思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

今日の音づれ 何と聞くらむ

2014年02月28日 | 思考探究

 徒然なるままに自分が自分のただ中の内なる衝動のままに書き続けるブログ、今朝も早々に思考の世界に舞う。

 ブログを書き続ける。まさに連続的な日記ではありませんが、その時々の目にし耳にし今ある思いを、考えを書き続ける、自分。

 実存的苦悩のうちにあるわけではありませんが、書きたくなる欲求は、今ある私を書きたい衝動で、不思議に毎日、大河の根元の、泉の根元の、コンコンと湧き出す底知れぬ奥深いところから来ます。

 最近仏教学者で比較文化思想に生きた故中村元先生の数多く出されている講義のCDを聴き続け、先生の生立ちから晩年に至るまでの言葉の記録に自ずからそうなっていく世の深淵さを感じます。

 人それぞれに平等に底知れぬ源を持ってはいるのですが、明らかに現れる、自分を自分する心は傍目には異なりまし、残されるものも異なります。

 生命の不思議です。

 人はなぜそれぞれに異なるのか。多様性などは今あるを表わすだけで、底知れぬ深淵の源を記してはいません。なぜ多様なのか。

 イヌはイヌであって、その類を滅亡に導く行動は絶対にありえない。

 自然の一部である動物の中で滅亡に導く行動に走ることができるのは、葦の如くに弱き人間だけです。

 精神性にある者だけが生き残れるかというとそうではなく、生命の危機意識に生きる人々だけが生き残れるかというとそうでもありません。

 3月11日が間もなくおとずれます。

 大いなる意味の問いの中で生かされているただ中で、

・自己の自己に対する関係をどう捉えるかという認識論的問題

・生命を時間の中にある仕方で展開される持続として捉えることから発生する存在論的問題

・可視的文字記号によっていかに不可視の関係と持続を表現するかという方法論的問題

という言葉に教えられました。

 私は今のままに書き続ける。

 徒然なるままに、まさに私は底知れぬ深淵の源からそうならざるを得ない私にあります。

 吉田松陰先生は、わが身の最後に「おとずれる」を「音」で表現しました。今まさにある場を立場の招きを「訪れ」ではなく「音づれ」と。

 処刑場に連れていくために近づく、獄の彼方から聞こえる官吏の足音かと思うとそうでもない。

 現象を見聞きす。

 そこには確かに音があります。喧騒の騒めきも然り、音も啓示なのかもしれません。

 光あり音があり。そして闇と混沌とが物語られる。

 そこには流れの底知れぬ深淵の源がある。

 それを認めることができるのは人間になろうとするものだけなのだろうか。

 人間が人間になるために。

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打たれた傷によって・二度とない人生だから

2014年02月26日 | 思考探究

<逮捕監禁容疑>26歳父逮捕 犬の首輪で3歳児拘束 徳島

 今朝のサイトニュースに、上記の見出しの記事を見ました。食事の際に「食べ散らかす」との理由から、首輪を付けたとのこと、被疑者の自宅を訪れた友人が発見し、警察の届けたようです。

 発見者の友人は驚いたでしょうね。

 現代社会は何でも「ビョウキ」にしたがると語る他者ブログを読んで出しかにその通りで、この被疑者も何らかの病名が付けられるのでしょう。

 普通ではない。

 異常と正常。

 人は科学的な、論理的な理由付けがないとその創造力で物語を創り、納得する。

 神を冒涜する人間に対する罰。

 あり余る神の力による厄。

 水辺で遊ぶ3人娘の内の一人がワニに食べられてしまった。ワニはその娘が好きであったに違いない。そんな物語を創る。未開の地の現住民族の神話の世界を研究したユングは、人類共通の普遍的無意識の世界を展開させました。

「犬の首輪で3歳児拘束」

 昨日は、歩行者13名に重軽傷を負わせた30歳の男のニュースを話題にしましたが、異常さにおいては全く同じ範型に属する人々に思えます。

 「いま彼らは自分が何をしているか知らないのですから」

 神の子を手に掛けたユダヤの民、ギリシャ人。

 イエスは父なる神に許しを請う。

「自分が何をしているか知らないのですから」

 モーゼは山上から下り、偶像崇拝する仲間に絶望し・・・災害が偶像崇拝者を呑み込みますが・・・死の鉄槌を与える。

 新約の世界では、イエスの死が人々への鉄槌として与えられ、打たれた傷によって、新しき神の信仰が始まった。

 ある意味、亡びの実際を見ないでは、人々は救われない。

 一民族の信仰が、新約の世界から万人への救済の信仰へと変化して行く。

 目覚めるべきは個人ではなく万民である。

 個別の狂いが、万民の狂いに見えるのではないか。

「打たれた傷によって」ては、旧約の世界で予言されている。

 
旧約聖書イザヤ書第53章第5節
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 
 われわれの不義のために砕かれたのだ。 
 彼はみずから懲らしめをうけて、 
 われわれに平安を与え、 
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ。

