思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

心しずまれる者に成るために

2016年02月29日 | 仏教

 昨年の3月末に36年ほど勤めた会社を満期退職し再就職して間もなく1年が経とうとしています。前の会社でも対人関係に悩まされたことはありますが、これほど人間関係に悩まさ悩まされ続ける経験は初めてです。

 上司ではないが、前の会社のOBであり66歳になる男性社員、何かにつけて「60歳になってそんなこともできないのか!」「お前には教えない」「俺はケンカパ早い!」などの罵声と完全無視の態度が続く。

 その男は5月には退職するが、年金生活だけでは生活できないご時世、今の職場を去ることはいやなのはわかるが、上司も年齢的には後輩にあたり、悩まされたとのこと。

「もう少しもう少し、もうじき天国になる」と励まされ今日に至っています。

 実体験をもって自身の精神分析をつづけるのですが、アドラー心理学の言うところの「他人を気にしない」が最良の解決法のように思える。

 相手の枠を考え、それに適合しようとするあまり自己を見失う。

 一点に集中し物事を行っているように見えても、あまりにも周囲を気にするあまり、些細な誤りをしている自分に気がつきます。

 書き込む数字を間違えたり、持つべき品物を忘れたり、痴呆症になりかけているのかと心配したがそうではないらしく、心そこにあらずの自分がそこに生まれているのです。

 これまで精神性を高めたくいろいろと学んできましたが、まさに実践の時到来です。しかし現実は厳しく、己は弱い。それでも後退することはできません。そんな時にいつも聞こえるのが原始仏教典の一夜賢者の偈です。時々ブログにもアップしている偈、詩です。

 一夜賢者の偈はいるいろな仏教学者や僧侶が語っていますが、私がはじめてこの一夜賢者の偈を知ったのは仏教学者の増谷文雄先生の著書でした。最近ではちくま学芸文庫が増谷文雄著『阿含経典』を出されていますが、岩波書店増谷文雄著『阿含経典』現代語訳第五巻(1987年)ほか、『仏陀のことば』(角川選書・p152)などで知ることができます。

 今日は岩波書店の阿含経典を使います(p195-p204)。

 増谷先生は、一夜賢者の偈を掲載する前に次の概説を載せています。

 釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。
「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。

と偈を語る前にこのように解説されています。

 この正受老人(禅師)は、あの真田丸の主人公真田信繁(幸村)の兄で松代藩主の真田信之の実子です。今長野県では真田丸も視聴率が相当に高いとのこと、私も観ましたし歴史好きもあり、昨日は「真田一族」の講演を聞きに行きました。このことについてはブログに書きたいと思っています。

 話が横道にそれましたが、この一夜賢者の偈に似た道歌もあります。

 今今と 今という間に今ぞなく、
 今という間に 今ぞ過ぎ行く。

 覚えやすい歌です。さて一夜賢者の偈です。

< 原始仏教典南伝 中部経典131 一夜賢者経 >

かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッテッー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる、アナータビンディヵ(給孤独)の園にあった。そこで、世尊は、「比丘たちよ」と仰せられた。「世尊よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はかように仰せられた。

「比丘たちよ、今日わたしは、<一夜賢者>なる偈について、また、その分別について語るであろう。よく聞いて、じっくり考えるがよろしい。では説くであろう」

「かしこまりました。世尊よ」

と彼ら比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、つぎのように仰せられた。

「過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり
 未来、そはいまだ到らざるなり
 されば、ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし
 揺らぐことなく、どうずることなく
 そを見きわめ、そを実践すべし

 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
 たれか明日死のあることを知らんや
 まことに、かの死の大軍と
 逢わずというは、あることなし

 よくかくのごとく見きわめたるものは
 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
 かくのごときを、一夜賢者といい
 また、心しずまれる者というなり」

 以上が南伝中部経典131、一夜賢者経あるいは「吉祥(きちじょう)なる一夜」と言われる偈です。

 「ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし
 揺らぐことなく、どうずることなく
 そを見きわめ、そを実践すべし」

