思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

時間は恩寵である。

2014年08月16日 | 哲学

 今から4年ほど前に「TIME・タイム」という映画がありました。裕福層余命100年、貧困層23時間だったような気がします。余命の時間を労働の対価として受けることもできれば、売買もできるそんな内容で、個人的にその映画の言わんとするところがよく理解できませんでした。生死という狭間に時間を設けその長短はあくまでも小刻みに進む数値でした。

 人は「時間」という「もの」に大いなる関心をもつ時があります。過去・現在・未来を生きるものとして「ある」をその存在理由におくと、どうしても「時間の矢」を想定せざるを得ません。

 飛翔の矢は、正に翔の最中にあり、飛ぶ鳥の飛行のように、自由に歩くその動きのように、物価が徐々に上がるように、まさにその動きの中にあります。

 しかしその飛翔の矢も、ある時点を捉えれば形而上学的に静止の矢を見ます。

 見るといっても思いの想(描きで)あって、物理学的に静止ていておかれる矢ように、位置エネルギーはゼロでその場から落ちることがなければ、慣性のエネルギーはもゼロです。ところが飛翔中の矢は、その一点で捉えて静止画で見ても目には見えない内に秘めた飛翔のエネルギーを持っています。

 そこには、次元の異なる飛翔の矢があるわけで静止の矢でも相容れない同じであって同じでない世界があります。そんなわけのわからない話は後にして、飛翔の矢に、時間の矢・生命の矢を重ねます。

 時間の矢は、また生命の矢であり、生命であるからこそ、人間は過去・現在・未来に生きる動物であると思うことができます。

 ピーター・コヴニー、ロジャー・ハンフィールド著『時間の矢、生命の矢』(野本陽代訳・草思社1995)は、

1 時間のイメージ
2 ニュートン力学の台頭~時間がその方向を失う
3 相対性理論~時間はいかにしてアンシュタインを負かしたか
4 時間と量子跳躍
5 時間の矢~熱力学
6 創造的進化
7 時間の矢、生命の矢
8 統一された時間観
9 終わりのない探求

で、その時間の神秘性を語っています。

「時間は人間にとって最大の謎の一つである。いつの時代にも人間は、大きな意味をもつにもかかわらず不可解な時間の本質について頭を悩ませてきた。時代を超えて、時間は詩人、作家、哲学者の心をとらえて離さないテーマであった。しかし、近代の科学者にとってそうではないらしい。現代の科学、とくに物理学は、物体の秩序に時間が果たす役割を、排除しないまでもないがしろにしてきた。時間は忘れた次元だったのである。
 誰もが時間は一方向にしか流れないことに気づいている。過去は固定され、未来は開いており、私たちの存在はその流れに支配されているように見える。私たちは時計を逆回しにして、まちがいを取り消したり、素晴らしい瞬間を取り戻したりできれたらいいのにと思っている。しかし残念ながら、常識が私たちの前に立ちはだかっている。歳月は人を待たず。時間は逆戻りしない。・・・」

は上記「時間のイメージ」の文頭の言葉、時間を考える人は、その世界を描き納得を求め語ります。

 「時間の矢」と言うとゼノンのパラドックスの話によく使われます。このように哲学における時間を語ろうとする人は、ギリシャの哲人たち(アルキメデス、アリストテレス等)の語りの中からその初源を語りだそうとします。定番と言ってもよいかも知れません。

 素人ですので多くを語る能力はありませんが、ゼノンは時間を無限に分ける、従って微分のその一点(静止)に、運動というものは存在しないという論法を見つけ出します。しかし、最初の方に書いたように次元が異なる話しで言及するまでもありません。

 人は大いに時間を哲学するものなのです。

 私は東洋人ですから6・7万年前にアフリカの大地を出発し、2万年ほど前にこの日本列島の原風景にたどり着いたホモ・サピエンスです。北方系(北回り)、南方系(南回り)の縄文人か、その後の弥生人で朝鮮半島などから渡ってきたかもしれませんがとにかくアジア大陸を東へと向かってきたわけです。

 アジア大地での経験が日本人の血の中に何かを刻み付けて行きます。最終的に火山列島、地震列島の島に至り、自然の恩寵が日本人を作ってきたようです。恩寵と書くと善的な明るい御加護を想起しますが、災害もその恩寵として人を捉えます。

 神の恩寵には、実りの歓喜ばかりではなく、苦悩する人間の叫びも含まれることになります。なぜこの世には善と悪があるのか、

「神の内なる自然」

 現象というものを哲学的に語るときに、この「恩寵」というものを論外に置き去りにすると、まさに裸の実存が現れ虚無感に包まれます。「時間」を語ることは「恩寵」を語ることでもあります。

