「NHK心の時代・宗教」今日は、「ただひたぶるに生きし君-鶴見和子との日々-」と言う題で2006年に88歳で死去された社会学者鶴見和子さんを45日間看病し看取った妹内山章子さんのお話でした。
人間を見つめる社会学者は死に行くものの記録を妹の内山さんに託した。
「死のフィールドワーク」を鶴見さんご本人が書きたかったが、死に至るような病に罹り、本人の死に至る過程を記録することを内山さんに求めたのです。
鶴見さんご本人の番組も再放送で今年放送されました。
今回は看取った側の内山さんのお話で、姉の歴史でもあるものの、鶴見家という名家に育った、その家庭環境も含め、考えさせられる大切な内容が盛り込まれていたように思います。
内山さんの兄は、あの有名な思想家の鶴見俊輔先生で、父親は政治家で作家でもあった鶴見祐輔、母方の祖父は東京市長後藤新平という家柄の家庭で育ったのですが、内山さんは太平洋戦争をはさみその人生は華々しい兄、姉の学問生活とは異なる地味な家庭人としての主婦でした。
兄や姉に代わり両親の介護を行い最後を看取る人生。そのことを知ると兄姉の華々しい学問の世界での思想は、その妹内山章子さんの働きの中の解放された自由の思考から生成されているようにみえました。
西田幾多郎先生のあの哲学思想が生まれたその背後にある、苦難に満ちた人生とは、かけ離れていて勝手ながら自由奔放な思索の世界を感じ、しかも人生でも難しい柵(しがらみ)のない中からその思想哲学は生み出されていると感じました。
番組の趣旨とは関係のない感想となってしまいますが、人の生み出す思想・哲学はその人個人のものであり、それに接し、習得しようとするものはそこをよく理解し、「自分のもの」を確立して行かなければ、生きている意味がない、そんな思いを強く感じました。
いつまでも共同的な幻想の中にまい進するのでなく、よくそれを咀嚼し、自分のものとして行くのがよいのではないかと思います。
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人は、「幸せな人生を送りたい」と思うのが普通です。そのようなときに
「私は幸せでありますように」と願う心をしっかり確立することが重要です。
という教えを受けたとします。すると次にどのようにすればよいのかと考えるのが普通です。
そこにさらに、教えとして
自分の気持ちをしっかり認識する。そこに真剣に「幸せになりたい」という自分がある。このような心をしっかりと持つために慈悲の瞑想で「私は幸せでありますように」を心に刻み込むことです。
という話が追加されます。するとその教えに従って、ひたすら瞑想を実行することになります。
幸せになるためには、瞑想というものが手段で、それを行なうことになるわけです。
「幸せ」という言葉は漠然とした抽象的な言葉ですが、折り合いの中では、定義しなくとも、なにがしかの「幸せイメージ」を持つことができます。
そこをよく考えると「幸」が成立するということは、幸に対する不幸(比べるもの)がなければその幸のイメージは成立しないことがわかります。これを仏教では縁起といいます。
幸・不幸という相互の概念の相依の中にいる内は、その分別の狭間で苦しみを受ける。というのがお釈迦様の教えであったことを思い出します。
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心とは普遍的な概念で、しかも形として表わすことのできるものであるのかという疑問が生じてきます。
折り合いの中で考えるならば、個人の価値観がそれぞれ異なるように、心も個々それぞれに異なり、個別的な問題であるように思います。ですから個性と言う言葉が成立する訳です。
お釈迦様の言葉も言葉として理解し、それを絶対化しているうちは、個々のあるべき姿も最大多数の中で埋もれていつしか姿を消します。
それでよかれと思うのも自由ですが、私は自分の置かれている立場(境遇)にあって、人生を考え抜きたいと思います。
少し前のブログ「人間の仕様書に学ぶ」で鈴木正三『盲安杖』の言葉
必心の師となるべし。心を師とすることなかれ。
を掲出しました。「心を師とすることなかれ」とはどういくことなのか問題となります。
何かと自己のイメージに翻弄されるのが世の常です。そのときの啓示が故人の言葉の中にあります。それで武士(戦士)として身の中にある鈴木正三の言葉を書いたのです。
鈴木大拙先生の著書に「さとりという動物と樵夫(きこり)」の話があります。
一人の樵夫が奥山でせっせと樹を切っていた。さとりという動物が現れた。平素は里に見当らぬたいへん珍しい生きものだった。樵夫は生捕りにしようと思った。動物は彼の心を読んだ。「お前は己を生捕りにしようと思っているね。」度肝を抜かれて、樵夫は言葉もでないでいると、動物がいった。「そら、お前は己の読心力にびっくりしている。」ますますおどろいて、樵夫は斧の一撃によって彼をうちたおしくれんという考えを抱いた。すると、さとりは叫んだ。「やア、お前は己を殺そうと思っているな。」樵夫はまったくどぎまぎして、この不思議な動物を片付けることの不可能を覚ったので、自分の仕事のほうを続けようと思った。さとりは寛大な気配を見せなかった。なおも追求していった。「そら、とうとう、お前は己をあきらめてしまったナ。」
樵夫は、自分をどうしてよいか、わからなかった。おなじくこの動物をどう扱っていいかわからなかった。とうとう、この事態にまったく諦めをつけて、斧を取り上げた。さとりのいることなぞ気に掛けないで、勇気をだして一心に、ふたたび樹を切り始めた。そうやっているうち、偶然に斧の頭が柄から飛んでその動物を打ち殺した。いくら読心の智慧を持っていたこの動物でも「無心」の心まで読むわけにはゆかなかったのだ。(鈴木大拙先生の『禅と日本文化』(北川桃雄訳 岩波新書P85)
「無心」ということがよくわかる話です。なぜ無心が必要なのかそれは折り合いの中での話で、必要のないものと思う人にとっては関係がないことで、その人から見れば無駄な努力かもしれません。
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折り合いの中では次に「心の置き所」、「心をどこに置いたらよいか」「心はどこにあるのか」という話になります。
次に私が参考にするのは沢庵禅師の以下の言葉です。
敵の動きに心を置けば、敵の動きに心を捉えられてしまいます。敵の太刀に置けば、敵の太刀に捉らわれる。敵を切ろうということに心を置けば、切ろうとすることに心を奪われ、自分の刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られ、切られまいということに置けば、その切られまいということに心を取られるのです。心の構えに心を置けば、また人の構えに心を捉えられてしまいます。何とも、心の置き場所は見つからぬものです。(『沢庵 不動智神妙録』池田論訳 徳間書店P53・54)
そして
「それでは、どこに置いたらよいのでしょう。」
「どこにも置かぬことです。そうすれば、心は身体いっぱいに行きわたり、のびひろがります。手を使う時には手の、足が肝要の時は足の、眼が大切な時は眼の役にたち、身体中どこでも必要に応じて、どこでも自由な働きをすることができる。
もし、心の置き場を一つの場所に定めて、そこに置くなら、そこに心を取られて、役に立たないことになります。」 ・・・・・・(同上書P57・58)
このような故人の言葉で思索を重ね、わが身を省みる。
他者から見れば、参考になるものもあればないものもある。それを取捨選択するのが個性の表出です。
個性のだせない教義や思想哲学でもよいのならばそれも折り合いです。
公に「自由」を宣言していても、内心の自由としても持てないような世界だけはご免被りたいものです。
ここをクイックするといろいろな仏教の教えに出会います。