思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・北朝鮮問題を考える(2)

2011年02月28日 | 哲学

§ Lecture2-2「拉致被害者の命と北朝鮮スパイの人権」

 昨夜の続きになります。線路工夫のの人の命と個人の権利という道徳的ジレンマの論議から今朝は主題の北朝鮮拉致問題を話題に人の命と個人の権利、個人の権利として人権という言葉が出てきます。

【サンデル教授】
 北朝鮮のスパイを捕まえたとします。このスパイは北朝鮮に拉致された被害者が方々がどこにいるのか知っているのです。

 ただしその情報を引き出すには、・・・拷問をするしかありません。

 もし5人の被害者が助かるとしたらあなたはそのスパイを・・・拷問しますか?

 拷問するのは仕方がないと思う人、手を挙げてください。

 どうですか?(難しいとの声) あくまでも仮定の話ですよ!

 なるほど。

 では拷問はすべきではない、と思う方? それが5人を救うためでもです。

 ちょうど半分にわかれましたね。それでは理由を聞きましょう。

【丸岡いずみ】 
 拷問するということは北朝鮮と同じことをしていることになりますよね。それは日本人として恥だと思います。

【サンデル教授】
 わかりました。ほかの方はどうですか?

【勝谷誠彦】
 恥とかという情緒的な問題ではなくて、人間の尊厳や基本的な人権は最も重んじられるものだからだと僕は思います。

【サンデル教授】
 つまり5人の拉致被害者を助けるよりも人間の尊厳や人権の方が大事であると、そう考えるのですね?

 では今の意見に反論のある方は?

【山本モナ】
 私がもし、その5人の北朝鮮に拉致されていた人たちを守らなければいけない日本という国の責任ある立場の人間であれば、私はおそらく拷問してでもその人を助けようとすると思います。

【サンデル教授】
 先ほどの意見にどう反論しますか? たとえスパイであっても人間の尊厳や人権を守らなくてはいけないという意見にです。

【原口一博】
 人間の尊厳や人権についてスタンダードが2つあることはあってはならないと思います。そういう意味では勝谷さんの言っていることは正しい。しかし法律にも国際法にもそういったものを自由に作り変えることが出来るという前提の中で、拉致被害者5人の命を拷問によって救うことが出来るんであれば、その方法を排除する理由はどこにもない。

【サンデル教授】
 あなたはどうですか、同じですか?(石破茂氏に向けて)

【石破茂】
 今の日本は、公務員は拷問を絶対に行ってはならない。こう憲法にも書いてある。だけれどもその憲法がなかったと仮定で話します。

 民主的にそれが(拷問)認められているとする。そしてその拷問によって5人が助かる可能性が高い、5人の生命の危険というものが本当に時間的に迫っている。

※注:石破さんは、言葉を飲み込んで話すので(拷問)の文字を入れました。

 そして拷問を与えたことによって、それから回復できる。そういうような可能性が担保されている。これが満たされた場合に、拷問はやってはならないということにはなりません。

【サンデル教授】
 ではここで、これまでの授業を振り返ってまとめてみたいと思います。

 私は電車の例と拷問の例を出し、みなさんに意見を伺いました。そしてその結果、非常に興味深い価値観の対立が生まれました。

 異なる2つの考え方が出ましたよね。

 一つはより多くの人の幸せが大事だという考え方。

 そのためには少数が犠牲になっても、仕方がないという考え方です。助かる命の数が多い方が良い、なるべく多くの人が裕福に暮らせる方が良い。それが何よりも正しい、優先されるのだという思想です。

 そしてもう一つは、個人の尊厳や人権が最も大切であるという考え方です。

 たとえ多くの命を救うためであっても、たとえ大勢の人が幸せになるためであっても、個人の権利を奪うのは正しくない。安全や財産といった個人に与えられた権利は、絶対に守られるべきだという思想です。

 実は、この二つの考え方は、哲学的に言ってどちらも正しいんです。間違っていないんです。

 ※注:二つの考え方
   ・ 多くの人の幸せ
   ・ 個人の尊厳や人権

<サンデル教授から日本を救うメッセージ>(前回Lecture1にも掲載した部分)

【サンデル教授】
 今回この授業で明らかになったとおり、哲学的な議論や思想は、我々の普段の生活にも深くかかわっているんです。

 日常起りうる様々な問題に対して、我々は常に考えますよね。

 何が正しいのかを?

 家族のこと仕事のこと政治のこと、それこそが哲学なんです。つまりみなさん全員が哲学者だということなんです。

 とても重要なことが明らかになりました、みなさんのおかげです。

 ありがとうございました。

<番組以上>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 番組の中でビートたけしさんが、「選別条件として年齢」に言及しています。クレームが出るとのテリー伊藤さんの声が後ろの方で聞こえました。

 冗談半分かと思ってしまいますがよく考えてみると、究極の選択において、自分の年齢を考えるとビートたけしさんと同じように「若い人を活(い)かそう」という発想をしています。これは批判に価しないように思います。

 北朝鮮のスパイの拷問に関して、勝谷誠彦さんが、

 「恥とかという情緒的な問題ではなくて、人間の尊厳や基本的な人権は最も重んじられるものだからだと僕は思います。」

と答えられていました。勝谷が事前にサンデル教授の教科書を読んできたことを窺わせる模範解答のような答え方でした。必ず人命の救助のためのジレンマで1人の命の犠牲を考えると「犠牲になる人」の人権が問題にされます。

 Lecture2-1の線路工夫の問題では個人の権利まで取り上げられていましたので、ここで人権がいた言葉として提起することになりました。事前打ち合わせはないと思いますが、講義としては順当な流れと思います。

 「命と人権」は難しいと思われがちですが、今の学校教育である程度真面目に学習した人は、発想の中で必ずこれを想起することが出来ると思います。

 講義でサンデル教授から改めて細かく説明されると、哲学に感動してしまいますが、それは命という言葉でも人権という言葉でも、意味がわかるからで学問的な体系の中において語られるから新鮮な感動を受けるのだと思います。

 学校教育の中で教えてはもらっているのですが、体系として理論づけることが出来ない。私もそうですがこの歳になってようやくそのことに気づかされました。

 今回の講義は、すべての対話が放送されていないように思いますが、全体的にサンデル教授の講義であったと思います。

なお、選挙になるかどうかは不透明ですが自民党を応援するわけではありませんが、再度石破氏のテロップは、ご本人は問題視するかどうかは知りませんが誤りであることを指摘し適しておきます。

 「意思」という言葉についてですが以前にもブログに解説しますが、一般的に哲学用語には99%と「意志」の文字を使用します。100%でないのは専門書に近い本で「意思」を使用されていた方がおられましたので、一般的に解いうことで注を付しました。

 個人的に総括すると短時間ですが、娯楽番組の中でこのような問題に対し哲学することの面白さと同時に、最後にサンデル教授が日常生活における哲学をメッセージとして我々に残されましたが、他人の意見に流されるのではなく、自ら考えて行くという力強い意志をもってもらいたいと思います。

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たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・北朝鮮問題を考える(1)

2011年02月27日 | 哲学

 日本テレ制作の「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」が2月21日(17:00~20:54)放送されました。その中でハーバード大学のサンデル教授による「特別講座」が

ゲスト
石破 茂、荻原 博子、片山 さつき、勝谷 誠彦、カンニング竹山、北野 大、久保 純子、さくら まや、竹内 薫、テリー伊藤、内藤 大助、西尾 由佳理、原口 一博、はるな 愛、丸岡 いずみ、三倉 佳奈、三倉 茉奈、山本モナ

が参加して行われました。
 講義内容は、

 Lecture1「大相撲八百長問題を考える・嘘」
 
 Lecture2「北朝鮮拉致問題を考える・命と人権」
     Lecture2-1 「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」
     Lecture2-2 「拉致被害者の命と北朝鮮スパイの人権」

の2つのLectureに分かれています。Lecture1については既に2回に分け掲載しました。

 今夜は、番組後半で放送された、

 Lecture2---「北朝鮮問題を考える」

について、Lecture1と同様にシナリオ形式で綴りたいと思います。

 なぜこの形式にするかと言いますと、このブログは「思考の部屋」という名称で、思考ということに重点をおいています。

 人それぞれに話し方が異なります。そこにはご本人も気がつかない話の組み立て方があるわけです。

 何という言葉を最初に出すべきか。

 相手は理解してくれのか? 

 言い方を変えてみようか?

 説明を細かくしようか?

 十分に相手に伝わっただろうか?

などと思考回路全開の姿をみることが出来まし、また人柄も見ることが出来るからです。

なおこのLecture2も文字数超過になりそうですのでLecture2-1・Lecture2-2に分割し、今夜はLecture2-1を掲出することとします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 その解決方法とは? とはじまった番組は、ハーバード白熱教室同様にサンデル教授の道徳的なジレンマの問題をゲストに問う形で行われました。

 5人を救うために1人を犠牲にするのか、これは道徳的ジレンマ定番の例題です。
 
<Lecture2-1「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」>

【サンデル教授】
 北朝鮮の拉致問題、それを考える前にちょっと想像してください。

 あなたは、電車の運転手です。
 今ものすごいスピードで走っています。
 その行く手に5人の作業員が見えました。


 
 彼らは線路の上で作業をしていて気がつきません。
 しかもブレーキが効かないんです。
 このままでは確実にひいてしまい、5人が死んでしまう。

 ところが、横にもう一本線路がありました。
 そこには作業員が1人だけです。
 あなたがハンドルを切ればそちらに行けるのです。

 5人を救うため1人を犠牲にするのか?
 その判断はあなた次第です。

<問>
【サンデル教授】
 1人を犠牲にして5人を助ける人?

