思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「クシ」という「やまと言葉」

2008年12月31日 | ことば

 あと残すこと6時間ほどとなりました。午後はジョギングをしながら松尾寺、正福寺、有明神社を巡りました。

 神道における大祓は、春と冬に2度斎行(さいこう)され、有明神社には、冬越の茅(ち)の輪が設置されていました。

 茅(かや)で直径2メートル弱の輪を左回り、右回りでくぐり神前へと進みます。

 「goo RSSリダー」で「やまと言葉」をキーワード検索しておいたところ、「クシ」というやまと言葉の解説がなされていました。

 自分のこれまでの認識では「クシ」という言葉を聞くと「串」などを連想します。この言葉は、「日本書紀」第三の一書に記されている罪の種類の中で「樋放(ヒハナチ)」というよう水路の破壊の罪とともに、「串刺(クシサシ)」の罪として登場します。

 この「串」が文献上の「クシ」の使用例の初出と記憶しています。
 本居宣長は「古事記伝」の中で「田の中に竹や木の串を刺しておいて、それを知らずに入った農民を怪我をさせて農業を妨害すること」と解釈していますが、戦前戦後にかけての古事記研究の大家倉野憲司先生は、「串、杖、矢」は占有権を示すために用いられたものと解説していました(古事記の研究 倉野憲司講義 下伊那国文研究会 P94)。

 「白羽の矢」という言葉があること、また「天の祝詞の昔丹生の大明神が大和と紀伊との国境に天降られて、各所にみ杖を立てて神の所領に属することを示された。」ことが書かれています。

  このように、刺したり、立てたり(御柱も立てますが)と記紀研究をしていると、面白いことが分かります。

 私の立ち寄ったブログでは「呪力」ある言葉と紹介されていましたが、ものの持つ「動的な感覚」に「呪力」的な神聖性があるような気がし納得しました。

 今年最後のブログ写真は、ジョギング途中の穂高川にかかる橋の上から、有明山、燕岳(つばくろ)を見た風景です。川面が陽の光を受け輝いていました。


叡智の結集

2008年12月31日 | 仏教
 残すところ今日一日となりました。昨夜雪が降り、周辺に1センチほどの積雪となりました。たぶん1キロほど穂高駅方面に行けば積雪はないだろうというほどの積もり具合です。

 連休で散策と読書とゆっくりしています。最近読んだ宗教学系の本に「宗教学の名著30」があります。著者は、東京大学文学部・大学院社会学系研究科宗教学・宗教史研究室教授島薗進さんで「ちくま新書(筑摩書房)」から今年の10月に出版されています。

 購入のきっかけは、帯の「叡智の結集」そして「名著30」という言葉に引かれたわけで、作者を宗教学に導き、また思考の基礎になっている書籍に興味があることと、どのような本を一般の読者に薦めるのか、好奇心をそそられたのです。

 持ち前の好奇心を掻き立てられる書きたてられたのです。特に日本の宗教学を語る日本の名著に興味があるのでそのことについて、きょうはブログを立ち上げたいと思います。

 先ずこの本は7項目の段階的な分類がなされています。

1 宗教学の先駆け
2 彼岸の先駆け
3 近代の危機と道徳の源泉
4 宗教経験と自己の再定位
5 宗教的なものの広がり
6 生の形としての宗教
7 ニヒリズムを超えて

の7項目です。この中で取り上げられている、日本人の手になる本ですが、

「1 宗教学の先駆け」では、
 ・ 空海『三教指帰』---比較のまなざし
 ・ 富永仲基『翁の文』---宗教言説の動機を読む
「4 宗教経験と自己の再定位」では、
 ・ 姉崎正治『法華経の行者 日蓮』---神秘思想と宗教史叙述の地平融合
「5 宗教的なものの広がり」では、
 ・ 柳田国男『桃太郎の誕生』---説話から固有信仰を見抜く
 ・ 五来重『高野聖』---唱導とと勧進の仏教史
 ・ 井筒俊彦『コーランを読む』---言語表現から実存解釈
「7 ニヒリズムを超えて」では、
 ・ 湯浅泰雄『身体論』---修行が開く高次システム

の7冊が紹介されています。7冊の限定については、「はじめに」で著者は、

 30人の著者、30冊の名著を解説する仕事はなかなかやっかいだが楽しいものでもあった。著者の仕事の全体像の紹介に力を入れた場合もあるし、一冊の書物の紹介に集中したものもある。著者の息づかいを伝えるため、引用文を多用した。また、各著者、書物のおもしろさを印象的に述べるために臨機応変に書き進めた。

