思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「ちょっとした話」を題材に考えてみる

2009年11月30日 | 仏教

 時雨ももう少し寒気団が張り出すと小雪に変わってもおかしくない季節になってきました。標高2000メートルを越える山々は、かかる雲が晴れると白さが徐々に増しています。

 今月も今日で終わり、明日からはもう師走ということになります。「光陰矢の如し」も、歳とともに実感します。

 最近「イメージ」というものが、実際とは大きくかけ離れる場合が多いことに気がつきます。自分の勘を頼りに日々起こることを理解し対処するのですが、要するにその間が外れることが多いわけです。

 車の運転でも、安全運転は自分の感が頼りで、やはり相手を信用し「だろう運転」はだめですよと言われても、だろう運転している自分に気がつきます。

 しかし実際は、そのようにしないと何事も前へは進みません。事案によっては一歩後退をすることもありますが、後退してばかりでは生きている意味がありません。

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 最近「求道」に生きた人物を主題に、その人生をみています。2・3日前からは沢木興道老師の人生を再度確認するために、『沢木興道聞き書き 酒井得元著 講談社学術文庫』を読み直しました。

 出勤時間までの短い時間に多くを書くつもりはありません。この本の評価はそれぞれ読む人によって異なるのですが、興道老師を知るには必要不可欠の本だと思います。

 さて本論ですが、他人ならば多分素通りする部分だと思うのですが、老師が
昭和9年3月から約四ヶ月中国の祖蹟参拝の旅行をしたときの話があります。

 その個所に何か深い意味を感じました。老師はただの話題としてさほどの意味で話しているのではないと思いますが、「深イイ話」で、それがまた表面的な部分だけでなく、その話が自分の理解でさら求道を発展することができるように思うのです。

ではその話です。中国の各地を回っている途中の話です。

 それからさらに道元禅師の師、如浄禅師のおられた天道山に参詣した。かつて道元禅師もこの地で修行されたのだと思えば、とくに慕古の情を覚えて感慨無量だった。ここではご馳走してくれたが、住職みずから自分の箸をよくなめてから、その箸で料理をわしの皿にとってくれた。日本だったら、汚いとか、失礼とかいうだろうけども、中国では毒の入っていない証拠で、特別な親しみの表現だそうである。

これだけの短い文章です。
 相手の心遣いという話は表面的に、直ぐわかるのですが、何かを口にする時の吟味を、何かの理解にという行為に変えると、大きな哲学がその前に見えてきます。

 親が子に教える事柄からはじめ、沢山の教えを受けるように思えるのです。

 今朝は時間がないのでこれだけの紹介で終わりとしますが、この話を頭の片隅に置くと、何か自分の人生の工夫を考えることができるとように思います。

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「代替手話」から学ぶ

2009年11月29日 | 宗教

        (写真は、下記参考文献から引用しました。)

 手話と言うろう者の意思伝達手段を勉強していると「代替手話」というものがあることを知りました。

 ろう者ではなく、音声言語を母語としてもっている聴者によって作り出されて手話のことで、どのようなものがあるかというと、

○ 中世ヨーロッパの修道院の手話
○ 激しい騒音の中で生まれたカナダの製剤所の手話
○ オーストラリアのアポリジニの手話
○ アメリカインディアンの手話

などがあるということです。

今日は、この中の中世の修道院の手話について注目したいと思います。
 この修道院の手話の成立過程ですが、中世ヨーロッパの多くの修道院では聖ベネディクト(6世紀)の戒律と言うものが守られていました。

 その戒律の中には、「沈黙の掟」が定められていて、修道生活の多くの時間と指定の場所で話すことを禁じられていました。現在でもクルニュー、シトー、トラピストの三修道院では厳格に守られているのですが、次第に音声言語で話すことの価値が認められ、第二バチカン公会議で戒律が修正されその他の修道院では手話はほとんど消えてしまっています。

 中世修道院の沈黙の時間は、基本的に午後7・8時から朝までと正午頃から午後3時まで、前者が「大沈黙」で、多くの修道院ではこの時間帯にどうしても外部の人と話さなければならないなどの理由で許可を受けた場合以外は話すことは許されない絶対沈黙の時間でした。場所的な制約は、教会内、食堂、祈祷室、写字室などで、そこでは沈黙を守らなければなりませんでした。

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 一番の興味は、なぜこれまでに沈黙が守られなければならなかったか、です。

