思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「透明になる」という佐藤初女さんの言葉から

2016年03月11日 | こころの時代

 先週の日曜日のNHKこころの時代~宗教・人生~は、2002年3月3日に放送された佐藤初女さん「心をわかちあう」でした。この世の中には心やさしき人真の奉仕に生きる人がいるのだ(今年2月1日に死去)ということを感動のうちに知りました。

 「森のイスキア」を主宰し、苦しみを抱える人々とともに遍く照らす光の中で影日なたなく歩んだ人、そのような表現をしても佐藤さんを語っていないかもしれない。私は番組でしいただけで、佐藤さんと身近に接し悩みを解決した人、その活動に共感しともに歩んだ人から見れば言葉表現などは意味をなさないかもしれません。 

 NHKの番組紹介には、

 佐藤初女さんは、青森県岩木山麓にある集いの場「森のイスキア」や弘前市の自宅で、人生に悩み、助けを求める人々を受け入れ続けた。苦しみが大きいほど、人はそれを言葉にするのが難しい。心を込めた食事を作り、自分を無にして話を聞くことで、人々の閉ざされた心の扉が開き、やがて自ら解決の道を見いだしていく。自分を犠牲にした献身の背景には、長い闘病経験や恩師からの言葉がある。佐藤さん自身の心の奥底にあったものとは

と紹介されていました。

 「イスキア」とはどういう意味なのか、ネット検索すると「小さな森 東京」という関係サイトに 『「イスキアの花」(昭和58年10月刊)』に書かれている佐藤初女さんの解説が掲載されていました。

 「イスキア」とはイタリアの南西にある火山島の名前ですが、私達はこの「イスキア」を心のふるさと、どうにもならない程の重荷を感じたとき、そこへ行けば、癒され、自分を見つめ、新たなエネルギーを得て、生き生きとして自分の現実へ立ち戻ることのできるような場所ということで「イスキア」と命名いたしました。

とのことで、ナポリに住む大富豪の息子の心の旅で出会った場所、自分を取り戻した場所それが「イスキア」であったようです。

 導くというよりもその人のもつ意味を理解することのできる器官(意味器官)の作用を促す光を照らし続けてくれるひとのように見える。その光は植物が光合成で生きるように仏教でいうところの遍く照らす光であるとともに、影日なたなき慈母愛のように見えます。

 佐藤さんは語ります。

【佐藤】食は命だと思いますし、それから、生活の基本なんですよね、食というのは。 そういうふうに考えたときに、「食材そのものも命だ」と思うんですよ。
 
 食材を「命」として考えるか、また「物」として考えるかによって、「物」として考えたときにはただ食べればいいということなんですね。ですから、煮ればいいとか、焼けばいいぐらいに思って食べる。それと、「命だ」というふうに捉えたときには、これを活かすためには、どのように調理をするだろうかというふうになるから、自然調理する心が、慈しむように、育むように作るんですね。だから絶対美味しくなります。そこで違ってくると思うんですね。
 
 人参の皮むくにしても、 私は包丁で剥(む)いているんですけど、人参の丸い形が丸く残るよ うな剥き方しているんですよ。ただ、それを、今は皮むきでグ ッグッとやるんですね。そうすると縞が出来てくるんですよ。その金物でグッとやると、私、人参でも大根でも痛いだろうと 思うの。だから、そうでなく優しく、大根は大根の丸いままの 形が残るような剥き方をしています。

 だから、「そんなことす るよりも、皮むきがあるんですよ」と教えてくれるんですよ。「そうですか」と、「でも、こんなふうに人参でも、野菜でも 筋が通って痛そうでしょう」と、私が言ったら、「もっとよく 剥ける皮むきがあるから教えましょうか」という人もいるんで すよね(笑い)。

 でも、私は、やっぱりこの手というものが大 事な手になって、これで直接やりたいと思っています。優しく、 包丁でやっています。ですから、菜っぱなんか茹(ゆ)でるときは、 茹でることによって、緑の菜っぱであると、今までよりも一層鮮やかな輝くような緑に変わってくるんですよ。

 その変わったときに、茎を見ると透き通っています。このときが一番美味しいときなんですね。だから、菜っぱに対しても美味しく食べてやりたいし、また、みなさんにも食べてもらって喜んでもらいたいので、茹でるときも、私はジッと見ながら、同じ位置にパッと入れたままでなくて、変えてあげながらその加減を見てい ます。で、ここというときにサッとあげて冷やす。だから、隣で話し掛けても・・私は勿論耳もあまりよくないんですけ・・聞こえませんね。

 それと、そんなような外へ心を向けるような感じでないですね。やっぱり集中しますね。だって、こう見てい るうちに、その瞬間がなくなるから、ここというところを見極めるのにはジッとしていますね。私は、食べ物で透き通るということを、自分で感じて言っていた んですよ。だけど、ずーっと古く書いたものを見ても、「透き通る」という言葉を 多く使っているんですね。最近は特に使っているんですけど。

 それを、私が講演なんかで話しますでしょう。そうすれば、聞いた人が私に、「蝉が脱皮するときに も神秘的な透明になるし、それから、蚕がさなぎに変えるときも、七回脱皮するけども、最後が透き通りますよ」とかと教えてくれるんですよ。それで、三年位前に、犬山市にある正眼寺(しょうげんじ)というお寺が・・雲水が三十人位、修道生活のお寺なんです・・そうしたら、食べ物の話になったんですね。老師様が焼き物をやっておら れて、焼き物も一番よく焼けているときには、釜の中が透明になって、何も中が 見えなくなる、と言われる。だから、今までの土が焼き物として生まれ変わるときに、やっぱり透明になるということなんですね。そういうことで、一つひとつ 私がみんなに教えられて、透明ということの命の移し替え、これまた確信もって話しているんです。
 
 命を頂く。そして、今まで人参であったものが、大根であったが、私たちの口を通して、私たちの命と一緒に、今度は生涯共に生きていくわけですね。人参は人参で終わるんでなくて、私たちの命と生涯一緒にいく。だから、大事に私は扱いたい。

<以上番組から>

 佐藤さんは自分を支える言葉として、弘前に福祉施設を建設するため奔走し、五十四歳の若さで急死したヴァレー神父のお説教でのことばがありました。
 
 「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲が伴わないものは真(まこと)の奉仕でない」

 この言葉を聞きあとに3月の雪解けのぬかるみの道を歩いているとき・・・

【佐藤】・・・私は、それがすごく心に響きまして、私のやっていること、これではいけないと思ったんですよ。不親切にしているわけでもないし、意地悪もしていないつもりなんだけど、やれることをやっている。だけど、その犠牲というところにいっていないなあと思って、これではいけないと思いました。それで教会から出て家まで歩いて帰るんですよね、その頃は。道路も今のような舗装した道路でないものだから、雪解けのでこぼこ道で、すごく歩きにくいから、ちょこっと歩いて他の軒下へ入って、車が通ればまたというふうに。そして、普通に歩いて三十分位なんですけど、長くかかるんですね。その道々考えながら立ち止まっては考えながら、さて私は、「じゃ、今と違うふうに生きるというのは、どういうことなんだろう。何が私に出来るんだろう」と思ったんですよ。お金あるわけでは ないし、また特別何かいい物をもっているわけでもないし、じゃ、私は何ができるんだろうと思ったときに、ちょうど車が来て、私がわきの方によって立ち止まったんです。そのときに、「あ、心だ」と、私は思ったんですよ。「私に心があるんだ。心だけは与えられるし、心というのは汲めども汲めども尽きることがないんでないか。じゃ、私は心でいくんだ」と。「心でいきましょう」と。そこで立ち止まったときに、パッと閃いたのが心だったんですよね。

