人は何を語ろうとしているのか。その矛先が私に向けられた時に話の意図するところを考える。既知の者であるならばその意図は容易に察することができ、気持ち的に負担がないが、互いの関係性を見出せない一方的な侵入者であると、逆にこちら側が一方的に負担を背負うことになる。
言葉や文章による伝達はやはり気遣いが大切である。
さて昨年1月にEテレで放送された「日本人は何を考えてきたのかシーリーズ」の昭和編第3回第三回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」が土曜日深夜に再放送されました。
番組の最後に、生命科学者の福岡伸一先生がその立場から次のように話していました。
(Eテレ「日本人は何を考えてきたのか」から)
【福岡伸一】 生命科学を研究するものとしてこの旅をしてよかったと思う。西田のビジョンからいうとある種の関係性の中に生命を捉えなければいけないと書いてあるわけです。これは非常に古くて新しい生命観で、生命というものはその部品一つ一つが実は絶え間のない合成と分解の最中にあるあって、ドンドンドンドン壊されてドンドンドンドン作られているわけです。これは合成と分解という一見矛盾していることが同時に起きているわけです。つまり「矛盾的自己同一」ということがそこで起きているわけです。絶え間なく壊しているから作れる。絶え間なく壊すことによって空白がボイドができるわけです。ここで新しいものが補完するように作られる、そのくり返しとして生命体があるということを私は『動的平衡』と呼んでいるのですが、生命の在り方として、そういった関係性、同時性全体とそれを構成する要素との間の不断の連続性によって生命が成り立っている、ということが(西田哲学の中に)描かれている。これは非常に、これから生命というものをどのように捉えていかなければいけないのかということを明確に明示しているいると感じました。
<以上>の内容ですが、話の中に「合成」「分解」という言葉が使われています。
西田哲学の「矛盾的自己同一」という有名な言葉を重ねているのですが、この「合成」「分解」という言葉に、哲学を西田幾多郎に学んだ文芸評論家の唐木順三先生の作品の中に類似する表現があり、同じ事柄を起源とする人の理解と表現には部門を越えて共時的なところがあるものだと思った。
同じ評論家の小林秀雄先生には『無常という事』という作品があり、唐木順三先生には『無常』という作品があることを最近のブログに書きました。
部門を超えた似た表現は、唐木順三ライブラリーⅢ『中世の文学 無常』(中公選書)に書かれている「無常の形而上学~道元~」の中の次の文章です。
<唐木順三ライブラリーⅢ『中世の文学 無常』から>
「いわゆる海印三昧の時節は、すなわち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法を合成せる一合相、すなわち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり、合成此身を此身と道得せるなり。」
ここでくりかえしいわれているのは、此身という実体があるのではないということである。衆法即ち四大五蘊(地水火風の四大、色受想行識の五蘊)がたまたま合成されたところが「此身」というものだというのである。在るのは四大五蘊ばかりで、此身があるのではない。また「我」というものがあって、それが「起こる」のではない。我滅ということもない。衆法が合成し、また解体するばかりである。
然しなぜ合成また解体という作用が「起」るのか。いついかなる原因理由で起きるのかこの問いもまた起なるが故に、起を客観的に理由づけることはできない。無限に起を問うても、問うことが即ち起なのだから、起は最後まで残る。「起也るべし」というほかはない。ただ「時節到来」して起り、「時節到来」して滅する。・・・
<以上『中世の文学 無常』(中公選書p504から)
唐木先生の文章はお分かりのとおり仏教的な視点からの話しですし、福岡先生の場合は生命科学からの表現という事になります。
合成と分解(解体)、そして「起きる」「起」
という言葉を重ねることができます。
形成の働きのうちにある存在として我が身が生(あ)り、時節到来し滅する。
全体的な生死の間のものから、転じて微分的な今現在の純粋経験のただ中の連続性にある生けるものとし人間存在、それが表現されています。
「表現」
今回のブログのテーマはこの「表現}です。最近我がブログにコメントを寄せてくれる方が何人かおられます。コメントするという事も個々の自己表現であり、コメントしたいという判断をして書き込まれます。
表現には、語る者、聞く者(ほとんど一方的な場合もありますが)間の伝達手段として音声や文字を使った文章、物語などがあります。
時枝文法のあの時枝誠記(ときえだもとき)先生は、以前ブログのも書きましたが『国語問題と国語研究』(中教出版)で次のように語っています。
「私の考えている言語過程説の理論に従えば、まづ言語は、人間の表現行為、あるいは理解行為であるとする。そして、この表現行為は、理解行為は、それぞれに独立した別個の行為として成立するのではなく、表現行為は理解行為を予定し、理解行為は表現行為を前提として成立する。(上記書P92)
西田哲学は、純粋経験、自覚、場所・・。
番組「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」では純粋経験、自覚(「直観」と「反省」とが連続して起こる意思の在り方)が易しく解説されていました。
ここで学びたいのは西田哲学における表現行為の哲学です。
平成24年7月『西田哲学会年報』の講義録に京都産業大学教授の哲学者森哲郎先生の、
『善の研究』における「表現」思想
この講義は別機会で聴講したことがあるのですが、西田先生の晩年は「場所」の哲学で終わります。
番組の後半の『世界新秩序の原理』ですが、これはある意味、西田哲学の表現だと考えます。それは絶対無から映し出されるものという意味です。