思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ミカ書5章2節

2006年09月29日 | 宗教

旧約聖書ミカ書5章2節

  しかしベツレヘムエフラタよ、
  あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
  イスラエルを治める者があなたのうちから
  わたしのためにでる。
  その出るのは昔から、いにしえの日からである。

と書かれている。

エルサレムのヘロデ王の宮殿を星に導かれて新しいユダヤの王に出会った東の国の博士達が立ち寄る。
 ヘロデ王は、祭司長に予言の書を読ませた。祭司長は、

  ベツレヘムより一人の王が出て
  わたしの民イスラエルの牧者となるであろう。

とその預言書の一説を読む。
 ヘレデ王は、「王はこのわたしだけだ。」と叫び、部下にベツレヘムに住む2歳以下の男の子を皆殺しにしてしまった。

預言書とは、上記のミカ書5章2節のことである。
イエスキリストは、この一説から「その出るのは昔から、いにしえの日からである。」すなわち神の子となった。
 イエスは、天子の導きによりこの難を逃れその後の物語が新約聖書に展開される。

 ユダヤの王と名乗り、神の子で全能の神の右の座にある者。そのイエスキリストを快く思わない大祭司カヤバ。
  カバヤは、その当時ユダヤがローマ皇帝の統治下にあったことから派遣されていた総督にイエスの身柄を引き渡た。

 イエスの引渡しを受けた総督であったが、彼はイエスがガリラヤ人であることを知り、イエスをガリラヤを治めていたヘロデ王にその扱いを任せようとした、しかしヘロデ王はイエスを総督に送り返したのである。

 祭司長は、民を扇動し「イエスの死刑」を総督に要求させた。
 総督は当初鞭打ちの刑ですまそうとしたが、ユダヤの民は死刑を要求、ついにそのときが来るのである。

  父よ、彼らをお赦しください。
  自分が何をしているのか知らないのです。
         (ルカによる福音書23章34節)

 この34節の祈りだが、黙想十字架の七つの言葉 加藤常昭著 教文館P17によると

 新共同訳では、この祈りは特別な括弧の中に入っている。ルカによる福音書の写本のかなりの数のものにこの34節が欠けているからである。

と、いうことである。
 この祈りについて、統治するローマ軍を気にして、写本される際に補足されたものであると考え方る人や、エルサレムが陥落し、それは神がユダヤの民を滅ぼしたことであり、ユダヤの民は自分達の行為を知らない訳がなく、したがって、この民の為にイエスは祈るはずがないという人々は写本の際にこの祈りを消し去ったと考える人たちがいたようである。

 ある地域での現実の不幸は、ミカ書5章2節の予言なるものから生じているのは事実である。
 占い、霊視も予言と同類の行為であるような気がする。
 それを受け止めるとき「丈夫な心」で対応しないと更なる不幸と苦がまっている。

 信仰によって苦を無くすことはできない。信仰はその苦を和らげることはできる。

 先日、幼稚園児の列に脇見運転の車が突っ込み園児に多数の死傷者を出すという事故があった。
 死亡した園児の父親が、誰もが被害者になり、また加害者にもなりえると話されていた。 
 
 わたしもこの事故を知りそのように思っていたが、実際に我が子がそのような事故に遭遇し死亡した時にそう言えるか、ああ今現在説法を聞く。


エルサレム34億人の聖徒

2006年09月24日 | 仏教

 昨夜NHKの世界遺産の旅「エルサレム34億人の聖徒」を見た。NHKの取材番組いつも感心させられる。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の聖地エルサレム。聖地を取材するに死を覚悟をするようなところが他にあるだろうか。

 旧約聖書の世界、新約聖書の世界、イスラムコーランの世界。この世界に共通する神は一つ、一神教の世界である。民族と宗派が複雑に絡み合っている世界が映し出された。

 「コーラン第10章37節」には、
 このコーランは神をさておいて捏造されるようなものでなく、それ以前に下されたもの(旧約聖書・新約聖書)を確証するものであり、万有の主よりのまぎれもない啓典を詳しく説明するものである。
と書かれている。(マホメット 藤本勝次著 中公新書P39引用)

 単一の、共通の神であるから宗派と私は表現するが、各宗派は、信仰の対象である神を、日常的にその論争の基にしているのではないことは画面からはっきり分かる。聖地が同一のところが根源だ。

