仏教を知りたいなあと思い、はじめのころ読み始めた本が松原泰道先生の『こころの開眼 仏語仏戒』という集英社から出版されている本でした。この『こころの開眼』は集英社文庫にもなっており、昨日早朝に死去を知り再々読しました。私は本に、三色ペンや黄色や赤色鉛筆でこころに響く箇所に線を引いています。
B・R・アンベードカルは、(『ブッダとそのダンマ 山際素男訳 光文社新書』P226「ミリンダ王物語」)で釈尊の霊魂の存在を無視した姿勢を、「灯火から灯火に火を移すこと」、「教師から習った詩句のようなもの」と釈尊に霊魂のない転生を語らせていますが、輪廻転生とはそのようなものと思います。
松原泰道先生の書かれた上記の本に引いた色線は私の心に転生しつつあるものと確信しています。
○ 「衆生はことごとく仏となるべきに、しかも衆生はことごとく仏となることなければ、すなわち如来の常住なるは明らかなり」とは聖徳太子のお言葉です。大乗仏教では、「悉有仏性」と申します。すなわち存在ものはことごとく仏の命をいただいています。道元さまはさらに「悉有仏性」の読みを深めて、「悉有は仏性なり」という読み方をしておられます。ことごとく仏性をもつのではなくて、存在するものはみなこれことごとく仏性、仏の命、仏の心にほかならない。(P28・29)
○ 気のついたときに庭の草を一本取るというのは、庭の草だけではありません。「煩悩無尽誓願断」とは、やはりそういう心がけが必要だというおしえではないでしょうか。(P31)
○ あらゆるものがあらゆる機会に、私たち一人一人に何かにつけ、なにかを教えてくださるということが「法門無量」ということ。あらゆるものが先生、あらゆるものが教えです。(P36)
○ 私は、それが、「臨済録」にいう「随所に主となれば立処皆真なり(いつ・どこでも、今、自分のなすべきことを徹してするなら、常に真理の真ん中にいる)」ということで、自分の道に活動をするのが仏道を歩むことになると思います。(P45)
○ T子さんは、最近自分の心境を歌に詠んで私に見せてくれました。
なぐさめを 求めて泣きしわれなれど ささげて生くる よろこびを知る
「悲しみのときはだれかが慰めてくれたら、と愚痴がでます。しかし他からの慰めは何となく頼りないものです。そこで亡き息子が声なき声で教えてくれた、この悲しみの体験を人様のお役に立てることだと気づきました。これも亡児の導きでしょう。世の中とは不思議なものです。私が、他からの慰めを求めたころは、人さまの態度が冷たく感じました。ところが、私が自分の体験から、人さまをお慰めさせていただくと、自分が慰められた以上に、私の心が安らぐのです・・・・」と、この詩を説明してくれました。(P56)
○ 脱出ができるなら、それは苦悩の名に価しません。脱出不可能な事実から脱出を計ろうとするから、苦悩は倍増いたします。脱出できないと確認したら居直るのです。居直るといっても急にすごんで態度を急変して強盗などになることではありません。居直るとは、いずまいを正し、座り直すこと、心の座りを居直らせるのです。逃げられない事実との直面であると居直るのです。P60)
○ 死生観というものを若いときからもつというよりも、死生に対する考え方を年代相応に育手ていくほうがよいと思います。(P66)
○ 宗教には、いろいろの定義があります。ということは、これが宗教だと一言ではいいつくせない、いいかえるとそれだけわかりにくいということでしょう。私は私なりに、「宗教とは自分自身を見る視座をもつ」ことだととの考えに従います。それは道元禅師の「仏道をならうとは、自己をまらうなり」に基づくものです。(P67)
○ お仏像なりお仏画なりを心から拝む人は、その仏さまの心にお目にかかれる(見ゆ)のです。私たちの心の奥底には仏心(仏<真の人間>になれる可能性)が埋みこめられているのですが、その事実を忘れているのです。しかし心の鏡というべき仏のお姿を拝めば、やがて私たち人間の本心本性の仏心を開発できるのです。すなわち、わが心を見すえる視座は、仏のお姿を拝むところにあります。(P68・9)
○ 私たちの心もそれと同じで、知らぬ間に過ちを犯すが、気がついたときに過ちというごみを一つでも取っていけば、時々刻々に、汚れやすい私たちの心が自然にきれいになっていくのです。心がきれいになっていくと、もののいい方がやさしくなってきます。また、心がきれいになっていくと、人相がよくなっていきます。(P98)