 五蘊のありようを通して展開される現実、五蘊とは、「色・受・想・行・識」のこと、

1「色」 物質的要素。すなわち肉体である。

2「受」 人間を構成する精神的要素であって、その第一は感覚である。感覚は受動的なものであるから、漢訳では受をもって訳したものと思われる。

3「想」 表象(心に像をえがくこと)である。与えられた感覚によって表象を構成する過程がそれである。

4「行」 意思(intention)もしくは意志(will)といわれる心的過程がそれである。人間の精神は、ここから対象に対して能動に転ずる。

5「識」 対象の認識を基礎として、判断を通して得られる心所である。

この解説は同書の増谷先生の者ですがとても分かりやすいと思います。

五蘊の作用により揺らぐ心とは、

 色を我なりと見、あるいは我に色ありと見、あるいは我の中に色ありと見、
 あるいは色の中に我ありと思う。
 また、あるいは受を我なりと見、あるいは我に受ありと見、あるいは我の中に受ありと見、あるいは受の中に我ありと思う。
 また、あるいは想を我なりと見、あるいは我に想ありと見、あるいは我の中に想ありと見、あるいは想の中に我ありと思う。
 また、あるいは行を我なりと見、あるいは我に行ありと見、あるいは我の中に行ありと見、あるいは行の中に我ありと思う。
 また、あるいは識を我なりと見、あるいは我に識ありと見、あるいは我の中に識ありと見、あるいは識の中に我ありと思う。

ということであり、「現在するところのものにおいて揺るがず」とはどういうことか、

 比丘たちはすでに法を聞いた聖なる弟子であって、すでにもろもろの聖者にまみえ、すでに聖法を知り、すでに聖法に熟達し、あるいは、もろもろの善人を見、善人の法を知り、善人の法に通暁し、かくて、
 色を我なりと見ず、あるいは我に色ありと見ず、あるいは我の中に色ありと見ず、あるいは色の中に我ありと思わない。
 また、あるいは受を我なりと見ず、あるいは我に受ありと見ず、あるいは我の中に受ありと見ず、あるいは受の中に我ありと思わない。
 また、あるいは想を我なりと見ず、あるいは我に想ありと見ず、あるいは我の中に想ありと見ず、あるいは想の中に我ありと思わない。
 また、あるいは行を我なりと見ず、あるいは我に行ありと見ず、あるいは我の中に行ありと見ず、あるいは行の中に我ありと思わない。
 また、あるいは識を我なりと見ず、あるいは我に識ありと見ず、あるいは我の中に識ありと見ず、あるいは識の中に我ありと思わない。

聖法を知り、聖法に熟達した者、善人を見、善人の法を知り善人の法に精通した者ならば動揺しない心、揺るぎなき心になるというはなしです。

 般若心経には「照見五蘊皆空」と書かれています。大乗仏教の「空」の世界です。

 自分という白布を着込んで染められ染まる。

 染められ染まり続けるのは、五蘊のなせるわざ自らおのずからそうなってある、ということです。

 気にしない、気にしない、ときは流れるばかり、自分が主人公であることの自覚、他者の心はわからない。

 そういうこのなんです人生は、そういうものなんです人生は・・・・。


月傾きぬ風景

2016年02月27日 | 風景

 出勤時に背後の北アルプスの常念岳の上空に月を見る機会が続いた。

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

 東の山並みのむこうから、今まさに陽が昇ろうとするとき西の方向にある山々はオレンジに染まり、そこに「月傾きぬ」の風景を見ます。



 

 太陽が昇り切ればさほどの感動はないと思うのですが、同時ではない少しのずれ、そのあわいの中に絶景を感じます。

 「すれちがう」という言葉と「ずれる」という言葉に「時」を感じます。そこに動きがあり、経過が現れています。

 時の一瞬の連続のうちにあわい関係性が現れているとも表現できそうです。

 画家向井潤吉さんの「懐かしき日本の風景」の絵画の世界をNHK日曜美術館で紹介していました。かやぶき屋根のに日本の原風景、郷愁篇・余情篇の画集を時々見ますが、記憶の中の過去風景と現代に生きる私の中に、実際に見た風景ではないのですが「なつかしむ」感覚が現れ、心地よさを与えてくれます。