 それは、

 神の尊厳が神から個人に伝わるものであり、人間同士の会話はこの純粋な過程(ルート)を汚すものである。

ということにあるようです。この考え方は、聖ベネディクト以前(4世紀)からあるようで、それを聖ベネディクトが戒律としたということです。

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 「聖ベネディクト」について、専門家ではないので、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を引用すると、次のような「ベネディクト会」というものの存在を知ることができました。

ベネディクト会(ラテン語: Ordo Sancti Benedicti, 英語: Benedictine Order)は、現代も活動するカトリック教会最古の修道会。529年にヌルシアのベネディクトゥスがモンテ・カッシーノに創建した。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれた。

彼が修道院の生活の規範とした戒律(『聖ベネディクトの戒律』)は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規であり、以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなった[1]。ベネディクトの妹スコラスティカも、同じ精神を持って生活する女子修道院を開いている。同会の会員は「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの共同生活を送った。これが観想修道会のスタンダードとなった。

同会の伝道範囲・活動範囲はイギリス、ドイツ、デンマーク、スカンジナヴィア、アイスランド、スイス、スペインに及んだ。中世ヨーロッパにおいて、伝道・神学・歴史記録・自然研究・芸術・建築・土木において果たした役割は大きい[1]。

[1]修道院が広大な領地・財産を有するようになった時代にはクリュニー会がベネディクト会の中から派生し、クリュニー改革運動が起きた(910年)。12世紀中ごろ以降は世俗化により衰退した時期もあったが、1400年頃から再び改革運動が起きた。ベネディクト会からはクリュニー会の他にも、カマルドリ会、シトー会、厳律シトー会(トラピスト会)など、多くの修道会が派生したが、ベネディクト会自身も存続し続けた。

[1]宗教改革時代に修道会は打撃を受け、イギリス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの修道院は解散させられ、ドイツでは3分の1を喪失した。19世紀初頭には世俗化する西欧各国の動向に因りほとんどの修道院が解散もしくは廃止されたが、1830年頃から次第に復興し、今日に至っている。

と書かれていました。

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 神学における「沈黙」のもつ意味は、日本の静寂とかなり異なるような気がします。

 キリスト教における神との関係、仏教における仏と関係は、専修念仏、唱題などを対比するとかな深い話になりそうです。

参考文献:『視覚言語の世界』斉藤くるみ著 彩流社

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「心を師とすることなかれ」に学ぶ

2009年11月29日 | 仏教

 「NHK心の時代・宗教」今日は、「ただひたぶるに生きし君-鶴見和子との日々-」と言う題で2006年に88歳で死去された社会学者鶴見和子さんを45日間看病し看取った妹内山章子さんのお話でした。

 人間を見つめる社会学者は死に行くものの記録を妹の内山さんに託した。
 「死のフィールドワーク」を鶴見さんご本人が書きたかったが、死に至るような病に罹り、本人の死に至る過程を記録することを内山さんに求めたのです。

 鶴見さんご本人の番組も再放送で今年放送されました。
 今回は看取った側の内山さんのお話で、姉の歴史でもあるものの、鶴見家という名家に育った、その家庭環境も含め、考えさせられる大切な内容が盛り込まれていたように思います。
 
 内山さんの兄は、あの有名な思想家の鶴見俊輔先生で、父親は政治家で作家でもあった鶴見祐輔、母方の祖父は東京市長後藤新平という家柄の家庭で育ったのですが、内山さんは太平洋戦争をはさみその人生は華々しい兄、姉の学問生活とは異なる地味な家庭人としての主婦でした。

 兄や姉に代わり両親の介護を行い最後を看取る人生。そのことを知ると兄姉の華々しい学問の世界での思想は、その妹内山章子さんの働きの中の解放された自由の思考から生成されているようにみえました。

 西田幾多郎先生のあの哲学思想が生まれたその背後にある、苦難に満ちた人生とは、かけ離れていて勝手ながら自由奔放な思索の世界を感じ、しかも人生でも難しい柵(しがらみ)のない中からその思想哲学は生み出されていると感じました。

 番組の趣旨とは関係のない感想となってしまいますが、人の生み出す思想・哲学はその人個人のものであり、それに接し、習得しようとするものはそこをよく理解し、「自分のもの」を確立して行かなければ、生きている意味がない、そんな思いを強く感じました。

 いつまでも共同的な幻想の中にまい進するのでなく、よくそれを咀嚼し、自分のものとして行くのがよいのではないかと思います。

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 人は、「幸せな人生を送りたい」と思うのが普通です。そのようなときに