○ 私たちも、たとい五体投地とまでいたらずとも、心から謹んで礼拝いたしましょう。仏さまを礼拝する心で、人さまにも丁寧にあいさつをいたしましょう。人を敬い丁重にお辞儀をするのは礼儀や作法ではありません。相手の人の心中にある仏心を拝むので、単なる尊敬ではありません。お辞儀は、礼拝を毎日の生活に消化する仏法の修行でありますし、また仏法の実践なのです。(P117)
○ 古い歌に「右ほとけ左衆生と合わす手に中にゆかしき南無の声」とおしえられています。(p118)
○ また、私たちは、だれも見ていないからと世間をなめたら大変です。私は申したい、「あなたの目は二つしかないが、あなたを見る目は無数にある」と。(P172)
○ 仏教思想では、すべてのものをそのものたらしめる機能を「仏の命(仏性・仏心)」といいます。花を花たらしめ、鳥を鳥たらしめ、万年筆を万年筆たらしめ、人間を人間たらしめるのが、仏の命です。ゆえにあらゆるものに仏性があると教えます。ただ、仏性はあるが、その仏性が全開しているかどうかが問われるのです。(P178)
○ 日本浄土宗の宗祖法然上人の「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人のこころにぞ澄む」の一首は、やはり仏性はだれの心中にも澄(住)む真実をうたいあげます。いずれも、画や月の実体よりも、画や月の「影」に重点が置かれてあるのを深く思いましょう。影は実感するものであって、手につかむことはできません。つかり眺め感じて、仏性にも執着しない不邪淫のぎりぎりが示唆されている経典の比喩であり、法然の詠嘆でもあります。(P182・183)
○ 「認める」意味に関する言葉に「確認」があります。「確かに認めること」をいいかえると「あきらめる」ということになります。とかく、あきらめるというと、断念したり、投げだしてしまう意味にとりますが、じつは「あきらめる」とは「明られる」意味です。事実を明らかに確認することによって、初めて落ち着いた気持ちで辛抱できるようになるのです。(P198)
○ 知識は外からえられるもの、智慧は自分の心の中から光ってくるもの、との違いがでてまいります。ルーム・ランプが明るいと、室内にも明るさがにじみでます。同じように、ハート・ランプが輝けば自分の周囲の人の心をも照らします。この事実を、をさはるみさんのの「独言(ひとりごと)」という詩に学びましょう。
私が私になるために人生の失敗も必要でした
無駄な苦心も骨折りも悲しみもすべて必要でした
私が私になれたのも
みんなあなたのおかげです
恩人たちに手をあわせ
ありがとうございましたとひとりごと
(P210)
○ 「空は色なり」ということも、空と色とは離れることはできない。空しいものであればこそ、存在の意味もあるわけです。(P236)
○ 美しいものを素直に美しいと見て、しかもそれにいつまでも引きずり回されないことが、本当の智慧ということになります。(P237)
○ めぐりあいを大事にすると、「おかげさま」の意味がわかります。おかげさまがわかると、今・ここ・自分を大事にしなければならない道理がわかり、今、自分がしなくてはならないこともわかってまいります。本当に腹の底から、よくわかってまいります。この道理を詳しく説かれているのが般若心経の空なのです。(P254)
○ わたしだって、たった一人のおとうと弟子が、どんな死に方をしたか知りたいよ。だけどそれを知ってみたら、おそらく、本人もまた悩むことなのだ・・・<中略>・・・
好きな一休さんの歌を思い出しました。
いま死んだ どこへも行かぬここにおる たずねはするなよ ものはいわぬぞ
洒脱(しゃだつ)な一休さんらしい、ユーモアにとんだ歌ですが、なにかこの歌が私にジーンとしみて、涙がこぼれそうです。やはり戦死した醇一のことを思うせいでしょうか。
仏法の世界はいつでも、「今・ここ・そして自分」の三つを一点にまとめて見つめよと教えます。(P258・259)
短時間に全部の箇所を転記することはできませんのでこのくらいにしますが、転記をしていると先生の言葉使いにも、そのあたたかいこころが伝わってきました。![](https://philosophy.blogmura.com/buddhism/img/buddhism88_31.gif)