思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

遣新羅使人と谷神

2008年09月26日 | 古代精神史

万葉集第十五遣新羅使人の3580は、

君が行く海辺の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ

という一首がある。

 遣新羅使人は、天平8年(736年)の2月に大使がきまり、遣新羅使人の船は真夏に難波の港を出港し一路瀬戸内海を航行していきます。瀬戸内海を1ヶ月かけての船旅で玄界灘にでれば大荒である。

 その後の大陸へ使節団の遭難を見ても分かるとおり大陸への旅は、船のゆれのように生と死の谷間にある。

 この歌は、あなたが行く海べの宿りに夜霧が立ちこめたら、それは私の嘆きの息だと、お知りください。

 と解説されています(中西進万葉集第三巻)。
  都にいる妻が遠く旅先にいる夫を思う歌です。

 万葉学者の犬養孝先生は、「万葉の愛の歌は具象的な表現でなされる。」といわれこの歌を紹介していたのを思い出す。

 「愛」という観念的な言葉を直接口にせず、愛を語るのである。この遣新羅使人の一首はそれを語っている。

 古代の日本人は、「愛している」などと観念的な言葉を直接口にしないことが多く、日本人の心の深層には今もわずかにその痕跡がある。

 観念的な言葉の羅列は、言葉の意味さえ分かればこれほど合理的に理解できるものはない。しかし日本語の性質からであろうか、日本語の表現は観念的な、即物的な描写を好まない。意味深なのである。

 茜色の夕空が茜色に、緑の柳が緑に見える。即物的描写はあるがままを描写するが、具象的に心の内を観念的な言葉に重ねることができるのが万葉の心をもつ人々であった。
 しかし、現代人は表向きの言葉に酔う傾向にある。

 「正しさは、正しき言葉により語られる。」といわれれば「正しい」と信ずるのが夢見る人々である。現実は、思想統制がされ、貧富による生活格差、虐待の世界なのに、頑なに夢見る人々。

 自称の覚者は甘き言葉で人々を夢の中に
 具象的な世界は、動きの世界、はたらきの世界。心で見ないと見えない。万葉の世界はそのような世界である。

 「谷神(こくしん)」という言葉がある。「谷」という言葉は、左右に山がないと成立しない。 谷というものは単独ではないのに、確かに谷がある不思議な言葉である。

 渓谷にて谷を求むれば谷があり、渓谷にて釣りに興ずれば谷の真っ只中にありて谷は離れる。
         


矛盾の統一

2008年09月23日 | つれづれ記

 秋晴れの中、安曇野の大地では稲刈りが始まりました。

  稲穂が垂れる田んぼの脇にコスモスが咲いていました。黄金色に紫にピンクと日に照らされて鮮やかなコントラストを映じていました。
 夕方からは常念岳方面から雲が重く張り詰めてきました。

美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。
善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。
だから、有と無はたがいに生まれ、
難と易はたがいに補いあい、
長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、
高と低はたがいに矛盾し、
声と音はたがいに調和しあい、
前と後はたがいに順序をもつ。
だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。
万物は間断なく盛大である。
成長していっても、誰れもそれを所有しない。
仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。
達成されても、名声を求めるものはない。
名声を求めないから、成功はつねにそこにある。

 これは道徳経第二章で、「老子の思想 張鐘元著 上野浩道訳 講談社学術文庫」の「第二章矛盾の統一」から引用しましたが、相依りて成る仏教の教えと重なります。  


「しなゆ」という「やまと言葉」

2008年09月20日 | ことば
 台風の影響で、全国的に天候はよろしくないようである。今朝方の予報では銚子沖付近に台風の目はあるようで、信州は午後には晴れ間になりそうだ。

 山の降雨は、河川を茶色に染める。岩を削り、砂を運んでいるのである。雨というものは、水であるが、酸素と水素の結合体である超純水にいろんな物質が溶け込んでいる状態が普通にいう水である。

 水というものは世の中で最強の物質である。あらゆる物を溶かし、あらゆるものを吸収する。 天空から降り注ぐ雨は、悠久の時を掛け大地を削り、溶かしつつある。

 人の体は、水分がほとんどだ。スポンジに水をしみこませたような状態で、また血液という状態で血管により体全体を駆け巡っている。

 今日の天空の雲は重い。安曇野の大地から松本にかけ地上に霞がかかる。

 科学的な気象観測が行われ、庶民生活から奪ったものがある。

 「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」、「朝虹は雨、夕虹は晴れ」、「朝霧は雨、夕霧は晴れ」などの天気予報に関する言いならわしである。

