思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

春を感じているわたし

2007年03月11日 | 哲学

 白鳥達は例年よりも早く北帰行を完了し、安曇野の有明山裾野に春のおと(音)づれを見る。黄緑色のフキノトウが田の畔に、土手にと多く見られるようになった(写真参照)。
 
 確か「どこかで春が」という題名の童謡だと思うが、その中に芽吹きの音が聞こえるという詩が出てくる。三寒四温をくり返し、春は確実に来ている。

 フキノトウは、天ぷらも良いがやはりフキ味噌が一番である。味は平地よりも山間地のものの方が濃く、美味しい。

 朝日新聞社から出版されている「仏音」という書籍がある。作者は高瀬広居氏で昭和・平成の10名の名僧を巡歴し、その語る仏法の声音(仏音)が綴られている。

 この書籍は、サイマル出版会から1996年に「現代の名僧が語る 生きる喜び」と題して出版されたものだが、その後に遷化された方もおり、名僧10名は変わらずその一部を訂正し出版されたものである。

 仏心とは自己なり 内山興正(曹洞宗)
 道心のなかに衣食あり 葉上照澄(天台宗)
 只の人となれ 中川宋淵(臨済宗)
 小さな我を打ち破れ 塚本善隆(浄土宗)
 現世穢土こそ寂光浄土 久保田正文(日蓮宗)
 自然への慈しみをもて 山本秀順(真言宗)
 食えなんだら食うな 橋本凝胤(法相宗)
 花はみて笑う 山田無文(臨済宗)
 心の世界をみつめよ 大西良慶(法相宗)
 中道・この世にあるものひとりならず 友松圓諦

の10名である。
 この書籍の一人目の内山興正師家は、その中で

 道元禅師の”仏道をならふといふは自己をならふなり”という教えは、真実の自己を求めた私に私にぴったりでした。ルソーの自然にかえれといって私を目覚めさしてくれた。禅師は、”自己をならふは自己をわするるなり 自己をわするるといふは万法に証せらるるなり 万法に証せらるるというは自己の身心および他己(客体としての自己)の身心を脱落せしむるなり”と自分が自然、宇宙、万法と一体化するところに真実の自己を見出す道のあることを示してくださった。
 と同時に、禅師は、自分だけで道を究めようとするのは天然解道、師につかぬは天然外道と「自証三昧」で戒められている。私は沢木老師とのめぐりあいによって、その師を得たのです。道元禅師が師を求めてさまよい、ついに唐から天竺までも出かけようとし、やっとの思いで天童如浄という師とめぐりあったのと同じです。

と、正法眼蔵の現成公案の有名な一節について述べている。

 サイマル出版会版には、「他己(客体としての自己)」とは書かれておらず、「佗己」とのみ書かれている。聞き手である高瀬氏の注釈であろうか。

 わたしたちが自分の存在にかたちを与えていく過程において、まず「わたしはだれか」が基点になる。そこにはまだ主客の分節はその段階にない。
 
 鷲田清一氏の「じぶん・この不思議な存在 講談社現代新書 P49」に

 わたしはだれかという問いは、わたしはだれを<非-わたし>として差異化<=差別>することによってわたしでありえているのか、という問いと一体をなしている。わたしもあなたも同じ「人間」であるという言いかたは、<わたし>が一定の差別(逆差別も含めて)のうえにはじめてなりたつ存在にすぎないことをかえって覆い隠してしまうおそれがある。

という一節、難解な文である。

 他とのさまざまな関わりのなかで成立している自己。自己のうちに描き出される他(客体)の姿。自他不二を得るならば他の痛みも「自己の痛み」と大悲になろうが、これ以前に、「問うわたし」に気づく「わたしがいる」。
           


見えて観えない物差し

2007年03月06日 | つれづれ記
 今日は、精神に障害がある者と半日行動をともにする。多弁である。過去を振り返り、また来たらざる未来をあれこれと考えていた。
 取り返しのつかないこと、いまの立場では実現不可能なことをどうしても言いたいのである。こちらは聞き役に徹する。

 中央道を山梨に入り富士山を見る。「山は優しい」とその者が言う。そのように感じるという。これからいくところの水は「軟水ですか、硬水ですか」と聞くので、「軟水だよ」と答えると「その水でコーヒーが飲みたい」という。

 自分の物差しで、全てを計る生活をしてきた者である。人のものさしは「人それぞれに長さも、メモリの幅も違うよ」と話すと「私の友だちもそう言っていました」「その友だちは、すごく本が好きでいろんな事を知っていた。お父さんが自殺し、すごく苦労したらしい。動物が好きでよく犬や猫を拾って育てていた。」と答えた。 この友達というのも精神に障害をもつものである。

 本当は、物差しなどないのに「ある」とするからあれやこれやと考える。妄念の境をこしらえる。妄念のメモリをつけ世の理を計ってみる。長さが違うと苦悩する。自分の物差しを自分の物差しでないと否定してみると本当の自分の物差しが観えてくる。見えて観えない物差しが。

