思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

相対化・空気・リズムを思考する

2018年03月31日 | 思考探究
 ダイソンの掃除機や扇風機を見ていると「モノづくり」という「モノ」を作り出す発想力に感心します。日本だけがモノ作りに精通しているわけでなく、自然物の利用ではありますが、道具として使う類人猿も知られています。

「なぜそれを作り出したのか?」「なぜあなたはそう思い立ったのか?」

 掃除機についてはいろいろな形のものがありますが、電気とモーターが掃除機には共通し使われています。この二つを工夫し、付属品を組み込み、より性能の高い、便利なものをつくりだしてきました。その中でサイクロン式の発想はどうして生まれたのか考えたくなります。
こんな話があります。

「フランス人は、誰でも同じ良い結果が得られるよう、道具を工夫する。日本人は簡単な道具を巧みさによって多目的に使う。西アフリカ人の黒人は長い腕をくわの柄の代わりにしたり、ろくろを用いずに人が土器の周りを回って成形したり、身体を道具化させる。」そこから民族の自然観や人間観も見えてくる。

 これは、最近の地方紙に人類学者の川田順三さんが紹介されその中で語られていたものです。民族のもつ文化、そこに生きる人々には主観的なまなざしがあります。フランス人、日本人、西アフリカ人のまなざしを上記のように相対化する(三角測量)ことで何かが見えてくるというのです。
 このような手法による分析で何を得ようとするのかと思っていると、

 大切なものは目に見えない。

という言葉が、ある科捜研ドラマの中でキーワードとして語られていました。

 川田んさんの三角測量という手法により相対化され現れてくるもの。具体的に言葉として表せませんが、感覚的な「つかみ」ともいえそうな、日本語的な表現ならば「空気」感というものが現れてくるような気がします。

 刻々と時を刻むま中に生きていると上記のように気になる記事や気になる放送番組があり立ち寄ることになります。これもまたテレビ番組での話で、Eテレの100分de名著スペシャル『メディア論』で評論家の山本七平さんの「空気」の話が話されていました。

 まるで共時的な出来事です。空気というあいまいでありながら、そうあることが当然であろうとする心情の醸成という、どこからその衝動が現れるのか理解できないが、私にも確かにある。「も」は他の日本人もそうであろうと考えてしまった発言ですが、そう思えるから仕方がありません。

 国会の今の状況を騒々しいとみる私が語るならば、「真実」を正したいという議員さんには大変に失礼な話です。議員さん方にはそれぞれのビジョンがあり個々に崇高な使命感を持っているのでしょう。

 他者が悪人に見え、また善人に見える。

 いったい私は何を見ているのだろうか。

 「大切なもの」それ自体、幅の広い個別的な概念形成があります。本当に大切なもの、目に見えないからこそ求め喘ぐ。

 無文字社会で生きる西アフリカのモシ族、彼らは太鼓の音で歴史を語ると川田さんは語る。文字がなくとも歴史は語られるというのです。
 この世から文字が消える世界がある。SF話ではなく戦後の日本に起きた教育現場での教科書への墨塗り。当然空気感も一変し、鬼畜米英は一変し救世主になり「空気」は「毒入り」から「新鮮な空気」へと変わった。

 こと(子供らを戦地に送る教育)はなかったことにしてしまいましょう。

 戦勝国には、我が国の大いなる誤りから、崇高な民主主義を取り戻していただいたという教化がなされ、戦うことの悪が意識づけられて今日に至っています。

 私は今、「毒入り」と分析しこの言葉を使いましたが、その時代に生きた人々に、今の私がそのように言うのは時空を超えた不敬な話です。

 モノ作りから無文字の世界、そして「空気」と思いつくままに書いていますが、日々このようなことに思い巡らしていますと劇作家山崎正和著『リズムの哲学ノート』(中央公論新社・2018.3.25)に出会います。

 先ほど無文字社会、西アフリカのモシ族の太鼓の音で歴史を語る話を書きましたが、太鼓はリズムを奏でます。太鼓と聞けばそれなりの音を想い、ヴァイオリンと言えばそれなりの音を聴こえてきます。
 山崎さんの著書に

 ・・・リズムそれ自体がむしろ抽象化によって生みだされる例もある。ほかならぬ盈ち虧けや星の運行、あるいは季節の移り変りなど、ほとんどの自然現象のリズムはそういうものであろう。当然の話だが、自然現象を週単位や年単位で切れ目なく観察しつづけるのは不可能だから、人は純粋な感覚の次元でリズムを感知することはできない。こうした巨大なリズムは、人間が間歇的な観測を記憶のなかで総合し、現実の経過を圧縮し省略することで初めて成立するといえる。

