思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

梵天勧請の意味に照らされて

2013年02月27日 | 仏教

[思考] ブログ村キーワード

 ブログにコメントを寄せていただけるのは嬉しいのですが、私に何を求めたいのか理解しがたいものも多く、どうしようもないのは削除しています。好意的であるのかそうでないのか、凡人である私はし方がないので削除しますが、過去の仏教ブログへのコメントですので縁をもたせ今朝は雪ですので早めの出勤に遅滞が生じしない範囲で書きつづりたいと思います。

原始仏教典中村元選書の「犀の角」を読んでみた話[2012年06月11日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b938781b4f0aff3870d300d96b5bb5c5

に書かれたコメントで、

>そういえば、どうせ愚民どもには俺の教えは分かりはしないと考えてたシッダールタはある時、梵天にその教えを広めてくださいと、お願いされて仕方なく教えを広めたんだよね。

という内容で、「俺の教えは分かりは」の主語たる俺は「お釈迦様」のことで梵天勧請の話を私に教示しているわけです。

私のブログの書き出しが、

<自宅に帰り久しぶりに仏教サイトを見ると原始仏教典のスッタニパータの「犀の角のようにただ独り歩め」の話が書かれていました。仏教学者の中村元先生の訳の話について書かれてて、本当かなぁという話なので分厚い中村選書の「犀の角のようにただ独り歩め」の35-37番を見てみました。第6章「慈悲」に書かれ次のように解説されていました。>

中村元先生の「犀の角のようにただ独り歩め」の話に関するブログに私が知り得ていることとは異なる内容であったので個人的なメモとして書いたのですが、どうもそれを読んだ人が「何を思ったのか」私のブログに書き込みをする決意をさせたようです。

 Unknown (麩)というネームでサイトリンクも無く何処のどなたかどのようなお考えなのかよくわからない方からのものです。

「仕方なく教えを広めたんだよね。」

という言葉にネガティブな感情を感じます。その実存的吐露に向かわせた梵天勧請とはどのようなお話なのか、明治期から現代までのお釈迦様物語があるのですがその中から取り出しやすかった(全集なので)すずき出版の「仏教説話体系」から第40巻「仏陀の教え」からこの「梵天勧請」を引用したいと思います。

<「仏陀の教え」から>

伝道の決断

 釈尊……とわれわれは呼ぶことにしよう。ブッダガヤーの菩提樹の下で真理に目覚めて、“ブッダ(仏陀)”になられた方である。″釈迦牟尼仏″″ガウタマブッダ″と呼んでもよいが、近年は“釈尊”なる呼称のほうが一般的である。そこで、われわれはその一般的な“釈尊”といった呼称を採用することにする。

 十二月八日、菩提樹の下で成道を宣言された釈尊は、それからしばらくの間座禅を続けておられた。
<自受法楽>---仏典はその間の釈尊の有様をこう記述している。ご自分が発見された法 (真理)をじっとご自分で楽しんでおられたのである。牛が食物を反すうするように、釈尊も真理を反すうして味わっておられたわけだ。

 時間はある意味で停滞していたのかもしれない。あるいは、三七、二十一日間という時間が一瞬のうちに流れ去ったのかもしれない。ともあれ、釈尊は菩提樹の下に座り続けておられた。

 実は、釈尊はその時こんなふうに考えておられたのである。
 --- わたしの発見した法(真理)は難解である。凡人には理解できそうもない。凡人にそれを説くのはむだであろう。愚なる大衆に法を説くとき、わたしにはただ疲労のみが残る……。だから法を説くのをやめよう。自分はこのまま静かに涅槃に入ろう。

 涅槃とは、燃え盛る煩悩の火の消えた状態を意味する語である。「静けさの境地」とでも訳せばよいか……。釈尊は悟られた真理を胸に秘めたまま、永遠の世界に帰還されようと考えておられたのである。

 しかし、それではわれわれのこの世界はやみに閉ざされたままである。釈尊が発見された真理でもってこの世を照らしていただいてこそ、われわれに救いがある。

 「世尊よ、どうかわたしたちに法(真理)を説きたまえ……」

 それがわれわれ世人の願いである。その願いを代弁したのが梵天(ぼんてん)であった。
 梵天はインドのバラモン教の神である。バラモン教の神が天界からやって来て釈尊に懇願した。
 
「世尊よ、衆生のために法を説きたまえ」

 だが、釈尊はその要請をはねつけられた。

「わたしの悟った真理は難解である。怠惰と放恣(ほうし)のうちにある一般世人が理解できるものではない。それを説いても、わたしにはただ疲労のみが残るであろう。わたしはこのまま涅槃に入るつもりである」

 梵天は必死になって懇請を繰り返す。しかし、釈尊は二度日の懇願をもにべなく拒否された。梵天はそれにひるむことなく三度日の懇願をする。

 三度目、釈尊はようやくにしてその懇願を受け入れられた。

「では、わたしは法を説こう」

 釈尊は伝道を決意されたのである。
 わたしたちはここで確認しておきたい。釈尊は初めから伝道を考えておられたわけではない。ある意味ではわかりきったことだが、釈尊は伝道を前提にして悟りを開かれたのではなかった。逆である。悟りを開かれた後で、その開かれた悟りを人々に教示しょうと考えられたのであった。

 梵天というのは、たぶん釈尊の内面で行われた対話(「伝道しょうか……」「いや、わたしの教えを世人は理解できないかもしれない。だからこのまま涅槃に入るべきではないか……」といった迷いの心理)を表現するために、仏伝作者が登場させた人物であろう。
梵天と釈尊との対話は、伝道に対する釈尊の躊躇が大きかったことを意味する。

 そして、迷いに迷った末に釈尊は決断された。

  ---人々に法を説こう……。

その法が、つまり釈尊によって人々に説かれたその教えが“仏教”なのである。“仏教”.とは、文字どおり「仏陀の教え」という意味である。

<以上上記書p15~p19>

 最近森繁久彌さんの詩から「人の心は 変わらない」という言葉について書きました。上記の梵天勧請とどのようなつながりがあるのか、私はどちらかというと生命哲学が好きですから直感でものを言いますが「お釈迦様も人である」という感動です。

 私たちと変わらない人間であること私は梵天勧請に感動するのはそこです。

コメント者「Unknown (麩)」の「仕方なく教えを広めたんだよね。」という吐露。心から漏れるその言葉。これこそが人間的であると思うのです。コメント者と変わらない仏陀がそこにいます。

 仏は蓮の花の台座の葉の一枚一枚の数ほど変化(へんげ)します。コメント者の心にもその変化の現れが現れているように思います。「万物来たって我を照らす」今まさに吐露のその瞬間に我が身が気づけば「涙こぼるる」と気もあるように思います。

