思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

秋の白煙

2006年11月26日 | 哲学
 今ごろの季節の香り、風景の香りとでも言おうか安曇野には焚き火の香りが漂う。

 今日は曇り空で遠くの山々は水墨画のように薄っすらと靄がかかっている。

 先週まではもみじも鮮やかな色を見せていたが、このところの寒さで葉はすでに散り、他の木々の葉とともに落ち葉のジュウタンの様である。

 竹箒と熊手で落ち葉をかき集める。昨日が天気がよかったこともあり、葉は乾燥している。

 落ち葉をかき集めると、葉に埋もれていた苔の鮮やかな緑が浮かび上がる。鮮明な緑に感動する。

 紅葉の紅、苔の緑。

 付近には生活道路はあるが、車は忘れた頃に通るぐらいで静寂の中にある。

 山が庭に三つほどできた。その一箇所に火をつける。点火はた易くすぐに落ち葉全体に広がり、中央付近から真っ白な煙が立ち昇る。

 この匂い。秋の香りである。

自傷他害のおそれあり

2006年11月25日 | こころの時代
 狂いと正常、異常と正常の世界を他者に見ることがある。タンザニアから来た女性。日本に来て働きながら日常生活を行なっていたが、ある時から聖書を片手に独り言をいい、ある銀行で大声を出し、自傷他害のおそれから保護され、出入国管理および難民認定法違反で大使館員付添で送還されたことがあった。
 このような状態だと自分の世界の内で他人の声もこころも全て狂いの自分の思考で解釈し更に、第三者には分からない行動、言動に走る。

 インターネット殺人。殺人を依頼されそれを承諾し、殺人を敢行する。家族がおりそれまでは普通に日常生活を営んでいたが、お金に困り、依頼者が死ぬほどに苦しんでいるととの訴えに対し、過去の自分の少年時代の苦しみとダブらせ夢想し救いの手を差し伸べる意志を固め殺人を敢行する。見返りの「報酬は当然だ」と罪悪感は生じない。

 殺人などは戦争、テロも含め、「人として正当な理由はない」と考えるのが善であろう。
 社会制度として死刑判決による刑の執行も社会正義を理由に判断され、いわれなき罪により神代の時代から命を奪われた者もいる。

 個人の善としては、生命の尊厳を理由に許されない行為とされても、集団、社会、国家という組織の中でその論理では生命の尊厳も社会正義として肯定されるが否定もされる。

 原爆使用は究極の悪でありながら善とするのが今の世界、現実である。集団の論理が自己の論理になったとき、善の論理も悪の論理になる。

 人は精神に異常が生ずるように、また狂いが生じるように造られている。
 今という瞬間に、正当性の論理が去来し殺人を敢行する自分があるならばそれは狂いの中にあるのだが、しかしそれを第三者的に見つめる「我」はなく制止する術はない。

 我が愛する者が殺され、それがいわれある死、またいわれなき死であってもその程度もあるが、沸々と憎しみが生じ、報復を希求するようになる。

 また、人は、自傷他害が敢行できるように造られている。
 狂いという異常事態になればそれを選択するように造られている。
 生物学的には、狂い、異常な病原体に対する血液中の白血球の活動に似ている。

 空気を吸い、そこに命がある。その瞬間脅迫もなければ恐れもない。ただそれだけの存在であるが、「そうではあるまい」と人は思考を始め、否定、肯定を始め想いにふける。
 第三者的に、自己を見詰める冷静な己があればどんなにすばらしいことであろうか。

 そして更に、人は、第三者の目を外に求め、そこに「神」「大いなる存在」を観るように造られている。
 それを他の者から知らされるとときとして自己を失う場合がある。
 意識は志向性をもち他を見つめるが、自己は内にあり外に出ることはない。魂が天上から自分を見つめることがあるなどと言われても、私には経験がない。

 教えによって「神」「大いなる存在」を観たら我に帰る。本当の信仰からは狂いや異常は生じない。
 狂いを狂いと感ぜず、異常を異常と感じないときそれは「病」と定義される。
 

逆風にあうと真実がみえてくる

2006年11月23日 | こころの時代
 浅間尋常学校は、11月18日に上々颱風(シャンシャンタイフーン)のコンサートを開催した。白崎映美をはじめ皆さんお元気で活躍されておりなによりでした。

 浅間尋常学校は、浅間温泉神宮寺で行なわれているが、神宮寺は臨済宗のお寺で高橋勇音住職がお亡くなりになってからは、息子の卓治氏が住職をされ多方面に活躍されている。

 新井満さんも時々来られるが、いつも同じ風が吹いている。
 光も風も同じように存在し、同じように人々に注がれ、肌に触れるのに三者三様でそれぞれに感じ方が異なる。

 娑婆とはそんなところで、年齢に関係はない。大人は、年齢とともに受ける身を整えるが、青少年は悲しいかな、「天上天下唯我独尊」とはいかない。だから生きるという修行をしなければならないわけで、行することによって身は整うのであると思う。