という記述を見る。私だけではないが、月や太陽の運行、川の流れ、雲の流れなどに独特なリズムがあることに気づく、これをどうにか言葉表現しようするならば、擬音、擬態音というオノマトペ表現になります。

 リズムは山崎さんが言うように聴覚だけではなく、身体的、皮膚感覚など多岐の感覚を伴う器官で感じられるもので、感性を共有することもできます。

万葉集4-531海上女王(うなかみのおおきみ)

 梓弓(あずさゆみ)
 爪引(つまび)く夜音(よおと)の
 遠音(とほおと)に
 君の御幸(みゆき)を
 聞かくし良(よ)しも
 
という歌があります。
弓の弦を「グウォン、グウォン」とつま弾く、葬送の音(ネ)です。「チンジャラ、ポクポク」の聴き慣れた葬儀時の音とは、また、一味違う雰囲気と時間の流れを想います。
 リズムは人の動静にも現れるように想います。

 国会には騒々しさのリズムの刻みがあり、議員先生の一人一人にも個性豊かなリズムを感じます。

 ボンボン攻める人がいればタラタラと冷や汗をかく人もいます。それもまたリズムに想える。

 ダイソンの掃除機の開発者にもサイクロンという音の響きにエネルギーの強さを感じ、飛騨の匠には粛々とした静的な伝統の刻み音が聴こえ、匠の教えは弟子にとってはドカンとそびえ立つ壁のリズムが見えているかもしれません。

 とりとめのない私の文章、私には私のリズムがありましてこのような文章になります。

 『空気の研究』で語られる「空気」、これもまた共有リズムともいえるかもしれません。

 三角測量による分析、ある意味リズムの読み取り、空気の読み取りでもあるように思える。こういうものが場を形成するのかもしれません。そして場に生きる者はその場のリズムに知らぬ間に共鳴し、個性的な感覚機能を有し共鳴者からみれば不協和音の発声者にみえるが、別のリズムに生きているともいえる。

 「池上彰と宇宙の旅2018」という番組がありました。最後に人はなぜ宇宙を目指し、月を目指すのか、という話になり、それは「自分が一体どういう存在か?」というときに「外から見ないと分からない所がある」と同じで「地球」それ自体の見つめなおす視点にもなる旨の話がありまして。

 人はリズムを感じ、またリズムを刻む存在。われ自身の葬送にはどんな音色を聴くのだろうか。しかしそれは疑問符ではありえない。そこに私はいないからです。

津波ピアノ~自然回帰~

2018年03月15日 | 哲学
 東日本大震災から7年がたち関連番組が多く放送されていました。その中に音楽家坂本龍一さんの被災した一台のグランドピアノを話題にした『津波ピアノ~坂本龍一と東北の7年~』という番組がありました。

 宮城県のある高校の体育館の壇上におかれていたピアノ、津波に襲われ奏でることができなくなり、音を失ったとも表現できそうな状態になりました。番組ではそのピアノが今、アート作品として展示されるようになった経緯が語られていました。

 その中で坂本さんが物質から形ある楽器が制作され、その形ある楽器が被災して過去の物質へと戻ろうとしている現況、その被災したピアノのキーを弾たくと被災した弦がかろうじて音を奏でる。それは被災前の美しき音色ではないが、自然への回帰しようとする経過の音色であることを語っていました。

 明確にこのような表現をしたわけではありませんが、私にもその音色が個々の物質へと戻ろうとする経過音に聞こえました。時間が逆方向に進むわけではありませんが、人工の手を加えなければまさに朽ちていくピアノです。

 人間が善かれとして音楽を創造するために作ったピアノ。それが自然界の流転で個々の物質へと戻ります。人間が技術をして引っ張られていた弦、それは錆、歪み元へと戻る。

 人間が創造したものは、どのような物でも永遠の恒常性の中にはありません。ある意味自然との対立点で均衡状態にありますが、バランスは永久に保たれているわけではなく人間の視点からすれば、自然の回帰におかれているとも言えます。
 そこに絶対の力がある。

 存在そのものの根底に横たわる絶対の力とも表現できそうです。

「時は永遠の過去より流れ来たり、永遠の未来は流れ去る」

「時は永遠のうちに生まれ永遠のうちに消え去る」

西田幾多郎先生の「ゲーテの背景」の冒頭の言葉ですが、私の心を波打たせます。津波ピアノの音色はまさに流転の現在(いま)を教示しているようでした。