 あなたがハンドルを切らなければその1人は助かるんですよ?

 結論は出ましたか? それでは理由を聞きたいと思います。愛さん。

【はるな愛】
 そのまま行って、5人の命がなくなる・・・・だったら、1人の人に・・・

【サンデル教授】
 5人を救うなら1人の犠牲は仕方がない?

【はるな愛】
 そうですね。

【サンデル教授】
 それは数の問題だということですね? 5対1だからと。

【たけし】
 先生作業員の歳はどうなるんですか?(爆笑つづく)

 年齢は・・・若い人と年寄りとでは・・・、どういう関係なんでしょうか?

【サンデル教授】
 それは関係ありますか!
 まさか若い人なら救って、お年寄りなら殺すというのですか!

【たけし】
 オレは、歳よりは先がないんで殺していいと思います。
 若い人の方がまだ可能性があるので、まだ人生が残っているような気がするので、若い人を生かしたいと思うんですが。

【サンデル教授】
 じゃあ~何歳からなら殺して良いというのですか?

【たけし】(外野から、何歳ならいいの・・・たけしさん。の声)
 60歳位から・・・・・

【サンデル教授】
 本気ですか、たけしさん。

 (じゃんじゃんクレームが来ちゃう。との声)

【サンデル教授】
 5人を救うためなら1人を犠牲にする。あなたの理由は何なんでしょう?(石破茂氏を指して)

 さきほどあなた、5人を助けるため、1人を殺すと答えましたね?

【石破茂】
 私はそう思います。その決断をするのが政治家であって、良いとか悪いとか言ってられません。5人の命の方が、(また)1人の命も大事だと、その決断をするために政治家という仕事はいる(必要・居る)と私は思います。


          (※注:誤りテロップ)

 <管理人注意:※ 石破氏は、実際にはこのように5人の命も1人の命も大事と語っています。そのどちらかをとるかを決めるのが政治家の仕事ということであると言っています。

 この部分日テレのテロップは、「5人の命の方が 1人の命よりも大事」と書いてありました。この掲出は大きな誤りです。

 実際このように石破氏が1人の命をないがしろにしているとの批判のブログを見ますが、よく聞き取ることが重要です。

 サンデル教授の質問に対し、歯に衣を着せたような発言と取られそうですが、防衛庁長官という立場を経験された人の発言とみると、非常に冷静な落ち着きのある答弁だと思います。
 
 急な質問、事前のシナリオがあるようには見えません。なかなかの御仁です。

 ※(また)を入れたのは、思考が先に展開すると言葉を飲み込んでしまい、言いたいことが先に出てしまうからで、話の流れから再度(また)の欠に気がつかなかったと推測し、小生が付けました。

 ※ 石橋氏は、最後に「その決断をするために政治家という仕事はいると私は思います。」と語っています。「いる」は「必要・居る」のことと思いましたので、(必要・居る)という言葉を入れました。以上>


【サンデル教授】
 なるほど。みなさんのほとんどが同じ答えですよね。5人を救うため1人を犠牲にすると。
 
<次の質問>
 ~5人の命と1人の人権~

【サンデル教授】
 では少しだけ状況を変えて想像してください。

 今回あなたは運転手ではなく、線路のすぐそばの橋の上から電車を見ています。

 猛スピードで電車が走ってくるのが見えました。そして、その行く手には、5人の作業員がいます。

 このままでは彼らは死んでしまう。

 あなたには何もできない。

 しかし、あることに気づきました。あなたの隣にとても大きな男がいます。
 彼を線路の上に突き落せば、電車が止まるかも知れない。

 もち論彼は死ぬでしょう。でもそれで電車が止まれば5人は助かる。どうでしょう。
 この場合もあなたは5人を救うために1人を殺しますか?

 <橋の上から電車を見ているあなた、5人の作業員か隣の大男、どちらの命を助けるか?>

【サンデル教授】
 それでは聞きましょう?
 隣の大きな男を突き落して、5人の命を助ける、自分ならばそうするという方は手を挙げてください。

(手を挙げるゲストなし)

 誰もいませんか? なぜでしょう?
 最初の例では、1人を犠牲にして5人の命を救うのが正しいと答えていましたよね。

 今度は何が違うんですか? 理由を教えてください。

【石破茂】
 自分はまったくそこに立っているだけなのに、そこの横にいる人が、コイツを落とせば5人が助かるぞという、本人の同意も何もないままに、その人の命が失われる。

 本人の同意がないのに、人を殺すことと、5人を助ける。どっちが重いかということは単純にどれだけの人が助かりますか、とは違う価値が入ってくる、と私は思います。

【サンデル教授】
 あなたも同じ意見ですか?

【三倉茉奈】
 私も同じような意見で、大きな人が落とされるということは、その人は全く関係のない人で、その人が助けたいと思ったかどうかも判らない。それなら落とすんでなく自分から飛び降りるならわかるけど、関係のない人を落というのは、わたしは間違っていると思います。

【サンデル教授】
 今、重要なことが見えてきました。

 第1の例では、みなさん5人の命を救うために1人を犠牲にすべきという意見でした。 より多くの命を救うべきだと。

 しかし2番目の例では、命の数よりも個人の意志や権利が重要だという意見が出ました。
 ※注:テロップは意思という表記でした。

 より多くの人の幸せを優先するのか? それとも個人の権利を優先するのか?

 実は哲学において・・・この2つの価値観の対立は・・・とても重要なことなんです。

[この問題の本質]
<より多くの命を救う>vs<個人の自由と権利を守る>

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上が前半のLecture2-1「5人の作業員の命と1人の命・1人の人権」です。

<たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・北朝鮮問題を考える(2)に続く>

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原始仏教典から学ぶ・智慧・哲学の心

2011年02月27日 | 宗教

 写真は日本の卑弥呼の時代ごろのガンダーラ地方出土の「涅槃」像です。これが流れ流れて江戸期には「絵解き」として仏教の教えの絵巻物になりました。
※『Gandhara Art of Pakisutan』(パキスタン・ガンダーラ美術典図録 日本放送協会1984から)

 と書くとその手の専門家というと私は全くの素人です。しかし間違いないと誰でも確信できるのではないかと思います。

 伝わるものの中に何が立ち現れているのか、もの的思考で動的にとらえるとそこに現れてくるのは制作者の言葉と身体動の結晶です。アリストテレスの目的的論法、そのものの善きとするもの、これを哲学すると結晶の結実以外にはないと思います。

形に囚われると見えるものが見えてこなくなる。死後に囚われ、輪廻に囚われる涅槃に秘められたものは何であろうか、ふとそんなことを思う今朝の心境。

 仏の像に愛を思うならば幸いである。私などは前にも書きましたが、携帯(今はスマートホンにしましたが)は国宝の阿弥陀様です。信じるとか信じないの次元の話ではありません。

 こんな話があります、有名な話で以前にもブログに書いたことがあります。キリスト教の布教の際の勧誘の言葉です。

 布教者 神を信じますか。

 一般者 特に信じてはいません。

 布教者 死んで神様に、なぜ信じなかったのか?
     と質問されたらどうします。

     どちらかといったら信じないよりも、信じた方が良いと思いますよ。

     その時のために信じておきましょう。

最もな話で、信じておけば間違いなく神の御国に入れるわけです。

 実に納得のいくところです。前提は既に超越的な神は存在するにあります。愛の神は立ち現れているのです。その神は私の心を見透かしています。過去の行状も全て知っています。

 神の前に立たされた人間は、今は100%それ以上の感慨が彼を襲っています。すべての過去の行状に反省以上の念が走馬灯に映し出される行状を打ち消していきます。

 どんな愚かなものであろうと、そうであろうと確信しています。かれは100%信じています。

 こんないたいけな彼を神は地獄へと蹴落とすのでしょうか?

 その時信じればよいという話ではありません。100%信じるしかないからです。これは絵空事ではなく、夢のごとくにその場の現実で、全くの矛盾のない世界です。

 それでも蹴落とすとなると、神は瓦解してしまいます。

これはパラドクッスでもなく単純な思考の世界です。キリスト教批判でも全くありません。

神の愛とはそういうものなのです。

 原始仏教典、これを知りたい、となると純な君は中村元先生のお力を借りるがよいと言われ、春秋社から出版されているもの、岩波文庫のものを紐解きます。私はそうでした。

 今朝はそんな話の流れで、春秋社の中村先生の原始仏教典(第一巻)「長部経典Ⅰ」を久し振りに紐解きました。

<原始仏教典から>

〔心から成り立つ智慧〕
「このようにして、心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れのない、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、〔そのもの自身が〕堅固不動なものになると、かれは、心(意)から成り立つ身体を創りだすことに心を傾け、心を向けるのです。かれは、この物質的な身体とは、異なった、形はあるが心から成り立ち、四肢もすべて備え、感覚器官もかけることなく備わった身体を創りだします」

〔蛇と脱けがらのたとえ〕
「また、さらにカッサパよ、たとえば、ある人が〔脱皮の途中の〕蛇を皮から引き出すとします。その人は『これは蛇で、こちらは脱けがらである。蛇と脱けがらは別のものであるが、蛇は脱けがらから引き出されたのだ』と考えるでしょう(p370)。

 このようにして心が安定し、清浄となり、浄化された、汚れのない、小さな煩悩を離れた、柔軟で、活動的であって、〔そのもの自身が〕堅固不動なものになると、かれは、心から成り立つ身体を創りだすことに心を傾け、心を向けるのです。かれは、この物質的な身体とは、異なった、形はあるが心から成り立ち、四肢もすべて備え、感覚器官もかけることなく備わった身体を創りだします。これもまた、修行僧の智慧の完成なのです」(p371)

<以上※(?形梵志経)から>

※?=イに右に果の文字
 漢訳『長阿含』第16(大正経1、102以下に相当するもの)とのこと。

 この二つの教えに何を読み取るか、私は修行僧ではありません。五体満足を保持することは五感であること、五感の感得を意味するに違いはないのですが、この五体満足の意味するところは、何か?

