男優大杉漣さんが急性心不全で2月21日に亡くなられた。66歳ということで年齢が近いことから人の最期ということの突然に驚く。
明日を信じてきたけれど、明日は誰にも来るわけじゃない。
限りある命を、ひたすら生き抜いて
今日を大事に・・・ 現在(いま)を大事に・・・
という言葉が小田純平の『愛しき我が人生』という歌にある。
「明日は誰にもあるわけじゃない。」
確かにそうなのである。死の到来は病的なものや事故、災害などとの遭遇などがあり、刻々と迫るものから突然とおとずれるものがある。それは現象であって、宗教的な人ならば予定説であらかじめ定められた運命と位置付けるだろうし、御国は準備されていると意味づける人もあろう。
人は常日頃、「限りある命を、ひたすら生き抜いて、今日を大事に・・・、現在(いま)を大事に・・・」と意識しているわけではないが、既知の人の死というものは、何かと考えさせられるものである。
小田純平さんのこの歌では「幾千の出逢いと、別れをくり返し、今日があるから・・・、現在(いま)があるから・・・、愛しき、我が人生」がくり返される。
社会学者の大澤真幸氏の『増悪と愛の哲学』(角川書店)の第2章は原爆の話が書かれている。「もう2度とこのような悲劇はくり返しません」は日本人の言葉で、原爆を投下したアメリカ人の言葉ではない。
増悪は徹底した粉砕に向けての足踏みを進めるが、「恨むことこそ悪である」と思考する風土に育つとIBMの輸送トラックも滑稽な行列にしか見えないが、森有正がフランスの女性から聞いたという「3番目の原爆が投下される国は日本だろう」という言葉が納得してしまう。
まさかそうしないだろう、という明日を思う夢物語。
理想を持ち続けるか。
現実を注視するか。
「生きることにもそろそろ、慣れてきたっていい歳だけど、いまだ悩んではため息を酒で飲み干す、夜もある」
私は酒アレルギーで、お酒は飲まないが、この『愛しき我が人生』はこのフレーズからはじまる。
司馬遼太郎『この国のかたち』には、「私は、日本の歴史は世界でも超一級の歴史だと思っている。」という言葉があるが、その思考視点は鳥瞰的で、身近にあるのは日々だけである。
増悪を忘れた人々の行く末は、予定説のない愛に満たされるのであろうか。
けさのEテレ「こころの時代」は、昨年(2017)9月24日に放送された、島根大学名誉教授 松塚豊茂の「生きる意味とはーニヒリズムを超えてー」の再放送でした。多くの方々からの再放送希望が叶ったというところでしょうか、久しぶりに足下を見つめさせられた気がしました。
サルトルの実存主義の「実存」とはやや異なる、異形的な自己表象の「実存に生きる」を」を歩み、進むものからすると、「ニヒリズムを超えて」は西谷啓治先生の「根源的主体性」に通じるところを感じます。この番組は大いなる教示があるように思いました。
最近はカラオケ三昧、人前での歌唱発表に明け暮れ、カラオケ哲学、カラオケ道などと愚言している自分がありますが、けさは何か、内照される思いがしました。
生を明らめ死を明らめるは
仏家一大事の因縁なり
(道元禅師)
仏家一大事の因縁なり
(道元禅師)
生死即涅槃
(親鸞正信偈)
(親鸞正信偈)
才市は阿弥陀になることはできぬ
阿弥陀のほうから才市になる
(浅原才市)
阿弥陀のほうから才市になる
(浅原才市)
憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥
(芭蕉)
(芭蕉)
自己をはこびて
万法を修証するを迷いとす
万法すすみて
自己を修証するは悟りなり
(道元禅師)
万法を修証するを迷いとす
万法すすみて
自己を修証するは悟りなり
(道元禅師)
峰の色 谷の響きもみなながら
わが釈迦牟尼仏の声と姿と
(道元禅師)
わが釈迦牟尼仏の声と姿と
(道元禅師)
心もよ言葉も遠く届かねば
はしなくも御名をとなえこそすれ
(良寛)
はしなくも御名をとなえこそすれ
(良寛)
これらの言葉は、後半部分に出てきました。松塚先生は時々「相対的目的に相対的に関係する」という言葉を語ります。大絶対否定に大絶対肯定が、大絶対有に大絶対無が関係する。360度の認識、自覚の回転というようなことを言われ、わたしの立ち位置は常にそこにあるのですが、変わること無き今現在ですが相対的に関係する「何か」が行き交うわけで上記の先人の言葉にみごとに現れているように思います。
『意味への意志』のV・E・フランクルではコペルニクス的転回で、これは180度という意識で自覚意識を持っていましたが、360度というまさに度数にまた異なる世界観で自覚の意志が目覚めさせられます。
先月28日の発表会のビデオがYouTubeにアップされ醜姿と唄いの不味さに驚きました。
私は何かに溺れている。
自分の比較意識からでしょうが反省点を得ることができ、ある意味ありがたいことでした。
そう長くはない人生、やりたいことを大いにやり抜きたいと思います。
ブログを書く意欲を失ったように見えるかもしれませんが、そうではなく、一曲でも多く歌謡曲を覚えようという意欲が勝り休止状態になっています。
最終ブログは佳山明生さんの『こんな女のブルース』についてその詞の面白さについて書きました。カラオケの世界は多種多様な曲があり、月刊雑誌『歌の手帖』(マガジンランド)が好まれ多く読まれています。
この雑誌には「歌の手帖Kリーグ」歌の段位認定のコーナーがあり全国のカラオケ好きな人が段位昇格の努力をされ4段から9段までの歌のうまい人が紹介されています。
私の住む長野県からは現在第265回で5段に2名名が掲載されています。その中に長野市に住む「伊藤光一」方がおられ、1月28日(日)最近安曇野市の「穂高交流学習センターみらい」で開催された「第13回 心を潤すカラオケの集い」が参加され聴くことができました。曲名はたくみ稜『終わらない愛』で歌手はもちろん曲も知らない人が多いのではないかと思います。先の段位の選曲は走裕介の『男の駅』で、これまた多くの方は知らないと思います。この世にどのくらい歌唱の対象曲があるかは知りませんがその中の一曲を選択する。楽譜が読めるからと言ってすぐに人前で歌えるようにはならないので、その情熱たるや想像を超えるものがあります。
還暦は過ぎ私くらいの年齢かと思いますが歌の教室に通われているようで歌の上手な方です。私も大昔の習いが復活し最近はこの世界にのめり込み、多くの歌を習得しました。今年から積極的に発表会に参加することを決め、既に3回ほど出場しました。
「第13回 心を潤すカラオケの集い」にも参加しましたが新参者ですので7番で午前の早い時間帯、200名収容ホールも50人もいない状態、伊藤さんのような常時参加されている方は午後の部、ホールは満席に近い状態でした。
私の選んだ曲は森進一さんの『悲しみの器』、森さんは知っていても曲は知らない人が大半かと思います。YouTubeで森さんの歌声を聴くことができますが、そのうちに私の雄姿がアップされることになっていますので聴き比べてください。
歌は上手、下手というレベルであるよりも、自分の歌として情感豊かに表現できるかが聴かせる唄になるように思えます。ある意味、私はカラオケ哲学、カラオケ道にはまっています。
そういう私が今読んでいる人文学書は、大澤真幸『増悪と愛の哲学』(角川書店)私の一曲的なところがあります。