<以上番組から>

 1時間の番組、多くのお話を聴くことができました。個人的に上に文章にした部分の「透き通る」「奉仕には犠牲が伴う」という話が特に印象に残りました。

 今回はこの「透き通る」という言葉、話の中には「透明になる」ということばでも表現されていた言葉に注目したいと思います。この言葉、3月9日付けで出版された佐藤初女『いのちをむすぶ』(集英社)に「透明になる」と題した次のメッセージがありました。

透明になる

野菜がゆくとき
緑がいっそう鮮やかに美しく輝く瞬間があります。
そのとき茎を見ると透き通っているんですね。
透明になるときは
野菜のいのちが私たちのいのちになるために
生まれ変わる瞬間、いのちのうつしかえのときです。
透明というのは本当にきれい。
食べものも人も、透明がいいと思います。

(上記書p109から)

 番組では「蝉が脱皮するときに も神秘的な透明になるし、それから、蚕がさなぎに変えるときも、七回脱皮するけども、最後が透き通りますよ」という話があります。蝉のメタモルフセス(変態・Metamorphoses)のことです。このメタモルフセスには個人的に大変興味を持っていました。

変態(メタモルフセス・Metamorphoses)と環境

 変身・変態と訳されるメタモルフセス、昆虫等の中には劇的にその姿を一変するものがあります。その現象の中に「透明になる」があるわけです。

 人間はその心の転換において、心境の変化、心持の転回において、あるいは思考視点の転回においてその姿を変えるわけではありませんが「透明になる」情感に現れるのではないか。というわけです。

 無抵抗のあけ(開け、空け、明け)が学ばれるということです。

 開け 放された自由とでも表現できるのではないでしょうか。我による抵抗も放たれ無く、すべてが受け入れられる。遍く照らす光の中にまさに「透明になる」のです。

 実存的虚無感が実存的透明にメタモルフセスする。

 私はそのような言葉で理解したいと思います。

 「いのちをむすぶ」

 この言葉を実感できるときメタモルフセスを体感しているのだと思う。

 


長野県北部地震・リアルな体験から思うこと

2014年11月23日 | こころの時代

 昨夜10時22分ごろ深度6弱の地震が長野県北部を中心に発生しました。長野県は南北に長い形をしており、私の住む安曇野市は地理的には北西部に当り、震度4との発表でした。

 揺れは15秒ぐらいと長く机の横に30冊ぐらい重ねた新書、文庫の上部3冊が崩れ落ちましたが、大きな被害を受けることなく済みました。

 今から5年ほど前の2011年6月30日午前8時頃発生した松本市を震源にした長野県中部地震の時は松本市にいて、その時の震度は5弱でそれに比べると体感的に弱かったのですが、揺れが少々長く考える余地があると、今後この揺れは強くなるのか、という不安にとらわれます。

 直下型、どちらかというと横揺れではなく5年前と同じ揺れ方で、これが横揺れだったら書籍群に押しつぶされていたかもしれません。

 ちょうどその時に生中継の報道番組か何かを見ていたのですが、5秒もしないうちに「長野県北部で大きな地震が発生しました。」という地震警報が流れました。

 1分1秒を争うという表現がありますが、関東地方には結果的には弱い地震でしたが地震予知になったわけで、現代社会はリアルです。

 ちょうど今、宗教学者の山折哲雄Eテレこころの時代~宗教・人生~「無常の風が吹いている~私が死について語るなら~」が放送されています。聴きながら思うところを書くのですが、自然災害が多く起る日本列島に住む日本人の信仰、日本の伝統的な森羅万象に対する畏敬の念、それが汎神論な信仰になり、「生老病死」と密接なかかわりがあって、自然は対峙するものではなく、人間自身がその内に取り込まれている存在であることを読み取る力がありました。

 伝統的な死生観は、現代社会では隠蔽するかたちになり、リアルな体験には術を無くしてしまいます。

極度の情報化社会の中
閉そくした未来に向き合いながら
私たちはまことに忙しなく生きています
目先のことにとらわれ
複雑な人間関係に煩わされ
将来の心配をしながら

その中で、時々起る天変地異の現象、それを意味あることと解し、それに見合う智慧を会得する必要性を強く思います。


世の中は何を問うているのか

2014年11月12日 | こころの時代

 昨日11月11日は第一次世界大戦の終戦日だったんですね。フランスとドイツとの国境線を挟んでの戦い、5月頃にEテレの歴史ヒストリアでこの時の戦いに負傷者の救護活動に当った日本日赤の医師や看護婦(今は看護師)さんたちの活躍が紹介されていました。

 今から100年前の話ですが、当時献身的な治療によって救われた兵士たちの子孫は、いまだにその時の事を忘れずにいることに驚きを感じました。

 命の危険にさらされながら遠い異国の地での奉仕活動、当りまえのことですが、このような番組を見なければ全く知らないで終わっていますが、つい最近も放送されていて改めて観るとまた別角度から、他者の為に何かをするという姿は、蚊帳の外、時代的にも全くの蚊帳の外の私にも、時代のそのときの訴えが聴こえるような気がします。

天使とは、
 苦悩する者のために戦う者である。
  (フローレンス・ナイチンゲール)

 20世紀は史上まれに見る殺戮の時代と呼ばれるほど、世界で戦争が行なわれ多くの人々が戦いで、兵士のみならず市民も、また民族も犠牲となりました。国家間の戦いは個人の痴話げんかの延長線上にあるのか。

 構造的には個人が多数集まり集団となりその地に住む。

 いつの間にか垣根が国境となり、勝手に他人の地を踏むことができなくなり、その内に生きるために発生してゆく国家間の利害関係から戦いは始まります。

 戦争とは一人の独裁者により、盲目的な、人間的な意思判断を鈍化させられた国民の何ともやりきれない行動であろうか。

 その後の時代に生きるものだからこのように考えるのですが、そのときのその時代に生きる人々は、理不尽な運命づくりに参加せざるを得ないのですね。

 昨日のブログに、

「いじめを止められる子は、自分のことが好きな子」

 言葉を書きました。この言葉からはみ出す人々が必ずいます。性善説、性悪説などを考えたところで時代に生きるとなると、どうしてもこの「必ず」があるように思います。

 死にたくないのになぜか死んでもよいと考える。他者を殺してはいけないのに殺してしまいたいと思い決意する人もいる。

 何とも言い難い、避けることの出来ない現実があります。

 松本市では10日から2日間核兵器廃絶を目指す国内外の自治体でつくる平和首長会議の国内加盟都市会議が開催されました。

 国家の姿勢が最終的な決め手ですが、決定機関がさらなる高みに登るほど必ず裏腹が現われてきます、個人の真面目さが鈍化してゆく、一人が拒否しても抵抗者、反逆者に貶められ、決定権の力は集積されればされるほど、あらぬ方向にその力を発揮します。