<形はあるが心から成り立ち、・・・・>

ここに智慧が潜んでいるわけです。ものは身体性をも含みそれは心から成り立っているのだと思います。言葉でもあり、像でもあり、絵画でもあり、森羅万象ことごとくなのかも知れません。

 形を形のみに囚われると、仏教の教えにほど遠くなるように思います。ギリシャ神話の歴史そこにあるギリシャ哲学の思想そこをも知悉してゆく、己の納得は己で、できない人は善き人を誤りなき智慧で発見するしかありません。哲学の心は、そんな智慧の発見でもあると思います。

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山姥(能)・舞を哲学する

2011年02月26日 | 文藝

 今朝は、能の山姥と舞について若干触れました。思うに舞はその時点の舞のみを観るのではなく、その痕跡や軌跡をも含めて見入るのではないかと思うのです。

 雪が舞う。天空から飛来する雪。それは飛行機雲のような痕跡があるわけではないのですか、時として鑑賞するかのようにその軌跡をも見入っているように思うのです。

 痕跡は背景のごとくに視点意識から去ってはいますが、歴然として心にとどまっている。それはまた演奏曲の過ぎ去った音符のようなものです。

 痕跡や軌跡は時間とともに闇の中に葬られていきます。
 
【万葉集歌・沙弥満誓(さみまんぜい)】 

世間(よのなか)を 
  何に喩へむ朝開(あさびら)き 
    漕ぎ去にし船の 跡なきごとし

  世のなかを何に喩えたらいいのだろうか。それは、朝早く港を漕ぎ出て行った船の航跡が、何も残っていないようなものだ。(NHKテキスト『日めくり万葉集テキスト』から)

 前にも書きましたがこの歌について、阿部謹也先生は著書『世間とは何か』(講談社現代新書)の中で次のように書かれています。

「船が漕ぎ去ってしまった跡には痕跡もなくなってしまうように世の中は無常なものだと歌っているのである。」

と語り、

 この歌は後に勅撰和歌集の「拾遺集」なので次のように変えられて採用されている。

 世間(とのなか)を何に喩へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪(しらなみ)

  以後この歌はこのような形で世の中の無常を歌った代表作となり、小野篁(たかむら)から、恵心僧都源信、鴨長明、松尾芭蕉と名だたる歌人、俳人がこの歌を基準にして世の中の無常を歌っている。すでに万葉の世界において世の中ははかなく無常だと歌われ、それが連綿と続いて今日に至っているかにみえるのである。

無常観を歌ったものだと語っています。

 そのような感覚て能の山姥を観るとその舞の中にこの軌跡を垣間見てしまうのです。

 最近の信州大学護山真也教授のブログに、

 虫の文字[2011年02月18日]
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/prof/moriyama_1/2011/02/37822.html

という原始仏教典の虫食いの軌跡の話がありました。このブログを私見で、その文字の形は虫の葉を食べた軌跡です。それが文字のように見え、虫はそれを意図していたか? 

 意味ある思いの軌跡かなどと考えていて、昨夜深夜に能の「山姥」を観たとたんこのことが頭をよぎり、「朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪」になったのです。

 「語られるものと語られないもの」というそれが舞であろうと思うのです。能についてはこれまでに、

ワキ(僧)の役割 <前段>[2009年08月29日]

「伝統芸能」から学ぶ[2009年11月24日]

能と日本文化を語るとき[2010年01月01日]

この花は誠の花にあらず[2010年07月22日]

うつろふ(移ろう)・無常・もののあわれも・やまと言葉の世界[2010年09月30日]

呼吸と日本文化・本間生夫[2010年10月07日 ]

などと知ったふりで書き綴っています。まったくの素人の域を出ていませんがそれなりに楽しんでいます。


法政大学の山中玲子教授の解説による〔仕舞「山姥」クセ〕・〔能「鉢木」喜多流〕という番組で、今回取り上げるのは、仕舞「山姥」(シテ塩津哲生)です。[NHK教育2011.02.19 15:00能「鉢木」~喜多流~]から

 仕舞とは、能の略式演奏のことで、一曲の見どころの内で、シテが地謡(じうたい)にあわせて舞う部分をいう。

ということで、本編は長いのですが姉妹の場合は10分程度の部分です。

<仕舞 山姥>

【シテ】そもそも山姥は(立つ)、生所も知らず宿もなし(足拍子を踏む)、ただ雲水を便りにて(中央へ出る)、至らぬ山の奥もなし(扇を開く)。

【シテ】 しかれば人間にあらずとて(上ゲ扇をする)、<以下・下記の現代語訳参照>

【地謡】 「隔つる雲の身を変へ、仮に自性を変化して、一念化生(いちねんけしやう)の鬼女となつて、



目前に来れども(正面先へ出る)、邪正一如(じやしやういちによ)と見る時は、色即是空そのままに(角へ行く)、



仏法あれば世法あり(小さくまわり正面を向く)、煩悩あれば菩提あり(左へまわって大小前へ行く)、仏あれば衆生あり(中央へ出る)、



衆生あれば山姥もあり(ユウケソ扇をする)、柳は緑(扇を左肩に当て、右上を見る)、花は紅の色々。



さて人間に遊ぶ事(足拍子を踏む)、ある時は山賤(やまがつ)の、樵路(せうろ)に通ふ花の蔭(角へ出る)、休む重荷に肩を貸し(脇正面に下がり、膝をつく)、月もろともに山を出で(立つ)、里まで送る折もあり(あたりを見まわし、橋がかりのほうへ向く)、またある時は織姫(おりひめ)の(常座へ行く)、

五百機(いほはた)立つる窓に入つて(正面先へ出て足拍子を頼む)、枝の鶯糸繰(うぐいすく)り(見まわして日付柱へ向く)、紡績の宿に身を置き、人を助くる業をのみ(左へまわって笛産前へ行く)、



賤(しづ)の目に見えぬ、鬼とや人のいふらん(中央へ出る)。

【シテ】 世を空蝉(うつせみ)の唐衣(からころも)、<以上・下記の現代語訳参照>

【地謡】 「払はぬ袖に置く霜は、夜寒(よさむ)の月に埋れ(正面先へ出る)、打ちすさむ人の絶間にも、千声万声の(足拍子を踏む)、砧(きぬた)に声のしで打つは(両手を打ち合わせる)、ただ山姥が業なれや(ツレへ向く)、



都に帰りて(まわって常座へ行く)、世語(よがたり)にせさせ給へと(ツレへ向き、中央へ出る)、思ふはなほも妄執(まうシふ)か(正面を向く)、ただうち捨てよ何事も(角へ出る)、よし足引(あしびき)の山姥が(扇をかざして左へまわる)、山廻りするぞ苦しき(大小前でツレへ向く)。

<以上>

【現代語訳】

【山姥・シテ】「それゆえ人間ではないというわけで、

【地謡・山姥】 物を隔てる雲のような身であるが、その本来の身を仮に変化させて、一念を凝らした結果、鬼女の姿となり、このようにあなたの目前に現われて来たのである。しかしながら、邪正一如(じゃしょういちにょ)という立場で考えれば、この世は『色即是空』そのままの世界であって、仏法があるから世法がある、煩悩があるから菩提がある、仏があるから衆生がある、衆生があるから山姥もあるという次第で、柳は緑であり花は紅であるというように、それぞれの区別はあっても、そのもの本来は『空』なのである。

さて山姥が人間の世界に交渉をもつ様子はといえば、ある時は、山人が薪を背負って山路の花の陰に休む折に、その重荷に肩を貸して代わって荷い月の出とともに山を出て、里まで送る場合もあるし、またある時は、機械の女性が多くの機(はた)を立てている室に窓から入って、柳の枝を飛び交って糸を繰る鶯のように糸を繰って、糸をつむぐ家に身を置くのである。このように人間の仕事を助けることだけをしているが、賤(しず)の女の目には見えず、それで、『山姥は目に見えぬ鬼である』とか言っているようだ。

山姥「なんとこの世はつらいこと。

<以上現代語訳・日本古典文学全集謡曲集(2)小学館>

【あらすじ】
 この山姥という演目のあらすじですが、場所は越後の国上路(あげろう)山中。都に棲んでいる従者(ワキ)は、共をする者(ワキシテ)と一緒に一緒に、都で百万山姥という舞の上手な遊女を連れて、信濃の善光寺を訪ねます。

 途中越後と越中の間を流れる境川つくと、突然、周囲が暗くなり山女(前シテ)が「やどをかしましょうか」と声を掛けに来ます。

 山女は「山姥の謡が聞きたい。まことの山姥をしっているのか、」「百万山姥が謡ったなら、自分も本当の姿を見せよう」と、自分が本物であることをほのめかして姿を消した。

 夜になると、山姥(後シテ)が恐ろしい形相で一行の前に現れて、百万山姥の舞ではない本物の舞を舞って見せる。それは山姥が山めぐりする様を見せる内容で、山、谷、峰の荒々詩さを表現すると同時に、仏道を説くものです。

