思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

万葉集と千曲川

2005年01月31日 | 古代精神史
 万葉集の中に「信濃なる知具麻の川の・・・」で始まる東人の歌がある。この中に歌われている「川」については、信濃の国(長野県)の佐久平を流れ長野市の川中島付近で犀川に合流するまでの千曲川とされていたが、信濃の国の国府の変遷にともない松本平の筑摩地籍の存在から田川、薄川(すすきがわ)の可能性も否定できないのが現況である。
 そこで、信濃における古代史、特に東御市における渡来人、大伴氏などについて小論したい。

 昨今の市町村合併により東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。
 長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に資料集に写真付で解説されていたのを記憶している人が多いと思う。

 史料写真は、校倉造(あぜくらづくり)で有名な奈良の正倉院の宝物保存されている、「信濃国」の刻印が押され「小県郡海野郷戸主爪工部君調」と墨字で書かれた麻の布紐である。

 「爪工」は「つまたくみ」とか「はたくみ」とか読むらしいが、万葉仮名でないので正確には分からない。いつごろの物かというと地名の「郡」の部分かある程度の目安になる。 「国、郡、郷、里」の郡郷制に改められたのは霊亀元年(715)でそれ以降であることが分かる。「郡」制度の前の「郡」に当たる呼称は「評」で、これらの変更の定着は天平12年(740)ころだといわれている。

 「爪工」については、「爪」とは高い人の顔を直接見えないようにするための長い柄の団扇・翳(さしば・きぬがさ)」で薄い布や鳥の羽で作られたものであるという。

 官職要解には「造蓋(ぞうがい)を作る者」とあるから蓋(ふた)状のビーチパラソルに近いものかもしれない。「工」であるからそれを作る人たちが「爪工部」として集団で住んでいた。
 
 日本後記の延暦18年(799)12月5日の条に小県郡に飛鳥時代(593~641)朝鮮半島から渡来した人たちの子孫(高麗家継等)が日本の御井という姓を朝廷から賜ったことが書かれている。

 大和朝廷の大和(日本)統一のための東北部進出は、鉄と馬の力(武力)であるといわれている。この技術は日本固有のものでなく大陸文化である。須恵器土器ひとつを見ても薄手の器の技術は大陸文化なのであり、先の「爪工」の技術も同様である。

 大伴氏(当初は大伴連)は久米部(来目部)・丸子部(大伴連の一族)とともに大和朝廷の軍事部族であり多くの大陸系技術を従いながら東北地方に向かった。軍の進出は補給が必要で各地区に拠点を置き古代の牧場の遺跡がある所がその場所である。

 このことから大伴氏の関係者が各地区に住人として一部が残るのは当然で、日本霊異記に宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)の里に大伴連勝という人が住んでいたことが書かれている。
 
 万葉集には大伴一族に関係ある作者が多い。
 このことについて語る人が少ないが、藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」残したと国文学者の西郷信綱先生は語っている。

 さらに先生は、「万葉集」と「懐風藻」はほぼ同期のものであるが、「万葉集」には大伴一族に関係ある作者が多く「懐風藻」には藤原氏の作者が多い。このことについて語る人が少ないが藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」を残したと述べている。

 大伴家持は万葉集の撰者(家持が独撰したのではなく数回の撰の内の1回が有力な説だが、編纂にたいし最も中心的な役割を果たしたのは事実)であり、また役人でもある。
 延暦元年(782)には、按察使(あぜみち)として多賀柵(城)へ赴任している。
 この時家持は65歳の高齢で赴任していないとの説もあるが、続日本紀に京を出て陸奥按察使となったとあるので史実と思われる。

 按察使は地方の行政状態を視察確認し監督する役職であるとともに鎮守将軍として東北の対蝦夷の軍事力調査官でもあった。
 多賀柵のある陸奥の鎮守府は多賀城にあり、この地に行くには当然東山道を通り今の仙台に向かった。
 この時期は大伴氏と藤原氏との政治的闘争が激化しているころで、3年後の延暦4年(785)には政争に敗れ死去し、その屍は路上に放置されたという。

 それから10年、類聚国史によると延暦14年(795)4月に「小県郡の人久米舎人望足が信濃国介(軍事担当の役人)を弓で狙うという事件があった。」旨が記載されている。この事件は当初藤原氏の者が調査しても犯人が判らずその後大伴宿禰是成なる人物が派遣され探し出したことになっている。

 このころの大伴氏は、藤原氏に破れ政治的力はほとんどない時期であり、その一族もその影響を受けていたと推測される。
 是成は苦渋の選択から望足を説得し一族を粛清から救ったのではないだろうか。

