思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「目に見えない皇帝が哲学」という言葉が意味するところ

2019年02月27日 | 哲学

 また「新実在論」のドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが語っている話になります。この話は、『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書)に書かれている話で、関係したテレビ番組でも話されたものです。
ロボット研究家の石黒浩さんとの対話の中で、
「今のドイツでさえ、1989年からの姿です。国境を変え、共産主義独裁政権を統合しました。そのため今のドイツは社会主義色が強いのです。・・・それで私たちは厳格な論理的構造を持っているのです。なぜなら現実はまったく統一されていないからです。ドイツは概念レベルのみので統一されているのです。」

このように語り、そこで石黒さんが、
「ドイツに対してそのような認識は持っていませんでした。ドイツはある意味日本のように同質性が高いのかと思っていました。」

と話すと、ガブリエルさんは、
「そうです。実際のドイツ社会はまったく同質ではありません。」
そして石黒さんが、
「でも概念を共有することで違いを埋めようとしているのですね。」
と話すと、
「ええ、日本には天皇が存在していて会うことも可能ですよね。皇居もある。でもドイツには皇帝がいないので、ドイツ観念論主義者は“目に見えない教会”が必要だと言います。ですから私たちには「目に見えない皇帝」があります。その“目に見えない皇帝”が哲学なのです。」

この話が、今回書くに至るのですから記憶に残る印象的な話だった分けです。
 即位30年の宮中茶会が26日皇居・宮殿で開かれ平成に活躍した著名人や、皇室ゆかりの人々が招かれたようです。式典での叡慮(えいりょ)や美智子妃殿下の補佐役の慈愛の姿はなんとも表現できない安寧を感じました。

 このような光景を見てある何がしかの感慨を覚えます。ある人は安らぎを、ある人は滑稽の感情を抱くことでしょう。

 先に「滑稽」から入りますが、これは拝見そのものに封建制の名残の抑圧された庶民の姿をあたかも称賛しているかのごとくに作り出す場と捉え「滑稽」を抱くのかもしれません。
 一方、「安らぎ」は善き心、悪しき心の二元的分別を行うならば明らかに「善き心」の顕現を見ているのだろうと思います。

 私は、上記のガブリエルの「目に見えない皇帝を感じる」という話を知り宗教的実存という言葉が浮かんできました。個人的理解で言うならば実存のバックボーンとしての宗教、人間存在の拠り所としての宗教性の現われともいえるものです。
 哲学者西谷啓治先生は著『ニヒリズム』の中で、
 「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なものであるならば、そういう拠り所の喪失は、歴史の底に、そしてまた歴史に生きる人間の底に、虚無の深淵を開いてくる。」
と語っています。
「人間の存在そのものに目標を与え、いかに生きるべきかという方向を示すもの、存在するということの意味がどこにあるかを教えるようなもの、すなわち一言でいって人間存在の根柢にかかわる形而上的なもの」
 ここで語られている「もの」とは、「こと」に対する「働き」です。そしてその働きは「拠り所」「依処」として本来あった、ということです。

 形而上的な話です。原始仏教典パーリ聖典『長部』大般涅槃経に「法灯明・自灯明」という言葉があります。釈尊亡き後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」と釈尊が言われたと言います。
 思いの念で描かれる世界観、まったくの形而上の話で、概念話です。善き心の永遠性の保持というよりも保守かもしれません。

 根本に同質性がない空間、風土という同質性はないということです。
 「目に見えない皇帝」が哲学なのです。
と語ったガブリエルの教示は何なのでしょうね。

 「国民と心を共にし、苦楽を共にする」存在、「日本の平和を希望します」という叡慮に戦争への歩みを進めることができるのだろうか。大衆は拳(こぶし)をあげ、同質性は乱れに乱れていきます。

 画一的に抑え込まれることへの反感は誰しも持つ心、だからといって哲学の心を失ってはならない、ある意味教示は啓示なのかもしれません。


人生を見つめる審美眼

2019年02月26日 | 思考探究

テレビ東京の番組に「開運!なんでも鑑定団」という骨とう品を扱う番組があります。長野県は放送が1ヶ月遅れで放映され、先週正月3日の番組がありました。

 “開運!なんでも鑑定団」のお正月スペシャル!”ということで「今回は「目利き選手権」と銘打ち、芸能界の「目利き」を集めて、クイズ形式の内容でした。ゲストは、美川憲一、片岡鶴太郎、前田日明、山口恵以子、小島瑠璃子の5名でそこへ司会の今田耕司が加わり6名でその真贋を競うというものでした。

