったが、表情は無邪気で若々しかった。その声には気持ちの良い、歌うような調子があった。彼の話しぶりのおもな特徴は、素直さと的確さにあった。

「どの指かんでも痛さは同じ」
「約束は仕事の兄弟」
「汗した手は気前がいい、乾いた手は因業だ」

 彼は話し好きで、自分で考え出したとピエールには思える愛称やことわざで、自分の言葉を飾りながら巧みに話をした。しかし、彼の話のいちばんの魅力は、彼の口にかかると、ごく平凡な出来事で、時にはピエールが見ていて気にもとめなかったような出来事が、荘重で端正な品格を帯びてくることだった。

<以上>

 評論家の小林秀雄先生がご隠居という昔は身近にいたもの知り老人に言及していたことがありましたが、まさにご隠居という、普段は表には出てこないが、いざと言う時にはその存在感が十分に発揮されるの存在、農民兵士のカラターエフはそのような人に見えます。

 講師の川端香男里東大名誉教授は、「ロシアの大地を体現した人物」と評していました。

番組では「カラターエフの言葉」として次の言葉がパネルで紹介されていました。

約束は仕事の兄弟
汗した手は気前がいい、乾いた手は因業だ
主よ、石のごとく寝かせ、パンのごとく起させたまえ
裁きのあるところにゃ、うそもある
どの指かんでも痛さは同じ
我慢は一時、生きるは一生

なかなか鋭い言葉です。番組冒頭の、

人間は幸福のために創られているのだ。
幸福というものは、幸福それ自体のなかに。
自然な人間的欲求を満足させることのなかにあるのだ。
そしてすべての不幸は、不足ではなく過剰から生ずるのだ・・・

という言葉もカラターエフの言葉もトルストイの語る言葉です。

 フランス軍の捕虜になり極寒の中従軍させられるピエールの胸の内をトルストイが語る中で「自由」についてのくだりがあります。

 拘束された環境下、裸の実存としての胸の内に生じてくる自由という概念。

 「人間が幸福で完全に自由な状態であるという状態が存在しない以上、不幸で不自由な状態もあり得ないことを彼は知った。」

 川端教授は、

 捕虜の状態とは一種の極限状態ですから・・・・自由なんて一種の幻想みたいなもの・・・だからこれ以上の不幸で不自由なものもそういう意味ではないか・・・逆説的に言えば「捕虜生活の中でかえって自由を見いだす」というタフな神経。

と言われていましたが、どこかV・E・フランクルの態度価値にも通じるところがあります。

 私が印象的に残り続ける言葉は「すべての不幸は、不足ではなく過剰から生ずるのだ」という言葉です。

 過剰か過剰でないその均衡は、生活してきた体験経験から来るのだろうと思う。あるがままの状態で足る世界にあれば、福祉援助も想像外のこと。

 アフリカの大地で今なお自然と共に生活している人々には福祉援助や外国からの救援は想定外の事柄、食料の枯渇するのは大地への祈りの足りなさで物語れる場合もあり、神の怒りであると物語られるかもしれません。

 知ってしまった科学文明下にある私たちは、過剰から生ずる不幸を創造する、物語る・・・悪しき人間による行為、政治と・・・そのように物語ることで安心(正義だと自負)する。

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ

は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中の言葉です。

 今に生きて古きで考えるのも気が引けるのですが、便利さ快適さの中で過剰にある現在回帰することは不可能に思える。

 よき未来を目指すには、
 よき過去を積むことが必要である。

 よき過去を積むには、
 今を充実させることが肝心(かんじん)となる。

とは前回のブログに書いた言葉の一部ですが、

 よき未来を目指す言葉を語る人は、
 どんなよき過去を積んできたのだろうか。

語る人は、今現在の行動にどのような充実感で臨んでいるか。

「汗した手は気前がいい、乾いた手は因業だ」

カラターエフのこの言葉も考えれば深い。そういう輩をよく見ます。

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ヘンゼルとグレーテルから思うこと(1)

2013年06月28日 | 思考探究

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 ヘンゼルとグレーテルの物語と言えばグリム兄弟の民間伝承の昔話を収集し編纂したグリム童話であることを知らない人は無いかと思います。初版を1812年に世に出し1815年に第二巻を刊行した後、およそ半世紀にわたって童話集として版を改定するたびに内容に修正を加えて来たもので、1857年に出された第七版が最後のものとなるようです。

 その最後版の童話集内の「ヘンゼルとグレーテル」においては兄妹の母は継母として書かれています。最近知性の育ち方というのかそれとも知性の育て方というのか、人間の知性の現れに関心を持ち深層心理の立場から過去に学んだユングや河合隼雄先生の昔話研究に立ち戻ろうというわけではないのですが吉原高志・吉原素子編訳『初版グリム童話集』(白水社)とドイツの小学校教師であったカール・ハインツ・マレ著(以下マレと表記)『<子供>の発見』(小川真一訳・みすず書房)とを読んでいます。

 初版グリム童話集は兄妹の母は無慈悲で、冷酷で、残酷で意地の悪い人なのか?