「私は幸せでありますように」と願う心をしっかり確立することが重要です。

という教えを受けたとします。すると次にどのようにすればよいのかと考えるのが普通です。

そこにさらに、教えとして

 自分の気持ちをしっかり認識する。そこに真剣に「幸せになりたい」という自分がある。このような心をしっかりと持つために慈悲の瞑想で「私は幸せでありますように」を心に刻み込むことです。

という話が追加されます。するとその教えに従って、ひたすら瞑想を実行することになります。

 幸せになるためには、瞑想というものが手段で、それを行なうことになるわけです。

 「幸せ」という言葉は漠然とした抽象的な言葉ですが、折り合いの中では、定義しなくとも、なにがしかの「幸せイメージ」を持つことができます。

 そこをよく考えると「幸」が成立するということは、幸に対する不幸(比べるもの)がなければその幸のイメージは成立しないことがわかります。これを仏教では縁起といいます。
 
 幸・不幸という相互の概念の相依の中にいる内は、その分別の狭間で苦しみを受ける。というのがお釈迦様の教えであったことを思い出します。
 
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 心とは普遍的な概念で、しかも形として表わすことのできるものであるのかという疑問が生じてきます。

 折り合いの中で考えるならば、個人の価値観がそれぞれ異なるように、心も個々それぞれに異なり、個別的な問題であるように思います。ですから個性と言う言葉が成立する訳です。

 お釈迦様の言葉も言葉として理解し、それを絶対化しているうちは、個々のあるべき姿も最大多数の中で埋もれていつしか姿を消します。

 それでよかれと思うのも自由ですが、私は自分の置かれている立場(境遇)にあって、人生を考え抜きたいと思います。

 少し前のブログ「人間の仕様書に学ぶ」で鈴木正三『盲安杖』の言葉

 必心の師となるべし。心を師とすることなかれ。

を掲出しました。「心を師とすることなかれ」とはどういくことなのか問題となります。

 何かと自己のイメージに翻弄されるのが世の常です。そのときの啓示が故人の言葉の中にあります。それで武士(戦士)として身の中にある鈴木正三の言葉を書いたのです。

 鈴木大拙先生の著書に「さとりという動物と樵夫(きこり)」の話があります。

一人の樵夫が奥山でせっせと樹を切っていた。さとりという動物が現れた。平素は里に見当らぬたいへん珍しい生きものだった。樵夫は生捕りにしようと思った。動物は彼の心を読んだ。「お前は己を生捕りにしようと思っているね。」度肝を抜かれて、樵夫は言葉もでないでいると、動物がいった。「そら、お前は己の読心力にびっくりしている。」ますますおどろいて、樵夫は斧の一撃によって彼をうちたおしくれんという考えを抱いた。すると、さとりは叫んだ。「やア、お前は己を殺そうと思っているな。」樵夫はまったくどぎまぎして、この不思議な動物を片付けることの不可能を覚ったので、自分の仕事のほうを続けようと思った。さとりは寛大な気配を見せなかった。なおも追求していった。「そら、とうとう、お前は己をあきらめてしまったナ。」
 樵夫は、自分をどうしてよいか、わからなかった。おなじくこの動物をどう扱っていいかわからなかった。とうとう、この事態にまったく諦めをつけて、斧を取り上げた。さとりのいることなぞ気に掛けないで、勇気をだして一心に、ふたたび樹を切り始めた。そうやっているうち、偶然に斧の頭が柄から飛んでその動物を打ち殺した。いくら読心の智慧を持っていたこの動物でも「無心」の心まで読むわけにはゆかなかったのだ。
鈴木大拙先生の『禅と日本文化』(北川桃雄訳 岩波新書P85)

 「無心」ということがよくわかる話です。なぜ無心が必要なのかそれは折り合いの中での話で、必要のないものと思う人にとっては関係がないことで、その人から見れば無駄な努力かもしれません。
 
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 折り合いの中では次に「心の置き所」、「心をどこに置いたらよいか」「心はどこにあるのか」という話になります。

 次に私が参考にするのは沢庵禅師の以下の言葉です。

 敵の動きに心を置けば、敵の動きに心を捉えられてしまいます。敵の太刀に置けば、敵の太刀に捉らわれる。敵を切ろうということに心を置けば、切ろうとすることに心を奪われ、自分の刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られ、切られまいということに置けば、その切られまいということに心を取られるのです。心の構えに心を置けば、また人の構えに心を捉えられてしまいます。何とも、心の置き場所は見つからぬものです。(『沢庵 不動智神妙録』池田論訳 徳間書店P53・54)