 昔の人は、自然現象の変化に、天候の変化を予測した。だから朝早く起き見つめるのは、天空の雲の様子、空の色である。

 自然とともにあるとは、絶対現実が、そのまま生の流れの中にあることだ。アメノクミヒサゴモチの神は、天空の水を瓢で汲み、振りまく(古事記)。

 みずみずしい国土になる。だから瑞穂(みずほの)国と呼ぶ。

 身体は、若いときは十分な水分が蓄えられ、みずみずしい肌であり、しなやかだが、水が枯渇しだすとしなえる状態になる。歳を重ねることは、しなやかさを失うことである。口語では「しおれる」ことを「しなゆ」という。これが全く枯れた状態になると「しぬ」という言葉になる。

 このようにやまと言葉は、言葉がそのままの状態なのであり、述語的世界なのである。

 生・老・病・死を主語的世界にみるか、述語的世界にみるか。

 瑞穂の国に生きるとは、「しなゆ」まで生きるということだ。

聞(もん)に昇華する。

2008年09月19日 | 仏教

 室町時代の京都東福寺の正徹書記に、「尋ねゆくみやもの牛は見えずして 只だうつせみのこえのみぞする(自分の尋ねゆく牛は深山にいるので、なかなか見つけがたい。ただ蝉の鳴き声が聞こえてくるのみである)」という和歌がある。

  正徹は、字は清巌、号は招月庵といい令泉為尹のもとで和歌を学んだ人である(禅・十牛図 中村文峰 春秋社から)。覚えやすく滑らかな響きを感ずる和歌である。

 十牛図第一頌尋牛は、

  茫茫として草を撥い 去いて追尋す
  水闊く山遙かにして 道更に深し
  力尽き神疲れて覓むるに処無し
  但だ聞く風樹に晩蝉の吟ずるを

で、上記の和歌はそれを詠ったものである。

 その十牛図の第一尋牛の序について上田閑照先生は、

 この十牛図の第一尋牛の序の冒頭に「従来失せず、何ぞ追尋を用いん」(はじめから見失っていないのに、どうして探し求める必要があろう)と宣明されている。十牛図の展開そのものを無意味にするようなこの言葉はいったい何を言おうとしているのであろうか(十牛図 ちくま文芸文庫「自己の現象学 禅の十牛図を手引きとして」。

と語っている。この十牛図は、求道の段階を知悉したいと学ぶ以前に、図と出会う人の思考の展開に全角の志向性をもたらしてくれるような気がする。

 朝の目覚めから展開する森羅万象の姿。見る、聞く・・五感の作用に自己が成ってゆく。
 晩蝉(ばんぜん)は吟じている。ジィージィという音は、蝉の鳴き声に成る。

 また、上田閑照先生は、同書で聞くについて次のように語っている。

 行きつまって動けなくなったところ、そこではじめてかの顛倒の支配力も働かない。リヤルなエポケーと言える。「求める」というあり方も行きつまったそこでは、「但だ聞く風樹に晩蝉の吟ずるを」。誤った求め方の余波余韻のこだまの如くに、また、開かない目のままで見ようとした真なる自己像なるものの虚像の残像のゆらめきの如くに、「風樹に晩蝉」が聞こえてくるが、やがてそれも消えて、この「但だ聞く」が教えをひたすら聞く聞(もん)に昇華するのであろう。

この文章の「聞(もん)に昇華する」という言葉は深く響く言葉だ。

 上田先生と言えば西田哲学を想起するが、鎌田茂雄先生の次の語りは、「聞(もん)に昇華する」に重なるところがあると思う。

 禅の人が山の庵で一人で坐禅をしていたが、何年も悟りが開けない。ある日、雨が降り、樋から露が落ちてきた。ポトンと垂れた露の音を聞き、その音が宇宙世界を破ったと思ったそのときに、悟りを開いたという。
 道元禅師も中国の天童山にいるとき、真夜中に師の如浄禅師が説法のために人を集め、そのときに答えを持ってこいと言われ、一生懸命考えていた。とたんいそこに「杜鵑啼キ山竹裂ク」・・・ホトトギスのギャー・・・という声が聞こえ、山の竹がバッと折れた。その音が宇宙の闇を突き破り、道元は何かを得たのである。
 「杜鵑啼く」というのは、杜鵑がいて啼くという動詞がつくのではない。啼くという現実があって主語として杜鵑があとからつく。絶対の現実は「啼く」というところにある。ギャーッと啼いた。それが絶対の現実で、それを分解すると杜鵑が出てくる。絶対現実は述語的世界であって、主語的世界ではない。
 竹が裂けたのではなく、裂けたという絶対現実の世界がある。それをあとで概念で組み立てると、「竹が裂けた」となる。裂けたというところだけが真の現実で、それを言葉でもって媒介すると主語の「竹」が生まれて、「裂けた」という述語が加わっていく。
 人間の営みは、あるのは絶対現実の展開だけである。だが、それはいくら言葉を分解してもだめなのであって、その絶対現実をとらえるこちらの感性、直観力がないととらえられない。日本人はそういうものを持っている(華厳の思想 講談社学術文庫P29・30)。