 実父はどうしようもない男、何も決断できない、妻の言いなり人間なのか?

 母はあくまでもカトリックの世界で説かれる聖母マリアの温かさを重ねたり観音様やお地蔵さんのような温もりを想うのですが、昔話はそうではなかった、なぜなのだろうか?

 「ヘンゼルとグレーテル」を現代的な視点に立てばどう見ても児童虐待です。許しがたいものをそこに感じてしまいます。

 「許しがたきもの」は、私自身がそのように感じるこころを持っているということです。それはあくまでも現在に生きる、現代に生きるものとしてこころだと信じるものです。

 カント流の誰もが承認してくれるよしとするもの。数多の人間が正しいと考えるこころといった方がよいのかも知れませんが・・・。

 現実の世の中は、継母、継父、実母、実父が虐待の行為者に、共同してもあり、片方の場合もあります。

 またテレビ番組の話になりますが、最近NHKで地方発ドキュメンタリー「逆境を生き抜け~急増チャイルド・プア闘う現場~」という番組を見ました。

 凄い現実がそこにあります。離婚から始まる実母の虐待・・・など。

 新聞では身勝手な母親が実娘を連れて、男を転々とし最終的にその男(継父)が虐待死殺す。

 そういうことではいけないのだと誰もが思うのですが、人間というものは意識作用に自覚が備わったにしてはそのままでは気づけない生き物です。

 夫婦げんかになりそうになったら相手に合掌しよう。いわゆる祈りの姿をするがよかろう、という沢木興道老師の話を青山俊董先生から聞きましたが、先生自身も気づけるであろうか、と言っていわれるように、人間は、私はダメなんですね。

 過去は取り返しがつかず
 未来は見通しがつかないが、
 過去は経験として人を支え
 未来は希望として人を励ます。

 よき未来を目指すには、
 よき過去を積むことが必要である。

 よき過去を積むには、
 今を充実させることが肝心(かんじん)となる。

 過去も、現在も、未来も、
 地続きであることを忘れてはならない。

感情は、遺伝なのだろうか。


(フジテレビ「新報道2001」の「~衝撃遺伝子検査で分かる肥満・体質から才能まで~」から)

気づきの知性は、遺伝するのだろうか。

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遺伝子は何を語ろうとしているのか?

2013年06月26日 | 思考探究

 時々遺伝子を話題にしていますが、先週の日曜日(6月23日)フジテレビ「新報道2001」で「~衝撃遺伝子検査で分かる肥満・体質から才能まで~」という番組が放送されていました。

 過去ブログでは、精神的ストレスに関係する日本テレビの「ザ!世界仰天ニュース」で紹介されているLL遺伝子について書いています。

LL型遺伝子・自由・偶然・必然[2011年07月14日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/cc269fc7d9c133d69b4c61d31a121e9c

2年前の話ですからDNA、遺伝子の世界はさらなる研究が進んでいるようです。

 23対ある染色体の17番目のセロトニントランスポーター遺伝子は、ネガティブ、ポジティブの精神的世界を別視点から考えさせられ、今回の「新報道2001」では12番目は酒癖にも関係し、17番目は朝寝坊癖、怒りやすさは13番目の染色体に、依存は4番目がと・・・これがまた組み合わせでその傾向、起りやすさの確立が高くなるようです。


(フジテレビ「新報道2001」の「~衝撃遺伝子検査で分かる肥満・体質から才能まで~」から)


(フジテレビ「新報道2001」の「~衝撃遺伝子検査で分かる肥満・体質から才能まで~」から)

 ガンやアルツハイマーと現代社会が抱える問題を遺伝子の世界から検討され、遺伝子検査という最先端医療に倫理的ルール作りの早急性が語られていました。

 健全なる遺伝子とは、欠陥の無い遺伝子とは?