としています。

 柳田国男の「桃太郎の誕生」が紹介されています。ユング派の河合隼雄先生の神話、昔話のもつユング派の個性化の関係からと読んだことがあります。昭和17年の初版で手元にありますがかなり多くの昔話が収集されている本です。

 盲目の職能集団による、説話の伝播、信仰性を含むとおかしさが倍増し、各地に似た説話が残ることになったとしていいます。柳田国男には「日本精神史研究」もありますが「常民」の宗教性を知るには「昔話」の方が良いかもしれません。

 7の湯浅泰雄先生の「身体論」にも論じられていることですが、宗教的な説話の伝播には、高野聖等の行者の存在も大きいようです。

 湯浅先生ですが、ユング派の深層心理学を勉強していると湯浅先生に出会います。ユング派の自己と自我、意識と無意識、普遍的無意識、元型、そして個性化と深まるにつれ「身体論」にめぐり合います。島薗先生の湯浅先生の「身体論」、柳田国男の「桃太郎の誕生」の項では、説話・昔話のもつ深層心理的解釈に言及していませんが、河合先生の「昔話の深層 福音館書店」「物語をものがたる 小学館」には、説話のもつ個性化の過程が語られています。イニシエーション(通過儀礼)は、ユング派は、個性化の過程、自己と自我の統合と考察してゆきます(夢と神話の世界 通過儀礼の深層心理的解明 J.ヘンダーソン著 河合隼雄 浪花博訳 新泉社に詳しい)。

 話がそれてしまいますが、ユング派の先生の本は大変参考になるものが多くあります。たとえば秋山さと子先生の「聖なる次元 思索社」には、

 第三章 聖における内在と超越
 1 瞑想と宗教
 2 宗教経験の伝達---禅と精神分析の出会い
 3 観とイメージ---浄土と精神分析の出会い
と、興味深いな内容が書かれています。

 話がそれました。さて湯浅先生の「身体論」の島薗先生考ですが、論中には西田幾多郎先生の「行為的直観」「無の場所」や「沙石集」も出て来ます。
 また、空海さん、日蓮さんの名があって「道元さん」がいないと思っていると、しっかり湯浅せんせいのところで言及されていました。たとえば

 他方道元は禅の修業について「身心学道」を説いたが、これを身体を心より上位に置き、まず自己の身体を「形」に入れてゆくことを促すもので、中国禅にもまして身体の意義を強調されている。道元の瞑想にあたって「諸縁を放落し、万事を休息」せよと指導している。これは精神が身体を支配するという日常意識を脱して、「非日常的存在様式の中に自己を閉じこめ」ることを意味する。そのとき、ひとは「生の根源的受動性へとさしむけられる」。自らの生が絶対的な限界のなかにあることの自覚から根源的な心身変容が生じるという。これが道元の禅が目指した境地(「身心脱落」)の本来的意味だと湯浅は説く。(155-61ページ)

と書かれていました。

 きょうの写真は、塩尻市小曽部地籍にある曹洞宗青松山長興寺のある柳田国男と釈迢空(折口信夫)の短歌碑です。この碑は、昭和5年長興寺で「民間伝承大意」を柳田が講じられ、「この寺がまさに日本民俗学の発祥の地であると云い得べきか。」とゆかりの地として建てられてました。
 折口は柳田の高弟で当寺で同じく講義をしているので一枚の石碑になっています。
    

宮崎奕保禅師

2008年12月30日 | 仏教

 きのうのあさ早くに、NHK総合で「心静かに心激しく~禅と闘病2つの生き方~」という番組の再放送がありました。

 ノンフィクション作家柳原和子さんのガンとの闘い。何をしていくべきか。心のよりどころは何処にあるのか。自問自答の毎日。そんな柳原さんのガンを克服してゆく姿と、曹洞宗永平寺78代目住職宮崎奕保禅師(106歳没)と作家の立松和平さんの対談の姿が放映されました。
 
 宮崎禅師の「息とひとつになり、欲が出る隙がない。」という坐禅の話から始まりました。
 106歳の老師のお話をまた聞くことができたことを感謝するとともに、こころ打たれます。
 「修行ではなくあたりまえのことをする。」禅師は、11歳の時から親元を離れ坐禅をつづけました。
 
