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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

神(こころ)という言葉が響く

2015年05月30日 | 東洋思想

 前回Eテレ100分de名著『荘子』の一枚のパネルを紹介しましたが、私個人の理解では、このパネルは人間は現象を自己の持つ感覚器の目・耳・鼻・口というフィルターを通して認識し、そこに喜怒哀楽(心)の世界(物)を構築していることを表わしているように見えました。

 玄侑宗久さんは、ここで「神(こころ)」を語っています。

 世界のエネルギーを中国人は一番荒々しい状態を「静(せい)」という言葉で考えた。それがもう少し純化され細かくなると「気(き)」というものになって、こういうものを人は目・耳・鼻・口という感覚器を通して喜怒哀楽を感じたり、あるいは物というものは、この感覚器を通して我々の中に出来るんだというふうに認識している。

 渾沌の話でも出てきましたけれども感覚器というものは既に「私」に染まっているわけです。「私」の制約を強く受けているので非常に勝手な物、ですがこれ(感覚器)を通さないで「精」が直接感じられたら万物は斉同になるです。

 私の中に発生している心や物、自己の持つ価値観に左右され生れているこの心や物は信用のおけないものなので直に「精」「渾沌」の領域に通じられないか・・・私を無くすために例えば坐禅をしたり道教の修行法があったり瞑想したりする行(ぎょう)をすることでことで「神(こころ)」になる。

 精から気・・・これが更に純化され・・・もっとエッセンシャルなエネルギーが「神(しん・こころ)」・・なる。

という解説、これが荘周の『荘子』の説く万物斉同の思想のようです。

(Eテレ100分de名著『荘子』最終回から)

 

  「神」という言葉を目にその解説を聞くと般若心経の「大神咒 大明咒 無上咒」という今日の終盤に登場する、ほんとうに力あるものは何か、それは般若の「さとり」であるというマントラ(真言)を思い出します。

「大神咒(だいじんしゅう)」

と読むのですが、その神の意味するところが納得できます。

 玄侑さんは上記にも書きましたが、「エッセンシャルなエネルギーが「神(しん・こころ)」と言われました。

エッセンシャル:研究社のサイト辞書によれば、
1a欠くことのできない,必須の,非常に重要な.
 b【叙述的用法の形容詞】 〔+前+(代)名〕〔…に〕ぜひ必要で 〔to,for〕
2【限定用法の形容詞】 本質の,本質的な.
3【限定用法の形容詞】 (比較なし) 精[エキス]の,精を集めた.

と意味のようです。玄侑さんの知識においてこの言葉が使われ、そう語るのと聞きフランクルの次の言葉を思い出します。

<V・E・フランクル著『制約されざる人間』(春秋社・山田邦男監訳)から>

 認識する精神的存在者(精神的に在る者)は、他の存在者の「もとに在る」限りにおいてのみ、その可能性に応じて、認識される他の存在者を「持つ」、と。しかし今や、このような実存的認識の場合には、この「持つ」の意味するところは、本質的認識の場合の「持つ」、すなわちフッサールの現象学的本質直観の場合における「持つ」とは本質的に異なっています。なぜなら、フッサールの本質直観の場合、この「持つ」がそのつど意味しているのは、まさに本質を持つ(Haben)、エッセンティア(本質)を持つこと、単なる相在を持つことだからであります。これに対して、実存的認識の際立った特徴は、その単なるエッセンティア、単なる本質を持つこと以上のものであることにあります。つまり、実存的認識とは、単に本質を「持ち合わせている(an-wesen)」こと以上のものなのです。

 実存的に認識するということとは認識されるものを持ち合せていることではなく、認識するものがそのもとに在るということであります。したがって、本質的認識と実存的認識との相違は、次の点にあるということができます。-----本質とは、精神的存在者によって本質的に認識されることによって、実存が「持ち合わせている」ものであり、実存とは、他の存在者を実存的に認識しつつ、その存在者の「もとに在る」ことである、と。

<以上上記書p67-p68から>

 裸的実存としては何も持たない。私は空気のようなその時々の風のよう・・・。

「もとに在る」と着飾りが万物斉同の思想にも触れそういうものかと思うのです。

「エッセンシャルなエネルギーが「神(しん・こころ)」

の「エネルギー」という言葉、かつてブログに、

 形相(エイドス)が素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスの形而上学では現実態(エネルゲイヤ)と言いますが、エネルギーという言葉はこの「エネルゲイヤ」が語源です。

と書いたことがあります。

 元をたどればですがエッセンシャルもエネルギーも全てが存在につながり、万物斉同はある意味、存在の驚きの気づきです。フランクルは、

「精神がもとに在ること」(Bei-sein・バイザイン)

をその思想の中で述べます。

 移ろいゆく存在の中にしか、私なるものがあるだけ。ハイデガーは、そんな人間を現存在(Dasein・ダーザイン)と呼び、フランクルの「もとに在ること」(Bai-sein・バイザイン)と言うのです。

 このくらいで話を止めておけばよいのですが、「もとにあること」という言葉にマイスター・エックハルトを思い出さないわけにはいきません。

<『神の慰めの書』(相原信作訳・講談社学術文庫)から>

 ・・・神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。私自身のみならず、一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。ただこれらのものはそれを知らないだけである。

<以上上記書p294から)

 「私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。」

というエックハルトの言葉に神秘主義者を思う人もいますが、本来神秘を神妙と見ればその意味もまた別世界を現わします。


平等の現れの中で生きる

2015年05月29日 | 東洋思想

 玄侑宗久さんの語る『老子』のわかり易さに・・・まぁわかっているのかよくわかりませんが・・・何ごとかを考えさせてくれます。

 老荘思想といえば無為自然と思っていたところ、老子は無為自然で、同じ道でも荘子の道は「触れあうことで相手を活発にする」ことでそれを「渾沌(こんとん)」という言葉で表している解説でした。

道(tao)=渾沌

 渾沌の漢字、サンズイの水の意味からして水が激しく渦巻いているような状態の場所からものが生まれてくることを表わし、万物はもとをたどれば渾沌となるのだという。

 このような視点からすると万物は斉同(せいどう)で平等であることがわかる、と荘子の根本はこの万物斉同になるようです。

 ここで個人的に比較の内に思い出すのが西田哲学で語られるところの絶対無、虚空、無からの形成、生成、表現です。

 般若心経の世界ならば「色即是空」「空即是色」の私の中では比較の内に重なってきます。細部に知悉するならば異なるのかも知れませんが、大筋の流れの中に是ではないのかと思います。