 日本を代表する哲学者西田幾多郎の哲学、説くに哲学論文集の第七「場の論理という宗教的世界観」は、一即多で書かれたといってもいい。場の論理というのは述語の論理である。具体的現実そのものを直感する知性、それが場の論理である。そういうものと宗教的世界観が同じであることを論証した。具体的現実は、述語面であるわけで、主語面にはない。その述語面にある具体的現実ということが、すなわち宗教的生命そのものにほかにならないということを論じ尽くしたわけである。知性は論理によってしかとらえられない。しかし西田が目指したのは、論理ではとらえることのできない直感の世界を、いかに論理的に説明しうるかということであった(同書P333・34)
    
      

 今日の写真は,父の水墨画「行脚」にしました。


「しのふ」「しのぶ」という言葉

2008年09月18日 | ことば

 愛憎会苦という言葉があるが、世の中の出来事の中に、愛することが相手の拒否で憎しみに変わり、ストーカーをしたり、愛すべき妻に暴力を振るうDVが多くみられる。

 また、褒め、讃えるべき人をけなしたり、文化遺産を傷つけたりと、最近は堪えること、偲び、称えることが苦手という人が増えているような気がする。

 「しのぶ」という言葉があります。漢字で表記すると「忍ぶ」「偲ぶ」となり、「堪え忍ぶ」とか「あの人のありし日の姿を偲ぶ」などと表現されます。

 「忍ぶ」の方は、じっと我慢する場合や隠れる場合などに使います。一方の「偲ぶ」は、人偏に思うですから、思い慕い、懐かしく思うときに使い、古い時代には「物の美しさをほめたたえる」ときにも使用したようです(三省堂 全訳読解古語辞典)。

 万葉学者の中西進先生は、この「しのぶ」について次のように言われています。

 古代では、「人を想う」ほうの「しのぶ(偲ぶ)」は、「しのふ」といいました。もともとは、相手を賞賛する、褒め称えるという意味で、同時に、遠く思慕するという意味をもちました。目の前で、あからさまに「好きだ」というのではなく、遠くから思慕して褒める。これは先ほどの「たまごひ(魂乞ひ)」や「こふ(恋ふ)」にも通じる、日本的な恋のかたちです。
 これがなぜ、「堪え忍ぶ」の「しのぶ」と混同され、同じ発音となっていったのでしょうか。
 「しのふ」と「しのぶ」とでは清濁の違いがあるだけでなく、「の」の発音も若干異なっていました。ですから、別語であることには間違いないのですが、これも似ているけどちょっと違う、同じグループに属することばだったと思われます。じっと我慢することと、遠く思慕することとは非常に似た行為だと、当時の人々は考えたのでしょう。そしてこの二つのことばは、平安時代には混同されるようになっていきました。
 今、「恋はしのぶもの」と聞くと「つらさに耐える恋」を思い浮かべますが、古代ではただ我慢するだけではなかった。相手を褒め称えながら遠くから思慕する、それが「しのふ恋」でした(新潮文庫「ひらがなでよめばわかる日本語」から)。

 「しのふ」「しのぶ」感覚でつかみたい言葉です。

 今朝の写真は、塩尻市洗馬地区にある曹洞宗興龍寺の六道輪廻、地獄極楽チベット絵図の石板です。


煽り、恐怖、模倣、迷惑、戦争

2008年09月14日 | つれづれ記

 2003年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作品「ボウリング・フォー・コロンバイン」というマイケル・ムーア監督の映画がある。

 「アメリカ人はガンマニアなのか?」「それとも単なるアホなのか?」というほどにアメリカという国は、けん銃、ライフル等の個人的な保有数が世界で一番高いく、それに比例するかのように年間の殺人事件の発生率も高い国である。

 隣接するカナダもかなり保有率が高いのであるが、殺人事件の発生率になると格段に低い。

 原因は何処にあるのか、その一つに「煽り」があるようである。

 人種差別が激しい国で、黒人の事件は直ぐにメディアは取り上げ報道する。
 白人の心の深層には、奴隷解放以来黒人の暴動、襲撃などの黒人の暴力に対する恐怖感がある。それをメディアは煽るのである。