 欠陥は、直接的、間接的に生死を左右するのですが、いったい人間は何を求めて進化するのか、その落ち着き所を問いたくなるのですが、流れの中では止(とど)まる時はなく、動という流れは、均衡という安定性の視点から見ても不安定であることが自然に見える。

 「祈り」の背後に、共通意識・自覚として、相互理解として、安全、安心の世界があるとするならば、自分の立てた格率は誰もが正しいと認めるものになるのだろうと思うのですが、はたして個々の知性というものは同等のレベルにあるのかという疑問に至ります。

 仏教では、それが平等という現前の現れでり、他者との違いがそのまま残り続けるこれをわきまえる体得を望みます。

 最低限でも共通意識、共通自覚が保てるならば・・・と考えたくなります。

 動という流れの中で、意識し、自覚することは止まらない。

 遺伝子には変異がおとずれる。その結果が人間になる。今の自分が形づくられ動き続ける。

 正義は何を語るのか。公共哲学は何を求めるのか。

 人間存在の素性を知ろうとする。遺伝子の解明はそこにあるのだろうと思います。

 何はともあれ、今現在が一大事であって、今を一生懸命であればよく、それが数多(あまた)が指摘する善の道ならば善(よ)しとしよう。


~サムシンググレートとの対話~「祈り」・祈りの本質・遺伝子

2013年06月23日 | 思考探究

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 「ハエとり草」です。どこでも見かける雑草なのですが、このピンクの鮮やかさには観照用の花に負けないところがあります。

 触ると少し粘々する、そこがこの花の呼び名になったのでしょう。

 38億年前のアメーバーの発生から生命の営みが分岐を重ね今の実相になるのですが、無機物の世界も有機物の世界と同様にその有り様を創りそれぞれの今その瞬間に私に一幅の風景を映じてくれます。


(今朝の有明山)

 文才があればこの感慨を芸術的に書けるのでしょうがまぁこの程度で今日の自分史の朝の表現としましょう。

 テレビ番組の話になってしまいますが、団塊スタイルとして「自分史をつくる」番組がありました。それぞれに特色のある自分史を作る人が増えているのでしょう。もうブログを10年以上は書いているので、まとめれば心の変遷としての私の自分史ができると思っています。

 最近塩尻市で白鳥哲監督作品~サムシンググレートとの対話~「祈り」が上映され私は観ることはできませんでしたが、妻が観に行きました。

 「世界は祈りでひとつになる・・・・・」筑波大学名誉教授の村上和雄博士の科学的な意識研究から「祈り」が遺伝子に作用しそれが森羅万象のあるべき姿に変遷して行く。

 何処へ向かうのか。

 それは誰もが既にもっている「祈り」の本質にあるのでしょう。

 個人主義的な我の世界ではなく、自己本位から更に「則天去私」という夏目漱石の『こころ』から『明暗』で固まっていく思想に我が歩みを重ねる。

 ひとつ思うのは「知性の遺伝子」というものがあるのだろうか。

 「知能とは、根本的に異なるさまざまな過程、単なる成長の過程や生理上の健康、学習、記憶、注意、意向、情緒などを含む神経的心理過程、その他言葉で表わしえない人間的な事柄の複合である」(ジョン・C・エックルス ダニエル・N・ロビンソン著『心は脳を超えるか』紀伊國屋書店p224から)

 知性と知能は異なります。過去ブログで「祈り」についてはあまた書きましたが宗教性のみが「祈り」の本質ではないと私も思っています。

 知性というものは、知能とは異なり作用として個々に備わっているものです。簡単に言えば感じる能力、気づきの能力だと思います。

 「知性」とは辞書的には「感覚によって得られた物事を認識・判断し思考によって新しい精神を生み出す精神の働き。」で「知的能力」とも言われ「知性」と「知能」とは同じもののように書かれています。

 「こころ」「精神のはたらき」は空間を占めるものでここにあるというものではありません。魂も物(ぶつ)としてあるという存在ではなく、空間を占めるものとしてあるものだと私は思っています。

 38億年の生命の営み

 人類20万年の旅路

 人類はどこへ向かおうとしているのか。

 「祈り」には凄い力がある。

と、白鳥哲監督作品~サムシンググレートとの対話~「祈り」は語ります。

 観ていない私が言うのもなんですが、満席になるほど人々がくることに生命の営み、旅路の本質があるのでしょうか。

 そうあれば・・・・と思います。

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「かげ論」とでも言うのだろうか。

2013年06月22日 | 思考探究

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 3年前の今頃、朝日で照らし出される雲のその色の輝きに魅かれて「朝影から思うこと」と題して書いたことがあります。

