思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

現存在の負い目

2019年06月13日 | 哲学

「老い」という言葉が気にかかる。そういう年齢にきたなぁと思う。高齢者の交通事故、杉良太郎さんの運転免許証返納などのニュースを見ると「老い」について真正面から考えるべきなのではないかという良心の声が出てきそうである。樹木希林さんのことば集が話題になっています。その中で希林さんは「老い」について、「若いときにはできたのに、歳をとるとできなくなったことを悲しむよりも、歳をとると、こういうことができなくなるのか。」と「そうなることを知ることが面白い」と語っていたことに現代の妙好人を感じさせる。

「おい目を感じる」と語る時に、この「おい」という言葉が「老い」に漢字変換され「老い目」となってしまう。「負い目」が正しいことはだれもが知っていると思うが、なぜかこの漢字が出てしまう。

「負い目」の意味は、ネット辞典で、「恩義があったり、また自分の側に罪悪感があったりして、相手に頭が上がらなくなるような心の負担。」と解説されているように、「負い目あり」と感じる側の「何かしか」の欠如の意識があるように思う。

 「心の負担」であるから、「老い」は子供らに負担をかけることにもなろうかとネガティブな感情になる。そんな思いも去来するのでついつい「老い目」などとしてしまうのである。

成されるべきことが成されていれば負い目などはないわけですが、若さは永続できないのが当然の理、老化というものは自然の成り行きであり、老いない人はこの世には存在しない。

成るべくして老いて行く(成って行く)のであって、成すべきことを成していないわけではないといった能動的な話ではない。現存在そのものが「老い目」が聞こえる場であるとも言えそうだ。

それは声として聞こえるわけではなく「沈黙という様態において語る」、内なる声であり、この呼び声は意のままにならない性格のもので、おのずから現れるものである。自分の期待や意志の反映でもなく、思考視点を転回させるならば「存在の呼び声」とも解せそうである。

 自己という現象を相依的な自己の二重性の織りなしと考える私にとって、「存在の呼び声」は現存在で意志活動する意識側にある主とは相依する側(沈黙する主)の声であるかのようである。

「存在の呼び声」と書いたが、現存在において自己を裸の実存へと思考転回するならば「有りて在る」という人生の意味が問いかけられる機縁にもつながる。自己の計らいでもなくおのずから然りの現存在である。虚無感を補うような計らいがあるとしか思えない。

 「存在の呼び声」という言葉に、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』第二章に出てくる言葉ではないかとしてくする人があろうかと思うが、その通りで彼は次のように語っている。

 

<じっさい、呼びかけは決してわれわれ自身が計画したり準備したり随意に遂行したりしたものではない。思いがけなく、それどころか、心ならずも、《呼び声がする》のである。そうかと言って、その呼び声が、私と共に世界の内に居るほかの人からきこえてくるのでないことも、疑いのないところである。良心の呼び声は、私の内から、しかも私を越えて聞こえてくる。(『存在と時間』下、マルティン・ハイデッガー著・細谷貞雄訳、筑摩学芸文庫、p111)>

 

 樹木希林さんのことばに戻りますが、希林さんの言葉は癌に罹患する前からも含みます。何か彼女の生き方そのものに観照する何かがあるように思う。そして、それを受け取る側にある読者は内なる声を聴いているに違いない。

 希林さんの言葉に耳を傾けたい、心を傾けたい、触れたいと思う人が多いことに安ど感が起こる。

人間は自とその一にとどまり呼吸するのみの存在ではない。食事もしなければならないし、閉じこもったところで、他者からの気遣い負う存在である。そういう負い目がある。歳をとるとそこに老い目が生じくる。存在という根底にある虚無の現存在を補完するためのように。


私という現われ

2019年06月09日 | 思考探究

中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行を まとめた語録『臨済録』という書籍に「無位(むい)の真人(しんにん)」という言葉が出てきます。真の自分は呼吸する日常のあたり前のそこに現れているという禅の問答で語られている話です。「眼に働けば見るといい、耳に働けば聞くといい、鼻に働けば嗅ぎ、口に働けば話し、手に働けばつかみ、足に働けば歩いたり走ったりする」という一連の身体の諸機能の働きの作用の内に真の自分は現れているということのようです。

 私の日常が即ち自分自身の現れで、「そのようなことをいうのは馬鹿ではないか。」と言われても自分というものは恥ずかしながら現れてしまうものです。当の本人は決して恥ずかしい事態が現れているとは認識していないわけではなく第三者の反響を受け、事態をのみ込むことができ反省の念をもって自戒します。