 最大の問題は、イスラム教の関係者が「各人の心の問題」と述べていたのがそのとおりだと感じた。真理を伝える教えの正当性を各派が妥協無き主張をするところにその不幸の源にあるのだが、真理という「形而学上の問題」をあたかも心の外、身の外にあるとする民族が抱える過去からの業は、消えることはないであろう。

 紛争といえば、領有権を問題にするカシミール地方が思い出される。インド、中国、パキスタンの三国による領有権争いである。
 このカシミールの民は、イスラム教徒でイスラム教の中でもイスラム神秘主義に属する。ここにいうイスラム神秘主義は、人間は神が具現されたものであるという考えで、「神とは私だ」という。

 集団で瞑想し、他のイスラム教徒のような神へのひれ伏しはない。信仰は個人の努力に求められ、仏教における「自灯明」に似ている。

 その信仰形態に至る道は長い。そもそもこの地方には、古代汎神論的な信仰がなされていた。自然の個々に神が宿るとするものであった。その後インドから釈尊の仏教がきて仏教が盛んになり、弟4回仏典結集はこの地で行われている。鳩摩羅什も玄奘もこの地を訪れたのは承知のとおりである。

 しかし、9世紀に入るとインドの仏教が衰退するとヒンデュ(ズ)ー教に変わる。女性聖者シバァ・シャクティーが「地上のすべてに神が宿る」と信仰指導した。
 このことから自然と人間の一体感という古代からカシミールの民に引き継がれている業に共鳴し、その後14世紀にイスラム教がこの地に入ってきても、「人も動物もアラーの神が作り出したもので平等である。」と、ラルディッド14世という指導者が信仰指導するなど、民の信仰心の形態は完成をみ、今日に引き継がれている。

 私は、カシミールの民の信仰形態は、神の存在を内に観る形態であると思う。真理をその身の外に求める間は妥協のない信仰が貫かれる。エルサレムの各派の人々を見るとその信仰は、壁にあり、場所にあり遥か遠くの神に向いている。

 日本人の神父さんが、時間を超えてその場所の信仰でなくイエスの復活、イエスとともにあることの実感というようなことを話されていたが、それでも主体は未だ外に出ることが可能という、「自性」があるという段階を離れていない。

 自灯明の本来的な意味は、一毛大海の境地にいたるときにしか理解できないのだろうか。
 不幸なことだが、エルサレムという聖地が信仰とともにあるうちは何も変わることはないと思う。


業の完成と一夜賢者

2006年09月23日 | 仏教

 精神が何かの目的を追求して、そのために意志に誘惑されるというようなことがなく、直感的世界と彼自身の意識とが彼にさずけてくれる教示を余念なく受け入れるのでなくてはならない。
と、その著「知性について(岩波文庫)」でショーペンハウエルは述べている。

 本を読んでいると直感的に著者の言葉を自己流に解釈し、自己の言葉で表現しているときがある。ひょっとすると著者の考えとはかけ離れているかも知れず、他人から見る知性の程度が疑われるおかしな話である。しかし、そのときはそのように感じ、そう表現したくなったので仕方がない。

 では本論に入ろう。だいぶ古い話だが、京セラの元社長飯盛和夫さんの哲学という本に次の話が掲載されていた。

 京セラが、ファインセラミックスの人工膝関節を許可をえずに販売したということで、マスメディアから集中砲火を浴びたことがありました。
それは、すでに許可を受けていたフィンセラミックス製股関節を医師の方々からの強いご希望により膝関節に応用したという事情があっただけに、私からはいいたいこともたくさんありました。しかし、私はあえて汚名を着せられたまま耐えようと思いました。
しかし、連日マスコミに書きたてられますと、人間、憤懣を抑えきれるものではありません。そのときに私は擔雪老師のところへ行って、「じつはこんなことがあって、たいへんな目に遭っているのです」とお話しました。擔雪老師も新聞を読まれてご存じでした。そして第一声、こんなことをおっしゃたのです。「それはしょうがありませんな。稲盛さん、苦労するのは生きている証拠ですわ」
慰めていただけるのかと思ったら、それは当たり前だといわれる。内心、落胆していたら、次にこういうことをおっしゃった。
「災難に遭うのは、過去につくった業が消えるときです。稲盛さん、業が消えるんですから、喜ぶべきです。いままでどんな業をつくったかしらんが、その程度のことで業が消えるならお祝いせんといかんことです」
まさに「積みし無量の罪滅ぶ」という白隠禅師「「坐禅和讃」にあるように説かれるのです。それは私を立ち直らせるには最高の教えでした。私はこれで救われた思いがしたのです。