 なぜ私はその衝動に走るのか・・・・。

 人間ですから理由をもっているはずです。自由意志で平等に誰からも何も言われることも無い開かれた存在である「わたし」がそこにいます。

 お釈迦様の縁がなければこう言うコメントもしなかったでしょう。また私自身がそのようなブログを書くことも縁です。

 お釈迦様はバラモンたちの聖典であるヴェーダの権威を認めませんでした。ウッパニシャッドが主張する宇宙原理の実在性を認めず、お釈迦様やそのお弟子さんたちはウッパニシャッドと同じようには自己と宇宙との同一を主張しませんでした、が別の方法で「自己と宇宙の本来的同一性の経験」を追求したのです。それが縁起説です。

 インド哲学の歴史の本にはそのように書いてあり誰もが承知のことだと思いますが、経験から知り得たこと、縁起説を自分のものとすることは大変難しいこと、お釈迦様は凡人には理解できないだろうと思惟する一方、「万物来たって我を照らす」その目覚めは御自身のうちなる慈悲の声を感応させたのかも知れません。

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人が数字になる時

2013年02月26日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

 今日Eテレ100分de名著3月号が発売されました。3月は昨年8月に放送されたフランクルの『夜と霧』アンコール放送です。多くの再放送希望があったようです。私もその後ますますロゴセラピーというよりもフランク自身の思想に魅了されいまだに関係本を読み続け理解を深める努力をしています。

 高い精神性を求めるために学ぶなどというものではなく、魂の求めるままにただひたすらにそこに意味を見出し続けている、それも自分流に、それが実態です。

 2週間前になりますがBOOKOFFに行くと箱入り版の本の列に薄汚れが目立つ一冊のやや小型の本が目に入りました。背表紙を見ると「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」と書かれフランクル著作集1(みすず書房)でした。同書は新旧の二冊を持っているのですが、この本は旧版(霜山徳爾訳)と同内容のもので箱には万年筆で書いたと思われる達筆なローマ字で「J.S.Kaburogi」と所有者であったろう人物の名が記載されていました。

 その古さに心惹かれ中を見ると所々に青色の万年筆で線が書き込まれていました。発行年を見ると今から43年前のものです。どういう人がどういう気持ちで感慨をもって線を書き込まれたのか、人の心はわかりませんが、書かれている本の内容が重なると「人の気持ちがわかる」のです。

 値段は「105円」このままだとこの本の意味を知っている人以外は手に取ることはなく、いつしか処分されるかもしれませんし、個人的にこの線入りがとても貴重に見えたのです。

 人はどこに感動するのか。番組で東日本大震災で被災したお医者さんとこの『夜と霧』の一冊の本の出会いの話があります。同じ本でも今在る心境が『夜と霧』から更なる深みのあるメッセージを受け取る、まさに「どんな時も人生には意味がある」そういう機会を与えてくれる本なのです。

 フランクル全集1の『夜と霧』のプロローグに次の箇所があります。

・・・・・たとえば、収容所の囚人の一定の数を、他の収容所に送る囚人輸送があるということを、われわれが聞いたとする。すると当然のことながら「ガスの中に入れられる」ということを推測するのである。すなわちその輸送とは病人や弱り果てた人々から、いわゆる「淘汰」が、つまり労働が不能になった囚人の選抜、が行われて、ガスかまど及び火葬場のある中央のアウシュヴィッツ大収容所で殲滅されると考えるのである。この瞬間から、あらゆる人々の、あらゆる人々に対する戦いが燃え上るのである。各人は自らと、自分に一番近しい者とを守ろうとし、輸送に入るまいとするのである。例えば最後の瞬間になお輸送者リストから「訴願してはずされる」ことを求めるのである。しかし、殺されることから、誰かが救われるとしても、その代りに誰か別の人が入らなければならないのは明らかなのである。何故ならば輸送の場合には人数だけが、すなわち輸送を充たすべき囚人の数が問題なのである。各囚人は文字どおり番号だけを示しているのであり、輸送のリストには事実、番号のみが書かれてあるのである。我々は収容される際に、あらゆる所持品を奪われ、何の書類もなしにいるとはいえ、様々な職業をもっているのであるから、色々と利用しようと思えばできたのであるが、しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。・・・・・

<以上同書p77から>

 池田香代子さんが訳した新版『夜と霧』の表紙は囚人服に「119104」の文字が書かれた絵になっています。この数字がフランクルの個人の番号なのですが地位も名誉も財産もそして全身の毛さえも奪われた裸の実存の唯一の特定する番号で番号から人が分るのではなく、この番号は番号だけの価値しかありません。この番号だけが自分を示すのです。

 「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」

この私が今手にしているフランクル全集1『夜と霧』の以前の所有者「J.S.Kaburogi」は上記の部分に線を書き込んでいます。

 気持ちはわかりませんが、またわかるような気もする。矛盾極まりない言い方ですが「むぅぅ」なのです。この表現で、この擬情語で通じるのであろうか。脈打つ鼓動ではなく心底魂の精神的感応なのです。

 番組二回分を一枚の音声CDに作りました。しばらくの間通勤時間帯に聴き続けたいと思います。心のもち方、置き所で同じ内容も別な意味を提起してくれることを経験から学びました。きっとまた新しい学びがあるかもしれません。

 ここまで書いてきて今日のタイトルは「人が数字になる時」に呼応して頭に浮かぶ言葉があります。「国民総背番号制」という言葉です。最近この言葉が話題になることはめったにありません。考えてみれば現代社会メールアドレスから、IDから銀行口座の番号から納税の際の税務署番号+納税番号になると今時期初心者でなければ納税番号が分るか否かがわずらわしさの解消になることは十分に承知しているかも知れません。「番号が命」というのはある意味現代社会では通じるのではないでしょうか。

 代表格の個人識別番号「国民総背番号制」とは何か、参考までにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように解説されています。

 【国民総背番号制】(こくみんそうせばんごうせい、国民番号、National identification number)とは、政府が国民全部一人一人に番号を付与し、個人情報を管理しやすくする制度。電子計算機による行政事務の効率化を目的とする。
国民一人一人に重複しない番号を付与し、それぞれの個人情報をこれに帰属させることで国民全体の個人情報管理の効率化を図る。氏名、本籍、住所、性別、生年月日を中心的な情報とし、その他の管理対象となる個人情報としては、社会保障制度納付、納税、各種免許、犯罪前科、金融口座、親族関係などがあげられる。多くの情報を本制度によって管理すればそれだけ行政遂行コストが下がり、国民にとっても自己の情報を確認や訂正がしやすいメリットがある。
 政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。

概要も含めてこのような解説がなされ「政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。」と書かれています。

 数字は個人を特定する。

 数字は単なる数字でしかない。

 全ての人々が「個人番号」という一般化された言葉に集約された時、「個人の存在は数字の存在」を表わします。

 「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」(『夜と霧』)

にどのような個人の存在があるのだろうか。現代人は次のように語ります。

 「政府による国民の個人情報の管理が容易となる反面、官僚の窃用や、不法に情報を入手した者による情報流出の可能性が懸念される。」

 この言葉にどんな存在の苦しみがあるのだろうか。

 存在を知られたくない。

有名なシンドラーのリストには名前だけは記載されました。

ホロコーストを生きのびて ~シンドラーとユダヤ人 真実の物語~[2010年08月15日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6a2c9f833b683c411b6d8abb72c31647