 (恩師の)小塩奕童老師老僧の温かい死骸を見たときに、

  「偉い人やたな」と思った。
 80にもなっておって、雲水と同じものを食べて雲水と同じように1日を、わたくしのない生活をする。
 老僧の口だけではない、実行で示した、それが元や。
 できたら老僧ののような坊さんになりたい。
 だから人間はまねをせないかん。
 学ぶということは、まねをするということからでておる。
 1日まねをしたら1日のまねや。それで済んでしまったら・・・・
 ところが一生まねをしておったら、まねがほんまものや。

 69歳の時に大病を患い入院をしたのですが、禅師は、医師や看護婦に止められても、坐禅を病院でも継続しす。入院は3年4ヶ月つづきました。禅師の言葉はさらに
 
 人間は何時死んでもいいと思うのが悟りかと思っておった。
 ところがそれは間違いやった。平気で生きておることが悟りやったと。
 平気で生きておることは難しい。
 死ぬときが来たら死んだらいいんやし、平気で生きておれるときは、平気で生きておったらいいのや。
 自然は、立派やね。
 わたしは日記をつけておるけれども、
 何月何日に花が咲いた。
 何月何日に虫が鳴いた。
 ほとんど違わない。
 真理を黙って実行するということが大自然だ。
 誰に褒められるということも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。時が来たならば、ちゃんと花が咲き、そして黙って、褒められても褒められんでも、すべてのことをして黙って去っていく。
 そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。
 
と語り番組は終わりました。

 今朝は、少々雲があります。天気予報では、午後から雪降りのようです。


12月29日早朝の安曇野の風景

2008年12月29日 | つれづれ記

 今日を含めて今年も残すところ3日となりました。

  職場は休みなのですが、事務的な仕事を残すと来年早々
から忙しいので、休日出勤をしてまいりました。

 今日は、天候も崩れることなく晴れの一日でした。

 正月を安曇野で過ごす人が多くなり、山麓線も他県ナン
バーが多くなりました。

 早朝から、熱気球を楽しんでいる人がいました。上空は
相当寒いと思いますが、朝日を浴びた気球はきれいなも
のです。

 出勤時にアルプス安曇野公園方向に常念岳を見るので
すが、つい車を止め眺めてしまいます。

 常念岳の右方向の西北方向に目を向けると有明山そし
て北アルプスが遠くに白く、鮮やかに見えます。

 さらに右に目を向けると、松本平が遠くに見えてきます。

 


一里塚

2008年12月29日 | 仏教
 信濃毎日新聞の内山節さんの「風土と哲学」というコラムが12月27日105回をもって終了しました。

 近代以降の世界は矛盾のない社会をつくりだそうとして、巨大な社会、経済、政治システムをつくりだしてきた。だか今日ではこの巨大システムこそが矛盾の原因をつくり、自然も人間も無力な存在になっていった。

 本当の課題は、矛盾をなくすことではなかったのである。そうではなく、誰もが矛盾と向き合う社会をつくることであった。矛盾と向き合いながら、矛盾とも折り合いをつけて共存していける力強い生き方が可能な社会を創造することであった。自然と人間の関係には矛盾も発生するが、その矛盾とも折り合いをつけながら共存しなければ、自然と人間の友好的な関係は築けないようにである。

 そしてそれを考える時、日本の民衆の伝統的な生き方や精神が、今日では未来へのヒントとして存在していることに、私たちは気づかざるをえない。自分たちの深く根を張って生きる世界をつくり、矛盾と向き合い、自然とともに生きたのが日本の伝統的な民衆の姿であった。それを基盤にして、人々は平和で無事な社会を作り出していた。

 風土とともに生きるローカル性を人間は取り戻すことはできるのか。それを可能にする想像力をつくるために、過去から学ぶ時代がいまはじまっている。

と語、りこのコラムを終わりとしています。

 「ローカル性」とは何かということについて、知りたくなります。

 内山さんは、1950年生まれの方で、以前ブログにも書きましたが、群馬県上野村に住み立教大学や東京大学で教鞭をとる哲学者です。

 哲学者となられるまでの、思想的な影響過程について、哲学の冒険(生きることの意味を探して)という哲学ノートが平凡者から出版されています。エピクロス、三木清、ヘーゲル、キェルケゴール、親鸞等の出会い、父と会話の中で哲学の道に入る過程が語られています。

  昨年出版された「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか 講談社現代新書」の中で日本の伝統的な民衆精神に影響したものとして、本覚思想、親鸞の中に見える自然観について語っています。当然 伝統的な民衆精神ですので当然日本の神々の存在も語られています。