そして

「それでは、どこに置いたらよいのでしょう。」
「どこにも置かぬことです。そうすれば、心は身体いっぱいに行きわたり、のびひろがります。手を使う時には手の、足が肝要の時は足の、眼が大切な時は眼の役にたち、身体中どこでも必要に応じて、どこでも自由な働きをすることができる。
 もし、心の置き場を一つの場所に定めて、そこに置くなら、そこに心を取られて、役に立たないことになります。」
 ・・・・・・(同上書P57・58)

このような故人の言葉で思索を重ね、わが身を省みる。
 他者から見れば、参考になるものもあればないものもある。それを取捨選択するのが個性の表出です。

 個性のだせない教義や思想哲学でもよいのならばそれも折り合いです。

 公に「自由」を宣言していても、内心の自由としても持てないような世界だけはご免被りたいものです。

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「交通事故多発交差点」に学ぶ

2009年11月28日 | 仏教

 長野県下の交通事故多発交差点のワースト1に松本市内にある「渚1丁目」交差点が選ばれました。この交差点は、国道19号線と上高地に向かう通称上高地線が交差する交差点です。

 国宝松本城へ向かう場合には、松本インターを出て松本市街方面へ向かうとカーナビは、必ずこの交差点を選択し導いてくれる交差点です。

 昨日も仕事の関係で、この交差点で信号待ちをし通過し、朝刊にこのワースト1の記事が掲載されていることを思い出しました。

 この交差点には、直進の進行方向の信号機とその下に、右折方向の信号表示が信号機が付いています。

 したがって直進車の運転手は、直進方向が「赤色」灯火の表示になっても右折車両が進行でき左右方向からの車の進入はしばらくの間ないと考え信号無視で進行します。

 右折車両は、表示時間が短いために渋滞しこの信号待ち車両の運転手は「いざ出陣」とばかりに一気に加速右折進行を開始します。

 さらに右折車両も青色矢印灯火が終わり信号機本体が黄色灯火になっても青色の如く右折進行を継続します。

 通称この運転方式を「松本方式」といいます。

 この状況ですから「右直事故」が多発するのは当然で松本平の免許保有者は講習会でしっかりと教養され自覚しているため、この事故に遭遇するのは正直な真面目な安全運転を心がけている運転手さんということになります。

 松本市民はこの危険性を十分に承知しているので、安全運転に徹するかというとそうではありません。十分に他車の動向を注視し事故が起きないように「安全運転」に徹しているのです。

 昔は、道路交通法は「信頼の原則」の典型的な例でしたが今ではあまり聞きません。

 「行為をしてはいけません」という厳格な知らせを目の前に突きつけられているのですから、それを守るというのが互いの信頼関係を生み安全で住み良い生活を営むことができるのが正直な生き方なのですが、そうではないようです。

 どうも安全に生きるとは、如何に上手な立ち振る舞いをするかにあるようです。

 価値観には多様性があります。判断するのは自分です。相手の立ち振る舞いに心惑わされることなく「誠実」に心がけたいものです。

 などと言ってもその方法がわからない。求道の道しかないわけです。しかも「誠実を我がもの」としても、赤信号を守り停止していて追突されるが如く、この世は無常なわけです。

 求道とは暗中模索です。しかしやらないよりはやった方が良いと思います。

 やらなければいつまで経っても右往左往しなければなりませんし、これには終わりがありません。

 道元禅師の只管打坐(しかんたざ)は処世術でもない、人格の真実である。無常ということは、生きることである。いかにして、真実の生活をするかの努力が仏道者なのです。

これ言葉を『沢木興道聞き書き-ある禅者の障害-』(酒井得元著 講談社学術文庫P166)で見つけました。

「仏道者」でない私はどうすればよいのか、「ゆっくりと呼吸する」に尽きると思います。「一呼吸、一呼吸」と一休さんは言うではありませんか。

 霧の境目の内と外。明暗を分けるのは落ち着いて風景(現実)を見つめる自分をもつしかありません。

 ここをクイックするといろんな仏教の教えがあります。


安曇野の風景

2009年11月27日 | 仏教

 音もなく 臭(か)もなく常に 天地(あめつち)は 書かざる経を 繰返しつつは

は二宮尊徳の歌ですが、このような歌の心境には程遠いところです。

     

 しかし、誰でも紅葉の季節には、その綺麗な場所を求めますし、なんとも表現のできない風景に出逢うものです。

     

