思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

墨跡・真善美の合一点

2014年08月04日 | 哲学

 昨年の1月に放送されていたNHK「日本人は何を考えてきたのか」シリーズ(明治・大正・昭和)編の昭和編が土日の深夜に再放送されていたことを昨日書きました。

 このシリーズの昭和編は全4回で、

第一回「大本教 民衆は何を求めてきたか~出口なお・王仁三郎~」
第二回「昭和維新の指導者たち~北一輝と大川周明~」
第三回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」
第四回「女性たちは解放をめざす~平塚らいてうと市川房枝~」

という内容で第一・第二が土日に放送されたことになります。勉学の機会がないこの歳になると、このような番組が学びの場となります。さてこの番組内容ですが、NHK出版から『日本人は何を考えてきたか昭和編』(NHK取材班編著2013.6.25)にまとめられており番組を見逃した人も、また、この書籍が番組内容の文立てというよりも、取材内容の章楽された部分や出演されていた有識者の方々の言葉も御本人の推敲を経て追記されているのか内容豊富になっています。

 私的に西田哲学が大好きですので特に第三回「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」(2013年1月20日に放送)は大変勉強になりました。従って今度の土曜日にはこの「近代の超克」が再放送されることになります。

 番組を見ての私的な記録メモとしてこれまでに何回かブログでアップしてきましたが、改めて再放送される「事」という問いに応えたい気になってきました。

 この「西田幾多郎と京都学派」には京都大学教授で哲学者の藤田正勝先生が出演されていたのですが、学びの偶然的な出来事なのでしょうか、藤田正勝先生が8月2日(土曜)に、毎年開催されている信濃教育会生涯学習センター主催の信教生涯学習講座「哲学の道」の講演会の今年第一回目の講師として来県し演題「西田幾多郎の書」を講義され、その講義を機会を得ることができました。

 今年に入り藤田先生に係わる話として、今春の長野県の高校入試の国語第一問に先生の『哲学のヒント』(岩波新書)の「第6章言葉」の文章が読解力等の問題に使用されていたこと以前ブログに書きました。何ごとも偶然が重なることには意味があるのでしょう。

 従って楽しみにしていたこの講義、2時間30分にわたる講義でしたが集中して聞くことができました。

 講義は、昨年京都大学総合博物館で開催された「西田幾多郎遺墨展」をもとに西田先生の書に見る思想を5構成にまとめ、遺墨展のパンフレットを参考に話され大変わかり易い講義でした。

第1 枯淡、静寂、気韻
第2 黙より出でて黙に帰す
第3 自由なる生命のリズムの発現
第4 芸術家自身の人格の発現
第5 刹那の一点から見る

『書の美』(昭和5年)から次の言葉が紹介されました。

 西洋では書というものは美術の中へは入らないが、東洋では美術の大いなる領分を占めているということができる。書は如何なる種類の美術であろうか。美は主客の合一にあるのはいうまでもないが、芸術には客観的対象を写すということが主となっているものと、主観的感情の発現ということが主となっているものとがある。絵画とか彫刻とかいうものは前者に属し、音楽という如きものは後者に属するのである。建築の如きも感情の発現といい難いが、それが何らかの対象を写すというのではなく、一種のリズムを現わすという点において、むしろ後者に属すると考うべきでもあろう。右の如く芸術を分類して見ると、書というものも何らの対象を摸するというのではなく、全く自己の心持を表現するものとして、音楽や建築と同じく、全くリズムの美をあらわすものということができるであろう。その静的な形のリズムという点においては建築に似ている。つまり建築と音楽との中間に位するとでも考うべきであろうか。「凝縮せる音楽」とでもいうべきであろうか。・・・<以上>

 今回の書は、毛筆と墨で描かれた書ということですが、個人的にも興味のある世界で、これまで書家の金澤泰子と、娘さんの翔子が書かれた作品などについてブログに書き、伊那谷の老子加島祥造さんとの共著『小さき花』について、

