思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「まこと」な話し

2012年06月30日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 昨日のブログは「まとも」という古語が風という実体のないものの力的な存在を人間行動の評価的な価値観までを表わす言葉であることを書きました。

 自然に適う行動であるから「まとも」であることになる訳で、ことで語られる自然はnatureではありません。言葉そのものが事物のの動きであり、心的な働きでもあり、現れるものであるならばその発動源が有(あ)るに違いないのですが、「まとも」になろうという私は「まとも」そのものであり見ることができません。

 「まとも」であるのかそうでないのかは、有るがままに備わる自然体の構えに現れる、とでも表現するしかありません。それならば理想的な善き人になりたいという思っている人はどうなるのかということになりますが、既にそれ自体が理に適うそのままということになると思います。

 「まこと」という言葉があります。【真・誠・信】という漢字で表記されますが、「まとも」の「ま」は【真】でした。「まこと」を古語辞典(岩波)では

<名詞>《マ(真)コト(事・言)の意》

1 本当。うそいつわりのない真実の事や言葉。

2 誠実。誠意。

3 実務的な方面のこと。

4 《他の語に冠して》真剣な、まじめな、の意を表わす。

<副詞>

 偽りなく。本当に。

<感嘆>

 《話題を転じる時の発語として》ほんとうにそうそう。

と説明されています。

《マ(真)コト(事・言)の意》

ですが、「ま」+「こと」で、「ま」に「船尾・船首」が関係した「まとも」とは違い、「ま」に事象や言葉が関係しています。

 眼前する事象、言葉

です。事象的なものは推測ができそうですが、言葉は「ことのは」で「言(こと)」はいろいろに使われます。

ことあげ【言挙げ】
ことあやまち【言過ち】
ことあやまり【事誤り】
こといで【言出で】
こといみ【言忌み】
こといみ【事忌み】
ことうけ【言請け】
ことすぐり【言選り】
ことかき【事欠き】
ことがき【言書】
ことがき【事書】
ことがまし【言がまし】(口やかましい)
ことがまし【事がまし】(仰山・ぎょうさん)
ことくわえ【言加え】(助言する)
ことごとし【事事し】(いかにも大がかり)
ことごのみ【事好み】(風流がる)
ことこめ【言籠め】(口ごもる)
ことさか【言離・事解】(解決すること。離縁。)
ことさま【事様】(ものごとの様子。)

等々で限がないのでこのくらいにします(※意味について一部書き入れましたが、興味のある方は古語辞典で調べてみてください)。

 この言葉群の最初の「言挙げ」は、「声高く言い立てる」意味ですが、古代においては忌み嫌われる禁忌(きんき)とされていました。「肝要であれば言霊(ことだま)の力が求められてコトアゲが行なわれた」とも解説されています。

 この禁忌であったことについてですが、この作用として簡潔明瞭、同音異義があらわれます。

 簡潔明瞭であるはずが現代では不鮮明となり、同音異義でありながら「うつす」にみるような同感覚的な要素がある言葉もあるなどの特徴を見ることができます(※このことに関してはブログで言い尽くしているので書きません)。

 日本語は不鮮明な言葉で、グローバル社会では不便な言葉である。

とよく言われますが、事この言に関してはこころの失いを思います。忘れてはならない何かを、失ってしまう懸念です。

 「まこと」という日本語、【真・誠・信】という漢字で表記される言葉、「こと(事・言)」のつく言葉を見ることによって「まこと」の哲学になります。自分にとっての「まこと」とはどういうものなのでしょう。

 古語辞典一冊有れば、自らの哲学ができます。すると現代い感覚とは異なる忘れている何かが自ずと見えてくるように思います。

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「まとも」な日本の哲学

2012年06月29日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 ある哲学のランキングサイトを閲覧していたところ20年間検察庁の事務官をなさっていた方のブログが投稿されていました。いろいろあったのでしょう仕事とストレスの関係から検察庁を辞職したと書かれていました。

 先月の投稿ブログの中の「黄色いタイツの女性事務官」という話題が目に留まりました。

 暗黙のルール。と書かれていましたが職場における暗黙のルール、そうしなさいと言われる以前の当たり前な服装、職場に逢った服装、強烈なリバタリアンならばこれほど強烈な弾圧、足かせはありません。

 しかし周囲で働く人々にとっては違和感を感じるのは当然、関係のない私もそう思います。検察庁の仕事をするにおいてはそぐわない服装、端正な服装ではないと感じます。

 古くなりましたが「空気を読めない」の部類の話かもしれませんが、「世間が読めない」と言葉を変えていいと思います。

 「違和感」と書きましたが、違和感とはある感覚で、「こうあるべきところ、そうではない」ということで「まともではない」と思う感情です。「まとも」ではない。

 今朝はこの「まとも」という言葉に焦点を当てて書いてみたいと思います。ご承知願いたいのですが、「まとも」を書こうとするブログ書大好きの私自身、ある「まともな神経の持ち主」からすれば「まとも」ではないことは理解しています。

 何気なく使うこの「まとも」という言葉、手元にある日本語大辞典(講談社カラー版)電子辞書ではありません、厚さ10センチはあるものです。ここには次のように記されています。

まとも【正面】(名・形動)
1 正しく向かうこと・さま。(directness)
2 真正面。(front)
3 正道。まじめ。まっとう。(honesty)
用例:まっとうな商売。

と書かれていて、それでもと思い大修館書店の『明鏡国語辞典携帯版』を見ると、

まとも【正面・真面】(名・形動)
1 まっすぐ向かい合うこと。真正面。「西日をまともに受ける部屋」
2 駆け引きなどをしないこと・「まともに勝負したのでは勝てない」
3 すじみちが通って、きちんとしていること。「あいつはまともに挨拶もできない」
派生:まとも・さ

とこの辞書には書かれていました。私は「常識がない」とでも書いているように思っていたので少々ビックリしました。

まっとう=真正面

なのですから。「的を得ていない行動」とでも言えそうな表現説明です。だから辞書を引くのが面白い(まともか?)。

 次に言わずと知れた古語の世界です。古語辞典といえば岩波書店、言語学者、文学関係の学者も皆さんこの辞書を参考にします。いわゆる常識で、いわゆる「まとも」な人ということになります。この辞書は地元のブックオフには絶対出てこないのである面貴重な辞書です。

 「まとも」な話から外れましたが、この『岩波古語辞典』には、

まとも【真艫】船の真後ろ。また、その方向から風がまっすぐに吹くこと。「ことに、風がまともに吹いたほどに、思ふさまに帆をひいたぞ」<三体詩抄三ノ一>

と書かれていて「艫」は「とも」と読み、艫綱(ともつな)の「とも」で「船の船尾」を意味します(日本語大辞典)。

 他の古語辞典も調べてみます。大修館書店、旺文社、三省堂の手持ちの辞書には記載なく、『ベネッセ古語辞典』には、岩波に近い記載で、

ま-とも【真艫・真舳】(名)船尾。また、船尾の方から吹いてくる風。追い風。順風。「この風まともでござると、帆を八合もたせて」<浮世・五人女・一>
 ※「舳」は「とも・へさき」という読みの漢字です(IMEパット)。船の先端。船首。みよし。艫の反対後(明鏡国語辞典)
 ※「みよし」は、【舳・<船首>】船の先端の部分。へさき。(明鏡国語辞典)

との記載、そしてさき程三省堂には記載ないと書きましたが『全訳読解古語辞典』には無いという話で、同じ三省堂でも『例解古語辞典第二版』には記載がありました。

ま-とも【真艫】(名)《「ま」は接頭語。「とも」は船尾の意》船の真後ろの方向。また、その方向から吹いてくる風。
用例:仕合せはせのよい時津風、まともに船を乗りける」(西鶴・永代蔵二・四)
解 :船を船尾から受けて順風に航海することに、家業が順調に栄える意をこめた表現。「時津風」の「つ」は、「の」の意。

となっていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現代語の「まとも」。まともな人間でありたいと考える時の「まとも」。

「黄色いタイツの女性事務官」の話しに戻りますが、場にそぐわない、場の雰囲気にそぐわない。違和感を感じるのは第三者。

 ここで哲学的な「理性」という言葉を登場させたいと思います。道徳的な振舞い、理性的な振舞いが「黄色いタイツ」と重なるからで、あくまでも私だけの話です。

 「理性」とは何ぞや?