 善い師に遭えればいいね。遭えるのも、また行かもしれない。師は父母であり、祖母であり学校の先生かもしれない。

 さて今回のコンサートについて、タウン情報誌に紙上講義録と銘打って女性フリーライター金井奈津子のコメントが掲載されていた。

 争いに傷ついて
 光が見えないなら
 耳を澄ましてくれ
 歌が聞えるよ
 涙も痛みも
 いつか消えていく
(いつでも誰かが)
小学校4年間、私はいじめに遭っていた。だから、この詞が真実だと、必ず違う日が来ると分かる。自分の言葉で語らない、読み上げるだけの文部科学相の「異例のアピール」より、この歌の方が、ずっと力をくれることも
(信濃毎日新聞松本平タウン情報11/23から)

 このようなコメント、前半は「そうなんだ」と思うが、後半になると「世の中は変わらん」と思ってしまう。
 「変わらん」とは禅問答ではないが「イマジン」ではないということだ。このようなコメントからは「イマジン」は生まれない。

 「その人が何を信じるかは問題ではないが、私は善を好む人で、それをみずから積極的に実行する人を信じたい。」旨の言葉が、江戸時代の「田舎荘子」の「孔子さまとお釈迦様の論争」に書かれている。「善」とは何かとは言わない。これは智慧による直観である。 

 念仏に生きた榎本栄一の詩を前回のブログに続いて紹介します。

 風と私
 風向きがよいと
 眼がくらみ
 逆風にあうと
 真実がみえてくる

歳をとるとこのような詩が「ズシン」と響くようになる。

 青少年は、社会(当然家庭を含む)の一員であることを知り、個性を伸ばすことが大事で、比重などはない。厳しさと大切さ、時には個性が抑えられる時がある。でもそれは大人に比べれば微々たるもので、しかしそれを智慧としてもたないと「善」には生きられない。


ひとすじの道

2006年11月18日 | こころの時代

 午前6時まだうす暗い。日に日に寒さが深まり、吐く息はその白さを増す。月をオレンジ色の光が押し上げ、小高い丘に登る頃には空に溶け込んでしまう。

 深志高校の坂道を登りだすと、天文台の遥か上、ブルーにオレンジが溶け込んだ付近に月はまだある。

榎本栄一著 念仏のうた 光明土から

ひとすじの道

  うかうかあるいておれば
 この道 曇り
 ふと われにかえれば
 この道 晴れてくる

聞法読書
    ・・・人間が人間になるために・・・

 師はさりげなく
 自己を語り
 私は迷妄心が照らされる
 冬の日のひととき


心の中で想い描いてみること

2006年11月12日 | こころの時代

 日本よりも小さな島国には、お釈迦様の教えがある。日本よりも古く最もお釈迦様の教えに近い仏教であるとされる。平和な国で、戦争や貧困や、まして人身売買などという非人道的なことはありえない。災害があっても人々は助け合い、富を分かち合う。
 そんな小さな国だからイマジンするまでもない。

 日本には、様ような人々が住んでいる。お釈迦様の教えがこの国にもたらされ、始めは 上層階級の一部のものであったが、その後民衆にその教えが広がった。中には排他的で悪い意味での宗乗づつみに陥り別世界に住む人もいるが、どうにかこうにか今日も一日が暮れていった。しかし、もう少しイマジンが必要だ。

自由訳イマジン ジョンレノン&オノ・ヨーコ 新井 満訳 朝日新聞社

イマジン1

イマジン
イメージすること
心の中で想い描いてみること
そして
現実の向こう側に隠れている
真実の姿を
見きわめること

さて
どこかの誰かが
戦争を始めようとして
演説するかもしれない
立ち上がろう
すばらしい天国が待っている
それを信じて
この苦しみを耐え忍ぼう
とかなんとか

でも
どうだろう
そんな天国が
本当に待っているのだろうか

そんな天国が
本当に待っているのだろうか

またほかの
どこかの誰かが
戦争を続けようとして
おどかすかもしれない
立ち止まるな前進しろ
さもないと
おそろしい地獄が待っているぞ
とかなんとか

でも
どうだろう
そんな地獄が
本当に待っているんだろうか

そんな地獄が
本当に待っているんだろうか

本当に
あるかどうかもわからない
そんな天国に
わくわくさせられたり
そんな地獄に
びくびくさせられたり
そういうことって
ばかばかしいことだとは思わないかい?