小さき花・金澤翔子・加島祥造[2010年11月10日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/39d34c14cea83da8be78d7de87b061cf

に書いたことを思い出します。あらためて過去を振り返ると、既に4年が経つことに驚きました。

 さて話を今回の藤田先生の講義にもどしますが、今回はこの中で「第2 黙より出でて黙に帰す」、この題は昨年の遺墨展の主題にもなっているのですが、今回はこれのみを取り上げてブログに残したいと思います。

ここで紹介されている作品の一つが、

【心月孤円 光呑万象】(こげつこげん ひかりばんぞうをのむ)

という墨跡(作品)で、この偈は、『景徳伝燈録』巻七の中国・唐代の禅僧盤山宝積の「心月孤円、光万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境また存するに非ず。光とともに亡(ぼう)ず、また是れ何物ぞ」からのものです。

 この作品は、漢詩の墨跡とともに横に円相図が描かれている場合があり、上記に書いた「近代を超えて~西田幾多郎と京都学派~」の番組の中でも紹介され、著書にも「円相図とボイド」ということで2ページにわたって書かれています。

 「書」よりも「円相図」の話になっていしまうのですが、この円相図とともに【心月孤円 光呑万象】が描かれた西田先生直筆の軸は、会場となっっている信濃教育会生涯学習センター(旧高家小学校)にも古くからあり、これまでの西田哲学に関係した講義には時々演台に掲出されていました。

 先ほど“著書にも「円相図とボイド」”と書きましたが、いつものように引用で紹介したいと思います。 

【司会】西田哲学の世界を象徴するのが、円相図ですね。

【藤田正勝】西田は、書を非常に好んだ人ですが、円相図を描いて、その横に「心月孤円 光呑万象」という言葉を添えたものが残っています。これは、心を一つの月、「円」にたとえています。「円」というのは、個々の具体的な形を持たないが、しかしそのなかに無限なものを内包したものの象徴です。無限な物の根源が、この円の中にはある。万象を呑み込む円は、禅においては、悟りの境地を表わすものとして非常に重要視されてきました。それ自体は形を持たないけれども、あらゆる無限なものを包摂している。それは、西田が考えた「場所」や「無」という思想とも通じるものがあります。

【司会】福岡(伸一)さんは、生物学者の立場から西田哲学と円相図についてどのようにお考えになりますか。

【福岡伸一】私も、西田の円相図を見たときに、細胞のなかに浮かんでくる輪郭線のようなものが見えてきたんです。やはり、西田哲学の持っているイメージの喚起力というのは、非常に深いものがあると思いますね。生命の在り方もまず、いろいろなものが立ち現れてきて、環境というものができて、そこから個々の生命が限定されていく。そしてまた、個々の生命の内部でも、自分の細胞であるのか、他者の細胞であるのかがどのように決まっていくのかと言えば、まず他者というものが決められ、それと戦う免疫系というものが決められて、その残りが「ボイド」(空白)としてあるものが、実は「自分」なんですよね。自己と非自己の関係は、まず非自己の方が先に決められて、残っている空隙として自己がある。生命というものは、まず円の中の空間、つまり「ボイド」としてつくられて、それが段々と形を為していくといったプロセスで現れてくるものなんですね。ですから、何も決定されていない。どんな関係も生まれていない円のなかの空間のようなところから世界が始まるという西田のビジョンは、非常に生命的であり、哲学の言葉がそれを先取りしているというふうに私は受け取りました。<以上>

番組では短めの話しになっていますが、書籍では上記のような内容になっています。

 絶対無の場所は、写しだされる場でもある。

などという話にもなりますが、生命科学からの福岡先生の視点も勉強になりました。

※ 言及しませんが【心月孤円 光呑万象】は、正法眼蔵「都機(つき)」に書かれている話しです。

 さて今回の藤田先生の講義ですが、冒頭に紹介した著書『哲学のヒント』の第7章で語られている「美について」に重なる部分がありるのですが、哲学には素人なのですが多くを学ぶことが如何に理解につながるということを実感します。