 「朝影」という言葉は日常的に聴かれる言葉ではなく古語です。3年前は、大修館書店の古語林を使い、には、

あさかげ【朝影】[名]
 ① 朝日の光
 ② 朝、鏡や水の映る顔や姿
 ③ 昇りはじめの朝日を受けてできる細長い影

の解説を引用しました。今日は岩波書店の古語辞典の解説も追加しますが、岩波では、

あさかげ【朝影】
 ① 朝、鏡や水にうつる姿
 ② 朝、のぼりはじめたばかりの太陽の光をうけてできる、ものの細長い影
 ③ 朝日の光
 ④ 朝の涼しい時

とあります。違いは岩波に「朝の涼しい時」が追加されている今頃の季節は朝方が涼しく、影も影響の「影」と考えれば朝のうちが涼しい季節ということになり、辞書の事例では旧暦の7月の話が掲載されていました。

 前回のブログで愛知専門尼僧堂青山俊董堂長のこころの時代「人生に光あり」のことを書きましたが、番組内で平成22年の「光」という勅題に合せて詠われた、

くさぐさの葉末(はずえ)に宿る白露の
         一つ一つに月影の澄む

が紹介され、月が全部の葉に平等に映っている様相を自然界の平等な働きに、その働きを頂いていることを更に「私という命を頂く」という感慨に転回されて語られていました。

 この場合は「月影」ですが日本語の「かげ(影)」の理解には独特の意味理解が必要で日本語の文化圏で育っていると自然にその感覚が歴史的身体の内にあります。

 「影」という言葉が付く日本語にはどんなものがあるか。岩波の逆引き辞典を調べると、

夕影、透影(すきかげ)、其雪影(そのゆきかげ)、男影、星影、松影、御影、面影・・・

という言葉が出てきます。当然日影もあるのですが、古語の「ひかげ」を岩波で見ると、

ひかげ【日影・日蔭・日陰】ヒは日、太陽。カゲは光。また、それが物に当って後ろに生ずる像。光の当たらない所。
 ① 陽光
 ② 「ひかげのかづら」の略
 ③ 日光の当らない所。また、下積みの境遇
 ④ 日光の直射を避けるための覆い。
 ⑤ 世を隠れ忍こと。また、その人。

 「陰」という字は「かげり(陰り)」で、「陰ある人(男・女)」は何かわからないものをもっている人でその明暗がはっきりしない人。

 光と影、光と陰

 3年前のブログではシャミッソー著『影をなくした男』(岩波文庫)のことを書きました。そこでは翻訳者の池内紀さんが「おわり」に書かれた文章が印象的であったので紹介しました。再学習のために再引用します。

<シャミッソー著『影をなくした男』(岩波文庫)から>

 心理学者によると影の記憶は成長の過程につきそっているのだそうだ。ある齢ごろになってようやく影の意味合いに気がつく。つまりは潜在的な自我に気がつき「私という他人」を発見する。

 なるほど、そう言われればそのような気もする。「影踏みごっこ」などといったと思うのだが、夏の昼下り、田舎の寺のしらしらと照り返す境内で近所の遊び友達と、てんで勝手な奇声をあげながらたがいに影を踏みつけあった。そのとき足もとにのびた影法師はちんちくりんの背っぴく、そのくせ執拗にへばりつき、こちらの身振り手振りのままに小さくいじけた動作をつづけていた。
 
 夢中におどりまわっている最中にふと足をとめたことがある。はなたらしの子供心に自分が黒い小鬼の指図のままに身振り手振りをしているような気がして、おもわず足をすくませた。
 
 写生の時間にまっ赤な太陽は描いても、私たちはお陽さまに照らされたひまわりに影などつけなかった。電柱はひたすらまっすぐに空に突っ立っていた。どうして影など描きそえなくてはならないのだろう? 写生だもの、あるがままに正しく描くべきだと考えていた。

 横顔であっても目は二つ描く。というのは人間が二つの目をもつ生きものであることをちゃんと知っているからだ。先生の顔にある小さなイボは、どんなに遠くにはなれていても描いておかなくてはならない。なぜならば先生の顔には鼻の横に小さなイボがあるのだから。
 
 要するに、ありのままを正しく描きたかった。事実を正確に写したいというのに、どうして影など描くべきだろう。それにどんな意味があるのだろう? 影はちゃんとしたものではないのである。いつのまにか大きさが変わる。陽が雲間にかくれると同時に消え失せる。
 
 この点、影は人間の成長につきそっているだけではなく、文明の成長にもつきそっているのかもしれない。古代エジプト絵画にみるとおりだ。古代のエジプト人は真横から人間を描いてもきちんと二つの目をつけた。腹にはヘソを描きそえるのを忘れなかった。人間はヘソをもつものだと知っていたからだろう。事実を正しく描きたかったからだろう。
 