しかし『夜と霧』のこの場面ではあるのは数字だけであって、一般化された人間という個体でしかありません。

 「人が数字になる時」

 「存在」の意味するところは何なのでしょうか、本質的存在、事実的存在を導き出したのはドイツ人でした。それを知っているばかりに人間のリアルな存在を考えてしまいます。

 『夜と霧』の言葉を借りるならば親衛隊将校の「この一人の人間の人差し指の僅かな動きがもっている意味」がこの物語、フランクルという一心理学者の強制収容所体験『夜と霧』の最初の大きな衝撃です。

 人が単なる数字になる時、名でさえ知られない存在で消えて行く。

V・E・フランクルは『夜と霧』を書くにあたって次のように述べています。

 私は自分が「通常の」囚人以上のものではなかったこと、119104号以外の何ものでもなかったことを、ささやかな誇りをもって述べたいと思う。(『夜と霧』)

「人が数字になる時」

世の人は何を思うのだろうか。

「しかし実際は確認(多くの場合、入墨によって)できるものといえは、また収容所員が関心をもつ唯一のものといえは、それは囚人の番号であった。」

にラインを引いた「J.S.Kaburogi」に敬意を表したいと思います。

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安曇野の風景・白鳥と北アルプス

2013年02月25日 | 風景

 出かけついでに安曇野市内にあるいくつかの白鳥飛来地の白鳥を久しぶりに見に行きました。安曇野には冬期間多くの白鳥がシベリアから飛来します。安曇野市のホームページには次のように白鳥に関するページが置かれています。

長野県安曇野市ホームページ(白鳥飛来情報)
http://www.city.azumino.nagano.jp/kanko/fubutsushi/hakuchou/hiraijouhou.html

 平成25年2月15日現在:1,068羽が飛来しているとのこと見に行ったのは、御宝田遊水池という一番多くの白鳥が集まる場所ではなく普通の田んぼの飛来地です。

 今年は冷え込みが強く田に張った水は凍り氷の上で休んだり、上空を旋回したりしていました。バックに北アルプスの常念岳、有明山が見え本格的なカメラを持った人達が来ていてシャッターを押していました。

 若い人は居らず、高齢者の人達がほとんどでした。午前中の早い時間だからなのだろうか、いつも高齢者が多いのです。私もその年齢に近いので光り輝く山々と白鳥、静と動の世界、鳥の鳴き声が風景の中で響く・・・そんな風景がなぜか心地よい・・・そういう理由なんでしょう。

 人間だからついそんな問いをしてしまいますが、単純にそんな風景が好きなんです。ただそれだけなんです。

 クェークェー

 私にはそう聞こえるハクチョウたちの鳴き声、これで通じますかね。「ガーガー」と鳴くアヒルとは異なる鳴き声です。羽ばたく音はパタパタ。寒さがジィーンと骨身に伝わってきます。

 シベリアでは天敵も多いと思いますがここでは野犬もおらず安心しきっています。エサは定期的に地元の人たちが与えているようです。

 昨朝のEテレの「こころの時代~宗教・人生~」は、生命誌研究者、JT生命誌研究館館長の中村桂子先生の「38億年 いのちの中へ」でした。震災のあった2011年に放送されたもので

38億年前の一つの細胞から[2011年10月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/4d7818bc3cc8fda1238f2e05a2f8b060

ブログで紹介しましたが、再度感動しました。

 生命は38億年前の一つの細胞から始まる。こういう番組を全ての人が見たならばただでは生きられない。大事話ではなく、「人の心は 変わらない」、そういう心に気づくようになる。そのような語りが番組にありました。

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思考を思考する・万象に感応し咀嚼し叡智を愛する。

2013年02月24日 | 思考探究

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 私はブログの名称を「思考の部屋」としています。すなわち思考を「Thinking」といういう英語に解せるもので「thinking reed 考える葦」は即ちパスカルの言うところの思考する人間であり、個人的には最近のブログで言及したとおり、「人間の分際」という汝自身を知る所の範囲の精神活動と思っています。

 「思考」は単純に「思い」と「考え」が合体した明治期の訳語だと思いますが、実在論がすきな私なのでそのあたりで知ったことですが、明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家清澤満之の『純正哲学』の「事実の実在」に出てくる「只之ヲ思考スルニ当リ」が初期の使われ方と思います。

 「思い」とはどのような意味なのだろうか、古語では、「思ひ」であり、

おも・ひ【思ひ】
Ⅰ〔四段〕《オモ(面)オヒ(覆)の約か。胸のうちに、心配・恨み・執念・望み・恋・予想などを抱いて、おもてに出さず、じっとたくわえている意が原義。ウラミが心の中で恨む意から、恨み言を外にいう意をもつに至るように、情念を表わす語は、単に心中に抱くだけでなく、それを外部に形に示す意を表わすようになることが多いが、オモヒも、転義として心の中の感情が顔つきに表われる意を示すことがある。オモヒが内に蔵する点に中心を持つに対し、類義語ココロは、外に向かって働く原動力を常に保っている点に相違がある》
1 胸の中で慕う。恋慕する。
2 胸の中で願う。心の中で望む。
3 胸の中で悩む。ひそかに心配する。
4 心の中で認める。
5 胸の中で決心する。
6 予期する。予想する。
7 心の中で考える。
Ⅱ 〔名〕
1 胸の中の思慕の情。
2 胸の中の願い・望み。
3 胸の中の苦悩。心配。
4 喪。服喪。
5 予想。推量。想像。
6 寵愛。


一方、「考え」と言葉にはどのような意味が含まれるのか。以前ブログにも書いたと思うのですが、古語では「考へ」であり、

かんが・へ【検へ・勘へ・考へ】
1 調べただして、罰を与える。
2 占いの結果を取り調べて、解釈する。
3 比較衡量する。

上記の解説は『岩波古語辞典』を使用しました。「思考」という言葉がこの二語「思ひ」「考へ」を結合したことばであるとするならば、それは使用する本人の知的な感性が影響するのだと思います。

 清澤満之の「「只之ヲ思考スルニ当リ」における「思考」、私は専門家ではありませんので『純正哲学』における「思考について」を論ずるつもりはありません、

Thinking
1 考える, 思索する;思考力のある, 道理のわかる, 理性のある
2 考え[思慮]深い, 慎重な

で納まるものではないと思います。

また心理学用語としての「思考」があります。これも資料的なメモとして引用したいと思います。

手元に何冊かあるのですが、時間的都合から二冊だけにとどめます。先に事例も含めた解説として『事例 心理学事典』(フランク・J・ブルノー著・安田一郎訳・青土社)の解説です。

<思考>Thinking
 【定義】思考は、知覚、、概念、象徴、心像を利用する精神活動であり、認知的情報処理過程の一形式である。思考の目的には、問題を解決すること、決断をすること、外的現実を表象することなどがある。