この言葉を思いだすと次の有名な詩も思いだす。

 

二度とない人生だから
        作:坂村真民
 
二度とない人生だから 一輪の花にも

無限の愛を そそいでゆこう

一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう

 

二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも

ふみころさないように こころしてゆこう

どんなにか よろこぶことだろう

 

二度とない人生だから 一ぺんでも多く 便りをしよう

返事は必ず 書くことにしよう

 

二度とない人生だから まず一番身近な者たちに

できるだけのことをしよう

貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう

 

二度とない人生だから つゆくさのつゆにも

めぐりあいのふしぎを思い

足をとどめてみつめてゆこう

二度とない人生だから 

のぼる日 しずむ日 まるい月 かけてゆく月

四季それぞれの 星々の光にふれて

わがこころを あらいきよめてゆこう

二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し

そういう詩を 一遍でも多く 作ってゆこう

わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために

この大願を 書きつづけてゆこう


コメント抜きでしっかり受けとめたい詩です。

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今在るを見る時

2014年02月25日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 こんな記事を読む。

 まだ大雪に孤立している村落の人々もおられるようですが、今期の大雪は生命の危機さえ感じるものでした。春夏秋冬の流れにおいては誤りなく自然は雪解けを人々に現象として顕現させてくれるのですが、降り積もる刻々の中では精神性の落ち着きを失わせ、驚異の念を増幅させてゆきました。

 いくとかくと目先の流れを感じますが、ゆくと書くと船に乗って流れに乗って行く感じを受け、その時は皆目わからない彼方への流れに乗っている様でした。

 しかし今になると、誤り無く自然は融解という現象を太陽の光の中に描き出していきました。

 間違いなく春になる、という確信。ある存在は、なる存在へと移行する。

 常に精神的に在る者、つねに今まさに自分は何をしようとしているのか、を問える人間はさほどの狼狽えは見せないのだろうと思うのですが、体験無きその場に置かれると人間は弱いものです。

 まして精神性を失うと地獄のような絵図を描き出し、描き出す者は狂乱していることさえ解らない。解すことさえできない。分ろうとする分別の世界も喪ってしまう。

 人間も社会も自然の一部。

 前回俳人の金子兜太さんの言葉を引用しましたが、自然の一部として人間のなすことが描き出されているのなら、ある存在がなるべき事態に身をおいたそれだけの事実。

 平等の現れとして、善悪の差別なく現れ、描き出す。

 ある人間は、なる人間であることを失ってはならない。

 何が汝をそうさせるのか。

 権利・義務という倫理的範型を想定するならば、描き出す世界、社会も同じではなければならないが、平等の現れとは、異なる現実を描き出す。

 社会に生きるとは違いの中に身をおく、自然の現れは正にそのこと描き出している。

 違いの中に生きている。現象とは、自然とは、まさに見せつけられ、生かされる現実です。

 フランスの哲学者 メーヌ・ド・ビランの言葉の中に「私たち人間は、その道徳性とともに、人間として享受しうる幸福あるいは甘受しうる不幸があるのだ。私たち人間は、思考の内的生の外に、関係と良心の生をなお持っている」という言葉を見ました。精神性の中にあるうちに共有したい。痛切に感じます。

 

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94歳の荒凡夫~俳人・金子兜太の気骨~

2014年02月24日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 人間を、社会を深く見れる連中は、命というものにぶつかっています。これは間違いないです。最後は命。私もこの歳(94歳)になってきて、やっと「存在」ということを見つめているうちに「命」というようなものを見るようになって、それは「決して死なない」と、いう考え方を持っていますね。


こう語るのは、俳人の金子兜太(かねことうた)さん、2月22日(土)NHK特集「94歳の荒凡夫(あらぼんぷ)~俳人・金子兜太(かねことうた)の気骨~」で金子さんはそう語られていました。

