多分正当化理由がありその行為は行われているに違いありません。その国の刑法典に殺人罪という犯罪が規定してないはずはないのですが、悪の根絶を目指し、殺人行為は責任性を阻却され、それ以前に違法性を阻却しているに違いありません。
蚊帳の外の他者から見れば蛮行にしか思えない行為ですが、携わる人々には天井に輝く星の光のように崇高な尊い導きの光による行為なのでしょう。
ガザ地区へイスラエル軍による攻撃、国連の施設であろうが全く関係なく攻撃がくり返されています。
封鎖され食料不足に悩むガザ地区の人々が、地下道を掘り輸送路確保の手段としようとした行為も、他方から見れば北朝鮮の韓国への攻撃のための地下道にしか見えない。
正義を浮き彫りにするには、徹底した悪を浮き彫りにしなければならない。
エッチングに似ており、木版画の線の鮮明さにも似ている。そこには浮き彫りによるリアルな現実が待っています。
罪刑法定主義という法治国家の根本の原則があります。法的根拠がなければ罰せられることはない。ユダヤ民族の息の根を止めることが、この世から抹殺することが至上命令であり、それに従うのが当然の役務であったアイヒマン。裁かれたのはイスラエルの法廷。
ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告ー』はその法廷を傍聴し書かれた報告書です。反ユダヤ、ナチ信奉者と中傷されたハンナ・アーレントとですが、その思想は全世界に発出している魂の叫びのように思います。
誰もが惡の凡庸さに陥る可能性がある。
この「悪の凡庸さ」を知れば知るほど、現代人への警鐘に思えます。ハイデガー、ヤスパース、ベンヤミン・・・聴きなれた哲学者の名がこの政治学者の人生の出会いのなかに出てきます。
ハンナ・アーレントについては、昨年映画でも話題になり、今年になり矢野久美子さんの『ハンナ・アーレント』(岩波新書2014.3.25)も出版されています。
素人がこのようなことを言うのは何ですが、この映画の最後は大学の講演会に演説が映し出されこの映画の製作解説によるとこのシーンは、特定のスピーチを抜粋したものではなく、『独裁体制でのもとでの個人責任』『思考と道徳の問題』『責任と判断』などをモデルにして『イェルサレムのアイヒマン』の論旨で肉付けした内容とのことですが、非常に感動する演説です。
<ラストシーンの要旨>
【ハンナ】 雑誌社に派遣されてアイヒマン裁判を報告しました。私は考えました。法廷の関心はたった一つだと。
それは正義を守ることで、難しい任務でした。
アイヒマンを裁く法廷が直面したのは、法典にはない罪です。そして、それはニュルンベルグ裁判以前は前例もない・・・。それでも法廷はアイヒマンを裁かれる人として裁かなければなりません。
しかし、裁く仕組みも判例も主義もなく“反ユダヤ”という概念すらない人間が一人いるだけでした。
彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も許すという選択肢もありませんでした。
彼は検察官に反論しました。何度も繰り返して「自発的に行ったことは何もない」と言った。「善悪を問わず自分の意思は介在していない」「命令に従っただけなのだ」と。
こうした典型的なナチの弁解で解ることは、世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行なう悪でによるということです。そんな人には動機もなく信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を私は“悪の凡庸さ”と名づけました。
【反対者】 先生が主張していますね。「ユダヤ人指導者の協力で死者が増えた」と。
【ハンナ】 それは、裁判で発覚した問題です。ユダヤ人指導者は、アイヒマンの仕事に関与していました。
【反対者】 それはユダヤ人への非難ですよ!
【ハンナ】 非難など一度もしていません。彼らは非力でした。でもたぶん・・・抵抗と協力の中間に位置する何かは・・・あったはず。この点に関してのみ言います。違う振舞いができた指導者もいたのではと。
そしてこの問いを投げかけることが大事なんです。ユダヤ人指導者の役割から見えてくるのは、モラルの完全なる崩壊です。ナチが欧州社会にもたらしたものです。ドイツだけではなくほとんどの国に。迫害者のモラルだけではなく、被迫害者のモラルにも・・・。
【学生賛同者】 迫害されたのはユダヤ人ですが、アイヒマンの行為は「人類への犯罪」だと?
【ハンナ】 ユダヤ人が人間だからです。ナチは彼らを否定しました。つまり彼らへの犯罪は人類への犯罪なのです。ご存知のとおり私はユダヤ人です。私は攻撃されました。ナチの擁護者で同胞を軽蔑していると。何の論拠もありません。これは誹謗中傷です。アイヒマンの擁護などはしていません。私は彼の平凡さと、残虐な行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書くものは、理解する責任があるのです!
ソクラテスやプラトン以来私たちは「思考」をこう考えました。「自分自身との静かな対話」だと。人間であることをアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果モラルまで判断不能となりました。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事を働く。
私はこの問題を哲学的に考えました。
「思考の風」がもたらすのは、知識ではありません。
善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなるということです。危機的状況にあっても考え抜くことで、破滅に至らぬように・・・ありがとう。
<以上>
大方上記のような内容です。ラストの「思考の風」いかが何とも心に残ります。
風は不思議にその根源がありません。いつの間にか形という表現で現れてきます。
「表現」
経験により<わたし>を作りだし、空間に表現を放つことによって相手にその理解を求めます。表現する側は、理解する側になり、また理解する側は、話す側へと反転し意思の疎通を図ります。
知ることと対話の重要性は、ソクラテスの時代から言われている単純極まりない「汝自身を知れ」という問いへの応えです。「愚かであること」を知るというエッチングの浮彫です。
愚かであることを知れば知るほど、愚かでないものが浮き彫りになってくるということです。
思考の風を感じます。