思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

恩寵が観えるとき・虚無から空への転換

2014年08月18日 | 哲学

「恩寵」という言葉の意味を一般的な国語辞典で調べると、

めぐみ。いつくしみ。
キリスト教で、人類に対する神のめぐみ。

という意味で、grace という英語の訳語と解説されています。

個人的にこの言葉を思い出す場面があります。もう2年前になるのですが平成26年4月22日のEテレ「こころの時代」の「生きる意味を求めて~ヴィクトール・フランクルと共に~」で哲学者の山田邦男先生が聞き手の山田誠浩アナの、「他者からの呼びかけに、他者の為に生きるというところには何か自己犠牲的な生きるということにちかいようなきがしますが」旨の質問に、次のように答えたときです。

※ヴィクトール・フランクルはヴィクトール・エミール・フランクルですが、以下フランクルとします。

【山田邦男】 実際にその人々の心の中で起こった出来事を見てみますと、単に自分を犠牲にして、そうしなくちゃ、ということよりも、もっと根本的に心の奥底から自分が揺り動かされて、そして結果的にはそのことによって、自分がこれから生きていく勇気、生きている歓びというふうなものが湧いてくると。

 それはおそらく自然に湧いてくるものであって、他人から道徳的に、いわば説教されたという感じで受け止めると、私は本当の人間の深い心の働きというものをきちんと見ていない。もっと人間の自然な人情、心の働きというのは深いものであると。

 つまりまさに無意識というレベルで起こるような深いことで、そういうことをフランクルは、「精神的無意識」というふうに呼んだんだと思いますね。自分の力で、ということでなくて、私はやはりそこは恵み、恩寵・・・神の恩寵というかどうか、別にしまして、なにか自分を超えたものからの催しと申しますか、仏教では廻向(えこう)というようなことを申しますけど、何かやはりそういう自分を超えた何か大きなものが、自分の心の深いところで働いてくれている。

【山田アナ】それが自分の歓びになっている、ということでしょうか。

【山田邦男】 そういうことだと思うんですけどね。フランクルの言葉で、もうちょっと申しますと、「意味への意志」という。「意味への意志」というのは、自分の人生を生き甲斐のある人生にしたいという願いなんですけど、そういう願いが人間の一番根本的な無意識だと、フランクルは考えていますね。

 その「意味への意志」という無意識が呼び覚まされたと言いますか、例えば先ほどの例で申しますと、愛する子どもが外国で自分の帰りを待っていると、そのことを思うと、自分はどうしても頑張らなくちゃいけないと。これは要は親心ですよね。自然に湧いてくるものであって、人間にはそういうものがあるのだ、という。それがフランクルの一番の療法としては基本的なもので、そういう「精神的無意識」という言い方で、そういう無意識が人間の一番根本のところにある。

 「無意識」という場合、精神医学とか深層心理学のフロイト(オーストリアの精神分析学者、精神科医:1856-1939)が最初ですけれども、無意識を発見した、と言われているわけです。我々は平素意識していないけれども、意識の底に意識されざる意識のようなものが隠れていて、これが時々悪戯をして人間に神経症を起こさせるんだと。そういう無意識もあるけれども、フランクルの考えでは、そういう無意識だけではなくて、精神的な無意識もあるのだと。フランクルの場合には、「愛」とか、「良心」とか、それから「インスピレーション~芸術的な直感」主にその三つを挙げているんですけど、その辺は実はもうちょっと複雑なんですけどね。例えば良心という・・・良い心という良心ですね、これは精神的無意識の一つです。  

<以上>

 長めの文立てで紹介しましたが、キリスト教でいう恩寵、仏教で言うところの廻向で、回光(えこう)という漢字を使う場合もありますが山田先生が精神的無意識という働きを説明されるなかで「恩寵」という言葉を使用されていました。

 私的にここで言及するならば、フランクル先生はユダヤ教徒でキリストの信仰する神はユダヤ教徒の神と同一ですから人格神的イメージにありますが、仏教ではダルマ(仏法)ということになります。従って教示に主体的イメージを持たせることはできません、そこで変化(へんげ)の仏がとって代られることになります。

 フランクルの思想の中には神という言葉が出てきますが、自己の信仰については述べることはありません。神信仰のうちにある者、無き者全てをその語りの相手とします。

 「神の恩寵」

ということに視点を置きます。

「何かやはりそういう自分を超えた何か大きなものが、自分の心の深いところで働いてくれている。」

 ここで言われていることは「もと」からの働きであり、それは何ものか、というもとへの探求がそこにあります。

 フランクルの思想は、その著『それでも人生にイエスと言う』(春秋社)の中で「ニヒリズムを通り抜け、今こそ新しい人間性に到達しなければならない」と語るようにニヒリズムの克服を前面に出す思想です。

 『人間とは何か』(春秋社)の中で、

 私は神経学者として、コンピューターが、われわれの言う中枢神経システムに対応するモデルであるとみなすことはまったく正当であると認めるものである。誤りは、人間とは一つのコンピューターに過ぎない、と主張されるときにはじめて生じるのである。人間には確かに一つのコンピューターである。しかし、同時に人間は無限にコンピューター以上である。ニヒリズムは、無について語ることによって仮面を脱ぐのではなく、「にすぎない」という語り口によって仮面をかぶるのである。」

と述べています。ここでいう「無」とは、実存的虚無感からの吐露です。絶対無や無我の境地などという場合の「無」ではなく「にすぎない」という働きない存在とでもいったところです。「あるがままに」というフレーズに何の意味も見いだせない存在とでもいったところでしょうか。

 「存在」というものに「にすぎない」と応えるか、「存在」に「恩寵」を観るかで克服の働きを見えてくるように思います。

「虚無から空への転換」

「神の恩寵」において、

 狂乱の人は「神の死」を叫びます。「彼は明るい午前にカンテラを灯し…神はどこかへ行ってしまったのか。・・・・我々が神を殺したのだ。・・・」(ニーチェ『悦ばしき知識)』と、神の恩寵は消え去えさり信仰無き苦悩する者は、実存的虚無感に襲われる。

 神無き後も恩寵を捉えることができるものは幸いである。

「虚無から空への転換」

とはこういう流れの中にあります。

恩寵を働きのうちに観ることができるか。

 絶対信の宗教的信仰があるならばこのように言及するまでもありませんが、世の中が進むと、どうしても次元の異なる声を聴かないと生けない幻想家・夢想家が増えてきます。

 現実思考(今に足がついている思考)ができない人と言えるかもしれません。

・麻の煙に酔いしれ、見えないものが見えてしまう。

・恩寵も見えないものですが観えてしまう。

この違いが解れば、自分は善しとしましょう。