 本能のままに自由に生きる「荒凡夫」、この「荒凡夫」という言葉は小林一茶の言葉で金子さんは自分の人生を重ねて、生き物の根元命の尊さを実感しながら生々しい人間を詠んでいます。

 番組紹介サイトには、「既成の俳句を批判し、社会と人間を世界で最も短い17文字で表現する現代詩人である。老いることなく、みずみずしい感覚で震災やエロスを詠みつづけている。」と書かれており、大病を克服し、力強い若々しさのうちにあり94歳とは思えません。

 御本人は70歳ぐらいだと言っていましたが、そう見えます。骨密度は20代よりも若い、これもすごい話です。気持ちが人を作るのでしょうか。ご本人は化け物と言っていました。実に面白い方です。

サイトには続いて次のように紹介されています。

 兜太は本名、1919年(大正8)に秩父で生まれ、多感な時期に国は満州事変から日中戦争、太平洋戦争へと向かった。東京大学経済学部を繰り上げ卒業して戦地に送られ、トラック島で敗戦を迎える。捕虜となり1946年に復員した折にはこんな句を残している。

 「水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る」。

 むごい戦死を目撃し、非業の死者に報いることを決意する。「いのち」の尊さを土台にした平和とヒューマニズムである。戦争体験者が減るなかで、金子兜太は戦争の本質を語りつづける。戦後は、日銀に勤め、組合運動で挫折し、左遷されて地方の支店勤めが長く続いた。その中で、現代俳句の旗手として、閉塞(へいそく)した組織や、屈折する心を詠んできた。

しかし、年齢とともに金子は自分の原点にある郷土性を強く感じるようになる。
 山国秩父の土俗と人間たちが持っていた「生きもの感覚」である。日本人に染みついた5,7,5のリズムこそ自然界に宿るいのちに感応することと確信する。「土を離れたら、いのちは根のない空虚なものとなるではないか。」物質主義の時代に日本語の伝統にある俳句の底力を伝えたいと願い句を詠み続ける。

 東日本大震災のニュースを見ていて自然に浮かんだ兜太の句。

 「津波のあと老女生きてあり死なぬ」。

 25年間続ける朝日俳壇でも、無数の寄稿者の17文字の中に日本人の「いのち感覚」を感じ喜びを感じるという兜太。「俳句だけで来た人生に悔いはない。」94歳の歩みはまだ続く。

 語り:山根基世(やまねもとよ)
 朗読:油井昌由樹(ゆいまさゆき)

内容59分の番組ですが、教えられるところが沢山ありました。

 お母さんは17歳で金子さんを出産し、健康な母親から生まれたことに感謝を持ち続け次の俳句を作りました。

長寿の母
うんこのように
われを産みぬ

存在実感というリアリティーのある句です。なぜ「荒凡夫」というようになったか。冒頭にも書いたのですが、番組で次のように話していました。

【金子兜太】 一茶は、60歳の時に毎日毎日短い日記をつける人で、正月の文にこれから自分は「荒凡夫」で生きたいと書いている。私はそこから見つけた言葉ですが、煩悩にしたがって生きた男で全く値打ちがないやつだと、だからもうこんな男はこのまま死んでしまえばいいのだから、しばらく生けるだけ生かしてください、それで「荒凡夫で生かせてください、ということを書いているんですね。

 そういう人間が自由なんであって、「自由だ。自由だ。」と言っている人間には空ッペイが多い。自分はきれいな人間だという面をして自由なんて言っているのは、ウソに決まっているんだよ。俺は最近そう思っているんです。

 こう割り切った彼(一茶)の心情というものが妙に私にはピッタリ合いましてね。・・・

「煩悩にしたがって生きた男」

 一休さんの、川端さんの「仏界易入、魔界難入」とは、実存の立ち位置からの思考視点が真逆に思えます。同じ煩悩を持ちながら煩悩に動かされるのは当然のように割りきり、それを善しとしてあくまでもポジティブ。境をさまようようなネガティブさがない。

 人間はいつかは死ぬのですから自ら手を下すなどという愚かさは湧いてこない。

 非業の死者にどう報いるか。

 金子さんの戦後は戦争体験からくる、非業の死を遂げた仲間にどうどう報いるから始まります。戦争体験の話を淡々と語っておられましたが、生々しいリアリティーがある話でした。