 国府のあった小県に藤原氏系のものが赴任し大伴系を迫害しはじめ、これに対する犯行であった。その後国府は筑摩郡に移される。小県郡が危険な地域だからである。

 これらの流れを考えると大伴氏の万葉集の「知具麻」の万葉歌は小県郡の川で「千曲川」が相当と思われるのである。

こころの時代

2005年01月31日 | 宗教
 日常生活の中で「原始仏教」の話に耳を傾けることが多い。したがって何気なくテレビをつけたときに「仏教関係」の番組となると聞き入ることになる。

 番組表を見たわけでないが、目が覚めスイッチを入れると今朝のNHK教育の「こころの時代」は、生命科学者の柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」という著書を中心にした話であった。

 自己の運命での般若心経と出会い、原始仏教における仏陀の言葉、本当に仏陀が言いたかったことは何であったのだろうかとの究明。
 病気との闘いや、日常生活の中で出会う人から受ける言葉とそれに対する自己の反応と深められる智慧。
と、ひきつけられる内容であった。

 知識のみでは机上の空論に終始してしまい、知行合一でないと欠陥人間となる。また、人生における智慧は、享楽と苦行の間の中道への流れ、聖道のみならずの浄土への道。
 柳澤さんは、病苦との戦いの中から智慧を積まれた。
 「人間本来罪深い存在」であり、何故に罪深いのか、そこに執着があるからで執着を滅することが一つの悟りである。

 行き交う人が車椅子に乗った自分(柳澤さん)を見て「大変ですね。」という言葉をかけられたときに「哀れみの目で観られている」という感情を自分自身の心に留めたときの「いやな気持ち」に、何故そう感じるのか。
 柳澤さんは、その時に「自我をすてる」という仏陀のいった言葉の意味を智慧として得られた。

 言葉で知っていても知識に留まっている限り無駄ではないが、片手落ちである。
 宇宙は一枚の布、すべて織り成す糸で繋がっている。生命科学者であるから自己の経験と知識との照合は、一つの証明でもあるので柳澤さんの言葉には重みがある。

 原始仏教では梵我一如、魂、輪廻転生も無記である。

 司会者が「神」の存在に対する質問をされた時、柳澤さんは最終的には「もやもや」の存在と答えられていて、無記に近い表現をされていたように思う。

 ユングは、「神は居ようが居まいが存在する。」といった。存在するならば存在すると表現すべきところをそのようにいっている。形而上学的な存在は証明することはできない無記が最大のよりどころ表現で、「絶対存在」の主張は、執着から生ずるものである。

 スリランカは今回の地震による津波被害で相当の犠牲者がでた。災害被害の報道は、いまだに行われているが、その中で気になるのは児童の売春目的の誘拐である。
 この国は南伝仏教国で原始仏教に近いとされている。
 この国の宗教団体(原始仏教であるが輪廻転生を説く)は日本にもあり人気を集めているようである。
 南伝仏教は僧侶の権威が強く、托鉢(応量器を使う)の際は、決して布施者に対する礼はしない。
 権威も執着である。慈悲は対他的実践、戒律は対自的なもので戒律に固執しすぎると何かが崩れるのである。足下を照らすことを忘れては成らない。

自由の勝利と愛の神

2005年01月22日 | 宗教
 「自由の勝利は神の意思」ブッシュ米大統領は二期目の演説でこのように述べた。英語の原文は不明だが、ニュース等で報じられているので、内容は正確であろう。
 ここにいう神は、愛の宗教と呼ばれるキリスト教の神である。

 仏教は、慈悲の宗教である。原始仏教の思想Ⅰ中村元選集第15巻春秋社の6章に「慈悲」について書かれているが、P698に
 「慈悲とは一言にしていうならば、愛の純粋化されたものである。人間におけるそれのもっとも顕著な例は、父母が子に対していだく愛情のうちに認められる。すべて原始仏教において、母が己が身命を忘れて子を愛するのと同じ心情を持って、万人を、いな、一切の生きとし生けるものどもを愛せよ、ということを強調している。」
と書かれている。

 仏教では愛は苦の根源であるとされ否定される。原始仏典ダンマバダ209から211に「道に違うことになじみ、道に順ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。愛する人と会うな。愛しない人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。」と書かれている。

 自己求道の出家者にとっては、家族も含めた人間関係の断絶は必要不可欠な行為で、家族愛も苦の根源となる。したがって、ダンマバダの記述も到底現代人には受け取りがたい表現となっているが、深く読み入ると愛という言葉の持つ二重性が分かってくる。