  内山さんの哲学は、民衆精神というように「民衆」の中にその哲学を追求しています。「哲学の冒険」では「日本的常民思想」という言葉が使われており「常民」と非常民の思想を分別しています。「哲学の冒険」では、「古代ギリシャでは、都市の市民にとって労働は卑しいものであり、当然古代ギリシャの哲学者たちも自分で働き作物を育てたり、物を作ることはなく、鴨長明も貴族でありけっして田畑を耕すことはなかった。」と語っています。

 内山さんの言う「ローカル性」とは、このような分別的な思考の中から「常民思想」を導き出しているようです。

 支配者・知識層と民衆の精神文化を語るとき、中国において仏教が、その社会(老荘・儒教等)の中でどのように浸透していくか、老荘思想が「道教」となり仏教が「禅浄」の形になってゆくそこには、労働をしない支配者・知識層と支配される民、生きる方法を容易に知ることができる思想を求める民の姿がある(老荘と仏教 森三樹三郎著 講談社学術文庫に詳しい)。

 内山さんは、知識層としてではなく、民の中で、労働の中でその思想を見い出そうとしているようです。

 今日の写真は、東山道の「一里塚」です。約4キロごとに設置されて旅人の昼間における歩きの速度の指針になる重要な役割がありました。宿泊先である宿場へ日の落ちる前に着くことができるか。殿様も民衆もみんなが頼りにする一里塚です。

 そこには時間ではなく距離という空間があるような気がします。
 

光明蔵三昧

2008年12月28日 | 仏教

 今朝のこころの時代は、「弱き立場の人々に学ぶ」と題しカトリック司祭本田哲郎さんのお話でした

 お話の中で、聖書の創りの過程における啓示が語られていました。司祭ご自身の求めの姿勢が、貧しきものの中に「神」を観ることで、その姿勢が大きく開かれ、「貧しきものは幸いである」というイエスの言葉の本当の意味が判ったとのことでした。それも一枚の弱きもの達の行列と中央の行列内に照らされる行列者の一員イエスの御姿の絵も心の扉の鍵になったようです。

 このように作り出された新しい日本語の聖書作り一度読みたいものです。

 この話を聞いて内山興正さんの次の句を思い出したので、書棚から取り出し再度読んでみましたのでここに掲出させていただきます。

興正法句詩抄(柏樹社)から

光明蔵三昧

  貧しくても 貧しからず
  病んでも 病まず
  死んでも 死なず
  すべて二つに分かれる以前の実物の
  絶対一元光明のなかに生き
  絶対一元光明のなかに深まりゆく
  この光明蔵三昧の生活
  ここには 無限の奥がある

  諸悪莫作 衆善奉行
  自浄其意 是諸仏教

  よいとわるいは あたまのはなし
  ふたつをこえた いのちにいきて
  いのちのふかさに ただむかう
  ぼけず いからず むさぼらず
  おびえず うれえず
  おんいのちのみ

 弱きものを弱きものにしか見えず、絶対救済を求め、弱きものの敵を見つけ出そうとする。

「慈悲」を絶対救済の真理に祭り上げ、絶対理性を求める信仰は、宗教ではない。長谷川如是閑さんの「私の常識哲学 講談社学術文庫」に次のような言葉があります。

・・・信仰というものには宗教という立派なものがあるのです。これは間違った間違った信仰によって人をあやまらせないように、正しい信仰態度というものを万人に教えて、そして一つの信仰の対象、信仰すべきものを与えて、これを信仰していれば、人間の生活をあやまらないぞ、というのが信仰なのです。------ところが、そういう目的でできた宗教でなしに、学説なんていうものは、人をあやまろうが、あやまるまいが、そんなことはちっともかまわない、ただ、これが真理だというだけの話なのです。だからこれを宗教のように盲信した日には、出鱈目になるのは分かりきった話なのです。

 中正昌樹さんも「<宗教化>する現代思想 光文社新書」で、同じような言葉を「形而上学」という哲学用語を使い語っています。


古代ギリシア人の自然観と「やまと言葉」

2008年12月27日 | ことば
 今日は、午前中に塩尻市と岡谷市の境にある塩嶺峠に行ってみました。眼下に諏訪湖が広がり左に八ヶ岳連峰、中央やや右に富士山が見えました。自然の雄大さを感じました。

 最近、哲学者の木田元先生の「新人生論ノート 集英社新書」を読んでみました。この本の「あとがき」を読んだところ精神科医小西聖子さんが「哲学者木田元」を精神分析し、その診断結果が書かれていました。