「選択の科学」のコロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の講義では選択に当たっては理性と直感が重要という話でした。直感だけでもダメ、理性的になり過ぎてもダメ、その絶妙なバランスで選択することがとても重要と理解しました。「あぁでもない、こうでもない」と悩み、考え、より良き選択をするのもよいのですがときには直感も大事になる。というはなしです。また話がずれそうです。

 素人ですので小川仁志著『超訳「哲学用語」辞典』(PHP文庫)を見てみます。ズバリ

超訳:論理によって本質を把握する能力
用例:人間は戦争を完全に止めることはできると思う。理性の力を信じているからね。

と書かれていて、解説文を知りたくなります。

<「理性」>
 理性とは、物事を論理的に考えるための能力です。その意味で哲学にとって最も重要な能力であるともいえます。それゆえに、あらゆる哲学者が理性について論じてきました。
 かつてアリストテレスは、「人間は理性を備えた動物である」といいました。これは人間が単に感覚によって物事を表面的に認識するだけでなく、理性によって論理的に本質を把握することができる点をいい得たものです。
 
 とりわけ近代の哲学者たちは、理性の信奉者であるといえます。たとえばカントは、理性を経験に先立つ能力として位置づけます。物事を経験することなくして理解できるのは、理性が備わっているからだと考えるのです。この場合理性は、物事を理解するための、生まれもったモノサシのようなものとして機能します。

 あるいは近代哲学を完成したといわれるヘーゲルは、理性によってすべてを把握することができるとまで主張します。理性への信頼が最高潮に達したわけです。
 しかし、その理性への信奉が近代の様々な矛盾を生んできたとして、現代では反省の目を向ける哲学者もいます。ハーバーマスによる「道具的理性」批判もその一つです。彼は、人間が理性を使って目的を達成しようとする時、かえって悲惨な結果を生み出すことになった点を指摘します。戦争やホロコーストはその典型例といえます。

 したがって、せっかくの理性を目的のための道具に貶(おとし)めてしまうのではなく、むしろ対話によって合意を見出すための「コミュニケーション的理性」として発揮すべきだというのです。<以上>

「この場合理性は、物事を理解するための、生まれもったモノサシのようなものとして機能します。」

「生まれ持ったモノサシのようなもの」の「ようなもの」がすごくいいと思います。個人的にこの中に「自ら作り上げてきたモノサシでもある」的な意味をも抱くからです。

ついでですから哲学小辞典を調べてみます。

<「理性」岩波哲学小辞典>
  理性[英reason,独Vernunft,仏raison]
1)人間を他の動物と区別する人間特有の能力とされるもの.概念的思考の能力をいう。実践的には本能や衝動や感性的欲求に左右されず思慮にもとづいて行動する能力を意味する。
2)真偽,善悪を識別して正しく判断する能力(デカルト以来の用法)。
3)超自然的な啓示に対して人間の自然的な認識(→自然の光)。
4)実在,絶対者を直観的に認識する能力。古来多くの哲学者の主張したもの。
5)アプリオリな原理の総体。この用法はすでにライプニツにあるが、カントの純粋理性はそれを明確にしたもの。彼は認識にかかわる理性を理論理性または思弁的理性とよび、行為の原理を含むものとしては実践理性と名づけたが、両者は同一本質のもので通用が異なるにすぎないと考えられる。しかし,彼の場合、理論理性も、
 a)広義ではアプリオリな認識能力の全体(感性,悟性,狭義の理性を含む)を意味し、 b)狭義では感性・悟性と区別され,イデーにかかわるより高い思考能力を意味する。6)へ-ゲルでも理性は悟性と区別され、理性的思考は弁証法的思考を意味する。
7)カント以後のドイツ観念論(フィヒテ,シェリング,へ-ゲル)では理性は同時に宇宙的原理としての意味をもち、世界理性、絶対的理性などという用法がある。

 ギリシアではヌースがほぼ理性に当る語であるが、スコラ学では感覚より高い認識能力としてratioとintellectus(このラテン語はそれぞれ近代語の理性と悟性に当る語)とが認められている.ratioは概念的・論証的な認識能力であるが、intellectusは神の直観をも含む最高の認識能力を意味し、ヌースの訳語としても用いられ、カントの場合とは用法がちがっている。<以上>

難しいの一語に尽きますが、知らないよりはそうだと納得するがよろしいかと思います。

長々と「まとも」な話を書いてきました。ほぼ事実のみを書いています。

最近、まともではない人が世の中を騒がしています。昨朝書いた大阪の事件もそうです。「黄色いタイツの女性事務官」もその部類と私は個人的に思います。

 検察官という言葉で思い出したのですが、最近の公判傍聴で話しです。ある男性の覚せい剤使用事件の公判、なぜかこの裁判におばさん集団が傍聴に来ていました。理由は分かりませんが関係者でないことは雰囲気で分かりました。「~の会」による裁判所見学会かも知れません。

 一回で結審、次回が判決という裁判で、1時間少々かかり情状でその男性の妻が証言台に立ちました。この男性前にも覚せい剤で逮捕されその時は執行猶予だったそうですが、その執行猶予が切れてからの事件です。最初の覚せい剤使用は、証言台に立った妻も一緒に逮捕され事件だったそうで、妻はその逮捕で覚せい剤からきっぱり縁を切りました。

 転居もし環境も変え子供もでき生活をしていましたが、夫が行動がおかしい、部屋に閉じこもったり、話が通じない・・・・・。これはどうもおかしい。もしかして「覚せい剤?」。怖くなったそうです。考えた末「覚せい剤でないことを信じて」警察に相談。結果、覚せい剤を使用していたことが判明し逮捕されました。

 検察官からの質問です。「奥さんはどうやって、覚せい剤を止めることができたのですか。」

 被告人妻。「妊娠していることが分かり、捕まり。『意味がない』と思ったからです。」

 この「意味がない」という言葉に震えました。感動などというものではなく、「意味の理解」とはこのことだと思ったのです。

「まとも」のい話から始まりましたが、「まとも」とは意味の理解をしているか否か、現実に存在する実在としての私が、本当の理解をしているか、ということです。

 真面・真正面・真艫・真舳

と漢字で書くことができる言葉、自然の風をどう受けとめているのか。真正面から受け真後ろから受ける風。真後ろから自然は後押ししてくれてもいます。

 日本の哲学とは小難しい話ではありません。「まとも」な話です。

 有ってないような風ですが、有るものなのです。

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「つみ」と「まこと」というやまと言葉

2012年06月28日 | 古代精神史

[思考] ブログ村キーワード

 また大阪でトンデモナイ事件が起きました。暴走車両により一人が大怪我をする狂気な事件です。もしもそこに私が居れば、もしも身近にそのような者が居れば被害者のなっていたのかも知れません。九鬼周造の言う離接的偶然がそこにあります。