 数年同じ行動を毎日続けるサラリーマン人生。山の形や田畑の位置が変わるわけではないのですが、それでも日々異なる感動を受けます。

     


ケンミンショーの「信濃の国」に学ぶ。

2009年11月27日 | つれづれ記

 昨夜の日本テレビ番組「ケンミンショー」で、辞令京一郎の行き先は長野県で、長野県木曽郡出身の男優田中要次さんも出演し「信州の秘密”あるよ”」でした。

 長野県の特徴とされたのは、
 長野県民は、
○ 長野県と言うよりも「信州」を使う。
○ 長野県は教育県といわれる。
○ 県民歌として「信濃の国」があり、全員が歌える。
○ お茶をすすめるのが最上の御もてなしである。
○ 結婚式、飲食会などに閉めに万歳を行なう。
○ 長野市とナスと松本市は仲が悪い。 
などであった。

 今朝は、これらの中からいくつか解説してみたいと思います。
 まず「信州」ですが、これまで「桜井常五郎と信州」 「信濃国」などで県名について書いてきています。

        

写真は幕末嚮導赤報隊員桜井常五郎の判決古文書の記録資料集のものです。当時は廃藩置県がなされる前ですので、「信濃国」とすべきところを「信州佐久郡」と「信州」という言葉を使用しています。

だからといって「信濃国」を使わないかというとそうではなく、明治13年の地理の教科書は写真とおり「信濃国地誌略」と「信濃国」という言葉を使い、特徴点のひとつ県民歌も「信濃の国」という題名になっています。

 これを「信州の歌」と呼ぶと笑われるというよりも論外です。この歌は、あくまでも「信濃の国」でなければなりません。

 信濃の国は、6番まであります。どんな曲かといいますと「信濃の国」 (ここをクイックしてください)で、この信濃毎日新聞とは番組内で京一郎が読んでいた長野県の地方紙で県民のほとんどが、というほど読んでいる新聞です。

 このサイトにはしっかりと6番まで紹介されています。県内の地理史から、歴史等盛りたくさん長野県のことが書かれています。

 この「信濃の国」の県歌には、次のような「信濃の国大合唱」という事件がありとても有名です。

 昭和二十三年春。県庁(長野市)の一部が火災にあった。その復旧を機会に県議会内で庁舎移転問題が発展しました。

 これは県庁所在地は廃藩置県の時に日本全国に知れ渡っている善光寺がある長野村にし県名も「長野県」としました。地理的には北にあり、門前町で、長野県は松本城のある松本藩が一番の大きな町でしたので当初から問題があり、県を二つにしようという問題にもなっていました。

 移転問題を検討するため議会に特別委員会が設けられ、南北晋信から五人ずつ計十人の委員が出て、下諏訪出身の黒田新一郎が委員長になりました。この人は南信の出身ですので当然分県移転派でした。

 審議の結果、委員会は分県を可とするとの結論になりました。いよいよ四月一日これが県議会の本会議に上程され黒田委員長が報告すると、これに対して北信出身の議員から全員反対の立場から、委員長に対する反対質問が続出し議会が極度の緊迫した状況になりました。

 このとき長野市を中心とする北信住民が、この日の議題が北信にとって死活にかかわる重大問題だということで、朝から数千人が議会堂を取り巻いていたそうです。

 この紛糾状態が相当のものであったらしく誰も鎮めることができるような常態になかったそうです。すると何処からかこの「信濃の国」の県歌が流れてきて最終的には参集したもの立ちの大合唱となりました。

 議会はどうなったか、「議会は分県の可否いずれとも決せず」という結論となりました(「信濃の國」物語 中村佐伝著 信濃毎日新聞社を参考)。

このような物語が、県歌「信濃の国」にはあります。
 
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  しかし、今になるとやはり長野市は県の北にありすぎ不便に感ずる人が多くいます。松本市はその点、日本列島地図、長野県地図を見ても中心の市にあり、今も「松本市を県庁所在地に」と言う人が多くいることも確かです。


風景の響き

2009年11月26日 | 風景

 通勤時間が長いこともあり、四季それぞれの牧歌的な田舎、山麓風景を眺めながら車を進めます。

秋は紅葉の季節で、一日一日とその色合いが異なり、落葉樹の何層にも分かれた木々の淡い色彩はなんともいえません。

 それも時雨の季節になると、雲や霧の帯がたなびくように流れていくとBGMを聴きたくなります。画像に音をつけたくなるわけで昨年もそうでしたが、なぜか私の場合は、聖堂に響くあの「グレゴリオ聖歌」を重ねたくなるのです。