 涅槃即煩悩

「胡蝶の夢」とも大いに重なります。

 道はどこにでもある。

 現実社会の情報過多社会に生き、煩悩にまみれ、虚無感の中にある、私という存在は足下の此岸に立てばその根柢の底には「渾沌」がある。

 そこから映し出された我は私を通して心や物を形づくりそこに煩悩や虚無の世界を我自身が作っているのではないか。

 番組で使われていた一枚のパネル。

 Eテレ100分de名著『荘子』第四回最終から

 この語りの中で、私には般若心経の中でも語られる「五蘊皆空(ごうんかいくう)」が重なります。

「目・耳・鼻・口」にそこに今の私ならば「意」を加え、心や物が現われます。

 その根源に立ち戻れば渾沌の世界であり、発想の転回を図ると今にありて斉同という平等の世界が現われてきます。

 山も谷も川もある。低いも高いも全ての現れは平等である。

 江戸期後期の慈雲尊者の言葉に、

 山は高くして平等じゃ。
 海は深くして平等じゃ。

 山を崩して、谷を埋むるような平等では役に立たぬのじゃ。

という言葉があります。

 万物斉同を語る『荘子』、思考発想を転回させてくれます。


万物はみな斉しい・100分de名著『荘子』は最終回

2015年05月28日 | 東洋思想

 『荘子』はこのように読み解いていくものなのか・・・解説される『荘子』

 昨夜の100分de名著『荘子』は最終回「万物はみなひとしい」でした。

物化=物の変化

状況が変われば現在の出来事も変わる。

胡蝶の夢、胡蝶の舞

荘子のこの「胡蝶の夢」に起源する話し。

過去に私は、

「菩薩道とは如何なるものか」というブルグアップで何ごとかを考えたこともありました。

 

思考視点が大きく変わるわけではないが、この番組を見て、また新しき目覚めの理解に入れた気がします。

「大夢(だいむ)」

人生のことを大夢という。

人が亡くなったことを「大夢にわかに遷(うつ)る」とも仏教では言う。

「死生観」を大きく変えてくれます。

 生も死も変化の連続にすぎない。

 万物斉同=隔てがない

伊集院光さんが「隔てることが知識を得ることのように感じていた」

 万物はすべて斉(ひと)しい。

小さな卵から大海の大きな魚に変化し、やがて天空に羽ばたく大きな鳥へと変化する。

メタモルフォーゼです。 

参考
 「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。[2013年08月29日]

鯤(こん)と鵬(ほう)

鯤は卵で鵬は鳳凰で鳥の大様

玄侑さんは、

 「鯤とは元々魚の卵の意味なので小さいはず。ところがそれが大きくなって、しかも魚が鳥になって飛び立ったならば、その高さや大きさやが尋常ではない。われわれの常識を笑うが如くにものすごく変化してゆく。どのように変化してもおかしくない。」

旨を話され、荘子の考え方の特徴として、

 物事は360度に変化をする。

を語る。そこで示される「道枢(どうすう)」という言葉がまた響きます。

 回転ドアの軸が天(上)と地(下)の穴に入っている。その穴の部分が「道枢」という。

 常識という柵(しがらみ)、桎梏がいかに自分を苦しめて・・自分を苦しめている原因がいかに自分のなかにあるのかを知らしてくれる。今の世の中は進歩するという考え方に相当に翻弄されている。荘子の中には「退歩」という考え方が出てきて、進歩ではなく行き過ぎを警鐘する言葉もある。

 命が安らかに、和合して暮らして行くには、行き過ぎてはいけない・・・ことを考えさせる思想。

 世の中を運営するルールは儒家的な考え方が必要だが、その同じ理屈で個人を運営するということは辛すぎる。

 “心の自由”がどう実現できるか。

それを荘子は教えてくれる。

テキストと番組を重ねると、より『荘子』が近づいてきました。

 万物斉同(ばんぶつせいどう)

 仏教に至れば平等(びょうじょう)で無分別智の思想へとなるようです。

 私の今日の出来事も胡蝶の夢であるのかも知れません。

 今回の番組『荘子』、『荘子』は老後の思想で、儒教は若い時に学ぶものと思っていましたが、今の世の中確かに「疲れる人」が多いような気がします。

 そうあるべきだという柵に拘束され実存的虚無感に陥る人が多い。

 「これ性」のただ中に居る私ですが退歩すれば、何かが見える。

 東洋思想の思考視点の鋭さを見た感じがします。

 


荘子と老子の世界・自得と会得の存在に気づく

2015年05月21日 | 東洋思想

 昨夜、Eテレ100分de名著『荘子』の第三回が放送されました。「荘子の世界」に接しているのですが、これもNHKのテレビ番組なのですが5月16日ETV特集は、「孔子がくれた夢~中国・格差に挑む山里の記録~』と題する番組が放送されていました。 「孔子の世界」を語る番組ではなく中国では、2011年ごろからそれまで退けられていた『論語』が持てはやされ今でも習近平氏が推奨するまでに一大ブームとなっている様子が描かれていました。

 まさに急速に復活しつつある「儒教」、その背景には富裕層の道徳心の拝金主義にともなう道徳欠如があり、国家には取ってはモラルてーかによる国家危機への懸念もあるように見えます。

 番組では、中国の山村で貧困から脱出すべく、子どもたちに「論語」を教える青年・石卿傑(せき・きょうけつ)さんを2010年から5年間にわたり密着取材したもので、教えを受けた子どもたちのその後も詳しく取材されていました。

 裕福層には道徳経典としての論語、貧富の差は関青年に山間地の子供たちにとって論語の必要性の問いとなって現れる。

 学びの機会を得ようとしても、すべては金銭が絡む現実がそこに現れてきます。

 番組紹介では、

 孔子の生まれ故郷・山東省の曲阜(きょくふ)では、地元政府が観光の目玉にしようと高さ73mの巨大な孔子像を建設中だ。また、都市部では子ども向けの「論語」塾が続々と誕生し、儒教教育が一大ブームとなっている。背景には一人っ子政策でわがままに育った子どもに、儒教の礼儀や道徳を学ばせたいと考える親が急増しているからだ。

 石さんの暮らす中国南西部にある貴州省の山村では、貧困のため学校をやめ出稼ぎに出たり、結婚したりする子どもが少なくない。しかし、論語を暗記させることで子どもたちの勉強への意欲を高め、大学進学や都会での就職する夢を持たせたいと考え、教え始めたが、子どもたちを取り巻く環境は厳しい状況が続いている。そんな中、彼自身もわずかな収入では結婚もできず、両親の老後の面倒も見られないまま、「親孝行を説く儒教を教えてきたのに」と苦悩する。