 山姥の山めぐりは、すなわち輪廻である。

と参考にした『能ガイド【90番】』(成美堂出版)には書かれています。

 謡のみではなく舞が伴う。舞は踊りと異なり静的な動です。人間が一定の状況下で行う仕草やジェスチャーの拡大にも見えます。

言葉と身体の動作、鼓(つづみ)、笛と身体の動作。

二重構造のようですが、どうも別々ではないようです。

 ゲシュタルトとは、諸部門の性質が関係性の中で決定されてくる布置の全体といえる(「メルロ=ポンティ(道の手帳)」河出書房新社 杉本隆久p7)。

面前の現象にゲシュタルト心理学の要素が加わると、フランスの哲学者の言語論は、

 ことばというのは基本的にジェスチャー、身振りである、身振りの延長として言語を考えるもの・・・・。

能を観るとこのことがよく解ります。ある有名な哲学の先生は非常に難解にこの思いに至るのですが、世人は言葉にはしませんがそのように知覚していると思います。

 雪の舞いや虫の字を見る者からすると自然にもなにか言語性を観てしまいます。仏教は鋭く哲学しているわけです。無常感は言語であって言語ではありません。

 語り得ぬものでありながら、語られている。それは身体性においてなのかも知れません。

 現象学にベルグソン、そしてゲシュタルト。現象学にベルグソン、そして仏教が加わる。

 個人の哲学はそれぞれの入り口があるようです。

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雪の舞い・能の舞い・舞の軌跡

2011年02月26日 | 文藝

 「舞」能狂言について時々言及するものの、わたしは素人です。昨夜は長野で送別会があり午後10時ごろの帰宅となりました。小雪が舞う長野を出て、高速長野道は姨捨付近は、その雪の舞いは強く、このままでは真冬に逆戻りかと旧四賀村と旧明科町の境にあるトンネルをぬけ安曇野平に出ると、辺りには雪の気配は全くありませんでした。

 山国信州、山の隔たりが、降雪の気配を左右させます。日本海の大雪は北アルプスに遮られ、今年は例年よりも安曇野、松もの平は雪が少ない年です。深山(みやま)といいますが、実に信州は山深いところです。

 帰宅後何ゆえか、録画しておいた能狂言の番組を見ました。夜の無言(しじま)に物好きかと思われそうですが、幽玄の世界は、静寂の闇の中で鑑賞するが心地よし、そんな独言を吐くのであります。

 長野市といえば善光寺、今善光寺は多くを申しませんが僧侶間の「男女の性(さが)」を種とした、訴訟というもめごとの最中です。

 < 善き光ぞと影頼む、善き光ぞと影頼む、仏の御寺尋ねん。・・・・・ >

 ワキ・ワキツレのこの歌で始まる能は「山姥(やまうば・やまんば・やまおば)」といいます。

 今朝はこのことについて語ろうかと思っていたのですが、車を取りに朝早くから出かけなければならず、今朝はここまで致します。

 「舞」は動きの軌跡も含め、謡の声とともに、ものを表現しています。ものといっても形があるわけでもなく、時の流れの中の軌跡。受ける側の思い入れがあるだけです。実に不思議な世界です。

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たけしのIQ200で語られたサンデル教授のカント哲学・神に嘉(よみ)せられるために

2011年02月25日 | 哲学

 昨日の地元紙朝刊(信濃毎日新聞)を読んでいると文化欄に瀬戸内寂聴さんの「国技とは?」が目にとまりました。
 
 日テレの「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」という番組のマイケル・サンデル教授特別講座のLecture1「大相撲八百長事件」について、二日に分けて掲出しましたこともあり、シンクロニシティー(共時性)かと思ったのですが、ニュージーランドの地震、リビアのカダフィ政権崩壊、民主党分裂危機もありましょうが、この問題は今日的なもの、話題にならない方がおかしいのです。

 長野での寂聴さんの講演が病気の関係で中止になるという話も聞きまし心配していましたが、執筆は大丈夫のようですから病気は大したことはないようです。

 寂聴さんは、大相撲の八百長問題についてどう考えておられるのか、文化欄の記事から引用させていただきます。


<引用>

 ・・・・・<略>・・・・

 最近、大相撲の「八百長」が大問題になって、力士たちの流したメールまで解析され、のっぴきならない八百長の証拠としてあげられてしまった。今だからいえるが、私などは、相撲界に八百長はつきもので、それは誰もが承知で、勝負を見ているものと思っていた。

 ところが、今度問題が持ち上がると、相撲協会はこれまで八百長はなかったと言い張ってみたりしているが、誰もそんな言葉は信用しないだろう。笑ってしまうほどメールの打ち合わせは詳細を極めていてリアルであった。

 八百長は国民の信頼を裏切るものであると首相が発言したと新聞に出ていたが、国民はそれほど相撲界を信頼していただろうか。
 
・・・・・<中略>・・・・・

 現在の相撲界が、この騒動をどう収めるのかわからないが、今さら国技などという看板だけは外してもらいたい。外国人ばかりが強い今の日本の相撲に、国技などいうだけおこがましい。単なる「スモウ、スポーツ」として、強い外国人をジャンジャン招き、一から出直してみたらどうだろう。

<以上>

 たけしさんの番組内でも、相撲に八百長はつきものということを言う方がおられたが、確かに私もそのように思っていました。

 大きな体で長期間戦い続ける、しかも真剣勝負、体がいくつあってもたまらないように思います。相撲を取る側からすれば、今日ぐらいは少し手を抜きたい、そう思うときもあると思います。

 見る側からすれば、大きな体で「ガツン」と音を立てぶつかり、小さな体の力士が鮮やかに大型の力士を倒せば拍手喝采の大さわぎ。

 勝ち負けは二の次、相撲をスポーツとするならば、相撲には独特の不思議差があります。塩をまく姿に、対峙する姿に独特な面白さで人気がある力士もいます。

 「観客を楽しまそうと重い相手と連絡を取りました。」「今回は俺が主に楽しませる番だ。」という内容のメールだったらどうでしょう。

 「勝敗についてのメールですか?」「負けてやるというメールでしたか」というマスコミの質問に対して「楽しい元気な相撲を取りたいと思っていました。」と答える。

 元気のない、覇気のないまたあっさりした勝負ではなく、「楽しい相撲、楽しんでもらう相撲」を目指し勝ち負けは時の運とする心意気で戦っていた。

 これが力士と観客の普遍的立法、すなわちすべての人々が、そうだと納得するものだと思います。

 力士自身の格率が常にこの普遍的立法の原理に妥当するように相撲を取ること。

カントが言う定言命令に従った行動になると思います。

<自分の行為の主観的な方針がいつも、すべての人にとってもあてはまる道徳法則になるように行為せよ>

 このカントの道徳法則をしっかり力士に教えておけばこんな大騒ぎにもならなかったかもしれません。

 緊急来日、相撲学校でサンデル教授の特別講義!

 首相の「信頼を裏切もの」発言、信頼という言葉には義務という言葉が隠されています。

 力士の義務。力士の義務の家にはたがいにケガをせず、円満に生きようなというアプリオリなものもあります。

 力士は道徳的完全性を目指して戦いを見せるもの

 神に見せる神事である。

 神に嘉(よみ)せられるため、善き行為以外にはなにも必要ではない。

 カント哲学もこのように相撲を見る目に応用すればよいのかもしれません。

 最後に、寂聴さんの「国技をやめたら」という意見、実際国際相撲のような現実を見ると本当にそう思います。開かれた楽しい相撲、他のスポーツとは少々異なる視点から見ることができる相撲。そんな相撲界を再構築してもらい対と思います。

 サンデル教授のカント哲学の講義、今回の「嘘」については、

 『これからの「正義」のはなしをしよう』(早川書店)のp172~p182

 『ハーバード白熱教室講義録』(早川書店)下「第7回嘘をつかない教訓」

が参考になると思います。またカントの定言命令を即効で知りたい方は、岩田靖夫先生の『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)がお勧めです。これほど分かりやすい入門本はないと思います。

(今朝の写真は最新の常念岳です。)

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たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・相撲八百長問題(2)・サンデル教授の授業

2011年02月24日 | 哲学

 今朝は昨日の続きとなります。

大切な家族を守る嘘は許されるのか?
【サンデル教授】
 みなさんちょっと想像してみてください。あなたの兄弟が大学の入学試験でカンニングをしました。そして、あなたはそれを知ってしまった。

 その場合大学に通報するという方手を挙げてください?

 通報すると当然合格は取り消しになりますよ。

 難しい問題ですよね。
<結果>
 真っ二つに分かれましたね。

 では茉奈さん佳奈さん、二人はしまいですよね。

【佳奈・茉奈】
 双子です。

【サンデル教授】
 双子ですか、それでは佳奈さんに聞きましょう。
 茉奈さんがカンニングしたのではないか? と先生があなたの尋ねたとします。
 何と答えましか?

【佳奈】
 私は茉奈がカンニングしているのを知りませんと答えます。

【サンデル教授】
 でも知っているんですよね? 正直に言わないんですか?

【佳奈】
 やっぱり大学の入試というと、本当に人生の大きな試験じゃないですか、隣で頑張っている姿を見ているとなると隠してしまうのではないかと・・・・・。

【サンデル教授】
 嘘をつくんですね? 大切な姉妹を守るために。

【佳奈】
 はい。そうですね。その場合は。

【サンデル教授】
 なるほど。・・・。あなたはどうですか?