「すれちがう」には、

1 触れ合うほど近くを反対方向に通りすぎる。
2 時間や位置などがずれて、会えるはずが会えないままになる。
3 議論などで、論点がかみあわない状態になる。

の意味があります。

 「ふれあう」という今まさにその現れに狭間のもつあわさがあるわけで、かみあう落ちどころを人は求めたい。

 画集のページ巡りは出会い、出会いの瞬間、「月傾きぬ」の風景もしかり・・・。

 「かみあう落ちどころ」に真の意味を求めたい。


わたしがここにある時

2016年02月24日 | 今日という日

成ろうとするとするとそれは形になった。

何になろうとしたのだろうか?

成ろうとしたそのわけは知らない。

気がついた時には形にあった。

そこには誰もいない、わたしだけがあった。

明滅の息吹で生きている、を実感する。

波のような明滅の時間。

明滅の波のような時間は私を大地に立たせるように、私のこころも引きつける。

気がついた時にはそこに母がいて父がいて、兄弟がいた。

私以外の人々がいることに気がつく。


個という儘(まま)ならないもの

2016年02月20日 | 哲学

 我が身という個を見る。人偏に固まる漢字、視覚からも独立個体の「ひとつ」に成りてあるものとして現れる。

 「個」は「こ」、「こ」と発音します。リンゴがひとつあれば、一個のリンゴが数えられ、リンゴが二つあれば、二個のリンゴと数えられる。

 個はどうしてあるのかという存在論を語り始めるとき、個人的に記紀の世界に足を踏み入れたくなる。

 天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成れまして、身を隠したまひき。

この言葉は、『古事記』の「天地のはじめ」の言葉で、「成れる神」「成りませる神」が突然現れたことが書かれている。

 国土はどのように作られたのか。

 ここに妹(いも)伊邪那美命に問ひたまはく、「汝(な)が身は如何(いかに)か成れる。」ととひたまへば、「吾(あ)が身は、成り成りて成り合はざる處一處(ところひとところ)あり。」と答へたまひき。

 ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて成り餘れる處をもちて、汝が
身の成り合はざる處にさし塞ぎて、國土を生み成さむと以爲(おも)ふ。生むこと奈何(いかに)。(『古事記』岩波文庫「2二神の結婚」以上19-p20)


「成り成りて成り余るところ」

「成り合わざるところ」

 男女神はこのように語りながら、いわゆる交合、目合(まぐはひ)を行い国土を生成したというのです。

成れる神が、それぞれに「成り成りて成り余るところ」と「成り合わざるところ」を目合をし国土を形成したという。

 旧約聖書のモーゼの世界、「出エジプト記第三章14」に、次の言葉がある。

 神はモーゼに言われた、「わたしは、あってあるもの」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『わたしはあるというかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされた』と」。

というモーゼの「あなたは誰ですか。」という問いに神はそう応(こた)えたというわけです。

 ギリシャ語かヘブライ語かで書かれた聖書を日本人はそのように訳し「あってあるもの」「ありてあるもの」としての神を語る。

 今回は「個」という独立個体の存在論に思考を傾け話し始めました。存在論は「オントロギア」と言いようで、オントロギアとは何か、存在論を意味するその言葉をサイト辞書「kotobanku.jp」で調べてみると、世界大百科事典内からの引用で次のように解説されています。

●「オントロギア」は、
【存在論】より
…ギリシア語の〈在るものon〉と〈学logos〉から作られたラテン語〈オントロギアontologia〉すなわち〈存在者についての哲学philosophia de ente〉に遡(さかのぼ)り,17世紀初頭ドイツのアリストテレス主義者ゴクレニウスRudolf Gocleniusに由来する用語。 同世紀半ば,ドイツのデカルト主義者クラウベルクJohann Claubergはこれを〈オントソフィアontosophia〉とも呼び,〈存在者についての形而上学metaphysica de ente〉と解した。…

