思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

一つをつくり上げるということ

2011年10月31日 | つれづれ記

[思考] ブログ村キーワード

 以前紹介した哲学者の植村恒一郎先生の、
 
<時間が我々に教えてくれることは、自分の人生というものをただ受動的に生きるのではなく、自分で改めて引き受けるとか、自分で能動的に引き受けなければならないのだと自分に教えてくれる、それが時間だと思います。>

 という「時間」についての言葉があります。

 自分なりに考えてみると、「時間論」などという小難しいことをことを言う以前に、時計を何気なく見る仕草には無意識のうちに時間の存在を認めとめているのであって問うまでもないことです。

 時と一緒に話題になる「空間」という言葉も、終極的に「死」を問うときにその「時」が最大の課題で、「畳の上で死にたいものだ」「家族の見守る中で・・」などと間違いなくその「死に場所」を前提にし、その前提とは「場所」でこれもまたとうまでもないことです。

 しかし問うまでもないことでも、自分なりにそういうものだという「つかみ」を持っていると経験的に楽であるように思います。

 生物としては38億年前の一つの細胞の時から時間の上にあるのであって、先験的に自分の中に組み込まれている受け身の話でないことは自明で能動的なものであることがうなずけます。

 そのような能動的な時間、これはまた他者との関係においては、その関係性を重視するならば他者との関係においても能動的な時間でもあるともいえることになります。

 「今日只今の時の大切さ」は、時の有効利用でもあるわけですが、それはすべての関係性の構築に当って、受動時でない自らの積極的な動的な精神活動を促す啓示でもあるように思います。

 最近自己の興味の中に詩歌があります。そういうものに接すると「時間」「空間」というものを感動的に感じることができます。

 最近金子みすゞの「積もった雪」という詩を紹介しました。ある童話作家はみすゞの他の詩人にはない特異な発想を述べていました。

「積もった雪」
 
  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしていて。
 
  下の雪
  重かろうな。
  何百人ものせていて。
 
  中の雪
  さみしかろうな。
  空も地面(じべた)もみえないので。

 ここでは積雪を上部の雪、下部の雪そして中間の雪と三層に分けています。私にはこんな発想は思いつきませんし、三層に分けたところで、それぞれの層を擬人化し、身の上に起きていることを重ね合わせて吐露することも出来ません。している。しかもその語りは、雪そのものが語るのではなく「さみしかろうな」と作者の感慨の言葉にするのですからこのやさしさも当然表現できません。

 先験的にすり込まれている、実体感からこのような発想ができるのでしょうが金子みすゞという人物の存在は歴史の中に埋もれることなく今の世に生きていることにその意味も問いたくなります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 さて話を別視点に移します。

 この三層の詩を3人の詩人が別々に作ったとします。互いに同じ場で同じ時間を共有しつくり出す「連詩」のようにです。

 ※注:連詩の世界は、こういうつくりの場でないことは承知しています。

 もしこういう詩を別人の三名ががつくり上げたとすると全体の詩の持つ詩的感を三人が共有していることになります。

 それぞれの雪の層の持つ感情は異なり、受け持つ詩人は同情の意味合いでその層の詩をつくり出します。

 「さむかろうな」「重かろうな」「さみしかろうな」

 各雪に見る詩作者各人の感慨です。

 そもそも分ける意味はないのですが、詩歌に見る志向性の表現の視点からあえて分解しました。

 次のような川柳があるとします。

 休刊日
 きのうを探す
 地デジだよ

内容的には、新聞休刊日の話しで、テレビを見ようと思い夫は休刊日を知り、昨日の新聞はどこにあるのかと妻に声をかける。

 すると妻は「地デジですから番組表は表示されますよ」と応えた・・・という内容です。

 この場合は作者が一人で、登場人物は二人そこに流れる・・・夫婦の会話。

 連詩に続き、連句の話しでもなくこの場合は一句に焦点を与えています。

 この一つの川柳を三人が各部を作ったとするとこのホンワカとした休日の一コマは、三人に共有される共通感覚と言えると思います。

 本当の連詩や連句の世界は一つの知的勝負の世界で、参加者はそのプレッシャーに耐えることが要求されるようです。連詩についてですが、大岡信先生は「連詩」について次のように語っています。

<『連詩の楽しみ』(大岡信著 岩波新書)から。>

 私はなぜ連詩を作るのか。その動機の肝心な点は何なのか。答えはもうすでに書いてしまっているようなものですが、煩をいとわず書けば次のようなことになるでしょう。

 複数作者が一堂に会して作る連詩という詩の形式は、参加者一人一人に対して、単に作者であるのみならず、同時に他者の詩に対するきわめて親身で敏感な鑑賞者・批評家であることを要求します。
 
 この鑑賞者・批評家は、一座の参加者である以上、本質的には一瞬の切れ目もなく、作者として存在しています。ある参加者が仮に苦吟を強いられ、待たされている一座に白けた時間が流れ始めたとしても、一旦彼が詩句を作りあげた瞬間、今まで傍観していた次なる順番の人物の立場は一変し、脳髄はいきなり自分の前に置かれた数行の未知の詩句に対して鋭敏な鑑賞力を働かせつつ、同時に作者として自分の詩をこれに付けてゆく作業に取りかからなければならないのです。

 連詩全体の生き生きした進行が保たれるためには、一人一人が自作をも含めて全員の作品を常に柔軟に鑑賞する力を養い、時には他の参加者の作品に干渉して修正することさえも辞さないほどでなければなりません。共同制作の場における「協力」の真の姿は、そういうところ、にあるとさえ言えるでしょう。

 連詩とは、自分の書きたいことを書いたあとは知らぬ顔という一人よがりの態度の、まさに対極点にある詩作方法です。これは必然的に、精神生活をある決まったチャンネルを通して安直簡便に営もうとする態度とは相容れません。多チャンネル同時全開式なのです。