『真贋』を小林秀雄先生は書かれていますが、骨董の世界ではニセ物とは言わず、二番手、ちと若い、ショボたれているというのだそうですが、本物か否か小林先生ならば真贋を見分ける目は確かのように思えますが、実際はそうではないようで、鑑定してもらうと「いけません」が多く、「以後これに懲りて他人に鑑定を依頼したことはない。」ということでした。

 「自分の審美眼を信じて書画、骨董のいくつか手許に集まったが、真贋の程は当然の事ながら定かでない。」ということで、番組も6人の「審美眼」がよく表れていたように思います。

 中でも一番面白かったのはタレントの小島瑠璃子さんで骨董については全くの素人、それでも勘を頼りにかなり良い正解率でした。いま勘と書きましたがいわゆる第六感のことです。問題の中に「J・フォートリエのデッサン」の本物はどれか、というのがあり、その時の彼女の審美眼の言葉が印象に残りました。描き方等の特徴をあれこれゆうのではなく、自分には本物を見極める能力がないので「描かれている紙が作者のアトリエに合う」と答えていました。

参加者の中には俳優の傍ら絵を描き書道をたしなむ方、実際に骨董商になろうと勉強している人、当然司会の今田さんは長年番組を担当し骨董に対する知識は豊富、小説家の方もそれなりに芸術に対する審美眼があるようでした。

その中で小島さんの特異に感じられたのです。

「描かれている紙」は確かに日本画の和紙のようにその時代に作られてものでなければ明らかにニセモノ、しかし彼女には紙質の時代評価の知識はないはず。他の作品の紙と比較してのまさに直感なのでしょう。

 判別のための思考視点を紙の比較に置くところは私の発想にはありませんでした。それは雰囲気というほとんど感にたよるもの。その結果は大正解でした。

知識に頼り、審美眼を信頼し判定を下す。結果誤りを招く人もいる。長年の知識から誘発された直感かもしれませんが、錯覚というものを招くものは何なのでしょう。

芸術的センスで何者かが描いたもの。

そのセンスがわからない場合はどうしたらいいか。

最も近いところに少しばかりの勘が働く。

実におもしろいと思うのです。武田鉄矢さんが紹介していたふろむだ著『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』(ダイアモンド社)、これによれば人間は錯覚するように作られているようです。

 見た目が美しい男女(ひと)は、性格も頭もよさそうに見えるもの。そうでないと思ったところでそれなりに接し方が違ってくるものです。

 勘違いとは勘の錯覚でもあるわけです。

柔和な指導者はすべてが品のある行いに見えてくる、しかし実際は極端に偏向的であったりすることもあります。

人生を見つめる審美眼、その人固有の能力、それを育てるものも社会からの影響もあるかもしれませんが、おのずから、みずから作り出して成る、のでしょう。


沖縄が突きつけた「No」という離縁状

2019年02月25日 | 芸術

 注目していた沖縄県民選挙、結果は“沖縄突きつけた「No」”と地方紙の記事見出しにありました。安倍総理大臣はこの結果を受けて見出しを付ければ「結果を真摯(しんし)に受け止め、基地負担軽減に全力で取り組む」と首相官邸での記者団に語ったようです。そのような見出しのように答えたとしても
「沖縄に米軍基地が集中している現状は到底容認できない。沖縄の負担軽減は政府の大きな責任だ。今回の県民投票の結果を真摯に受け止め、これからも基地負担軽減に向けて全力で取り組む。住宅や学校に囲まれ、世界で最も危険といわれる普天間基地が固定化され、危険なまま置き去りにされることは絶対に避けなければならない。日米が(平成8年に)普天間基地の全面返還に合意してから20年以上実現されていない。これ以上先送りすることはできない。これまでも長年にわたって県民と対話を重ねてきたが、これからもご理解をいただけるよう全力で県民との対話を続けていきたい」
と述べていますのでこれまでの決定事項として基地移設のための埋立て等の工事は遅滞なく行われて言うように思われます。
 最初の地方紙の見出しのことばは、「安倍政権にNOを突きつけた」と結果を記者はそのように思い「突きつける」物に「否(いや)」という県民の意思表示を重ねたようです。

「突きつける」という言葉から受けるのは「刃物を」「矛先を」「けん銃を」というように相手を射止める凶器、武器を想像させますが、「No(いや)」は決して凶器でも武器でもないのに、言語表現に誤用をを感じません。