 こういう事件が起きるといつも思うのは「罪(つみ)」というやまと言葉です。この言葉は古い言葉で神代の時代からありました。

 神道の『延喜式』巻八「祝詞」に収録される大祓詞に、天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)という言葉が登場します。最近のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は充実していて細かく解説しています。そこには民俗学者の折口信夫先生の説が掲載されています。

>折口信夫は、天つ罪は元は「雨障(あまつつみ)」で、梅雨の時期に農民が忌み蘢ることを指していたが、それが「天つ罪」とされ、日本神話におけるスサノオ命が高天原で犯した行為(岩戸隠れを参照)と解釈されるに至り、それに対応するものとして「国つ罪」が作られたという説を唱えている。<

と折口説のみが書かれています。天津罪・国津罪ですが、『延喜式』という神道の祝詞本以前の記紀の時代からある言葉で、『ウィキペディア(Wikipedia)』では差別ではないか人権侵害だと思えるほど罪の種類が書かれ解説されています。

http://jiten.biglobe.ne.jp/j/d1/60/de/24a052c8bd7550e078eeb966f6388a87.htm

財産犯的なものから近親相姦、獣姦そして自然災害に至るまであります。興味のある方は一度見てはいかがでしょうか。

以下は個人的に「つみ」というやまと言葉を調べる中で出会った話でブログに書いてきたことですが、再度改訂しながら紹介したいと思います。まず最初に法制史からです。

瀧川清次郎教授の『上古法制史』の「日本法律思想の特質」には、
 
> わが上代に於いて、犯罪のことはこれをツミと言った。これも正確に言えば罪という言葉が今日の犯罪という言葉に最も近いのであって、ツミなる語は、本来道徳、宗教、法律の規範を紊るものを総称する語であったのである。
 ツミはツツミの約言であって、神怒をかうべき悪しきもの、穢れたるもの、曲がれるものを神に対してツツミ隠すの意である。故にツミはまたケガレと同意義であって、ケガレから出たケガ(怪我)なる語は、ツミから出たマガツミ(禍)なる語とほぼ同義に用いられている。ツツシム(慎)という言葉も、またツミとなるべきものをツツミ隠す動作を称する語であろう。 <

と書かれています。 これは現代の法制史の上からの解釈ですが、既に本居宣長は『古事記伝』においてこの言葉について 、

>まず都美(ツミ)といふは、都々美(ツツミ)の約まりたる言にて、もと都々牟(ツツム)といふ用言なり、都々牟とは、何事にもあれ、わろき事のあるをいふを、体言になして、都々美とも都美ともいふなり、されば都美といふは、もと人の悪行のみにはかぎらず、病ヒもろもろの禍ヒ、又穢(キタナ)きこと、醜きことなど、其の外も、すべて世に人のわろしとして、にくみきらふ事は、みな都美なり。 万葉の歌に、人の身のうへに、諸のわろき事のなきを、つゝみなくとも、つゝむことなくとも、つゝまはずともいへるは、今の世の俗言に、無事にて無難にてという意にて、即チ都美なくといふなり。<

と述べ、別段では、

>罪のたぐいは、すべては、都美は、都々美のつづまりたる言にて、古語は都々美那久(つつみなく)、また都々麻波受(つつまはず)などいわゆる都々美とひとつにて諸々の凶事(あしきこと)をいう。
 ツツムは、ツツシムとひとつなるをつつしむは、凶事にあらじ、あらせじとする方にいい、つつむは、凶事を露(あらわ)さじと隠す方にいい、つつみなくなどは、凶事なきえをいう。これら末は各ことなるがごとくなれど、本は一つなり。
 罪は必ずしも悪行(あしきわざ)のみをいうにあらず、穢また禍など、心とするにはあらで、自然にある事にても、すべて厭(いと)ひ悪(にく)むべき凶事をば、みなツミというなり。<

と解説しています。

 現代神道においてはどのように語られるのか、春日大社葉室頼昭宮司は、『神道と日本人』の中で、
 
> 罪「つみ」というのは体を「包む身」という意味で、すばらしい神様からの体を包んで隠してしまうということである。<

簡単い特徴点のみを語っています。宗教家のひろさちやさんは、『みそぎ考』の中で、語源的な視点を離れ、共同体の和の構想の上に、

>共同体の「和」を乱すものが「罪」であり、「みそぎ」とは、共同体が「和」を回復する方法である。回復する方法には、

①共同体の責任者を謹慎させる

②お祭りによってする「みそぎ」

③個人を隔離する「みそぎ」謹慎処分


などと「和を乱すもの」が「罪」であると書いています。

 次に歴史学の立場からです。歴史学の立場から古代における「罪と穢れ」を考察した歴史学者の石母田正教授は その著『日本古代国家論』の中で、共同体内で生じた個人的な犯罪であろうとそれは共同体に対する災いにもなるものとして、公の手による祓いにの儀式の対象になるものと次のように語っています。
 
> 国の領内に起こったもろもろの罪は、族長を含む国の成員全体の、集団的、公共的な儀式によって祓除さるべきものと考えられている点、不法な占有いいかえれば共同体の成員間の私的な不法行為や罪、性的タブーを犯した罪等が、穢れや災いと同一の系列の罪として意識されていること、いいかえれば私犯が私犯として分化独立せず、共同体に対する・・正確には罪と穢れを悪む共同体の神々にたいする・・公犯として存在し、したがってそれらの罪も成員全体の公共的な祓除の儀式によってはじめて解除されるものと観念されている点にある。 <

と犯罪と国家という視点にもなる根源的なことが書かれています。
 
 「罪」という言葉を「やまと言葉」として専門的に研究している人は、私の知る限りあまりいません。倫理・道徳は西洋的な哲学的解釈が中心で日本の古代精神史における「つみ」の根本は語られていないのが現実です。

 その中に国文学者の西郷信綱先生の説があります。西郷先生はその著『古事記注解』の中で、

「ツミという語は、ツツミ(包、障)と関連があるかも知れない。ツツミは、ツツムの名詞形で、事故とか障害の意である。川の堤は、水の流れをせき止め、さえぎるものだが、ツミも禁止を破って神意の働きをさまたげたり、さえぎったりするわざの意と解される。」

と解釈されています。
 私はこの解釈を受け、若い頃から、

>日本人の古代精神の中における「つみ」という語は、「心の中の意識の流れとして自然に湧き上がる堤(つつみ)のような抑制壁を破壊する、意の働きの概念がツミという語になった。」<