 金子さんはそこから分った(リアライズ)んでしょうね。リアルな存在体験に本当の智が観えた。

 人間も社会も自然の一部。命ある生き物であるという感覚。

というナレーションととともに埼玉県熊谷市にある自宅の庭を散策する姿があり自然の息づかいを語っていました。

 そのなかで少年期の神との出会いの話がありました。

 漆にかぶれやすかった金子さん、それを見かねたおばさんが「漆の木と結婚しろ」と言って酒を兜太少年に含ませ、漆の樹に酒を掛けた。そして「もうかぶれないよ」とおばさんは言い、それいらいかぶらないようになった。

金子さんはそれが最初の神との出合い、「こういう命の働きがあるんだ」と語っていましが、子どものころの体験ですから強烈だったと思います。

 民俗学者の柳田國男先生が『故郷七十年』の中で語っている、

・・・考へ直してみても、あれはたしかに異常心理だつたと思ふ。だれもゐない所で、御幣か鏡が入つてゐるんだらうと思つてあけたところ、そんなきれいな珠があつたので、非常に強く感動したものらしい。もしもだれかそこにもう一人、人がゐたら背中をどゃされて眼をさまされたやうな(それはお母さんがいたらそうしてくれたんですよね。そういう文章がほかにあります)、そんなぼんゃりした気分になつてゐるその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーツと鳴いて通つた。さうしたらその拍子に身がギユツと引きしまつて、初めて人心地がついたのだつた。あの時に鵯が鳴かなかつたら、私はあのまゝ気が変になつてゐたんぢゃないかと思ふのである。・・・

も少年期の「ある神秘な暗示」の話ですが、体験・経験は人を作ります。

金子さんは、

おおかみに
蛍が一つ
付いていた

と筆を動かす中でアニミズムを感じたと語られていましたが、筆耕生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。

 さて話は長くなりました。最後にこれは金子さんの詠んだ俳句ではありませんが、福島県の福島西高校を俳句の関係から訪ねるシーンがあり、そこで紹介された俳句です。

 作者は国語の教師中村晋さんで3.11東日本大震災、福島の原発事故後に作られた俳句です。

春の牛
空気を食べて
被曝した

 金子さんは、「春の牛だからいいんだよ」「これで悲しみがある」と言い、「俳人は、ふつうは春と悲しみは使えない。あなた(中村先生)の中に切実なものがあるから・・・今回の事故が・・。」と原発事故、放射能漏れに苦しむ心情を句の中に読みます。

 この句に対する生徒の反応について金子先生が質問すると中村さんは「最初は笑うが間もなくシーンとなる。笑いの後の悲しみ」と語ったことに非常に、私は切実というリアルさを感じました。

 滑稽と悲劇

 道化の陰に悲劇がある。

 あまりにも悲しすぎて笑いになってしまう。これは心情ですが、それがこの句にはそのまま表現されている、そう思うのです。

 科学は、科学技術の進歩は、新しい主体を作る。自律型ロボットは最たるその啓示。

 原発も管理をする側が、その自律型を知らない。制御を離れればそれは制御不能の自律型に成るに類似し、人類は春の牛にならざるを得ません。

 そう物語るような一句です。

 春が来たよと新芽を食べる、他の動物然(しか)り。

 「存在に命が見えてくる」

 相応の年齢になればそれをリアライズ(智る)ことになり、智慧となる。

 相応の年齢、ふさわしい年齢は、少年であろうと老人であろうと年齢の境があるわけではありません。

 人間も社会も自然の一部。命ある生き物であるという感覚。

 「社会も自然の一部」

 社会の主人公は誰なのか。

ひとりひとり
フクシマを負い
卒業す

くり返しになりますが、

【金子兜太】 やっと「存在」ということを見つめているうちに「命」というようなものを見るようになってきた。

と言う金子さん94歳の言葉、生誕地があり「いのちの舞い」の場所(成仏の場所)がある。

 あると気づいた場所が、なる場所にならない悲劇

津波のあと
老女生きて
あり死なぬ

NHK特集「94歳の荒凡夫~俳人・金子兜太の気骨~」考えさせられる番組でした。

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ほぐす

2014年02月22日 | 思考探究

 NHK視点・論点で詩人の小池昌代さんが最近肺炎でお亡くなりになった詩人の吉野弘さんの作品を紹介されていて、「夕焼け」という詩について思うところを最近書きましたが、小池さんは「ほぐす」という詩も紹介されていました。