 「突き付ける」ですからはな先、のど元に近づけた訴状と同じようなもので、記者はそれに「突きつけた」という言葉を選択し使用したわけです。「沖縄は、建設反対の意思表示をした」「沖縄は、“いや!”という意思表示をした」と書いたところでインパクトがない。すなわち「物理的、あるいは心理的な衝撃。また、その影響や印象」がない、わけです。
 相手に対して精神的ダメージを与えるには、事実のみの表現ではだめで、敵に対するダメージ言葉を創造しなければなりません。

“沖縄突きつけた「No」”
 相手に対してどのような言葉を使うか。目上の人ならば敬語表現になりますが、敵対者に対しては「刺す」言葉が無意識に出るものです。

 現象とは二項対立に見える。「ある」・「なし」、「美」・「醜い」・・・比すものが無ければそれが何であるのかも「わからない」ことになります。結論としてそれが「そうだったのか」と「わかる」のは知識による識別があるからで、わたる私は、歴史的身体です。

沖縄の「No]が、日本国からの離縁状にならないようにしたいものです。書き方によっては離縁状にもなります。


思考の転回の只中で思うこと

2019年02月23日 | 思考探究

 「人間の尊厳」という言葉を聞いて、おぼろげながらもその意味するところが「分かる」とはどうどういうことなのか。

 既にブログに書いた話ですが、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが語るドイツ国民のコンセプトについて、彼は次のように語っています。

 「カントによる人間の解釈は、ドイツ憲法の最初の一文にあります。「人間の尊厳は不可侵である」これがドイツの憲法であり、「人間の尊厳」はカントが僕たちに与えてくれたコンセプトです。(『マルクス・ガブリエル欲望の時代を哲学する』(NHK出版新書・p172)

 ドイツ人の日常行動には内的な倫理的・道徳的な基本的原則、貫かれ骨格として「人間の尊厳」があると語っているように思われました。

 日本の駅の改札口を見たガブリエルさんは、

 ドイツ人の主観はまさに「ドイツ観念論」で掲げている通りに働く。人々は自分自身を「定言命法」(条件なしで「○○すべし」という命令)にさらす。客観的な視点なんて気にしない。すべてのメカニズムは内なる観念を元にしているんだ。つまり、道徳的行為というものは客観的判断ではなく主観的な判断で有無を言わずに行うべき、しないという選択肢はないというのがドイツ人は持っている。それに対して日本人は客観的な面を気にした上で、体面を保つための道徳行為だったりするのかもしれない。(同上記書p33)

 ガブリエルさんが見た駅の改札口は、日本人には見慣れた自動切符改札口、人々は切符投入口に切符を入れ通過するだけの風景です。日本のあたり前の日常の光景、中には不慣れな方もいるかもしれませんが、特別違和感を覚えるようなものではありません。

しかし、ガブリエルさんはその駅改札システムを通過する人々を見て「日本人は客観的な面を気にした上で、体面を保つための道徳行為だったりするのかもしれない。」ということを読み取るのです。

 共通の一形式の履践を従順に行う人々、そこに他者の「まなざし」「疑いの眼(まなこ)」のような自己の不正義の抑制を他者の力に頼る行動スタイルと、ガブリエルさんは見て取っているように思えるのです。

 ドイツではこのような改札口は必要ではないからこのようなシステムは存在しない。この「不必要」の理由は「人間の尊厳」という理解の仕方にもあるように思えます。鉄道会社が「信用しているから」といったような第三者が許容する以前の、徹底した定言命法が、ドイツ国民には備わっている、そうするのがドイツ人である、したがって疑念の起きようがないとからだと言っているのです。

 ガブリエルさんが直接このような解釈をしているわけではありませんが、実に面白い話です。

「人間の尊厳」には当然、個人の尊厳も含まれるわけで、実存する個の主体は、存在としての自覚をまさに顕現しています。

 私個人の話ですが、「私を馬鹿にしているのか」と、ののしられた言葉に反応し、「尊厳を傷つけられたから」と思うよりも、「卑下されたから」という憤りの感情が先に立ちます。

「辱めを受けた」と言葉を変えてもいいかもしれません。「卑下された」「辱められた」には、確かに他者のまなざしがあり、世間にさらされている私があるように見えます。

ガブリエルさんは都会の主要駅の改札口を見た時に、そのような発想を得たわけです。しかし、都会人は他者の目を気にしている人は、田舎ほどいないと思うわけで、人々はいつものように、これこそ「なすべき実践」を履行しているだけであって、ガブリエルさんの発想は、「自動改札口」の存在そのものの違和感がそう発現させたということになりそうです。