【久保純子】
 私はこれまで同じ人生を家族として歩んできて、その家族の一員として社会に背くようなことをしてしまったのは責任が大きいと思うので、本当に心を鬼にして一生それを背負って行くという思いで、お伝えしてしまうと思います。

【サンデル教授】
 これは非常に興味深い結果です。いま二人は反対の意見を持っていました。

 正直に告げるか。
 それとも嘘をつくのか。
 
 でも理由は同じでした。二人とも兄弟のためを思って出した結論だということです。

 大相撲の八百長のケースでは、ほとんどの人が良くないと答えました。でも親子の腕相撲の例やカンニングの例では必ずしも嘘は間違いではないという意見が出ましたよね。

 本当に許される嘘はあるんでしょうか?・・・・・我々は答えに近づきつつあります。

<たけしに究極の状況を!>

【サンデル教授】
 これは究極の質問です。ここにいるたけしさんの映画が、とてもつまらなかったとします。そして皆さんは、その映画を見た後でたけしさんに感想を聞かれました。

 面白かったかどうだったかです。たけしさん? 感想を聞きたいですよね?

 Yes! (厳しいでですね・・の声)


 
 みなさん、たけしさんの友人ですよね? どう答えますか?

【たけし】
 そりゃー・・・結論は・・・・マズイだろう・・・。(爆笑)

【サンデル教授】
 なぜですか? これはあくまでもたとえ話です。それともまさか実際にそんな事があったんですか?

【たけし】
 今までそういう設定はかなりありましたが、だれも本心を言った人は一人もいません。(大爆笑)

【サンデル教授】
 そうだったんですか。それは失礼しました。でもこれはあくまでも、たとえ話です。
 もう一度言いますよ。

 たけしさんの映画がつまらなかった。そしてあなたはたけしさん本人に感想を聞かれた。 さあー正直に答えるのか? それともたけしさんを思いやって嘘を言うのか?

 では聞いてみましょう。まずは正直に答えるという人?

 まあーお兄さんなら当然ですよね。7人の方が正直に答えるんですね?

 ではそうではなく、たけしさんを思いやって嘘をつくという人?

 ではあなたから聞きましょう。お名前は?

【カンニング竹山】
 こんな時に言うのも何ですけどカンニング竹山と申します。(爆笑)

【サンデル教授】
 じゃあ-実際にやってみましょう。たけしさん彼に感想を聞いてみてください。

【たけし】
 オレの映画、この間見た?

【カンニング竹山】
 はい。見させていただきました。

【たけし】
 どうだった? よかっただろう? 絶対いいよな?

【カンニング竹山】
 お客さんすごく盛り上がっていました。言っておきます、周りにも。

【たけし】
 本当のことだよね?

【カンニング竹山】
 当然です。

【サンデル教授】
 ありがとうございました。
 今度は正直に答えるといった人。たけしさんを傷つけても良いんですね?
 どうですか?

【荻原博子】
 言い方というものがあると思うんです。言い方。

【サンデル教授】
 彼(カニング竹山)とは違う? 

【荻原博子】
 彼のは、本当の嘘! 

【サンデル教授】
 では実際にやってみてください。

【たけし】
 オレの映画のことばっかり・・・・・。妙な設定になちゃった。

【たけし】
 オレの映画見てくれました。良かったでしょう?

【荻原博子】
 良かったですけど、だけど今回配役が無理なさいました? (爆笑)
 まとまりがちょっとね。大変だったでしょ?
 あれだけまとめるのは?

【たけし】
 まあーそれなりに苦労しましたけど。

【荻原博子】
 苦労の跡がすごくよく解りました。

【たけし】
 それは楽しんだんですか?

【荻原博子】
 いや・・個人的には面白かったですよ。

【たけし】
 個人的には・・・。ありがとうございました。

【サンデル教授】
 ありがとうございました。あなたは外交官になれますよ。非常に社交辞令がお上手です。

 今のは正直な言い方というより、オブラートに包んだ言い方だったですよね。では私もやってみましょう。絶対に嘘は言いません。

【たけし】
 映画見て見てくれました?

【サンデル教授】
 もちろんです。

【たけし】
 どうでした?

【サンデル教授】
 知りたいですか? 私は、こんな映画見たことないと思いました。

【久保純子】(外野から)
 最大のの褒め言葉。

【たけし】
 こんな映画見たことない・・・・。
 
【サンデル教授】
 人生初です。

【たけし】
 良かった? ヒドかった? どっちですか?
 あまりにもすごい映画なのか? こんなにひどい映画見たことない、どちらでしょうか?

【サンデル教授】
 信じられない様な映画でした。
 
<全員から「ホー」という声が上がりました。>

 まず竹山さんは、真っ赤な嘘をつきました。たけしさんを傷つけないためにです。一方博子さんは、真っ赤な嘘ではないけれど社交辞令を言いました。

 そして私は、たけしさんに誤解を与えたかもしれませんが、一切嘘はつきませんでした。

 これはある偉大な哲学者の考え方なんです。18世紀の哲学者イマニュエル・カントはこのように考えました。

 嘘は絶対にいけない。しかし嘘をつくという事と誤解を与える言い方は大きな違いがある。

と。これまで学んだ通り、時には本当のことを言わない方がよいケースもあります。それでも注意深く言葉を選んで、嘘をつかずに思いやるべきだというのが、カントの考え方なんです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が大相撲の八百長問題に関しての講義でした。この阿多の北朝鮮の拉致問題がありますが、今回は2回に分けこの問題を紹介しています。

 さてこの議題に対しては、「いかに考えれば解決方法が導き出せるのか?」という課題が課せられていました。最終的にはカントの相手を傷つけない言い方という哲学的な考え方の紹介で終わってしまいました。

 相撲協会の、相撲自体の存亡危機に対する方法についての議論ではありませんが、課題に対する答えであるのか疑問に思ってしまします。と考えてしまうのが一般的なのかも知れません。

 答えが出ているのか、出ていないのか、理解できないからと早計に茶番劇と結論してしまいますが、そもそも哲学とは考えぬくことです。

 「いかに考えれば・・・・」とは思考を重ねる方法、過程を見るということです。今回の場合は、そして「解決方法が導き出せるのか?」という問いですから、このままでは大相撲そのものがなくなってしまうという懸念をどう払拭するかにあります。

 答えは、自分なりに考えてみましょうということになります。

 今朝はこれまでの私自身の大相撲八百長問題についての見解である「ほどほどに」という結論になってしまいますが、今回の講義内容も含めまた自分なりに考えてみる必要がありそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 相手を思いやる心。相手を傷つけない言い方、相手を傷つけないやり方。

 八百長の行為者は、嘘をついた方、すなわち力士ということです。

 嘘をついたことには理由があったわけです。

 十両幕下の関係者、個人的なブログにお書きましたが彼らには経済的な問題、待遇的な問題から経済的な困窮という悲しい事情があるようです。

 また一方週刊誌では過去においては横綱までもその噂が立ったことがあります。これは経済的な困窮問題ではなく、興行的な問題、個人のプライド・・・等がそこに横たわっています。

 仲間同士のなれ合いの中で、相手の真の困窮を知っているとき7勝7敗の状況、連絡も取らずに負け試合をしたもの側を非難できるでしょうか。

 そういう問題と横綱の名誉、興行収入の増収狙いのための懈怠相撲を同列にみることができるでしょうか。

 本来フェアな相撲であるべきならば、その環境を整える方が先決のように思います。いつまでも力士を絶体絶命の状態におくことは・・・・もういいのではないかと思います。

 もう追及は不可能として、環境づくりと相撲組織の改革をはかることを先決としてもらいたいと個人的に思います。

 解決方法は、それでいいのではないでしょうか。力士全員が絶体絶命の窮地に立たされたのですから、もう二度と同じ過ちはないと思います。思いやりをもって救ってあげるがよいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 仏教のことばに「嘘も方便」という言葉があります。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、「方便」の原書的な意味として、

方便(ほうべん、サンスクリット:upaya ウパーヤ)は仏教用語であり、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。方便の意味は仏教の歴史とともに分化・深化した。

と書かれていて、またとても細かく説明されています。今回の相撲の八百長問題に重ねるつもりはありません。

今現在の『ウィキペディア(Wikipedia)』は、「最終更新 2011年2月23日 (水) 01:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。となっています。実はこのこの更新前までは「鳩山元首相の普天間基地移転に伴う、”方便 ”発言」に関して一番最後に、

 鳩山元総理が普天間問題で述べた「海兵隊は抑止力というのは方便だ」というのは、「方便」ではなく「詭弁だ」と書かれていました。

 検索用語は当初「嘘も方便」という言葉で検索でき、今は「方便」のみとなり上記内容は削除されています。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』にしては鋭い解説を載せ、「公」が薄れると思ったのですが、やはりそうなりました。

 ※「詭弁」とほぼ同じ意味で用いられることもある。

とも説明され「詭弁」にアクセスできるようにしてありますが、上記の話はもちろん出てきません。

いろんな人がいろんなことを考える。

公(おおやけ)的に良いのか・・・・、自分の思いとは異なる考えに遭遇する。

そのときに一つ進歩したということです。

 自分の思いだけではなく、思いやりの心で少々考えてみる。五感で観てみる、そんな時に来ているように思います。

最後に番組の終わりにサンデル教授がこのように言っていました。

【サンデル教授
 哲学的な議論や思想は、我々の普段の生活にも深くかかわっているんです。日常様々な問題に対して、我々は常に考えます。

 何が正しいのかを?