 孔子の「論語」に始まった、夢づくりの試みの結末は一体どうなるのか。格差が広がる社会の中で、貧困からはい上がろうとする青年と子どもたちの奮闘を、カメラが追った。

と書かれていて、視聴者側の受け皿によっては多様な感慨が生まれるのではないかと思いました。

 一方儒教国家体制の中で敗北した者たちの指針となる『荘子』、100分de名著第三回目は、

 自在の境地「遊」

「遊」とは、「神と人間が一体となった境地」、無為自然の「荘子の世界」が別視点から語られていました。

 人間的な思惑とか分別を超えた世界に行くことをいう。

と玄侑宗久さんは禅の世界と重ねながら語っていました。

 柳は緑、花は紅

有名な道元さんの言葉ですが、確かに柳に花を求めたり、花に柔軟な枝を求めるのも滑稽な話し、それぞれの持ち前を離れることはできません。

 自然とともに山間地に生きる子どもたちの未来

 同じ山間地に育ち石さんから論語を学び、結局は家庭環境によりますが、中学校に通うことができ優秀な成績を収める子どもたちもいれば、夢とは異なる現実社会に引き戻される子どもたちもいる。

 孔子や荘子

 こういう番組を見ながら、自分の生き方を考えるのですが、衣食住に困らず浪費せずにいればあえて給料をもとめることもないので、世間一般に合わせて第二就職をしてしまった「わたし」、日々の吐露になってしまいますが、穏やかに生きられないものか。

 最近光文社新書から伊藤亜紗著『目に見えない人は世界をどう見ているのか』が出版されています。生物学者ユクスキュルの環境世界の話も出てきますが、それぞれの生物は意味を構成する「主体」、「荘子」の番組でも主体の話が出てきますが、目の不自由な人とそうでない人では外界から受ける情報量が違います。

 坂道を歩くと山登りに、外界を見ることはすべての現象から意味を問われることであり情報量は莫大な量になります。

 「世界」

とは何か?

番組それぞれに受ける側に何かを問うています。まさに問われる存在、期待されている存在、そんな気がします。

 そういうものとして自得しているところにおいてそういうこととして会得する。

 西田幾多郎先生はそのような言葉を言っていたと思いますが、存在の驚きの此岸において現れてくるものなのかも知れません。


100分de名著『荘子』第二回「受け身こそ最強の主体性」

2015年05月14日 | 東洋思想

 昨夜のEテレ100分de名著『荘子』第二回「受け身こそ最強の主体性」の録画を先ほど観ました、朝の静けさの中で身に響きます。

・人はどうすれば主体的になれるか
 「主人公」という禅の言葉と相似の類似点

・老荘思想と仏教徒の出会い

などが語られこの「主人公」という言葉がかたられますが、「脇役に対する主人公の意味ではなく、自分の置かれた環境の中で自分を最大限に没入させることができる人」という解説には発想の転回が感じます。

「命の道理」

 老荘思想が儒教国家の中国において宗教と伝来とともに、時代の敗北者に受け入れられて学ばれた。

 時代の敗北者とは権力者に負け競争社会に敗れた者が主に考えられますが、個人的には名誉も財産も家族も失う、災厄の遭遇者を思います。

 「敗北」も時代の中にはあるが、「災厄の遭遇者」という流れで見る方が自分的には理解しやすく、あるいみV・E・フランクルの実存思想につながるように思います。

 実存的虚無感に襲われたもの。

「未来のことを求めない」

 ナチスに囚われた人々が明日の解放を夢見、挫折することで自らの命を終えてゆく。

 そのような中で創造的価値の転回をした人々は命を長らえることができたと「意味への意志」の思想はある意味個の荘子の思想にも似たところがあるように思えます。

<荘子流未来への態度>

「死も生も無限の変化の一部」

という話が最後のほうで語られていました。

「単純なる変化」 死生というものは、たんに変化しただけこと。

そのような目線で見つめると、死は悲しいことだが悲しいに埋没していてはいけない、人生、ある意味、四季の巡りのようにその時のその事態に合せることが大切。

「不測に立ちて無有(むう)に遊ぶ(応帝王篇)」

という言葉が紹介されます。意味するところは、

 先のことを予測せず、未来のことはわからないで今を遊ぶ。

 ヴィジョンという言葉は「ヴィジョンを持とう!」とか良い意味で使われるがそのような勝手な未来を描かないで、わからないままに進んでゆく。

 未来を憂えず、未来を予測しない、未来を計画しない。

伊集院さんが言うように、

「この受験に失敗したら最終的に貧困に落ちて孤独死する。」

というように考え、そういう憂いの中でエネルギーを失う若者が多い。

そういう中において荘子では「気」に注目する。

 今どう感じるか。

 直感的なもの。

玄侑さんは「このようなものが現実の世の中では薄れていないか。」と問います。

そのように言われて、司会進行役の伊集院さんらに番組終了後の行動について「決まっているでしょう」と質問します。

 この後(番組終了後)は何時何分にこうする、というような予定、行動計画があり、直感で今日はやめようということはない、そのような現実を指摘します。

 こういう時にいつも感心するのが伊集院さんの言葉です。ネット社会、食事ひとつでも星何個に惑わされ「不味いと嘆く」現実・・・確かにそうです。

 第二回の「受け身こそ最強の主体性」は、最終的には「どんなことが起きても運命として諦めるのではなく楽しむ」という姿勢であるとの『荘子』の思想が紹介されていました。

 今日という日がはじまるのですが、つまらん期待をぜずに今に対峙していく、直感で動こう・・・などと思うわけです。影響されやすい私です。

いざ出陣!