 その診断結果は、「日本人にはめずらしいほど自己中心的な人----利己的というのではなく、自分の内的な関心や嗜好にしか影響されない人----だ。」というものです。

 これを見て、木田先生についての精神分析を話題にしようとするものではないのですが、私にもそんなところがあるなあ思ったわけです。

 壮年期を通り過ぎようとしている自分自身、このようなブログを書いている自分。日常生活の内仕事を除けば、実に「内的な関心や嗜好」を中心に毎日を送っている、そんな気がします。今年も暮れようとしているのにのんびりと自分の世界に入っています。

 私の「内的な関心」事のひとつに、「やまと言葉の世界観」があります。古代人がどのように現前の事象をどのようにとらえていたか。こんなことを個人的に究明したくなるのです。

 究明というよりも、先人が考察してこられて文章に書かれたことを、自分のなりに「気持ちの落ち着くところにまとめている」ところです。

 木田先生の「新人生論ノート」の「自然について」の章に、西洋の「自然」という概念の初期の段階が書かれていました。それは次のとおりです。

 たとえば古代ギリシャの早い時代に、通常<ソクラテス以前の思想家たち>と呼ばれる人たちがいた。アナクシマンドロスとかヘラクレイトスとかパルメニデスといった人たちがそうである。この人たちについて、彼らは一様に『自然(フュシス)について』という同じ表題で本を書いたという言い伝えがある。むろんその本は残っておらず、そのなかの断片的な言葉がいくつか伝えられているだけなのだが。

 その表題で言われている<自然>でなにが考えられていたのかが問題なのである。永いあいだこれは存在者の特定領域としての<自然>を指していると考えられていた。したがって、ギリシャ初期のこの思想家たちは、人間の問題は無視して、幼稚な自然科学的研究をおこなっていたのだと見られてきた。

 だが、よく調べてみると、彼の言う<自然>はもっと古い意味で、万物(タ・パンタ)、つまりありとしてあらゆるものの真のあり方を指しているらしいということが分かってきた。つまり、彼らは人間や人間社会や神々をさえもふくめたすべてのものを<自然>と呼び、その真のあり方を問おうとしていたらしいのだ。

 しかも、この<自然>という言葉から、彼らが真のあり方をどんなふうに見ていたかもすいそくできるのである。というのも、この<自然>という名詞は<フェエスタイ>という動詞から派生したものであり、<フュエスタイ>は<生える><なる><生成する>といった、いわば植物的生成を表す動詞だからである。思想家たちにかぎらず、一般に早い時代のギリシア人は、万物はそれぞれが生命のような運動の原理を内臓していて、それによっておのずから生成し消滅するものだと見ていたらしい。<自然>はその運動(生成消滅)の原理を指すとともに、その原理によって生成し消滅するもののすべてをも意味していたことになる。

 ところがこれときわめてよく似た考え方が古代の日本人のもとにも認められるのである。『古事記』の冒頭部に<高皇産霊神(たかみむすひのかみ)・神皇産霊神(かみむすひのかみ)>という神名が出てくるが、そこにふくまれている<ムスヒ>(漢字が当て字だから無視してよい)という言葉がギリシャ語の<フェシス>とほとんど同義なのだ。<ムスヒ>の<ムス>は<苔ムス・草ムス>の<ムス>、つあり植物的生成を表す動詞であり<ヒ>は原理を意味する。『古事記』の同じ箇所で、その植物的生成がもっとも具体的に「葦の如く萌え騰がる物に因りて成る」と言われている。葦の芽のようなものの成長を支配している原理が<ムスヒ>であり、それは植物だけでなく、人間や人間社会や神々をも含めたすべての存在者の生成の原理でもあるというのだ。

 万物を生きて生成する自然と見るこうした見方は、農耕民族のアニミスティックなものの見方の洗練されたものなのであろうが、それが古代のギリシャ人や古代の日本人のもとに典型的なかたちで現われたということであろう。しかし、自分たちをとりかこむものを、こんなふうにそれ自体生きて生成し、自分たちを包み育むもの、つまり<自然>としてみるということは、ギリシアや日本のようなかなり穏やかな気候風土に恵まれたところでしか起こりえなかったことだと思う。たとえば北方アジアの酷寒の地や苛烈な砂漠のただなかで生きる人びとのもとでは、こんな感じ方も、こんな言葉も生まれなかったであろう。
 