【実例】人が最近だれか他の人に侮辱されたとする。その事件が終わってから、その人はそれについて反芻する。その人はこう考える。「彼女はそう言うべきでなかったのだ。それは公正を欠いている。もしチャンスがあれば、今度は一言か二言、言おう」と。われわれのいくつかの思考方法の一つは、意識に文章を浮かばせることだ。上に述べた「反芻」ということばは、熱考する、思案するという意味である。そしてこれは、思考過程の普通の一側面である。

【関連事項】ウイルヘルム・ヴントやウイリアム・ジェームズのような心理学の初期の建設者は、われわれが思考を研究するのは当然だと考えていた。ところがジョン・ワトソンや過激な行動主義者は、思考の研究の重要性を信じなかった。近年、思考過程に対する関心が大きくよみがえった。そして概念形成や認知的発達などについてたくさんの研究がなされている。
 思考は普通、意識的過程とみなされている。ところが、フロイトは無意識的な思考が可能だという仮説を提出した。この仮説についての彼の証拠は、言い間違いや夢の解釈などから来ている。フロイトの仮説は、多数の支持者をもっている。それゆえ、われわれが思考とよんでいるものは、意識的な領域以上と関係があると言えるかもしれない。

次は『誠信 心理学事典』(誠信書房)から一部ですが次のように語られています。

<思考>【thinking 独Denken 仏pensee】もっとも広義には,意識するか否かに関係なく心の働き、機能のことをいう。知覚・記憶・学習などの心的機能と明確に区別することはできない。思考の目的的特徴を強調するときには問題解決(problem solving)とよばれる。記憶との境を明確にするため生産的思考(prductive thinking)と再生的思考(reproductive thinking)ということがある。後者が記憶の再生にもとづくのに対して,前者は創造的であることを示そうとするものである。

 学習は一般に新しい行動様式を習得することを意味するが、この新しさは思考と無関係ではない。思考と対立する心的機能としては感情・情動があげられる。感覚的知覚は与えられたものであるという意味で思考とは関係のないものと考えられることもある。感覚的知覚との区別があいまいになれば直観的・具体的思考に対して抽象的思考が取りあげられる。感情・情動との区別をしなければ自閉的・願望的思考に対して合理的・論理的思考という用語が使われる。いずれにしても思考の固有な特質は生産的・創造的なところにあり、人のもっとも高等な心的機能であると考えられている。この高等な心的機能はプラトンからへルムホルツを経て今日に至るまで言語と密接な関係をもつものとみなされ、言語と思考が同じように考えられている。心や意識という概念を心理学から追放しようとした行動主義者のワトソソですら、思考を内語(inner speech)として言語と関係づけようとしたほどである。思考の研究は大別して三つの流れがある。・・・以下略

<以上>

上記の『誠信 心理学事典』では思考の研究の流れ三つが語られていますが、日本語として個人的に使用している「思考」には私自身、このような厳格な解釈を理解しているものではありません。

あくまでも培われた「思い」「考え」そしてこれまでの「思考」という言葉に出会い個人的な意味理解による「思考」という言葉です。

 食物を口に入れ咀嚼し体の栄養要素にし、また不要なものとして排斥する。

 私の「思考」は、「もの的思考」というやまと言葉のもつ動的な言葉自体のもつ特徴に影響されています。それは「部屋」と付け加えることで個性をもたせています。

 万象に感応し咀嚼し叡智を愛する。

「叡智を愛する」は哲学以前の思い。

「万象に感応し咀嚼し」は反哲学。

です。意味不明かもしれませんが個人的にはそのように「思考」を直感的に思い、考えています。

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欲望という名の魔物・遥か地平のさらなる向こうに見えるもの

2013年02月23日 | 思考探究

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(見出し写真:『ギリシャ神話 神々と英雄たち』(教養文庫から)

 ギリシャ神話のパンドラの箱(匣・壺)における「前知魔」と「希望」の話はこれまでに何回となく書いていますが、個人的な復習として言葉を換えて掲出し、これにまた思考を重ねたいと思います。

 坪内逍遙が「美しい文章」 と絶賛した明治期の名著『ギリシャ神話』(ジェームス ボールドイン著・ 杉谷代水訳・富山房企畫)ここに時々話題にしている希望という名の「前知魔」が書かれています。

 さればパンドーラ姫、蓋を閉づること尚遅かりせば、事の悪結果は更らに是れに止まらざりしならん。姫は最後の怪物の匣(はこ)より出でんとしたる時早くもこれを閉(とざ)しつ。此の怪物、名を「前知魔」(Foreboding)と云う。匣より半身を現わしたる時、姫は之れを押し込めて固く蓋を閉しければ、遂に得出でざりき。彼れ若し世に出でんには、人々は幼時より己が一代に起るべき先々の事を詳(つまび)らかに前知し得ることとなり、世に希望というもの全く亡きに至るべかりしとぞ。

 「美しい文章」と語る坪内逍遙の気持ちが伝わってくるのですが、現代文となるとなかなかその美しさは難しいような気がします。やはり明治という時代の文章のもつリズム感には七五調の日本語の心地よさがまだそ深層に残っているように思うのです。

 同書は新版が出され現代文も書かれているので是非一読してその感覚の違いを味わうのも面白いかも知れません。

 さてこのジェームス ボールドインの「ギリシャ神話」は、パンドラの箱(匣)から「前知魔」(Foreboding)出てしまっていたら、「人々は幼い時から自分の一生に起る先々のことを詳しく知ることになって世に希望というものがなくなってしまうだろうと思われる。」と書いています。

 前知魔以外の魔物たちは、本では怪物と表現され、

 それは「疾病」と「憂苦」の妖精

だと言います。世の人々はこの事変が起きるまで病や心の苦しみを知らず、その怪物たちは痛みや悲しみ、そして死をまき散らしたのです。現在の世の中の災厄はこのようにして人々の前に立ち現れることになった、というのがこの神話のいみするところです。

 教養文庫に『ギリシャ神話 神々と英雄たち』(B・エプスリン著・三浦朱門訳)があり、ここでは、

・・・・パンドラが箱の中に閉め込んだ化け物は、最も危険な化け物で、最後の悪ともいうべき「予知する力」であった。もしこれが飛び出したら、世界の中の人間は毎日、自分にどんな災難がふりかかるかを知ることになる。そこには希望はない。人間は破滅する。人間は果てしない苦悩には耐えられても、希望なしには生きられないからである。

と書かれていて、箱からはどんな化け物が出てきたのか、

・・・・それは人間い憑りつく病気だった。悪意、またさまざまの形を不健全さ、老い、飢え、狂気、ならびにその同類だった。それらが箱から飛び出すと、一軒一軒の家の垂木にとりついて、時を待った。機会が来ると、飛んで行って刺す。こうして苦痛と悲しみと死をもたらす。・・・・・