 私はこの擔雪老師のこの話を次のように感じ、表現したくなった。

 今の苦しみ、喜び、そして涙に感動は、過去から今現在までに蓄積された業の完成である。

と。ここに至った業は、過去のその時点でいまだ完成をみないで引き継がれてきた業で、生々流転の今現在の世界は、業感縁起で成立している。が完成せざれば後へと引き継がれる。

 業を消滅させることは今現在に生きることで業を完成させることである。
 完成とは、あるがままがあるがままにあることを一刹那のなかに観ることである。そして完成というと形あるものとして、あたかも物質のごとく存在するもののように思うが、そうではなく直観でつかむものであるから実体などないものだと考える。
 道歌に、

 今今と今というまに今はなく、今というまに今は過ぎ行く。
という歌がある。

 今現在の一刹那を、刹那消滅の世界と知悉すれば存在はない。
 いつまでも業に引きずられ自性があると思う間は、喜怒哀楽の世界に埋没している。また、このような話を冷血な無感動な人間の話と思う間は、積みし無量の罪は滅ぶことはない。

 松原泰道先生が、本年4月に「きょう一日を、生き抜いて(プレジデント社)」という本を出された。前回出版された「足るを知るこころ」以降の話をまとめられたとのことで、帯びには「過去を追わず、明日を思わず ただ今日なすべきことを熱心になせ」と中部経典の「一夜賢者の偈」が引用されている。当然今回の書籍内にも第六章平安「今日一日を生き抜く『一夜賢者』の知恵」に増谷文雄さんの訳が掲載されている。

 一夜賢者の偈は、先生の書籍では初出ではないが、数え年99歳の先生が話されることだけにこの経の意味の重さを知る。


反対語辞典

2006年09月18日 | 仏教

 辞典というものは、世の中にいろんな種類のものが存在する。私の身の回りを見ても、専門分野のものから日常の用語辞典までとかなりの数の辞典がある。

 その中に国語関係のものがあるが、その中で良く調べ作ったなあと感動する辞典がある。それは、反対語辞典である。今ここにあるのは、集英社の新修反対語辞典で編者は文学博士峰村文人となっている。この辞典は付録として後ろの方に反対のことわざが付いている。
  この辞典の「はしがき」には、こんなかことが書いてある。

 「私は彼に好意を持つ。」という文の「好意」という語を知っていて、その反対語の「悪意」を知らない人が、かりに「私は彼に悪意を持つ。」という意味のことを表現しようとすると、どのようになるであろうか。「私は彼に」という形を残した言い方をするとしたら、「私は彼に好意の反対の心を持つ。」と言うか、「私は彼に好意を持たない。」と言うのか、いずれかになるであろう。
 前者の言い方では、生きた日本語という感じがしないし、後者の言い方では、”好意を持たないが、悪意と言えるほどのこころを持たない”という意味になるようで、真意が的確に表現されているとは言いがたい。
 こう考えてみると、さまざまな語の反対語を知っているということは、単に語を余計に知っているという消極的な意味のことがらではではなく、言語生活のさまざまな場面で、それぞれの場面にふさわしい的確な表現をすることができるという積極的な意味を持つと言える。そういうことから「反対語辞典」も生まれるようになったのである。

 ちなみに死の反対語は生であり、苦の反対語は楽で、愚かの反対は賢いである。仏教学的にこの辞典をみると相依の世界である。

 言語学という難しいことをいわずに、言葉を考えてみる。以前ある対談集を読んでいたら言葉の発生は、生殖行為の際の「雄叫び」ということをいっていた人がいたが、そういうことにして、その内に「ある感情」に対して言葉が生まれ、したがってその際にはその反対の感情にも言葉が生まれたのでありましょう。