なぜなら
ぼくの人生の主人公は
誰でもないぼく自身なんだから
誰からも誘惑されないし
誰からも脅迫されもしない
大切なことは
ぼくがぼく自身の心と頭で判断し
決断すること
そして今を
どう生きるかってこと

だから
イマジン
ぼくは
イメージすることにしたんだ
勇気をだして
愛の力でね
そんな天国もそんな地獄も
ありはしないんだって

そうしたら
心が自由になって
新しい世界が見え始めたんだ
最初はむずかしそうだったけど
意外にかんたんなんだよ

イマジン
さあ
イメージしてごらん
心の中で想い描いてみてごらん
空を
ただ空だけが
ぼくらの頭上に広がっている風景を
どこまでも青く
どこまでも美しく
どこまでも晴れあがった
あの大きな大きな空の下に
ぼくらの世界はある

そして
全ての人々は
過去でもなく
未来でもなく
かけがえのない今日という日を
けなげに
いっしょうけんめいに
生きているんだ

けなげに
いっしょうけんめいに
生きているんだ

 


2006年11月11日 | 哲学
 今日は朝から冷たい小雨降る天気である。穂高の宮城にある自宅に向う。
 午前8時頃仮住まいのアパートを出る。今日は国道147号線を使う。

 奈良井川を過ぎ、梓川を渡り安曇野市に入る。西に見える山々が、紅葉で斑模様の姿で雨の中に薄っすらと浮かぶ。

 中房温泉郷通称山麓線道路脇の木々が紅葉し、濡れた路面に向って落ち葉が舞っている。

 自宅に着く。庭の紅葉も鮮やかではあるが、反面掃除がいきとどかず落ち葉がせっかくの景観を台無しにしている。

 もみじの落ち葉は、苔の上に落ちても絵になるが、その枚数を増すとなぜかこれではいかんという気が起きる。早々に竹箒を取り出し落ち葉をかき集めた。

 温泉郷にあるSHグループの穂高山荘に立ち寄ると、ここのもみじも鮮やかであった。
 小雨の中の紅葉だが、それなりに秋である。

 柳は緑、花は紅

 最初は、紅の色がある。
 そして葉であることを知り、それがもみじの葉であると理解する。 
 葉は、全体が紅ではなく、その葉の濃さが一様ではないことを認識する。
 目の前に見えるその他の事物との対比から、湧き上がる感情がある。

この街とイマジン

2006年11月07日 | こころの時代

 4日の土曜日の午前中にラジオのスイッチを入れると、NHKこころの時代新井満(あらいまん)さんの話が流れていた。
 「この街で」 「ジョンレノンのイマジン」そして「千の風になって」翻訳、作詞にいたるお話で、心が温まる放送でした。

 これまでは、新井さんといえば、「自由訳般若心経」と「千の風になって」の著書で知る程度でしたが、今回のこの番組でその声、歌声等を聞き「こころの自由な人だなあ」という直観的な印象を受けた。

 「この街で」という曲は、ペンクラブ「平和の日」が松山市で昨年3月開催され、新井満さんが松山市の『だからことばの大募集』で市長賞を受賞した、桂綾子さんの「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」という詩に感動し、この詩の観念的な部分をベースに作詞し「平和の日」当日、三宮麻由子さんのピアノ伴奏に新井満さんが歌うという、まさに即興で生まれた曲とのことです。

 この街で生まれ、この街で育ち、
 この街で出会いました、
 あなたとこの街で。
 この街で恋し、この街で結ばれ、
 この街でお母さんになりました、この街で。
 あなたのすぐそばに、いつもわたし。
 わたしのすぐそばに、いつもあなた。
 この街でいつか、おばあちゃんになりたい。
 おじいちゃんになったあなたと、歩いてゆきたい。

 そんな内容の詩が続く曲で新井さんの味のある歌声がその詩にマッチしている。
この詩は、松山市で生まれ曲も松山市で生まれたが、松山市の地名等は出てこない。どこの街でも歌われても自由なのである。

 この曲を聴くと自分の好きな情景が浮かぶ、そこには感情までがついて来る。
 求めるものも捨てるものもない。ただ温かい包まれた感覚だけを受ける。
 人間の求めるのはこれだけで、その他には何もいらない。

 8年前に長野冬季オリンピックで、新井さんがイメージプロデューサーを務めた際にジョンレノンの「Imagine イマジン」を開会式のコンセプトにふさわしい音楽とし選び自由訳を行なった。それは結局他の者から反対され実現することはなかったが、その後トリノ冬季オリンピックの開会式ではジョン・レノン夫人のオノ・ヨーコが平和のメッセージを読み上げピーター・ガブリエルがイマジンを歌った。