 私はこの項のはじめに、連詩という形式も不幸なら、現代における詩も不幸だと思うと書きました。連詩が不幸だとすればそれは、連詩が発生的に、上述のような現代社会の精神傾向を否定的な動因として連詩自体の中にかかえこんでいるからだと言えるでしょう。

 けれども、それが不幸であるといえるのもそこまでです。なぜなら、連詩は構造的に、その参加者各人が相互に積極的関係を結ぶことを本質とするものなので、不幸という、単独な個人にふさわしい静態的状態は、連詩の実行過程では、いやおうなしに乗りこえられてしまうからです。私たちはここでは、形式それ自体の必然によって、他者と創造的相互干渉の関係を持つことになるのです。

<以上同書p35~p36から>

この話は「連詩」という創作の世界ですが、このような世界を一つの話し合い、共通の世界観の構築のための議論に重ね合わせると非常に現実が見えてきます。

 TPP関連の議論

 その場の参加者が共通項として持ち合わせていなければならないことは何か。構築されるべきものは何なのか。

 参加、非参加のどちらを選択しても「夢破れる」ような話に見えてきてしまいます。

 一対全体この人たちは日本をどのような物語にしようとしているのか。

 互いに何かが足りないのか。感動的な詩は作れない。それだけは確かなように見えてなりません。

 「連詩は構造的に、その参加者各人が相互に積極的関係を結ぶことを本質とするもの」

 どちらを選んでも不幸になる。こういう時の流れに遭遇している日本。避けることのできない時代にあるとき、耐え抜く努力しか結果的には残されないように思います。

 しないままに耐え抜いていくのか、それとも、して耐え抜くのか。

 そういう話なのですが、一つをつくり上げることは大変なことです。

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そこし恨めし 秋山われは

2011年10月30日 | 風景

 今日は小雨降る一日となりました。午後3時過ぎには一時雨が上がり紅葉を見ながらジョギングを開始。午後5時にはまた小雨の天気になってしまいました。

 今年の紅葉はいま今一つ、との話のとおり庭の紅葉もまばらです。







 松尾寺の西隣にある鐘の鳴る丘の建物がある前に和の紅葉ももう一つの状態す。



 この前庭に来るとどこからか甘いメープルシロップのような香りが漂ってきます。ケーキ屋さんのニオイに似ているので観光で建物を訪れたと思われる中年女性3人の女性客の方は「ケーキ屋さんが近くに・・・」と話されていましたが、この香りは桂の木の葉の匂いで、紅葉の紅葉が鮮やかな時は、紅葉の色が香りと重なり、何ともいわれぬ体感を受けます。

 有明高原寮から後方に見える有明山、ごらんのとおり雲の上というよりも、霧の上に浮かんでいます。

 有明神社前のそば処「くりま屋」さんの銀杏はご覧のとおり全体が黄色に染まるのはもう少し時間がかかりそうです。

 大王橋から燕岳方面を見ると微かに霧の向こうに燕岳が見えました。

 段差のある畑下の小路をとおると猿除けの電気柵、その手前に野の花、遠くに有明山。

 いつもの変わらない風景ですが、霧が雲が湿り気のある風を麓に・・・季節は秋です。

 ・・・そこし恨めし 秋山われは。

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おぎゃあ・大いなる母

2011年10月29日 | 仏教

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 今朝は朝から松本市に出かけました。

 途中連続ドラマ“おひさま”の赤い屋根のお店のセットが建てられた大王わさび園までくると霧が立ちこめ、このような幻想的な風景になり、携帯で撮りました。

 霧のある風景。この季節はこのような風景を安曇野では見ることができます。

 さて最近時々話題に取り上げる「意識」の話です。

 「タブラ・ラサーサ(まっ更な板)。ジョン・ロックは生まれたばかりの意識の状態をこう呼んだそうです(『哲学以前の哲学』(松浪信三郎著 岩波新書)。

 赤ん坊は誰が教えるわけでもなく「おぎゃあ」と産声を上げます。この呱々の声を上げた瞬間に、その子には意識が出現していると言います(上記書p8「8意識」)。

 この泣き声は、母の胎内を出て、地上の空気に触れたときの、驚きと違和感から生じる叫びと受けとれる。この驚きと違和感は、直接的であってまた反省的ではないが、すでに意識である。赤ん坊は母乳を十分に吸い、あたたかい衣服にくるまっているかぎり、満足感にひたったままおとなしく眠っているが、空腹感や不快感が生じると、泣き声を上げる。満足感も、空腹感も、不快感も、直接的であるが、すでに意識である(上記書)。

 こういう語りを目にすると諸橋精光さんの絵本『般若心経』を思い出します。

(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

般若心経の解説本は星の数ほど多いと表現してよいほど巷に出回っています。

 私も数多くいろいろと読ませてもらいましたが、この絵本は置き場所が直ぐに分かる位置においています。

<大いなる母>

「シシャーリープトラくん、
想像してみてごらん。
もし生まれたばかりの
言葉も話せない赤ちゃんは
さみしいとき、
お腹がすいたとき、
おむつがぬれたとき
どうするだろう」

「そりゃ、泣いてお母さんを
呼ぶと思います」

「そう、泣いて呼ぶんだよね。
そうすると、お母さんはきっと
すぐにかけつけてくれる。

・・・・・・・・・・・


(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

という話もあり、象徴的な絵が描かれています。


(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)



(『般若心経 絵本』(諸橋精光著 小学館から)

羯諦、羯諦・・・・

おぎゃあ、おぎゃあ・・・

このように聞こえるのもありがたいことです。

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今日はどういう天気になるのだろうか。

2011年10月28日 | つれづれ記

(写真:昨日早朝の常念岳) [思考] ブログ村キーワード

 一段と寒くなりました。安曇野市から北に見える北アルプスの爺ヶ岳(じいがたけ・標高2,670)から北に続く山々の頂上付近が白くなってきました。

 安曇野から登れる常念岳、蝶ヶ岳、燕岳(つばくろ)は一度白くなりましたが、その後の暖かさで融け本格的な雪山はまださきになりそうです。

 朝の通勤時間帯でカーラジオを聴いていると面白い。あるコーヒーメイカーのCM。

<二人のサラリーマンの会話>

【先輩】
 世の中登り坂と、下り坂があるけどどちらが多いと思う?