日日是れ好日/意味への信仰

2014年09月08日 | 東洋思想

 Eテレの100分de名著の今月は『般若心経』の再放送ということで「もと」からの学びのメッセージと解して、数多(あまた)ある『般若心経』の解説本の中から臨在禅の山田無文老師(1900年7月16日ー1988年12月24日)が、還暦の頃に書かれた『生活の中の般若心経』(春秋社)という本をめくってみました。

 目次に墨跡としてよく見かける「日日是れ好日」という文字に気がとまりました。軸では「日日是好日」で「れ」抜きの五文字がほとんどのような気がします。

 通俗的には「毎日お陰さまで感謝しています。」ということになりますが、ここでは中国の雲門大師の次の問答から始まります。

「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後(いご)一句を道(い)いもち来たれ」

この言葉の意味するところは、

「成人になるまでのことは尋ねまい。今日、成人になったとしたら、明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい」

ということだそうです。先ほどの通俗的な「毎日お陰さまで感謝しています。」という解釈で心持ちに納めて生きられるかというとそうもいきません。

 「善き者にも悪しき者にも降る雨」でして難儀な事には、人災もあれば天災もあり、そのような事象、事態は人を選ばず現象として<わたし>に現われます。

 <わたし>とは私にも貴方にもあの人にもという意味でひらがなの「わたし」を一般的なそれぞれの人の一人称として書きました。したがってその意味取りの背景には「人を選ばず」の言葉を置きます。

 無文老師の話からずれてしまいましたが、この本には次の説話が出てきます。

むかし、南禅寺の門前に、無き婆さんという有名な婆さんがあって、降っても照っても年中泣いてばかりおりました。ある時、南禅寺の方丈さまが、おかしな婆さんだと思って、「婆さんや、お前はいつ通っても、泣いてばかりおるが、何がそう悲しゅうて泣くんや」と尋ねられますと、婆さんは涙をふきふき答えました。

「方丈さま、まあ聞いておくんなされ。私には二人の息子がおりましてな、一人は三条で傘屋をしており、一人は五条で雪駄屋(せったや)をしております。雨が降ると五条の雪駄屋が今日は売れんじゃろうと思うと可哀そうで、つい泣けます。天気だと山上の傘がさっぱり売れんだろうと思うと、これも可哀そうでまた泣かずにはおれません。」

 方丈さまはそれを聞かれて、「そりゃ婆さん、お前、心のもち方が悪いわい。雨が降ったら三条が売れて売れて、目の回るほど忙しいと思ったら、うれしかろうが。天気になったら五条の雪駄が羽が生えて売れると思ったら、これもあり難かろうがな。お前のように物事をそう悪い方にばかりとってはいかぬ」と言うて聞かされますと、婆さんも「成るほど」と合点し、それから毎日、喜んで暮らすようになったと申します。

この話は、息子ではなく、嫁に行った娘に代えて話されている説かれる方もいます。

 無文老師は、次のように話されています。

 このように世の中には万事、心の持ちよう一つで、日日是れ好日と喜んで暮らせるのだ、とも解釈できますが、そのくらいの事なら、何も雲門大師に言うてもらわねばならぬことはありません。

 台風で屋根は吹っ飛び、浸水は床上まで越し、子どもは流さた、主人は出たまま帰らない、電気はいく日もつかない。米は無い、水は無い、そんな場合でも、「日日是れ好日」と頂けるでしょうか。お蔭さまでと感謝されましょうか。心の持ちようで解釈できましょうか。雲門大師ほどの大徳の言われたのは、そのような極端な、万一の不幸を計算に入れての日日是れ好日であるはずです。

 良寛さんが、「災難の時は災難に遭うがよろしく候、病む時は病むがよろしく候、死ぬる時は死ぬがよろしく候」と言った境地こそ、この心境でありましょう。
 どんな災難が湧き起こっても、素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、ウロウロせずに静かに病人になっておられる心、殺すといわれても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと、軽々しく「日日是れ好日」などと、大口を叩かれません。

こう無文老師は凡人にはたどり着けない境地を例に出され、通俗的な「毎日お陰さまで感謝しています。」で示される「日日是れ好日」を説かれます。

「殺すといわれても笑って手が合わせられる心」

この言葉に次のことを思い出しました。あまりにも衝撃的な内容で、

「ホロコーストを生きのびて ~シンドラーとユダヤ人 真実の物語~」[2010年08月15日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6a2c9f833b683c411b6d8abb72c31647

で番組内容を紹介しました。

 映画「シンドラーのリスト」でも有名な強制収容所、そこに登場する残忍なゲート所長の悪魔の所業の話で、

 14歳の少年がロシア語の歌を歌うことができるという理由だけで、収容者の前で絞首刑にされる話があります。少年の首に巻かれた紐、干物結び目が緩く3回も失敗します。
 
 するとゲート所長は、”殺さないでください”と命乞いをする少年の声に耳を傾けることなく、処刑に携わる人たちに向かい”今度失敗したらたずさわった者を処刑する”と言い放ち、遂に少年を処刑してしまいます。
 そしてゲート所長はなにをしたか、死んでいる少年の顔面に何発もの銃弾を撃ち込んだそうです。

 少年は、ひざまずき手を合わせ懇願したに違いなく・・・悪魔の所業です。

 人はどこまで残酷になれるのか。

 これはゲート所長ばかりの話でもなく、現実に世界で起こっており、アメリカのジャーナリストの殺害の場面はインターネットに行為者の手によって全世界に知らされました。

 「人はどこまで残酷になれるのか」という問いは、誰にも当てはまる行為者になれることを示す問いでもあります。

 無文老師はそのようなことは言っていませんが、このように聞かされると虚無感に襲われます。

 「事」は起る。

 事象、事態は人間にとってというよりも、<わたし>に現われた現象という「こと」である。人災もあれば天災もあり、「善き者にも悪しき者にも降る雨」として難事は現れる。

 「こと」はなぜ起こるのか。

 そこには、<わたし>の現存在の確実性よりも、何故<わたし>に起るのかという根源的な問いもたなければならないと思うのです。

 そしてその根源的な問いとは真理性へと達せんがための<わたし>という「もの」の根底からの働きによる、私という主体性の問いならなければならないと思うのです。

 山田無文老師の還暦の頃に話された「日日是れ好日」の最後は、

 それは心が絶対無にならなければできぬことであります。明暦々、露堂々、縦に三世を貫き、横には十万に通貫する絶対無の心を「摩訶」と申します。摩訶般若の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。(上記書p79)

 その後の解説は無く、ここで閉じられています。こう説かれてしまいますと、二進も三進も進みません。

 「絶対無

は西田幾多郎先生の造語です。この絶対無は、西谷啓治先生では「空」と、上田閑照先生ならば「虚空」となるようです。田辺元先生も絶対無を使われています。

 このくらいで今朝は止めと置けばよいのですが、関係性の思念が次の言葉を思い出させます。

 以前に参照した『新潮 2014.9』掲載されている、「原発事故のあと、哲学は可能か」と題したの対談「中澤新 + 東浩紀」のお二人の話です。

【東浩紀】僕は京都学派にはシンパシーを覚えています。彼らは日本において哲学がどう機能するかすごく真剣に考えていたと思うし、これは僕なりの見方だけど、彼らが禅とか仏教というのは方便のところもあるんと思うんですよね。ハイデガー哲学をそのまま言ったとしても、日本人にはわからんだろうと。しかし禅とかと結びつければ、日本の中で多くの人が関心を持ってくれるというような計算も、おそらくどこかにあった。