家族のこと、仕事のこと、政治のこと

それこそが哲学なんです。

つまり皆さん全員が哲学者だということです。

<以上>

とても素晴らしいことばだと思います。詭弁ではありません。私はそう思います。

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たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~・相撲八百長問題(1)・サンデル教授の授業

2011年02月23日 | 哲学

 今朝のブログでも紹介しましたが21日日本テレビ(地元ではテレビ信州)で『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』という番組が放送されました。

 その際ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授が、

 ビートたけし、北野大 、西尾由佳理、はるな愛、テリー伊藤、丸岡いずみ、
 山本モナ、カンニング竹山、内藤大助、三倉茉奈・佳奈、さくらまや、片山さつき、
 石破茂、久保純子、勝谷誠彦等

を前に哲学の講義をされました。
 大相撲の八百長事件、北朝鮮の拉致問題を題材にこれが正しいという結論は出されませんが、問題提起に対しどのように考えるかという姿勢を教えられるサンデル教授らしい授業になっていました。

 最初に大相撲の八百長事件が講題になりました。この問題については

「ほどほど」を思うとき[2011年02月04日]

で、大相撲八百長問題を扱いましたのでその関係から今朝はこの講義について紹介したいと思います。

【サンデル教授】
 まずはこの問題から始めましょう。大相撲のスキャンダルについてです。確か日本語ではこう言うんですよね”ヤオチョー ”。この大相撲の八百長問題をどうすれば解決することができるのか一緒に考えてみましょう。

 まず皆さんにお聞きしましょう。八百長は許されないと思う人?

 絶対にいけないと思う人?



<挙手結果 許せない13 許せる4 (17名中)>

ほとんどの人がそう思うのですね。なるほど、まず八百長は許せないと思った人その理由を教えてください。

【はるな愛】
 やっぱり、嘘はいけないと思います。勝負なのでやっぱりそこに嘘があると、一生懸命応援しているのにガックリします。

<たけしのからかいは略>

では愛さんと反対の意見、八百長は悪くないと思う人?

【北野大】
 たけしの兄です。

【サンデル教授】
 ではお聞きしましょう。なぜ悪くないのですか?

【北野大】
 相撲は完全なスポーツではないんですね。一種の伝統的な文化であり芸能であるわけです。そして日本には昔から「武士の情け」という言葉があります。相手が窮地にあるときにはこちらがひいてあげる、自分が十分勝ち越しをしている、相手が7勝7敗の時には多少やはり「武士の情け」を示すべきである。

【サンデル教授】
 では今の意見に反対の人は?

【丸岡いずみ】
 北野さんは先ほど、相撲はスポーツと少し違うとおっしゃったんですけど、私はスポーツだと思っているんです、前提として。じゃあ同じスポーツである野球やサッカーも八百長をしていたとしたらどうなるのかと考えると、スポーツで一番大事なのは、人々に感動を与えることだと思うんですが、その感動が一切なくなってしまうと思うんですね。

 なので、八百長はどんな場合もお金が介する介さないは別にして、私は八百長はいけないことだと思います。

【サンデル教授】
 なるほど、お金の為であろうと、思いやりであろうと、八百長は悪い。

【丸岡いずみ】
 はい。

【サンデル教授】
 理由に関係なく人をだますことは悪い?
 そういう考えですね?

【丸岡いずみ】
 はい。

【サンデル教授】
 では反論のある方?

【テリー伊藤】
 八百長というものは、昔からあったもんだと思うんですよ。で、それを今頃になって「え!相撲って八百長があったの?」というふうに、そんなことも気がつかないで生きてきていること自体が、間抜けだと思うんですよね。

 人生そのくらい読み取れよ!と思いますがね。

【サンデル教授】
 面白い意見ですね。そちらの方はどうですか?

【荻原博子】
 相撲は国技です。だから象徴みたいなものです。そこでインチキがあるということは、やはり日本国民として非常に恥ずかしい気がします。

【サンデル教授】
 国技だからよくないと?

【荻原博子】
 よくないですね。

【サンデル教授】
 わかりました。では、たけしさん?

【たけし】
 相撲というのは「奉納の儀式」であって、豊作を感謝する神への儀式というのが基本的な精神絵あるから、それをスポーツとしてとるのはおかしい。あれは宗教行事だと思えば、なんでもアリだと思う。

【サンデル教授】
 宗教行事だから許される? そういうことですね?

【たけし】
 儀式ですから。

【サンデル教授】
 なるほど、ではそうは思わない人?

【片山さつき】
 もちろん国技に近い相撲で、ぶつかり合いを国民がずっと見てきたということがあるのに、それはシナリオがあって本当に強い方じゃない方が勝っているとなると”フェアという概念 ”が揺らいじゃうから・・・・。

【サンデル教授】
 人をだますのはフェアではない! だから許されない、そういうことですね。

【片山さつき】
 そうです。

<親子の腕相撲・許される八百長はあるのか?>

【サンデル教授】
 それでは皆さんに別の質問をします。

 さきほど大相撲の八百長について聞いてみると、多くの方が人を騙すことは絶対によくないとおっしゃっていましたが、では次の場合はどうでしょう。
 
 では面白い実験をしてみましょう。まさやさんはおいくつですか?

【さくらまや】
 私は今12歳です。

【サンデル教授】
 12歳! 12歳で哲学の授業を受けるなってスゴいじゃないですか。素晴らしいことですよ。

 あと腕相撲の強い方に手伝って欲しいんですが? あなた(内藤大助)世界チャンピオンですよね?

 では、チャンピオンまやちゃん前に出てください。

 今から二人は親子です。二人で腕相撲をしてください。

〔ここで二人で親子関係を想定して腕相撲が行なわれます〕

 お父さんは強いですよね。世界チャンピオンですから負けるはずはありませんよね?

 力の強いお父さんと力の弱い子供が勝負をしたらどうなるのか?

〔父親役である内藤大助さんが敗けます〕(全員の拍手)

【サンデル教授】
 OK。凄いですね、まやちゃん。世界チャンピオンに勝ったんですよ。
 
 では皆さん考えてみてください。今の勝負八百長だと思いますか?

【内藤大助】
 思わない。

【サンデル教授】
 だってあなたはわざと負けましたよね? 本当は強いのに。子どものためを思って敗けてあげたんですよね。

 さっきの大相撲の八百長は良くないと言っていましたよね? なぜでしょう?

 どこが違うんですか?

【内藤大助】
 僕とまやちゃんが親子だったら、成長して欲しい、自信を持たせたい、そういう意味で伸びて欲しいから負けてあげるってという感じに思ったなあ僕は。

【サンデル教授】
 OK。なるほど、たけしさんはどうですか?

【たけし】
 今のチャンピオンとまやちゃんの場合はハンデをつけるべきだと思います。腕相撲は親父が小指で・・・。そうしたらフェア。

【サンデル教授】
 では、まやちゃん。お父さんにわざと負けてもらって嬉しかったですか?

【まや】
 私は5歳くらいの時に知らずに頃にお父さんに勝たせてもらっていたことを初めて知った時にはショックでしたが・・・・。

【サンデル教授】
 嬉しかった? 自信がついた?

【まや】
 自信…持てましたね。嬉しかったです。

【サンデル教授】
 では、まやちゃんに改めて質問しましょう。八百長や人を騙すのは・・・絶対にいけない事ですか?

【まや】
 必ずしも悪くはないとは思います。

【サンデル教授】
 なるほど、とても面白いですね。

<目的によっては許される嘘もある>

<八百長の起源について>

【サンデル教授】
 そもそも「八百長」ということはどういうことでしょう。
 皆さん「八百長の由来」を知っていますか?

 明治時代にある八百屋さんがいました。これは実話ですよ。

 その八百屋さんには、ある特技がありました。それは囲碁です。とても強かったそうです。そしてなじみのお客さんと勝負をしていました。もちろん実力では負けるはずがありません。

 でも商売のためにわざと負けてあげていたのです。お得意様ですからね。

 その八百屋さんの名前が長兵衛(ちょうべい)だったので、勝負にわざと負けることを「ヤオチョー」そう呼ぶようになったそうです。

 では皆さんにお聞きします。八百屋の長兵衛さんがついた嘘は許されないものでしょうか? 間違っていると思う方? 手を挙げてください。

<挙手者なし>

 誰もそう思わないいんですね。では許されると思う人は?

<全員挙手>

全員ですね。おもしろい結果です。

<公約破りは許されるのか>

【サンデル教授】
 次にこの問題について考えてみましょう。

 政治の「公約」についてです。

 多くの人がこう言います。「政治家は平気で嘘をつく」と。これはあくまでも一般論ですよ。決して私がそう言っているわけではありません。ただ話題になっているのは間違いないですよね。

 政治家が選挙で掲げた公約を破っていいのかと!
 
 <ここで民主党仙谷代表代行のビデオが流れます>

【仙谷代表代行】
 この政権も鳩山政権にしましても、少々約束が言い過ぎの部分があったのかもしれませんが、・・・・・。

※2月13日の「公約の言い過ぎを認めた」仙谷氏の発言

 高速道路の無料化----------事実上の撤回

 子ども手当2万6000円--半額のみ

という現況、公約が守られていない、これは嘘か? 政治家が嘘をついたと非難されるべきことか?

【サンデル教授】
 では伺いましょう。公約は絶対に守られるべきと思う方は手を挙げてください?

 公約破りNG5名 

 公約は必ずしも守らなくてもいいと思う人?

おもしろい分かれ形をしましたね。それでは現役の政治家であるお二人(片山さつき・原口一博)に伺いましょう。

お二人とも公約は守るべきと答えましたよね?

どんな状況にあっても公約は破ってはいけないと。その理由は何なんですか?

【原口一博】
 公約というものは、単なるウィッシュリスト(願い事)ではなくて、国民(主権者)との間の契約となっています。契約は選挙の時に結んだもの、それを破るということは選挙において約束したこと、”契約を破棄すること ”で絶対にあってはならないことだと考えます。

【サンデル教授】
 片山さんはどうですか?

