思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「的を射るのか、得るのか」という話

2018年06月30日 | ことば

 最近夜中に目が覚めるとそのまま起きてしまうことが多い。寝不足になるかと言うと感覚的にそうも感ずることもなく身体的に健康診断を受けましたが特に問題はありませんでした。

 

 起きて何をするかと言うと本を読むか、音楽を聴くのどちらかになるわけで昔のようにブログを書くことは少なくなりました。

従って投稿サイトのランキングも下がり客観的に見ると、年齢を重ねるごとに元気に陰りを見る人もいるかもしれません。

 

しかし、今はカラオケに熱中し今日もゲストでハン・ジナさんが出る音楽教室の発表会に出ることになっています。

 

 30年ほど前に母は亡くなっていますが母は若い頃から歌が好きで流行歌ばかりではなく、讃美歌なども一緒に歌ったことを思い出します。そういうことも影響したのでしょう歌に目覚めたわけです。

 

 今日の発表会では、菅原洋一さんの『白夜抄』を歌う予定で昨日仕事帰りにカラオケボックスに90分ほど、他の曲も含め20曲ほど歌い込みました。発表会では「♭1」の予定でしたがどうも「♭2」の方が声が楽に出るようですので今日は変更をする予定です。

 

 哲学・仏教などの人文学的な趣味はどうしているかと言うとこれは変わることなく続けているわけで、現在職場に持っていく鞄の中には4冊ほど入っています。最新は何かと言うと「100分de名著」番組の7月テキスト『河合隼雄スペシャル』で若い頃に尹具心理学を学んだこともあり、河合先生の著作はかなり読みました。第一回目で取り上げられる河合隼雄著『ユング心理学入門』は学生時代に購入し自我や自己の相違について、感動を覚えたことを今も鮮明に思い出します。

 

 深層心理学における「自我」は哲学的な仏教的な理解におけるものとは異なるのですが、その違いがわかるからこそ理解も深まるものと思います。

 

 今朝はタブレットで書いていますが、デスクトップよりもなぜか楽に言葉が出てきます。言葉ついでに最近のプロフェッショナルというテレビ番組で「辞書の改訂版」を作る専門家の話がありました。この中で「的を射る」と「的を得る」という言葉についてご用とする解説を言えるべきか否かの話題があり「まとも」と「まっとう」という言葉に興味を持つ私としては非常に考えさせられました。

 

 帆船の帆に潮風がまともにあたり船が前進することが「まとも」や「まっとう」の語源になるのですが、「的(まと)」という弓道における的中させる「まと」もやまと言葉では同音に同概念の想起を感じます。そこにまた能動と受動の感覚的志向性が窺われ、「射る」はこちらから向こうへ、「得る」は向こうからこちらへの思考の向きを感じます。

 

 「的を得る」という言葉は、確かに江戸期には使われていた事例が紹介されていましたが「正しさ」の的中は視点の今位置にあり、それがおのずから射たものなのか、みずから得たものなのかそこに個人の思考の成果が言葉表現に出てくるように思います。

 

 ユング心理学的な思考で話を進めるならば、自我はみずからの方向性、自己は無意識や意識を含めた中枢点のおのずからの発動の根元になるように思います。意識における自我が拡大し、無意識層における個性化の源にもなる自己のあり方とあまりにも解離すると旧表現の分裂に至るのもわかるような気がします。

 

 なにが「まとも」なことなのかは個々に違いがあり合理的に意味共有はできませんが、他人から射られて得られるものかもしれません。

 

 こんことをつらつらに書き綴ればあっという間に時は過ぎゆきます。

以上とりとめのない話でした。

 

 


誠実なる作品

2018年06月23日 | 思考探究
 女性看護師が拉致され、その遺体が山中から発見され、拉致した男は間もなく逮捕され首謀者は自殺したとの報道がありました。性目的が根底になければこのような事件は起きることはなかったでしょうし、男はどうしようもなく動物的に見えます。

 個人的に女の子を持つ親の立場からすれば脱力感と呪いと憎しみが溢れます。「なぜ我が子が被害に遭わなければならないのか。」と誰に向かって問うのか、親の問が聞こえてきそうです。

 不条理極まりない現実、世の中には誠実に生きられない男は間違いなく存在するわけで、性犯罪は減ることはなく、確率現象でそれはそこに起きる。

 色欲を常態化した色魔、セクハラ的言動や行為をしなけれは生きられない人々、性欲がなければ人間の歴史はないわけですし、そもそもそれはある意味誠実さで抑制し秩序が保たれるのが理想でしょう。

 「誠実でありたい。」という宣言、聖者の吐露でしょうか。

 マハトマ・ガンディーの異様な「超越」という話があります。ガンディーはインド独立の前夜から「平和の行脚」のために東奔西走していました。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が血で血を洗う相互殺戮の行動に走っていたからでした。

 その行脚の中でガンディーは「非暴力」を説いていましたが、その個人的な生活においてはまことに奇妙な実験を行っていました。マヌベンと呼ばれる孫姪にあたる少女と、毎晩のように寝床を同じくしていました。これはガンディーの妻カストルバイは、死を前にしてマヌベンの養育を夫ガンディーに言い残していたからです。

 しかしガンディーは、妻の遺言でいいのこした以上のことをやろうとしました。暴力を乗り越える戦略は、女性原理のうえに打ち立てられなければならぬという強い信念があったのでしょうか。マヌベンの養育という機会を契機に母になろうとする途方もない実験にガンディーは身を乗り出していくのです。