「疾病」と「憂苦」、「苦痛」と「悲しみ」、仏教でいう「四苦八苦」という言葉があります。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、

 「四苦八苦(しくはっく)」とは、仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。
 
 根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、
 
 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
 
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。

以上の中に前知魔以外の怪物、化け物がもたらす苦の災が言いつくされているように思います。

「一軒一軒の家の垂木にとりついて機会が来ると、飛んで行って刺す。こうして苦痛と悲しみと死をもたらす。」

ジェームス ボールドイン著には出てこない、B・エプスリン著のこの言葉が印象的です。

 蚊が刺すように、蜂が刺すように・・・・そして苦痛と悲しみはおとずれる。

さて話は変えていきます。上記の仏教における「根本的な四つの思うがままにならないこと」の中の「求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと」その文字群から分かるように「欲望という名の魔物」の一刺しのようです。

 ここでもしも人間に欲望がなくなったらどうなるのか。ほどほどの欲望も必要でると直感で思う人がいると思います。程度が大事で抑制力がその災いの源基であることは教えられなくとも人は承知しています。

 しかし、所詮人間という分際(ぶんざい)。神から言わせれば分際(みのほど)を知れのとおり自ら招く災いに右往左往する存在です。文芸評論家の小林秀雄先生は私見だと断りながら「パスカルの『人間は考える葦である』という言葉は、人間の分際を言ったものだ」と、述べていましたが、私もその言葉の全面的に賛同します。

 話がまた横道にずれましたが、「人間に欲望がなくなったらどうなるのか。」という話しですが、昨年出版された翻訳本で『スタンフォードの自分を変える教室』(ケリー・マクゴニガル著・神崎朗子訳・大和書房)があります。スタンフォード大学の心理学者ケリー・マクゴニガルが書いた「意志力の科学」で、その授業は多くのメディアで取り上げられる有名なものだそうです。私のような精神と肉体の関係にも興味のある人には必見と思います。

 これはあくまでも個人的に興味をもつところですが、この『スタンフォードの自分を変える教室』に出てくる体内物質があります。ドーパミンという物質でフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、

【ドーパミン】(英: Dopamine)は、中枢神経系に存在する神経伝達物質で、アドレナリン、ノルアドレナリンの前駆体でもある。運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる。セロトニン、ノルアドレナリン、アドレナリン、ヒスタミン、ドーパミンを総称してモノアミン神経伝達物質と呼ぶ。またドーパミンは、ノルアドレナリン、アドレナリンと共にカテコール基をもつためカテコールアミンとも総称される。医学・医療分野では日本語表記をドパミンとしている。
 
統合失調症の陽性症状(幻覚・妄想など)は基底核や中脳辺縁系ニューロンのドーパミン過剰によって生じるという仮説がある。この仮説に基づき薬物療法で一定の成果を収めてきているが、一方で陰性症状には効果が無く、根本的病因としては仮説の域を出ていない。覚醒剤はドーパミン作動性に作用するため、中毒症状は統合失調症に類似する。強迫性障害、トゥレット障害、注意欠陥多動性障害(ADHD)においてもドーパミン機能の異常が示唆されている。<以下略>

「運動調節、ホルモン調節、快の感情、意欲、学習などに関わる。」にかかわる重要な物質であることだけは素人にもわかります。あり過ぎても困るし少なすぎても何かと問題がありそうです。

「人間に欲望がなくなったらどうなるのか。」という問いについて上記の『スタンフォードの自分を変える教室』にある中毒者の事例とともに解説されています。

<「欲望がなくなった人間はどうなるか?」同書p195から>
 ドーパミン抑制剤を処方してほしいなどと医師に頼むまえに、報酬への期待のよい面も見ておいたほうがよいでしょう。欲望に従えば満足を得られると勘ちがいすれば困ったことになりますが、では欲望を完全になくせばよいかというと、そんなことはありません。欲望のない人生には自制心も必要ないでしょうが、そんな人生はきっと生きるに値しません。

 アダムは自制心が強いほうではありませんでした。現在33歳、一日に約10杯の酒を飲み、クラック・コカインを吸い、ときにはエクスタシーまでやっています。薬物乱用歴は長く、9歳から酒を飲み始め、13歳でコカインに手を出し、大人になったころにはマリファナやコカインやアヘンやエクスタシーに病みつきになっていました。
 
 ある日、すべてが変わりました。パーティをやっていた部屋から緊急治療室へかつぎこまれたのです。違法な薬物所持で捕まるのを恐れたアダムは、持っていた薬物をいっペんに全部飲んでしまいました(とても賢い方法とは言えません。しかし、肩を持つわけではありませんが、頭が朦朧としていたのです)。コカイン、エクスタシー、オキシコドン、メタドンを乱用した結果、血圧が危険なほど低下し、脳への酸素供給が減ってしまいました。
 
 それでもアダムは何とか息を吹き返し、やがて集中治療室から出ることができましたが、一時的にせよ酸素欠乏が起きたせいで深刻な影響が出ていることがわかりました。もはやアダムはドラッグやアルコールに対する欲望をすっかり失っていました。以前は毎日薬物を使用していた彼が、いまや完全な禁断状態にあることが、6カ月にわたる薬物検査で確認されました。この奇跡的な変貌ぶりは神のお告げのせいでもなければ、死にかけたせいで目が覚めたからでもありません。アダムにいわせれば、ただすべて欲しくなくなったというのです。
 
 そう聞くと、物事が何だかよい方向へ変わったように思えますが、欲望を失ったのはコカインやアルコールだけではすみませんでした。アダムは欲望そのものを完全になくしてしまったのです。何をしても、楽しい気分にはなれそうにありませんでした。体力も落ち、集中力もなくなり、みんなから離れてひとりで過ごすようになりました。

 楽しいことを期待する能力をなくしたアダムは、希望を失い、探刻なうつ状態に陥ってしまいました。

 いったいなぜ欲望がなくなったのでしょうか? アダムの治療にあたっていたコロンビア大学の精神科医たちは、彼の脳をスキャンした結果、その答えを見つけました。薬物の過剰摂取による酸素欠乏のせいで、脳の報酬システムに障害が残っていたのです。

<以上>

わけの解らない話を書いているのですが、この話に「パンドラの箱」の「一刺し」の世に「前知魔」が出たとしたならばどうなるのか。これはあくまでも創造の話で語り手は刺されていない一般者です。

「楽しいことを期待する能力をなくしたアダムは、希望を失い、深刻なうつ状態に陥ってしまいました。」

 これまで「パンドラの箱」で語られる災厄は自然災害や突然事故、身近な人の死・・・。そのような視点から「希望」や「人生の意味」を考えていました。

 「人々は幼い時から自分の一生に起る先々のことを詳しく知ることになって世に希望というものがなくなってしまうだろうと思われる。」(ジェームス ボールドイン)

 「人間は果てしない苦悩には耐えられても、希望なしには生きられないからである。」(B・エプスリン)