と考えています。

 自然体でありたい。人としてありたい。西洋的な理性でもなければ、倫理・道徳話でもなく自然体としての人となりの姿。

「まこと」【真・誠】

これも記紀の時代からあるやまと言葉です。「まこと」とは自然体に生きる、日本の古代の人々には確かにあった精神のように思います。

※尚断っておきますが。古代の罪の種類には差別的なものもあり、現代的な「まこと」からは抜くべき概念だと考えています。

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プラグマティズム・正しさとは何か。

2012年06月26日 | 思考探究

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一昨日のブログでアメリカの19世紀の哲学者のウィリアム・ジェームズの言葉、

「それとも、もし、フーリエや、ベラミーや、モリスのユートピアをはるかに凌ぐような世界、幾百万もの人びとが、永久の幸福をたもちうる世界が、ただ一つの前提、この世界の遠いはずれにいるひとりの迷える魂が、孤独な苦しみの生涯を送らなくてはならないという、ただそれだけの条件でわれわれの前にさし出されたとしよう。そこでわれわれがただちに味わう、この特殊で自主的な感情は、いったいなんだろうか? さし出された幸福をつかみとりたい衝動が心の中に湧きおこりはするが、なおかつ、そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受けとり、それを楽しむのが、いかにおぞましいことかとわれわれにさとらせるこの感情は?」(『道徳哲学者と道徳哲学』から)

という言葉が序文に書かれているアーシュラ・K・ル=グィンの短編小説「オメラスから歩み去る人々」の話を書きました。最大多数の最大幸福の影にある究極の「ひとりの迷える魂が、孤独な苦しみの生涯を送っている世界」の話で、このような思惟ををもつことで功利主義の欠点を知るべきだ、というウィリアム・ジェームズのことばからヒントを得た話でした。

このウイリアム・ジェームズですが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように紹介されています。

 ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842年1月11日 - 1910年8月26日)はアメリカを代表する哲学者・心理学者。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。

とこの「ジェームズ」という名ですが、著書によっては「ジェイムズ」と書かれている場合があり、アーシュラ・K・ル=グィンの作品『風の十二方位』(ハヤカワ文庫)の中の「オメラスから歩み去る人々」では「ジェイムズ」となっています。

プラグマティズムとは何か? これもウィキペディア(Wikipedia)からですが、

 いちプラグマティズム (英:pragmatism) とは、pragmatisch というドイツ語に由来する実用主義、道具主義、実際主義、行為主義とも訳されることのある考え方。元々は、経験不可能な事柄の真理を考えることはできないという点でイギリス経験論を引き継ぎ、物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとするもので、神学や哲学上の諸問題を非哲学的な手法で探求する思想。

となっています。過去ブログで書いたことですが、アメリカは「プラグマティズム」の国で、いわゆる「実用主義」という簡単にいえば「知識・価値が正しいか否かは実際の有用性・有効性の観点から判断する」という国なわけです。
 
 この考えの起源はどこにあるのかということになりますが、鶴見俊輔先生によると
 
 プラグマティズムの歴史は、1870年代(?)の初めに米国マサチューセツ州のケムブリッジで二週間おきに開かれた若い学徒の集まりに出発する。・・・・・・(鶴見俊輔著『アメリカ哲学』講談社学術文庫P11)
 
 プラグマティズムという言葉は、カントの哲学における言葉で、「プラクティカル」(プラクティッシュ praktisch)、いわゆる「実践理性」の領野、すなわち道徳や神や霊魂のさまよう領野にかぶせられるもので、そこは、実験科学者の住居すべき領域でない、という意味を有しているとのことです。 (上記書P17)
 
 カントの自由論で、私は愚直に自分の理性に従う行動をある種利用しているのですが、こういう考えは独裁的危険性が伴うのが歴史の示すところでした(ナチスドイツ)。
 
 どこをどのように折り合いをつけて、自分のものにして行くかはその人にもよりますが、全体的思想までに取り込まれるとその圧倒的強さに個人の人間性を失うおそれがあるかねない。
 
 ある思想に純粋理性の道が活用されると、物象化論(人と人との関係が物と物との関係として現れること。)にもなりますし、市場のにおける「同意」に、生命の根源を無視した契約の話も登場することになってきます。すなわち何かと問題が生じてきます。

 自分の言うこと、行うことは正しさの上にあるという思い上がりが生じてくるということです。

 そこで冷静に考えれば「自分は間違っているかもしれない」という思惟です。可謬主義とも呼ばれる考え方ですが、「人間の知識は絶対的なものではないという認識」で現象を考えるということです。

 上記のプラグマティズムにパースという名が出てきます。アブダクションという推論を提唱した人で、現象を説明できる可能性(仮説)を考え、仮説を検証可能な形の命題にして推論する(AならばBである)。この推論でいろいろな事例を集め確実を高めて行く思考方法です。

 話せば長い話になりますが、「正しい」ということの検証は、最終的には個人的なものです。

 何でもかんでも右から左的に是認することが良いのか。

 本当に自分の善いとする決断なのか。

 議会制民主主義の中の決断が全て正しいのか、最低限参加していなければ、物言いも愚痴にしかなりません。

 ということで来る選挙においては、しっかり投票に参加しましょう。

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「辛い・つらい」と「辛い・からい」を調べてみる

2012年06月25日 | ことば

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 年2回空地の草刈りを行います。別荘地に近い元畑400坪。所有者は東京の方ですが縁あって私が刈ることになっています。除草剤を撒けば何てことはないのですが、こういう薬剤は好きな方でなく、また周辺の環境を考えて除草剤は撒きません。

 休日に刈るのですが、先の土日に手を付けました。手を付けたということは刈り切れていないということで、残っているということです。あと100坪ばかり来週には刈り切りたいと思っています。

 午前8時前からはじめ3時間ほど刈りはじめると体力の限界を感じ中止。それ以降は何もしたくなり休養。5年ほど前までは半分は刈れたのに、今は1/3で限界、無理は禁物と心得来週に回しました。

 辛いというよりもきつい作業。昼はカレーで少々辛めにしてもらい満ち足りた気分。肉体労働の後は美味い!

 ということで、ここに「辛い(つら・い)」と「辛い(から・い)」という言葉が出てきました。どちらも漢字の「辛」を使いそのままの「辛い」ではどちらなのか分かりません。

 そもそもこの言葉、やまと言葉(古語)には「つらし」と「からし」の二語があります。それぞれこの言葉がもとになっていると推測されます。ではこの言葉を岩波古語辞典を調べてみます。

つら・し【辛し】《形ク》<人から受ける仕打ちを、こらえかねるほどに痛く感じる意。→からし(辛)>
① (世間一般の)仕打ちがたえがたい。こらえがたい。
② 情けがない感じである。薄情である。思いやりがない。
③ 苦しい。

から・し【酷し・?・辛し】※?=減の水偏が酉偏の字
《形ク》<舌を刺すような鋭い味覚、古くは塩けにも酸けにも使う。転じて感覚的に、骨身にしみるような状態。類義語ツラシは他人の仕打ちを情けなく感じる気持ちをいう>
1①舌が刺されるようだ。ひりひりする。
 ②塩けが強い。塩からい。
2①身に激しくこたえる。残酷だ。
 ②ひどい。つらい。苦しい。
 ③あやうい。あぶない。
 ④《連用形を副詞的に用いて》
  イ必死に。懸命に。
  ロ大変ひどく。

