毎年安曇野市の北アルプス側の山麓線と国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)に向かう道との交差点に咲く外来危惧種植物のセイタカアワダチソウ(背高泡立草)のある風景について書いてきましたが、今年はご覧のとおりすっかり雑草として刈り取られ、常念岳を背景とした「セイダカアワダチソウのある風景」は見ることができなくなりました。
刈り取られた場所の常念岳側に見える黄色い花が咲く背高の植物の名は分りませんが、どういうわけかそれ一群だけは刈り取られずに残されました。
どう結う過程でこの地に巣づいたセイダカアワダチソウ、結局は危惧種として亡ぼされる定めなのでしょうか。
昨年は、こんな風景だったのですが。
話題を変えます。最近個人的にもまたニュース的にもユダヤの地が話題に出ます。先ほど話題を変えるといいましたが、なぜか危惧種に重なるある思いが湧いてきました。
選民(せんみん)として選ばれし者、その思想ゆえに(せんみん)という場に置かれることになる。
そこには人にあらずの徹底した存在否定が挙行(蛮行)されます。
日本語にすれば「せんみん」という同じ発音で語られる言葉ですが、常に真逆の真実が現れます。
真実とは、そこに位置しない第三者としての言葉ですが、「せんみん」と、見える人びとには体感としての「真実」が示されます。(理解しにくい書き方ですが)
イスラエル軍とイスラム組織ハマスとの戦闘、パレスチナ自治区ガザで行われている真実、そのには子供を含めた死者多数の世界があります。
ある時代、人々はエジプトの奴隷として、ある意味の座にあり、それが垂訓により選ばれし民、選民の座を確信する。その時から「せんみん」の確たる地位を取得したのではないだろうか。
排斥する側は、また排斥する側にその地位を譲る。
受忍などという生やさしいものではなく、災厄の絶頂、ナチスのガス室・収容所、原爆投下の惨事に重なる。
傘下にあるということは、真実はそこに立ち現れる。
ナチスドイツ崩壊後に日本への原爆投下にどのような理由付けが可能なのか。
滅殺することが真実であり、原爆投下がこれ以上の惨事を防ぐ善き手段という真実。
まこと真実の主張は「選民」の主張に似たりです。原理主義も然り、互いの真実の主張がそこにあります。
傘下にあるものはその受忍という、意識せぬ選択の道を歩むことになります。
セイタカアワダチソウの跡地
知っているものだけがそのことを知っています。
人は知ることができるように形成されています。
そこに形成的自覚が備わるのか。
今日もと言った方がよいかも知れませんが、問われるような番組が流れています。
NHK総合「NHKアーカイブス原爆の絵~悲劇が語り継ぐために~」が、午後4時からは「ヒロシマ8.6ドラマかたりべさん」が世のなかに流れ出ています。
見るか否かの選択や、機会があるわけで、偶然というものを想定してもよいかも知れません。
見ることが幸いなのか、否かもわかりませんが「ある」という事実は消えません。他人の意図するものと思えばそうでしょうが、その機会の訪れが「まれびと」と思う人もいるでしょう。
破壊尽くされた街、黒焦げの死体、苦痛にする人々。
世界のあらゆる場所で、今もくり返されている現実の姿です。
一つの言語で、一つの思想で、一つの人生哲学で・・・・。
そのような唯一絶対の思い。想い、それは創造するに至ります。
「神は自分よりも自分に近い」
前半の自分と後半の自分は、同一の自分ですがまた異なる自分でもあります。審級する自分でもあり、止揚された自分でもあり、自己否定から生ずる自己形成の自覚で垣間見る世界です。
私の「思考の部屋」ブログにコメントを寄せてくれている「阿頼耶様」URLの希望に対してその誠意は伝わっていませんが、その情熱的な連打のコメント書き込みに公開しました。
個人的に私自身は他者から見ると文才も無く、固定した唯一絶対を主張し、継承する書き方をしていません。
一つには聞く耳を持ちたい。
という姿勢を持っているからです。阿頼耶さんのコメントはの最後は、
「真善美を有して君の成せないことは無いか?」
とあり、私への問いなのでしょうか。
古典的なギリシャ哲学における真善美、それを唐木田順三さんの著書に「うつくし」に統一されるのではということを以前書いたことがあります。
「美しく生きたい」
とその時か来ました。
ルイ・アームストロングの有名な曲に「What a Wonderful World」があります。この世の美しさを語る歌です。第二次世界大戦の時に多くの兵士の前でこの歌をルイ・アームストロングは唄いました。
「生きているって素晴らしい」
そのためには平和を、早急の平和実現を望む者は多かったに違いありません。
I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world
I see skies of blue and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world
The colors of the rainbow, so pretty in the sky
・・・
・・・目に写る真っ白な青空・・・・
そこに光と闇を誰が創造したでしょう。
創りし者、造りし者は、その選択を、安易な選択ではなく、苦渋の選択とする。
この苦渋の選択のにジャスティス(justice)を置くのが昨今。
「真善美を有して君の成せないことは無いか?」
に応えるならば、「苦渋の選択」に身を置かないこと、そのような選択をする組織体の配下、傘下に入らないことぐらいでしょうか。それが全体主義の国家になっても、そうでなくとも、・・・しかしその時は「せんみん」になることを自覚しなければなりませんが・・・・。
「成せないこと」
生きるって素晴らしいことですが、また心から思うのですが、それはまた難いことです。
その狭間に常に人はあり、私もいるということです。従って、
「成せないことは無いか?」
ではなく、そういう言うことを言いたくなることもある、と言いておくしかありません。
問われることの難しさは、問われる側の形成的自覚でもあると思います。