先週の日曜日のNHKこころの時代~宗教・人生~は、2002年3月3日に放送された佐藤初女さん「心をわかちあう」でした。この世の中には心やさしき人真の奉仕に生きる人がいるのだ(今年2月1日に死去)ということを感動のうちに知りました。
「森のイスキア」を主宰し、苦しみを抱える人々とともに遍く照らす光の中で影日なたなく歩んだ人、そのような表現をしても佐藤さんを語っていないかもしれない。私は番組でしいただけで、佐藤さんと身近に接し悩みを解決した人、その活動に共感しともに歩んだ人から見れば言葉表現などは意味をなさないかもしれません。
NHKの番組紹介には、
佐藤初女さんは、青森県岩木山麓にある集いの場「森のイスキア」や弘前市の自宅で、人生に悩み、助けを求める人々を受け入れ続けた。苦しみが大きいほど、人はそれを言葉にするのが難しい。心を込めた食事を作り、自分を無にして話を聞くことで、人々の閉ざされた心の扉が開き、やがて自ら解決の道を見いだしていく。自分を犠牲にした献身の背景には、長い闘病経験や恩師からの言葉がある。佐藤さん自身の心の奥底にあったものとは
と紹介されていました。
「イスキア」とはどういう意味なのか、ネット検索すると「小さな森 東京」という関係サイトに 『「イスキアの花」(昭和58年10月刊)』に書かれている佐藤初女さんの解説が掲載されていました。
「イスキア」とはイタリアの南西にある火山島の名前ですが、私達はこの「イスキア」を心のふるさと、どうにもならない程の重荷を感じたとき、そこへ行けば、癒され、自分を見つめ、新たなエネルギーを得て、生き生きとして自分の現実へ立ち戻ることのできるような場所ということで「イスキア」と命名いたしました。
とのことで、ナポリに住む大富豪の息子の心の旅で出会った場所、自分を取り戻した場所それが「イスキア」であったようです。
導くというよりもその人のもつ意味を理解することのできる器官(意味器官)の作用を促す光を照らし続けてくれるひとのように見える。その光は植物が光合成で生きるように仏教でいうところの遍く照らす光であるとともに、影日なたなき慈母愛のように見えます。
佐藤さんは語ります。
【佐藤】食は命だと思いますし、それから、生活の基本なんですよね、食というのは。 そういうふうに考えたときに、「食材そのものも命だ」と思うんですよ。
食材を「命」として考えるか、また「物」として考えるかによって、「物」として考えたときにはただ食べればいいということなんですね。ですから、煮ればいいとか、焼けばいいぐらいに思って食べる。それと、「命だ」というふうに捉えたときには、これを活かすためには、どのように調理をするだろうかというふうになるから、自然調理する心が、慈しむように、育むように作るんですね。だから絶対美味しくなります。そこで違ってくると思うんですね。
人参の皮むくにしても、 私は包丁で剥(む)いているんですけど、人参の丸い形が丸く残るよ うな剥き方しているんですよ。ただ、それを、今は皮むきでグ ッグッとやるんですね。そうすると縞が出来てくるんですよ。その金物でグッとやると、私、人参でも大根でも痛いだろうと 思うの。だから、そうでなく優しく、大根は大根の丸いままの 形が残るような剥き方をしています。
だから、「そんなことす るよりも、皮むきがあるんですよ」と教えてくれるんですよ。「そうですか」と、「でも、こんなふうに人参でも、野菜でも 筋が通って痛そうでしょう」と、私が言ったら、「もっとよく 剥ける皮むきがあるから教えましょうか」という人もいるんで すよね(笑い)。
でも、私は、やっぱりこの手というものが大 事な手になって、これで直接やりたいと思っています。優しく、 包丁でやっています。ですから、菜っぱなんか茹(ゆ)でるときは、 茹でることによって、緑の菜っぱであると、今までよりも一層鮮やかな輝くような緑に変わってくるんですよ。
その変わったときに、茎を見ると透き通っています。このときが一番美味しいときなんですね。だから、菜っぱに対しても美味しく食べてやりたいし、また、みなさんにも食べてもらって喜んでもらいたいので、茹でるときも、私はジッと見ながら、同じ位置にパッと入れたままでなくて、変えてあげながらその加減を見てい ます。で、ここというときにサッとあげて冷やす。だから、隣で話し掛けても・・私は勿論耳もあまりよくないんですけ・・聞こえませんね。
それと、そんなような外へ心を向けるような感じでないですね。やっぱり集中しますね。だって、こう見てい るうちに、その瞬間がなくなるから、ここというところを見極めるのにはジッとしていますね。私は、食べ物で透き通るということを、自分で感じて言っていた んですよ。だけど、ずーっと古く書いたものを見ても、「透き通る」という言葉を 多く使っているんですね。最近は特に使っているんですけど。