「もの」「こと」の存在や現象が放つ矢は無数にあり、人々の内心を射止めます。

 今回は「人間の尊厳」という言葉を聞いて、おぼろげながらもその意味するところが「分かる」とはどうどういうことなのか。

という書き出しで始めましたが、評論家の小林秀雄さんは「“わかる”ということは知ることだ」と言っていました。知れば知るほど読みの足りなさを実感します。


県民投票近づく

2019年02月21日 | 哲学

 哲学者の國分功一郎さんが「市民が行政権力に関わることができないという民主主義の欠陥~沖縄県民投票について考えるために~」という題のコメントを今月の初めにサイトアップされていました。

 2月4日が投票日、基地建設反対闘争の一環として行われると記載するとお叱りを受けそうですが現政権の政策に対する反対行動と捉えれば反対の拳(こぶし)をあげているように見え「闘争」という言葉の使用になると思います。

 軍事基地反対の意向を示す闘争
 アメリカ帝国主義の横暴に対する米軍反対闘争
 サンゴ礁等の保護を目的とする自然破壊阻止闘争
 沖縄民衆を抑圧する本土側からの政策に対する闘争

 以前にも書きましたがいろいろな意見を秘めた投票で、結果は現状の政策推進賛成票以外の得票数が多ければ建設反対の意向が多数県民の意思という結論になります。

 國分さんは、

 「直接民主制が本当は望ましいが、それはできないから間接民主制にしているのであって、間接民主制は必要悪である」という意見もよく聞くのだが(誰がこんなことを言い始めたのだろうか?)、これも全く問題を捉え損ねている。今述べた通り、問題は直接か間接かというところにあるのではなく、立法権ですべてを制御しようという発想そのものにある。仮に有権者の全員が参加する直接民主制の議会が作られたとしても、実際の政策決定を行政が行うという問題は少しも解決しない。」

と語られていましたが、立憲民主主義そのものに構造的な欠陥があるということになるのですが、確かに、法治国家は最大公約的な構成要件で規制しないと秩序は保たれないのですから保護される人もいれば規制される人もおり満足・不満は消えることはありません。

 こういう構造的な欠陥に対する悲憤が生まれる構造欠陥があるならば県民投票という型づくりも今後は立法・行政・司法を離れ第4の柱とし現れてくるのかもしれません。
 そういえは地方自治の時代は今も叫ばれているわけですが、ふるさと納税に対する立法府の介入に拳をあげる人というよりも自治体はないようにみえます。

 國分さんは、マルクス・ガブリエルの公演会のMCをされていましたね。

 世の中を変えることができる独創的な創造力がこれまで以上に求められているように思われます。今ある言葉のもつ意味や概念を超える超意味、超概念の発想力の声はどこかにあるように思えますし、思いたい。

 県民投票も闘争ではなく新しい機構改革の声と聴き取り、芯からの構造変革になって行くならばいいと思うのですが。しかし、マスコミは拳と捉えるでしょうね、野党も。


「男女川」について

2019年02月20日 | カラオケ

カラオケ愛好家は、数ある楽曲から選択するのは大変だろうと思われるかもしれませんが、それぞれに好みの歌手がいるもので発表会を見ていると、この人はこの歌手の曲を歌うのが常と分かってきます。私にもこの人の曲を歌ってみたい歌手がいて♭1か♭2でくらいでその方の曲を選択します。

 その方とは小田純平さんで自らも歌い、他の歌手の歌の作曲もされている人です。今週も一曲レパートリーに入れようと思う曲があり、小田さんの曲で題名は「男女川(みなのがわ)」です。この「みなのがわ」の響きから

 百人一首になじみのある方ならば陽成院の次の歌が浮かぶかと思います。

筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

完訳用例古語辞典(学研)の口語訳では、

筑波山の峰から流れ落ちる男女川が、だんだんと水量を増して深い淵となるように、初めは淡い思いだった私の恋も、積もり積もって今では淵のように深くなってしまった。

とありました。私には縁遠い世界ですが、古代人の表現の世界のすばらしさに驚かされます。

小田純平さんの歌は、作曲はご本人で作詞は作詞家の友秋さんです。4分少々の短めの曲で1・2番プラスくり返し部という構成になっています。全歌詞を引用したいのですが問題が出るといけませんので1番だけ紹介します。

