思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

問われることの難しさ

2014年08月03日 | 哲学

 毎年安曇野市の北アルプス側の山麓線と国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)に向かう道との交差点に咲く外来危惧種植物のセイタカアワダチソウ(背高泡立草)のある風景について書いてきましたが、今年はご覧のとおりすっかり雑草として刈り取られ、常念岳を背景とした「セイダカアワダチソウのある風景」は見ることができなくなりました。

 刈り取られた場所の常念岳側に見える黄色い花が咲く背高の植物の名は分りませんが、どういうわけかそれ一群だけは刈り取られずに残されました。

 どう結う過程でこの地に巣づいたセイダカアワダチソウ、結局は危惧種として亡ぼされる定めなのでしょうか。

 昨年は、こんな風景だったのですが。



話題を変えます。最近個人的にもまたニュース的にもユダヤの地が話題に出ます。先ほど話題を変えるといいましたが、なぜか危惧種に重なるある思いが湧いてきました。

 選民(せんみん)として選ばれし者、その思想ゆえに(せんみん)という場に置かれることになる。

 そこには人にあらずの徹底した存在否定が挙行(蛮行)されます。

 日本語にすれば「せんみん」という同じ発音で語られる言葉ですが、常に真逆の真実が現れます。

 真実とは、そこに位置しない第三者としての言葉ですが、「せんみん」と、見える人びとには体感としての「真実」が示されます。(理解しにくい書き方ですが)

 イスラエル軍とイスラム組織ハマスとの戦闘、パレスチナ自治区ガザで行われている真実、そのには子供を含めた死者多数の世界があります。

 ある時代、人々はエジプトの奴隷として、ある意味の座にあり、それが垂訓により選ばれし民、選民の座を確信する。その時から「せんみん」の確たる地位を取得したのではないだろうか。

 排斥する側は、また排斥する側にその地位を譲る。

 受忍などという生やさしいものではなく、災厄の絶頂、ナチスのガス室・収容所、原爆投下の惨事に重なる。

 傘下にあるということは、真実はそこに立ち現れる。

 ナチスドイツ崩壊後に日本への原爆投下にどのような理由付けが可能なのか。

 滅殺することが真実であり、原爆投下がこれ以上の惨事を防ぐ善き手段という真実。

 まこと真実の主張は「選民」の主張に似たりです。原理主義も然り、互いの真実の主張がそこにあります。

 傘下にあるものはその受忍という、意識せぬ選択の道を歩むことになります。

 セイタカアワダチソウの跡地

 知っているものだけがそのことを知っています。

 人は知ることができるように形成されています。

 そこに形成的自覚が備わるのか。

今日もと言った方がよいかも知れませんが、問われるような番組が流れています。

 NHK総合「NHKアーカイブス原爆の絵~悲劇が語り継ぐために~」が、午後4時からは「ヒロシマ8.6ドラマかたりべさん」が世のなかに流れ出ています。

 見るか否かの選択や、機会があるわけで、偶然というものを想定してもよいかも知れません。

 見ることが幸いなのか、否かもわかりませんが「ある」という事実は消えません。他人の意図するものと思えばそうでしょうが、その機会の訪れが「まれびと」と思う人もいるでしょう。

 破壊尽くされた街、黒焦げの死体、苦痛にする人々。

 世界のあらゆる場所で、今もくり返されている現実の姿です。

一つの言語で、一つの思想で、一つの人生哲学で・・・・。

そのような唯一絶対の思い。想い、それは創造するに至ります。

「神は自分よりも自分に近い」

 前半の自分と後半の自分は、同一の自分ですがまた異なる自分でもあります。審級する自分でもあり、止揚された自分でもあり、自己否定から生ずる自己形成の自覚で垣間見る世界です。

 私の「思考の部屋」ブログにコメントを寄せてくれている「阿頼耶様」URLの希望に対してその誠意は伝わっていませんが、その情熱的な連打のコメント書き込みに公開しました。

 個人的に私自身は他者から見ると文才も無く、固定した唯一絶対を主張し、継承する書き方をしていません。

 一つには聞く耳を持ちたい。

という姿勢を持っているからです。阿頼耶さんのコメントはの最後は、

「真善美を有して君の成せないことは無いか?」

とあり、私への問いなのでしょうか。

古典的なギリシャ哲学における真善美、それを唐木田順三さんの著書に「うつくし」に統一されるのではということを以前書いたことがあります。

「美しく生きたい」

とその時か来ました。

 ルイ・アームストロングの有名な曲に「What a Wonderful World」があります。この世の美しさを語る歌です。第二次世界大戦の時に多くの兵士の前でこの歌をルイ・アームストロングは唄いました。