となっています。この二語の違いではっきりしているところは、「つらし」にはカレーの「からい」の意味はありません。味覚に関係する意味はないということです。

 ここで現代中国辞典で「辛」を調べてみます。一般的な大学書林の『中国語辞典』です。

(辛)xin※シンと発音し、高い平坦な発音になります。
①十二支の第八,かのと,
②からい味
③からい
④苦しい
⑤新しい
⑥つらい。悲しい。
⑦姓

となっており、やまと言葉の「つらし」に似ています。

・辛口のコメントは身にしみます。

・辛酸(しんさん)という言葉があります。「辛い目にあった時」に使われる漢字で「辛酸を嘗(な)める」というように使われます。

 ※「嘗める」は、しゃぶる。味わう。経験する。侮(あ)る(意:みくびる。かろんじる。ばかにする)。

以上のことからどんなことが分かるでしょうか。

 大陸から漢字が入ってきて、「からし」というやまと言葉に似ているので「辛」を用いた。
 やまと言葉「つらし」には「からし」と似通った意味があることからこの言葉にも「辛」を用いた。
 「つらし」と「からし」は方言で、「からし」を使う地方は中国大陸からの渡来人が多かった。一方「つらし」を使う地方には、辛口、塩けの意はなく、他人の仕打ちを情けなく感じる気持ち、そういう感覚を受けた時に吐露する言葉として使われていた。それがいつの間にか交流により意味の重なり合いから近づき漢字の「辛」を「つらし」に使用するようになった。

ということを考えてみました。

 出だしの草刈りに戻りますが、汗だくになり仕事をして、普通は水分補給が大切ですが、塩分を含んだ水、塩そのものは、大変大切なものです。

 つらい苦しい仕事の後の塩分。

 古代中国大陸の戦争のみならず戦う兵士には塩分が必要ですし、そもそも人間には塩分が欠かせませんし窮地に陥る。

 角川の漢字中辞典の「辛」奴隷の顔に入れ墨をする時に用いる針の形にかたどる。シンの音はとがったものを意味する語源「尖(せん)」からきている。

と書かれていました。漢字の語源からもこの字は「つらし」「からし」に通じているように思いますし共感覚の持ち主には「カレー」に三角形をイメージをする人がいる話がありました。

 ※『哲学、脳を揺さぶる』河本英夫著日経BP社の「このカレーは尖っている」p30参照。

以上、他にいろんな説があるかもしれませんが「つらい」と「からい」の二語を調べてみました。

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「グスコーブドリの伝記」と「オメラスから歩み去る人々」

2012年06月23日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 数日前に宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」の作品について書きました。イーハトーヴの人々の生活を守るために身を投じたグスコーブドリ。近くにあるカルボナード火山島が大爆発の危険性が高く、大爆発を起せは地球規模の災害になる恐れもある。これを防ぐためにはこの火山のガス抜きをすることが一番良い方法ということになりました。

 そのためには火山に爆薬を仕掛け横穴をあけガスを抜く作業をしなければなりませんが、最終的に点火のスイッチは火山島でやらなければならず、従事者は身を犠牲にしなければなりません。

 多数が生きるために一人が犠牲になる。

老技師がその役を買って出ます。この物語の終わりは次のように書かれています。

<青空文庫から>

「先生、あれを今すぐ噴かせられないでしょうか。」※ブドリ
 「それはできるだろう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても逃げられないのでね。」
 「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るようおことばをください。」
 「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事にかわれるものはそうはない。」
 「私のようなものは、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
 「その相談は僕はいかん。ペンネン技師に話したまえ。」
  ブドリは帰って来て、ペンネン技師に相談しました。技師はうなずきました。
 「それはいい。けれども僕がやろう。僕はことしもう六十三なのだ。ここで死ぬなら全く本望というものだ。」
 「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発してもまもなくガスが雨にとられてしまうかもしれませんし、また何もかも思ったとおりいかないかもしれません。先生が今度おいでになってしまっては、あとなんともくふうがつかなくなると存じます。」
  老技師はだまって首をたれてしまいました。
  それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
  すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
  そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅(あかがね)いろになったのを見ました。
  けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪(たきぎ)で楽しく暮らすことができたのでした。
 
<以上>

 ここにはブドリが死んだとも犠牲になったとも書いてありません。ブドリの妹夫婦を含むイーハトーヴの人々の生活が守られたことが書かれているだけです。

この話を公共哲学からいうと最大幸福原理の功利主義に関係する話しだとすることができると思います。数日前のブログでは「オメラス」という言葉を書きました。公共哲学と言うとハーバード大学白熱教室のサンデル教授の講義ですが、番組内の話ではなくベストセラーになった『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)に紹介されている「功利主義の最も目につく弱みは個人の権利を尊重しないことだ。」の事例話の中に出てくる言葉というよりも町の名前で「イーハトーヴ」のようなものです。

<幸福な町>

・・・・・・アーシュラ・K・ル=グィンのある短編小説を思い出させる。その物語(「オメラスから歩み去る人々」)はオメラスという町の話である。オメラスは幸福と祝祭の町、国王も奴隷も、広告も株式市場もないし、原子爆弾もないところだ。この町があまりに非現実的で読者が想像できなくてはいけないからと、作者のル=グィンはオメラスについてもう一つあることを教えてくれる。「オメラスの美しい公共施設のどれかの地下室に、あるいは、ことによると広々とした民家のどれかの地下食料庫かもしれないが、一つの部屋がある。鍵のかかったドアが一つあるだけで、窓はない」。この部屋に一人の子供が座っている。その子は知能が低く、栄養失調で、世話をする者もおらず、ずっと惨めな生活を送っている。

 その子がその部屋にいることを、オメラスの人びとはみんな知っていた……その子はそこにいなければならないことを、誰もが知っていた……自分たちの幸福、町の美しさ、親密な友人関係、子供たちの健康……さらに、豊かな収穫や穏やかな気候といったものまでが、その子のおぞましく悲惨な生活に全面的に依存していることを理解していた……もしその子が不潔な地下から太陽のもとに連れ出されたら、その子の体が清められ、十分な食事が与えられ、心身ともに癒されたら、それは実に善いことに違いない。だが、もし本当にそうなったら、その瞬間にオメラスの町の繁栄、美しさ、喜びはすべて色あせ、消えてなくなる。それが子供を救う条件なのだ。

 こうした条件は道徳的に受け入れられるだろうか。ベンサムの功利主義に対する第一の反論、つまり基本的人権に訴える反論によれば、それは受け入れられないfたとえ幸福の町の存続につながるとしても。罪のない子供の人権を侵害するのは、多数の幸福のためであろうと間違つているのだ。

<以上同書p55~p56>

 この「オメラスから歩み去る人々」は『風の十二方位』(ハヤカワ文庫)に掲載されている12頁ほどの短編のものです。作者のアーシュラ・K・ル=グィンは文頭にこの物語を書くにあたってのヒントをアメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842年1月11日 - 1910年8月26日)の著書『道徳哲学者と道徳哲学』の次の言葉からと書いています。

<ジェームズ『道徳哲学者と道徳哲学』>

「それとも、もし、フーリエや、ベラミーや、モリスのユートピアをはるかに凌ぐような世界、幾百万もの人びとが、永久の幸福をたもちうる世界が、ただ一つの前提、この世界の遠いはずれにいるひとりの迷える魂が、孤独な苦しみの生涯を送らなくてはならないという、ただそれだけの条件でわれわれの前にさし出されたとしよう。そこでわれわれがただちに味わう、この特殊で自主的な感情は、いったいなんだろうか? さし出された幸福をつかみとりたい衝動が心の中に湧きおこりはするが、なおかつ、そうした契約の結果であるのを承知の上で幸福を受けとり、それを楽しむのが、いかにおぞましいことかとわれわれにさとらせるこの感情は?」