 業縁でしょう全てはそこにある。新井満さんは、自由訳の「イマジン」の出版を決断した。オノ・ヨーコは絶対に許諾しないとの声に、縁は完成される。オノ・ヨーコ感謝の言葉を受けるのである。
新井満訳「イマジン」朝日新聞社発行 ジョン・レノン&オノ・ヨーコ作から

 さあ イメージしてごらん
 心の中で想い描いてみてごらん
 もう誰も欲張ったりしない
 もう誰もうばいあったりしない
 だから もう誰も飢えて死んだりしない
 全ての人々は
 ゆずりあいわかちあい
 兄弟姉妹になる
 ひとつの家族になる

 もしかすると君は言うかもしれない
 そんなの夢さ
 現実はもっときびしいんだぞ
 でもね こんなふうに考える人間は
 ぼくひとりだけじゃないんだ
 ほかにもたくさんいるんだよ
 君も仲間になってくれないかな
 そしてどんどん仲間がふえたなら
 いつかきっと
 世界は
 ひとつになる

 新井さんは、放送の中で一つの家庭、一つの街、一つの国と「この街で」のイメージで成り立てば、それでいいのだという旨のことを言っておられた。
 私もそう思う。

 この街のイマジン

 この街に生まれ、この街で育ち、この街で家庭を作り、
 この街でみんなが仲良く暮らす。 
 ただそれだけのことだけ。
 想像してごらん。
 それを作るのは今そこにいる自分がはじめだ。

 宇宙から地球の大地を見ると国境なんかない。
 国さえ存在しない。天国も地獄もない。
 兄弟という仲間が大地に住み、無所有だから欲することもない。
 宗教もない。当然神様もいない。

 本当はそうなんだが、なぜか国境を作り、国家を作り、
 天国、地獄を作り出し、
 仲間はずれをしたり、いじめたり、
 殺し合いをしたり、貪欲に走る。

 そして神さまを創造し助けを求め、宗教を作った。

 自分が今、そこで、
 何を思い何をしようとしているのか、
 それを見つめるだけでいい。
 


過(あやま)ち墜ち行く我が身

2006年11月04日 | 宗教

 山頂に登り峰を見渡す。左片面の霧、雲が右片面に流れ、立ち上がり、立ち昇る。ただそれだけの事実が、眼前に広がる。
 太陽の光は、そのまま注がれ、空気は喧噪の地上とはやや異なるか。

 ルカによる福音書23章34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」のイエスの祈り。後段の「自分が何をしているのか知らないのです。」という一説が最近「ズシン」と心に響く。

 ルカによる福音書のこの祈りを、キリスト教学的な解釈をしようというのではなく、ただ「誤まり行く人々」というか「過ち行く人々」という意味で響くのである。

 過ちは、誰もが犯しやすい。そしてその過ちには軽重がある。
 最近「いじめによる自殺」の話をを多く耳にする。自殺した子の気持ちを考えると、子を持つ親として憤りなどと生易しい感情では済まされないものが、我が心の内に湧き出てくる。

 十数年も前の話になるが、我が娘が小学校に入学する頃に転居することになった。当然娘は友達の全くいない小学校に入学することになった。1週間もしない内に泣いて帰ってくることがあり、理由を聞くと「仲間はずれ」「いじわる」という言葉が返ってきた。

 小中学校の8年間でその後3回転居し娘にとっては全て見知らぬ土地であった。そんな娘も今は大学生になり、都会で一人暮らしをしている。

 娘の性格は、妻は別な見方をするかも知れないが、私は「負けず嫌い」に尽きるとみている。大学受験の共通試験に向けての勉強が嫌いで、日ごろの成績評価のみに努力する娘で、その結果、推薦で私立大学の好きな学部に進学することができる権利を得た。ここで問題なのは年間授業料である。

 親の稼ぎが悪いので、一番好きな学部を諦めニ番目に好きであった学部のある大学に入った。
 一二番があることを最近まで、私は知らなかった。男親というものは、私だけかもしれないが一切教育については、妻任せであった。

 どうも2年後に地元の国立大に進学する予定らしいことを妻から聞いた。今の大学を中退する気持ちはないらしい。好きなようにしてください。
 熱心に生きている娘をみると、最近の「いじめを苦にしての自殺問題」が気にかかる。

 自殺する子、いじめる子、担任教師、校長に「誤まり行く、過り行く人々」を観る。
 「自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉から、今というこの瞬間に、私は、何を考え、何を思いどのような行動しているのか。
 
 私自身のことでありながら知らない人が多い。過(あやま)ち墜ち行く我が身を見つめる目。
  「自灯明」とは、そこにあるような気がする。