「突然老後の貯えとして2000万円は必要だ」という話に衝撃を受ける。いつ死んでも一千万円という生命保険ならばあるが、妻の貯えにはなりえようが、とりあえず年金をもらいながら働けるまで働くという現実を生きるしかないようである。
せっかく官僚の方々が国民のためを思って善かれと思い試算して国民に示そうとしたようですが、大臣はそのような試算は受け取れないなどと発言し、世の中の確実なるものは今現在息ができる常態か、否か動けるか否かといった現事実にしか見いだせないのが事実である。
そもそも正しい事態などと思うのは、そもそも正しくない事態がイメージできればこその話で、日々の身近な毎日においては、特に「正しくない」と呼べそうな事態は起きていないように思える。2000万円の話も今日食べる食事の機会を奪うものではなく、弁当持参で働く自分は個人的には困窮事態に今はない。
わけのわからない大臣の話も遠いところの話である。ある意味平穏である。
このようなことを考えながらブログを書いていると今朝の通勤時に経験した「不まじめ」「正しくない」と呼べそうな事態を思い出す。国道19号線を松本市内に向かって直進する前方の信号機の信号待ちをしていると、前方の対向車線の右折車が突然青信号になるや否や、急速で右折をしていった。いわゆる「松本走(ば)しり」である。
「対向する車両の進行を妨げてはならない」という法規定は完全に無視され、どこまでも自己の都合で行動し、相手の迷惑などは顧みないように思える。「松本走しり」という行為はこれだけではないのですが身近にみられる「不まじめ」な例として挙げてみましたが、全国的に地域独特の「走り」があるようで、ある県では方向指示器を出さないのが慣習化されているようだ。
社会というか世間というか、自己の現前に現れる世の中を見つめてみるとそもそも動きの中に「自己」という心的内容を意識している。意識する自己が意識される自己を意識し、良い自己か、それとも悪い自己かと区別しながら一つの私を形作っている。
別の事を考えながらも一つのまとまった自己を構成し、自分は自分であるという「自性」は失われることはない。
最初に自己の点をおく現存在の意識の存在は何だろうか。まさに現存在の自己自身の存在に対しする関心である。さきほど「自性」と書きましたが、個人的に相依関係、依存関係で事の成立を考える時、「他性」を想定しないわけにはいかない。他性があってこその自性というものが現れると考えるのである。自己の自己自身の現われとしての意識であり、白黒が、明暗があるとする理解が区分けされる機構的な場に現れるのである。
この場合自性的な主体も他性的な主体も己を別にするものではなく、主体の自性、主体の他性が影のように寄り添う。
反省が現れるのは他性の主体であった己を見るのであって、分裂的、統合失調的な離人的な精神状態では自己が自己自身に先立つ自性は持つことはできない。常に自性と他性が独立して独立の自性として現れてしまうのである。このようなことを考える中で4月の終わりごろに書いた“「無記」という言葉の深層にあるもの”というブログに仏教における三性の理のことに触れましたが、Eテレの日曜日の早朝に放送されている“こころの時代~宗教・人生~”の6月末に東工大名誉教授…森政弘とインド哲学者・東京大学名誉教授…丸井浩との対談「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」が放送され、その中でこの「三性の理」が語られていました。
「客体には善悪の二面があるのではなく、主体である人間が善にも、悪にもする。本来世の中のすべての事象・事物は無記的なのである」という話で、先ほど私が書いた己における自性と他性の話に重なり、無記は己そのものの体性が中庸であって、善とも悪(不善)とも記すことのできないものであると語られる。
仏教の根本にある縁起思想から事象とは万物が織りなす現われ、即ち相寄りて在る現象であるとの理解が生じる。
人間存在として自己は、内的な自性と他性があい寄りて在る現象と考えられる。自己が自己自身に先立っているという構造において、それを「われありの自覚的自性(善)」と呼ぶならば、他性はその前転回に現象した自性(不善)ということになる。
精神病理学者の木村敏先生によれば、
この構造で、「先立っている」ほうの自己が他性をおびると、分裂病者の体験になると考えてよい。『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所・p74)
とのこと、確かに言葉として他性は自己内の別人(他者)であることが理解できる。善と悪という言葉よりも善と不善という言葉のほうが実際の理解においては有効に思う。
健定体ならば悪魔的な悪業をするはずもなく、人の日々の行動選択、指針は善かそれとも不善かの自性と他性の均衡でありまた止揚にも似た展開に見える。
そこにあるのは「無記」という展開の場、根源的な絶対無の場に見える。そしてこのように考えると「無記」という考え方は、健全な人間の根源的な制御システムのキーワードと考えてよいように思う。
選挙になると巷には善悪思考で物事を理解しようとする人や、善かそれとも不善かで物事を理解しようとする人がいるように思う。「三性の理」という仏教的な思想の「無記」には人間の在り方を理解させてくれるものがあるように思う。