 そしてむろん、彼らは影などつけなかった。じりじりと照りつけるエジプトの太陽は人々の足もとに、ひときわ黒々とした影を投げかけていただろうに-----。
 
 その一方で影が大流行した時代がある。ヨーロヅパの十八世紀後半から十九世紀にかけてのことだ。どこかで影絵というものをごらんになったことはないだろうか。当時の本、たとえばヴォルテールの『書簡集』だのゲーテの『若きウェルテルの悩み』だのには表紙にきまって著者の影絵が刻印されていた。
 
 黒い横顔の肖像である。いわくありげな影の肖像は書物の表紙だけでなく、アルバムや看板やメダルやコップや皿にまでつけられていたようだ。等身大のものさえあった。
 
 スイス人のラヴァーターといった学者は影絵の蒐集をもとにして「観相学」という新しい学問をつくりあげさえした。多少ともうさんくさいこの人間学によると、書物をひらいて中身を読む前に表紙に刻まれた肖像をじっくりとながめ、たとえば鼻の形を観察する方が、より「理性的」であるのだそうだった。・・・・・・

<以上>

 久しぶりの「かげ論」と言っていいのかわかりませんが、影というものは、姿だけではなく、あるものを浮かび上がらせる光でもあります。

 言葉を現象学で解くことはできるのでしょうか、自己と他者とが行き来して、行き来はある現象ではなく瞬時に展開される映し出される姿、人と人のコミュニケーションは、影があってなされている、ということもいえるのではないか。

 なぜ今朝はこんなことを書くかというと哲学者の鷲田清一先生が最近出された『<ひと>の現象学』(筑摩書房・2013.3.20)の第一章が「顏 存在の先触れ」で読んで鷲田先生は「かげ」を論じているわけではありませんが、「・・・ひとはまなざしをとっさに外しながらそれでも相手の顔をさぐりに行っている。・・・」(同書p24)という文章に熱愛中の男女でない限り正面からジーッと見つめ合うことの得意でない人間の不思議さを思ったわけです。

 人間は明暗がありわからないうちが花で、何かの番組で俳優の武田鉄矢さんが夫婦が分かれる時の妻の言葉に「あなたという人がわかった」という言葉が最後通告と言っていましたが、確かにそのように思います。

 朝影から離婚話に転回してしまいましたが、特に私自身に問題があるわけではありません。

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自覚のこころを育てる

2013年06月21日 | 思考探究

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 早朝散歩の中での自然の音について書く中に、ウグイスの歌声があります。「ホーホケキョ」よくよく聞くとこの「ホーホケキョ」だけではなく「ケキョ、ケキョ、ケキョ・・・」もあることに気づきます。

 この歌声に意味をもたせようという話ではないのですが、日々同じくり返しの中で、人間だけが持つ自覚の作用に、能力に、与えられている力にあらためて考えさせられます。

 毎週日曜日にEテレで放送される「こころの時代~宗教・人生~」という番組があります。


http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm

個人的に学びの場として毎週欠かさず見て印象深い番組は内容を文立(文章化したもの)てしてきましたが、この番組については、写真入りの速記録でホームページで掲出されている方がいます。

「こころの時代へようこそ」というサイトで、そこに最近昨年放送された

哲学者の山田邦男先生の
「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」(2012.4.20)

愛知専門尼僧堂青山俊董堂長の
「人生に光あり」(2012.5.6)

がアップされました。ブログだと1時間分の文立てをするとなると1ブログの字数に制限があり、全番組を1ブログでメモることができませんが、このサイトは大変見やすくわかり易くでした。

 録画のDVDを見て、音声化したCDを聞くことを何回行なっていることか、一字一句を覚えたい、そんな気概があるのですが、不思議に覚える以前に見るたびに、聞くたびに新しい気づきに出会うのです。 

 山田先生の「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」についてはこれもたびたびブログに書くのですが『フランクルとの<対話>』(春秋社)があり青山先生のお話は『照らされて知るわが姿』(鴻盟社)などに一部番組と重なるところがあります。

 そういう書物も参考にするのですが、知悉(ちしつ)すなわち知り尽くすなどは到底私には不可能で、それよりも新しきものに出会います。新しき「心もち」と言った方がよいのかもしれません。