【後輩】
 そうですね。登れば降りるのですから同じじゃないですか。
【先輩・後輩】
 そうならいいね。

思わずそうだよね。と言いたくなるコマーシャルです。作家や脚本家は人生の達人に見えてきます。

 さてNHKEテレの「100de名著」という番組。マキャベリの『君主論』が終わり次回11月2日(水)からは明治大学文学部教授の合田正人(あいだ・まさと)先生のアランの『幸福論』が始まります。

 テキストも書店に並べられていて一冊550円の値段。早速購入して読んでみました。

 スイスのカール・ヒルティ、イギリスのバートランド・ラッセルの『幸福論』と並んで「世界の三代幸福論」と称されるのがこのアランの『幸福論』で、フランスの原題は「幸福小咄」「幸福のコラム」という題で、軽い読み物なのだそうです。

 だからといって「これを読めば幸せになれる!」というハウツーものではれっきとした哲学書とのことです。

 テキストの<はじめに>で、合田先生は『幸福論』から次の言葉を紹介しています。

 よい天気をつくり出すのも、
 悪い天気をつくり出すのも
 私自身なのだ。

こういう簡単な言葉、先ほどの上り坂下り坂の言葉もそうですが、簡単でいて本当に響きます。響くと言っても前者のサラリーマンの会話にはアランの「・・・つくり出すのは私自身なのだ」という言葉が付き、それは受ける側の内心の言葉となります。

 時代劇番組の大御所、水戸黄門も今年が最後とのこと、「人生楽ありゃ、苦もあるさ・・・」で始まるこの番組、番組自体も好きなのですが、この歌もまたいいですよね。

 挫けていると追い越されてしまう。助けてやればいいのに。出来るだけ努力をしよう。

「ああ我が人生」という曲なのですが、これも内心の言葉を作りだします。

 どちらにしろ「私自身なのだ」という言葉が最後につく。

 充足感、安堵感に帰結したいとき、最後に私自身に語る「・・・それだけでいい。」

 考えれば深く、決断の判断者の「私自身なのだ」が響く。

 今日はどういう天気になるのだろうか。

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“こだまでしょうか”・金子みすゞの世界

2011年10月27日 | ことば

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今月(10月)19日のNHK歴史秘話ヒストリアは、

 愛と悲しみの“こだまでしょうか”
 ~大正の詩人・金子みすゞの秘密~

でした。民間の広告ネットワークACコマーシャルで流されていた金子みすゞ先生の「こだまでしょうか」という詩を誰もが一度は聞いたことがあるかと思います。

 偶然にも武田鉄矢さんの昨日(25日)のラジオ番組で、この「こだまでしょうか」というこの詩が東日本大震災の被災地の多くの人の心の励ましの詩となっていることを話題にしていました。

 ある人は、この詩を悲しい詩と感じますが、被災地の方々には励ましの詩になっている。人はそれぞれの心の状況で、感じ方が違う・・・・

そのような話をされていました。歴史秘話ヒストリアでは、被災地で現在、多くの人たちの心を癒しているこの詩の作者金子みすゞの物語でした。

 金子みすゞ先生の詩については、これまでに
 
正義を決するもの[2008年07月04日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/00be7b1643eb9826e86380ef41bbff01
 
美徳の善のイデア(2)・風の画家中島潔[2010年12月28日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0976e29f634c38bd65137b6c44dd8fbb
 
いつもの大地に咲く福寿草・金子みすゞ「土」「私と小鳥と鈴と」[2011年03月22日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/0399c2e8ad394f2d7fe5f9aa819ccd3b

見えぬけれどもあるんだよ[2011年07月13日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/68c5308785c55e4c9fe802391c1b67f3

の中で、私の時々の想いを重ね合わせながら詩を紹介してきました。番組は、

<歴史秘話ヒストリア(http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/102.html)から>

エピソード1 わたし 海の子! 金子みすゞ  衝撃のデビュー
 みすゞの故郷・山口県仙崎は、かつて鯨漁で賑わった海の町。みすゞが詩の中で、最も多く書いたのは鯨や魚など海を描いた詩でした。海の詩によって一躍、人気詩人となった金子みすゞの大正サクセスストーリー。

エピソード2 「こだまでしょうか」 結婚生活の悲劇
 東日本大震災後、話題となったみすゞの詩「こだまでしょうか」。多くの人はこの詩にほのぼのとした温かいイメージを感じています。しかし、これを書いた25歳のみすゞは、重い病や夫との不和に苦しみ、不幸のどん底にいました。人生最悪の時に書かれた名作に秘められたみすゞのメッセージとは?
 