 小池さんは、「吉野さんは、日常の事物のなかから宝石を発掘する名手」言われていましたが、確かにそのように思います。

 吉野さんの「ほぐす」は、

小包の紐の結び目をほぐしながら
思ってみる
ーー結ぶときより、ほぐすとき
少しの辛抱が要るようだと

人と人の愛欲の
日々に連らねる熱い結び目も
冷めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費すように

・・・・・以下略

前回に続き花神社吉野弘著詩集『贈るうた』から一部引用しました。紐を結ぶのは簡単ですが、結ばれた紐を解く、解すのは一苦労します。

 吉野さんはこれを人と人の愛欲に重ねました。

 前回の「仏界易入、魔界難入」ブログで少し言及したのですが、現実社会ではとんでもないことが起きています。一方的な恋い焦がれもありますが、相思相愛の男女間に破局がおとずれ、とんでもない事件が起きています。

 男女間の愛欲において、愛が「さめた」とき。

 「さめる」という言葉を漢字で表すと「冷める」「覚める」「醒める」があります。漢字の意味を考えると男女間の「さめる」の源が見えてきそうです。

一時の欲望に駆られて

手練手管

純愛

色々なその時が遭った、遇った、会った。

 生れる前から赤い糸で結ばれる運命にあった二人などと思う愛もあり、吉野さんの詩はこういう想いにあった二人の「ほぐす」時なのでしょう。

 殺人までに発展する関係、ストーカーにまで発展する関係、嫌がらせをするまでに発展する関係・・・。

ここまで書いてくると、詩の続きを知りたくなります。

紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気付かぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて
結んだことに気づくのではないか

思い当たる人はあまたおられるのではないでしょうか。

この吉野さんの詩は、さらに続くのですがここで止めておきます。

 「吉野さんは、日常の事物のなかから宝石を発掘する名手」と小池さんは語っているのですが、小池さんも流石ですね。

 吉野さんのこの詩集『贈るうた』では、「愛そして風」「ほぐす」の二詩を「愛の終わりを知った人に」贈る詩(うた)として掲載しています。

「愛の終わりを知った人に」

贈るうたの「ほぐす」の最後の言葉は、

互いのきづなを

です。「きずな(絆)」ではなく、「きづな」なんですね。

「つな」

「いと(糸)」や「ひも(紐)」ではなく「つな(綱)」

「きづな」「きずな」音的には重なるこの言葉・・・・考えれば考えるほど深い。

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仏界易入、魔界難入

2014年02月22日 | 思考探究

 いつ頃のことだろうか、まぁ幼き頃には違いないのですが、自分がここに居るということが不思議でならない時がありました。画面が後ろに下がり自分を自分が見ているように感じたことがあります。

 離人的というものかも知れませんが感覚だけは覚えていて、自分を見つめるということを離れたことがありません。

 今一体自分は何をしているのか。

したがって「子供の頃からもう、私は自分が存在していると感じることに驚いていたこと、どうして自分は生きることができ、自分であることができるのかを知るために、自分をその内面において見つめるように本能によってであるかのように導かれていたことををよく覚えている。」というメーヌ・ド・ビランの日記の言葉を知り、驚きました。自分の言葉ではないかと思ったわけです。

 まさにその通り、私の思考というものに対する興味はそこに起源があったことに気づきました。哲学者の晩年、最近では戦前戦中戦後を生きた京都学派の先生方の晩年の論文に接しているとここには異なる志向性にあるのでしょうが、私には全てがどこかに集約されて行くようにしか感じられなくなってきました。

 全てがそこへ行くのだという感覚に近い話かもしれません。

過去ブログで、

 存在は、事実存在と本質存在に分けられ、事実存在を一般的に実存と呼ぶ。

 実存はドイツ語では「Existenz」でラテン語「exstentia」という言葉がもと。

 4世紀ごろから「exstentia」は、存在という言葉で使われ、「exstentia」は名詞で「ex」+「sisto」からなる言葉、

ex(外へ)

sisto(そこに置く、または捉えられる。立つ=set・up・fix)