ということで「在(あ)るものの学」、「在る学」のことをいいます。

 日本の神は「成れる神」、で旧約聖書の神は「ありてある神」であることを書きましたが、旧約聖書の「神」の存在を神学関係の本を読んでいると、「ハヤトロギア」という言葉が出てきます。この「ハヤトロギア」とはなにか、上記と同じサイト辞書「kotobanku.jp」で調べると、

●「ハヤトロギア」 は、
【有賀鉄太郎】より
…主著《オリゲネス研究》(1943),《キリスト教思想における存在論の問題》(1969)。キリスト教思想における存在論(オントロギア)をヘブライ思想にさかのぼって論じ,ヘブライ語のハーヤー(存在と生成を含む動詞)にもとづき〈ハヤトロギア〉と規定した。【木田 献一】。…

などと解説されています。文頭の有賀鉄太郎とは誰なのか。

 日本のプロテスタント神学者、教会史・教理史学者である有賀鉄太郎先生(1899年4月1日 - 1977年5月25日)のことで、話しが長くなるので先生の著『キリスト教思想における存在論の問題』(創文社)に直に這入って行きますが、「ハヤトロギア」は次のように説明されています。

<『キリスト教思想における存在論の問題』(創文社)から>

 ギリシア的思考とヘブライ的思考との相違は、両者の言語構造における相違として捉えることができる。その相違の最も重要な一点を挙げれば、前者においては主語と述語とを結合するための連辞が必要であるが、後者においては、それはある特定の場合を除いては必要ではなく、主語と述語とが直接に結合しうる事実である。したがって、前者においては、「である」「がある」ということから、抽象の極みにおいて、ただ純粋に「ある」ということだけが残ることになるのであるが、後者においては、そのような結果を得ることは不可能である。ヘブライ語において。「ある」と訳されている語はハーヤーであるが、これはたんに「ある」ということよりも、むしろ「成る」「生起する」「はたらく」などの意を含む「ある」である。このような性格を帯びた言語による思考においては抽象の最後に残るものは純粋の「あること」よりも、むしろ純粋な「はたらき」としての「われわれはハーヤーする」である。ギリシャ的思考法をト・オン論理、すなわちオントロギアと呼ぶことを得るなら、ヘブライ的思考法は、これに対して、むしろハーヤーの論理、即ちハヤトロギアと呼ぶべきものである。(以上p206)

ここで分るようにヘブライ語の「ある」は、

「成る」「生起する」「はたらく」などの意を含む「ある」である。

ことが分ります。ヘブライ語など分らない私ですからそのように意味理解します。

一方、日本語の「ある」についてこれまでブログに、

「在る・有る・生る・或る」

と漢字表記され、その地平に「ある」という言葉の感覚的な意味理解がある事を語ってきました。

 次に「なり」という言葉ですが上記の岩波古語辞典で解説されているように、

「成り・為り・生り」「成り・形・態」

であり、漢字表記され、「あり」と同じようにその言葉の音声の地平には感覚的な意味の理解が広がります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 旧約聖書の神は、「はたらく」神であり、存在は神の創造からはじまります。

 一方、日本の神は「はたらき」のうちから現れ出でて「成れる神」で、食物が神の身から現れるものもありますが、個の存在は神と同じ「なりてあるもの」です。

 現代社会では科学的に明らかにされつつある個のあり様は主なる独神が形成、創造したとは解釈できない事実を示しています。

 はたらく神は死して、はたらきのうちに成れる「個」がある。

 広大な宇宙の発生と消滅

 個の誕生と死

 一刹那の今日ただ今、今現在。意識するその瞬間においては常に成形過程において個は現れている。

 「あるが儘(まま)」

 「なるが儘(まま)」

としての個を見つめる。「なるが儘(まま)」と書くと以前にも書きましたが

ネガティブな思考の「なるようにしかならない」という無常感に陥り、

原罪、原恨、原悲

の世界に「なりてある個」という独個を思ってしまうが、「なりてある」根底にある「はたらき」に思考視点を向けると「皆目わからないが大いなるはたらきのうち」という無常観におかれる。主人公である己の道を求めたくなる。