エピソード3 みすゞ を支えた弟 半世紀後の奇跡
 現代の多くのアーティストに影響を与えている金子みすゞが、世に知られるようになったのは平成になる直前のこと。それまでみすゞの作品は埋もれたままでした。金子みすゞ“再発見”の影には、みすゞの死後、姉の作品を世に出そうとした弟の奮闘がありました。二人の絆が起こした奇跡の物語です。

の三部構成になっていました。

 番組の題名にもなっている詩は、次の詩です。


(NHK歴史秘話ヒストリアから)
 
「こだまでしょうか」

  「遊ぼう」っていうと
  「遊ぼう」っていう。
  
  「ばか」っていうと
  「ばか」っていう。
  
  「もう遊ばない」っていうと
  「遊ばない」っていう。
  
   そうして、あとで
   さみしくなって、
  
  「ごめんね」っていうと
  「ごめんね」っていう。
  
   こだまでしょうか、
   いいえ、誰でも。

 詩集の中にこの詩を初めて知ったとき、わたしは東北の座敷童のいたずらのように幻想的なイメージを受けました。しかしその後いろいろなところにみすゞの世界を知ると、内心の“こだま”であることを知りました。

 なぜ金子みすゞの詩に心ひかれるのか、番組では他の人にはない彼女独特の発想の一つとして次の二編の詩が紹介され語られていました。


(NHK歴史秘話ヒストリアから)

「積もった雪」

  上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしていて。

  下の雪
  重かろうな。
  何百人ものせていて。

  中の雪
  さみしかろうな。
  空も地面(じべた)もみえないので。

案内役の渡邊あゆみアナウンサーはその独特の味わいある語り口で、

【渡邊あゆみアナ】
 なんと、ここでみすゞが思いを寄せるのは、表面からはわからない内側の雪のこと。普通では考えつかない視点ですよね。

と語り、私も以前紹介次の詩が紹介されました。


(NHK歴史秘話ヒストリアから)

「星とタンポポ」
 
  青いお空の底ふかく、  
  海の小石のそのように、  
  夜がくるまで沈んでいる、  
  昼のお星は眼に見えぬ。   
 
  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。   
 
  散ってすがれたたんぽぽの、  
  瓦のすきに、だアまつて、  
  春のくるまでかくれてる、  
  つよいその根は眼にみえぬ。   
 
  見えぬけれどもあるんだよ、  
  見えぬものでもあるんだよ。 

【渡邊あゆみアナ】
 この詩ではみすゞは、見えない昼間の星に目を向けています。

そして童謡詩人の武鹿悦子先生のはなしです。みすゞの視点の置き所を語っています。

【武鹿悦子】
 ああいう発想の人は、あの時代にはちょっといない。誰もが気がつかないことを発見し、もう一つ深く見る、詩人であったと。

と話していました。

【渡邊あゆみアナ】
 わたしたちの持っている常識や見方を覆してくれるそれも金子みすゞの詩の魅力の一つなのかも知れません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こだまの詩を書きなさいと言われたら私は、山びこのような現象をそのまま文章にしてしまうでしょう。内心の心の会話を、自分だけの問いと応えを表現する発想は絶対にできないだろうと思います。

 昼間の青空のそのまたその上に、星の光を星の存在を語ることも出来ません。雪の中間部分の上下の軋轢を擬人化して表現することなどできません。

 「積もった雪」は、人生での人の体験する世間との軋轢でもあるかのように響いてきます。

 「頑張ろう」っていうと
 「頑張ろう」っていう。

本当に“こだま”してきます。

番組では金子みすゞ先生のお子さんの上村ふさえさんの「母について」の話がありました。手元にある『文藝別冊 総特集 金子みすゞ没後70年』(河出書房新社)を以前読んではいましたが、実際の心情の言葉に感動しました。



 この番組は色々なことを教えてくれました。金子みすゞの魅力、今後もまた書きたいと思います。

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生きる・意識、認識という言葉(2)

2011年10月26日 | ことば

 今朝は6度まで気温が下がるという話でしたが、体感的にはさほど寒くありません。昨日は春風のような生温かな風が吹いていましたが、今日はそうはいかないようです。

 写真は昨朝の美ヶ原高原から昇る朝陽です。

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 今朝は昨日に続き「意識」「認識」という言葉に焦点を当て書きたいと思います。

 自分の行為を見つめるときに、ある法律理論を用いてそれらに該当させながら考えると意外に説明しやすい場合があります。

 私がある結果を導き出すために、そのようにするためにある行為を選択し、その結果を実現させるために、その行為を行う先にその結果の発生も予測して行為をしているいます。

 刑法理論の中に「故意」という用語があって、一般的な法律用語辞典には、多数説として、

【故意(こい)】
 罪を犯す意思をいう。
 故意とは、罪となる事実を認識し、かつその実現を意図するか、少なくとも認容する場合をいう。

と説明されています(法律学小辞典 有斐閣)。

 時々聞かれる故意に関わる言葉に「未必の故意」という言葉があります。これは次のように説明されています。

【未必(みひつ)の故意】
 行為者が、認識した犯罪事実の発生を積極的に意図したかあるいは希望はしないが、その事実が発生してもやむを得ないと認容した心理状態をいう。認容を欠くときは認識のある過失である(認容説)。

 ここで法律論を云々するものでありませんが、話の都合で「違法性の意識」という話を追加します。

 これは何かと言うと、故意の成立要件として犯罪事実の認識・認容のほかに、その行為の違法性を意識したかその成立要件として必要か否かという話で、「全面的に不必要、自然犯・法定犯区分説、必要説、可能性説、責任説」などと必要だと考える人から、道路交通法の赤信号無視のような場合には、必要で、刑法犯の殺人罪のような場合は必要ない・その可能性があれば足りるなどといろいろな意見があります。

 「違法性の意識」とはどういう意味なのか、素人でもその意味がわかりそうですが、学生時代の古い教科書『刑法講義総論 藤木英雄著 弘文堂』を引っ張り出して紹介しますと次のように説明されています。

<引用>

違法性の意識
 故意には、行為者が自己の行為の違法性を意識したことを必要としないが、違法性の意識を欠いたことについて相当の理由があるときは、故意を形成したことについて非難をすることができないから、違法性の意識の可能性があることが、意思形成を非難することができる条件となる。
 
 道義的責任の立場からすれば、故意、すなわち犯罪に向かった意思形成が非難されるのは、犯罪事実に当面したときには、当然、その行為の違法性を意識し、違法行為を避ける抑止力の形成が可能なはずであると考えられるのに、その期待に反して違法行為に踏み切ったことにある。その点からすれば、現実に違法性を意識した場合に故意非難を及ぼすことが可能である。さらにそのような場合ばかりでなく、違法性を意識すそることが可能であったときにも、行為者を非難することが可能であり、故意の責任を問うことができる。

