思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

分化とオノマトペ

2017年01月23日 | ことば
 今朝も雪が舞っている。ヒラヒラ、シンシン・・・どちらかというとヒラヒラだろうか、大雪警報が出ている地域とは違い予報通り大した雪にはならないようである。
 ヒラヒラという表現、雪の降るのを見て、擬音語でその程度を表現した。擬音語、擬態語はオノマトペとも言うがこの言葉は日本語特有のものではなく、お隣の韓国にも日本語比較すれば少ないがある。
 先々週の日曜日のEテレNHK短歌に韓国の女優さんのカン・アンナさんがゲストに招かれてオノマトペの短歌が紹介されていた。カン・アンナさんは日本の短歌界でも有名でその作品の評価は高い。
この回のポイントは、
「擬態語をとりいえるとアクセントが効いたおもしろい短歌になる」
例題の短歌が紹介されて擬態語で表現された「もの」を当てるというものであった。
第一問目が河野裕子さんという方の作品で、
 夜はわたし
 ○〇のようだよ
 胴がぬーと
 温(ぬく)いよぬーと
 沼のようだよ
「ぬーと」という擬態語には「ぬめぬめした水気のようなものを感じるのではないか」
司会の元宝塚女優の劒(つるぎ)さんは「葛(くず)」
 ゼリーのような感覚を得たので
 葛もちのような・・・
おいう感覚から「葛(くず)」をイメージしたという。
ゲストのカンさんは、
 沼というところで沼にいる生きものではないかと思い
 「ぬーと」という言葉には小さくて、小さくて小刻みにからだを震わせる生きもので、小さく震えている感じ
から「メダカ」をイメージしたとのこと。
番組アシスタントの日本人タレントのエリカさんは、
 手足がない感じが布団に入って沈んでいく感じを想像して
「おたまじゃくし」と答えた。
このように三人三様で、「ぬーと」という擬態語から、物と生きものを想像したが、正解は「鯉」でした。
 「ぬーと」という音のくり返しに夜の時間の怪しさ暗さみたいなものが出ている歌ではないかという解説。
そして二首目の第二問は、池田あるみさんの作品で
 この春は
 にろりんといふ
 ものが棲み
 にろりんといふは
 ○○○○
「にろりん」から想像されるもの何かという問題で、「にろりん」はオノマトペでもありながら言葉遊びの一種と考えてという補足がなされた。
 
 劒さんは「睡魔と言う子」とし「春眠暁を覚えず」・・・・
 カンさんは「黄色なチョウチョウ」と答え「にろりん」と言葉には蝶の羽ばたきを感じさわやかな黄色の蝶をイメージしたと語った。 
 「蛙のぴょこりん」
 春であることと「にろりん」という音をイメージして「蛙」を考えたということで、劒さんはこの答えに「ときめいた」とはなした。
 正解は、「二浪の息子」で「にろりん」という何とも言えない軽やかな響きが、これは一浪ではなくて二浪とい話。オノマトペと言葉の語呂合わせたものである。
 
カンさんの「蝶」という話には驚く、まったく私には想像できない。しかし日本語の理解も高いカンさんには「蝶々」がイメージされるのである。
 韓国のオノマトペを歌に取り入れたら面白い
 音が違ったりする。音から感じるイメージが日本と韓国では異なる。
 劒さんがカンさんが「にろりん」という言葉に蝶々が飛ぶを感じるという話に日本では蝶々の飛ぶ姿は「ひらひら」を想う、という話をされたが私も然り、言葉の音韻から感覚的に何ものかをイメージさせるもの、その違いの出処に非常に興味を持った。
 感覚、感情
言語圏が異なると世界観にも相異が生じるのか、同じ人間であるが文化の違いという話にも通じるところがあるのだろうか、雪の舞い落ちるのを見てふとそのように思った。

意識という不思議の思う

2017年01月11日 | 哲学
 「意思という概念は、哲学の真のプロメテウスのように思われる。それは哲学のさまざまな問題圏にあらわれるが、どれひとつとして同じ姿を示さない。」(エントス・カッシーラ)
 
という言葉があるように意識という概念は一義的に定義できないものである(『哲学キーワード事典』木田元編・SHINSHOKAN)。

 日ごろ自分自身が使用するこの「意識」という言葉を考える。今現在感覚の焦点を感ずるそのもの、その行為を確認できるそのもの、先週の日曜日のEテレ、近藤紘子さんの「こころの時代”~宗教・人生~「人から人へ」”」を見ながらふとこの番組を見続け心動かす自分に気がつく。

 「定義できないもの」というその意味、活かされ生きる自分のその「活き」に「意識」の働きを見つめる。

 意識はあるかないか。

となると生死の境界判断、意識不明の植物状態を想起し、

 自意識過剰

などといわれると心理学的な人格の現れを指摘されているように思う。さらに

 意識ある状態での行為か、無意識状態での行為か。

と言われると夢遊病的な徘徊などが思い出され、「意識をしっかりもて」とピンタを受けそうである。

 鉄腕アトムのようなAIができたとして会話を交わせば意識あるものとして、人間のように感じられるだろうし、エネルギーが切れ、動作しなくなれば死んだではなく、「切れた(OFF)」だと思うだろう。