 求道という求めよさらば・・・、である。

好きなブログに、

「人間」とは、人間化という一つの個体化過程である。

という見出しとともに、フランスの哲学者ジルベール・シモンドンの哲学に出あう。

冒頭の

 ある現実一般が現勢的なものとして構成される生成過程を「個体化」(≪ individuation ≫)と呼ぶ。

という言葉に以下省略で納得の世界である。

 大いなるはたらきとは底がなく、中国の古典にあったように、こんこんと湧き出す泉の源泉のようなもの、地下深く虚空の世界である。果てしなく有るようで無い世界。

 まま(儘)ならない事態を引き起こすのは人間

 成るがまま(儘)の道を知らず、ということだろう。

 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。
               (西田幾多郎『無の自覚的限定』)


事の起源

2016年02月16日 | 思考探究

 政治家の不祥事問題や異常気象に世間の注目が向けられたのかと思うと、北朝鮮の核開発、大陸間弾道弾の開発成功、拉致問題に関しての一方的な中止が話題になり昨日は不祥事に絡んでの録音データーが「ある」話が国民生活にとってとても重要なことのようにニュースに取り上げられていた。

 「とても重要なことのように」という表現をすると「当然だろう」というこえが聞こえそうですが、何者がそのように、何のために知らすべき事としているのかという疑問がわきます。

 沖縄の代執行はどうなったのか。あの国会前の抗議デモはどうなったのか。

 車を走らせていると、ある政党の「連合政府」というような文字の看板を付けた街宣車を見かけた。議会を一手段として、結集を呼びかける政党綱領の言葉を思い出した。

 事はいつから始まるのか?

 葬儀用のマイクロバス運転の経験しかないものが、大型観光バスを運転し坂道の下りでスピードを制御できなくなって尊い命が多数失われたバス事故から一か月が経ちました。

 ギヤダウン、エンジンブレーキで坂道を下ることは車を運転している人ならば誰もが知ってることだが、大型バスになるとそれができない。

 バス事業が許可制になり多くのバス事業者が運転手の確保に走り、未経験者をも採用し運転走行に従事させた。

 たまたま偶然にそのような状況下の観光バスに乗車した。

 冬季の休み、時間的余裕

 誕生から人は事の起こりの中で生きる。何がどのような縁で、事故も病気も含め人はこの世を去る。

 今あるを過去の原因に求めると混沌の世界の始まりまでさかのぼりたくなる。

 冗談話ではなくビックバーンから事は始まっている。個に起きる事実はとんでもなく微小な事柄なのかもしれないが、事が起こるという事とは大いなる始りに起因するのか、とめどなき思考の世界に入る。

 「悪い人」

いるに違いないが、その悪い人も大いなるかかわりの中で生きた様、「録音データーがある」との宣言をする政治家、一生懸命に努力して入手したのでしょう。善い人のように思えてしまう人間の性(さが)。

 私の身に直接起こる事

 事の起源は何処にあるのだろうか?


花のこころと種のわざ

2016年02月13日 | ことば

 新約聖書の「ヘブライ人への手紙」第11章3節は、

 信仰によってわたしたちは、この世界が神のことばで形造られたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです。

 同6節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在すること、および、自分を求める者に報いを与えるかたであることを信じなければならないのです。

と書かれています。この6節ですが、別の新約聖書を開くと、

 信仰なくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さこととを、必ず信じるはずだからである。

 さらに別の聖書を開くと、同節は、

 信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

と書かれています。

3種類の新約聖書ですが、訳し方によってその意味合いが異なることに気がつきます。

 この6節の最後の部分、

・信じなければならないのです。

・必ず信じるはずだからである。

・信じていなければならないからです。

ここに現れているのは「神」です。

 語り部は、

 神を信じなければならない。

 神を必ず信ずることとなる。

 神を信じていなければならない。

とわたしに語りかけます。キリスト教徒としてその信仰の内に身を置くということは、こういうことであるということです。徒にない私には訳者によって、使用する聖書によって、語る聖職者によって多様な解釈の内に信仰を持つことになります。