これも禅の話になりますが、臨済宗の禅僧山田無文老師の著作集「しんじん文庫第八集」『不二の妙道』にある講演会記録の中に老師がドイツの哲学者オイケン・ヘリーゲルの著『弓と禅』の中の一説を話されたことが書いてありました。

 ヘリーゲルが日本で弓道を習った際に師範がヘリーゲルに「矢が弦をはなれるときに意識してはいけない。いま行くナという意識があってはいけない。」と彼を注意したその時師範にヘリーゲルが「私が弓を引くのに私が意識をしなかったら一体だれが弓を引くのですか?」と哲学者ですから理屈でそう言ったところ「それは、自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」と語った。

 この話を禅に重ねて老師は語っており、禅を否定する話としてではなく当然「そういうものだ」と会得し、掴むものだということです。

的に当てようと思ってはいけない。

的をねらってはいけない。

じっと的を見つめて、的が自分になるまで見つめて、的が自分になったときに矢を放てば的が当たるのだ。

 射撃とは的に当てるのが、その筋だと思われるのですが、師範は真逆と思われるような話をヘリーゲルに教えるわけです。しかし、ヘリーゲルは5年ほどするとようやくその境地を体得し、本国に帰国してから「自分は直接禅をやらなかったが、弓をやることによって禅がわかった。」と語ったとのことです。

このヘリーゲルの話を引用しながら、無文老師は「花を見れば花が自分になり、月を見れば月が自分になり、的を見れば的が自分になり、すべての森羅万象と自分の距離がなくなるのが禅です。」と、『不二の妙道』に書いています。

このような話は、「物となって考え物となって行う」という西田哲学に通じる話ですが、最初の「無位の真人」も思慮なく徹しっているところにあるわけで、「恥ずかしながら」の話もありのままに自分が語るわけで、真の自分が現れているということになります。そこには恥ずかしさを知るような自分はなく、どこまでも個人の言動を自分が成立させているわけです。

 パスカルは『パンセ』の358で次のように語っています。

「人間は、天使でもケダモノでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようとするとケダモノになってしまう。」

この言葉も非常に今の私に語りかける言葉で、「戦争をして奪還」などという第三者が聞けば悪魔的ささやきの言葉も、ご本人自身が、良い考えだという天使のささやきとして自覚する中で彼自身を現したということになります。

この『パンセ』の70には、

「自然は・・・・・・ない。自然はわれわれを丁度うまく真ん中においたので、われわれが秤(はかり)の一方を変えると、他方を変えることになる。ジュ・フゾン、ゾーア・トレケイ。このことからして私は、われわれの頭の中には、その一方に触ると、その反対の方にも触るように仕組まれていたバネがあるのではないかと思われる。」

この言葉も自分という現象を考える時には大いに参考になります。

 ある男優が「体制批判を考えざるを得ない」という発言をしたところ炎上し、それに対して、日本には「役者は体制批判をするものではない」という「空気」があるようだという話まで現れてきました。

 個人の言動が社会的な場の秤を乱すという批評にまでなるのですから、多くの人々に接する公人(おおやけびと)の秤は、場の空気感という秤とも密接に共鳴するように見えます。

「自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」

これは、天使のささやきを聴けという話ではなく、私という現象を体得(つかめ)という話に思うわけです。

 「もう一人の自分が分かれば」とはどういうことか。
 
 今まさに私は何を語り、何をしようとしているのか。
 社会に一般的な人として現れている自分ですが、他者とは同一ではなくどこまでも個性的な特殊な現れとしてある自分です。悪魔のささやきなのか天使のささやきなのか、おのずから見極める「無位の真人」になりたいものです。

一般的に「壊れる」前に、特殊という場にある私を見つめよう。

天使にも悪魔(ケダモノ)にも他人から見ればそう見える自分を見つめよう。

人はなぜ「壊れる」と殺人を行ったり、人の心を傷つけるのでしょう。

 ここまで書いてここで思考に終止符を打てばよいものを、『パンセ』70の「自然は・・・・・・ない。」という言葉が気にかかります。

 「おのずからしかり」という東洋的な自然(じねん)とは異なる気がします。左右の均衡という秤を思考して現象を考えますが、均衡は定点的な概念で、私の思う現象は点時間ではなく、持続の内にあるものです。青年の指パッチンという一刹那も点時間、点時刻ではありません。純粋経験も同様で定点的な概念で考察するものではないように思う。

壊れる前ならば、自覚と反省の場は現れるもので、「無位の真人」は呼吸しているまさに今に息する、生かされている自分に現れるように思います。