【中沢新一】僕は逆だと思います。西田幾多郎も田邊元も日本語で書いているけど、世界に向かって書いているんですよ。この島国で形成されてきた哲学、というか哲学、というか哲学の形にもなってないものをカントやヘーゲルの概念を使って表現したらどうなるか。それを西洋に向かって発信したらどうなるかということで書いていたと思うんだ。残念ながら、西洋人はあんまり振り向いてくれなかったけれどね。日本人に向かって西洋的なことを書くっていうんだったら、かつても今も唐代の先生たちがやっているよ。そんなチャチなことをあの人たちは狙ってたんじゃないと思うよ。

対談のほんの短いやり取りを取り出しましたが、実におもしろい京都学派というよりも西田哲学の話です。

『善の研究』は今では多くの言葉に翻訳されて読まれていると事実があります。

 私という現象は如何なものか、ここでV・E・フランクルの次の言葉を引用したくなりました。

 存在者は、その存在者を認識する精神的に在る者にとって、決して「外に」あるのではなく、常に端的に「現に」(da)あります。そして次に、あらゆる心理学に固有の反省的態度において初めて、この端的な「現に」---「あること(《Da》-sein 現-存在)が主語と客体に分裂するのであります(『制約されざる人間』P66)。

 哲学者の山田邦男先生が指摘されていますが、非常に西田哲学と重なるものがあります。私も西谷啓治先生の今度は西谷哲学ですが、接して行くと全く同じに感じられます。

 今朝は土日の勤務で休みとなり、時間があるので引用だらけですが、今現在の思考の世界を記述しました。

  絶対無の心を「摩訶」と申します。摩訶般若の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。

 大いなる不思議を感じ入る。『般若心経』の意味への信仰話でした。


論理と因明の違い

2014年06月21日 | 東洋思想

 個人的に読経する『般若心経』に登場する「色即是空」、そこに「空」なるものの意味が解かれます。

 「身心皆空」とも語られるように、身体も精神も「空」と語られ、そこには我執がないのであるから「無我」とも「非我」ということにも「空」は重ります。

 「身」は、色であり、「受・想・行・識」は精神の働きを意味し「心」ということになります。「身心皆空」とは般若心経の「五蘊皆空」と同意味になります。

 サンスクリットで「シューニャ」と発音されたその言葉は、漢訳では「空」という一文字で表わされています。「何々が欠けている」というときに使われる言葉で、実体がない、実体が欠けている、妊婦の孕んでいるにも通じる言葉のようです。

 インドの数学では「ゼロ(0)」のことを「シューニャ」と言い、インド人が「ゼロ(0)」の発見者であることは周知の事実です。

 仏教学者で比較思想家でもあった先生は、

【中村元】 インド人が考え出した観念がアラビアを通って西洋へ渡っていったわけです。そして、西洋を通じて我々日本人にも知られ、使われているわけです。ゼロというのはどの数字でもない、否定的なものです。それと同じように我々の存在を構成しているものは、未来永劫、何千年何万年も固定して残るものではないでしょう。いろいろの条件に恵まれてここに現れ出ている。しかし、その縁が消え失せればまた消えます。「無常」と言っても同じことです。「無常」というのは消え去る方面だけをいうわけですが、固定的な実体がないという点を強調すると、「空」ということをいうんです。(NHKこころの時代「東洋の心を語る~飛ぶ鳥に迹なし~」から)

と語り、「空」はまた「無常」という言葉の意味に重なります。

 このように仏教における「空」は、「=」を使うと、

「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」

 これは論理学(推論の妥当性についての学問)ではなく因明(推理における理由に関するもの)による「ことわり学」ということになるようです。

 単語の意味
 
 単語で作られる文章の意味

「意味」とは何ぞや?

「ことば(語)とは単なる音声ではなくて、音声を超越して実在するものである。音声は無常であるが、語は音声と意味との媒介体であって常住である」

などと古代のインド哲学では上記のような用法で「無常」という言葉を使う学派もあったようです。「無常」という言葉は「常に移りかわっていくこと」を意味し、「無常感」「無常観」という言葉としても使われます。

「空」=「縁起」=「無常」=「無我・非我」

の等式には語るには、単語で作られる長い文章が必要ですが、一方感覚で分ると「そうなのか」という納得で終わります。これが西洋の論理と因明の違いなのかもしれません。


小人居して不善をなす・大学・二宮尊徳・公共哲学

2010年12月04日 | 東洋思想

 仏教を「人を惑わす邪教だ」というブログ記事が目に留まったので読んでみました。なるほど人はいろいろと悩み求めるうちに落ち着くべきところに落ち着いているなと思いました。

 それぞれの思い入れがあってそれぞれに落ち着く、決するのは自分自身であり、その時点でのその者はそのように自分がその意志で結論づけたと納得しているものと思います。

 それを公言することで自分が落ち着く、自分ではそうは思わないかもしれませんがある面精神の深層部にそれがあるのではないかと思います。その証はこの私自身がそうであるからです。

 私自身は、精神的な悩みを抱えているわけではありませんが、物事を知りたいただその一念だけで毎日せっせと自分を見つめながらブログを書き綴っているわけですが、人様のブログを読むと大変自分自身の勉強にもなり、世の中の進歩、IT革命に感謝です。

 書物を何万冊読んでも、やはり人様の生の声やそれに準ずる告白、表明、主張の声を聴かないと何か手落ちのように思えてなりません。

 「納得とは自分に言い聞かせること」ではないかと思います。「親のいうことを聞きなさい」と言われそれに従う納得する場合もありますがどちらにしろ「そうする(したがう)」ことは自認し決断した行為なのだと思います。

 上記の「人を惑わす邪教だ」という主張は、その根底に「日本の宗教は神道である」という信念があるからで、一神(ヤーベ・エホバ・アラー)教や森羅万象に神々が宿るという多神教それらの相対的な観念からそのことが導き出されています。

 「神道の基本は自然崇拝である」という結論になり、視点を変えると神道を本来日本に存在していた宗教と位置づけ外来宗教である仏教は異端であるという仏教に対する排他的な考えに主張しているようです。

 論拠や証拠に不十分さはあるにしてもそのように結論づける人はいないわけでもなく、その場に立っておればそのような結論になるのはごく自然であると思います。

そんなブログを読んでいてふと二宮尊徳(金次郎)先生(尊徳先生の学びの「力への意志」)を思い出してしまいました。薪を背負いながら書物を読んでいる姿、回顧主義的に望郷(心のふるさとという意で)の念でいうのではありませんが(といいながらこころの深層にはそういう念が存在しています、したがって私は素直ではありません)、尊徳先生の『二宮翁夜話』の