<以上>

 幸福な国が、「遠いはずれにいるひとりの迷える魂の、孤独な苦しみの生涯を送るひとりの人間の」犠牲によることにある時、それを承知でその幸福を享受することに、おぞましさを感じる精神、魂は何かと、問いかけながら、それが失われつつある現代社会を批判しているわけです。

しかしこの短編は、このオメラスの町(原文訳は都)がなぜそのような仕組みになったのかは語られていません。歴史が語られていないのです。人びとがどのような体験と経験を経て、このようなシステムの社会を是認することになったのか、は語られていないのです。

 この物語は次のように語られ終わります。

<「オメラスから歩み去る人々」>

・・・・・しかし、この涙と怒り、博愛心に課せられた試練と自己の無力さの認識が、たぶん彼らの輝かしい生活の真の源泉なのかもしれない。彼らは、自分たちもあの子のように自由でないことを、わきまえている。彼らは思いやりがある。あの子の存在と、その存在を彼らが知っていること、それが彼らの建築物の上品さを、彼らの音楽の激しさを、彼らの科学の琵琶を、可能にしたのだ。

あの子がいればこそ、彼らはどの子に対しても優しいのだ。彼らは知っている……暗闇の中を這いずりまわっているあの子がもしいなけれは、ほかの子ども、たとえはあの笛吹きが、夏の最初の朝、日ざしの中のレースに愛馬のくつわを並べた若い乗り手たちの前で、喜びにみちた曲を奏でることも、またありえなかっただろうことを。

 これで、あなたにも納得いただけたろうか? 彼らの存在が、さっきよりは信じやすいものになったのではなかろうか? しかし、話すことはまだもう一つ残っており、そして、これはまるで信じがたいことなのである。
 
 時によると、穴蔵の子どもを見にいった少年少女のうちのだれかが、泣いたり怒ったりして家に帰ってはこないことが、というより、まったく家に帰ってこないことがある。また、時には、もっと年をとった男女のだれかが、一日二日だまりこんだあげくに、ふいと家を出ることもある。

 こうした人たちは通りに出ると、ひとりきりで通りを歩きだす。彼らはそのまま歩きつづけ、美しい門をくぐって、オメラスの都の外に出る。オメラスの田野を横切って、彼らはなおも歩きつづける。少年と少女、おとなの男と女、だれもがひとり旅だ。夜のとばりが下りる。衆人たちは、黄色く灯のともる家々の窓に挟まれた村道を抜け、真暗な野原へと出ていかなくてはならない。

 それぞれに、ただひとりきりで、彼らは山々を目ざして、西か、または北へと進む。彼らは進みつづける。彼らはオメラスを後にし、暗闇の中へと歩みつづけ、そして二度と帰ってこない。彼らがおもむく土地は、私たちの大半にとって、幸福の都よりもなお想像にかたい土地だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。彼ら……オメラスから歩み去る人びとは。

<以上>

 「人びとがどのような体験と経験を経て、このようなシステムの社会を是認することになったのか?」と書きましたが、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」では主人公ブドリの歴史町の歴史、町に住む人々の生活の歴史が折り込まれ、そしてブドリ犠牲の姿は間接的なその後の町の様子などで知らされます。

 私は「功利主義」の問題を離れ、別な問題点を考えます。過程のない歴史認識で正義を語ることであり、さかのぼりを許されない現実の豊かさ語ることです。
 
 ブータンと言えば世界一幸福な国、現実の幸福感は誰もが知るところです。私は過去に二つのブータンを書きました。自分の意志ではありますが内容には恣意を含まないようにしました。

イチバン幸せな国ブータン
 http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/4b774b770cb2976ff8e032f5a59343ed

視点・論点「幸せの国ブータン もう一つの顔」・善き生き方とは
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/e5128ea075eaa09440053d9b3152d472

 「難民」という呼称ですが、理不尽な強制手段もあったようです。

「オメラスから歩み去る人々」がいるとすれば「欲望多き人々」「新しきを求める人々」「便利さを知ってしまった人々」・・・・になるでしょうか。

 さかのぼりの歴史には、体験、経験の過程が語られ忘れてはならない歴史認識が構築されます。

 このような軽率な選択をしない。選択する者、選択される者がともに主人公です。

 現実社会を直視するとき、主人公であった歴史があります。それをどうも忘却しているように思います。

 今何を判断しようとしているのか。今から未来がはじまります。

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「有って有る者」が顧みられなくなった時

2012年06月22日 | 思考探究

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 いつも眠りから覚めると「いつもの私がある」とそのことに意識を向けることなく一日は始まります。意識は常に「同じとしか言わない」と養老孟司先生が何かで語っていたが確かに改めて考えると「違いが分かる」のも「同じ」という問いかけがなければ成立はしない。

 単純極まりない教示です。「なぜ私はここにいるのか」「なぜ他の人々はいるのか」・・・Eテレの「こころの時代~宗教・人生~安らぎの世界へ~慈雲尊者の言葉から~」の中で真言宗の僧侶で福岡県徳永にある心空院の住職小金丸泰仙さんは幼少の頃にそのような疑問を持ったと述べられていましたが、私自身を振り返るとそのような問いを持ったことがあるように思います。

 それはそれでいつの間にか消え、半世紀を超えるころからまたにわかにその疑問らしきものが湧いてきたように思います。最近になって「存在」という言葉が命題に変わり求めの先さえ分からない哲学に慕っています。これが実に楽しい。私はお酒を飲む習慣がなく、酒好きの方が語る「この美味さ、至福の時」を知りません。

 人それぞれに至福の時がある、最近単純極まりない話なのですが、旧約聖書の中に書かれているある言葉にマイスター・エックハルトの火花のような衝撃を受けました。旧約は何回とはなく読んではいて、しっかりと私自身の記憶の中にも留められていた言葉なのに、意識がそこにあると、覚めの感覚を持つものです。

 出エジプト記第三章14

 神はモーゼにい言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしは有るというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされた』と」。

 「有って有る者」という言葉は知っていましたが、この存在の明言に驚いたのです。

 神の存在、理性の真理、信仰の真理、永遠性と有限性の問題これらは全て神の語りの理の中にあり、イスラム世界から遅れをとった西洋においてはギリシア哲学をどのように理解してきたかにあるわけで、そこに『ふしぎなキリスト教』も見えるのかも知れません、が「有って有る者」の明言は信仰する者の歴史的身体に大きな影響を与え、ある種の思考のプロセスを与えているように思います。

 なぜ「現実存在」という「実存」的考えが立ち現れてくるのか。

 わたしは「有って有る者」

本来は主語が入らない、「有って有る者」で、その存在は大きいと思います。

 「有って有る者」が顧みられなくなった時に何が起きるのか、誤りなく「不安」や怯えがあり、反面、節操がなくなる、そんな気がします。

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生き死にという究極の課題の答えは

2012年06月21日 | 思考探究

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 昨夜このようなニュースがありました。

<msn 産経ニュース>>

大飯原発3号機で警報器作動 発表は13時間後[2012.6.20 22:16]
 