恋の悲しみ 知り過ぎていても

慣れることない 一人の淋しさ

宵の筑波嶺(つくばね) 谷間も消えて

針ひとつの痛み 胸のときめきか 

さらさら流る 秋の男(ひと)

しんしん積もる 冬の女(ひと)

それでも待ちます 目を閉じて

誘ってください あなたから

という内容で、これがしっとりとしたメロディーで小田さんが歌っています。最後の「誘ってください」の部分は1・2番では「ください」の高低が異なっています。これが小田さん流の曲作りで、他の曲にも出てくるので情感を歌い上げる手法なのだと勝手に推測しています。

YouTubeにご本人のバージョンがアップされていればいいのですが、他の人によるカバー曲バージョンしかないので残念です。

この曲を唄っていて

1番の「宵の筑波嶺(つくばね) 谷間も消えて」

と2番の同段の「夢の歌垣(うたがき) 詠み人 途絶え」

の言葉のイントネーションとメロディーがとても符合していて響きます。

くり返される部は、

さらさら流る 秋の男(ひと)

しんしん積もる 冬の女(ひと)

それでも待ちます 目を閉じて

誘ってください あなたから

ですが、男・女を「ひと」で唄っています。聞く側は「人」であって性別が隠されていることを知るよしもありません。

 秋の男、冬の女の詩に隠された意味

聴くだけでは出てきません。そして「マン」や「ウーマン」、そしてヒューマンでは、性別不詳の「ひと」の味わいが出てきません。


女性が語る「あのひと」

男性が語る「あのひと」

語る場における状況で「ひと」の性別は変化します。そして夫や妻にもなることは誰もが知るところでしょう。

ということで今週はこの「男女川」を覚えたいと思います。


語る言葉の世界

2019年02月19日 | ことば

きしかた・こしかた「来し方」という言葉があります。源氏物語の時代から使用している言葉で、意味するところは過ぎ去った過去、通り過ぎてきた場所・方角です。
 そして、きしかたゆくさき・こしかたゆくさき「来し方行く先」、きしかたゆくすえ・こしかたゆくすえ「来し方行く末」と過去を振り返り、今いる現在から未来へと、場、時間、空間を感情表現しています。

この中から次の言葉表現に思考視点を置いてみたいと思います。
きしかた‐ゆくすえ〔‐ゆくすゑ〕【来し方行く末】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)では、
1 過去と未来。来し方行く先。「来し方行く末を思う」 
2 過ぎてきた方向・場所と、これから行く方向・場所。来し方行く先。
と解説されています。

 いろいろなこと、これまでのこと、これからのことを思う表現です。このように表現する主体は当然言説する私です。わが身を顧みて、これからを思う。このように内に生起する能動的な能力はその表現の意味を理解できるのですから万人に備わっていることです。
 未来的表現である「これからのこと(ゆくすえ)」ですが、心境のみならず経済予測、政治予測も含め現在時点における来し方が無ければ行く末は生起されないと思うのです。哲学者マルクス・ガブリエルの著書を読んでいたところ、ドイツ観念論に関係する箇所に、
「世界の内に在る何か規定されたものを指示する我々概念能力は、事実の後でのみ成立する。」
という言葉がありました。著書全体は翻訳本ですが私の能力では理解不能な本ですが、この文章になぜかハッとしました。

 私が今まで書いたようなことをガブリエルが書いるのではなく、関係性はないのですが、「来し方行く末」を頭の隅に置いていると、異なる読書本の文中に私の心に響く言葉に出遭うのです。
 「事実の後のみに」の「事実」とは何か。反省起点で現れ去り行き、刻み行くその瞬間に現れる只今のリアルなのか。

  額田王の万葉歌に「冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど ・・・・」(巻1-16)があります。

  万葉人がここで歌う「春さり来れば」という言葉、現代人が描くのは「夏が来ることか?」と思いきや「春になると」という現代語訳になるわけで、この言葉の前の「冬ごもり」が、表現しようという春の様相につながっているわけです。

 「冬ごもり」とは、「寒い冬の間、動植物が活動をひかえこと」で、寒いから閉じこもろうという意味ではなく、この言葉を使う時は、春の待ち遠しい芽のふくらみや冬眠中の動物が眠りの中で春を夢見る活動前夜を想像するような息吹を実感して使うわけで、まさに「春が来たならば・・・」と、自然界の歓喜が現れてくるわけです。

