思考という世界を限りなく追及しているのですが、苦悩ということばを連発しているブログを書いていると、どうも苦悩を苦悩している、それこそ「虚無感のただ中にこの人はいるなぁ」思われてしまいますが、至って私は単純な人間で、悩み多き人間ではありません。
空間・時間・働き
この三つの言葉を個々人のもっている語感でものごとをみつめると、「人とは、人生に期待され、意味を問われている存在である。」という語(かたり)がさほど難しい理解を求めている言葉ではないように思います。
つみ【罪】
ツミ(罪)とは、共同体の規範・法則等への侵犯行為、またそれによって生ずる責任を意味する言葉である。そのようなツミは、通常は行為者に帰せられる。・・・・
この「つみ}という言葉の解説は、副題が「《読む》古代語辞典」となってい筑摩書房から出版されている多田一臣編『万葉語誌』(2014.8.15)の記述です。
やまと言葉の研究家ではないのですが、古代語には興味があり、特にこの「つみ【罪】」という言葉には、特別興味を持っています。
言葉とはどのようにして成立してきたのだろうか、危険認知の警戒音として、獲物捕獲の合図音として、と過去ブログにも書きましたが初源はそのようであったようです。
その後ソシュールが説かれる範疇化とか分節という思考によって言語学が学としての道を歩んでいます。
『日本古代共同体の研究』(門脇禎二著・東京大学出版)で説かれるように、人間集団の存在を見れば当然に共同体という概念で捉えた研究もなされるわけで、家父長制、家内奴隷制などという考察もそこに取り込まれて行きます。
言葉の語源的な意味の発想において、今回は上記の言葉にかぎりますが、なぜにいきなり「共同体」というイメージの基に考察されるのか素人ながら疑問に思うのです。
「やまと言葉は、動的な働きの言葉である」
という素人発想を持つものとしては、集団以前の発想があるのではないかと思うのです。
人間は、空間と時間に置かれた(放たれた)哲学ゾンビではなく、働きのうちにある存在なのだということです。
私の解釈としては、「つみ」とは、働きに対しては「阻害」がイメージされるのです。
つみ【罪】
ツミ(罪)とは、自然(じねん)を阻害する行為。
としたいわけです。
「空間・時間/(スラッシュ)働き」の発想
空間の根底、時間の根底には「働き」があり、「働きそれ自体」も空間・時間のうちにあるという意味でスラッシュを使った表記にしました。
人にはいろいろな発想の法則があります。
この『万葉語誌』は、個人的には「つみ」という言葉の範疇に入ると思われる言葉も別に論じられているので、大変勉強になります。
やまと言葉としての「つみ」についての個人的な考察については、当該ブログサイトの右の検索欄を使用していただければ出てきます。「やまと言葉」「つみ」「ツミ」「西郷信綱」が検索語になるかと思います。