 そのひとつは、盲目的な愛である。盲目的な愛は愛する相手の裏切り、関係の悪化から、苦と恨みの念を抱かすことがある。
 二つ目の愛は、このような利己的な愛とは異なり母性的な慈しみ深き愛であり、献身的な奉仕活動などがそれに入る。

 サンスクリット語のマイトリー「慈」は「一切の生きとし生けるものの親友」をいい、カルナ「悲」は、「同情、やさしさ、あわれみ」などをいう。

 愛の反対は無関心であるなどという西洋の女性奉仕活動者の弁がある。献身的な立場での奉仕に対する者のしない者に対することをいうのであるが、何か悲しいものを感ずる。
 米大統領の愛の宗教も西洋的な奉仕活動をする者の愛の宗教も、発想の根底にある精神文化は同じ愛の宗教で育てられていることを痛感する。

 愛の宗教が慈悲の宗教に生まれ変わる時にきているが、「圧政の終焉」を訴える10万人のデモ隊にも慈悲の心は読み取れない。非道は圧政のイメージしかないのである。

召集令状送達

2005年01月15日 | つれづれ記
 新聞の文化面の「消費の時代」のコラムを読む。哲学の構想図「仕事」をめぐっての52段である。執筆者は東京で農業生活を傍らで行う哲学者内山節氏である。

 筆者はその中で、「日本の人々は戦後までは、誰もが自分の世界だと言えるような仕事の世界を作ってきたが、戦後の高度経済成長は、企業は次第に市場経済の中で利益を追求するだけの組織になり、人間も仕事も使い捨てられ、消費される時代になった。」と述べ、冒頭で小中学生の将来の仕事アンケートの結果を載せ、サラリーマンの時代から職人の時代への戸惑いながらも微動する姿が見えると結論付けている。

 確かにわが娘を見ても手に職を希望し、それなりの進路を選択している。だがしかし、その一方で、まったく働く気のない若者が多くなってきているのも事実である。
 アルバイターならば、まだ労働と対価の社会生活を求める気概が見られるが、働かずして人の財産を横取りし、貪瞋痴の世界のみに生きる人々も世代を問わず増加しているのも事実である。

 犯罪に対しては、取り締まり機関が今の2倍の組織になると100パーセント知覚まで減少となるのは事実だが、「human rights]を持ち出すことになり実現不可能である。
 近代国家建設には必要不可欠なこの問題は、共産主義国家で最悪の侵害がなされながら、その国家の崩壊した事実がありながらも、自由社会では、近代国家とは程遠い社会体制を形づくってしまった。

 近々訪れるであろう中国経済の破綻と世界的な経済恐慌は、この問題を最大限に人々の前に示す結果になる。
 悲しいかな回避可能性を検証すれど、なすべき準備はまったくなされていないのが現実である。
 中国経済の破綻の引き金は、北朝鮮体制の崩壊が引き金となるため中国政府は、流入する北朝鮮人民の阻止を最大限計らなければならない。本来なら北朝鮮の現体制が安定するのが、人々の、いや大国の希望であるが貪瞋痴の世界、自由社会でさえそれを滅することなど不可能時代である。

 しからば、幸せを求めどのようにすべきか、貪瞋痴を滅し山間に隠遁し農業生活を中心とした自活生活に入るがよろしいなどと思ってはいけない。
 転出届は、赤紙召集令状送達の因となる。

隠す上人、せぬは仏

2005年01月14日 | 宗教
 鎌倉時代の僧と女犯の常識化様子を表した書物に「沙石集」があることを知った。暁教育図書日本の歴史11済世の名僧を読んでいると「隠す上人、せぬは仏」という短編の文章があった。

 「末代には、妻持たぬ上人、年を遂て希にこそ聞きし。後白河法皇は、『隠すは上人、せぬは仏』と仰せられるとかや。今の世には、隠す上人、猶少なく、せぬ仏いよいよ希なりけり」と、僧侶にとって一番厳しい戒律の中に女犯の罪があるが、鎌倉期になるとそれは乱れ、上人までが多数の女性と関係を結ぶ状況が見られていたようである。
 親鸞の妻については一人説、二人説、三人説があるくらいで、愛欲の広海に沈没した自己の懺悔となるのである。

 自分に照らし合わせると愛欲は無いわけではないが、今現在このような文章を書いているくらいで暇である。脳裏には愛欲は特になし、本日は休暇日で早朝の寒空の中の一時間余りのランニング後は、自室に閉じこもり音楽を聴いたり、本なんぞを読んでいる。
 夏ならば山登りに出かけていることだろう。日常生活で女性に遭わないことはなく、時に隣の芝生がよろしいかなと聖書に言うところの思考による姦淫の罪者になることもあるが、行動にでることはない。