 参政権のある大人は全て「自分のことが好きな子」だったのだろうか。

 そういうことを考えると、というよりも想像してごらん、です。

 その決定の内情は、決して集約にはなっていないことが解かります。

 事の起こりは全て隣近所から始まります。コミュニケーション能力から始まります。

 天使とは、
  苦悩する者のために戦う者である。

 苦悩するものがこの世には必ず存在する。だから天使は現れる。

 考えた神を振りかざすのは、もう止めにすべきなのだろうと思います。

 生きる神の体得

 13世紀に生きた聖職者マイスター・エックハルトの次の言葉を過去ブログで紹介しました。

 <『神の慰めの書』(相原信作訳・講談社学術文庫)から>

 ・・・神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。私自身のみならず、一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。ただこれらのものはそれを知らないだけである。・・・

<上記書p294から>

 この言葉には心打たれる教示があります。

 国家は個人の延長線上にあるならば、神の国は実現できるはずに違いないのですが、神の国を主張することの恐(おそ)ろしさほど恐(こわ)いものはこの世にない、今生きる人は知らされています。

 世の中は、矛盾に充ち満ちている。


「空」が語るもの

2014年11月06日 | こころの時代

 先週の日曜日の午前8時から30分番組でラジオ版「こころの時代」で、作家でもありシンガー・ソングライターでもありまた、イベントのプロデュースをも行っている新井満さんの『般若心経』のお話でした。

 芥川賞の受賞歴がある方ですが、『千の風にのって』、自由訳『イマジン』、自由訳『般若心経』などが有名で、私の場合には、「この街で」という作詞作曲の歌が大好きでそのイメージが強い方です。

 どう言うわけか解りませんが、時々に新井さんに出会います。出会うと言ってもラジオ番組で、ということで直接ご本人にお会いしたことはありません。私はほとんどラジオは聴きませんが、これもどういうわけだかなのですが、印象に残る番組に数多く出会います。

 そういうわけで「出会います」と書きました。『般若心経』の話からはじめながら「この街で」の歌から書きたいのですが、これは今から8年ほど前の番組で出会いました。

 「この街で」という曲は、ペンクラブ「平和の日」が松山市で2005年3月開催され、その時に新井満さんが、松山市の『だからことばの大募集』で市長賞を受賞した桂綾子さんという方の「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」という詩に感動し、この詩の観念的な部分をベースに作詞し「平和の日」当日、三宮麻由子さんのピアノ伴奏に新井満さんが歌うという、まさに即興で生まれた曲なのだそうです。今ではネットで聴くことも出来る曲ですが、

 この街で生まれ、この街で育ち、
 この街で出会いました、
 あなたとこの街で。
 この街で恋し、この街で結ばれ、
 この街でお母さんになりました、この街で。
 あなたのすぐそばに、いつもわたし。
 わたしのすぐそばに、いつもあなた。
 この街でいつか、おばあちゃんになりたい。
 おじいちゃんになったあなたと、歩いてゆきたい。

という詞ではじまる曲です。この詩が新井さんの独特な声と曲で唄われるのですが、それがとても心に残るのです。番組では、新井満訳『イマジン』(朝日新聞社)の話もされていていて、新井さんは自己の持つイメージについて、語られていました。

「一つの家庭、一つの街、一つの国と『この街で』のイメージで成り立てば、それでいい」というようなことを語られていました。そしてそのような思いが、このような詞を描き出していました。

この街のイマジン

 この街に生まれ、この街で育ち、この街で家庭を作り、
 この街でみんなが仲良く暮らす。 
 ただそれだけのことだけ。
 想像してごらん。
 それを作るのは今そこにいる自分がはじめだ。

 宇宙から地球の大地を見ると国境なんかない。
 国さえ存在しない。天国も地獄もない。
 兄弟という仲間が大地に住み、無所有だから欲することもない。
 宗教もない。当然神様もいない。

 本当はそうなんだが、なぜか国境を作り、国家を作り、
 天国、地獄を作り出し、
 仲間はずれをしたり、いじめたり、
 殺し合いをしたり、貪欲に走る。

 そして神さまを創造し助けを求め、宗教を作った。

 自分が今、そこで、
 何を思い何をしようとしているのか、
 それを見つめるだけでいい。
 
 先週の日曜日に新井満さんの自由訳『般若心経』によせる放送を聞いたという話で初めて、上記のような話になってしまったのですが、『般若心経』は、長く助産婦をなされていたお母さんの持っていた文庫本の『般若心経』の話からはじまります。

 月刊「ラジオ深夜便」特別号「こころの時代2」の珠玉の放送12編再録にも掲載されている話にもダブルところがあるのですが、新井さんの思想と言っていいのではないでしょうか、とても暖かい、そして熱い語りでした。

 般若心経の「色即是空」の「空」について、「空とは変化するということです」と語ります。

「この世に存在する形のあるものとは、
喩(たと)えて言えば、見なさい、
あの大空に浮かんだ雲のようなものなのだ。
雲は刻々とその姿を変える。そうして、
いつのまにか消えてなくなってしまう。
雲がいつまでも同じ形のまま浮かんでいる
などということがありえないように、
この世に存在する形あるものすべてに、
永遠不変などということはありえないのだ。
すべては固定的でなく、流動的なのだ。
自立的でなく、相互依存的なのだ。
絶対的でなく、相対的なのだ。
今そこにあったとしても、またたくうちに滅び去ってしまう。
そうであるならば、そんなつかのまの存在にあれこれと、
こだわったりおもいなやんだりするのは、
ばかばかしいことだとは思わないかね・・・」

 自由訳『般若心経』はこのように語っています。

 とてもいい話は思考しないと表現できませんし、書けません。

 とても心に響く話は、語られることで相手に伝わります。

 「仏教は思考を否定する」

という不立文字の世界は、さらなる深淵から「空即是色」の世界になるのだと思います。

 「空即是色」を語釈ではなく誤釈、漢訳の誤り等と語る方々もおられますが。

 根源的探求の根柢に写しだされる世界は、そのことを物語ると思っています。


人は生きられるように創られている

2014年05月25日 | こころの時代

 けさのNHKこころの時代は、エッセイスト大石邦子さんの「体のマヒを超えて」というお話で、今年の2月3日(日)放送され再放送されました。

 涙もろい私は再びの涙におそわれるのですが、己の姿勢に非常に反省させられました。

 4ヶ月ほど前の放送なのにその感動が薄れて、そこには今まさに私のこころが指向する何かを語っているのに、その時は全く留めていないことに再度おおきなテーマを頂きました。

 精神と肉体は密接な関係はあることは漠然とですが、どうしても二元的に思考の背後においています。ベルクソンはそこを問題にし、小林秀雄先生も大いに語ったところですが、単なる納得におわり貴重な学びをおろそかにしていました。