 関西電力は20日、大飯原子力発電所3号機(福井県おおい町)の発電機で、モーターを冷却する水を入れたタンクの水位が一時低下し、警報器が作動したと発表した。同3、4号機の再稼働決定後のトラブルは初めて。関電は警報器作動から約13時間に発表しており、発表の遅れに経済産業省原子力安全・保安院が陳謝。関電はいったん「即座に公表すべきものではない」と否定したが、保安院の指導を受け、同程度のトラブルがあれば公表する方針を表明した。

 関電などによると、19日午後9時50分、タンクの水位が100ミリ以上低下し、4分後に水位が通常の状態に戻った。関電は、タンクの水をポンプで送り出す際に、一時的に水位が大きく変動し、通常の水位(マイナス30~50ミリ)を下回ったため警報器が反応したとみている。警報器に不具合はなかった。

 関係者によると、今回の警報器作動同様とのケースは、関電の火力発電所でもあった。その後の実験をもとに、一時的な水位低下の恐れがある場合は注水し、通常より50ミリ高い水位にする必要があるとの結果を得ていたが、関電は「現場作業員に注水を指示していなかった」と話している。

<以上>

というニュースを話題にし、アガサ・クリスティーの推理小説の話をします。

 ポアロだから難解な事件も証拠と推理で見事に犯人を特定し事件解決のはこびとなり、責任を司法当局に委ねることができますが、複雑怪奇な現代社会、いったい犯人は誰なのか、また解決するのは誰なのか歯がゆさとお粗末さになさせなくなります。

 事件だけではなく、守られるべき規範が、間違いなく守られてないのに「この程度ならば」と世の人々は「そういうことがないように、そういうシステムで問題が起きないように」と思っていたのに、事実は全くそれとは異なっていることに驚きました。

 オリエント急行殺人事件。犯人は誰だ! この問いに、すべての人は乗客12名の中の誰かなのだろうと思うのですが、そうではないらしい。

 犯人は外部から侵入したマフィア。

 12名が全員犯人。

そうポアロは推理し、当局への事件申告は列車の運行責任者に任せました。

上記のニュースです。

 安全第一、過去の経験から非難に手遅れがないように等万全を期した通報体制が確立され、原発は稼働するものとして思っていたところ「その程度のことは発表に当らず」という電力会社側の判断・・・何とか委員会も絡むのでしょうか、一般人は「なんていい加減なのだろう」と思うのですが、このような話も闇夜に消えてゆくのでしょう。

 「知っている者」の意識、その人のこころでもあるのですが、何をそこに認識し、何を口にし、それを耳にした人(他人)はどのように思うのか。

 単純な、この流れの中にその人はいない。

 こういういい加減差はどこから来るのか、最終的に発表したのでしょうから最終決定者がいるはずです。それとも12名以上が関わる話なのでしょうか。

ここでもう一つの話をします。このところ公共哲学者マイケル・サンデル教授の最近放送された番組を紹介しました。内容を具体的に知りたい人は

老兵は黙って去りゆくのみ
じじぃの「民主主義と市場原理・すべてをお金で買えるのか?マイケル・サンデルの白熱教室」
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120618/1339967272

がお薦めです。

さてこの番組で、「レディ・ガガのチケットと病院の予約券、許せるダフ屋は?」という話しがされ、その中で中国でのダフ屋が紹介されました。この話は、早川書店から出されているサンデル教授の著書『それをお金で買いますか』のより具体的に紹介されています。

<医者の予約の転売>
 お金のために行列に並ぶという行為は、アメリカだけの現象ではない。最近、中国を訪れた際に知ったのだが、北京の一流病院では行列に並ぶ商売が日常的なものとなっている。ここ二〇年の市場改革の結果、公立の病院や診療所の予算はカットされた。とくに農村部ではひどかった。そのため地方の患者はいまや、首都の大きな公立病院まではるばる旅をし、登録ホールに長い行列をつくっている。彼らは医者に診てもらう予約券を手に入れるため、徹夜で、ときには数日にわたって行列に並ぶ。
 
 予約券はとても安く、たったの一四元 (約二ドル)だ。ところが、手に入れるのは容易でない。どうしても予約を取りたい患者の中には、何昼夜にもわたってキャンプ生活を送る代わりに、ダフ屋から予約券を買う人もいる。ダフ屋の仕事は需要と供給の大きなギャップを埋めることだ。彼らは人を雇って行列に並ばせ予約券を手に入れると、数百ドルで転売する。
 
これは、普通の農民が数カ月働いても稼げない金額だ。腕のいい医者の予約券はとくに価値があり、ダフ屋はまるでワールドシリーズのボックス席のようにそれを売り歩く。『ロサンジエルスタイムズ』紙によると、北京のある病院の登録ホールの外では、予約券がこんなふーうに転売されているという。

「タン先生、タン先生、タン先生の予約券をほしい人は? リユーマチ学と免疫学の専門家だよ」

 医者に診てもらうための予約券の転売には、いやな感じがつきまとう。一つの理由は、治療を提供する人ではなく、好ましくない中間商人が得をするところにある。タン先生がこんな疑問を抱いたとしても不思議はない。リューマチ治療の予約に一〇〇ドルの価値があるとすれば、自分や病院ではなくダフ屋がほとんどのお金を懐にするのはなぜだろうか?

 経済学者はこれに賛同し、予約券を値上げするよう病院にアドバイスするかもしれない。実際、北京の一部の病院は予約券を売る特別窓口を新設している。この窓口で販売される予約券は従来より高いが、行列ははるかに短い。この高額予約券窓口は、遊園地での待ち時間をなくす優待パスや空港のファストトラックの病院版だ。つまり、お金を払って行列に割り込むチャンスをくれるのである。

 しかし、超過需要から利益を得るのがダフ屋であれ病院であれ、リューマチ医へのファストトラックからはより根本的な疑問が浮かんでくる。追加料金を払えるからというだけで、患者は医療の行列に割り込んでもいいのだろうか?

 北京の病院のダフ屋と予約券を売る特別窓口は、この疑問をあざやかに浮かび上らせる。だが、アメリカでますます盛んになっているより巧妙な行列への割り込みについても、同じ疑問を問うことができる。その割り込みとは、台頭著しい「コンシェルジユ」ドクターという制度である。・・・以下略

<以上P39~p41>
※『それをお金で買いますか』早川書店

世の中どうしてこんな倫理観がはびこってしまっているのか?

現代精神の趣味
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b7865c380d25c29c4c2003a7eac510c2

なのだろうか。「誰がどう決めてこうなるのか」現代社会の病理性は「倫理道徳感の欠如」という言葉に集約されてよいものか、思考の根底がそもそも異様なのではないか。

 不自然とは思わないのか?