 意識という言葉は、人間らしさや生命体の終息の範疇の中にあり、「こころの時代」の「こころ(心)」という言葉とともにある程度の眺望をもってイメージ化の内に使われる言葉のように思う。

 先のキーワード事典によれば、

「一般的には意識とは、感覚、想起、思考などの心的作用とそれが心に引き起こす内的状態について知る働きを言う。」

 意識状態に今あることは確かで指先のキーボードを打つ行為とともに意識は事実として現れ、現れてくる。

 「少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。すでに意識現象の範囲を脱せぬ思惟の作用に、経験以上の実在を直覚する神秘的能力なきは言うまでもなく、これらの仮定は、つまり思惟が直接経験の事実を系統的に組織するために起こった抽象的概念である。」

これは『善の研究』第二編「実在」第二章「意識現象が唯一の実在である」の冒頭の言葉である。

 意識現象とは今ここにいて、物事の認識、なそうとする行為、行動の主体となっている私がいることで、私はそこにいるに思考の焦点を移行させれば、「我思うゆえに我はいる」という話になる。

 直接経験に現れている我

 行動主体である我

 「意識する私」は、行為、行動の善きを選び出している、知識経験から善かろうとの選択である。

 昨年の交通事故統計を見ると「高齢者」が関係する事故が多く高齢者人口の増加とともに増すばかりである。

 操作ミス、信号機、標識等の見落とし・・・原因はそのように語られる。

 「思い込み」という言葉も語られる。

 「そうだと思った」

 「ブレーキを踏んでいる」と思ったらアクセルを踏んでいた。

 「信号は青だった」と判断したらドライブレコーダーを見たところ疑いの余地がない青信号であった。

 「高速道路の走行方向に誤りはないと思った。」が、逆走していた。

 意識というものが善きを確定させる現在認識なのかと思うと、他者から見ればトンデモナイ誤り事態になっているわけで、中には自己判断の誤りを指摘されてもかたくなに認めない者も多いという話を聞く。

 「こころの時代~宗教・人生~”~宗教・人生~「人から人へ」”」に話を戻すが、
 番組紹介のサイトには、

 近藤紘子さんは、原爆体験と平和への願いを語り続けてきた。生後8か月の時に広島で被爆、父は被爆者救済に力を尽くした牧師だった。幼い頃から見届けてきたものとは。
近藤さんが育ったのは、爆心地から800メートルのところにあった広島流川教会。父・谷本清牧師は被爆者の救済と平和運動に生涯を捧げた人だった。近藤さんは10歳の時、原爆を落としたエノラゲイの操縦士と出会い、それまでの憎しみの思いが変えられていく。原爆という逃れられない運命を背負いながら、一人一人と出会い、伝えられた言葉を糧に生きてきた近藤さん。思いが人から人へと伝えられることの重さとは。

と番組から個々が感じ取られる問いかけで綴られている。

 戦争というものは敵味方に関係なく晴れやかな穏やかな日常ではない。戻れない、取り返しの効かない事実しか生み出さない。

 事実が成っているのは意識の産物ならば、悲劇の現れは、誰の意識の善き図らいから生み出されたのだろうか。

 政治家が悪い、教育が悪いなどという理由を付けたところで事実は変わらない。

 誰を問わず意識活動はそこにあったわけで、実在という顕現は図らいの意識がそこにあったということだ。今現在において、その図らいに「善悪」を重ねるたところでどのような意味が現れるであろうか。

 過去にさかのぼって原因を探し出そうとしても、そこには善き図らい生み出した自分しかいない。前衛的な人々が投獄され獄死したところで、悲劇は現れる。

 「充分なる約束即ち原因が具備した時は必ず或る現象即ち結果が生ずるということである。約束がまだ完備しない時はこれに伴うべき或る現象即ち結果なるものはどこにもない。」(『善の研究』(岩波文庫・2012版p76)

 意識による図らい、意図するところの私の今現在。来たらざる未来は悲劇と結論付けたところで、すべては今現在の意識する意図から始まる。

 全体の悲劇なのか、個人的な悲劇なのか。結果回避の意識は個々に生まれ出でるもので歴史的事実が示すように集合体や組織体には確たる意識は生まれない。

 個々の今現在の意識ある一挙手一投足が確たる現在を生み出し続ける。

 西田先生は「充分なる約束」という言葉を使う。

 今現在は「充分な約束」の現れである。意識はその充分性の生成に関わるものである。

 結果回避の可能性

 どこまでも「可能性」においての議論である。

 赤信号であるならば、今現在のその場所に留まるしかない。「可能性」を説いたところで「信号無視」の充分性が充足されるならば今現在に現れていなければならないが、人間というものは直に遭遇しない限り、可能性には惑わされず善き図らいの意識に邁進する。

 「問われていること」にそれぞれは応答することができる。意識とはそのような今現在にある我に気づいていることである。

 兎も角、「意識」というものは「問い」を発している。