    

 歌詞の意味は分かりません聖堂に響く、男声合唱の響きが色彩のわずかな違いの重なり、十二単(じゅうにひとえ)を更に細分化した重なりのよう聴こえます。

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 今朝のNHK「日めくり万葉集」は、元首相の細川護煕(ほそかわ・もりひろ)さんが選んだ柿本人麻呂の歌(巻1-48)でした。

 東(ひむがし)の
 野にかぎろひの
 立つ見えて
 かへり見すれば
 月傾(つきかたぶ)きぬ

 万葉仮名で「東野炎立所見而反見為者月西渡」と表記し最初の部分は「東野(あずまの)の 煙(けぶり)の立てる 所見て かへり見すれば月傾く(つきかたぶきぬ)」と詠まれていたものを賀茂真淵が上記の詠みとした。

 本来は「西渡」という万葉仮名があるように、実際は異なるようで「東(ひむがし)の 野らには煙立つ見えて かへり見すれば月西渡る」という新しい訓み直しもされいるようですが、やはり真淵の方が良いということになっているようです。

 真淵の方が語調がスムーズで、耳に優しい響きがあります。

 風景と音色。今ごろになると晩秋・初冬の音が聞きたくなります。


「声」に学ぶ

2009年11月25日 | 仏教

 私のブログにコメントを下さる未到散人さんの紹介で、白血病治療に専念されておられるお母さんのブログに立ち寄りました。

 早朝の出勤前の短い時間の立ち寄りで、瞬間に「生きる」とはこういうことだとかんじ、短いコメントを勝手ながら書き込みをさせていただきました。

 拙い短いコメントとは、

 紹介を受け立ち寄らせていただきました。今後も立ち寄らせていただきます。
 音に音が聞ける。声に声が聞ける。自分の声、他人の声それがわかることが幸せのような気がします。
 表現がわかりにくいかもしれませんが申し訳ありません。
 人生とは縁です。無駄も得もありません。そこに音が、声があります。

という内容です。

帰宅後改めてゆっくりブログを拝見させてもらうとともに、折り返しのコメントに

<声ですか?いまいち理解が出来ず申し訳ありません。>

という言葉があり、短絡的な自己満足的な私のコメントであったと深く反省させられました。

短い早朝の立ち寄りで、強く感じたのが

階段で転びなく我が子の鳴き声に
親になったからこそ分かる 私も愛されていたのだと・・・

治療に当る恩師の『どっちでも良い』という言葉に
聞きなれた回答だったが腑に落ちた瞬間だった。
そして私は『生きる』を選んだ

という文章に「声なき声を」が聴こえたような気がしたのです。

 最近NHK教育の「ろうを生きる・難聴を生きる」という番組で、新宿で居酒屋を経営されておられる「ど根性店主 吉岡富佐男」さんを知りました。吉岡さんは耳が聞こえません。
 
 先週も再放送されていました。言語学的な意味での「ことば」というものの不思議を探求する中で、「手話」という一つの伝達方法があることに気づきこの番組を見ることになり、その中での「番組を見る」という出会いの中で知ったわけです。

 耳が聞こえない人ばかりではなく、普通に聴こえる方も、外国人もお客さんとして来ています。

 番組は、バックグランドのオカリナの音色、ナレーターの声の他は、居酒屋で発生する物音しかありません。しかし全員が笑顔で楽しそうに手話で語らっているのです。

 そこにはざわめく普通の居酒屋の音が声が聞こえるのです。なんと不思議なことか、驚きました。

 言葉にこだわってはいけませんが「健常者」という言い方は好きではないのですが、健常者の女性が「ここえくると聴こえなくともわかるのです」旨のことを言っていたのが印象的でした。
 
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以前ブログに書きましたが、高校生の頃だと思いますが山登りの時に覚えた「六根清浄」の

 目に諸の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず 

 耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず 

 鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず 

 口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず 

 身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず 

 意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず 

という言葉が常に私の心の底にあります。

そのようなこともあるのか、年齢を重ね最近は音のない世界に音があるということを実感として知る機会に多く出逢います。

 吉岡さんに出逢ってから、白血病治療に専念されておられるお母さんの文章に出逢い、先生の言葉、子供さんの鳴き声が、全て語りかける声に集約される。そのように思うのです。