外へ立ち現れているもの。

で、したがって物の性質に関する考察、物の起源に関する意味は含まれない。

 本質は「essentia」でエッセンスという言葉はそこからきている言葉で、早い話が存在に味がないのが実存である。

 サルトルは、「実存(existentia)が本質(essentia)に先行する」という。そして主体的に行動せよと言われても何も持たない「裸の実存」では力ある意志は湧かない、落ち込むばかり、か、見境のない生まれたままの自制できない衝動の世界に走るしかありません。悪的な欲望を自制心で抑えることができない。その善し悪しの違いの判断さえつかない。

 「第三の実存の時代」などと個人的に時々書いているのですが、実存というものを起源に置くと本質というものが眼先に置かれ、「本質(essentia)とは何ぞや」が人生の大きな課題になってきます。

 「裸の実存」とはヴィクトール・フランクルの思想を受けて哲学者の山田邦男先生の言われた言葉で、まさに今の時代、世の中を見ると「虚無的な人々多数」の現実があるように思えます。

 実存には三つの段階があるそうです。

(1)美的実存(ドン・ファン的な生き方)
(2)倫理的実存(カント的な生活態度)
(3)宗教的実存(旧約聖書におけるヨブの信仰生活)

こう語るのは、私ではなく京都学派の高坂正顕先生で、この先生も戦前・戦中・戦後の激動の中で哲学してきた人です。

「実存とはあくまでも単独な自己本来の姿をいう。」

 最近他ブログであのノーベル文学賞を受賞した川端康成先生の『雪国』の有名なフレーズを紹介してい、私もその言葉について書いたことがあり、梅原猛著『美と倫理の矛盾』(講談社学術文庫)を再読しました。

 梅原先生が50代で書かれたもので、その鋭い川端康成文学の実存的視点には驚きました。以前読んだ時には、全く冷めて読んでいたのですが120頁ほどのこの本、マーカーで染まってしまいました。

 美文には違いないのですが、一人の作家の宿業に押しつぶされていく姿が描かれているように私には思われました。書かれてではなく、描かれているです。

 字面ではなく、像が描かれる、ということです。

「仏界易入、魔界難入」

という一休さんの言葉を晩年の川端先生は言まれたようです。

「仏界入りやすく、魔界入りがたし」

美的実存、倫理的実存、宗教的実存

川端先生は魔界の実存に入り込んでしまったようです。

「見境のない生まれたままの自制できない衝動の世界に走るしかない。」

 晩年の作品はそうならざるを得なくなる。その不思議に、あの『雪国』、『伊豆の踊子』は形を変えて行く。

 田辺元先生の『懺悔道としての哲学』『生の存在学か死の弁証法か』等の晩年の田辺先生の論文に縁あって接していると川端文学の梅原先生の分析が重なるんですね。

 多分川端先生も「子供の頃からもう、私は自分が存在していると感じることに驚いていた・・・・」があったに違いありません。

 人間には境遇というものがあります。両親から生まれてきた存在であるに違いないのですが、足元をすくわれた実存的存在に気づいたとき、底知れぬ愛欲の世界があることに気づく。

 本来、現実世界は「無即愛」で満たされている。

 無いことが愛なのである。

 空であることが愛なのである。

 ある意味、西田幾多郎先生の「絶対無」が愛である、と言ってよいのではないかと思います。

 仏教でいうところの法(ダルマ・ダンマ)、それ自体が愛

 「仏界易入、魔界難入」

と言った一休さんは二度自殺を試みたそうです。

 どうも「死の哲学」というとネガティブな世界と受けとられますが、これほど今現在説法的な「生の尊さ」を語る世界はありません。

 川端先生は、美的実存に違うものを置いてしまった。

 現実世界を見ると「愛欲」の凄まじい姿が連日報道されています。

 何が問題なのか。

 今まさに自分は何をしようとしているのか・・・知らない。

ここに至ります。

 「仏界易入、魔界難入」という言葉は凄まじい言葉です。

 語る人を見ればわかる話です。

※雪の影響で書きたいことも書けずにいました。

 以前「仏教は実在論である」という西嶋老師の言葉を引用しました。仏法というものは常に開かれている。現実世界、現実の「存在」の世界は常に満たされているということです。

 実存論は、足元(足下)の話です。二足歩行した時から物語は始まる。命の継承が今現在を作っている、ということです。

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美しい夕焼けを見るために・吉野弘さんの「夕焼け」を思い出し

2014年02月21日 | 思考探究

 先月詩人の吉野弘さんが肺炎で亡くなられました。今月3日のNHK視点・論点では詩人の小池昌代さんが「「吉野弘さんの詩を読む」と題して吉野さんの「夕焼け」「香水――グッド・ラック」「ほぐす」と言う詩を紹介し吉野さんの素晴らしさを語っておられました。