「生きているって素晴らしい」

そのためには平和を、早急の平和実現を望む者は多かったに違いありません。

 I see trees of green, red roses too
 I see them bloom for me and you
 And I think to myself, what a wonderful world
 I see skies of blue and clouds of white
 The bright blessed day, the dark sacred night
 And I think to myself, what a wonderful world
 The colors of the rainbow, so pretty in the sky
・・・

・・・目に写る真っ白な青空・・・・

そこに光と闇を誰が創造したでしょう。

創りし者、造りし者は、その選択を、安易な選択ではなく、苦渋の選択とする。

この苦渋の選択のにジャスティス(justice)を置くのが昨今。

「真善美を有して君の成せないことは無いか?」

に応えるならば、「苦渋の選択」に身を置かないこと、そのような選択をする組織体の配下、傘下に入らないことぐらいでしょうか。それが全体主義の国家になっても、そうでなくとも、・・・しかしその時は「せんみん」になることを自覚しなければなりませんが・・・・。

「成せないこと」

生きるって素晴らしいことですが、また心から思うのですが、それはまた難いことです。

その狭間に常に人はあり、私もいるということです。従って、

「成せないことは無いか?」

ではなく、そういう言うことを言いたくなることもある、と言いておくしかありません。

問われることの難しさは、問われる側の形成的自覚でもあると思います。


祭りに見る神がかり

2014年08月03日 | 民俗学

 昨年の1月ごろから放送されていたNHK「日本人は何を考えてきたのか」シリーズ(明治・大正・昭和)編の昭和編の「大本教 民衆は何を求めてきたか~出口なお・王仁三郎~」が最近深夜に放送されていました。

 現在「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか」という番組が放送されていますが、そのシリーズの前シリーズということになりますが、機会を失していた学びの人には参考になるかもしれません。

 明治維新の混迷した時代の中で生まれた神憑り信仰が、その後の国策の国家神道の意に沿うものか否かが、一つの宗教団体のその後の存命にかかるのですが今現在その団体は存在しその歴史が語られ、その中に民衆の「何ものかの求め」の心底を見ようとする内容となっています。

「二度目の世の立替」

 人に「二度生まれ」を見ようとする心の叫びを観ていると、さらなる上位と言おうか審級とでも言うのであろうか、時々の時代にはあるものなろうか、記紀の物語に「二度目の世の立替」の気づきの発想を得、それが神憑りという手段で一人の老婆が語る、そんな二度生まれの思考が見えます。

「立て直し」

 末法という窮する苦悩の中で、今冬とした混迷の時代、混迷にその色濃さがあるかわかりませんが、今の世も人の動きの中に相似の世界があります。「何を考えてきたのか」にそのような意があるのかもしれません。

 昨夜は松本市内で「松本ぼんぼん」という踊りのイベントが開催されました。踊る側、観る側・・・いろいろな人びとがいます。大人から子ともまでが踊りに参加し、それをまた外周から観る者。さまざまな人びとがおり、行いがそこに一つの軌跡を残します。

 軌跡と呼ぶべきか、足跡と呼んだ方がよいのか。

 半そでから紋々を見せた酔っ払い、ケンカ。

 駅前にい集する若者の遺す、酒の空き缶、ゴミ袋。

 年ごとに徐々に人々は年齢を重ねせ世代交代をして行くのですが、納涼期によくおこなわれるこのようなイベント、祭りは気祓(きはら)う、弱った気を取り戻す為に、祓(はら)う行事なのだと民俗学的な見地から思うのですが、今はまさに「気晴らし」の場と化しているようです。

 JR松本駅お城口の広場に独りの男性が深夜の0時ころ、まき散らされたそのゴミを隅の方にまとめ始めました。当然私も参加したのですが、警察官の方々も参加し、残酒の缶、つぶれた空き缶、つまみの入った袋、空き袋・・・。

 割れ窓理論ではありませんが、汚れた場所は心を汚します。

 松本市は進歩的な都市、人思いの政治団体や民間の団体も多いと聞いていますが、祭りの後の汚れさを観ると、末路を人は観てしまいます。

 ここで言う末路を観る「人」は、13世紀の神秘学者マイスター・エックハルトの「神は自分よりも自分に近い」の「自分=人」であって、決して私のことではありません。

 神憑りで人の行く末を観る人もいますが、夏目漱石の自己本位を思い出し、自分の人生を主体的におくれる人、期待されている存在として、日々に問われていることを知ると、主体的に人生を歩みしかありません。

 その場所、その時において、その情景の外周には、似た様な若者のアスファルトに座り大声で騒ぎ、飲み食いしている姿がありました。私は帰宅しましたが、その後は、申し訳ありませんが知りません。

 祭りもの踊りも、酔っぱらいの喧騒もまるで・・・憑り・・・です。

 善し悪しもあるわけではなく、ただただ「より自分に近いもの」見つけて欲しいものです。