【片山さつき】
 選挙の時の公約が、根本的に守られない、中心的な公約が守られない、守らないということをその政権が宣言しなければならない時は、衆議院を解散して国民に信を問うべきですよ。

【サンデル教授】
 その公約は、どんな公約でも破ったら解散だということですか? 

 例えば、高速道路の無料化とか、たとえ一つでも公約が守れなかったら解散すべきだと、そこに例外はなく、原則だと?

【片山さつき】
 それが国民に受けて、正拳をとったことは事実だから、それはできないと理由を示して・・・・・・。

【サンデル教授】
 今は、大原則の話をしているんですよ。どんな公約でも破った場合にはやはり解散ですか? 

 それとも基本的に重要な公約だけということですか?

【片山さつき】
 私は、基本的に重要なものだけと思います。100の公約があったら必ず全部できるものではない、と思います。

【サンデル教授】
 わかりました。それではほかの方に聞いてみます。必ずしも公約を守らなくてもよいと答えた方? その理由を教えてください。

【久保純子】
 マニフェストは、公に宣言したものは、ある前提に立って宣言されたものであるので、その前提がなにかによって崩れたならば、たとえ公言したと言っても、悪い結果に導かれるので、守られないという状況もあると思います。

【サンデル教授】
 わかりました。あなたのお名前は?(西尾由佳理)

【西尾由佳理】
 ゆかり、です。

 その公約を破るときには、約束をした相手である国民が納得できることを、説得できるならば公約を破っても、状況が変わった中では良いのではないかと思います。

【サンデル教授】
 ツン吏有権者の合意があれば公約を破っても良いと言うんですね?

【西尾由佳理】

 思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 番組はこのように続きます。公約破りについては、政治家のお二人は「必ず守るべき」と答え、有権者であるその他の人は「守らなくてもよい場合がある」という意見が多いようです。

 番組はこの後

「家族を守る嘘は許されるか?」

 カントの哲学も取り入れた説明がなされていきます。が時間の都合上今朝はここまでとします。

 この番組が放送され、多くの批評がなされています。良いという人もいれば、サンデル教授の茶番劇とみる人もいます。

 私は個人的にサンデル教授が好きですので、番組自体はとてもよく作成され、娯楽番組の中で放送されたことを高く評価したいと思います。

※サラリーマン時間の都合により今朝はここまでとします。

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NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」・愛と正義

2011年02月22日 | 哲学

 先週の土曜日に、時々ブログで紹介しているNHK教育の<Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」>が放送されました。

 ゲスト出演されたのは、希望や愛、絆(きずな)をテーマにした歌で人気のシンガー・ソングライター、川嶋あいさん。そして今回の知識人は、あのジョン・ロールズの訳者で倫理学者の東京大学大学院教授の川本隆史先生でした。

 ”あの ”とは、我がブログで盛んに取り扱った「ハーバード白熱教室」のサンデル教授の講義にも登場した現代的”正義 ”の考え方を伝統的理論を一般化し、これまで有力的な伝統的な支配の原理功利主義に疑問を投げかけより優れた代替え案(公正としての正義)を提示したジョン・ロールズの思想が紹介されたからです。

 ちなみにサンデル教授はこのロールズ批判で学者として有名になりました。だからと言ってサンデル教授が功利主義者でないことは皆さんがご存知だと思います。倫理学者と哲学者の違い、倫理学と哲学、どこがどう違うのかこの問題については今朝は言及しないことにします。

 サンデル教授の名が出たのですが、昨夜はタレントで映画監督のたけしさんの番組「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」にサンデル教授が出演されるととのことでしたので、帰宅後早速見ました。


(テレビ信州「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」から)

 大相撲八百長事件、北朝鮮の拉致問題などについてカント哲学、上記の功利主義など専門的な話で分かりやすく講義されていました。久しぶりにサンデル教授の政治哲学が聞けたこともあり、「善く生きる」ために自分はどう考えていくべきなのか、思考することの大切さを教えられたように思います。


(テレビ信州「たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~」から)

 現在図書館から5冊ほど借り受けていますが、前回も話したようにこのジョン・ロールズ先生の『正義論 改訂版』はその中の一冊です。この本は800頁超の大作本、他の本も合わせて2週間ではノートにまとめることは不可能ですが、コピーも含めどうにか知悉の努力はしたいと思っています。

 今回の「わたしの思考探索」では、ロールズの正義論の中から”正義 ”の2原則が紹介され、またすばらしい詩が紹介されましたので今朝はそのことについて引用も含め感慨を述べたいと思います。

<引用>

 第l原理


(NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」から)

 各人は、平等な基本的諸自由の最も広範な仝システムに対する対等な権利を保持すべきである。ただし最も広範な全システムといっても〔無制限なものではなく〕すべての人の自由の同様〔に広範〕な体系と両立可能なものでなければならない。

 第二原理


(NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」から)

社会的・経済的不平等は、次の二条件を充たすように編成されなければならない。
(a)そうした不平等が、正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ、最も不遇な人びとの最大の便益に資するように。

(b)公正な機会均等の諸条件のもとで、全員に開かれている職務と地位に付帯する〔ものだけに不平等がとどまる〕ように。

第一の優先権ルール(他の何ものよりも自由が優先すべきこと)
 正義の諸原理は、辞書式順序でもってランクづけられるべきであり、よって基本的な諸自由は自由のためにのみ制限されうる。これに関しては二つのケース(事例・主張)が存在する。

(a)<〔あくまでも平等に分配しつつも〕自由の通用範囲を縮減すること>(a less extensive liberty)を通じて、全員が分かち合っている自由の全システムを強化するものでなければならない。

(b)<〔自由をいったん〕不平等に分配した上でその通用範囲を縮減すること>(a less than equal liberty)は、自由の適用範囲が縮減された人びとにとって受け入れ可能なものでなければならない。

 第二の優先権ルール(効率と福祉よりも正義が優先すべきこと)

 正義の第二原理は、効率性原理および相対的利益の総和の最大化原理よりも辞書式に優先する。そして公正な概会〔均等原理〕は、格差原理よりも優先する。これに関しては二つのケースが存在する。

(a) 機会の不平等が認められたとしても、それは機会が縮減された人びとの諸機会を増強するものでなければならない。

(b)過度な貯蓄率が課されたとしても、それは〔後継世代のための貯蓄によって〕困窮生活を強いられている人びとの重荷を結局のところ軽減するものでなければならない。

 注釈をつけておこう。上述の諸原理と優先権ルールには、もちろん不備な点がある。ここで施した以外にも複数の修正が必要であることは間違いないが、諸原理の言明をさらに複雑にするのは控えたい。

 <理想的ではない状態を扱う理論> に取り組む際には、次のことに注意しておけば足りる。すなわち、二原理の辞書式の順序づけとそれが合意する価値評価とが、多くのケースにおいてじゅうぶん妥当と思われる複数の優先権ルールを示唆するということ。本番では、多種多様な実例を挙げて、これらのルールがどのように使用しうるのかを説明し、それらの説得力を示すよう努めてきた。このように、<理想状態を扱う理論> における正義の諸原理の順序づけは、理想的ではない状況における当該原理の通用を熟考・反照するものであると同時に、そのような適用の導きともなる。その順序づけが、最初に取り組むべき諸制限はいったい何に関してなのかを特定してくれる。

 <理想的ではない状態を扱う理論> のもっと極端で複雑に入り組んだ事例では、この二つのルールの優先権はおそらく機能しないし、満足のゆく解答はまったく見つけ出せないだろう。けれども私たちは、<最後の審判の日> (the day of reckoning)〔=正義の諸原理がそもそも役立たなくなるような事態〕 の到来をできるだけ先延ばしすべく努力し、さらにそのような日が決して来ないように社会を編成しょうと試みねばならない。

<以上同書p402~p405>

 the day of reckoning=報いの来る日・最後の審判日。この言葉からも解るとおりロールズの思想には信仰のバックボーンがあるようです。決して違和感を感じるものではなく、説得力のある原理とルールだと思います。

 この番組では、川本先生が大平数子さんの『慟哭』という詩集から、次の詩を紹介してくれました。この詩は『正義論 改訂版』の訳者あとがきにも紹介されていて、素晴らしい詩でと思っていましたが、番組でその背景を聞き感動しました。


(NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」から)

子どもたちよ
あなたは知っているでしょう
正義ということを
つるぎをぬくことでないことを
”あい ”だということを
正義とは
母さんをかなしまさないことだということを
 (大平数子「慟哭」1955年発表より)

 大平数子さんは広島生まれの詩人。22歳で被爆、夫と二男を亡くし病のため長男とも会えない日々を送りました。慟哭という詩は絶望の淵から生まれた詩。

このように番組では紹介されていました。

 ロールズ先生の次の文章も紹介されました。


(NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」から)

 愛する者たちは、他人の不幸や正義の身代わりになろうとする。
 家族や友人、恋人どうしは大きな危険を冒してでもお互いに助け合う。
 正義を貫くことはそうした<愛の冒険>の一側面にすぎない。
    (『正義論』から)

 愛と正義の改革。ロールズ先生の倫理学の求めるところはそこにあるようです。

 愛による正義論は机上の空論なのか、最後にそのような問題が投げかけられていました。そして最後の最後に川嶋あいさんがとても印象的でした。


(NHK教育Q~わたしの思考探究~「幸せを感じる社会とは」から)