と書かれていました。木田先生は1928生まれの哲学者です。

 木田先生の言われるソクラテス以前のギリシャ人の自然という言葉の発想と、「やまと言葉」の<ムスヒ>から導き出される生成の原理

 自然という言葉がなかった古代日本の「やまと言葉」の「もの」という言葉が動詞的に森羅万象を表しているという万葉学者の中西進先生「1929年生まれ」の話に通じるところがあり、また、<ムスヒ>という「やまと言葉」は、以前ブログに書いた「『イカの哲学』と『結ぶ』という『やまと言葉』」で述べた「言語学者、文献学者の新村出京都大学教授・名誉教授の「うぶすな考」という論文」に通じるところがあると思いました。

国家に統合されない人間

2008年12月22日 | 哲学

 きのうが冬至で今日から徐々に日が長くなっていきます。残念なことに今日は朝から雨です。写真は3日前の写真です。通勤時間帯の午前6時55分の風景で、前方右側に見える山並みが八ヶ岳、左側が高ボッチの山並みです。高ボッチは、塩尻市の北東に位置し、秋には山頂で草競馬が開催されます。無線中継の鉄塔などがあり山頂は高原になっています。
 「ボッチ」という名がついているのですが、アイヌ語から来ているともいわれています。

 きのうは、18年ほど前の映画「月光の夏」をビデオで観ました。知覧基地から飛び立った特攻隊員と小学校のグランドピアノの話です。

 「近代社会の内部には、つねにナショナリズムが台頭してくる基盤がある。」「たえずその芽が発生しながらも何とかくいとめられた要因のひとつは、戦後社会に定着した戦争への反省であった。」「連載を開始した頃。私はその足音が近づいてきているように感じていた。世界はこれから混乱の時代に向かっていくだろう。その混乱が国家対立を顕在化させていくかもしれない。」「それぞれの国で『自国社会の防衛』が急務になれば、自己中心主義の雰囲気は高まる。」「国民国家、個人の社会、資本主義が相互的に結び合いながら生まれた近代的な政治・社会・経済システムそのものを批判的に考察しないかぎり、歴史はこれからも悲劇をくり返すことになる。私たちがみつけださなければいけないのは、ナショナリズムを生みださない社会観、人間観であり、国家に統合されない人間の生き方である。」

という言葉が、哲学者内山節さんの連載中の新聞信濃毎日のコラム「風土と哲学」20日(土)「国家に統合せれぬために」の中にありました。

  つづいて「国家に統合されない人間の生き方である。」という問題意識をもつとき、新しい思想の創造のヒントが視野に入ってくるといっています。それは何か、「日本の伝統的な民衆思想のかたちが視野に入ってくる。それは自然とともに生きた人々の思想であり、地域の自治とともに生きた人々の思想」とさらにもうひとつ伝統思想、それは「国家を形成しながら生きた支配者たちの伝統思想」であるということです。


 さらに「国家を形成しながら生きた支配者たちの伝統思想」においては、「たえず日本が意識され、国家の手で社会を統合していこうとする意志が働いていた。」といいます。
 要するに日本の伝統思想は、「それぞれの地域風土とともに暮らした民衆の無事を願う思想」「国を基盤にして発想をたてる思想」とが並列する形で展開してきたというのである。そしてこのような並列状態を解消し国家に統合しようとしたのが日本の近代化で、明治以降の歴史であるということです。

 学徒動員で音楽大学の学生2名が特攻隊員となった。出撃前にピアノ専攻の1名がピアノをこの世の最後に弾きたいということで、グランドピアノがあるという小学校を訪れベートーベンの「月光」を力いっぱい弾く。傍らに立つ若き小学校女教諭。戦後60年ほど経ってこのピアノも古くなり廃棄処分なることが決まり、それを聞いた老女(その時の女教諭)、ピアノの思い出を話す。
 そこからこの「月光の夏」の物語が始まります。

 長野県の上田市塩田地籍には「無言館」があり、そこには芸術を目指していた学徒兵の絵画が展示されています。
 当時をナショナリズム(民族主義)の日本であったと定義するならば、その犠牲者の物語であり、絵画です。

 現代日本にはたして現実的な国家レベルでの危機感を実感するものがいるだろうか、あくまでも個々の経済的危機であり、個々の危機実感であるような気がします。
 組合加入率の低下の現況の中、組合活動を強固に展開しようとしても現実は厳しい。
 外国人派遣労働者や派遣労働の身を置くことを決断した日本人、企業の経済的危機からの首切り犠牲者の正社員。これらの人々を救う術は何処にあるのでしょうか。
 「国家に統合される危機感」が形而上化され、絶対的真理とされることの方が怖い気がします。