 不倫をしたという御仁を見る。どう比べても小生の方が、と思うのも罪であろうが、確かにいえるのは、小生よりは愛欲が強く、いてもたっても居られないのであろう。

 性癖は上人すら止めることのできない奥深き煩悩といえる。ましてや性犯罪を敢行する犯罪者は、当然に再犯を繰り返し状況によっては殺害へと発展する。

 法益の均衡は、公共の福祉と個人の人権との対比で決定されるが、守られるべきは個人の身体、生命の方が、個人のプライバシーより優先されるべきではないだろうか。

NHKのチーフディレクターの記者会見

2005年01月14日 | つれづれ記
 NHKのチーフディレクターの記者会見が行われた。
 4年前の従軍尉安婦問題の放送にあたり政治介入があったとのコメントを涙ながらに行うものであった。
 NHK会長の引退問題が話題になる中の助勢ともとられる内容である。悲しいかな人の無明の最たるものを露呈するものである。

 人の罪悪深長・煩悩熾盛を顕在化の最たるものである。涙ながらのあなたも同類、貴殿の深層には罪悪深長・煩悩熾盛が渦巻いているのです。
 戦争とは問う間でもなく悲惨であり、倫理・道徳的概念などはありえないのです。鉛弾は、国際法に違反する。捕虜の虐待も然りといえども実際必ず発生するのである。

 過去に反省すれども実際に人間が究極の煩悩の渦巻く鼓動にさらされた時、善なる人の創り出した概念は何の砦にはならないのである。

 貴殿の自戒は、結果的には聖なる君の求める安寧には辿りつかず、単に過去の悲惨の送り返しの再燃を助長するものでしかないのです(でます調が混在しますが話の流れでそうならざるを得ません)。

 目を瞑れとはいいませんが、家族思いのその場では回避せざるをえなっかったならば、それは将来まで持ち続けるべきものでした。
 この因縁は君にとって最大の悟りとなるであろう.人を恥部を露呈させる自分の正義はありません。

 放送倫理に対する挑戦とばかりに言う民放の白髪の士のコメントがあった。放送倫理、君たちが日々流す中に倫理はあるのだろうかと問いたくなる。泰然たる姿勢で正義をコメントをしていると思っているならば、NHK会長よりも罪人(つみびと)である。

同一システム内の縁起説

2005年01月09日 | 宗教
 昨年の暮れ、母親が我が子2名を殺す事件が発生した。人里はなれた山中で石を使い頭部を殴打し殺害した事件である。
 子を持つ親としては、信じられないことであるが、幼児虐待事件は、報道されなかった潜在的な事件が、マスコミの発達により顕在化しただけだという人もあるが、小生が知る限り多く発生しており、しかも身近で認知されるようになってきている。

 津波、地震台風そして戦争、テロと自然、人為による人の死亡、殺害は、今に始まったことではないが、平和な日常生活において何ゆえにこのような悲惨な出来事が起きるのであろうか。

 そもそも人間は自然の一部である。動植物も岩石も元は同じで、地球の生成と共に今日に至っている。
 したがって自然の起す悲劇も人間が起す悲劇もまったく区別なき同類の悲劇である。

 自然災害は、地殻の変動、気象変化など人為的(地球温暖化、オゾン破壊などの人為的作用は別として)なものではない。悲劇と判断するのは、人間にかかわる生命の危機、財産損害で、人間側からの判断である。

 人類が引き起こす諸々の悲劇は、個々人特有の火種による結果ではあるが、故意(人類の意思作用)なき自然災害と結果的には同じであり、総体的には区別なき人類一体の結果である。

 イラクにおけるイラク人による自爆テロで同国人が殺害されることもアメリカ軍(反対の国民が居ようが賛成の国民が居ようが総体的にはアメリカ国民総意)によるイラク侵攻で多数のイラク国人を殺害した行為も人類総体で惹起している出来事である。
 当然その人類総体には、関係のない小生も善良な平和主義者も生まれたばかりの子も含まれる。

 人類が進化する過程で生老病死を知覚し苦の窮地に陥るのは、意識が創り出す現象に過ぎず、そうなる縁起で現在の果がある。因果(大もと)は無から有に成ったと自覚したときからである。
 有の時から人間は、罪悪深重なのであり、自然の織り成す果であり、人間側からの解釈である。
 人類は自然の一部であり同じシステム内で共存している。したがって同一システム内では、「在るべきものは在り、起こるべきものは起こり、これがあればこれになり・・・」でこの世は無矛盾の世界なのである。