 信ずるものは救われる。

とよく説かれます。

 現実という見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟る。

 現実の喜びも悲しみも今持ちうる感性によって浮き彫りにされている。それは信仰の証であり報われの形なのですから、祈りの姿勢がどうあるべきなのか、求める姿勢はどのようにあるべきなのかと、悲しみの世界にあれば常に反省と行動選択が求められます。

 しかし、「世界は、神のことばによって形造られている。」という先(3節)の語りがあります。

 未知なる主体を存在起源の元に置くと「ことば」が形ある「言葉」になります。
 
 一方有名な文章で誰でも知っていると思いますが、紀貫之の『古今和歌集』の名序は、

   やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

   世の中にある人、事・業しげきものなれば、

   心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。

   花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、

   生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。

   力をも入れずして天地を動かし、

   目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、

   男女のなかをもやはらげ、

   猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

と書かれています。ことばは歌になり、ことばは人の心の種から生まれる、と貫之はいいます。現れは人の心の種が外環に呼応して歌となって咲く(現れている)ということでしょう。歌はそれぞれに聞かれ、それぞれの感慨をもつに至ります。

 「花は心、種はわざ」という世阿弥の言葉を思い出します。種から花は生まれる。花の現れは種のもつ働きによる、それがわざなのでしょう。花は心、心の現れも種の働き(わざ)があればこそです。私にはそう見えることもそう聞こえることも、そして皆がそう見えていてそう聞こえていると思うことも「種はわざ」からくるのでしょう。

 新約の3節を再度ここに、

 信仰によってわたしたちは、この世界が神のことばで形造られたことを悟ります。これによって、見えるものは、目に見えないものから出てきたことを悟るのです。

私たちは何を見聞きしている、というよりも私は何を見聞きしているのだろうか?

 育児休暇を宣言する輩に、皆が聞いたものは何であったのか。

 非倫理的な花などは誰も見てはいなかった、その時は。

花としての現象は、働きというわざなのでしょうか。見事に咲くものです。

 神の放棄は、主体なる者、個の確立を宣言する。世の中の現れは、わたし自身のありようで現れる、そのように理解しわたし自身がしっかりしないと、と・・・・己の格率をもつことが理想とされる。

 しかし、人の心の種は、どうにでも咲きえるものです。

 「花のこころと種のわざ」

 私はどんな花を見ているのだろう。

 私はどんな花の声を聞いているのだろうか。


建国記念の日の安曇野の山々

2016年02月11日 | 風景

 建国記念の日、記紀に由来する神武天皇の即位の日(旧暦)の日。紀元節というと過去の大戦を想起してしまうが、国は今日を建国記念の日と定めました。

 ということで今日は休日、早朝、東の空を見ると雲一つない天気。北アルプス常念岳の朝の輝きの姿を見たくなりいつも行く国営アルプス公園(安曇野市堀金)入口に出かけました。

 

 東方の美ヶ原高原から陽が昇る直前からオレンジ色に染まり始める常念岳、積雪のある冬季に見られる風景で今季に何回か紹介していますが、何者かに招かれるかのようにでかけます。

 

 

 そしていつものように池田町の美術館の展望台へ行き、そこからは有明富士(有明山)を眺めます。



 

 今回は、地元のFM局にツイッターで紹介帰宅時に放送されました。


御宝田のキンクロハジロの美

2016年02月07日 | 風景

 カモが特別好きだというわけでもないのですが、休日には安曇野市の犀川の河川の近くにある人造湖の御宝田(ごほうでん)出かけます。ハクチョウやカモたちの姿や動き、集団行動を眺めていると時間を忘れます。1時間もその場にはいないのですが昨日も行ってみました。



 日差しを浴びのんびりと・・・・



 何も考えていないでしょうね。



 ハクチョウも目を閉じ寝ているようです。 

 そのいつも見るマガモやコガモそしてハクチョウ。その中に羽黒のカモの一群が目にとまりました。

 このカモは、キンクロハジロ(金黒羽白)という種類でマガモやコガモとは羽の色が異なるほか、個人的な美的感覚からすると少々美しさに欠け、これまで写真に撮ることはありませんでした。