 極端な話ですが、「私たち以外は皆戦争が好きだ。」という集団が存在したとするした場合、「私たち」と「皆」の相対的な関係差別は、強烈な画一された統合集団の存在を前提とした論理でありこれほど怖いものはないと思います。

 哲学は、老荘思想が「無為自然」を語るも「その体得にはどうすべきか」を語らずに似ている。
 涙する哲学はないのでしょうか。


雷和尚

2008年12月13日 | 仏教
 長い引用文になりますが「講談社学術文庫 古典の叡智 諸橋轍次著」からです。

 平林寺に雷和尚と言われたおそろしい住職がおられたそうです。そこにある漢学者が行って問答をしかけた。「あなたがた仏教とはやかましいことばかり言っておるが、何の役にも立たない。われわれは仁の道を求めて修養をしておる。『造次にも必ずここにおいてし、顛沛(てんぱい)にも必ずここにおいてす』」。道を求めるためには、いかなる場合でも熱心にこれを求めるという意であります。
 ついででありますがこの造次(ぞうじ)というのは、ごく忙しい間という意味、顛沛というのは危急存亡の場合という意味であります。『論語』のことばであります。つまり儒者はいかなる場合でも仁ということを離れず道を求めている。それに比して{あなた方仏教徒は何をしておるのか」といってすさまじいけんまくで坊さまにせまって行ったのです。
 ところでその雷和尚何を考えたか知らないが、立ち上がるやいなや、その漢学者をパッと廊下に蹴落としてしまった。漢学者は昔の武士でありましたから刀をさしておる。それが足蹴にされましたからたまらない。しかも廊下の外に蹴落とされたのですから、もう黙っておるわけにはいかない。そこで刀に手をかけて上がってきて、その坊主を切ろうといたしました。するとその時に控えていた他の坊さんが出てきて、これはちょっとやさしい坊さんで、「まあまああなたのお腹立ちになるのも無理もありませんがしばらく気を落ちつけて下さい」と言って座につけました。そこでお茶を持ってきて一ぷくお上がりくださいとすすめた。漢学者はもう腹が立ってしょうがない。蹴落とされたんですからそれも無理はない。
 で、心の中はにえくりかえるように動揺しておった。そのため、この茶わんを受け取った手からぱたっと落としてしまった。茶わんからはお茶がこぼれる。するとその瞬間、そのおとなしい坊さまが、「ちょっと伺いますが、こういう場合には、あなた方漢学者はどうなさいますか」と聞いた。言われてみて、ふっと返答ができない。茶をこぼしてこれをどうするか。これは何か坊さまはむつかしい問答をしかけているにちがいないと、たじろいでおりますと、その坊さまは、にこにこ笑いながら「私ども仏教徒はお茶がこぼれたときにはその畳をふきますが」と言ってその畳をふいたというのです。
 全く漢学者は一本取られたわけであります。漢学者が負けた話で、私としてはちょっと気持ちが悪かったのですが、しかたがありません。この漢学者というのは明治時代の有名な外交官陸奥宗光のお父さんであります。これは実話であります。

  諸橋先生は、修養論の「四 近くに思う (5) 雷和尚」で紹介しています。
 論語の「学び思わざれば則ち罔(くら)し」からこの「近くに思う」からこの章は始まりまり途中に上記の話が出てきます。

 「その罔いのは近く思わざるからです。本当に近くに思っていればすべては明らかになる。」と言います。
  「朱子学」の祖の朱子自身には次の四つの戒めがあったそうです。

道は、
(1)高いところに求めてはいけない。
(2)遠いところに求めてはいけない。
(3)深いところに求めてはいけない。
(4)もっと平易なところにこれを求めよ。

これがその教えです。

 道はまた天地の間に遍満し、動物にも、植物にも、日常の生活の中にあるもので、道と言うものは元来すべての人間が行わなければならないものであり、また行い得べきものでなければなりません。と先生は語り、最後に二宮金次郎の「天地の経文を見よ」でこの章を終えています。

 今日の写真は、穂高の曹洞宗吉祥山真光寺の真民さんの「念づれば花ひらく」の石碑です。

他人の褌

2008年12月13日 | こころの時代

 経済的危機、治安的な危機と危機感を煽るわけではないが、間違いなく生活する上において今までと違った対応を迫られる事態となりつつあるようです。

 束縛という不自由を避け、片寄った自律面の障害が片寄った自立で、自分自身が他人の庇護外に置かれていることに気づきます、「時は既に遅し」ではないでしょうか。

 他人の褌で相撲を取る生き方と言った場合、企業家もそこで働く会社員も、また公務員も銀行家も、そして他人の購買力を期待する生産者も私はそうではないかと思う。

 上司に褌を使われ、人のいやらしさをまざまざと見せられた経験のある私は、ある部門を去ったことがあります。

 それも仏教的な縁起の中の出来事で、そして現在の私があるのですから思い出して怒り再びなどはありませんが「他人の褌で相撲を取る生き方」ほど愚かなことはないと思っています。