 神なき時代に生きる人間にとって「時間」は同刻まれて行くのか、時々の大切さ、その一瞬の響きの中に「恩寵」を感じるしかない。人間の自由は「恩寵」なくして語れず、従って時間なくして語れない。シェリングの『人間的自由の本質』はそのことを語っているのかもしれません。

 まぁとにかく人は時間を語るわけです。

 『ウパニシャッドの思想』(中村元選集・春秋社)にこんな時間の語りを見ます。

「じつに時間には二つのかたちがある。時間と非時間とである。すなわち、太陽よりも以前から存在したものが非時間である。それは部分をもっていない。しかし太陽とともにはじまるものは時間である。それは部分をもっている(=分割され得る)ものである。」<上記書p287>

「聖仙のある人々は「自然の本性」を〔原理として〕語り、また他のある人々は、時間を〔原理として〕語る。かれらは混迷せる者どもである。これはじつに世界における神の偉大性である。それによってこの<ブラフマンの輪>は回転されているのである。」<上記書p584>

などの時間の記述を見ます。ここまで来ると原始仏教の世界を語らなければならなくなります。あくまでも上記のように文献を頼るしかありませんが、ここでまた中村元先生の教えの中に学びます。

 『原始仏教の思想Ⅰ』(中村元選集・春秋社)からの引用です。

<仏を見る>というのは、仏の肉体を見ることではなくて、ものごとの理法を見ることにほかならない。そうして無常説を述べていう。

『ヴァッカリよ、おまえはどう考えるか。・・・物質的かたちは常住(永遠不変)であるか。あるいはむじょうであるか。』
『尊師よ。無常です。』
『感受作用・表象作用・識別作用は常住であるか。あるいは無常であるか。』
『尊い方よ。それはみな常住です。』
『こういうわけだから、このように〔すべてのものは無常であると〕観じたならば、もはやこの世に生を受けることはない、と知るのである。』
この対話から見ると、無常なるものを通路として、永遠なるものに迫って行ったのであるということが解る。・・・・・さて時間い関する反省もここに道は開かれるのである。時間はそれぞれの各個人の生存に即して存在しているものであり、各人の生活を離れて時間は存在しない、ある天女が修行者を誘惑していった。
『修行者よ、あなたは享楽もなさらないで托鉢しておられます。あなたは享楽に身をまかせたあとで托鉢なさるのではないのですから。しかし、修行者よ、まず享楽してから托鉢なさいませ。あなたにとって時間が空しく過ぎることがありませんように。』

これを仏教成立以前の場面にかこつけての物語であるから、バラモン教一般の通念にしたがって、若いときには人生を享楽して、老年になってから出家して遍歴行者となることを天女は勧めているのである。ところが修行者は断った。

『あなたの<時間>をわたしは知っていません。時間は隠されて現れてきません。それゆえに享楽に耽らないで、わたしは托鉢するのです。わたしにとって時間が空しく過ぎ去ることがありませんように。』

このことばを聞いて、天女はその場を消え失せた、という。

ここでは時間が人によって別ものであると考えられている。<あなたの時間>はわたしには見えないし、<わたしに時間>はあなたには見えないという構造をもっている。そして時間は<生>と同一視されるとともに、またインドの古典語における用例が示すようにまた<死>を本質としている。インドの古典において「時間をつくる」といえば「死ぬ」ということである。時間と死のことである。・・・・・『時は過ぎ去り、昼夜は移り行く。青春の美しさは、しだいに〔われらを〕捨てて行く。・・・<以上上記書p433-p437から>

長い中村先生の語りです。これらの話から原始仏教の時間がどのよう語られ、<私>に語り聞かせているかがわかります。時間という恩寵は、

 一刹那の大切さ。今現在の大切さ。一期一会の出会いの大切さ。そして無常観にも現れます。

 さてさて他人の教えそのままに我は何を看取すべきか。

 加藤周一さんは『日本文化における時間と空間』(岩波書店・2007年)を書かれています。

「今=ここ」に生きる日本

 その本質について語っています。「はじめ」が文頭でその言わんとしているところが見えてくるのではないでしょうか。

 日本の諺言に「過去は水に流す」という過ぎ去った争いは早く忘れ、過ちはいつまでも追及しない。その方が個人の、また集団の、今日の活動に有利である。という意味である。しかしその事の他面は、個人も集団も過去の行為の責任を取る必要がない、ということを意味する。もちろんそれは程度の問題であり、どういう文化のなかでも過去に遡っての責任追及には限度がある。たとえば刑法に時効があるのは、日本の場合にかぎらない。しかし日本社会においては殊に、現在の生活を円滑にするために、過去に拘らぬことを理想とする傾向が著しい、といえるだろう。争いの決着を法廷でつけるよりも、過去を水に流して和解する方が、争いの性質によっては、便利で、実際的である。しかしたとえばだ第二次世界大戦後、しばしば指摘されてきたように、ドイツ社会は「アウシュビィッツ」を水に流そうとしなかったが、日本社会は・・・・以下略。