 上記に番組の文章化された「こころの時代へようこそ」サイトには本当に感謝です。A4で37ページの綴じ本にし携帯しています。

 誰でも平等に与えられている「自覚」の力。自覚できることを気づかさせてくれる教になかなか出会えません。

 私のなかではこの両番組が常に重なっています。ぶれないままの私で今のところ何かを求める心を育てています。

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ディスレクシア・読み書き困難な子供たちがいる。

2013年06月19日 | つれづれ記

 テレビ番組の話になりますが、自分自身の障害を知ることで新たな人生を歩もうとしている一人の50歳の男性の姿を紹介する番組を見ました。
 
 6月15日に放送されたNHK目撃!日本列島「50歳、成長中!~“読み書き困難”と向き合って~」で、2月6日のNHKニュースウオッチでもこの「ディスレクシア」については放送されていたようですが知りませんでした。

 ディスレクシアは、発達性の読み書き障害で、

・脳の機能の連携が問題を起している。

・知的な発達に遅れはない。

と定義されます。工務店を経営するこの方は見る限り全くそんな障害があるとは見えません。しかし実際読み書きとなるとその事実が自分を襲います。

 この事実を「隠し生きること」の辛さ苦しさを語るその姿に、いつの間にか涙が出ました。

番組の概略紹介では、

 全般的な知的発達に遅れはないが読み書きだけが困難。いま「ディスレクシア」といわれる読み書き障害の研究が進んでいる。“読み書き困難”に向き合う50歳男性の日々。

 鳥取県で工務店を営む50歳の男性は「ディスレクシア」という発達性の読み書き障害がある。時間をかければ黙読はできるが、音読や、字を書く能力は小学校低学年程度だ。これまで読み書きが困難なことを周囲に隠して生きてきたが、最近になって障害が原因とわかった。男性は人生を前向きに生きて行こうと決意。同じ悩みで苦しむ子どもや若者のために活動を始めている。男性はどんな思いで日々を過ごしているのか。半年間を追う。

と紹介されています。

 小学校、中学校大変だたろうと思います。教師には「怠けている」という言葉を常に浴びせられていたようです。実際今でもこの障害の不理解で苦しんでいる方が多いのではないだろうか。

 しっかり子どもと向き合えば、その不自然さがわかり脳の一部の機能不全が原因であることもわかったのではないだろうか。

 いじめという問題があります。いじめる側、いじめる側双方に精神的な問題があるのではないか。だからその原因を探ることが緊急だと周りの家庭環境や過去のいじめの調査に翻弄し、今現在の「いじめ」の解消が緊急であることに気がつかない現実を最近知りました。

 双方の子供たちと面接し「いじめ」の現実を示ししてはならないこと、悲しみの現実を説明する。その面接に際し態度等から別の精神的問題が浮かび上がれば専門的な機関の手を借りるなどの方策が出てくると思います。

 何が一番か、緊急とすべきことは何か。音声から文字化でき、文字を音声化できるPC一台でもこの障害を持つ子供たちを苦しみの現実から救うことができるようです。

 この障害で悩んでる方は多いようです。NHKスペシャル等で脳科学も含めた詳細な研究成果を紹介してもらいたいと思います。

※ 文中に「いじめ」の問題を書いてしまいましたが、解消法の視点に問題を感じた現実に遭遇したので書きました。何がまず大切か、何が緊急かという視点で書き入れました。

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睡蓮(スイレン)と民話の森の住人たち

2013年06月17日 | 風景

 6月も半月が過ぎこの季節に咲く花に睡蓮(スイレン)があります。安曇野市の南西部に室山という地籍にこの睡蓮が咲く池があります。昨日日曜日の午前8時前に家を出て20分ほどでお目当ての池に着きました。



 一眼レフの大きなカメラで撮影している男性がシャッター音を響かせていました。池には大きな鯉が蓮の葉の間を泳ぎ時々かをを出していました。



 ウグイスの声が聞こえ、鯉が跳ねるポチャッという音が聞こえる。

 池一面に咲いているわけではないのですが毎年この季節には来ています。

 午後は安曇野市立中央図書館に併設されている安曇野市穂高交流センターに演劇を勉強されている方々の「あづみのアクターズアカデミア」の卒業記念発表会があり「~民話の森の住人たち~」という語りを中心にした演劇を見に行きました。

 地元の民話「八面大王」「でぃらぼっちゃ(巨人)」などが紹介されていました。民俗学にも興味があり当然各地の民話もその範疇でみなさんの熱き演技に感動しました。

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「人類20万年遙かなる旅路」始りました。

2013年06月16日 | 歴史

 5月16日付けの「自分の意図する学問」と題したブログで、地球ドラマチックで「人類20万年 遥かなる旅路」という番組が放送されるということを書きました。10代の頃から人類学も好きで番組の最初に現生人類の最初の化石をアフリカのエチオピアのオモ川の下流のキビシュ累層で発見したリチャード・リーキー博士の名が出てきて懐かしく思いました。