 「世の中の誠の大道はただ一節なり。神といい、儒といい、仏という。みな同じく大道に入るべき入口の名なり。或は天台といい、法華といい、禅というも、同じく小路の名なり。」

という言葉を思い出してしまいました。
 二宮先生が読んでいた本は何か、これについては『大学』(宇野哲人全訳注 講談社学術文庫)の「序文」に宇野哲人の息子さんで中国哲学者宇野誠一先生が次のように書かれています。


<引用>

 このごろはあまり見かけないが、以前は小学校の校庭や玄関先に、必ずといってもよいくらい、薪を背負い本を読みながら歩いている二宮金次郎の石像が置いてあった。あの二宮金次郎の読んでいる本は何か、ということも、昔の人は大抵知っていたが、今では知る人も少ないのではなかろうか。

 実はあれこそこの『大学』なのである。あの偉大な二宮尊徳の思想と功業も、その基礎はこの『大学』にあるのである。『大学』という書物は、今こそ一冊の書物になっているが、元来は五経の一つである『礼記』という大部の書の一篇であって、原文は僅か一七五三字、字種は三九四(森本角蔵先生『四書索引』による)である。四百字詰の原稿用紙に書けば、四枚半に満たないわけだ。

しかしこの書物は、儒教の政治思想の根幹を極めて要領よくまとめたものである。
さればこそ、二宮尊徳はこの書物を熟読玩味(じゅくどくがんみ)することによって、(もちろんそれだけではないけれども)あれだけの仕事をなしとげることができたのである。

ニュートンは林檎の実の落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといわれるが、書物にしても、それを読む人の心構えによっては、どれほど偉大なものを産み出すすことであろうか。

 この書物が政治思想の根幹であるといえば、自分は政治に関心がないとか、政治家ではないからとか思う人もあろうが、儒家の思想は身近なところから始めて遠くに及ぼすという主張である。修身・斉家・治国・平天下といえば聞いたことがある人が多いであろう。

つまりこれはいわゆる政治だけの問題ではなく、否むしろ身近な問題を論じているのである。二宮尊徳ほどではなくとも、自ら求めるものがあって読めば、必ずや得るところがあるはずである。真理は常に簡単なものであり、身近なところにあると信ずる。

<引用終わり>

 この『大学』に「小人居して不善をなす」で始まる言葉があります。

 小人居(かんきょ)して不善をなす。至らざるところ無し。君子を見ると、厭然(えんぜん)としてその不善をおおい、その善を著(あらわ)そうとする。しかし、人が自分を見ること、その肺や肝臓をみるようであるため、それは何の益にもならないだろう。これが中(うち)に誠であれば外に形(あら)われるということだ。だから君子は必ずその独を慎む。

この言葉から公共哲学における「中国思想における公共空間の論じ方」の中で中国哲学研究者中島隆博(なかじま・たかひろ)東京大学総合文化研究科准教授(表象文化論)は次のように述べています。(『公共哲学古典と将来』(東京大学出版p104~p106)

<引用>

 ここに朱熹は、次のように註釈を付した。

 閑居とは、独りでいること。厭然とは、意気阻喪した有り様のこと。ここで言っているのは次のことである。小人が裏で不善をなしているのに、表でそれを隠そうとするのは、善をなして悪を去るべきであることを知らないからではない。ただ、その力を実に[実際に/充実した仕方で]用いることができないから、そうなっているにすぎない。しかし、その悪を隠そうとしても結局は隠せないし、善をなしていると偽っても結局は偽れない以上、無益である。このことを君子は重ねて戒めて、その独を慎むのである。(『大学章句」)

つまり、小人の「閑居」を、君子の「独」と対比させて、前者の「独りでいること」がもたらす弊害を避けるように、後者の「独りでいること」を慎まなければならないと解釈したのである。

 この直前の一節も見ておこう。

 いわゆるその意を誠にするとは、自分を欺かないことである。悪臭を悪み、好色を好むようなものである。これは自らに満足するということだ。だから、君子は必ずその独を慎む。(『大学』)
 
ここに付した朱熹の注釈はこうである。

 自分を修めようとする者は、善をなして悪を去るべきだと知っているので、その力を実に[実際に/充実した仕方で]用いて、自ら欺くことを禁止するべきである。悪を悪むこと、悪臭を悪むようであり、善を好むこと、好色を好むようにするならば、[悪を]努めて去り、[善を]求めて必ず得ることができ、自らに快く、自足するのである。わずかでも外に従い、人のためにすることがあってはならない。ところで、充実しているか充実していないかは、他人が知り及ぶものではなく、自分だけが知っていることである。だから、必ずそれを独において慎み、兆(きざ)しを明らかにするのである。(『大学章句』)

この二つの節は、『大学』の「誠意」の条に含まれている。「誠意(意を誠にする)」とは、自分の内面において、意図を充実し虚偽を根絶することによって、悪の原点である「自欺(自ら欺く)」を禁止しょうとすることである。そして、この禁止は実に徹底していて、「自欺」をその萌芽から禁止することが目指される。

ここで重要なことは二つある。一つは、悪の場所が、内面における「自欺」に求められたことである。もう一つは、その悪を取り去る「誠意」が「独」においてのみ実現されるということである。

<引用終わり>

 どうして『大学』の「小人居して不善をなす・・・・」の解説に宇野哲人先生の解説を使用せずに、中島隆博先生の解説に「公共哲学」を視点においた論述があるからで、そこには二宮尊徳の視点、君主たるしてから子たる視点への移行が重なるからです。

何でもそうなのですが、理解というのは自分の力量に負うところがほとんどです。足りないところは指導を受けるべきですが身体で読み取ることをしないと、自分の糧(かて)には成らないように思います。

 今日も高所から、上から目線と批判されそうですが、「人を惑わす邪教だ」に対する批判ではありません。思考の目線についての話です。

 写真は美ヶ原高原方面をズームして撮影しました。右側にテレビ塔がシルエットで見えました。


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荘子の論理の世界と早い計りごと

2010年11月12日 | 東洋思想

 昨日の老子から今朝は荘子の世界に移り書いてみました。当然の如くコピペタですが、なぜならあやふやな人間があやふやなことを言っては、迷いを生じるからです。このように言うと語弊がありま理問題を提起しそうですが、根拠を示した方が矛盾が生じにくいからです。人は生(なま)ものですから絶対矛盾的自己同一な存在ですが、なるべくなら迷いは自らつくらない方がいいと考えるからです。