 吉岡さんのカウンター内で油鍋の中で揚げる串焼きの音、コップの当る音・・・・。音だけではなく動作、しぐさ諸々の五感の全てが「声」に集約されるという意味です。

 これが「み」として「身につまされ、身にしみる」こともあれば「鼻につく場合」もあります。

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 般若心経の「照見五蘊皆空」。すべては空なれど、空即是色として形として現われる。現われるとしてみるとは観るのであって、その声が聴こえる。

 大乗の僧侶は、お釈迦さまの言葉を声として聴いた。言葉を言葉として語るのは楽なのですが、語り掛けの声として聴くのは難しいのはそこにあります。

 言葉が言うのでもなく、自然の物音が言うわけでも、森羅万象が語るのでもありませんが、心の中に聴こえてきます。

 言葉を「ころば」のみにこだわると大きな過ちがあります。それは誰でも知っていることです。

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ここまで書いて、今朝の日めくり万葉集の時間になってしまいました。すると不思議に母の声が聴こえるのです。

 今朝は、次のとおり和太鼓奏者林英哲(はやし・えいてつ)さんが選んだ、巻9-1791「遣唐使の母」の歌です。



 今朝は時間もなくNHKテキストを貼らさせていただきました。月刊誌でとても素敵な本です。万葉の世界に足を踏み入れてみてください。新しい世界が広がります。

 ここをクイックするといろんな仏教の教えに出逢います。


「伝統芸能」から学ぶ

2009年11月24日 | 仏教

 ジェンダー問題をはじめ戦後学校教育改革の変遷は、個性を重視する一方あるべき子供の姿をどこか遠くへ追いやったような気がします。

 平等と言う崇高な理念は、何か高らかに宣言する一方、不平等意識を高め自分とは違う立場にある人への優しさをい失わせるようなものになっているような気がします。

 だからその平等感をどうにかしようとしても、生まれながらその個人の「仕様書」が異なっているのですから、一律にことをはじめるわけにはいけません。

 それぞれの家庭、親兄弟、教師等という教育に重要な影響をもつものでさえ善きつけ悪しきにつけそれぞれにことなるのですから国家プロジェクトでは手におえない、最小の単位に教育制度を委ねる必要を感じます。

 地域の持つ伝統や制度が、教育にとって重要だということは誰でも承知していることなのですが、近代化とはこれを破壊することに一役買ってしまい、手の施しようの無い状態にあるのも確かです。

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 一昨日のブログの中で、謡曲の『敦盛』の中の印象深い言葉を掲出しました。 能楽と言うものは、どちらかというと伝統芸能の代表的なものであるのに、存在は知っていても、どちらかというと知らないといった方が多いのではないかと思います。

 私も知らない組に属するのですが、歳とともに伝統と言うものに惹かれ、一歩、能楽の世界を覗いてみると、そこには知らないではいられない衝動に駆られる何かがあるのです。

 能というと「幻の舞歌」で特に今は、夢幻能(むげんのう)の存在に強く引かれます。
 
 亡霊が主人公となって、僧(ワキ)の前に現われ、過去を語り、僧の供養を受けて成仏するという筋書き、これを夢幻能というのですが、そういうものが能にはある。

 さらに、有名な『井筒』は、

ワキ(僧)
 これは諸国一見(いッけん)の僧にて候。われこの程は南都(なんと)七堂(ななだう)に参りて候。またこれより初瀬(はつせ)に参らばやと存じ候。
 これなる寺を人に尋ねて候へば、在原寺とかや申し候ふほどに、立ち寄り一見せばやと思ひ候。
 
とはじまり、リズムカルな謡(うたい)にも和歌や句のもつ抑揚や区切りがあり、それにも強く惹かれます。

 そのような単純な理由からでしたが、それなりに能楽を勉強していくといろいろなことを見つけます。
 
 能には、位、長、幽玄などという言葉があるのですが、観世寿夫先生の言葉の中に、

 今でも子どもの稽古をしていて、立たせてみただけで何か芯の強い、キッチリしたものを天性持った子供と、そうでない子供といる。しかし、強い芸---長(たけ)---というものは、たいていの場合、技術の修練をする間に、もともと持った才能が磨かれ発顕されてくるものなのである。
 このように考えてみると、幽玄ではないが、長(たけ)としての才能も、天性のものである場合は当然ありうるわけであり、また考えようによっては、長とは、意志の力で育てるもの、あるいは意志の強さそのもののことであるとも言いうるかと思われる。意志というものが演戯に向けられる方向とその大きさは、当然その人間の放つ品格の大きさにつうじるものであるだろう。
(『日本の名著 世阿弥』演戯者から世阿弥の習道論P79~80から)