犯罪事実の認識を有するときには違法性の意識の可能性はそなわっているのが通常であるから、違法性の意識を欠いたことについて相当の理由がある場合にかぎり故意が否定される、ということになる。

<以上p212から>

 ここで注目するのは「意識」「認識」という言葉の使い方で、ここでは「違法性の意識」「犯罪事実の認識」と言葉表現になっています。

 この違法性の意識ですが、先程いろいろな説があるという話をしましたが、その中の「可能性説」を具体的に紹介します。

 参考はこれまた学生時代の古いもので『刑法総論Ⅰ 福田平・大塚仁著 有斐閣』を使用します。

<引用>

可能性説
 故意には違法性の意識そのものはかならずしも必要でなく,その可能性があれば足りるとする見解である。この見解に対しては,故意概念に「認識の可能性」といった過失的要素を導入するものであるという批判が加えられている。この点につき,この見解は,人格責任論の立場から,故意責任の本質を人格態度の直接的な反規範性にもとめ,ここから,事実の認識がある以上,行為者は規範についての問題に直面しており,違法性を意識していたか,その意識の可能性があったかの間にはなんら質的差異はないのであって,事実を認識・認容している以上違法性の意識がなくてもその可能性がある以上(その可能性もなければ非難可能性がない),直接的な反規範的態度をみとめることができるから・違法性の意識は故意の要件ではなく,違法性の意識の可能性が故意の要件であると主張する。

なお,この主張に対しては,違法性の過失にのみ何故に人格形成責任をみとめるのか,事実の過失についても,そのような不注意な人格を形成したことにつき・責任をみとめてよいのではないかという疑問が提示されている。

<以上p262から>>

 ここで注目するのは解説内容ではなく故意概念に「違法性の意識」「認識の可能性」「事実の認識・認容」という言葉表現です。

 こうなると「意識」「認識そして「認容」という言葉、知っているようでいてわけがわからなくなりますが、専門家の凄さは完全な理解のもとにおいてその説を語っているのです。

 さらに複雑な話を追加します。明治維新後早期近代化を目指した日本は外国からその法律体系を学び、自国の法律を制定してきました。

 何が罪で何が罪ではないと言った社会情勢によって犯罪は制定されてきますが、犯罪に対する処罰に関しては、法律の条文に違反し、悪いと知りながら行なったので処罰するというように、その根幹は変わりません。したがって帝国主義であろうが自由主義であろうがその形式は変わりません。太平洋戦争後に日本の刑法学の世界が180度変化したということはなく、その流れは継続してきました。

 そこで刑法の古典的な教科書から、上記の問題を見てみたいと思います。使うのは学生時代に手に入れた『刑法解釈の基本的諸問題 第一巻 木村亀二著 昭和14年 有斐閣』です。

 木村先生は、「法律の過失と故意」の錯誤論の一問題としての論文中に、ドイツの刑法学者の主張について語りながら次のように引用しながら書いています。

 上記の現代の刑法上の言葉の使用を過去にさかのぼるわけです。

<引用>

 バゼドヴは、責任の意味を三分して、

(イ) 行為者が、結果を規範違反なりと表象(認識)して、しかもこれを実現せしめたる場合

(ロ) 結果につき表象はあったが、その規範に違反することはこれを表象しなかった、しかし、これを表象することは可能であったしかつこれを表象すべきであった場合、及び、

(ハ) 結果そのものについて既に予見がなかったのであるが、しかし、これを予見し得かつ予見せねばならなかったし、その上もし彼が予見したならば、結果の反規範性についてもこれを表象し得たであろう場合

と為した。そして、彼は右の三箇の場合について、二つの方法によりこれを故意と過失とに帰属せしめ得ると為したのである。即ち、第一の見地は因果関係の認識に重点を置き、故意を以って結果発生の認識なりと為し、その認識の欠けたる場合に過失ありとする。

したがって故意は、規範違反の認識があった場合、及び単に規範違反の認識あり得かつあるべかりしであった場合のいづれたるを問わず肯定せられ、これに対して、結果発生の認識が欠けた場合のみが過失と解せられることとなる。バゼドヴ自身はこの見地に立っていたのであるが、その後述のごとく故意の内容として違法(又は義務違反)の認識の可能性あればたりるとするエム・エー・マイヤー等の思想の先駆けとなったのである。・・・

<以上p372~p373から(旧漢字を現代漢字に訂正)>
 
と書かれています。ここでは、

 [
「故意の内容として違法(又は義務違反)の認識の可能性」

という言葉が書かれています。

 現代の「意識」の使い方、

 「故意には違法性の意識・・・・・・・・・の可能性」

と対比すると、

 違法=義務違反・・・・認識するもの

 違法性・・・・・・・・意識するもの

という関係が導き出すことができると思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ある事柄ないしある対象を意識したりその存在を認識する。

という文章を書き、ここで次の文章を作ります。

 神を意識する。神を認識する。

 仏を意識する。仏を認識する。

 他人を意識する。他人を認識する。

 私を意識する。私を認識する。

 魂を意識する。魂を認識する。

 順番は関係なく、「神・仏・他人・私・魂」を掲げ「意識」「認識」を加えると、その違いの中には、人それぞれの今段階の「つかみ」があるように思います。

 人はこのようなことを、日常の生活の中では考えていません。

 私はそれでいいと思います。喜びや悲しみ、森羅万象の移り変わり、出来事は常に目の前で展開して行きます。

 その中で言えることは

 「何かを感じなければならない」

そういう鋭さは常に持っていないといけないと思うのです。神経質になれという話ではなく感じる方向性で「空気を吸う」・・・生きる・・・ということです。

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夢か現か幻か・意識、認識という言葉(1)