 つまらないことはさておき、『荘子』の荘子外篇第17秋水篇は、「濠梁(ごうりょう)問答」ともいわれる荘子と恵子(恵施ともいう)の問答で、次のような話です。

 荘子が恵子(けいし)と濠水をわたる飛び石の上で遊んだことがある。そのとき荘子は流れに浮かぶ魚を見ていった。
「はやがゆうゆうと泳ぎまわっているが、あれが魚の楽しみというものだよ」
すると、すかさず恵子がいった。
「君は魚でもないのに、どうして魚が楽しんでいるのがわかるのかね」
荘子は答えた。
「君は私ではないのだから、私が魚の楽しみを知っているかどうか、わかるはずはあるまい」
だが恵子も負けていない。
「なるほど私は君ではないのだから、むろん君の心はわからないよ。だが同様に、君も魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ」
すると、荘子は答えた。
「では、はじめから順序を追ってみよう。最初に君が、『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』といったのは、そのときすでに君は私の心を察して、私の心が魚の楽しみを知っているかどうかを知っていて、私に問いかけてきたわけだ。とするならば、魚でない私が、魚の心を察したとしても不思議ではあるまい。私は濠水の上に立ったままで、魚の心がわかったのだよ」
 
(『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社学術文庫p231~p232)

という問答で、以前にもブログに掲出した「他人の心を察する」ことを「濠上にしる」というのだそうですが、その語源になっている話だそうです。

 この問答は、荘子と恵子の友人同士の論理の展開です。万物斉同の無差別を強調する荘子と対立差別を強調する論理学派の恵子の論争ということになりますが、決して敵対関係にある二人ではないそうです(下記弁蜂屋邦夫先生)。

 この話のことの発端は恵子の『君にどうして魚の楽しみがわかるのかね』ですが、元の訓読は、「子(し・君)は魚に非ず。安(いずく)んぞ魚の楽しみを知らんや」で、この中の「安んぞ」という言葉には「どうして」という理由と「どこで」という場所の両方の疑問の意味が含まれています。

 このことについて、東京大学名誉教授の蜂屋邦夫先生は、

 恵子はむろん「どうして」の意味で言ったのですが、荘子はそれを「どこで」の意味にずらして答えたのです。荘子にはぐらかされて恵子が苦笑している様子が、手に取るように想像できる話。

と説いています(ラジオNHK宗教の時間テキスト『老子と孟子をよむ・下』p14)。

 この様な議論の展開は非常に興味のあるところです。NHK宗教の時間では蜂屋先生は次に「人は無情か友情か」という荘子・恵子の問答から荘子が老子の「道」を人の情に関連付ける興味深い話をしています。
 
<蜂屋邦夫著ラジオNHK宗教の時間テキスト『老子と孟子をよむ・下』>

人は無情か有情か
        
 濠梁問答は、「安(いずく)んぞ」という疑問詞の用法に依存した言葉遊びにすぎないものですが、二人の伸の良さはよく分かります。内篇「徳充符(とくじゅうふ)」篇に見える問答には、さらに思想的な内容もあります。
                                        
 あるとき恵子は、荘子に「人はもともと情を持たないもの(無情)なのであろうか」 と議論をふっかけました。これは、荘子が常々「聖人には人の情がないから是非の問題にとらわれることがない」というようなことを主張していたから、それを論難したのです。
 
 荘子が「そうだ」と答えますと、恵子は「人として生きながら情がないとすれば、どうして人と言えようか」と追い打ちをかけました。
                               
 しかし荘子は悠然たるものです。「天の道理によって人としての姿形(すがたかたち)を与えられているのだ、どうして人とは言えないなどと言えようか」と反論しました。
 
 恵子がまた「人と言うからには、どうして情なしであり得ようか」と重ねて論難しますと、荘子は、それは私の言う情ではない。私の言う情なしとは、好悪の感情によって気持ちが乱れて精神を損なうというようなことがなく、いつも自然の道理によってあるがままにまかせ、ことさらに長生きしようとか身体を強壮にしようなどとはしないということだ。

と答えました。最後の所を訓読しますと「常に自然に困りて、生を益(ま)さざることを言うなり」となります。

 恵子のいう情は常識的な喜怒哀楽とか是非好悪の感情であり、人はそれらと切り離された存在ではないのですから、当然情なしではあり得ない、ということになります。しかし荘子は、そうした感情があっても、「自然に因りて」そうした感情から完全に自由であることを「情なし」と述べたのです。

 「自然に因りて」とは、つまり老子のいう天地自然の「道」に順うことです。考子のいう「道」を、荘子は人の感情という具体的なことにまで引きつけて考えたのです。
 
<引用終わりp15>

 万物斉同の無差別を強調する荘子と対立差別を強調する論理学派の恵子の論争と書きましたが、この様な論理展開で何を知ろうとするのか、さっぱり分からなくなるときがあります。

 当然頭の悪さが影響しているのですが、その悪さの中で考えるのですが、自分の追い求める何かを言いたいがためにこのような表現方法を取っているに違いないと思います。
 
 恵子の「常識的な喜怒哀楽とか是非好悪の感情」は元々あるもととすればよいものをそうとは言わずに、常に天地自然の世界で語る、無為自然の情でありあくまでも「情なし」でありほとんど直感で理解しなければならないような論理が展開しています。

 「自分の追い求める何かを言いたいがために」とは真理を語るためにと言いかえることもできると思います。真理となると宗教にも関係することで、論理展開は老荘はもとより哲学や宗教においてどのような係わりも持つものであるかを次に考えたくなります。

 コピぺタのわたしは次にこのような文章を用意しました。
 
<引用>『論理と哲学の世界』(吉田夏彦著 新潮社)

 ・・・・・本来、哲学の問題の多くは、論理学の問題と、いわば同じ根から発したものなのである。また、二つの学問が分化してからのちにも、哲学は、しばしば、論理学の成果に刺戟を受けて発展してきた。現在では、論理学の最尖瑞での研究は、数学的な専門教養を背景にする人達の手によっておこなわれるようになってきたので、日本の学科分類でいえば、論理学の専門家は、文学部よりは理学部にいるようになってきたし、そういう専門家の中には、哲学には何の関心も示さない人もいる。しかし、哲学の多くの分野での研究は、論理学の発展を無視しては、発展できない宿命を持っているようである。