 少女と床を同じくして自分がなお男であることを自覚したが、しかしそのことによって打ち負かされることはなかったとガンディーは言ったといいます。彼の実験が性の乗り越えを意図としていたことなのでしょうか。
 人間がついに動物が持っていた攻撃の儀式化という本能を失う実験なのか。ガンディーの非暴力の活動、微笑は男のもつ女性に対する野獣的行動を抑制、超越からくるとも言われるが・・・。
 浮気男が相手の女性を単なる女性友達と抗弁する態度。セクハラに対して相手も黙認していたするいう言動。

 異常と正常のはざ間に人はおかれ、問われる存在として今に態を成しています。正常と異常と言葉区分が人それぞれのその時その場の創造で、もともと区分は結果に現れるように思う。それも第三者の評価によって。

 「誠実でありたい」

という宣言、誰がどこから発動、創造するのでしょう。

 太宰治の信の友情を描いた『走れメロス』という作品を残しています。彼らの姿を見て王は人を信じるという心をとり戻したという話です。

 Eテレ番組を見ていたところ、この作品の背景について作家の檀一雄が太宰本人から聞いた言葉が紹介されていました。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね。」

 この思考視点の転回、「待つ身」と「待たせる身」の「辛さ」、ここに量的な比重を人は重ねることができます。それも自己と他者のものとして。
 太宰は次のようにも語ります。

「教養人とは他人の辛さをわかる人をいう。」

 そして太宰は「優しい」の「優」という感じが好きで、理由は、人偏に「憂(うれう)」と書くからだといいます。

 今回、死体遺棄事件からガンディーの孫姪との話、そして太宰の話と書いてきて、言いたいことも失せてきました。

 人とは作品である。

 誠実を表すような作品を創造したいが、造形としては個々の認識の範疇でしか現れません。しかし、それを求めんと欲する人は確かにいます。だから宮沢賢治は「そういう人になりたい。」と書き残したのかもしれません。

聖なるあきらめ

2018年06月17日 | 哲学
 人生レシピというEテレの番組が6月のはじめにシスター鈴木秀子さんを紹介していました。この中で鈴木さんは「聖なるあきらめ」という言葉を語りました。

 この言葉は、人生で遭遇する様々な苦境を救いなき「あきらめ」で語るものではなく、実存哲学の視点からみるならば宗教的実存であり信仰に生きるひとびとの祈りの姿を感じました。

 カトリック信者の鈴木さんの言葉ですので「聖」なる言葉は絶対なる「神」を想定してしまいますが、仏教で語られる「無常」という常住ならざるこの世の仏のはからいに重なります。

 これはまた心ある人間や人間以外の有機物、無機物的存在という有情・無情の区別のない存在そのものに「いのち」をみる自然観にも通じるところがあります。

 今朝のこころの時代の「曼荼羅」の特集版の最後の方で哲学者の梅原猛先生が登場しました。語られたのは、先生が3.11東日本大震災の原発事故後に特に強調する『勘定草木成仏私記』の「草木国土悉皆成仏」という言葉でした。

 自然との共存は、当然、人と人との共存、共生に欠かせない意味あるものと解するちからがあること。こんな話があります。

 アメリカの環境問題の運動家に会いました。アメリカの若い青年です。彼は「人間には生きている動物の命を奪って食べる権利はない。鯨であろうと、牛であろうと、豚であろうと、鶏であろうと。だから私は肉を食べるのをやめて菜食主義に切り替えた」と言うんです。だから、私が「お米や麦のいのちはどうなんだ」と言いましたら、「そんなものに命があるんですか」と言うんです。ところが、日本人には、自然の全てのものに、「生命」ではなくて「いのち」があるということがわかる。(以上「対談中村博士を語る」奈良康明・峰島旭雄対談p68から)

 クジラに命がないとは日本人は思いません。以前金子みすゞの「鯨法会」という詩とともに「鯨鯢過去帳(げいげいかこちょう)」について書いたことがあります。

 日本列島に生きると、

 いのちをいただいているという視点

 存在そのものにいのちをみる視点

がおのずから湧きあがってきそうです。それをみずからの思考に重なると「聖なるあきらめ」も、無情なるものも無上の悦びの内に納められてゆく思考に転回されるのではないでしょうか。

霧散

2018年06月06日 | 哲学
 「欲望の体制」がこの世を支配している。このようにこの世を断言したくはないのですが「忖度」という言葉が乱れ飛び、「ヤバいよ!」「ヤバいよ!」と子供たちまでも意味も知らず流行(はやり)言葉として日常の中で使用し、何事かを察知する感覚が鈍化し続けているように見えます。

 真なるもの、善美なるものがあっても、それにみずからを従わせ、それに向かって努力しなければならないという感覚をすでに持ち合わせていないのではないだろうか。

 自分たちの福利のみを追求するという欲望の反乱が、この世を「欲望の体制」が支配していると言わしめます。

 どう見ても「おかしい」と思うのですが、何かを期待するかしないのか、時だけが過ぎて行きます。

 「罰当たりなことを」と思うのですが、「罰する主」が失せた現代では世論のみが頼りに思えますが、「世論」などは風評の域に止まり、「罰当たり」はいつしか過去の産物に、ひょっとすると思いも出されないことになってしまうのかもしれません。

 「神は死んだ」のだろうか。

 今や実存的無意識の理性や愛の叫びに主を観ようとするも精神的無意識は、真に発動することはなくなっているように思ってしまいます。

 人間は期待された存在と、生きる意味を求めようとするも、時は流れ『夜と霧』は話題にも出てこなくなってしまいました。『生きがいについて』神谷美恵子さんが語ろうが、アルベール・カミュがその作品の中で「何ごとか」を教示しようが、聞く耳を持たない人が大半で「罰当たりなこと」は個人的な吐露の内にいつの間にか霧散してしまう。