今回取り上げている二著の「希望」に係わる部分です。楽しいこと期待する能力を失った人間、苦境の時にも笑いが持てる、フランクルも笑いの効用を語っていました。それさえも失うこと・・・・「希望」を失うとは深刻なうつ状態に陥ること・・・・現代社会を見ると以前「前知魔」という化け物は既に出ているのではないか、ということを書いたことがあります。

 「一刺し」は人間(主体)に影響するということだけではなく客体にも影響する全世界を包む大空高く飛翔した魔物の毒牙のようです。

 語られる言葉には、深い意味がある。その理解は人それぞれに解釈が異なり、理解の差があり、また無理解もあります。

 「脳の報酬システムに障害」

これは科学的な目で見た異常であり、精神の異常に現れる。一方「薬物乱用歴は長く、9歳から酒を飲み始め、13歳でコカインに手を出し、大人になったころにはマリファナやコカインやアヘンやエクスタシーに病みつきになっていました。」は意思の決定による自戒の問題として現れています。

 ここにも「親は子から生まれる」という思想が語られると思うのです。それはまた「子は親から生まれる」の「即是」の関係です。両意義性を持つといってもいいかも知れません。

 今回もまとまりのない話になりましたが、「語られるものには、語られていないものも含まれる」という話しで、「無いこと」を求めると「有ること」に気づく。

 超意識という個人(主体)の意識の心の目の極限は、自己の意識を離れたは超越的存在(客体)の形而上学的な視点の極限でもある、という話です。

 黒い頭髪の人間が臨む、遥か地平のさらなる向こうに見えるものは、金髪の自分の背中であった、という話でもあります。

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人の心は 変わらない

2013年02月22日 | ことば

[思考] ブログ村キーワード

 前回の「親は子から生まれる」ブログにコメントが寄せられ、本来ならばコメント欄に書くべきですが、書き始めたところ、長くなってしまい本文に書くことにしました。

 発想の根柢に何があるのか。西田先生の「物来って我を照らす」という言葉とV・E・フランクルの「人生には意味がある」が浮かびます。言葉はあくまでも抽象的で「親」「子」という言葉は誰も使いますが、今在(あ)る自分が持つ言葉はある意味歴史的産物で言葉に無数の概念を背負っています。

 「わかる」ということはどういうことかということなのか。

 「親子」という二語の直感的なイメージはどんな感情とともに立ち現れるのか。

 「親」と「子」に分離した時には既に関係性は言葉の内に存在しています。

 相依相関とは、どこからとなく立ち現れます。それは誰もがみんなそう感じそのような発想をもつこともできるもので難しいことではないと思います。「私はなぜ問いをもつのか」そのなかには種が既に播かれている。それが日々の光を得て萌芽してくる。

 そういう生き方でありたい。さほど長い人生があるわけでもないのですが「問い」をもち続けるそれが本来的な人なのだと思います。そして、

>全くの他人、関わりのある人、そのような範疇化で規定するのが人です。

と書くと同じ「人」なのに過不足を感じます。「範疇化」とは言葉の概念をつくり上げる意味で言いましたが、そこにはつくり上げる自分があります。

 何人かの独身者に、「親は子から生まれる」という言葉は意味をなすか、と質問したら「子を育てることによって親になる」発想は直ぐには出てきませんでした。

 そこで説明をすると一つの光を受けるようです。自分のなかに何かが育つ。

 文章に一貫性が無いかも知れませんがすみません。

「親は子から生まれる」

という言葉は以前言語学の関係の本に書かれていたものでそこではここまで言及しておらず、言葉の成立の視点で書かれていました。

これも一つの種だったんだと思います。「物来って我を照らす」という言葉も影響し、フランクルの思想もそこに重なりその他諸々の蓄積したものが重なり、書いたその朝を迎え書きました。

 コメントしていただき、さらに考えさせられました。『善の研究』やその他の西田先生の本は言葉がとても難解です。上田閑照先生の本はよく読んでいます。一回読んでそれでよいわけでなく、その他に読む本もあり、その影響からまた違う視点や発想が出てきます。

「物来って我を照らす」ですし「人生には意味がある」

 ここまで来て、また付け足したくなりました。現代はYouTubeという便利なサイトがあります。大昔(小さいころ)テレビ番組で森繁久彌さんの「七人の孫」という番組がありました。その主題歌がどうしても知りたくていたところYouTube にありました。

作詞:森繁久弥
作曲:山本直純
七人の孫(テーマ)

どこかでほほえむ 人もありゃ
どこかで泣いてる 人もある
あの屋根の下 あの窓の部屋
いろんな人が 生きている
どんなに時代が 移ろうと
どんなに世界が 変わろうと
人の心は 変わらない
悲しみに 喜びに
今日もみんな 生きている

※だけどだけど これだけはいえる
人生はいいものだ いいものだ


どこかで愛する 人もありゃ
どこかで別れる 人もある
この空の下 この雲のかげ
いろんな人が 生きている
どんなに時代が 移ろうと
どんなに世界が 変わろうと
人の心は 変わらない
幸せがつかめずに
今日も誰かが 涙する
(※くり返し)


どこかで愛する 人もありゃ
どこかで別れる 人もある
この空の下 この雲のかげ
いろんな人が 生きている
どんなに時代が 移ろうと
どんなに世界が 変わろうと
人の心は 変わらない
幸せがつかめずに
今日も誰かが 涙する
(※くり返し)

森繁さんはすごいと思うのです。

「人の心は 変わらない」

この言葉をどのような感慨をもつことができるか。

悲しみに 喜びに
今日もみんな 生きている

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安曇野の風景・有明山

2013年02月21日 | 風景

 久しぶりに大糸線にのりました。有明駅を午前7時発の各駅停車。学生を中心に多くの乗客があります。学期末の試験でしょうか男子学生が隣で一生懸命英語の問題集を解いていました。女子学生群は互いに試験予想でもしているように賑やかな会話の声が聞こえます。

 我が人生を振り返ると勉強というよりもスポーツにのめり込んでいて、こうのような思い出はありません。殴られるといった前時代的な指導の下でのめり込んでいたわけでなく、自らの意志で、今から考えると呆れてしまいますが、いろいろな青春があります。

 もう少し勉強をしとけばよかった・・・過ぎ去りし時間・・・過去ですね。

 それにしても今年は雪が多く寒い。

 写真は駅のホームから撮った朝陽に光る北アルプスの有明山です。


親は子から生まれる

2013年02月18日 | ことば

[思考] ブログ村キーワード

 昨日スーパーに買い物に出かけた際に「この子の親は誰だ?」という問いを発するような光景を目撃しました。具体的にその内容を紹介するほどのことではないので書きませんが、善きに悪しきにそういう問いを発する体験をすることがあります。

 なぜそうなのか。二人の子の親でもあり、親としての自覚を促される意味の理解の時だからだと思います。

 その時に「鶏が先か、卵が先か」と欲哲学的な論争のテーマが浮かびました。「鶏が先か、卵が先か」とは何か。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように書かれています。