 再放送を希望される方が多かったことから今回のはやい再放送となったと思いますが、それはまた私にその機会を与えてくれた、「~成る」期待が働いているとも言えるわけです。

番組は、ききての金光寿郎さんの、

【金光寿郎】 磐梯山と越後山脈に囲まれた会津盆地の南西部にある福島県会津美里町(みさとまち)。江戸時代から明治にかけて水運に使われた阿賀川(あががわ)が流れ、古くから栄えた会津藩ゆかりの地です。晩秋の紅葉に彩られたこの地に、エッセイストの大石邦子さんをお訪ねします。この町で生まれ育った大石さんは、昭和39年9月、事故に遭って、21歳の若さで下半身の感覚がなくなり、その後もマヒの症状は進んで、上半身にも広がりました。先の見えない闘病生活の中、大石さんは苦しみの意味を問い続けながら、短歌やエッセイに思いを綴ってこられました。今日はその中の言葉を取り上げながらお話を伺います。

 大石さんは私よりも12歳の年上でいま72歳ぐらいでしょうか、22歳の時にバスに乗車中の事故で下半身、左半身マヒの身体となり、10年あまりの闘病生活、そしてその後66歳の時に乳がんを患い、がん細胞の全摘出手術を体験します。そしてさらなる災厄の到来します。がん手術後の3日の夜に胸の動脈が破裂していることが分り、緊急手術をすることになります。

 がんん細胞摘出際の麻酔の施用の関係で、動脈の手術には麻酔を使うことができない。

【大石邦子】・・・「大石さん、麻酔かけられない」というんですよ。「前に大きな手術を全身麻酔でやったので、麻酔はかけられない。麻酔かけないでやるから、頑張ってやるから」って、言ってね。私、〈えっ!〉と思ったんですね。でも経験したことないから麻酔かけないで手術するって、どういうことかわからなかったんですけど、そして持ち上げられて、いやいやいや、もの凄く痛いんですよ。その瞬間、私は一回も目を開かないんですよ。「麻酔しないで手術をする」と言われて、多分意識が帰らなくなる可能性があったんですね、また麻酔をかけるとね。それで麻酔をしないで、〈あ、これが大石さんのような人、何が起きるかわからない、と言われたのは、このことだな〉と思ってね。でも、これは会津だったらダメだったな、と思ったんですね。やっぱりここは大きな病院だから、あの真夜中でも六、七人の先生が集まってくださって。でもそのメスが入って切り開かれる瞬間ね、これは今まで経験したことのない痛み。「ギャッ!」と叫んだんですよ。「ギャッ!」と叫んだ瞬間、嘘みたいなほんとの話なんですけど、あれは多分今考えたら手術室の天井って大きな灯りがあるじゃないですか。あそこだと思うんですけどね、もの凄い綺麗な、なんかこんなこというとオカルトみたいで変なんですけど、金の十字架がパッと光りの中に現れて、一瞬時母の顔になったんです。そして意識が飛んだんですよ。

金光寿郎】 そこでいわば気絶?

【大石邦子】 大石: 気絶。そして気が付いた時には、病室に来ていて、でも全然聞こえないんじゃないですよ。なんかどこに自分がいるかわからないんだけども、「大石さん!大石さん!」という声が聞こえる。それで後から聞くと、先生たちは私に聞こえないように手話で手術していたと。その時私の頭をしっかりどなたか先生が動かないように両手できっちり掴んでいらっしゃったんですよ。それが後から聞くと、誰も掴んでいない。先生に聞いたら、「誰もそんなことしていないよ」と。後から意識が帰った時に、私は、今まで自分の身体を〈愛(いと)おしい〉なんて思ったことなかったんですよ、こんな身体ね。こんな身体になって、歩くこともできない。感じもない。それであの時、私が「ギャッ!」と叫んで意識を失った時のことを思うと、この身体はほんとに、私が耐えられなくなった時には、意識を吹き飛ばしてまでも、私を生かそう生かそうとしてくれていたんだな、と、この身体が・・・私の身体なんだけど・・・同士のような気がしたんですよ。私と同士のね。それからなんかこの身体を大事にしなくちゃってね。

躰というものは不思議です。そのようなことをしてくれる。自分の意志によって動かすことができない付随筋のような、精神とも密接に関係する感覚機能を休ませてくれる、そういうはからいをしてくれるのです。

「この世にムダな苦労なんかないんだから、ムダな苦労ないんだよ」

大いなる体験、経験から得た知識が、大石さん当面する苦労の精神を治めます。

「大石さんの詩」

何があっても大丈夫。生きてさえいれば、いのちさえあれば、 人は生きられるように創られているのだから・・・・。

乗り越えられない苦しみなど、ありはしない。
苦しみが、みなさんを鍛え、みなさんを磨き、みなさんを大きくする。

逃げないで。逃げずに、それを乗り越えてゆくとき、もうそれは苦しみではなくなってゆく。力に変わってゆく。

かけがえのない自分の人生だもの、人のせいにしないで、自分の責任のもとに引き受けて、凛と生きていってみよう。

失敗したっていい。

躓(つまず)いたっていい。

二度や三度の失敗、何も恐れることはない。

躓いたら、そこからまた立ち上がっていけばいい。

以上の詩の中に大いなる働きの言葉が詰まっています。

成るようになっている。これが本当の意味での「成るようになる」話しのように聞こえました。

 2月には別の思いが走り、今はこのことが走ります。止めどなき日々の問いです。けさの


きく文化(4)・「“聴く”という生き方」と「魂への配慮」

2013年03月31日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 今朝のEテレ「こころの時代 ~宗教・人生~」は「“聴く”という生き方」と題して京都ノートルダム女子大学特任教授の村田久行さんのパストラルケア (pastoral care) における「傾聴」というお話でした。

NHKの番組紹介には、

“傾聴”に20年にわたって取り組んでいる京都ノートルダム女子大学特任教授・村田久行さん(68歳)は、「真剣に聴いてくれる相手がいることで、人々は“生きる力”を自ら引き出せるようになる」と言う。“傾聴”は、末期患者や家族、災害の被災者など、深い心の痛みを抱える人のそばで悩みや苦しみを真剣に聴いて、痛みを和らげようという“心の支援”だ。村田さんが“傾聴”の神髄を語る。

と書かれている通り個人的に勉強になった番組でした。

3.11東日本大震災後の被災地における精神的なケア関係で「きく」ということの重要性については、以前

こころの時代~宗教・人生~・命の世話と向き合う・鷲田清一[2011年09月04日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/54ce3383a67e6816d78a3fa2ec1e5e49

で「傾聴」ということの重要性について語りましたが、今回の村田さんのお話は村田さんの人生の歩みも含め新たな「きく文化」を個人的に編成するものでした。

「きく文化」とは個人的な一つの問いのテーマであるという意味で、これまでに2010年に集中しますが、

きく(聞く・聴く)文化(1)・高木美保の香り学[2010年10月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/baedb9e7f20454505d1439bad85050a1

きく文化(2)・色即是空、空即是色[2010年10月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/f346c6f701c9ec12547126218c0e09f4

きく文化(3)・法華経・耳根最も利なり[2010年10月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/650951eb09ee6952c4fb23bb0c99eb46

で取り上げてきました。

パストラルケア (pastoral care)とは何か?