 白人アメリカ人は煽りに弱い。とことん弱いから少しの煽動に恐怖感が増す。恐怖感が増すと自己を守る防衛本能が目覚め、その方策として武器の所持になるのである。

 アメリカ人のすごいところは、他国へ行ってまでその恐怖心を解消するところにある。
 しかし、恐怖心が即殺人の敢行とはいかないわけで、結論的には分からない。

 殺人の話になると最近は、「模倣犯」が目立つ。秋葉原事件から、祭り等の雑踏現場での似たような殺人事件が発生している。

 影響され易い、変な人が増えているのである。犯罪には手口があり、同じ殺人でも手口が同じ(模倣)なのである。

 企業犯罪や集団犯罪でも、犯罪行為を敢行するのは個人の決断から始まっている。

 認識し、認容し、犯罪の結果を表象し、故意による犯罪である。

 昨年の日本の殺人事件の発生は1200件ほどで戦後最低になってはいるが、生活実感として平安な暮らしの中にあるとはどうも思えない。

 迷惑行為も含めた、社会の秩序を乱す行為者は増えているのではないだろうか。

 迷惑という言葉の定義は、「何を迷惑と感ずるか」ということで、個人の受け止め方により異なる。

 一ついえるのは、迷惑とは自分にとって不愉快なもののことである。思いつくままに列挙してみると次のようになる。

 隣家の騒音、動物愛護名目の捨て猫・犬飼育、ゴミ屋敷、スピード狂、ヤクザ、刺青、給食費を払わない親、ゴマすり・・・・。

 このように書き始めると精神科の連想のようになり、自分の心理分析ができる。

 今夜、NHKでアメリカ兵の戦闘能力と兵士の精神障害の番組が放映された。

 戦争。それは最悪だ。

 今日の写真は、夕日に照らされる穂高川である。


ガイアと身体論

2008年09月14日 | 仏教

 秋雨が静かに降っている。気温も低めで、北海道から紅葉が始まっているようだ。
 土曜日の午前中は松本市に出かける。

 松本市の埋橋付近を通ると、松南高校という女子高が、松商学園に統合されたため松南高校の建物がなくなっており跡地がさら地になっていた。
 新しく小中高一貫の学校になると云うことなどで、この地にその建物が建てられるのかもしれない。

 松南高校も松商学園もともに私立高校である。少子化の時代、統合しないと経営も大変なのであろう。用事を済ますまで待ち時間があるので龍村仁氏の初期の著書「地球(ガイア))のささやき」角川文庫を読む。

  「地球(ガイア))のささやき」に、次のように書かれていた。

 鯨や象が高度な知性を持っていることは、たぶん間違えのない事実だ。
 しかし、その知性は、科学技術を進歩させてきた人間の知性とは大きく違うものだ。人間の知性は、自分にとっての外界、大きく言えば自然をコントロールし、意識のままに支配しようとする、いわば「攻撃性」の知性だ。この「攻撃性」の知性をあまりにも進歩させてきた結果として、人間は大量殺戮や環境破壊を起こし、地球全体の生命を危機に陥れている。
 これに対して、鯨や象の持つ知性は、いわば「受容性」の知性、とでも呼べるものだ。彼らは、自然をコントロールしようなどとは一切思わなず、その代わり、この自然の持つ無限に多様で複雑な営みを、できるだけ繊細に理解し、それに適応して生きるために、その高度な知性を使っている。
 だからこそ彼らは、我々人類よりはるか以前から、あの大きなからだでこの地球に生きながらえてきたのだ。同じ地球に生まれながら、片面だけの知性を異常に進歩させてしまった我々人類は、今、もう一方の知性の持ち主である鯨や象たちからさまざまなことを学ぶことによって、真の意味の地球の知性に進化する必要がある、と私は思っている。

 瀧村氏によるとこのように、人間の知性と鯨や象の知性との間には大きな差があるようである。
 瀧村氏の著作を読んで思うのだが、自然現象や動物との交流の中でガイアの存在を感得したようである。