 立場上で上にある者、親も含み役職者も、そして先生と呼ばれる人も「他人の褌で相撲を取る生き方」に身を置いていることを忘れてはいけないと思います。

 親がなぜと思う人は、「他人の褌で相撲を取る生き方」を唯ひとつの概念で見ている人です。子がいるから親の立場にあるのであり、子どもの褌で生かされて、働き続けることができるのです。「小さい褌」などと、働きのない思考で物事を理解することに慣らされているとよく解らない話かもしれません。

 さらによく考えてみると「他人の褌」を使っていない人は、この世に存在しないことがよくわかります。
 借りた褌は、滅菌してきれいに返したいものです。
 
 褌には、使う人の魂が宿っています。霊魂のことで、現代人はどうしても頭の中に形あるものとして、個物的な移動するものとして考えてしまいますが、「何ものかの働き」に近い動きの中にあるものと私は思っています。

 霊魂とはなにか、これについて故原田敏明先生はその著「日本古代思想 中央公論社」の中で次のように語っています。
 
 霊魂にはそれ自体、一つの固体的なもしくは人格的な存在である場合と、機能的流動的な存在として一種の非人格的なものとを分けて見ることができる。しかもすでにアニミズム的傾向を持った古代日本人、ことにその記録に表われたところでは、一般に「たま」といわれるものが、これらすべてのを包含した内容を持っている。したがって人格的な霊魂も自由霊としての精霊も、またそれらのはたらきをとしての霊威といったような考えも、等しく「たま」という語で表している。
 
と書かれています。
 
 この魂は、ひとだけにあるのではなく、農耕民族であった日本人にとっては、農作物にもあるものと意識され、特に稲には神秘的な魂を認めて「稲魂」と呼びました。また木や森には木霊が宿っています。

  魂はこのような事物ばかりではなく、言語や国、土地に宿っています>  よく言われる「言霊」がそうですし、国や土地については、原田先生は次に書かれています。
 
 また古代には、地域を「くに」という語で表すのが普通であるが、その語源はしばらく別として、「くに」は必ずしも土地だけをいうのではない。土地に即した共同社会といった方がよいかもしれない。古い記録の諸所、ことに『延喜式』の神名帳でも諸地方に国魂神に関するものが少なからず存する。これら各地の多くの国魂は、後には一つの統一された国魂神となっているが、最初からそうであったのではなく、各地それぞれのものであったと見るべきである。
 
と書かれています。

 万葉歌にもあるのですが、「あおによし」という枕詞が地名である「奈良」につきます。「みすずかる」は「信濃」につく枕詞です。このように枕詞で賛美することは、「くに」が人々の尊い魂のつながりの中にあることを示していると思います。

 故犬養孝先生が夫婦間の愛情の話で魂の話をしていました。万葉集の中には50首ほど夫婦間の下着を交換の歌があります。これだけの歌があるということは、ある地方の特異的な話ではなく一般的にそうであったことを表しています。下着といっても和服である下着の下に着るものであり、現代人的なイメージで解釈してはいけません。

 旅という行為は、古代人にとっては、死別を伴う可能性がかなり高い行為でした。旅先や赴任先での夫の魂、そして残されし妻の魂を癒してくれるのが、そこに宿る夫や妻の魂があるのです。
 
 今日の写真は、東筑摩郡山形村からサラダ街道に向かう途中の八ヶ岳から朝日が昇る直前のものです。つい最近この道の右方向に焼く3キロ行ったところに、この道と平行して「愛ビタミンロード」という同じ農道が開通しました。
 東筑摩郡朝日村からサラダ街道に通じる道で、松本空港までほぼ直線で行ける道です。

 松本市今(いまい)井地区と朝日村岩垂(いわだれ)地区の境にある道で「愛」とは朝日村の「あ」と今井地区と岩垂地区のローマ字の「I(アイ)」)からきています。「ビタミン」は、レタス生産地で有名な土地内を通っていることからつけられた名称です。
 この開通識に行き最初聞いたときにはびっくりしたのですが、とても思いのこもった名であると思います。