 答えていう。妄念を認識の根底にもつ凡夫が、妄念がありつつも真如に随順し、真如に随順することによって逆に妄念を滅して真如に証入するためには、次の方法がある。すなわち凡夫は一切法を説く時、妄念に基づいているから、説く自己という主観(能説)と、所説の一切法という対象(可説)を自覚しているが、しかしこの能説と可説とは本来はないのだと考え、また一切法を心に思い浮かべながらも、思い浮かべる自己という能念と思い浮べられる可念の一切法は、本来はあるべきでないと考え、このことをくり返し修行し、その真相を知るに至れば、たといまだ妄念はあるにしても、それは真如にかなった状態であり、これを「随順」と呼んでよい。そしてこの修行によって、妄念が全くなくなってしまえば、主客の分裂は解消し、あるがままの認識の世界(佛陀の認識界)が開かれるのであり、これを真如に証入した「得入」の段階であるといってよい。前者は方便観であり、後者は正観である。このように「起信論」の教理を修行すれば、妄念がありながらも、次第にそれを滅する方法があるのである。 (大乗起信論 平川彰著 大蔵出版 P79から)
                                 

「わかる」ということ

2007年03月01日 | 哲学

  「自己をはこびて万法を修するを迷いとなす。万法がすすみて自己を修証するは悟りなり」道元さんの正法眼蔵の現成公案の一節だが、この文章について、「わかる」という人間の心理について、山鳥重先生はその著(ちくま新書 「わかる」とはどういうことか)でつぎのよう述べている。

 文法的には特に難しい日本語ではないのですが、よくわかりません。これをわかるためいには自己、運ぶ、万法、修証、迷、すすむ、悟りという言葉を調べて、その意味を知らなければなりません。でも、これらの言葉の意味を知ってみても、よくわかりません。同じ日本語でもわかる文章とわからない文章があるのです。意味がとれない時。われわれはどうするのでしょうか。

 何度も何度も読み返します。「自己をはこびて万法を修するを迷いとなす。万法がすすみて自己を修証するは悟りなり」と、また読むわけです。
 なんだかわかったような気がします。でもよくわかりません。もう一度読んでみます。「自己をはこびて万法を修するを迷いとなす。万法がすすみて自己を修証するは悟りなり」。やっぱりわかりません。頭に持ち込んだバラバラの概念はバラバラのままで、ひとつにまとまらないのです。これは古い日本語だからわからないのかもしれません。現代文に翻訳すればわかるでしょうか。現代語訳にはこう書いてあります。

 「自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真相を明らかにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明らかになるのが悟りである」。これあh禅文化学院というところの人たちの説明です。少しわかったでしょうか。筆者にはやっぱりわかりません。ものごとの真実が自然に明らかになる、というところがよくわかりません。これではわかるまい、と思われたのか、さらに要約というのがついています。

 「要約。自己をむなしくして客観を生かすことによって、真実が明らかになる」。ますますわかりません。わからないときはもう一度、ついつい読んでしまいます。「自己をはこびて万法を修するを迷いとなす。万法がすすみて自己を修証するは悟りなり」。やっぱりよくわかりませ。自己をむなしくする、とはどういうことなのでしょう。客観を生かす、とはどういうことなのでしょう。真実が明らかになる、の真実とは何なのでしょう。わかる人にはわかるのでしょうが、わからない人にはちんぷんかんぷんです。二段構えの現代文の説明でも、よくわかりません。客観というのは自分より外の現象です。その現象の中に真実がある、と言うのでしょうか。それなら科学です。科学者は悟れるのでしょうか?よくわかりません。

と書かれ、さらに次のように述べている。

 この文がわかる人は多分、悟ったことのある禅家、あるいは悟りたいと日々行を続けている禅家の人たちでしょう。道元のこの文をなぞることで、その言語表現が自己の体験をうまく表現してくれている、と感じられる人たちです。このような人たちはこの文が自己の経験に置き換えられ、その通りだ、とわかるのです。わからない場合は心像はひとつにまとまってくれません。・・・・中略・・・わかるためには、その背景になる経験が必要です。・・・・中略・・・・わかる、とは自分のものにすることです。長々と文に表現されているものが自分の概念(心像)としてひとつのイメージにまとめられることです。そうなると、今度はそのわかったことを自分の言葉で表わすことが出来ます。・・・・悟りの本質を書いた道元さんも、自分の持っている概念(心像)を、相手に伝わるような言葉に解きほぐしてくれているのです。

 長い引用となった。道元さんのこの現成公案ではその後に続く「他己(佗己)」が「わからない」ので解きほぐすために努力をしている最中である。
 禅家の人たちにはなんでもないことだが、素人には「わからず」の状態である。しかし自分なりに「こうかもしれない」という心像があり、いつか表現したいと思っている。

 「わからない」という文では、西田幾多郎先生の論文ほど「わからない状態」が続くものはこれまでの人生にない。
 上田閑照、小坂国継、中村雄二郎、木村敏、末木剛博等の諸先生方の著作を毎日毎日コツコツ読んで、自分の心像を作っている。

 述語の論理、絶対矛盾的自己同一、行為的直観、絶対無の場所・自覚等々きりがなく、知悉したいことが山積みである。そもそも西田哲学にのめり込んだのは尊敬する曹洞宗の先生(ブログ)が、時々「西田幾多郎」の言葉を引用するので、「わかろう」と心が動かされ、その時に偶然とは恐ろしいことで、厚い西田幾多郎全集(岩波書店)が安く簡単に入手できてしまった。

 陽炎のオアシスを追うようなもので追いつくことはない。が世の中は、また不思議なもので行為的直観というか別に働きかけているわけでもないのだが、耳を澄ますと聞えてくるような気がする。

 「物来って我を照らす」これを「東洋的無心の論理」というらしい。