 このNHKの視点・論点という番組は観ることができなかった方もインターネットでその内容を知ることができる番組です。

 いまだに大雪の後遺症が続き神経を使う車による通勤をしている中でこの番組で取り上げられていた「夕焼け」という詩を思いだしたので、番組では全文紹介されていませんでしたがその詩を紹介しながら思うところを今朝は書いてみたいと思います。

「夕焼け」

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて・・・・。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

<詩集『贈るうた』吉野弘著・花神社から>

 一人の娘さんのある日の電車内での出来事です。老人に席をゆずる。ときどき車内で見かけ光景ですが、道徳の時間い教えられたりする他人に対するやさしさですが、なぜかそこには「親切」「勇気」「はずかしさ」が同居し・・・全く意に介さない人もいますが・・・不思議な心の葛藤があります。

 「葛藤」などと書きますとそもそもあなたには「やさしさがない」とレッテルを張られそうですが、行動における選択、決断がそこにあるのが普通だと思います。

 「夕焼け」では三人の老人に遭遇します。

 一人目は、礼を言わない。二人目は礼を言った。さて三人目では・・・。

 いろんな思いがこの娘さんには起ります。

 吉野さんは最後に「美しい夕焼けも見ないで」という言葉でこの詩を閉じます。

 毎日の通勤の中で、今は大雪で道路幅が狭くなり、どうしても対向車の運転手さんと「阿吽」の心がなければどうしようもない事態になっています。

 「親切心」「やさしさ」が試される事態になっています。自分本位の性格異常ではどうしようも事態がいま現実にあります。巷ではこのような事態にケンカが頻繁に起っているようです。

 幸いにも私は今のところそのような事態には遭遇していませんが、遇っても不思議ではない状況にあるように思います。

 私は、こう言うみじめな争いにならないために、こちらからやや広い所で車を停車させパッシングし対向車車両を先に行かせることにしています。

 「「美しい夕焼けも見ないで」

「美しい夕焼けを見る」にはどうして居ればよいのか。

 親切にしたからと言って、親切が返ってくることがあるわけではありません。

 無常などと言うと抹香臭くなりますが、何でもあるのが世の中、自分だけでも人間的に生きようとするならば、心惑わされることはありません。

 「見返り」

とは「いつかは私に帰ってくる」話しです。

 一生来ないかもしれませんが、美しい夕焼けを見ることができるのは確かだと思います。

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死に至る生命危機

2014年02月19日 | 思考探究

 大雪で道路という道路が走行不能になり、孤立状態になっている市町村がいまだにあるようです。

 生活圏である安曇野市から松本市内に至る国道県道もいたるところで車線が狭くなり、また深夜から朝にかけ気温がかなり下がり凍結道路になるため運転技術の過信は禁物、慎重に慎重を重ねた運転が要求されます。

 群馬県、山梨県境の国道や高速道路は通行止めで輸送トラックが立ち往生状態で、コンビニやスパーの棚からはお弁当やパン類の姿が消え、災害による危機というものは地震や洪水だけではなく、「大雪もあるんだよ」と、自然がもたらす災害が幅広いことを実感させられます。

 考えてみると今回の危機は、日常生活が確保できないということもありますが、交通機関のマヒを見ると食料品調達不能状態の到来、それは食料の確保ができないという人間の生存に対する危機で、結論的には死に至る状態になる可能性大ということです。

 そして行政側には自然災害に対する危機管理に雪害対策も加わることになり、それはこれまでの予測を上回る事態の発生はありえること再認識しなさいという何ものかに啓示されているように見えます。

 それは生活を守るためにというよりも、死に至るという直接的な生命危機を孕んでいるという意味の理解であり、機関のトップにある者から、行政庁の末端にある者まで、国民の死に至るという直接的な生命危機を念頭においた危機管理意識を持つ立場にあるように思います。

 過去の地球上の歴史に学べば、人類滅亡もあることは事実で、巨大な隕石の衝突ばかりが原因ではありません。

 大地震、津波、原発放射能漏れ、洪水、大雪・・・自然現象から文明災と、そこには「死に至るという直接的な生命危機」という意味があると理解せよという人類へ問いがあります。