 最近は短歌や俳句がよく取り上げられています。俳句の夏井いつき先生の解説は個性的で非常にわかりやすく、俳句をしたくなる人も多いのではないかと思います。表現される言葉の奥行、深さ・・・に気づかされます。

 今回は、語る言葉の世界に視点を置いてとりとめのない話をしています。人は自ら作り出す物語の中に生きているわけで、物語は言葉で綴られます。時々どのような言葉を使い作り出しているのか考えてみるのもよかろうと思うのですが。

 


著名人の醜態からの問いかけ

2019年02月18日 | 思考探究

安倍総理も「人間の尊厳」という言葉を使ったようです。オリンピック水泳競技女子選手の病気に対する大臣発言について「大臣はそのような人ではない」という意味で使用したようです。
 人間の尊厳を傷つける人、そういう人は人格者ではないと一般的には考えます。その行いから人権擁護者、愛溢れる人格者のように見える人々、実際あったわけではないのですが一部を見て、その人の全体をイメージしそのように結論づけます。
 最近の報道記事に、著名なフォトジャーナリスト(75歳)から性暴力やパラハラを受けた計5人の女性被害者の証言を受け、写真誌を発行する出版社の代表取締役でもあった同人を同社が解任するという内容のものがありました。

 彼は、チェルノブイリ原発問題やパレスチナ難民問題の報道で有名な方ですが、女性たちの証言に対して「指摘の経過をたどって性交渉に至ったとの記憶はない」「これまで性交渉をした女性とは合意があった」と文章で回答しているとのこと、こういう言葉から彼の下半身は自由気ままな愛欲を謳歌したようです。

goo辞典によると、「謳歌」とは、
1 声を合わせて歌うこと。また、その歌。
「或は之を諷詠し、或は之を―し」〈柳河春三編・万国新話〉
2 声をそろえて褒めたたえること。
「世は名門を―する、世は富豪を―する」〈漱石・野分〉
3 恵まれた幸せを、みんなで大いに楽しみ喜び合うこと。
「青春を謳歌する」「平和を謳歌する」

という意味で、彼の性生活は、それぞれに「大いに楽しみ喜び合う事」であったことが彼の証言からも推測されます。

 でも実際は、彼が思っていたのとは異なり相手をした女性は謳歌どころではなく屈辱的な辱めであったのでした。お互いの愛欲のなせる性(さが)ではなく一方的な強制力による片欲であったようです。当事者間で行われた行為の状況を過去に戻り見ることはできませんし、秘め事ですからそもそも不可能なことです。

 第三者の立場でこのような報道に触れ、一筆書くに至る私は間違いなく、好き者です。

 他人事なので好きなように書きますが、事実をありのままに報道する写真家が人格者に見える。巨大な力によって弱者が押しつぶされていく姿をこのままにしておけない、万人に知らせる義務がある、人としての責任を感じる人のように見える。そういう人を人格者と呼ばずして何と呼べるのでしょうか。
 何か尊い優れた功績があった人。ユング派ならば、人なるが故の影というかもしれません。
 人類の世界的な繁殖をみれば性行為は決して影ではありません。原生動物でも何でもかんでも死亡の分裂複製が無ければ種を継続できないような仕組みになっている以上、人間の感覚の中に愛欲の感情、衝動と言葉で表現するような事の成り行きが組み込まれている。

 性癖というものは、癖の中には強制を好み、従属を好む人もおり実に多様です。

 そのような出来事が実際に有ったか否か、先に書いたように私にもわかりませんが、紙上をにぎわすこれは何だ、と思ってしまいます。
 己の生きざまを考えさせてくれる一つの指標、現象は常に私に期待しているようです。
 私の過去には無かったこと、起こさなかったこと、と公言できるだけでも幸いです。名誉も地位もない私には残り少ない人生においてこれまでと同じように起きることはないように思う。しかし、灰になるまで・・・という格言もあることから自覚意識が衰えぬうちは自己を失わないようにしたいものです。

「さらす」という言葉があります。「晒す」「曝す」という漢字で、

〇外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。
〇布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。
〇人目にさらす。

という意味があるように、今回のこのあり様は取りようによっては精神の浄化への期待なのかもしれません。そう理解するのは75歳の彼ですが。

 彼が代表取締役を務めていた出版社は写真誌の売る上げが不振であることから休刊し、3月20日に性暴力の検証記事を掲載する最終号を発売する予定とのこと。代表を務めていたという自著出版社の検証とはどういうものなのか。最近はやりの第三者組織ではないことは確かです。