<・・・・・思いやりと優しさ、・・・・・自分だけ幸せであればいいという考えではなく、みんなが幸せになれる社会をあらゆる瞬間に考えていきたいと思いました。>

という感想を述べられていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以前「思いやり」という言葉について言及しました。最近よくつかわれる言葉で、上記でも川嶋あいさんが「思いやりと優しさ」という表現で使われていました。絶体絶命の危機を体験しないと、本当の思いやりは身につかないというようなことを私は高みに身をおいたようなことを書きその後その検証をすることを続けています。

 「思いやり」という言葉は、誰それの思いやりというように「(主体・主語)の思いやり」という表現で使われます。自分が行なう思いやり、父母の思いやり、他人からの思いやりそこには、思いやりという働きかけを行う主体が存在者としています(存在)。存在者の存在という言葉をハイデガーは使いますが、「存在」という言葉には「働きかけ」という概念が包み込まれているという発想は非常に勉強させられ「やまと言葉」に対する私の考え方にも通じるところがあるように思っています。

 さて話が長くなってしまいますが、この思いやりの主語に「母」を想定しまう。すると優しさと厳しさの今は亡き母を思い出します。すると上記の大平数子さんの詩がより一層警鐘を鳴らしてくれます。

 さらにこの主語に「自然(しぜん・自燃)」という言葉を代入します。そこに見えてくる優しさと厳しさ、そうすると我々人類が直面する現象の中に、優しさと厳しさを見ることになります。

 さっと思い出すのが恵みと災害、歓びと苦難・・・・・・。対峙しているようでいて存在、働きとしての現象の中で、今自分自身が何をしているのかがよく目立ってきます。

 「幸せを感じる社会とは」がこの番組「Q~私の思考探究」の今回のテーマでした。

 川嶋あいさんは「あらゆる瞬間に考えていきたい」旨を話していましたがこれはとてもすごい言葉だと思いました。

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生きる歓び・世界を肯定する哲学

2011年02月21日 | 哲学

 「国民のため」を口実に解散権を行使するかも知れないとの声、いま日本はどこへ向かおうとしているのか、菅直人総理の立場は日々墜落中、国民は自民党体制下から民主党政権にあの時何を期待していたのか反省の時がいよいよ近づいているようです。

 彼はどのような志で、どんな理想を内に秘めて政治家を目指したのでしょう。実際一国の総理大臣になれたのですから、彼の人生はすべて、総理大臣になるレールの上にあったのかもしれませんが、運転能力に大きな誤算があったようです。

 誤算を考えるとき、何か彼の時々の選択まちがいを思ってしまいますが、選択肢が彼にあったのか疑問です。

 誤算は選択者である国民の側にあるあることが今回の出来事で思い知らされたのではないでしょうか。失敗からは何かを学習しなければなりません。

 こうなったのも彼を選んだ国民側にもセンスのなさがあったのかもしれません。センスとは選びの目であり、人として倫理的に、道徳的に善く生きるために善き政治の選択をする”目 ”の育成の不十分さが露呈していることでもあります。

 そこから見えてくるのは、おのれ自身の自戒であり、報道される事柄に嘲笑と罵声を浴びせることではないことは明らかです。私も含め人々は、他人によって惑わされ続けています。

<ダンマパダ5>
 じつにこの世においては、怨(うら)みに報いるに怨みにをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

<ダンマパナ197>
 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むことなく、われわれは暮らしていこう。

このような教えに出会うとき、また教えられるとき、受ける我が身においてはいったい何を理解しているのでしょう。疑いなき心で受けとめることですべては善きに生きることができるのでしょうか。

 怨みという情動はどうして生成されるのか、なぜ怨みがあるのか、自分と他者はどういう関係にあり、自分は他者を、自分にふりかかる出来事を、どのように受け止め、日常生活を生きぬいているのか。

 自分の今現在の行動は、将来的にどのような結果をもたらすのか、人生に何を求めているのか、そのために必要な努力はしているのか、必要な努力ができない原因はどこにあるのか・・・・・・・・。数多(あまた)の選択枝の中で、善き選択は出来ているのでしょうか。

 限りなき条件、選択肢の中で形づくられていく我が人生であり、それはまた、全てなるべくして成っています。

上記のダンマパダ二編を知ったところで、よく生きるになるものではないことは明らかである。すべきことは何か、思考することを忘れないこと、自立的な、自律的な生き方、自らの手で自らを律していくしかその道はありません。

 夏目漱石がイギリス留学をしていたときの友人宅を訪ねた時の、友人宅の召使いの話があります。友人宅にお客さんが尋ねてくることがわかり、主人である友人は召使に対し急な用事で不在である旨を伝えよう命じました。

 漱石はその召使が、応対後訛りのひどい英語で何事か言っているのを聞きます。どうしても訛りがひどくて聞き取れない。どうにかこうに推測するに「神に謝りの言葉」を言っているようなのです。

 そうです、召使は嘘をついた罪に対する神の許しを得るために祈っていたのです。

 主従関係の中の命令に対する忠実性は絶対です。経済的収入を閉ざしてまでも、家族の困窮をものともせず主人の命令に反する行動はできないものです。

 意に反した嘘に罪悪感を感じたわけです。この罪悪感は、どこに、誰に対して、罪とはいかなるものなのか、召使にいったい何が起こったのでしょう。

 神に対する贖罪、他人に対し嘘をついた、実害者は訪問客です、他者の意向を害したところに罪を感じ、許しを請う。

 縁起の世界ではいつかは自分にまわってくるというサイクル性に身をおくことでその罪意識が芽生えることになります。許しの先は他者であり、また自分自身の身の置き所の自戒として背負うことです。

 善き言葉の羅列の中に、何を見るかは受ける側の姿勢にあります。

 今朝はここで、時々引用させていただいている小説家で評論家の保坂和志さんの『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)から次の文章を紹介したいと思います。

<引用>

 人間はまず肉体のレベルで存在していて、そこに言語が上書きされることで「人間」となる。別の言い方をすると、人間とは肉体のレベルでだけ存在しているのではなくて、そこに言語が上書きされなければ「人間」とはならない。しかしまた別の言い方をすると、言語だけがあっても肉体がなければ人間は存在することができない。

 偶然見つけた新聞の記事にこんなことが書いてあった(読売新聞二〇〇〇年七月九日朝刊)。石橋幸緒という十九歳の女流棋士は先天性の腸閉塞で生後九カ月で手術したが、医者からは元気に育つのは難しいと言われた。

 「栄養補給はすべて点滴で、口から取るのは薬だけ。苦い粉薬さえ″食べられる″のがうれしくて、すぐに飲み込むのがもったいなくて、水も飲まずに、『おいしい』と口の中でもぐもぐ味わっていたのを覚えています」
 
 ここで、「おいしい」という言葉は、「まずい」と対になる″判断 ″を意味していない。
「味がある」という事実、さらには「食べる」という行為それ自体を指し示している。人間は-----ここでは「動物は」とも言い換えられると思うが-----「おいしいから食べる」のではなくて、「食べることがおいしいから食べる」のだ。口に物が入り、その大きさ硬さ柔らかさ甘さ苦さ……etcを感じ、それを舌や歯や顎の連携で噛み砕いたり捏(こ)ねるようにしたりしたあとに飲み下していく……という、一連の行為それ自体が「おいしい」ということで、原初的には味に対する″判断 ″は介在しない。「生きていることは歓びなのだ」と言うときの「歓び」とは、この「おいしい」と同じ次元で起こっていることだ。

 しかし、言葉の用法として、この「歓び」や「おいしい」は間違っている。なぜなら、<人間=肉体+言語>という構図を想定した場合、いま私が主張している「歓び」や「おいしい」は、肉体において起こっている事態なので」それに言語をあてはめることはできないのだから。-----これは本当だろうか。

 <人間=肉体+言語>という式のようなものを書くと、人間という現象が肉体と言語という二つの要素に分解可能なような錯覚を与えかねないけれど、本当は、人間とは肉体と言語がガチッとセットになっているというか相互に浸透し合う入れ子構造のようなものになっていて、二つに分けて考えることはできない。人間において、肉体とは言語と不可分で、言語もまた肉体と不可分だ。つまり、<肉体=肉体+言語>という式と<言語=肉体+言語>という式をうちに含み込んだ上で、ようやく、<人間=肉体+言語)という式を想定することが可能になる。
 
 構造主義は言語をたんに″差異の体系 ″と考えた。その場合、「歓び」とは「苦しみ」と対になった「歓び/苦しみ」 の片側であり、「おいしい」とは「まずい」と対になった「おいしい/まずい」の片側の状態ということになってしまう。また、構造主義は言語を″完成されたもの ″と考えた。つまり言語とははじめから″差異の体系 ″として人間に与えられたものであって、言語の発生の瞬間など考えようとしてみても意味がないし、そんなものはロマンティックなフィクションでしかない、というものだ。

 しかし言語は根底のところで強固に人間の肉体と結びついている。存在することそれ自体と結びついている、と言い換えてもいい。肉体という基盤がなかったら、言語は発生しなかったし、人間のものにもならなかった。言語の発生を事実として確認することは不可能に近いだろうけれど、それを理由に「フィクション」や「空想」と言って切り捨てることは、むしろ思考の放棄だと私は思う。言語は発生において肉体を必要とした。

存在していることのリアリティがなかったら、言語は生まれなかった。言語には存在することのリアリティが裏地として息づいている。石橋幸緒女流棋士の「おいしい」はまさにそういうものとして、言語の発生と結びついている。

<以上同書第12章「生きる歓び」p214~p216から>

この哲学思考は、保坂さんがある哲学者からの影響を受けて書かれたものと思います。とても分かりやすい内容と思います。

 教えられるだけではなく自分の頭で思考し行動する。

当然であるにもかかわらず、今の世の中に本当の自立が見えてこないような気がします。

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