 日常生活の確保は、当然の危機管理ですが、死に至るという生命危機管理はそれを超える心底からの自覚を必要とするということです。

 この自覚は、危機管理にたずさわる者ばかりではなく、授かる側にある者にも共通した自覚でないと意味をなしません。選ばれる対象、選ぶ側の自覚でもあるということでないと意味をなさないということです。

 実存とはあくまでも単独な自己本来の姿をいいますが、死に至るという生命危機という本質的なものが存在そのものに現れています。

 苦悩からの救済の無我論や生きる意味を語るのではなく、ここで語りたいのは死の自覚において生は語られるべきで、日常生存ばかりに焦点を置くと命の継承もままならない危機が到来するという事実です。

 それは未来志向ではなく、今現在の現前の現象の提示に事態の深刻さを理解しなければならないということです。

 文明災には、「死に至るという直接的な生命危機」意識が希薄という問題も含まれているように思います。

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安曇野有明山麓の現況、雪が降り続けています。

2014年02月14日 | 風景

 信州安曇野市穂高有明山麓に降り続ける雪は止まりません。

 どのくらい積もるのでしょうか?

 3回目の雪かき。切りがないですね。3時間ぐらいで20センチは積もった気がします。

 明日は休みですのでいいのですが、日曜勤務の朝が心配です。

 前回の雪の際に松本市の除雪がなかなか進まず、市役所に苦情があり、あのチェルノブイリ原発医療で有名な菅谷市長が謝罪会見をしていました。今回も同じような状態ではないかと危惧しています。

 庭の木々への積雪も心配で雪落し。

 前回からの積雪量は70センチにはなり場所によっては1メートルぐらいにはなっています。


幽玄能の意味するところ

2014年02月14日 | 思考探究

 世阿弥の世界では幽玄という言葉が多用されその演劇論においては演じる側の役者に自ずと具わり現れる、霊妙な動きに思える。

 あくまでも私見であって世阿弥がそのように言っているわけでありません。なぜに作品に死霊を現わし舞わせるのか。そこに何故観る側は引かれるのか。

 世阿弥の言う(以下引用は、小学館日本古典文学全集『連歌論集 能楽論集 俳論集』の世阿弥『風姿花伝』「強き・幽玄と弱き・荒き」p273-p275口語訳から)。

「能における、強気・幽玄と、弱き・荒きの差を知らなければならない。」

「例えば、人間なら、女御とか更衣とかの高貴な女性、あるいは舞女や美女・美男、草木なら花など、こうした種類のものは、その姿がもともと幽玄なものだ。」

「・・・あらゆる対象を立派に偽せきったならば、幽玄な対象の物まねはそのまま幽玄な芸となり、強い物の物まねは自然に強き善き芸になるであろう。」

「猿楽は観客を根本とする芸であり、それはどうにもならない事実だから、その時代時代の風潮で見物衆が幽玄な芸を喜ぶ場合は、そうした観客の前では、本来は強かるべき芸でも、物まねの原則から少しはずれはするが、幽玄の方向へ傾けて演じられるがよい。」

などと「幽玄」を語り、能作者には、次のように説く。

 「それと同じ配慮から、能作者としても心得ておくべきことがある。能の中心素材たる主人公には、ぜひとも幽玄な姿の人物を選び、その心情や言葉も格別に優雅であるように、工夫研究して書かねばならない。」

 とあり、「幽玄には死者がふさわしい」などとは一言も書いてありません。

 死者の舞い、天女の舞い、武人の舞い、稚児の舞い・・・

 あくまでも演劇論的幽玄性、神秘性であって「いのちの舞い」は、その幽玄の発想にはありません。

 観る側の私にとっては「いのちの舞い」を想い、生けるものである現況における貴さを感じます。

 死との連関性において生は際立ち、生けるものの気概を奮い立たせます。

 観る側の幽玄は、死者の語りに悲哀を感じ、哀悼の念も現れます。

 演じる側である役者の幽玄とは、同音同語でありながら意味的には同一概念を見い出せませんが、しかし、霊妙な同じ「語り得ない何ものか」は根底に流れているように思うのです。 

上記の世阿弥の、

「その時代時代の風潮で見物衆が幽玄な芸を喜ぶ場合」

は、そういう意味では言っていないとは思うのですが、そう解釈しても良かろうと勝手に思うわけです。
 
 それにしても650年前に書かれている世阿弥の『風姿花伝』はすごい演劇論です。