キリスト教(カトリック系)を主体にした心のケアで、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の解説を見ると、

【パストラルケア】 (pastoral care) とは、牧師その他の患者の属する宗教(教会、会衆、その他)の宗教的指導者から与えられる心理療法的なケアのこと。家庭訪問からライセンスを受けた牧師による公的なカウンセリングまでのさまざまの形をとる。

日本ではまだ公的なパストラルケアの資格は存在せず、ボランティアのような扱いを受けているが、一部の病院などで採り入れられている。

パストラルケアを行なう者は依存性人格障害や共依存その他の非専門家による心理療法にしばしばありがちな問題を避けることに特に慎重にならねばならない。

世俗の用法でも用いられるが、キリスト教、プロテスタントの教会用語では、牧会と呼ぶ。カトリック教会の用語では、司牧である。

パストラルケアがどの程度宗教指導者の責務の中で重要なものかについては、特に精神医療の専門家としてライセンスを受けていない指導者のそれについては、一部では議論の種になっている。

<以上>

村田さんは「魂の救い」という言葉を使われていたようにスピリチュアルケアの一つになるようです。即ちこれもウィキペディアからですが、

【スピリチュアルケア】(spiritual care)とは、「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守ることである。

ウァルデマール・キッペス(Waldemar Kippes)は、「スピリチュアルケアとは現代人のスピリチュアルな生活のバイタリティーおよびその深さを育成する援助であり、他者や神や自分自身の内面的なニーズに応対する、人間としての成長を示し、育成するものである」と述べている.

<以上>

というものです。今現在はさほどの問題はないのかも知れませんが、災害時直後の宗教性をもった心のケアにおけるボランティア活動に対しては排他性が強かったようです。個人的な視点から今回の番組を見て最初に語りたいことは、村田さんのパストラルケアの道に入る経緯でした。最初は理科系の大学に入ったのですが「何のために生きているのか」「生きている意味」という問いが起り、生きているための努力に対してむなしさを感じられその答えを見つけるために、哲学科に編入されそこでイギリスの経験主義について学び自然科学や経験だけでは答えが出ないことに思い至ることになったようです。

 当時主流であった実存主義でもない経験主義にひかれたと述べられていましたが、私自身の個人的な視点からは当に「裸の実存」におけるバックボーンとしての御座に置かれるべきものは何かを求めていたように見えました。

 そこで出会うのがキリスト教えで行われていたパストラルケアでその点を見ると、人間の存在における「実存」という思考の視点はとても理解しやすい概念であるように思います。

 「傾聴」という言葉における「聴く」という漢字の旧漢字の「聽」が出てきました。

目と心が右辺にあります。中間にある「一」は白川静先生の説で説明されそれぞれに集中した注意力を表わしているとのこと。さらにこの文字には「聖」「徳」が含まれていて「聖なる心で聞ける人は徳のある人」ということでした。

 「聖なる声を聞く」白川先生はこの「聖」を「耳(みみ)聡(さとく)自然の声を聞きうるもの」と別本で解説され「神託を聞く形を示す」漢字ということです(『桂雑記Ⅱ』平凡社・p155)。

 「きく文化」の話になるのですが日本の山岳信仰で唱和される六根清浄、

 目に諸の不浄を見て  心に諸の不浄を見ず 

 耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず 

 鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず 

 口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず 

 身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず 

 意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず 

 これは個人的な内心的なものですが、客観的な現象を「聽」で捉えることの重要性を教えられます。「耳(みみ)聡(さとく)自然の声を聞きうるもの」は正にこのことでネイチャーではなく「おのずからしかり」の「自然」への精神感応です。

 村田さんは被災者も含めて死に逝く人々もの話を聴くことの難しさを語っていました。この問題にも関係するのですが、

PTSD(Posut Traumatic Stress Disorder)「心的外傷性ストレス障害」から学ぶ[2012年10月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/cb1f5f32bccb2d29a3422450bc39cdc0

に書いた、Eテレ「東北発・未来塾~心をケアするチカラ・桑山紀彦~」という番組がとても参考になります。

「東北発・未来塾~心をケアするチカラ・桑山紀彦~」
http://www.nhk.or.jp/ashita/miraijuku/archives/121005.html

ここでは相手と体面接した時に大切なことは「あなたのことが知りたい」という「一番の根本は“愛”だ」と強調していましたが、パストラルケアもこの「愛」がその根源にあるわけです。

 今回のこの番組で思うことはヴィクトール・E・フランクル(以下フランクル)の三つの価値の最も重要な「態度価値」のについてです。精神的無意識には良心や芸術や宗教性があるとされ、自己の持つ意味器官は苦悩の意味するところを察知し概念の転回を可能にします。

 「精神療法、とりわけ精神分析が求めていたものは、世俗的な告白であった。しかし実存分析が求めているものは、魂への配慮である」(フランクル著・山田邦男編訳『人間とは何か』・春秋社・p383)

 フランクルは「魂の配慮」の重要性を説いています。フランクルの説く魂は浮遊するような魂の話ではないことは以前にもブログに書きました。精神科医の香山リカさんが最近出版されたイマーゴimago4月臨時増刊号『ヴィクトール・E・フランクル』で上記の「私の好きな言葉」としてフランクルの言葉を取り上げていました。香山さん自身は、“「魂」という単語に、ご用心。”を文頭に掲げるほどに忌避感をもたれているようですが、このフランクルの「魂の配慮」についてはその意味するところをわかり易く語っています。

 結論的に何が言いたいのか。

「“聴く”という生き方」の村田さんの話に全てが含まれているように思うのです。実存としての主体的な我(われ)の姿、そして聴く側として客観的な転移視点を向ける際の配慮の心が示された話でした。

 「きく文化」の(4)として「“聴く”という生き方」すなわち「魂への配慮」について書きました。このブログ内容は、パストラルケアを批判するものではなく、これはフランクルの正に態度価値の話しでもあるわけで個人的に勉強の機会を与えられたものでした。

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Eテレ「東北発☆未来塾」涙の数だけ元気になれるよ!