 自然を阻害する、自然の流れを阻害することが「罪(つみ)」というやまと言葉の語源だと私は思っています。

 川の流れを止める堤(つつみ)。

 雨の災いは雨障(あまつつみ)。

だから「包(つつ)み隠さず申します。」が成り立つのですがもうします。

 現代人は、道徳観や倫理観を再度植えつける、着飾るのではなく着たものを脱ぐ思考視点でないと遅いような気がします。

 裸で生まれ、灰になる運命。

 生き死にという究極の課題の答えは、その目覚めにあるように思います。

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現代精神の趣味

2012年06月20日 | 思考探究

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 戦後日本に本格的な民主主義思想が芽生えはじめ、一番忌避すべき思想、排斥されるべき思想は何かと言えば「自己犠牲の精神」ではないかとおもう。先週の土曜日にEテレで放送されたマイケル・サンデル教授の公共哲学の番組では核の廃棄部物質の処分場の受け入れ問題が話され、サンデル教授番組はこの犠牲的精神を醸成させるものではないかという視点で批判的に捉えられる人たちがいます。

 サンデル白熱教室でもこの自己犠牲が「オメラス」という都(コミュニティー)の「幸せな国」が維持されている深層にある児童の犠牲の物語として登場していたことから「オメラス」という言葉はその代名詞のように成っています。※この「オメラス」の話は後日書きたいと思います。

 今朝は犠牲的精神に関しての話です。今では宮沢賢治先生のお話は多くの人々の共感を得た者となっていますが、以前衣話した通り戦後間もなく、いや最近まで軍国主義を助長した悪しき文学てきに扱われ「宮沢賢治の暴力」と呼ぶ方もおられます。

 満州国では教育に使われた。その一点だけで悪しき文学にされているのです。その宮沢作品のなかに『グスコーブドリの伝記』があります。

 少々長い話でですが「青空文庫」

グスコーブドリの伝記
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.html

で読むことができます。

 妹と父母の4人家族から始まり、冷害等により父母は子どもたちを守るため(子供たちに食料を残すため)家を出てしまいます。家を出て自分たちが助かろうという話ではなく、家を出ることは死ぬことを意味し、両親の自己犠牲によって子どもたちはしばらくの間助かるという話で、物語はそこから始まります。

 最終的にはこの物語の主人公グスコーブドリは地震・火山研究の専門家になり、自然災害の危機が目前に迫った街を救うために自己を犠牲にしてこの街の人々を救うという話でおわります。

 ハッピーエンドで本人も町の人々も幸せになりました、という話ではなく、

 今ある繁栄は多くの犠牲者の死によって「ある」。これは疑うべき事柄ではなく当然にしっかりと受け止めなければならない事実だと私は認識しています。

 この「ある」事実が、どうしても人間の自由を奪う「もの」に変換されるのです。なぜそうなるのかは当人にも分からない。そう創られてきてしまったのでしょうか。

 「今日最も深く攻撃されているもの、それは伝統の本能と意志とである。この本能にその起源を負うすべての制度は、現代精神の趣味に反するのである」

 これはニーチェの『権力への意志』の言葉のようです(『ニーチェの警鐘』適菜収著 講談社α新書から)。

 「現代精神の趣味」という言葉、深い言葉です。

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マイケル・サンデル 5千人の白熱教室は、「まともな時代」「まともな人間」「まともな文化」への警鐘

2012年06月19日 | 思考探究

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 「まともな時代」「まともな人間」「まともな文化」とはなにかと考えてみる必要があるのではないか?

「B層」とはなにか?
 「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」です。小泉郵政改革に熱中し、民主党マニフェスト詐欺に騙され、流行のラーメン屋に行列をつくる人たち。

これ等の言葉を『ニーチェの警鐘』(日本を蝕む「B層」の害毒)講談社α新書に見る。著者は哲学者の適菜収(てきな・おさむ)さん。「活動的なバカより恐ろしいものはない」と『ゲーテの警告』もかいており副題は「日本を滅ぼすB層の正体」という著書や『キリスト教は邪教です!』というのも書いています。

 こういう本を読み続ける中で昨日『新潮45』7月号が発売されました。特集「来たれ総選挙! 落選させたい政治家12人」その他には「AKB現象」徹底解読などがあります。

 先週Eテレで「マイケル・サンデル 5千人の白熱教室」(すべてをお金で買えるのか)[前編]が放送され、
 あるサイトには、

「サンデル教授がすごいのは、市場主義の限界について、一方的な見解を述べるのではなく、実例を元に意見が分かれるような微妙なイシューを設定して、上手に議論を導いているところだと思います。マスコミやTwitterでは、市場主義を最初から毛嫌いして、感情的な反対論を述べている人たちが見られます。それに対して、市場主義は悪くないんだと強く反対する人たちもいます。どちらにせよ、一方的で自己満足的な議論にはもう疲れたような気がします。」

と書かれていてなんとまともな批評だろう思い、『それをお金で買いますか』(市場主義の限界)鬼澤忍訳・早川書房が言わんとするところは、これだ!と目覚めました。

 まともな議論ができる人々が世の中にいない、何か不思議な害毒を吹きかけられている。飛行機雲を見るとオウム信者のように毒ガスを散布していると狂人的に叫ぶ人がいますが、そのまともさは別にして「正解」を叫びたくなります。

 昨今私の眼の前に起こっている現象です。菊池直子逮捕の際に信者で活動している時に一生懸命「ヘリからの毒ガス散布」の説明しているビデオが流されていましたが、神の啓示ではないのでしょうが不思議に思いました。

 「まともな時代」「まともな人間」「まともな文化」

を考えたときの適菜収のいうB層害毒。私ははB層ではないよねと不安になりましたが、多分B層は自覚症状もなく、せっせと写真入り米袋の生産者信用保証に「まとも」を感じているのかも知れません。

 一方こんな話がありました。AKB48の高橋みなみさんについての深イイ話(2012年6月18日  読売新聞)一部紹介。

 東教授が参考にすべきだというのは、アイドルグループAKB48のスピーチだ。ファン投票イベント「AKB48選抜総選挙」で6位に選ばれた高橋みなみさんは、ステージで涙ながらに語った。
 
 「去年、『努力は必ず報われる』と言いました。でも、ある方は『努力は報われない』と言いました。そうかもしれないです。全部は報われないかもしれない。運も必要かもしれない。でも、努力しなきゃ始まりません。私にとって努力は無限大の可能性です」
 
 東教授は「スピーチには誰にでも分かる価値観が必要だ。高橋さんの言葉は極めて平凡だが、我々が持っている素朴な価値観を本音で語っている。ポイントは、いかに聞き手中心になれるかだ」と評価する。<以上>

 野田総理の「乾坤一擲」という言葉の使用に対する政治家の言葉を研究する東照二・立命館大教授(社会言語学)の話しです。

 「AKB48選抜総選挙」に群がる人々、世相のなかで語られた、

「去年、『努力は必ず報われる』と言いました。でも、ある方は『努力は報われない』と言いました。そうかもしれないです。全部は報われないかもしれない。運も必要かもしれない。でも、努力しなきゃ始まりません。私にとって努力は無限大の可能性です」

この言葉に感動してよいのでしょうか、今悩んでいます。感動してもB層にはならないでしょうか心配です。

「一方的で自己満足的な議論にはもう疲れたような気がします。」

目覚めているから疲れを感じるのでしょう。マイケル・サンデル教授の講義は、目覚めの時を投げかけているように思います。

『それをお金で買いますか』と言われると政治哲学から遠く離れているように思いますがとんでもないことで、今現在「あなたがお金を支払って買おうとしているもの」その背景に張るあなたの選択、『選択の科学』のアイエンガー教授ではありませんが、直感と理性のまともさを問うています。そしてまともな議論の必要性を。

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