という話が書かれていました。
 個性というものを伝統の中ではどう捉えているか、折り合いの中の話なのですが、日本人ならば観世寿夫先生の言葉が何となく理解できます。

 「心が悪魔に支配されている。そこから逃れるのだよ」という教えを人に教示するとき、何が重要であるかを伝統は教えます。

 画いた餅を画いたままにするよりも、食する餅にしなければ何の意味もありません。
 
 今朝のNHK教育は、日めくり万葉集のあと伝統芸能の狂言について放送しています。実に勉強になります。

ここをクイックするといろいろな教えを受けることができます。


「時雨」の鼻濁音にこだわる

2009年11月23日 | ことば

 時雨(はるさめ)が霙(みぞれ)になるような肌寒い天気です。昨日は庭先の大量の落ち葉を行ないまいた。今は環境問題に視点から燃やす量を制限し、残りは畑に野積みにし堆肥にする予定です。

 それならば、落ち葉を焼かず全てを堆肥作りにと思ってしまいますが、秋の落ち葉焚きは庭の木々の為に虫除けの燻しをする訳で、また、その煙の匂いは時雨から霙の季節の入れ替えを伝えるものでDNAにしっかりと刻み込まれているようです。

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今朝の日めくり万葉集は、万葉学者の中西進先生が選者で、巻1-82長田王(ながたのおおきみ)の歌でした。

 うらさぶる
 心さまねし
 ひさかたの
 天(あめ)のしぐれの
 流れあふ見ればで

 侘しい思いが胸をみたす
 無限の空をこめて
 時雨(しぐれ)の
 降りつぐのをみると

     (中西進先生訳)

なぜか引き込まれる歌です。今朝はこの歌を味わいたいと思います。

中西先生談
 今までの文学を見てみますと、日本人が風物として多く取り上げるものが二つあります。一つが「春雨」。もう一つが「時雨」ですね。いかにも雨の多い日本らしく、春の雨である春雨と、秋の終わり、冬の初めの雨である時雨。この二つが日本の風土を代表するような天候であり、時雨はわれわれの感情のキーワードになっています。

 「秋雨」があるではないかとつい思ってしまいますが、古語では「秋雨」ではなく「時雨」なのです。

 ちなみに「しぐれ」の「ぐ」は鼻濁音だと思います。通常の濁音の発音だと、私だけかもしれませんがその言葉のもつ雰囲気が出てこないような気がします。

 読み手の壇ふみさんは数回この歌を読みますが、強めに言う時は通常の濁音で、「天の」に力点をおくと鼻濁音で聴きづらいのですが鼻濁音の発音は2回ほどであったと思います。

 しからば中西先生はどうか、しっかりと通常の濁音の「ぐ」でした。
 NHKテキストに「シグレと自然観察と表記」という解説があります。

 それによると巻1-82番歌の「しぐれ」の万葉仮名は「四具礼」でこれは一字一言で表記しています。「具」という言葉ですが普通に読んでも鼻濁音の「ぐ」としか読めません。「し」に続いて「ぐ」を発音する時、通常のだと発音しにくくて仕方ありません。「夕暮(ゆうぐ)れ」の「ぐ」の鼻濁音といっしょです。

 鼻濁音は消えつつある発音ですので、このくらいにしてこの歌の「意(こころ)」にうつりたいと思います。

中西先生談
 作者の「うらさぶる心」が「さまねし」になるとはどういうことか。「うらさぶる」は心がさびること。侘び、寂びというように、「さびる」は虚飾が全部なくなり、そのものの本質になることです。「まねし」は「あまねし」と同じで、すべてにゆきわたること。「さ」は神聖さを意味します。「うらさぶる 心さまねし」は心の中が神聖な普遍性にすっかり満たされるということです。

 天地がすべての装いや華やぎを捨て、冬の静寂、孤独そのものの姿に入り込んでいく。すべての雑念、俗情がなくなり、まるで自分の命が普遍化され、宇宙の一つになるかのごとく、透明化していく。そのようなプロセスを詠っています。日本の風土と自分を対面させることによって、奥深い自然と魂を向き合わせているすばらしい歌です。

 仏教徒として「魂」という言葉に身構えてしまいますが、そこは折り合いで理解しとても印象に残る歌です。

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 最後の最後までこだわりますが、これを書き上げるまでに録画で再度確認したところ、檀さんは8回、中西先生は3回「時雨(しぐれ)」を発音していました。

ここをクイックするといろんな仏教の教えに逢えます。