2012年11月02日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 Eテレでは「東北発☆未来塾」という番組が放送されています。3.11東日本大震災後の東北の未来を担う若者が、さまざまな業界で活躍する講師から“未来を創るチカラ”を学ぶ塾です。番組で取り上げられているテーマは、観光や街づくりから漁業、教育、ボランティアなどさまざまな内容で、10月は地元で心療内科の医師をされている桑山紀彦さんの「心をケアするチカラ」でした。以前いも取上げた番組ですが、最終週の

東北発☆未来塾2012年10月26日(金)
 心をケアするチカラ・桑山紀彦さん
第4週「涙の数だけ元気になれるよ!」


では被害の大きかった閖上(ゆりあげ)地区の人たちの心のケアに取り組みながら被災者等の心をケアするチカラ学ぶ学生た地の姿でした。以前書きましたがPTSD(外傷後ストレス障害)という問題が被災地では多く見られるようです。未曽有の災害と呼ばれ誰も経験したことのない災害を体験し、大切な家族を失い、家も財産も全てを失った被災者、その悲しみの中にある人たちの心のケアとして被災者にどのように寄り添い、そして話をうかがうことで心を癒すチカラを学習をする姿です。
 
 着の身着のままで全財産を入れたリュックだけを背負い津波の中を逃げた女性、悲しくて悲しくてリュックを下ろすことはさらに何かを失うような気がして、そのリュックを下ろせずにいたと語っていました。

 そのリュックが下せるようになったのは、その時の体験したことを自分自身が話すこと、その体験したことを他人(ひと)に聞いてもらたこと、そして共に涙を流したことによって下ろすことができたと話されていました。

 中学校1年の子供さんを失くされたお母さん。自分のお子さんを探すため毎日閖上地区に足を運んだそうです。お子さんは番組に使用している建物のすぐ近くで発見され、遺体なのですが、その時は嬉しかったと話されていました。「お母さんだけ生きていてごめんね」「生きていてもいい」と遺体に語りかけたそうです。

 「今ではあの世には閖上地区の人がいっぱいで寂しくはないでしょう、ここよりも楽しいかも知れない。」

そう語れるようになったと学生さんに話していました。聞き入る学生さんに涙、お母さんも涙、涙で溢れていました。

 すべてを失い、またすべてを失う恐怖、涙が枯れるまで語りつくします。涙を流す分だけ心が軽くなる(癒される)。桑山紀彦さんは「涙は心の汗」と語っていました。

 学生さんに桑山さんは、

「今のみんなの素直な姿、すなおに涙を流したり、率直に質問していた姿とても僕は誇らしかったし、もうみんなは大切なことを学んだと思う。その姿勢、その気持ち、愛と想像力であなたに寄り添いたいと姿勢をこれからもどんどん生かしてください。それが心のケアとしていい形で進めていくエネルギーになっていく。

 寄り添って一緒に泣ける人であれ!

 語ってくれよ、物語ってくれよ。

 受けとめるよ、一緒に泣くよ。

そういう社会になったらPTSDにならなくともいい人がどんどん増えていく。日本の社会がやさしい社会になったら・・・・癒される社会、やさしい社会になれるように」旨の話を学生に語っていました。

 番組内で桑山さんが「良い聞き手になるための4つのポイント」を説明されていました。

 「涙は心の汗で心が動いた証拠。やがて涙を流さなくてもつらい体験を語れるようになった時が、その人の中で「物語」が完成したサインです。」

1つ目は、時系列に並べて聞くこと。(よい物語を引き出していく)
2つ目は、それに感情をつけて話してもらうこと。(その時の思い、感情はどうだったか)
3つ目は、話のキーワードを頼りにいこう(キーワードを大事にすること)。
4つ目は、肯定的な意味づけをすることです(肯定的な想いを盛り込む)。

一歩踏み出し意味づけていく、人間はそこまでできる。これが物語化。

人それぞれに目的があって学ぶ姿勢で知識を吸収します。私は人との関係性において知っておきたいことです。

 「人生は最後の一息まで意味がある」

ロゴセラピーではそういいますが、「最後の涙まで意味がある」番組でした。

 昨日は玄侑宗久さんの「無常の力」でした。思うに、人生は「そういうこともあるさぁ」「そういうときもあるさぁ」と認める中で、変わり行く私の心が織り成す世界のように思います。永遠回帰する空間と明滅編成して行く私の時間、それは一元一体の関係にあると思います。

「変わらない私がいる」と思いたくなるのが人間で、これを「人類最大の間違いと」と豪語し「無我」とはそういうことだと強調する人がいます。説き方に大きな誤解があります。

日本的無常感は、地震列島、四方が海、台風は必ず最初に太平洋から来ます、そんな不安定な列島の上で培われてきたものです。

 不安定な揺り籠に乗っているようなもの。

 その不安定さをやさしさで安定させる智慧が「無常の力」の意味するところだと思います。

私の悪い癖で話があらぬ方向に向いてしまいそうです。「東北発☆未来塾」は年老いつつある私にも大変勉強になっています。今夜は、

 教育のチカラ・ 尾木直樹さん
 第1週 「尾木ママ登場 教育は現場で起きている!」

です。「どうしたの?」と子供に聞く姿勢が重要と、尾木ママがほかの番組で語っているいるのを聞き、「語らせることの重要性」が子どもの心を開かせることにもなることを知りました。上記の桑山さんの話しにも重なりますが教育界にとってはとても重要な話、お薦めです。

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東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~・Eテレこころの時代を観て思うこと

2012年10月08日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 日曜日の朝に余ほど時間がない場合を除きNHKの「こころの時代~宗教・人生~」を観るのが習慣になっています。昨日は「東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~」と題して東京大学名誉教授前田専学先生と聞き手金光寿郎さんとの対談的な番組でした。

 番組紹介では、

 従来、漢訳教典だけに基づく研究が多かった、インド思想や仏教思想などの東洋の思想。それを中村元は、インドのサンスクリットやパーリ語、チベット語の経典にまで目を通した上で、一般の人にも分かるような平易な言葉で、しかも世界の学問水準を超えた研究成果として次々に発表し、世界の思想界に東洋思想が持つ独自の意味を知らせた。番組では、中村の碩学(せきがく)の豊かな世界を紹介する。

と書かれていました。「碩学の豊かな世界」の碩学を改めて辞書で調べると「学識が広く、深い人。また、その人。」と説明されており、中村先生をイメージした時に想うところ示した言葉に思います。

 今日のブログは番組内で語られた部分を含めて思うところを書いて行こうと思います。

 中村先生には膨大な著書があり分厚い全集を含め何冊か持っていますが、最初に手にして読んだ本は何かと言うと岩波文庫の『般若心経・金剛般若経』でした。仏教書で最初に読んだ本がこれなので鮮明に覚えています。今ではワイド版もあり目に優しいので手の届く範囲に置いています。聖書の新旧もこの範囲にあり、考えてみると何を身近に置いているか、ということも個人的な思考世界の構築姿勢を物語るような気がします。

 この『般若心経・金剛般若経』は中村先生と紀野一義の共著です。

  「全治者である覚った人に礼したてまつる。求道者にして聖なる観音は、深遠なる智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。・・・・・」「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。」

の現代語訳は、経と同等に私自身に在るものです。災厄のおとずれの中で歴史的に多くの人々の唱和した経だけに、その歴史性も含め尊いものと思います。昨日のジョギングの際にも古刹に、樹齢400年の大木の前に唱えさせていただきました。

 宗派を超えてこの経が好きだという人もいれば、耳をふさぐほど毛嫌いする人もおり執着(しゅうじゃく)という言葉の意味深さを感じます。

 番組では中村先生の比較宗教、世界の思惟方法の研究から前田先生が、次の中村先生の言葉を紹介されていました。

 われわれは以上の考察によって人類が一体であることを知り得た。思想は種々の形で表明されるけれども人間性は一つである。
 今後、世界は一つになるであろう。
 世界の哲学宗教史に関するこのような研究が、地球全体にわたる思想の見通しに役立ち、世界の諸民族のあいだの相互理解を育ててそれによって人類は一つであるという理念を確立しうるに違いない。それを切に願うものである。