なぜ以下略にしたかというと、つまらんコメントが来ないことと、今回は政治問題ではなく「時間」を主眼にしているからです。

「過去は水に流す」

ここで語られる過去は、過ぎ去った時間のなかにあるその時の事です。

 過去を語ること、未来を語ること、そして今現在を語ることに「時間」があるのは確かです。

 戦争という言葉は、名詞であり、殺人から破壊・・・等の総称です。従って戦争という事はない、とも言え、だからと言って戦争というものはないとは言えません。

 時間という名詞も然り、時間という事はないが、時間というものはある。

 「もの」は「こと」に先立つか。

 物事の後先話ですが・・・・。

 時間は形成の論理にも密接にかかわる話です。

 時間は物事に現れるわけです。

 そして時間は恩寵なのだと思います。

 「過去は水に流す」

には、しかしどんな善悪の恩寵があるのか?

「物事は時間に現れ、時間は恩寵である」ということで止めておきます。


どうして自然はここまで無関心なのか?

2014年08月16日 | 思考探究

 ニュースなどを見ていると、日ごろから実存的人間は問われる存在であるなどというわりには、逆にこんな問いを発している時があります。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

 この字面(じづら)で「自然」という漢字をどう読むだろうか。

 ここに字面などという言葉を使いましたが、「語句や文章が表面的に示す意味」で、単純極まりない、見てのとおりの文章においてという意味で使いました。

 当然に「しぜん」と読むでしょう。「自然法爾(じぜんほうに)」を感得している人ならば「ほうに」などと読まず「無関心」などという言葉を付けることはないと断言できると思います。

 過去ブログにも書いたことですが、明治維新後の西洋輸入の言葉の世界に「ネイチャー(Nture)」を重ねるのが普通です。動物の世界から自然環境までをネイチャー・ワールドとして人は思います。

 しかし私などは、どういうわけか我が身の前に現れる、我が身に関わる物事も全てがこの二文字の中に取り込まれ、別の言い方をするとその意味範疇にあります、と表現できるように思います。

 ニュースを見ていると、自然災害や戦争やアフリカで発生している伝染病の脅威・・・限りなき悪の現象に、人間がそのような状態に置かれていることに、ある種の人間的な「無関心」を感じるわけです。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

と。

そして、「人間も自然の一部」というのが自然保護団体をはじめ「今に生きる」という境地を得た者も「自然=人間」を否定しないであろうと思いますから、上記の字面は、

「どうして人間はここまで無関心なのか?」

とも書けるのではないかと思います。

すると「人を殺すことも」「哀しみを背負う人々がいるということ」にも人間は無関心という事です。

「人はなぜ人を殺してはならないの?」

という言葉(この場合には字面としません)が、少し前まで話題になっていました。

 表現とは違いの表明でもあると思います。ある事態と異なる場合。

 その物はその物であって他の物とはことなる。人に名前があるように、花に名前があるようにより違いを特定するために言葉を使います。

 現象も然り、身に起こる「痛い」も「痛くない」があるからこそ「痛い」がわかる。

 雨が降るのも、晴れるのも、戦争があるのも人が殺されるのも、常にその真逆があるからです。

 「あるがままに~」

というフレーズが世間に響いています。誰もが大好きな歌声に耳を傾けます。

「私はあるがままの姿で行きたい」

「人はあるがままの姿で行きたい」

「自然はあるがままの姿で行きたい」

こんなことを考えていると、そもそもの問いの発想が真逆ではないか、常日ごろ文頭に書いたように、V・E・フランクルが語ったように「人間は問われる存在」であって「問う存在ではない」ということに気がつくわけです。

「あるがまま」

過去ブログでこの「儘(まま)」思考題材にしたことがありますが、今は別視点から思索。

 自分本位ではなく自己本位

そんな違いもフト浮かぶ。

「どうして自然はここまで無関心なのか?」

から始まる深淵なる根源からの疑問では無く、問いなのである。我と汝の汝からの問いなのである。

「自然は限りなく、あるがままなのである。」

「神の内なる自然」

この言葉がシェリング著『人間的自由の本質』(西谷啓治訳・岩波文庫)

に出てきます。あのニヒリズムの研究者で「宗教とは何か」の京都学派の西谷啓治先生の訳です。

 結論的な話ではなく、「自然は限りなく、あるがままなのである。」と考えてはいけない、ということで止めます。

 前段と後段では矛盾している、という指摘があるかまそれませんが、その処に私があるのです。