それを、私が講演なんかで話しますでしょう。そうすれば、聞いた人が私に、「蝉が脱皮するときに も神秘的な透明になるし、それから、蚕がさなぎに変えるときも、七回脱皮するけども、最後が透き通りますよ」とかと教えてくれるんですよ。それで、三年位前に、犬山市にある正眼寺(しょうげんじ)というお寺が・・雲水が三十人位、修道生活のお寺なんです・・そうしたら、食べ物の話になったんですね。老師様が焼き物をやっておら れて、焼き物も一番よく焼けているときには、釜の中が透明になって、何も中が 見えなくなる、と言われる。だから、今までの土が焼き物として生まれ変わるときに、やっぱり透明になるということなんですね。そういうことで、一つひとつ 私がみんなに教えられて、透明ということの命の移し替え、これまた確信もって話しているんです。
命を頂く。そして、今まで人参であったものが、大根であったが、私たちの口を通して、私たちの命と一緒に、今度は生涯共に生きていくわけですね。人参は人参で終わるんでなくて、私たちの命と生涯一緒にいく。だから、大事に私は扱いたい。
<以上番組から>
佐藤さんは自分を支える言葉として、弘前に福祉施設を建設するため奔走し、五十四歳の若さで急死したヴァレー神父のお説教でのことばがありました。
「奉仕のない人生は意味がない。奉仕には犠牲が伴う。犠牲が伴わないものは真(まこと)の奉仕でない」
この言葉を聞きあとに3月の雪解けのぬかるみの道を歩いているとき・・・
【佐藤】・・・私は、それがすごく心に響きまして、私のやっていること、これではいけないと思ったんですよ。不親切にしているわけでもないし、意地悪もしていないつもりなんだけど、やれることをやっている。だけど、その犠牲というところにいっていないなあと思って、これではいけないと思いました。それで教会から出て家まで歩いて帰るんですよね、その頃は。道路も今のような舗装した道路でないものだから、雪解けのでこぼこ道で、すごく歩きにくいから、ちょこっと歩いて他の軒下へ入って、車が通ればまたというふうに。そして、普通に歩いて三十分位なんですけど、長くかかるんですね。その道々考えながら立ち止まっては考えながら、さて私は、「じゃ、今と違うふうに生きるというのは、どういうことなんだろう。何が私に出来るんだろう」と思ったんですよ。お金あるわけでは ないし、また特別何かいい物をもっているわけでもないし、じゃ、私は何ができるんだろうと思ったときに、ちょうど車が来て、私がわきの方によって立ち止まったんです。そのときに、「あ、心だ」と、私は思ったんですよ。「私に心があるんだ。心だけは与えられるし、心というのは汲めども汲めども尽きることがないんでないか。じゃ、私は心でいくんだ」と。「心でいきましょう」と。そこで立ち止まったときに、パッと閃いたのが心だったんですよね。
<以上番組から>
1時間の番組、多くのお話を聴くことができました。個人的に上に文章にした部分の「透き通る」「奉仕には犠牲が伴う」という話が特に印象に残りました。
今回はこの「透き通る」という言葉、話の中には「透明になる」ということばでも表現されていた言葉に注目したいと思います。この言葉、3月9日付けで出版された佐藤初女『いのちをむすぶ』(集英社)に「透明になる」と題した次のメッセージがありました。
透明になる
野菜がゆくとき
緑がいっそう鮮やかに美しく輝く瞬間があります。
そのとき茎を見ると透き通っているんですね。
透明になるときは
野菜のいのちが私たちのいのちになるために
生まれ変わる瞬間、いのちのうつしかえのときです。
透明というのは本当にきれい。
食べものも人も、透明がいいと思います。
(上記書p109から)
番組では「蝉が脱皮するときに も神秘的な透明になるし、それから、蚕がさなぎに変えるときも、七回脱皮するけども、最後が透き通りますよ」という話があります。蝉のメタモルフセス(変態・Metamorphoses)のことです。このメタモルフセスには個人的に大変興味を持っていました。
変態(メタモルフセス・Metamorphoses)と環境
変身・変態と訳されるメタモルフセス、昆虫等の中には劇的にその姿を一変するものがあります。その現象の中に「透明になる」があるわけです。
人間はその心の転換において、心境の変化、心持の転回において、あるいは思考視点の転回においてその姿を変えるわけではありませんが「透明になる」情感に現れるのではないか。というわけです。
無抵抗のあけ(開け、空け、明け)が学ばれるということです。
開け 放された自由とでも表現できるのではないでしょうか。我による抵抗も放たれ無く、すべてが受け入れられる。遍く照らす光の中にまさに「透明になる」のです。
実存的虚無感が実存的透明にメタモルフセスする。
私はそのような言葉で理解したいと思います。
「いのちをむすぶ」
この言葉を実感できるときメタモルフセスを体感しているのだと思う。