思想の源流、哲学の源流・・・科学・物理のは世界の終りや始まりを法則の探求する中で突き詰めようとし、思想や哲学はどのようにあるべきか、どのように考えるべきかの形而上学的な思念も含み語ろうとします。
その源流はどこから来るのか、哲学という立場に視点を置いて、その源流を模索するとそこには三つの伝統があると言説があります。
「・・・学問としての哲学は、ある意味で・・・神話の任務を受け継ぎ、神話が与えようとした究極的運命の解釈を、あらためて理性によって与えようとしたものであって、魔術的な祭儀の代わりに、多少とも理性的技術と道徳とを置き換えるのである。すなわち哲学は、神話が目ざしたところの、世界と人生との意味づけを、改めて理性的反省によって行おうとしたものであるといえる。そしてこういう意味での哲学の形成は、歴史の上では、三つの場所で、ほぼ同じ時期、しなわち紀元前六、七世紀の頃にはじめられた。すなわち、ギリシア古代の哲学の諸学派、仏教ジャイナ教を含むインド古代の諸学派、第三に孔子にはじまる中国の春秋戦国時代の諸学派(諸子百家)である。そしてこれらの三つの思想圏が、色々なかたちで継承せられて、その後の多くの民族の思想を、従って広い意味での哲学を成り立たせたのであった。現在文化民族と呼ばれる民族は、事実上すべて、これらの三つの思想の源のどれかにつながるものなのである。西洋人やアラビア人は、ギリシャの哲学を継承し、日本人や朝鮮人は、中国の古代の哲学を継承したのである。」
上記引用は京都学派の野田又夫著『哲学の三つの伝統』(岩波文庫p45-p46)からで、野田先生をが言ったという事実をなしに、時々このような話をする人がいます。地域性、風土という観点からも、その場所その時期における、人の歩みに欠かせない何かが原理として成立するのではないかと、疑念なく納得します。
それは違うと堅き心の一徹を貫く人はおられるかもしれませんが、思索の世界に舞う身としてはこのようなことも、頭の片隅に置いておくのもよかろうと思います。
理解する。
自分なりの納得をもつ。理解するとはそのように自分の納得に落ちつくものが本来の自己本位ではないかと思います。それはまた常に固定された、硬き、堅き思考信念ではなく、流動的な生の中に培われるものではないか、とも思います。
「命の大切さ」を教えるために「生きものの大切さ」「生の大切さ」を重点として、死は忌み嫌いの世界に追いやる。遠ざけられた死の世界は、混沌としたデーモンの足音のように、人々を悪の凡庸に走らせる。
法医学の人体解剖も、ある意味異様な世界です。正当化理由、正当化事由という大義名分があるので、人は平然とそれを承認します。
原爆投下という蛮行も然り、戦争という非常事態であるから超法規的に正当化理由、正当化事由を立てに挙行されるわけで、そもそもこの悍(おぞ)ましい事実はどこから来るのか。
他民族殲滅、大量虐殺
という現象の正当化理由、正当化事由を逆説的な負の面から思索すると彼岸には「死」があるのではないか。
メメントモリ、死を忘れるなの啓示は鋭さを増す。しかし反面、ないがしろの世界が生みだされても来るように思う。
一方を強調すれば他方が弱まり、弱まりを回復させれば他方が弱まりの世界に落ちる。
世界の現象とは、永遠回帰、永劫回帰のただ中にある。三つの潮流はグローバルに一つになりつつあり、すべては一度に行なわれる世界になりつつあるように思える。
異常気象があらゆる国に起こるように。