 あらゆる宗教の切り口は一緒と言う考え方に重なるもので碩学の言葉であること再度噛みしめたいと思います。

 西洋の思想はエジプトの死者の思想から始まる旨の話も、改めて思い出しました。仏教研究は大航海時代を経て数多くの仏教経典が西洋にもたらされ研究されていましたが、その際に金光さんが「インドでは仏教が死んでしまっている・・・・」という話に、西洋の学者はエジプトの死者の思想の思惟方法で、仏教経典を研究したという意味を中村先生は言っているのであって、その他のアジアに今も仏教があります、に訂正されていました。

 こういう会話を通して「死んだら・・・」と「生きるには・・・」という問いの思惟視点を思うと論理展開、観念転回がわかるような気がします。

 なぜコペルニクス的な思考転回が必要になるのか。

生きている人間が考えるのですから、そうでもしないと意味理解ができないということに尽きます。

 番組では金光さんから晩年の著書の『自己の探求』(青土社)の中の言葉が紹介されていました。その言葉を紹介する前に上記の関係するのですが、この本の帯に「はしがき1980.10付」の言葉が書かれています。

「自分自身はどのように生きたらよいのであろうか?」

この言葉が、本の第一ページの文頭の言葉です。まさに「生きるには」の東洋的思惟方法の根源を示しています。

 蛇足ですがこの「はしがき」には「鸚鵡(オウム)のような口まねのような学問は、したくない。」という言葉も書かれていてこの「、」がいかに先生がそう思うのかよくわかります。引用ばかりする私自身の戒めを強く思います。

 「オウムのような口まね」

 執着を抜けきらないとこういうことになる、事例をよく見ます。まるで催眠術にかかったように繰り返される言葉、経典を読むが如くにくり返される。解説なのか経典なのか、その区別もできなくなった典型的な例です。止揚なり、編成替えなり、向上なり、絶対的な矛盾の世界にあって、その矛盾をどう克服させていけるか、その矛盾どう気がつくか、そこに大きな覚りがあるように思います。悟りではなく覚り、覚せいであって、朝目覚めて仕事に出かけるということです。

 そうすると燦燦と降り注ぐ太陽の光に気づくわけです。「本当に生きてるなぁ」と。

ここで金光さんのこの『自己の探求』からの言葉す。紹介された言葉はこのページの一部ですが、分の区切りで、前頁から紹介したいと思います。

<『自己の探求』(中村元著 青土社)から>

 ここにおいては、<他力>とか<自力>という既成観念は意義を失ってしまう。<神>という観念も色あせてしまう。擬人視されて考えられた(神)などは、あまりにも微小なものになってしまう。
 
 ひとは全宇宙に生かされているのである。各個人は、全宇宙をそのうちに映し出す鏡である。この意味において各個人は(小宇宙)であると言えよう。ただしその(小宇宙)なるものは、他の(小宇宙)と代置され得ないところの(小宇宙)なのである。
 
 このことわりを理解するならば、極端に離れて対立したものである<小宇宙>が本質的には<大宇宙>なのである。<小宇宙>は<大宇宙>と相即する。
 
 個体としての行動は、他から隔絶されている<個体>が行動するのではない。<大宇宙>の無限の条件づけの一つの<結び目>が行動しているのである。
 
 こういう視点にまで到達すると、自分が真理をさとるのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理をさとらせてくれるのである。
 
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。方法すすみて自己を修証するはさとりなり。』(『正法眼蔵』現成公案)
 このことわりを知ることが、いわゆる<さとり>であろう。
 
 浄土教の信者のあいだでは、
 「わたくしが・・・・・する」
とは言わないで、
 「わたしは・・・・・させて頂く」
という表現をよくする。さらにそれは日本人一般を通じてよく見られる表現である。ここには他力信仰がよく出ているのであるが、限られた存在としての自分のできることではないが、多くの人々の意向を受け、天地自然の恵みにあずかり、たまたま自分がこれこれのことをすることができるようになったと自覚しているのである。

<以上同書p73~p75>

 金光さんは長い文章なので「 ひとは全宇宙に生かされているのである。各個人は、全宇宙をそのうちに映し出す鏡である。この意味において各個人は(小宇宙)であると言えよう。ただしその(小宇宙)なるものは、他の(小宇宙)と代置され得ないところの(小宇宙)なのである。」という部分だけを紹介しました。

 本来ならば、上記の引用部分を紹介したいところなのですが(個人的に私がそのように思うだけですが)、金光さんはそうしたのです。なぜ本来ならば前田専学先生から出てくるものかと思ったのですが「華厳」の一言で済んでしまいました。それは前田先生の研究視点にあるからだと思し、前田先生は、「慈しみ」という中村先生が東方思想研究所への思い入れを重視しするからです。

 生前に撮られた墓碑に刻まれた「慈しみ」のスッタニパータの言葉、

「ブッダのことば」
一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
一切の生きとし生けるものものは、幸せであれ。
何ぴとも他人をあざむいてはならない。
たといどこにあっても他人を 軽んじてはならない。
互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。

この言葉とともに中村先生の姿がありました。

この言葉の全文は、『ブッダのことば』(岩波文庫)の第一蛇の章、八「慈しみ」に145~151の部分、

 一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 いかなる生物生類(いきものしょうるい)であっても、怯(おび)えているものでも、強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものものは、幸せであれ。
 何ぴとも他人をあざむいてはならない。たといどこにあっても他人を 軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
 あたかも、母が己が独り子を命をかけても まもるように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起すべし。
 また全世界に対して無量の慈しみのこころを起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。
 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりとたもて。

から先生の意志で抜粋されたものです。

ということで今回の「こころの時代」の「東洋の智慧をたずねて~中村元博士の世界~」改めて中村元先生の思想を勉強しました。

最後に個性を出して、

「・・・・・・自分が真理をさとるのだと考えることはできない。全宇宙が自分をして真理をさとらせてくれるのである。・・・・・・」

ここに何を観るか、「人生の意味」「運命から期待されている自己」が重なり、「自分をして」とは「おのずから」「みずから」の間を超えた表裏から湧きだつはたらきを思います。

 現象とは差異であって、個人的に「色即是空 空即是色」ではたらきを観ます。大乗の世界でコメを食べる時にそのありがたさを知らずして「玄米四合とわずかな野菜があれば・・・・」の意味理解も不可能なように思います。

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話してごらん

2012年09月13日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 今月の10日から16日が今年の全国自殺防止週間となっています。官公所に行くと「誰も自殺に追い込まれることのない社会を目指して」という大きな文字のポスターを目にします。

 内閣府の事業の一環で、毎年3万人を超える自殺者の現況を受けて最近は各県や市町村レベルでも取り組むようになってきています。特に最近ではいじめに起因すると思われる自殺が多く見られ、しっかり取り組まれることを指導者たる内閣府にお願いしたいものです。