共通認識できる同一計測器を持つことができるのだろうか(同一理性)

2019年02月17日 | 思考探究

 「新実在論」を語るドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさん日本語訳の書籍も出版され「哲学書がこれほど売れることはなかったのではないか」という書店の方の話が関係番組の冒頭で放送されていました。

ある女性は「英語はよくわかりませんが家に飾りたく買いました」と言いながら翻訳本ではなく原本を購入する姿もありました。ある男性は「多様性と言われる世の中で、苦しさを覚える人もあり、(この本が)何か新しいものを教えてくれるのではないか」と話されていました。

 「多様性」という言葉が際立つとき、総括統合された、一律的な全体は成立するのだろうかと単純に考えればそれは不可能であると考えたくなります。

 個々の倫理観、道徳観もまた「観」と漢字がつくところからもわかるように脳裏に浮かぶ、浮遊する思考し生れ出るような産物でそこに個性が現れるのは当然のことに思います。

 個々それぞれに意味の場があり、思考はその意味の場で働き、個の存在場所の意味の場はさらに意味の場を加え、一歩外に歩み出れば世間の意味の場が現れてきます。

よく「平和な日本を壊すのか」という言葉を聴きますが、ここに帰れば貧困に悩み、借金に悩み、病苦もあれば・・・・心の安寧はそれぞれの場においてなければ全体の平和は見えません。そこには大きな矛盾が隠され、それでも矛盾のままが全体を問題なしの平衡にあるように思わせてしまいます。

 人々が同一の倫理観、道徳観を持ち生きるならば、良いのではないか、そうなれば平和で貧困もない、誰もが幸せに生きられるのではないかと希望したくなります。

 しかし、勘違いもあれば、違和感を覚えることもあり、何から何まで多様性に翻弄されてしまいます。最低限法治国家ですから法順守でと他人か決めた条文条項を徹底して守り抜いたならばよかろうと思うのですが、思想的な教条主義ならば異端者は除名でもすればよいのですが、犯罪がない日は無く、セレブ生活をする人から路上に生きる人などがいたり、子どもを虐待死させる親もいれば子を支える親もいます。

 勘違い、違和感は己の内の尺による選別衝動かと思うのですが、争い無く折り合いの中で安寧を願うのですが、色メガネとも思われる識別はなぜに在るのでしょうか。

 理性的でありたい、と思ったところで個々の尺度、多様の色彩(複雑な色合い)のレンズによって観るしかない私自身も能動的な根源からにじみ出るものがわかりません。

 「理」とは「ことわり」で、「そういうこと」のそういう「ところ」がつかめません。その点ドイツの「人間の尊厳」という憲法の前文に記載されている言葉、具体的にこういうことだと意味を語れませんが「私を含めて傷つけないで!」的な宣言を感じます。この言葉は、「貧しきものに愛の手を!」「すべての人が平等でありますように!」のような言葉と何かが違うのです。

 言葉で何事かをつかもうとしまう。人間の尊厳ですから同一生命体の他の動植物の尊厳を考えてしまいます。昨年日本政府の国際捕鯨委員会からの脱退決定が報道されました。 「同委員会に於ける捕鯨の考え方について日本側と全くそぐわないことからこれ以上、この団体に所属していてもしようがないという結論に達した」からのようで個人的には過去にクジラ肉を食したことはありますが、無ければないで食べたい思いは出てきません。

 「クジラ肉を食する文化を守れ!」よりも、世界は「鯨の尊厳」というかクジラの「命」の尊厳を最優先すべき流れになっているようです。そう言いながらも世界中では牛や豚や鳥などの動物が食され、そこに「命」の尊厳は現れません。肉によっては宗教による選別はありますが、それは別の意味の場における事の現れです。このような事柄は別角度から考察すると同一の重さのある話ではなく、そもそも同一計測器にのせる話ではないのです。

 全体は部分の集合体であり、多様性はの言葉は部分を表していること。同一の計測器といいましたが「平衡」のとれる場がそもそも存在するか、と疑問に思ってしまいます、均一衡量を作れることができるか、と個々に異なる現れに思ってしまいます。

 文化放送の毎朝放送されている「武田鉄矢の三枚おろし」、今週は「勘違いさせる力」と題してふろむだ著『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』(ダイヤモンド社)をネタ本として話されていました。