 これは、哲学が、その発生からいって、論証を武器とし、また、他の学問の理論の構造の分析を通じてその問題を表現し、解決しようとしてきた学問だったことに由来するものである。あるいは、哲学は、しばしば、哲学の基礎づけそのものを問題にするという意味で、きわめて反省的な学問、つまり、哲学自体を問題にする学問、だといわれるが、その反省的な作業においても、論理性を無視することはゆるされない。この点で、同じく反省的な面を持つとされる、神秘主義的な思想や、宗教的な思想とは、区別されるのである。

 このことは、あるいは、哲学という学問の短所にもなりうるかも知れない。仮にたとえば宗教的な真理というものがあるとすれば、これは、哲学のように論理にこだわるやり方ではなかなか到達できないものかも知れない。そうして、啓示とか直観とかのおかげで一挙にこの真理に達した人がもしいるとすると、そういう人の眼からみれば、哲学は、この真理をめざしてきわめてまわり遠い道を、労多く、効の少い方法で、牛のあゆみよりものろく、たどっている、あわれな学問であるのかも知れない。

 しかし、その点がどうあろうと、哲学は、論理的なことにこだわることにより、普遍性を持つ学問となることが、できてきたのである。神秘的な直観はだれにでもできることではない。啓示は、だれにでも与えられるものではない。そういう直観や啓示にめぐまれた人が、いかに雄弁に話をしてくれても、あるいは雄弁よりも多くを語るといわれる沈黙にょって対してくれても、大多数の人達は、「真理」の内容について、ごくぼんやりとした見当をつけることができるにすぎないし、その見当が大まかな方向ででもあたっているかどうかについても自信が持てないのである。

<引用終わり(同書p12~p13)>

 哲学は終わりなき論理であり、宗教は確信が持てない限り薄ぼんやりの世界です。確信が持てたという方(かた)の言説は繰り返しの論法に終始します。

 また自ら語っているようで、先人の言葉を踏襲することに終始する。
 
 学問で終わるのか信心で終わるべきなのかか分かりません。

 しかし、よく気づきと言いますが、気づきという直観が新しい展開を示してくれるような気がします。当然自分にとってですが。

 それをどこまで待てるか、早計は要注意で、近道はないように思います。
 
 今朝のお題をどうしようか考えた末に「荘子の論理の世界と早い計りごと」にしてみました。

 今朝の写真は、昨日の朝焼けです。右に見える点が明けの明星です。(写真が小さすぎてほとんど見えないかもしれませんが)

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善悪の立ち位置(1)・老子

2010年11月11日 | 東洋思想

(写真:NHKラジオ第2放送宗教の時間・「老子」「荘子」をよむ上テキスト表紙から)

 思考の段階を性善・性悪の段階に留めおきながら、孟子の世界から老子の世界にその視点を移します。伊那の老子の加島祥造さんの、

人のなかに
最初に育まれたのは
柔らかなあたたかさであり
美しさへの歓びであり
そして、
他の人をも生かそうとする心である

に老荘思想の無為自然の感得の中の善と悪をみたくなります。(昨日の小さき花・金澤翔子・加島祥造

 老荘の哲学は、普通の常識的な考え方、常識的な価値観と必ずしも一致しない。『老子』や『荘子』のなかにはたくさん出てくるのは、ふつうの中国の古典の書物には出てくることの少ない、恐れとか、嘆きとかもだえとか、憤りとか悲しみとかということばである。また生まれながらにして人生にハンディをもたされた人間、身体の不自由なひと、あるいは刑罰を受けてふぐになった前科者、こういった人たちの話がたいへんたくさん出てくる。(『中国の哲学・宗教・芸術』福永光司著 人文書院p9)

と言われるような特徴があり、また中国の思想の歴史の中で、最初ともいうべき否定と批判の哲学、文明批判の哲学を初めて確立したものだともいわれてます。(同書p13)

 「無用之用」「無為之道」これは老荘の思想を端的に示しています。ただなにもしないとか、いっさい有用なものを捨ててしまうとか、不可知論の立場に立って批判を停止してしまうのだとか、そのような安易なことではありません。(同書p16)

 そのような老子の中に善と悪の立ち位置をみたくなります。
 今朝は思考の視点をそこに置いて、今もNHKラジオ第2放送で「老子・荘子」を講ぜられている蜂屋邦夫先生と加島祥造の訳をみたいと思います。掲示するのは個人的に抽出した第2章と第49章です。

【蜂屋邦夫先生】『老子』(岩波文庫)蜂屋邦夫訳注から


第二章
                                        
 世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いと思っているが、じつはそれは善くないものにほかならない。

 そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう。
 
 そういうわけで、聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。


第四十九章

 聖人は、いつでも無心であり、万民の心を自分の心としている。
 善良な者については、わたしも善良とし、善良でない者についてもまた、わたしは善良とする。こうして万民の徳は善良なものとなる。
 
 誠実な者については、わたしも誠実であるとし、誠実でない者についてもまた、わたしは誠実であるとする。こうして万民の徳は誠実なものとなる。
 
 聖人が天下にのぞむときは、心おだやかにこだわりを持たず、万民のために自分の心から好悪の気持ちをなくしてしまう。万民は、みなその聡明さをはたらかせているが、聖人は、万民をすべて赤子のようにしてしまう。


【加島祥造】『ほっとする老師のことば』(二玄社)から

 善と悪・美と醜
(老子道徳経第二章)

 美しいと汚いは、
 別々にあるんじゃあない。
 美しいものは、
 汚いものがあるから
 美しいと呼ばれるんだ。
 善悪だってそうさ。
 善は、
 悪があるから、
 善と呼ばれるんだ。
 
 悪の在るおかげで、
 善が在るってわけさ。
 同じように、
 ものが「在る」のも、
 「無い」があるからこそ在りうるんでね。
 お互いに
 片一方だけじゃあ、在りえないんだ。


 心を空にする人は
(老子道徳経第四十九章)
  
 心を空にする人は、
 定(き)まった意見なんか持たない。
 世の中にいても
 囚(とら)われないでいる。
 心は誰に対しても自由でいられる。
 人々はみんな口や耳や眼を働かせ
 あれこれ言ったり見張ったりするがね。
 タオの人は幼い子みたいに
 微笑んでいるのさ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このような立ち位置の善と悪からは性善説的な初源の思想は出てきません。しかし加島先生の冒頭の偈にはそれが折り重なるように表されているように感じます。

 加島先生は英米文学の専門家でもおられます。人それぞれに自己発見に挑んでいる、その奥深さを痛感します。

 なお「立ち位置」という言葉を使用しますが、そう表現することは私の個人的な感慨から来る言葉です。

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