思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

魂に触れる教育

2014年08月20日 | 宗教

 長崎県佐世保市で起きた高校一年生の生徒が同級生を殺害した事件を受けて、8月7日付読売新聞は、11面で「なぜ人を殺してはいけないのか~佐世保事件を受けて」と題して元法務教官魚住絹代さん、元高校教師水谷修さん、そして私の好きな宗教学者の山折哲雄先生のそれぞれのコメントが掲載された特集が組まれていました。

 そして、昨日19日付11面の「論点」では道徳教育論がご専門の武蔵野大学教授貝塚茂樹先生の「宗教取り入れ 命の教育」という記事が掲載されていました。

 山折先生は「死を教える教育 弱い」と題しての内容で、貝塚先生は、道徳の教育化の流れの中で「宗教の取り入れ/いのちの教育」を取り入れるべきだ、という内容です。

 日本人はどうしても国家宗教というトラウマが歴反省の中で醸成され、宗教に対するアレルギーが強いし、憲法では宗教の自由が保障され、信じることも信じないことも強制されないという視点から、宗教色の強いものは公的な行事も含め排除することが”正義 ”ということになっています。

 しかし公人が最低玉串奉奠(たまぐしほうてん)は許されるようですので、日本人はまぁ何とも不思議な宗教感覚をもつに至っています。

 西田幾多郎先生は、その前期の著『善の研究』の中で、

「・・・我々は自己の安心の為に宗教を求めるのではない、安心は宗教より来る結果にすぎない。宗教的欲求は我々の已(や)まんと欲して已む能わざる大いなる生命の要求である、厳粛なる意志の要求である。宗教は人間の目的其者(そのもの)であって、決して他の手段とすべき者ではないのである。」(『善の研究』ワイド版岩波文庫P210)

と書いています。

 このような流れの中で思うのは、それぞれの存在の魂に触れることの大切さが必要だと感じます。「魂」と書くと超常的な幽霊や霊能の世界を創造して、実体的な個的な存在にあるものとしての「魂」を内に描きますが、私の思うところはそのような世界の話ではありません。

 山折先生他の先生方の「魂」に触れ、西田先生の「魂」に触れその言葉の先を読み摂ろうとする「魂」をもとうということです。

 したがってその魂は生死に関係がない「もの」です。

 記事内容を受けて、そのような意味に解して、読売の今回の記事には耳を傾けたいと思ったわけです。