《ウィキペディア(Wikipedia)》
 「鶏が先か、卵が先か」(にわとりがさきか、たまごがさきか)という因果性のジレンマは、平たく言えば「ニワトリとタマゴのどちらが先にできたのか」という問題である。昔の哲学者にとってこの疑問は、生命とこの世界全体がどのように始まったのかという疑問に行き着くものだった。

 教養的な文脈で「鶏が先か、卵が先か」と述べるとき、それは互いに循環する原因と結果の端緒を同定しようとする無益さを指摘しているのである。その観点には、この問いが持つ最も根源的な性質が横たわっている。文字通りの解答はある意味明白であり、初めて鶏の卵を産んだ鶏以外の一個体(またはその卵の父親を含む二個体)が鶏の存在を規定したと言える。しかしメタファーとしての視点に立つと、この問いはジレンマにつながる形而上学的問題をはらんでいる。そのメタファーとしての意味をよりよく理解するために、問いは次のように言い換えることができる。「X が Y 無しに生じ得ず、Y が X 無しに生じ得ない場合、最初に生じたのはどちらだろうか?」
 
同様の状態として、工学や科学での循環参照を挙げることができる。すなわちある変数を計算するためにその変数そのものが必要となるというものであり、例としてファンデルワールスの状態方程式や有名なコールブルックの式 (en:Colebrook equation) が挙げられる。

<以上>

 ほとんどチンプンカンプンな話ですが、哲学的なことが好きな人は必ず論議したくなる話です。

※「チンプンカンプン」という言葉が浮かんだのでそのように書きましたが、もしかしてオノマトペ?と思い調べると「珍紛漢紛」のほか「珍糞漢糞」「陳奮翰奮」と書くようで捨てがたい疑問を感じてしまいましたが、止めときます。

 ケシャそのような哲学的な後先について語ろうというのではなく単純に「この子の親は誰?」とそのように思う自分自身について自覚に基づく話を書こうと思います。しかしメタファーとしての意味の理解であることを離れないのでその範疇にはある話かもしれません。書くうちにそうなってしまうかも知れません。結論が先か、問いが先か、「後先論争」がもう始まってしまうのが文才のない私のブログです。

 まぁとにかく「親子の話しである」ことには誤りはないと思います。親は卵から生まれました。つまり人間ならば「子は親から生まれる」という明白な事実がそこにあります。

 そうして今、私たち人類は、哺乳類の有胎盤類に属し、哺乳類の歴史は今から2億2000万年前から始まり、その頃推定ですが、活動はもっぱら夜間で、恐竜に虐げられる中で大きな進化もせずに原始的な小さな体のままで生きのびていました。卵胎生か否かの壮大な人類進化を思い出しますが、なぜ私たち人間が哺乳類の有胎盤類に属するようになったかについては思考の部屋ブログの

過去からの贈り物・命の尊厳[2010年08月30日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/03ebe441925b08dcd50fc4c5972e5cf0

を参考にしてください。いけません悪い癖でもうテーマから外れてしまいました。

 「この子の親は誰だ?」

という問いは、

親とはどういうことなのか。

子とはどういうことなのか。

子供の成育にも関わる重要な問題ですが義務教育では教わることはなかったような気がしますが、親から生まれてきた自分自身を振り返ると多くのものを父や母から年配者から教えを受けたように思います。

 親は子の鏡

 子は親を見て育つ

 子を見れば親が分る

親の責任は重大なのであります。皆さんそうではないでしょうか!

 という当たり前の話を書いて、一つの文章に、また話に出会います。

「親は子から生まれる」

 先ほどは「子は親から生まれる」ですからパラドックスにもならない誤まった文章です。

「親は子から生まれる」

 そんなことは絶対にない。しかし以上の話を自分で咀嚼しながら考えつつ文章を読んだ来た人の中には、まったく疑問がでない人がいるはずです。

 この「親は子から生まれる」という禅的な話を知る人ならば、既に疑問は出なかったと思います。

 観念の180度の転回で、人生には意味があるというフランクルの話しにも通じるかもしれません。

 親は子どもを育てることで、親としての自覚ができ、後ろ指をさされない親になって行くという道徳的な話なわけです。

 また視点の転回でもあるわけで、親があって子供がある。鶏があって卵がある。わけで相依性の関係でもあり「無我の境地において存在は一切の相依性を明らかにする哲学」などという言葉を思い出しすなわち縁起の話で龍樹の中論という仏教的な話しにもなります。

「此れがあるとき彼があり、此れが起るとき彼が起きる」

相互依存の縁起の話しその顕証話でもあるわけです。

そこには後先がありません。

 昨日出遭った出来事本当に大した話ではありません。しかし・・・・「多数の人を殺した子の親」「原爆を保有することに善を感じる子」、親も子であったわけで今まさに自分が問われているわけです。

「まさに」真に、正に、将に、政に・・・・

一刹那のその瞬間の純粋経験の真っ只中に自覚する自分が大切なその時

この矛盾的な言い方、文才のなさの極み!

「親は子から生まれる」

を思うのです。

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「たまたま」落ちたロシアの隕石から

2013年02月17日 | ことば

[思考] ブログ村キーワード

 ロシアに100年に一度という大きな隕石が落ちました。その衝撃波によってガラス窓や壁が壊れ1200人近い人たちがけがをしたとのこと驚きました。日本にも人家の屋根を破壊した隕石が話題になりましたが、その破壊力の大きさは比べものにならないものでした。火星と木星の中間にある小惑星群からの一つとのこと以前テレビ番組でこのような隕石になる小惑星の監視は国際的な協力機関が常に監視しているということでしたが、ニュースによると全く把握されていなかったようで、この程度の隕石は予測不可能に起きることが明らかになりました。

 大規模地震、津波、気候変動、無差別殺人、原発問題、そして隕石落下と情報化時代においては全てが同時に起きている錯覚にとらわれてしまいこの世の終わりが近づいているように思ってしまいます。

 地球規模で長い歴史を考えれば偶然の出来事で、科学技術はその発生の可能性を統計学的な見地や観察、実験等で研究しているのですが未だに予測は不可能と言った方がよいようです。可能性が必然的に起きるということまでに高まったのは、今のところ今日の天気、明日の天気程度のようです。

 以前書いたことがありますが古語では、

【偶然】
 おのづから[自]
 かりそめ[仮初]
 けりょう[仮令]
 ねんなし[念無]
【偶然ある】
 ありあふ[有合]
【偶然に】
 じせつと[時節]
 たまたま[偶・適]
 ゆくりなく わくらばに[邂逅]
 
という言葉になります(『古語類語辞典(三省堂)』)。偶然に起きる出来事の「偶然に」の「たまたま」は今も使われていますが、別の辞書には「たまさか」という言い方もあったようです。そこで「たまたま」と「たまさか」はどこが違うかということで岩波の古語辞典を引くと