 こう思う時にひとりの大臣の自殺が気になります。多分この週間を知っておられたものと思います。内閣府の仕事なのだから当然だろうという気がするのですが、なぜこの大臣は関係者の熱き思いを踏みにじるような選択肢を選んだのか、考えさせられます。

 「悩む人」(ホモ・パティエンス)が多く聞かれるようになりました。「世俗された近代という時代における最も本質的な人間のあり方を指しているのではないでしょうか。」と姜尚中さんはその著『続・悩む力』(集英社新書)の中で語っています。Eテレで放送されている100分de名著「フランクルの『夜と霧』」に出演されていたときに、「意味を問うことが市場経済では失われている。悩むことを知らない人も出てくる。(だから)悩むことに免疫がない。」と言われてましたが、世の中の風潮として昨日も言いましたが、

 「結果」は、過去のことで、もうどうしようもないのだから、グダグダ悩むのは時間のムダである。大事なのは「行為」だけであって、「では、次はどうしましょうか?」ということだけを考えよ。

という言葉が平気で言われる時代になっています。

 豊かさゆえの苦悩、経済的豊かさを追い求めてきた私たちは、3.11の東日本大震災やそれに続く福島原発の放射能漏れ事故に遭遇し、壮絶な「むなしさ」に見舞われることになりました。

 「グダグダ悩むのは時間のムダである。」

こういうことは決して言ってはいけません。社会が豊かになればなるほど、便利になればなるほど「生きる意味」が見えにくくなっていく中で、突然に身に降りかかる災厄は、何もかも奪い去れいます。名誉も地位も財産も、すべてを失います。

 大臣はそう思ったのでしょう。

 フランクルはこう言う状態を「裸の実存」と読んでいました。身ぐるみはがされて放り出された状態です。精神的にも肉体的にもこれ以上の過酷な状態はありません。世の中は「無常」なものと、そうはわかっていても、「裸の実存」となったときには何の気休めにもなりません。

 それでもね。被災地の方々を見るたびに「生きる意味」をたくさん教えられます。今もまさに継続中です。

 何を信じたらいいのか。

 どういう行動をとったらいいのか。

これらすべては最終的にはここの決断しかありません。だから、

 グダグダ悩むのは時間のムダである。大事なのは「行為」だけであって、「では、次はどうしましょうか?」ということだけを考えよ。

 これも合理的な考えを主にする文化圏からならばよいかもしれませんが、日本はこういう苦しみの前に過去にはのり越えるすべがありました。伝統的価値観、宗教的価値観から解放された現在、すべては自分で決しなければなりません。

 「どうすべきか自分で決めない」

それが「生きる上での意味の問い」になってきていました。その中で「生きる意味」の問い、問われている自分があること、人生に期待されていること、フランクルの問いや姜尚中さんの「悩む力」の提言には感服します。

 姜尚中さんは、著書の第二章「どうしてこんなに孤独なのか」の最後でこう述べています。

 いまでは、痛みや苦しみをうまくごまかしてくれる「発明された幸福の方程式」も、もう通用しなくなったとしか思いません。(p63)

 「発明された幸福の方程式」

この意味するところはそれぞれ、思い当たる人も多いかと思います。単純に示せば、「この壺さえ」「この印鑑さえ」から「この教だけを守っていれば」まで、多様性はいうまでもありません。

 こんな自然豊かな長野県でも年間300人からの自殺者があります。

 自殺の原因は、関連ホームページからですが、精神疾患と解析されますが、そもそもそれに至る過程があるわけです。こうなる前の予防としてこのことは知っておく必要があります。

 自殺者数、年齢別は以下の通りです(長野県の場合)。





年間300人、全国では30,000人これが毎年くりかえされる現状です。

 「発明された幸福の方程式」

を批判するつもりはありません。懐疑的な人には「意味への意志」も「悩む力」もすべてが同じものに見えるからです。

 「どうすべきか自分で決めない」

そう言わずに、「話してごらん」からまず私は始めたいと思っています。

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NHKクローズアップ現代は「 天国からの“お迎え” ~穏やかな看取り(みとり)とは~」

2012年09月01日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

 2012年8月29日(水)のNHKクローズアップ現代は「 天国からの“お迎え”
 ~穏やかな看取り(みとり)とは~」という番組がありました。個人的には「魂のゆくへ」という民俗的な問題も含め人を選ばない「死」という終局の人生の閉じ方に興味があります。

 含めの中には、裸の実存として「わたし」の哲学的な問題もあるわけで、この番組には大変得るところがありました。NHKのプレミアム会員でもあり思考好きの私にとってはNHKが学びの一つの場でもあります。

 この番組は視聴率 11.0%、でした。後で放送されたことを知って見たかったと思われる方が多くおられるかと思います。でも安心してください。今やネット社会、今や番組内容が忠実に文書化され、場面の添付もあり、再放送を待たずに内容を知ることができます。

 何と世の中は便利になったのか、感動です。

天国からの“お迎え”
 ~穏やかな看取り(みとり)とは~
 http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3238_1.html

天国からの“お迎え”
・天国からの“お迎え”初の大規模調査
・天国からの“お迎え”穏やかな最期とは
・天国からの“お迎え”穏やかな看取りとは
・“お迎え”が変えた終末期医療
・最期の時を支える人材育成
・みとりが伝える生と死
・穏やかな最期を支える“看取りの文化”

上記のURLをクリックすると、直ぐに見ることができます。

 NHKのEテレでは、毎週日曜日の午前5時から「こころの時代」が放送されています。毎週欠かさないで観ている番組ですが、こちらはまだ文書化にはなっていません。一般の方で、以前ブログで紹介しましたが、

こころの時代へようこそ
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm

というサイトがあります。これを知った時は感動しました。

 つまらない話なのですが、私も番組を文書化することが好きで、というよりもどうしても「語り」を残したい、記憶したい、という必要性を感じ時々他の番組も含め文書化しています。それもNHKさんのおかげで最近少なくなり番組内容に集中し、詳細に自分自身で熟考する時間を確保することができるようになりました。

 今回のお迎えと看取りの話しから外れてしまいましたが、とても安心(あんじん)する内容でした。そのとき思ったのは、「こころの時代」2011年12月25日に放送された「人は死を背負って生きている」という番組です。

 ここにも「お迎え」と「看取り」の話がありました。再放送もされていましたが人間の記憶は悲しいものです。精神科医で金城学院大学学長の柏木哲夫先生のお話でしたが、私自身この番組を知って感動し少々文書化にもしました。

Eテレこころの時代~宗教・人生~「人は死を背負って生きている」(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/4b9baa9f63f02085f5f5bf99ccb8b1a4

Eテレ こころの時代~宗教・人生~「人は死を背負って生きている」(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/c/05bfd7022cac60cb64119db6fa6d4168

と二回に分けたのですが、ブログアップをしています。

 NHKさんにお願いです。「こころの時代~宗教・人生~」の文書化を、できれば書籍化をお願いしたいと思います。

 8月29日付のNHKクローズアップ現代は「 天国からの“お迎え” ~穏やかな看取り(みとり)とは~」とても感動的な内容だったことを紹介しました。

 今後の私の個人的な「魂のゆくへ」問題の思考探究の参考にしたいと思います。

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