[思考] ブログ村キーワード
ある哲学のランキングサイトを閲覧していたところ20年間検察庁の事務官をなさっていた方のブログが投稿されていました。いろいろあったのでしょう仕事とストレスの関係から検察庁を辞職したと書かれていました。
先月の投稿ブログの中の「黄色いタイツの女性事務官」という話題が目に留まりました。
暗黙のルール。と書かれていましたが職場における暗黙のルール、そうしなさいと言われる以前の当たり前な服装、職場に逢った服装、強烈なリバタリアンならばこれほど強烈な弾圧、足かせはありません。
しかし周囲で働く人々にとっては違和感を感じるのは当然、関係のない私もそう思います。検察庁の仕事をするにおいてはそぐわない服装、端正な服装ではないと感じます。
古くなりましたが「空気を読めない」の部類の話かもしれませんが、「世間が読めない」と言葉を変えていいと思います。
「違和感」と書きましたが、違和感とはある感覚で、「こうあるべきところ、そうではない」ということで「まともではない」と思う感情です。「まとも」ではない。
今朝はこの「まとも」という言葉に焦点を当てて書いてみたいと思います。ご承知願いたいのですが、「まとも」を書こうとするブログ書大好きの私自身、ある「まともな神経の持ち主」からすれば「まとも」ではないことは理解しています。
何気なく使うこの「まとも」という言葉、手元にある日本語大辞典(講談社カラー版)電子辞書ではありません、厚さ10センチはあるものです。ここには次のように記されています。
まとも【正面】(名・形動)
1 正しく向かうこと・さま。(directness)
2 真正面。(front)
3 正道。まじめ。まっとう。(honesty)
用例:まっとうな商売。
と書かれていて、それでもと思い大修館書店の『明鏡国語辞典携帯版』を見ると、
まとも【正面・真面】(名・形動)
1 まっすぐ向かい合うこと。真正面。「西日をまともに受ける部屋」
2 駆け引きなどをしないこと・「まともに勝負したのでは勝てない」
3 すじみちが通って、きちんとしていること。「あいつはまともに挨拶もできない」
派生:まとも・さ
とこの辞書には書かれていました。私は「常識がない」とでも書いているように思っていたので少々ビックリしました。
まっとう=真正面
なのですから。「的を得ていない行動」とでも言えそうな表現説明です。だから辞書を引くのが面白い(まともか?)。
次に言わずと知れた古語の世界です。古語辞典といえば岩波書店、言語学者、文学関係の学者も皆さんこの辞書を参考にします。いわゆる常識で、いわゆる「まとも」な人ということになります。この辞書は地元のブックオフには絶対出てこないのである面貴重な辞書です。
「まとも」な話から外れましたが、この『岩波古語辞典』には、
まとも【真艫】船の真後ろ。また、その方向から風がまっすぐに吹くこと。「ことに、風がまともに吹いたほどに、思ふさまに帆をひいたぞ」<三体詩抄三ノ一>
と書かれていて「艫」は「とも」と読み、艫綱(ともつな)の「とも」で「船の船尾」を意味します(日本語大辞典)。
他の古語辞典も調べてみます。大修館書店、旺文社、三省堂の手持ちの辞書には記載なく、『ベネッセ古語辞典』には、岩波に近い記載で、
ま-とも【真艫・真舳】(名)船尾。また、船尾の方から吹いてくる風。追い風。順風。「この風まともでござると、帆を八合もたせて」<浮世・五人女・一>
※「舳」は「とも・へさき」という読みの漢字です(IMEパット)。船の先端。船首。みよし。艫の反対後(明鏡国語辞典)
※「みよし」は、【舳・<船首>】船の先端の部分。へさき。(明鏡国語辞典)
との記載、そしてさき程三省堂には記載ないと書きましたが『全訳読解古語辞典』には無いという話で、同じ三省堂でも『例解古語辞典第二版』には記載がありました。
ま-とも【真艫】(名)《「ま」は接頭語。「とも」は船尾の意》船の真後ろの方向。また、その方向から吹いてくる風。
用例:仕合せはせのよい時津風、まともに船を乗りける」(西鶴・永代蔵二・四)
解 :船を船尾から受けて順風に航海することに、家業が順調に栄える意をこめた表現。「時津風」の「つ」は、「の」の意。
となっていました。
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現代語の「まとも」。まともな人間でありたいと考える時の「まとも」。
「黄色いタイツの女性事務官」の話しに戻りますが、場にそぐわない、場の雰囲気にそぐわない。違和感を感じるのは第三者。
ここで哲学的な「理性」という言葉を登場させたいと思います。道徳的な振舞い、理性的な振舞いが「黄色いタイツ」と重なるからで、あくまでも私だけの話です。
「理性」とは何ぞや?