 その書籍や番組を紹介しようということではなく、「勘違い」という言葉に注目していたことから共時性を感じたわけです。一部を見て正しいと思う。すると全体も正しいと思うことはよくあります。

 電車などで老人に席を譲る人、思わず「道徳的な人だ!」と感動し私生活もきっときちんととしているのだろうと定かでないのに思ってしまいます。部分を見て全体を見た錯覚に陥る。全体そのものは無く確証性のないことです。

 細胞のごとくに消滅と生成のくり返しのようで、思考も否定と肯定のバトルのようです。平衡で止まるものではなく流動の営みの中で、ひたすら人間とは「そういうこと」と錯覚する性(さが)体のように見えます。

 


「冬隣」から思うこと

2019年02月12日 | 思考探究

 「ちあきなおみ」という名を聞いて昭和世代なら「あの人のこと」と分かる人が多いかと思いますが、平成生まれの人になると知る人も少ないかと思います。 

 歌手を引退されてからは「ちあきさん」がメディアに登場することはありませんが、まだ活躍されていたころのお顔と歌唱だけは今も見聞きすることがあります。
 最近YouTubeで歌謡曲を聴いていたところ彼女の唄う『冬隣(ふゆとなり)』を見ることができました。冬隣とは季語で、言葉の意味するところは、
 「立冬を目前にして、冬がすぐそこまで来ていることを表す。四季それぞれに、「隣」の一字をつけて季題とした。「冬隣」は寒く厳しい季節に向って心構える感じがある」

とサイト検索すると解説されていました。曲は、作詞吉田旺 作曲杉本眞人で同曲を歌っているのは「ちあきさん」の他に作曲家の「すぎもとまさし」も歌っています。
 歌詞の内容ですが、愛した男性があの世に行き残された女性が心の内を語るというもので、「ちあきさん」ご本人の境遇、心境を語っているようです。

 境遇とは、愛しうる人との別れの運命

 心境とは、残されものが味わう悲哀

と思うわけで心境だけでいいのでしょうが、実際ご本人が夫に先立たれ、それが引退の引き金となったこと、そのような境遇に見舞われる彼女におとずれた無情の運命を詩(うた)に感じたからです。
 歌謡曲と限定するわけではありませんが、詞を語る主人公がそこに登場し、その語り人の性別がある場合があります。この冬隣は女性の語り歌で普通は女性が歌い手になります。

 しかし、実際には男女の別なく吉幾三さんなどは女性の心情を歌う曲が多くあり、聞いていても違和感を覚えません。今回取り上げた『冬隣』は作曲家の杉本眞人さんも唄っています。

 違和感の有無、これも場の持つ空気感、空間の雰囲気で、それは個人のみの特殊な場合もあれば、小集団、多集団内での一般的に共有できるものです。

 一般的な対話の中で男性のオネエ言葉に出遭うとびっくりしますが、唄の場合は「あたし」という言葉を男性が使っても驚くことはありません。

 実に不思議な話で、特に『冬隣』という曲は愛する人(男性)の死を題材にし、そこで語(女性)られる想いの吐露は性別の分節(男女別)を超えるのでしょうか。

 どうでもよい個人的に不思議さを感じるわけで、不思議とは、「なにゆえ」という問いを投げかけられていると思うわけですが、思考に思考を重ねたところでこれといった答えは出てきません。

 命にかかわるような危機迫る大事でもなく、「そういうこと」と簡単に片付けるのも得策ですが思考好きの私は何事かを語りたくなるわけです。

 歌うことに関してもう一つ、歌を唄ているときに身振り手振りをしながら唄う方がおられます。私もその一人です。一五木ひろしさんはすぐに拳(こぶし)を想いだします。力を込めて言葉の強調、リズムをとっているように思えます。
女性ならば舞の姿を見ることもできます。

 アリストテレスは「理性がわれわれの手をして手たらしめたのであって、その逆ではない」と言い西田幾多郎先生は「しかし私はさらに一歩を進めて、理性をして理性たらしめたものもまた手であるといいたい(形成即理、理即形成)」(池田喜昭著『西田幾多郎の実在論』(赤石書店p63)と言っているようです。

 私は、この場合の「理性」は客観的に見た「善悪」の分節的なものではなく生命の奏でる理のように理解しています。

昔の歌手の方で直立不動の姿勢で歌を唄う人もおられましたが、それもその人の表現なんでしょう。

鉄拳を高々と掲げ大衆を扇動していた人、手かざす人・・・それぞれにまた言葉とともに世界を作ります。