 同書の解説書の中でジャーナリストの野中ともこさんは、瀧村氏について次のように語っている。

 この小柄な身体のどこに、そんなエネルギーが蓄えられているのだろう? お会いするたびに、いつも思う。
 地球というステージの、どんなに高く、どんなに深く、どんなに遠いところへでも、自分を連れて行く。
「何か」、を感じると「何か」に直に出会い、触れ、嗅ぎ。自分という肉体と、精神と、そして魂との交感をしないと気がすまない。そんな、こまった性格のおかげで、こんなにたくさんの歓びをいただくことが出来ている。
「ディテイルに神宿る」という言葉がある。
 実際、私たちのまわりには、あり余るほどのモノたちがある。自然の生みだしたものであれ、人工物であれ、声高に主張するモノたちの姿は、人の目をひく。
 でも、多くの場合、心ひかれない。
 真実(まこと)を内に秘め、ひっそりと佇むモノたちの声は、時に細く、小さい。
 だから、そこへ近付いて、耳を三つも四つも重ねて、耳をかたむけないとその声は聞こえない。だから、きっと「ささやき」というのは「囁き」と書くのだろうと思う。
 瀧村さんは、全身で、この地球の囁きを聴くことのできる人類である。いや、宇宙人、と呼んでもいいかもしれない。いえ、むしろ仙人、いえ、僧侶、ウーン、一休さんの生まれかわり・・・・。

と。ガイアを感得するとは「囁き」を聴くことにあるようである。
 瀧村氏の著書には、「気」という言葉が出てくる。ブッシュマンの話の中に出てくるのだが、瀧村氏によると、ブッシュマンの弓は小さなもので、一矢で殺せる動物はせいぜい鳥や兎程度の大きさのものらしいが、ブッシュマンはその弓で、鹿などの大きさの動物を狩猟するらしい。
 ブッシュマンは、動物に警戒心を起こさせずにそっと近づける能力を持ち合わせており、

 自分自身の気を鹿なら鹿、象なら象の気に同調させるのだ。
 気を同調させれば、動物たちは決して異種の動物を恐れたり警戒したりしない。

と瀧村氏は、「気」の存在を動物にみるようである。また文中にはさらに、

 その動物のかもし出す気配によって、今、相手が心を許せる状態かどうかを見分けているのだ。

という表現があり「気(き)」は、「気配(けはい)」と密接に重なり合っていると瀧村氏は感ずるようである。

 「気」の重視は、身体なくして論ずることはできないことから「身体論」の上にその思想をのせなくてはならなくなる。したがってそこでは、「ささやき」を聴くことも矛盾しない。

 鎌田茂雄先生によると「気」について日本仏教で語るのは白隠禅師ぐらいで、普通仏教者は、「気」ということを絶対に言わないということである(華厳の思想 講談社学術文庫P139)。
          


今朝の風景

2008年09月11日 | つれづれ記
 コウロギが部屋の片隅で鳴いています。何処から入ってきたのかわかりませんが、探し出し追い出す気持は湧いてきません。

 いつも思うのですが。
 目で見る風景をデジカメで伝えたいのですが、安いカメラですのでそのままの風景を伝えることができなくて残念です。

 ありのままを伝えることは、私が感じる全てを伝えることは当然不可能なことですが、残念です。

 私の感じる今朝の朝陽の大きさは、写真の数倍の大きさに見えます。

 松本平は、濃い霧の下にあるようです。

親鸞の涙

2008年09月07日 | 仏教
 野間宏の小説翻訳で親鸞聖人に出会い、現在歎異抄の中国語訳を行っている同朋大学講師の中国人女性が、今日の心の時代の主人公でした。

「親鸞の涙」

 中国文化革命で父親がかつて日本軍の病院に勤めていたことから糾弾されたという。糾弾を目の当たりにし、幼年期の彼女も時代の中で愛する父を糾弾せねばならない立場におかれた。

 「心に足りないものがあると」と書き始めると、「心はあるのか」とか、「心とは何なのか」などと問われそうですが、常識知識の世界ではことさら「心」に定義をもたせなくともなくとも理解できます。

 「あるくこと」を「歩行」といい、「かぎりなくつづくこと」を「永遠」と言うことになれた日本人は、とかく簡単明瞭な漢語表現を好むようになり、哲学的な表現が理解の深度に関わってきます。

 「こころ」という言葉は、「こころ」と言ったときに既に私たちの脳裏にしっかりと「こころ」があるのです。「心を汲む」「心を寄せる」「心を失う」「心を見失う」そこには「こころ」があるということです。

 「心に足りないもの」という話からずれてしまいましたが、中国人女性講師の方に「親鸞聖人」にひかれる心が湧いたのです。

 自他力の区別などなく、苦しみがなく苦しみがなくなることもない。悟りもなく悟りがなくなることもない。
 しかし導きにより心は、安心の中にあることは確かで、彼女の微笑が物語っていた。