「選択の科学」のコロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の講義では選択に当たっては理性と直感が重要という話でした。直感だけでもダメ、理性的になり過ぎてもダメ、その絶妙なバランスで選択することがとても重要と理解しました。「あぁでもない、こうでもない」と悩み、考え、より良き選択をするのもよいのですがときには直感も大事になる。というはなしです。また話がずれそうです。
素人ですので小川仁志著『超訳「哲学用語」辞典』(PHP文庫)を見てみます。ズバリ
超訳:論理によって本質を把握する能力
用例:人間は戦争を完全に止めることはできると思う。理性の力を信じているからね。
と書かれていて、解説文を知りたくなります。
<「理性」>
理性とは、物事を論理的に考えるための能力です。その意味で哲学にとって最も重要な能力であるともいえます。それゆえに、あらゆる哲学者が理性について論じてきました。
かつてアリストテレスは、「人間は理性を備えた動物である」といいました。これは人間が単に感覚によって物事を表面的に認識するだけでなく、理性によって論理的に本質を把握することができる点をいい得たものです。
とりわけ近代の哲学者たちは、理性の信奉者であるといえます。たとえばカントは、理性を経験に先立つ能力として位置づけます。物事を経験することなくして理解できるのは、理性が備わっているからだと考えるのです。この場合理性は、物事を理解するための、生まれもったモノサシのようなものとして機能します。
あるいは近代哲学を完成したといわれるヘーゲルは、理性によってすべてを把握することができるとまで主張します。理性への信頼が最高潮に達したわけです。
しかし、その理性への信奉が近代の様々な矛盾を生んできたとして、現代では反省の目を向ける哲学者もいます。ハーバーマスによる「道具的理性」批判もその一つです。彼は、人間が理性を使って目的を達成しようとする時、かえって悲惨な結果を生み出すことになった点を指摘します。戦争やホロコーストはその典型例といえます。
したがって、せっかくの理性を目的のための道具に貶(おとし)めてしまうのではなく、むしろ対話によって合意を見出すための「コミュニケーション的理性」として発揮すべきだというのです。<以上>
「この場合理性は、物事を理解するための、生まれもったモノサシのようなものとして機能します。」
「生まれ持ったモノサシのようなもの」の「ようなもの」がすごくいいと思います。個人的にこの中に「自ら作り上げてきたモノサシでもある」的な意味をも抱くからです。
ついでですから哲学小辞典を調べてみます。
<「理性」岩波哲学小辞典>
理性[英reason,独Vernunft,仏raison]
1)人間を他の動物と区別する人間特有の能力とされるもの.概念的思考の能力をいう。実践的には本能や衝動や感性的欲求に左右されず思慮にもとづいて行動する能力を意味する。
2)真偽,善悪を識別して正しく判断する能力(デカルト以来の用法)。
3)超自然的な啓示に対して人間の自然的な認識(→自然の光)。
4)実在,絶対者を直観的に認識する能力。古来多くの哲学者の主張したもの。
5)アプリオリな原理の総体。この用法はすでにライプニツにあるが、カントの純粋理性はそれを明確にしたもの。彼は認識にかかわる理性を理論理性または思弁的理性とよび、行為の原理を含むものとしては実践理性と名づけたが、両者は同一本質のもので通用が異なるにすぎないと考えられる。しかし,彼の場合、理論理性も、
a)広義ではアプリオリな認識能力の全体(感性,悟性,狭義の理性を含む)を意味し、 b)狭義では感性・悟性と区別され,イデーにかかわるより高い思考能力を意味する。6)へ-ゲルでも理性は悟性と区別され、理性的思考は弁証法的思考を意味する。
7)カント以後のドイツ観念論(フィヒテ,シェリング,へ-ゲル)では理性は同時に宇宙的原理としての意味をもち、世界理性、絶対的理性などという用法がある。
ギリシアではヌースがほぼ理性に当る語であるが、スコラ学では感覚より高い認識能力としてratioとintellectus(このラテン語はそれぞれ近代語の理性と悟性に当る語)とが認められている.ratioは概念的・論証的な認識能力であるが、intellectusは神の直観をも含む最高の認識能力を意味し、ヌースの訳語としても用いられ、カントの場合とは用法がちがっている。<以上>
難しいの一語に尽きますが、知らないよりはそうだと納得するがよろしいかと思います。
長々と「まとも」な話を書いてきました。ほぼ事実のみを書いています。
最近、まともではない人が世の中を騒がしています。昨朝書いた大阪の事件もそうです。「黄色いタイツの女性事務官」もその部類と私は個人的に思います。
検察官という言葉で思い出したのですが、最近の公判傍聴で話しです。ある男性の覚せい剤使用事件の公判、なぜかこの裁判におばさん集団が傍聴に来ていました。理由は分かりませんが関係者でないことは雰囲気で分かりました。「~の会」による裁判所見学会かも知れません。
一回で結審、次回が判決という裁判で、1時間少々かかり情状でその男性の妻が証言台に立ちました。この男性前にも覚せい剤で逮捕されその時は執行猶予だったそうですが、その執行猶予が切れてからの事件です。最初の覚せい剤使用は、証言台に立った妻も一緒に逮捕され事件だったそうで、妻はその逮捕で覚せい剤からきっぱり縁を切りました。
転居もし環境も変え子供もでき生活をしていましたが、夫が行動がおかしい、部屋に閉じこもったり、話が通じない・・・・・。これはどうもおかしい。もしかして「覚せい剤?」。怖くなったそうです。考えた末「覚せい剤でないことを信じて」警察に相談。結果、覚せい剤を使用していたことが判明し逮捕されました。
検察官からの質問です。「奥さんはどうやって、覚せい剤を止めることができたのですか。」
被告人妻。「妊娠していることが分かり、捕まり。『意味がない』と思ったからです。」
この「意味がない」という言葉に震えました。感動などというものではなく、「意味の理解」とはこのことだと思ったのです。
「まとも」のい話から始まりましたが、「まとも」とは意味の理解をしているか否か、現実に存在する実在としての私が、本当の理解をしているか、ということです。
真面・真正面・真艫・真舳
と漢字で書くことができる言葉、自然の風をどう受けとめているのか。真正面から受け真後ろから受ける風。真後ろから自然は後押ししてくれてもいます。
日本の哲学とは小難しい話ではありません。「まとも」な話です。
有ってないような風ですが、有るものなのです。
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