2011年10月25日 | ことば

(写真はマイケル・ホフマン監督の「真夏の夜の夢」のワンシーンです。)

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 「夢か現か幻か」織田信長の能舞ではありませんが、目覚めるとそこにある現実が広がります。「ああ、あれは夢だったのか」そう思う瞬間です。

 覚醒している時が現実と思うのは当たり前なのですが、思い起こせば、夢の中においては、そこにある目の前に広がる風景も、感じる心も全てそこにあっては現実であった気がします。

 時々言葉の使い方で考えてしまうことがあります。言葉はほとんど自分の持ち分、知識としての持ち分の範囲理解の範囲での表現だけでしかありません。

 そのような中で「意識」「認識」という言葉を文章の中で使う場合、しっかりと収めようとする場合、困ってしまうのです。

 この場合は「意識している」とかくのが正しいのか「認識している」と書いた方がよいのか迷うのです。

 これがコミュニケーションの場合における会話の中に現れると、同じように深く考えないと答えを選び出せない場合があります。例えて言うならば、会話の中で他者から「意識しているの?」「認識しているの?」と質問された時です。

 何を意識し、何を認識しているのか?

 実につまらない、誰もそのような疑問を解することなく普通に生きている話で、取り立てて話題にするような話ではないのかも知れませんが、一歩暇に任せて考えると、自分というもの、志向性(これもまた奥深いのですが)という視点の先とのかかわりの中で何かを捉えることができるような気がします。

 このような話をし始めると、離人的な病の中にいるのかと思われそうですが、ひたすら「ことば」という世界の不思議に魅了されているだけです。

 いつものように辞書を使い「意識」「認識」を書きはじめるところですが、今回は男女の例からその言葉の不思議というか、当たり前の話をしたいと思います。

 男女二人がいたとします。二人の間柄は不明です。女性が相手の男性に一方的に質問します。

 私をどう意識しているの?

 私をどう認識しているの?

この言葉の先にあるもの。

 意識の先にあるもの。

 認識の先にあるもの。

すると「対象」と「存在」という言葉が私の場合は現れてきます。

 荘子の「胡蝶の夢」、ウィリアム・シェイクスピアの「真夏の夜の夢」

 なぜ人は進化の中で言葉を作ったのであろうか、他の生物にも言葉に似たものがあるようですが、そのようなことを度外視にすれば、進化の過程で、最上の環境に生きるために編み出した方法なのかも知れません。

 またこれも使い方によっては災いになるのですから、不思議なものです。

 このようなことを考えている中で次のサイトを発見しました。

ことば・その周辺
http://okrchicagob.blog4.fc2.com/blog-category-9.html

 世の中にはすごい人もいるもので、すべてを読み理解したわけではありませんが、実にすごい!

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玄妙な世界・宇宙の謎

2011年10月24日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今現在南米チリの5000mの高地で世界最大の宇宙観測の電波望遠鏡基地が稼働を始めた話題がNHKのクローズアップ現代で放送されました。

 印象に残ったのは従来の電波望遠鏡ではある銀河の中心点を観測しても何かが渦巻いていることは分かっても、それ以上の具体的な内容は分かりませんでしたが、この電波望遠鏡を使うと大量のガス(一酸化炭素)が中央のマイナス250度前後の暗黒世界(ブラックホール)に吸い込まれているのが解ったということでした。


(光学的望遠鏡によるM100銀河)
(2001.10.19NHKクローズアップ現代「宇宙の生命の謎に迫れ」から)


(観測結果からM100銀河のブラックホール)


(上記に同じ)


(左が従来の電波望遠鏡・左が世界最大の電波望遠鏡)

 このプロジェクトは世界的なもので、最大の目的はアミノ酸の発見なのだそうです。そうです今は宇宙にはアミノ酸がせいせいできる各部室が存在していることは分かっていますが、太陽系を離れた宇宙にはまだ発見されておらず、発見することができれば生命の誕生の謎が解明できる、宇宙には生命体が存在する要素があったことが解るということです。


(解析からガスの種類と温度が解明できる)

こういう話を宇宙の謎、世界の謎、壮大な何ものかによる想像を考えてしまいます。

 このような想像の世界に関連して、世の中にはいろいろな言葉があります。

 「無為自然」「森羅万象悉有仏性」「山川草木悉有仏性」「魂はカルマの精算によって救われる」「わたしたちは罪をもっているので、神から遠く引き離されている。貧しき者は幸いである・・・」「神は偉大である」・・・・なんと拠りどころにしようとする世界には、ことばが多いのだろうと思います。
 
 そういう言葉に、なぜ?、それぞれになぜ魅かれるのだろう。

 私たちは説かれるままに(そのように)それが絶対なる普遍的なる道筋のように思う。
 ここで「思ってしまう」と言及するならば、とんでもない折り伏し攻撃を受けてしまいます。

 今朝は日本お古典から入ります。

 本居宣長はその著『玉勝間』十の巻九で次のように言っています。

<『玉勝間』岩波書店日本思想体系40本居宣長から>

九 物事をときさとす事
  すべて物の形色、又事のこころを、いひさとすに、いかにくはしくいひても、なほさだかにさとりがたきこと、つねにあるわざ他、そはその同じたぐいの物をあげて、其の色に同じじきぞ、某のかたちのごとくなるぞといひ、ことの意をさとすには、その例を一つ二つ引出れば、言おほからで、よくわかるるものなり。

<以上同書p316から>

 要するに世の中のことを語ろうとするには、似たような例を示した方がわかり易いと言っているわけで宇宙の謎も、世の中の理も本当はよく分かっていないのに、語る言葉は例にすぎないと宣長は言っていいるように思います。

