私自身の今の心境を文章に表わすならば、 「私自身よりももっとも私自身に近いものに出会いたい。」ということになろうか。
この言葉は、13世紀の中世ドイツ(神聖ローマ帝国)のキリスト教神学者のM・エックハルトの「神は実に私自身よりももっとも私に近いというべきである。」という言葉からヒントを得て創作した言葉です。
私自身は、絶対的神信仰のうちにあるものではありませんが、エックハルトが神信仰のうちにある信仰者のあるべき姿を表わした思想からヒントを得てそのような言葉を創りました。
しかし、信仰という言葉に共通点をもたせるならば、それは「超意味への信仰」ということになります。またこの「超意味への信仰」という言葉は、「人間は人生から問われている存在である。」と説く、心理学者V・E・エックハルトの「超意味への信仰は、たとえそれが限界概念として理解されようと、宗教的に摂理として理解されようと、精神療法的および精神衛生的に極めて重要な意意義をもっていることは自ずから明らかである。」(『人間とは何か』山田邦男監訳・春秋社・p90)から引用する言葉で、「人間は最後の一息まで、生きる意味を実現することができる。」という人生の絶対的肯定を示しています。
文頭の言葉における「もの」とは、「物(ぶつ)」ではなく平仮名とします。そしてその「もの」は、物事でありまた事物です。物事と事物の相違は、個人的には、
物事を理解する。
事物からその意味を理解する。
という言葉表現から、それぞれの言葉の根底にあるあるものを捉えるしかありません。言葉を品物や記号などのような物(ぶつ)に考えると、これほど思うところを書けない歯がゆさがあります。描(えが)けないという漢字を使った方が、私自身に今の私の思いに最も近いかも知れません。
なぜそんなことを書くかというと、三日ほど前にブックマークしているブログに、
「無常性をそのままに受け入れ、何があっても生きてゆく。」
という言葉に接し、さらに近藤和敬著『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』(月曜社、2011、p261)からの引用文に接し、この描かれている内容に感動したからです。
さらにそのブログは、
「内在論の哲学」における真理の概念は、知そのものの理解に基づく教育の考えかたにも大きな変化をもたらすことになる。」
「現在の不可能性を問いとして直視することに耐えつつ、それを解決可能な問題へと粘り強くつくりかえていく歴史的ポイエーシスを支え助けるものでなければならない。(『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』p262-p263)
ということも書かれているのですが、一回の読みでその言わんとするところが理解できたことに驚いたわけです。
最近私は京都学派の西谷啓治先生の思想に接し、過去の西谷先生が信州でされた「芭蕉について」のご講義のなかで「無常な世界の中に自分を投げいれてそこで生きていく」「無常に会って、無常を行ずる」ということを語られたことを知り、また『宗教とは何か』をも学びつつあるところで、そんな今現在の私自身が、上記のブログの記事内容に言葉は違えども同じ思想的な流れを感じ理解することができたのです。
「私自身よりももっとも私自身に近いものに出会いたい。」
という心境で、もっとも近いものに出会えた瞬間でもあった、驚きそこにありました。
今朝の私のブログは、私自身の記録として残すもので、他者には理解できないものだと思います。
「超意味への信仰」
私にあるといえば、これかも知れません。