(地球ドラマチック「人類20万年 遥かなる旅路」から)

 その後各地で現生人類の古い化石が発見され、最初期のものではないようですが広大なアフリカ大陸に現生人類の起源を求めて大地を掘り起こしたことに人間の飽くなき物探求心に驚きます。

 アルゴン・アルゴン法やウラン系列年代測定法、ERS法(電子スピン共鳴法)などという年代特定の化学分析法があるようですが、炭素同位体による年代測定では測れない、何十万年前という年代測定が可能になっていることにあらためて科学技術の進歩を感じます。

 5月のブログを書いたときに昨年(2012年)に放送されたNHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」という番組のことに触れました。わたしたちの「心」の中には壮大な人類進化が埋まっている、ということで心理学、遺伝子学、経済学、脳科学そして考古学の視点から「ヒト」の心の進化を語る番組がありました。

 今回の「人類20万年・・・」を見た後に「ヒューマン・・・」の第1・2回を再度観てみました。今回の「人類20万年・・・」は考古学、遺伝子学、気候学が中心にその番組が構成されていて、アフリカからどのルートで人類は南極を除く大陸に移動していったのか「ヒューマン・・・」では参考文献の『Human』(角川書店)では、「ふたつの出アフリカ」のルートが紹介され、この移動の旅路を「グレートジャーニー」と呼ばれていました。そして最有力のルートについては、

 このグレートジャーにの最初の一歩、すなわち故郷のアフリカを離れることになった大事件「出アフリカ」と呼ぶ。それは今から6万年前、紅海をわたりアラビア半島に出たというのが最も有力な説だ。」(同書p125)ということが書かれていて、「ヒューマン・・・」の番組内では、イスラエルのカルメラ山の一角の通称『洞窟の谷」(スフール洞窟)で発見された7体分の現生人類の人骨が中心に語られ、個人的に読みが足りないのかイスラエルの地を通るルートで人類は世界に移動していったと思っていましたが、今回の「人類20万年・・・」では明確にこの説を否定し、カルメラ山の現生人類はその後死滅し、紅海をわたりアラビア半島出田現生人類が直接の世界に広がった現生人類の先祖であると解説されていました。


(地球ドラマチック「人類20万年 遥かなる旅路」からイスラエルコース)


(地球ドラマチック「人類20万年 遥かなる旅路」からオーマンコース)

 「ヒューマン・・・」では、最初は数千人であったろうとしていましたが、今回の「人類20万年・・・」では数百人であるとしていました。

 この話も私にとっては遺伝子学の結果であるアフリカの1人のイブから始まる人類の歴史と共に印象的に残る話です。


(地球ドラマチック「人類20万年 遥かなる旅路」から遺伝子の樹)

 「ヒューマン・・・」の第1回では「分かち合いの心」の起源が語られていましたが、現代人が考古学的事実等で今現在の感覚でそのように理解するのですが、その歴史時代のその時点の人の心はわかりませんが、数百人が6万年で世界に満ちあふれる状態になるには協力がなければむりでしょうし、あらためてなるほどと思いました。

 「人類20万年・・・」ではさほど多くの解説がなされていません。やはり参考書として『人類20万年 遥かなる旅路』(文藝春秋)がお薦めです。アリス・ロバーツという方の書かれたものですが、実に詳細に書かれています。

 ということで今朝はこの程度のメモとします。


生きる意味についての問い・人生についての問い・いのちについての問い

2013年06月15日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今朝の一文、ところどころに写真を入れます。今朝の散歩時のものです。


(あずみ野温泉ホテル前のヤマボウシ(樹)右側上部の白い花の木)

 他律的な生き方といいますか、考える力を失い他者の言われる言葉が絶対である信じる怖さをその言動の中に感じることがあります。

 仏教における無分別智を徹底すると「人生に意味などない」という結論となるのか・・・あまりにもその無気力、無抵抗の徹底が、充実した人生をおくる最善の道と説く言動に悲しさを覚える。

 それは次のように語られます。

・「生きる意味」は「答えのない問い」です。「答えのない問い」は放っておく。それが理性に基づく生き方なのです。もう一つの答えは、努力をするということです。せっかく動物とは違う能力をもって生まれたのですから、努力して、学んで、どこまでも自分を高めつづけることをお勧めします。そうすれば、かならずや充実した人生をおくることができるからです。

・人生に意味などない。生きるというのは、単に母体から生まれてきた生物が、年をとって、徐々におとろえてゆき、ついには寿命をむかえて死んでいく、ただそれだけの話です。ですから、生きること自体に意味などないのです。