 例として「無為自然」から書きましたが、この言葉は道徳経(老子)の思想を語る言葉の一つです。

 この道徳経はどんな言葉から始まるかと言うと、次の言葉から始まります。

<引用『老子・荘子・列子・孫子・呉子』中国古典文学大系4 平凡社から>

<上巻第一章>

「道」として示せるような「道」は、一定不変な〔真実の〕「道」ではない。「名」としてあらわせるような「名」は、一定不変な〔真実の〕「名」ではない。「無名」〔すなわち名としてあらわせないところ〕が、天と地との生まれ生まれる始源である。「有名」〔すなわち名によってあらわせるようになったところ〕が、万物の生まれ出る母(根本)〔つまり天と地〕である。

 そこで、恒久的に欲望から解放されていると、その微妙な始源が認識できるが、恒久的に欲望のとりことなっているのでは、その末端の現象がわかるだけだ。
 
 この〔無名の天地の始源と有名の万物の母(根本)との〕二つは、その生まれ出るところは同じでありながら、それぞれの名前は違っている。その同じところを「玄(げん)」〔すなわち不可思譲〕と名づける。「玄のさらにまた玄」というところが、もろもろの微妙なものが出てくるところである。


【注】
一 道 
 もとは道路の意味・それから道理・方法などの意が生まれ、儒家では仁義などの道徳を人のよるべき道とした。老子では、そのような具体的に指示できる人間の道を否定して、宇宙人生をつらぬく唯一の根本の実在ないし原理を考え、それを、ここでいう「一定不変の道(常道)」として立てた。なおこの巻首の「道」の字によって上巻三十七章は「道 経」ともよはれる。
  
二 名 
ものごとの名称。名称は実体に対してつけられているが、一つの実体に対する名称は本来どのようにもつけられるわけで、従って絶対不変な名称というものはない。ここでは、そのことを明らかにして、名称にとらわれ名と実との一致を求める法家などの学派に対抗した。

三「無名」
…〔天と地〕である 第四十章で、「万物は有から生まれ、有は無から生まれる」とあるのにあわせて解釈すると、無名(始源)→有名(天地)→万物ということになる。

四玄 もとの意味は赤黒い色のことであるが、その不可解な色彩のためで
   あろうか、深遠なわかりにくいものをあらわすようになった。老子では、
 感覚や思考をこえた奥深い不可思議な神秘的な性質をさしている。

* 道の道とすべきは、常の道にあらず、名の名とすべきは、常の名にあらず。
**玄の又玄、衆妙の門。

<以上p3から>

 と解説されています。

 個人的にこの文章を理解すると、
 
 道ということを言ううちは道ではない。
 
 そうだと説明されるうちは、そうではない。
 
 説明できるところと説明できない境を説明できない側の「先」に志向する、その志向の先にあるのが「天と地の始源」である。・・・・・・。

語れないものは語れない、語っている内は道ではない。

 原始宗教観におけるカミ、ギリシャ神話、日本神話のように形づけられた神、そして絶大なる一神教の神、というようにいつの間にか個人の中に、また共同体の中で「カミや神」当然の如く存在し、その根本が始源とされ、そこから万物は生成される説明されます。

 すべては分別のない「先」の不可思議なところから始まる、のですが本居宣長曰く「例えにすぎない」のだろうと思います。

 大量の一酸化炭素がマイナス250度のブラックホールに吸い込まれている。思考の範囲内ならば確かに何かの力、エネルギーは存在しているようですが、それ以上は思考の範囲を超えていることは事実です。

 地球上の生物は38億年前の一つの細胞から、細胞はアミノ酸から・・・・

これも思考の範囲の確かのことです。

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38億年前の一つの細胞から

2011年10月23日 | こころの時代

[思考] ブログ村キーワード

今朝のNHK教育の「こころの時代~宗教・人生~」は、生命誌研究者、JT生命誌研究館館長の中村桂子先生の「38億年 いのちの中へ」と題したお話でした。


(「こころの時代~宗教・人生~」から)

 私は最近思考の視点を、自然とともに生きるから人間は生態系の中の一員であるという考え方の方に向けています。今朝のこころの時代は正にそのことを語る番組でした。

 中村桂子さんは、生態系を生命誌という新しい分野からわたしたちにわかり易く語っていました。個々に知っていてもそれは知っていることにはならない。

 自分を突き詰めれば38億年前の一つの細胞に行き当たる。ゲノムをたどれば他の構成員も同じ一つの細胞に行き当たる。

 世の中には鳥瞰的な考え方のできる人、パースペクティブな視点から、また俯瞰的な視野などとも言いますが、確かにそういう人はいます。

 中村先生は、遺伝子研究におけるゲノム解明たずさわりながら、そのような思考に移行できる人であったのでしょう。

 中村先生は、生態学、物理学、化学、科学等の諸分野を自らが係わってきた生命科学の知識、経験から、自然界の存在物が動的循環の全体共生のような関係にあることに気づき、生命誌という分野の第一人者として広く人々に「生態系の中の一員」であるという意識、認識の必要性を説いていました。

 自然界の存在物の中の生物は、38億年前、たった一つの細胞から生まれ、進化し多様化し今日の姿になっています。番組紹介では、

 「生命誌」という視点から人間や自然を見つめてきた。

というよりも、ゲノム研究におけるミクロ的な世界から、地球規模の関係性のある全体性の生態系を感じそこに進化誌を見たように思います。関係性における「生命誌」はいきなり発想ができるものではなく、多くの知識と経験が、そしてその人の持つ人間性がそのような思考に意識を向けさせているのではないかと思うのです。

 今年の一月に、

いちょうの実・宮沢賢治の世界・中村桂子
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b63906be1eb0249b11981329b537aa9a

で宮沢賢治を語る中村先生を紹介しました。

 俯瞰的な視点で統合的な思考のできる人ならば、今日をアンコールで放送された「クニ子おばばと不思議の森」の椎葉クニ子さんは、人生の歩みがそのまま俯瞰的な思考で実践している人と言えるように、二人がすごく重なりました。


(NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」から))

 地球上の生命は、38億年前の一つの細胞から始まった長い歴史を背負っています。
 共通の祖先をもち多様な進化を遂げてきた生きものたち。
 その時間と広がりの中で、生きているのを見つめ直そうと言うのが中村さんの生命誌です。

というナレータの紹介がありましたが、


(Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」から)


 この画が番組で紹介されていた時間と広がりの中で生きてきた、地球上の生きものたちの物語絵です。


(38億年前 一つの細胞から:Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」から)


(Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」から)

 下方の水色の部分が海の中での時代、そして陸上に生活する生命体が加わり部分が上部です。


(陸上生活をし始めたころ:Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」から)

 水中の時代は長く、如何に陸上に適する生き物化への進化に時間がかかったことが分かりますし、しかも最初に陸上に生まれたのは植物であって動物ではありません。


(Eテレ「こころの時代~宗教・人生~」から)

 当たり前のことなのですが、今日この図を突きつけられ、植物の偉大さには全く関心がなかったのですが、地球上に生きる生命体の先輩としての存在であることに気づきさせられました。


(NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」から)


(NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」から)

 「クニ子おばばと不思議の森」では椎葉クニ子さんは森の生命体を肌で感じ取っていました。そこにある赤土もその一員でした。雲も風も・・・泣き声も。


(木に耳を当て木の音を聞くクニ子おばば:NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」から)


(NHKスペシャル「クニ子おばばと不思議の森」から)

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「母の思い,娘の思い」

2011年10月22日 | ことば

[思考] ブログ村キーワード

 通勤時に聴く、ニッポン放送のラジオ番組鈴木杏樹さんの「いってらっしゃい」の今週のテーマ「心あたたまる話」から二回ほどブログに取り上げました。昨日はやや早めに自宅を出たので月極めの駐車場について時には番組が中部で、しばらくの間車内でゆっくりと聴きました。

 番組最後に話題の出典先が話され、広島県のホームページ に掲出されているということが分かりました。さっそく帰宅後ゆっくりと見させていただき、改めてこういう話は「いいなあ~」と温もりの中に浸ることができました。サイトURLは下記のとおりです。

子どもに伝えたい「心に響くちょっといいはなし」
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/kyouiku/hotline/12doutoku/h_kokoro.html

 昨朝のお話は、(今朝はサイトから引用させていただきます)下記の内容でした。
 広島県在住の40歳の女性から「母の思い,娘の思い」という話です。

<引用>
 
 この春から長女が親元を離れ,東京で大学生活を始めることになりました。将来の夢の実現に向かって着実に歩き始めた娘を心から応援したいという気持ちと,一方で会いたいときに会えない寂しい気持ちも予想以上に大きいと感じるこのごろです。
 
 3月の引越しの日,上京して,長女と高校生の次女と3人で荷物の片付けをしていました。表面上はにぎやかに作業しながら,こうしていても確実に別れの「とき」は近づいているということで心は揺れていました。
 
 荷物も片付いていよいよ別れのとき,私は,バス停まで送ってくれた長女に無理して笑って手を振り、バスに乗り込みました。胸にこみ上げるものを感じましたが,別れた後一人きりになる娘に最後に泣き顔を見せては不憫だと思いました。ここで絶対泣いてはならないと思いました。
 でも,バスに乗り込みバスが走り出したんだとたん,これまでの緊張の糸が瞬時に解けて涙があふれてきました。傍らの次女が「お母さん,私というものがおるでしょうが。」とひょうきんに肩をたたいて励ましてくれました。その気持ちも嬉しくて笑っているのか泣いているのかわからなくなりました。
 
 ちょうどそのとき,遠い日の思い出が鮮やかによみがえり,まさに情景が重なったのです。
 
 今から28年前,私の姉がやはり親元を離れ,短大に進むことになったときのことです。当時高校生の私と母は,引越しの手伝いに出かけました。気丈な母は,荷物の片付けやら当座の買い物,大家さんへの挨拶をてきぱきと済ませました。そうしていよいよ別れることになったとき,駅まで見送りに来た姉に私たちは笑って手を振り,汽車に乗り込みました。汽車はホームを離れ,私たちは何も話しませんでした。
 
 それからしばらくして,窓のほうを向いたまま動かない母に気付きました。見ると肩を震わせ,静かに泣いているのでした。気丈な母の泣く姿など,私はこれまで見たことがなくて,正直うろたえたのを覚えています。何か声をかけなくてはと思い,「お母さん,私がおるでしょ。」と言ったのでした。その私の言葉に母は笑い,泣き顔といっしょになって顔がゆがみました。

 まさしく,繰り返される「母の思い」であり,「娘の思い」であると思いました。
 12日の母の日に,長女からメールがとどきました。
 
「お母さん,いつもありがとう。お母さんのおかげで私はいつも元気に日々をおくっています。お母さんも元気でおってね。」 

<以上>

 母の歴史が子の歴史。くり返される「親子の心」。子である私は、母でもある私です。
 
 「輪廻転生」と言うと退(ひ)く人もおられるかもしれませんが、正しくこういうことがそういうものであろうと思うのです。

 ニーチェの永遠(永劫)回帰も複雑怪奇な運命の繰り返し、魂の流転の蛇の輪と考えてしまえばそれまでですが、「ぬくもり」の回帰ととらえれば整えたいと思う、我が人生、われの生き方を変えることも出来るかもしれません。

 時々私は、亡き父の言葉(声)で、亡き父の語りをしていると思う時があります。その時親子なんだな~と思うのです。

 当然であることを、俺は違うと子の時には思っていました。しかしどこまでも同じなのかも知れない。願わくは子には妻に似てもらいたい。娘二人です。よかった~。

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