 昨日はこのキンクロハジロの数が多く目立ちしばらく眺めていますと、それなりの美しさがあることに気が付きました。烏合の衆団の中にあってその眼光が際立つ一団、羽が黒いこともあるのでしょうか、くちばしのカーブ、後頭部の羽も、よくよく見ると美しい。

 

 自然はいろいろなものを造り出します。造形の美ですね。


制限時間の中で・・・

2016年02月04日 | つれづれ記

 真冬日が続く中2月に入り長野県の地方紙の一面を飾った記事があります。見出しは「淫行処罰条例制定の方針」、長野県知事は県の緊急部局長会議でその方針を表明したとのこと。

 「県民運動後回しになる懸念」という解説付きでこの記事は書かれています。

 処罰規定については、警察が恋愛など個人の内面に踏み込み、恣意的な捜査や冤罪を生む恐れを指摘する専門家がおり、県民からは「処罰に頼る社会には限界があり、実効性も疑問」とする意見もあった。

 という話も書かれて、相当この条例制定については反対意見が多いようです。日常の生活の中で実際に聞かれるのは、立ち遅れる長野県の青少年育成条例や淫行処罰条例の話で、誰が一体その条例制定を拒むのかと話です。

 恣意的な捜査や冤罪という話、実際ニュースで話題になり離接的偶然においてあなたもその被害者になりかねない懸念が醸成される現在、・・・しかし、私はそんな疑いをかけられるような行動はしない自信があり大半の県民はそうではないかと思うのです。

 どうにもならない子が親になり、その親が子を作り、どうにもならない一群が世の中にいるのは確か、「三歳の子が自分にガンを飛ばした」と怒り重傷を負わせる大人。組抗争でけん銃を使い射殺する一群。とんでもない人間がいるのは確かさの限界を超えている。

 何が後回しにされるのか、その懸念の出所が解らない。

 言葉の持つ力。

 「空っぽの器」である言葉は、使う人間の器の大きさで決まる。中にどんなものが時々にのせられるのか。それが食器ならばどのような環境で何を食してきたのか。食したものによって、身体は作られ、言葉も個々に彩られて明示される。

 ○○運動に参加しない人間はいることは平和運動を見れば確かな話。

 後回しだろうが参加しない者はしない。あることも、することも知らない。

 心の内にとどめないで人間らしく意思表示をしよう。と呼びかけても知ってか知らずか参加をしない。

 悪事をするなどとは全く思わない私ですが、ある意味人間らしくないのか○○運動には一歩後退する自分がいます。

 寒さに震えながらこんなことを吐露しています。昼間は寒い事務所に閉じこもり携帯カイロが頼り。

 暖(あたた)かい。温(あたたか)かい。

 ぬくもりは、温もりと書く。

 こころが乾いているのか乾燥する冬、水分がほしくなる。熱いコーヒーでも飲もう。

 熱いという漢字もありました。情熱の熱。

 制限時間あと一時間。東に走り出す時間が迫る。


エゴ・トンネル

2016年02月03日 | 哲学

 つねづね思うことがあれば、ときどき思い出すこともある。10年ほどになるだろうか、ブログを過去にさかのぼれば、そんなことも、あんなことも書いている自分があった。

 先月の24日に放送された脳科学者の養老猛司先生のEテレこころの時代「“自分”を超えて」をくり返し見ている。

 この中で、トーマス・メッツィンガー著『エゴ・トンネル』(岩波書店)が紹介された。400頁ほどの本だが、題名が示すように自分そのものはトンネルのようなもの、「自己など、どこにも存在しない」と西洋で開かれつつある東洋的無の世界に通じる話です。

 現れの中にしか存在しない自分、養老先生が語るように、まことに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」鴨長明が方丈記の冒頭に語る言葉は「エゴ・トンネル」に重なる。

 つねづね、ときどき意識は思い出させ、そうさせる。自分のモノサシをときどきに作り出せ働かせ、自分の善し悪しを判断し、選択しときどきの自分をも作り出してゆく。

 そう書き綴る私は、第三者的に内にありながら外から自分を見ている。

 我と汝

 善い意識状態を人は求める。

 「汝の声を聴け!」

 我も汝も、これまたゆく河の流れである。