たまさか【偶・邂逅】
(偶然出会うさま。類語マレは、存在・出現の度数が極めて少ない意。ユクリカ・ユクリナシは不意・唐突の意)
 1 ばったり出会うさま。
 2 思いがけないさま。偶然。
 3 まれであること。めったにないこと。
 4 万一のこと。ひょっとしたこと。

たまたま【偶・適】
 (予期もしなかったことに偶然出くわすさま。和文脈系に使われることが少ない。)
 1 思いがけず何かのはずみで。偶然に。
 2 まれに。万が一。

と書かれていて。どうでもよい話ですが「たまたま」は今も使われているということがわかります。

 辞書の引く楽しみですが「類語マレは、存在・出現の度数が極めて少ない意。ユクリカ・ユクリナシは不意・唐突の意」という記述に次の楽しみを発見します。ということで岩波の古語辞典を引くと、

まれ【希】
 (古形マラの転。ことの起きる機会や物が数少なくて不定、まばらであるさま。類語タマサカは、出会いの偶然であるさま)
 1 めったにないさま。
 2 すくないさま。

「古形マラの転」とは何だ。「マラ」=陰茎では? 確かに、

まら【※門構えに中に牛】
 陰茎。男根。

そういえば男根を「タマタマ」と言うなぁと早合点しそうですが、

まらうと【客人・賓】
 マラヒトの転「主(あるじ)の対」客。

まらひと【客人・賓】
 (マラはマレ・希の古形。稀に来る人。=まらうと)

という言葉があり、民俗学の折口信夫(おりぐちしのぶ)の「まれびと」という思想に通じる「マラ・マレ」で陰茎のことではありません。中国語からかと思い調べると「インチィンですから日本語の「Chinchin」は中国語からということが分りました。客人に対するもてなしで「妻提供」をする黄色人種の民族がいましたが、なぜ「マラ=陰茎」なのかは分りません。

次に興味をもつのが「ユクリカ・ユクリナシは不意・唐突の意」です。

ゆくりか【なし】
 (ユクは擬態語。ユクリナシと同根。リカは状態を示す接尾語)
 1 無遠慮で気兼ねをしないさま。
 2 思いがけず突然なさま。

ゆくりなし【なし】
 (ユクは擬態語。ユクリカと同根。気兼ね遠慮なしに事をするさま。相手がそれを突然だと感じるようなさま。リは状態を示す接尾語。ナシは甚だしい意)
 1 事をするのに無遠慮である。
 2 思いがけない。だしぬけである。

ここにきて「擬態語」(オノマトペ)に出会うことに「たまたま・偶然・シンクロニシティー」を体験してしまうのですが(不思議)、「ユク」はなく

ゆくらゆくら【なし】
 (ユクは擬態語。動揺するさま)ゆらゆらと動揺して定まらないさま。

という言葉がありました。そして「ゆくり」がすぐ横に書かれていて、

ゆくり【緩り】
 ゆとりがあり、ゆったりとしているさま。ゆっくり。

「ゆくりゆくり」の例文として万葉集の3329の歌の一部、

「・・・・人の寝る熟睡(うまい)は寝ずに大船のゆくらゆくらに思ひつつ我が寝る夜らは・・・・」

が紹介されていました。口語訳は、人は熟睡の時なのに「大船に揺られるようにゆらゆらと物を思いつつ、私の寝る夜は」(中西進著・講談社文庫『万葉集』三・p229から)とで、船の揺れと自分の物思いを重ねた擬態語に感動するわけです。

 身体的、肉体的な感覚が心の精神的な感情と一つに重ねられている擬態語が「ゆくりゆくり」=「ゆらゆら」という擬態語に表現されている、ということです。

話しは長くなりますのでこのくらいにします。補足ですが上記に、

【偶然に】わくらばに[邂逅]

という言葉があります。これについては文才が無くわかりにくい文章ですが、

わくらばに・たまさかに・偶然性という必然性の織り成す世界[2011年05月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/df939909f39707ffa387f67e687d47c7

を掲出しています。

今朝はロシアに落ちた隕石から話を進めました。最後は擬態語になるところが「偶然には意味がある」「人生には意味がある」を自で行くような話です。「自」とは、「おのずから・みずから」で・・・・もう止めます。

※上記の古語解説は全て岩波の古語辞典を使用しました。

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音無き音を聞く心

2013年02月16日 | ことば

[思考] ブログ村キーワード

 引き続き「オノマトペ」について現象学的な視点で見つめているのですが、それ自身が言葉として現存していることには誤りはなく、特に日本語には多いということも誤りのない事実のようです。動物の泣き声、物音から何かの仕草や感情表現等そこには実際に音の存在があるものもあれば、全く音の存在がないものもあります。

 音声模倣もあればそうでないものもある。音声ならば「聴く」「聞く」という音源に耳を傾ける行為が前提となり、音源のないものはどうなのか、という疑問が出てきます。幼児期に親や周囲の年長者などから習得された言葉ですが、「音源のないもの」は難解です。

そもそも言語はどうして人類持ち得たのか、過去に別視点からそのことについて書いたことがあります。

言語の起原と「ときめき」[2009年10月07日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/bb560c7c04aa010e536ea37681721f46

 個人的には「ときめく」という得体のしれない衝動的な意識が備わっているという前提について語ったもので、そのかんがえは今も変わりません。西田幾多郎先生は『意識の問題』(1920年・岩波書店)の中で「無意識的意識」という言葉を使っています(同書p9)。「意識現象が唯一の実在である」という『善の研究』(1911年・岩波書店)の最初に書かれた第二編「実在」を語る中に置ける意識に関してのその後の考察における言葉として使っています。意識そのものには強弱はありませんが「無意識的意識」という言葉に個人的に惹かれます。西田先生はこの言葉を2回しか使っていませんが心の奥底から呼び覚ませれて現れ出(い)でるその時の純粋経験が「ときめき」のように思うのです。

 止(とど)まらない衝動が、掻き立てる衝動が、浮き上がってくるその時の意識は「無意識的意識」から純粋意識の持続性の過程にあり「ときめき」は「無意識的意識」の持続性のたゞ中にあるということです。

 心理学的な無意識、意識の世界では区別されますが、実際は一元的な中の現れ方の中にあるのであって「留め置かない」「止(とど)まらない」ものが「ときめき」です。ズキン、ズキンという痛みの表現はなぜ互いに共同的確信として共有できるのか。

 ホンワリ、ホンワカとした互いの関係は、なぜその意味を共有できるのか。

 ひらひらと舞い散る落葉になぜ哀愁を感じるのか。それは決してドサドサではない舞の姿の表現です。

 この話は存在論でもなく現象学でもなく構造的な話しでもありません。

 カタルシスのような精神の浄化作用のようにも感じます。日本語はよくその曖昧さを指摘されますが、固定された言語に動的な意味も含まれていて「一輪の花」と言っただけで単なる一本の花ではなく詩的に生きている花がそこに存在し続けているのです。

 和歌などがなぜ成立するのか、数行の文章に自然(※おのずからの意)と空間や時間が浮き出るからだと思うのです。

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