 個々が罪悪深重であればそれなりの悲劇が無矛盾なく発生する。「どうにか成らないことはどうにも成らない。」私という一人の人間が生きる時に幸せと感ずるのは瞬間のみである。
 思い出という過去、これから来るかもしれない未来に意識の志向性を持つと想像という産物が過去を歪曲し、未来を歪曲する。

 縁起を自覚した瞬間に熱心に生きるならばそれは幸いといえるかもしれない。

新シルクロード

2005年01月03日 | つれづれ記
 NHKスペシャル「新シルクロード」が今年から放送される。1月1日は、「25年目のシルクロード再開」ということで25年前に訪れた地域の現在の様子が映し出された。
 急速な経済発展を遂げる中国の様子を窺うことができ、また民族の威厳の回復も垣間見ることができた。
 農村戸籍、都市戸籍とカースト制度にも似た差別的な行政のあり方は、発展途上の国にあっては仕方が無いことだが、悲しみも多く、また大いなる不安も内在している。

 そうはいっても中国大陸の持つ郷愁は何故か。遺伝子の中から湧き出す懐かしさであろうか。
2日目の「楼蘭四千年の眠り」は、ヨーロッパ系の人々の存在を見ることができ人種というもののその後の流れは、日本大陸にも及んでいるのだろうと思う。
 宗教面を観ると埋葬の仕方などから何かしらの信仰が想像され、埋葬品などを見ると明らかにあの世、日本的には黄泉の国を信じ魂の不変を信じていたことは明らかである。

 今回のシルクロードのバックミュージックは前回の喜多郎さんからヨーヨー・マとシルクロードアンサンブルが担当する。
 電子音楽から弦楽器、管楽器などシルクロードにふさわしい歴史的な楽器の交流と変遷を彷彿させる。
 その奏でる音の広がりは、砂漠のイメージから大いなる民族的なイメージ、人類皆兄弟的な感覚を持たせてくれる。

 NHK料金を支払っているものとして、今回の問題については怒りはあるが、これまでの番組の内容から判断しても倫理観のない放送を流し続ける民放のものに比ではない。

 教育テレビに「ことばとあそぼ」という番組がある。この番組のうたのお姉さんを選んだ番組製作者に感服した。表現しがたい感動の歌声で、民放ではこのような選任はできないと思う。

子から学ぶ

2005年01月01日 | つれづれ記
 昨年を顧みると半世紀を経て新しき精神的な高揚のきっかけを得た年であったような気がする。ことしは更に深みをつけようと思う。

 昨年末、上の子は自分の将来を自らの考えに基づき描き出し、それに向けた大学を決め共通一時の競争試験よりも普段の高校での学習努力の評価を選び推薦を得る道を選んだ。
 その時に推薦の道を選んだことについて話が発展し、本人が小生に人の知能、学力に対する考えを熱く語った。その内容とは、

 「学年の成績が上位にいる人の中には授業もあまり聞かずまた予備校にも行っていない者がいる。それに比べ自分は授業についていけなければいけないので授業に集中し、夜遅くまで予習復習し、さらに学習塾にも行かなければ成績を上位に保つことができなかった。」
 「人はそれぞれ知力に差がある。勉強しなさいと言われて人と同じことをやってもできない人はできない。努力してもできない人はできない。記憶能力には差があり、記憶術を使ったとしてもできない者はできない。」

というものである。
 小生もそのとおりであると思う。上の子のように人に負けることが嫌いで、知らないことがすごくマイナスに感ずる者はそれなりにあらゆる手段で努力する。
 記憶力がよく集中力があり雑念がない者、物事にこだわりがない者は通常頭がよい。
自分の意識を今という瞬間においての思考の方向が掴めている状態と規定(私論)した時に、その思考の切り替えし(自分の意志による切り替えし)が常に意識の焦点の定まった状態で行える人間は通常頭がよいと思う。

 しかし、そこまでに至るまでには前提がある。
 勉強するという立場をよく理解し、それ以外の雑念、興味への執着がないこと。
 あったとしても思考の切り替えしがよいこと。そして少しばかりの倫理観が堅持されていること。
 で、これはあくまでも社会人となるまでの学生という立場までである。
 このような因縁があると学生のもつ目標はある程度の達成を得られる(結果)と思う。
 これからの人生で、家族、その他の人々に小生は何を転生させていくのであろうか。

 本年も一夜賢者の精神で、更なる変革を求め生きたいものと新年を迎え決意するしだいである。