 この辞典には、反対語が約8600語、反対のことわざが約600あるのですが、ひとの分別心を考えると感動します。分別の実体から無分別の空。
 この辞典を使い思考するとFunkeである。

 「馬子にも衣装」ということわざの反対のことわざは、「衣ばかりで和尚はできぬ」でした。


美しき穢れなき姿(持衰)

2006年09月17日 | 古代精神史

 RSSリーダーで「持衰」という古代史関係の用語を検索対象にしていますが、最近この言葉も志向性が異なると別の意味になるのだなあと驚かされました。
 私は、古代の精神史、例えば和御魂・荒御魂の統一体が日本の神の御魂であり、別の視点から河合隼雄先生の中空構造の説に従うものとして再度本年2月に掲出したものを再度掲出しました。
 尚、異なる別の「持衰」については検索ドライバーで検索してください。

 魏志倭人伝に「持衰(じさい)」という役目の人物記載があります。この持衰という役目は、倭人が魏という国に朝貢に行く際の船に乗っていく特殊な役目をする人のことです。

 岩波文庫の「魏志倭人伝」には次のように書かれています。
 「その行来、渡海、中国に詣でるには、恒に一人をして梳(くしけず)らず、?蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もしも行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便(すなわち)これを殺さんと欲す。その持衰謹ますといえばなり。」

 すごい役目です。頭髪はボサボサで体中しらみだらけ、当然衣服は垢で汚れたままであるということです。
 肉は食べてはならず、女性との接触はご法度。こういう男性を船に乗せて行き、無事に目的(往復渡海)が達成できれば、この男性は最大級の保障を受けられ、そうでないと殺されたようです。

 この持衰の衣服の汚れ髪の乱れにシラミなどがある状態は、神に対する冒とくで天罰が下る行為だと直ぐに考えてしまいますが、この倭人の時代はそうではないようです。

 女性を避けたり、肉を食わないなどの不作為は、後の時代の神に接する人々の姿似ていますが、修験者の修行による汚れとは違い、そのままの汚(きたな)き汚(よご)れの状態で乗船し、それが神の災いを受けず安全に船旅をするための一つの条件になっていることは不思議なことです。

 穢れのない状態とそうでない状態が一体になっている状態は、日本書紀をはじめとする古書に出てくる荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の両者を兼ね備えた状態にどこか通じる点があるのでしょうか。

 古典学者石井庄司は、「万葉集が和歌革新の原動力となっているところは、実にこのあらさのためであると思う。あらは生まれながらの穢れざる美しさである。」と述べています。
 生まれながらの状態、自然のままの身体の状態と解せば、美しき穢れなき状態であるのかもしれません。


他力と自力

2006年09月14日 | 仏教

「他力と自力」というと、そんな題名の五木寛之さんの本があったなあと思う今日この頃。 雨降りが続きジョギングができないでいたが、午後、ジョギングを行なった。

 最近は、浄土門に興味をもち関係の書籍を読み漁り、また、とある会にも出席してみた。「仏敵」という伊藤康善師の求道物語からは、「獲信」というものがどのようなものかを知ることができた。

 親猫にくわえられた子猫が浄土門に譬えられ、親猿にしがみつく小猿が聖道門に譬えられる。

 人間の赤ちゃんは、しっかり母親に抱かれる。
 人間には猿と違い母親にはしがみつく長い毛がない。
 赤ちゃんは、握る力はあるが、しがみつくほどの力はない。しかし、そのうちに力もつき、母親に抱きつき、抱かれる。

 どうも人の世は、他力も自力もなくすべてが一つである。

 煩悩がこんこんと湧き出てきて妄想、想念がよぎる時には「南無妙法蓮華経」と称え、現在説法を聞いた時には「南無阿弥陀仏」と称え、あるがままにあるときには、身心脱落に身があったことを後に知る。

 急坂で苦しく、雑念がよぎる時には「南無妙法蓮華経」を掛け声に、自然の美しさに感動する時には自然に「南無阿弥陀仏」が気持ちの中から沸き出でて、やがて声に出る。

 善智識に頼りきりになると、分別に身を落とす。
 お釈迦様は、私に代り修行をされ大きな導きを与えてくれている。
 それを智慧で分かれば自灯明。
 大きな導きの拠り処の中で、拠り処は自分であると知る。