・人生に価値を入れること、これがあらゆる苦しみをもたらします。そこで、その逆の「価値がない」ことをパーリ語では「dukkha」と言います。これは単なる机上の概念ではありません。お釈迦さまが自ら修行した結果、発見なされた偉大なる真理なのです。お釈迦さまは悟りを開いたとき、堂々とおっしゃいました。「私は徹底的に修行し、研究したところ、一切のものごとは無意味で価値がないものであることを発見しました」

と。この語りに従順なる僕(しもべ)の思想を思う。徹底した一神教の神を背後にもつ実存であるならば、最後の一息の向こうに御国があり御座の傍らが準備されているのですから安心(あんじん)も得ることができましょうが、そうでない私には耐えがたきニヒリズムの徹底にしか思えません。

 そしてその言動からは「主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情」を意味するルサンチマンとしか思えません。

 「人生に意味などない。」という語りは小舟の己だけの悟りの境地を語っているようですが、遍く人を乗せる大乗の根本には「既に授かっているものに気づく」そんな流れがあります。天地一杯に注がれている陽の光、光は遍く平等に存在するすべてを照らす。その平等性の事実、照らされている事実が「それでも人生には意味がある」を語るように思えるのです。

 排他性の強い、破邪顕正的な姿は、他律的であることに気づけなくなってきます。

 法燈明、自燈明の「法を依処(よりどころ)にし、己を依処にせよ」は、一如の世界にある己に気づき依処とせよ、という意味に思います。


(別荘地で見たバラ)

 ヴィクトール・E・フランクル(以下フランクル)は、その著『それでも人生にイエスと言う』(山田邦男・松田美佳訳 春秋社)の「自殺の問題」を語る中で次のように説きます。

・・・生きている意味について話をするということは、そのときすでに、生きている意味がなんらかのしかたで問題化しているからです。生きている意味はハッキリと問題視されるとき、すでに生きている意味がどこか疑わしいものになってしまっています。けれども、人間として生きている意味を疑うと、絶望にいたることは簡単です。この絶望は、自殺を決断する形で、私たちの前にたちあらわれます。(以上上記書p19)

この言葉の書かれている『それでも人生にイエスと言う』は、フランクルの有名な「実存分析と時代の問題」という1946年12月28日行なわれた講演会の内容で、上記の「山田邦男・松田美佳訳」に敬意を表しながら青土社のイマーゴimago『総特集・ヴィクトール・E・フランクル』では、竹内節・広岡義之訳で、

・・・生存の意味を話題にする場合、まず、その都度、生きている意味が何らかの方法で問われてきました。その意味がはっきり問われれば、それはまた何らかの疑いをかけられることでもありました。けれども、人間存在の意味を疑うことは、簡単に絶望につながります。この絶望は、私たちにとっては、自殺の決断という形になるのです。(以上上記書p19)

と訳されています。

 生きている意味について話をするということ=生存の意味を話題にする場合

 人間として生きている意味を疑う=人間存在の意味を疑う

ということになります。



 生きる意味についての問い、人生についての問い、いのちについての問い

ついて今回はブログに書き込みたいのですが、続いてフランクルの『夜と霧』(霜山徳爾訳・みすず書房)から何回となくブログアップしている有名な言葉を紹介します。

・・・ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回」これは観点を180度の転回ですね。転回「が問題なのであると云えよう。」「すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われているものとして体験されるのである。(上記書p183)

この中でははっきりと、

「われわれが人生の意味を問うのではなくて」

と訳され書かれています。これは決して「人生を問うてはならない」と言ってるのではありません。

 「われわれが人生の意味を問う」ことは「人間存在の意味を疑う」ことではありません。

 『夜と霧』を読んだ方、『それでも人生にイエスと言う』を読んだ方の中には理解の誤りをする方が多いようです。極端な例として上記の「人生に意味などない」という極端な話をあたかもフランクル思想と重なるように語ったものがありました。

 「人生を問うてはならない」という語りの絶対的是認の姿、他律的な姿に驚くのです。

 自己の力で、自己の意志の力で思考できるうちに多くを知ることであり、既に授けられているものに気づくことだと思うのです。

 今朝も日は雲の向こうにありますが、あまねく日差しは雲を通して万物に平等に注がれています。

 松本平や安曇野のヤマボウシという樹に白い花が咲いています。葉よりも上に咲いているように見えます。だからボウシ(帽子)と呼ぶのでしょうか。

・・・Trotzdem Ja zum Leben sagen[それでも人生にイエスと言う]V・E・フランクル

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